礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2011年10月9日

世の中は、やっていることが得か損か、益か不利益かを考えながら動いています。個人もそうでしょう。そして無駄をはぶこうと努力するわけですが、どうも空回りしているような気がします。例えば選択肢の中にA案とB案があってA案を選んだとします。それで失敗したら、「無駄なことをして・・・」と人から裁かれ、自分も「遠回りしてしまった・・・」と自分自身を責めるわけです。いつもどちらを選ぶかの賭けのような人生を歩んでいます。もし、どちらを選んだとしても、後悔しない生き方ができれば、どれほど素晴らしいことかと思います。
世界のベストセラーである聖書には、「主にあっては無駄にならない」(Ⅰコリント15章58節)と書かれています。自分の為に生きているなら、この地上での責任は全て自分にあります。しかし神の為に生きる人生ならば、神さまが保証してくださるというのです。他の聖書箇所には、「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」(伝道の書11章1節) 神さまのために生きる人は、たとえそれがこの世では無駄と思えるようなことでさえ益にしてくださるというのです。この世界は、体験してみないとなかなか理解できないことだと思います。しかし、私も含め多くのクリスチャンがこれを経験しています。この世では報われていないような人生であっても、主にあっては万事が益になっていることを天国で知ることになるでしょう。天国においては、たくさんの驚きがあるでしょう。驚くばかりの恵みと愛のゆえに、ただただ圧倒されて、感謝、感激しかない世界であります。この地上でのすべてのカラクリを理解することができるのも天国だと信じています。
この世は「死」を基準に生きています。医学が一番わかりやすいでしょうけれども、政治・経済・社会など、どの分野においても究極的には「死」に対する恐れから成り立っています。そして「死」で全てのものが終わってしまうのです。しかし聖書は死んでも生きる「永遠の命」を基準にしています。だからこそ、私たちの労苦が無駄になることはないと言い切ることができるのです。希望は失望に終わることはありません。

心のオアシス 2011年10月2日

人生には「上り坂」もあれば、「下り坂」もあります。そしてもう一つあるとすれば、「まさか」という「さか」です。防災対策には「備えあれば憂いなし」ということわざがありますが、私たちの心にも備えが必要なのではないでしょうか? 私の心の防災対策は、神の言葉を握るということです。「牧師らしい答えですね・・・」と言われるかもしれませんが、これが本当によく効くのです。今までに様々な状況を通ってきましたが、人の励ましや、プラス思考、休養すること以上に、心に平安を与え力になるのです。牧師の私が言うのも変ですが、本当に不思議です。

いくつかの例をご紹介しますと・・・押しても引いてもどうすることもできない四面楚歌のような状況の中で、板ばさみになった時に私を助けた聖書の言葉は、恐怖のあまり叫び声をあげる弟子たちに対してイエス・キリストが「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」(マタイ14章27節)この言葉を通して、今の状況も神がなされていることなら乗り越えることができるという人知ではとうてい計り知ることのできない平安が与えられました。また、「彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使をもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた。」(イザヤ書63章9節)これもとても励まされる言葉です。思い通りいかないときには、このような言葉があります。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言19章21節)勇気与えられる言葉は、「彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」(エレミヤ書1章19節)「あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」(マタイ10章30~31節)

世の中は流動的です。助けになると思っていても、流れてしまいます。洪水の中で助かる方法は、動かされることのない不動のものにしがみつくことです。どの時代にも堅く立っている神の言葉を握りましょう!

心のオアシス 2011年9月25日

あの映画にもなった大作「ベンハー」を書き上げたのはルーウォーレスという文学者でした。彼は無神論運動をしていた人物で、5年間もの月日をかけてキリスト教研究をし、「キリスト教撲滅論」を書こうとしていました。しかし、彼が研究を進めていくうちに心から離れないことが二つあったというのです。一つは、「どうして師であるイエス・キリストを残して逃げた軟弱な弟子たちが、ある時期を境にして強くなったのか?」もう一つは、イエス・キリストの十字架上の言葉でした。殴り、唾を吐きかけ、手足を釘で打ち抜き十字架につけたローマの兵卒や、悪口を言い死刑にまで追いやったユダヤ人に対して、のろいの言葉を投げかけてもおかしくはなかった状況の中で、「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。」この告白がルーウォーレスの心に引っかかっていました。

そして彼が「キリスト教撲滅論」の第二章を書いていた時にペンを置いてこう祈りました。「我が主よ、救い主よ・・・」イエス・キリストを心にお迎えしたばかりではなく、彼がキリスト教を批判するための研究に費やした5年間の全てを注いで「ベンハー」の小説を書き上げました。自分の個人的体験を、その小説の主人公であるジュダ・ベンハーに託して世界に自分が救われた証しとして発表したのであります。

誰に何を言われたわけでもなく、自らが心入れ替えたのです。批判的だった人の心に神の愛が触れられて、その人の人生が変わるなんてことは考えられないことでしょう。でもそれが現実に起こるのです。この二千年の間に世界中の多くの人たちが救われ、人生における何故に解決が与えられ、癒され、心に平安が与えられてきました。

現代においても人々の心に変化があるということは、イエス・キリストは確かに今も生きて働いているということです。

「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ7章37節)

心のオアシス 2011年9月18日

アメリカのベリー女史には、大きな夢がありました。それは、自分のように貧しさのゆえに勉強できない子どもたちのために学校を建てることでした。ある日、祈っているうちに思いついたことがあって、大富豪のヘンリー・フォードを訪ねました。そして彼に、学校を建てるための寄付を募りました。話を聞いていたヘンリー・フォードは、コインを1枚差し出しました。それは侮辱的な拒否の表現でしたが、ベリー女史は失望せず、祈った後、そのコインで種を一袋買い、それを空き地に蒔いて育てました。毎年少しずつ種の量は増え、数年後には農場に変わりました。ついに建物を建てることができたベリー女史は、もう一度ヘンリー・フォードを訪ねました。「数年前にいただいた1枚のコインによって、成し遂げた成果を見てください。」ヘンリーは、コイン1枚で建物を建てたという言葉が信じられず、農場に建った学校を見に行きました。そして、深く感銘を受けた彼は、学校のために100万ドルを寄付しました。
(「小さいものの力」カン・ジュンミン著より)
 関東方面に住んでおられる方で、たまに私に近況報告をくださる方がいます。その人は以前は鬱で人と接することができなかった人ですが、神さまを受け入れてから数年して、癒されて、まだ弱さは少し残っていますが、見事社会復帰してリフレクソロジーのサロンで働いているのです。その方からの先日のメールの内容です。
先日、サロンに天使がきました!(笑)ヘッドのコースがあるのだけど、技術的に難航してて、足と違って頭ってお客様と近くて、緊張MAX。そんな中、ヘッドリフレデビューしました。最初のお客様はとっても大事。本当に優しい人で、緊張しないでできました。終わった時、「気持ち良かったです。」って言ってくださった、この一言がどんなに自信になるか・・・。それでお客様データを後で探したら、リピーターって記入されていたのに、データが見つからないんです。あっ! 神さまだってわかった。天使を遣わして下さったって! 神さま応援してくださるってわかりました。   からし種の小さな信仰は、やがて山を動かします!

心のオアシス 2011年9月11日

投稿された文章です。
うちの女房は眠いと変だ。先日の朝、メガネが無くなったと大騒ぎしている。女房は、「昨日、眠くてメガネをどこにしまったのか忘れてしまった」と言うのだ。子供たちと部屋中探したが見つからない。さっき出したゴミ箱の中だったのか・・・ゴミ収集車はとっくに去ってしまったが。
 とりあえず私は会社へ・・・帰ってみるとしっかり無くなったはずのメガネをかけている。理由を聞くと何とか見つかったらしい。その見つかり方が変だった・・・しまってあるはずのドライヤーが化粧台の上にの置いてあって、そのドライヤーをしまおうと、いつもの引き出しを開けると、そこに黄色いバナナが・・・どうしてバナナがこんなところに入っているのかと疑問に思いながら、そのバナナをしまおうと冷蔵庫を開けると、なんとバナナの房の間にメガネが入っていた・・・という。
 「風が吹けば桶屋が儲かる」のようなドミノ倒し的な見つけ方。それにしても何でバナナだったのかは、今もって不明です。

 私たちもある程度の予測や計画はするものですが、思い通りに全て事が進むということはありえないでしょう。順調にいっていると思いきや、考えもしなかったハプニングも起こることもありますし、どこにも希望を見いだせない四面楚歌で苦しんでいても、思いがけない助けがくることもあります。私たちの小さな頭で、想定できることは、ほんの一部分だけです。自分が予測できる計画は本当に小さなものです。私の持ち分はこれだけだから、どうしようもないだろう・・・と考えるものです。でも、神さまがご介入されたら、私たちの想像を超えたことが起こるものです。そしてそれを信じることが信仰なのです。私たちは現実を見て、諦めたり希望を持ったりしますが、神さまは現実をはるかに超えたお方で、私たちの一番必要な時に、助けを求める人たちに、必ず不思議な解決を与えてくださるものであります。
 「しかし主を求める者は良き物に欠けることはない。」(詩篇34の10)

心のオアシス 2011年9月4日

私は様々の場所で聖書セミナーをさせていただいているが、先月集会が終わった後で、このようなことを言いに来られた方がいました。「メッセージを聴きながら涙が溢れてきました。このような体験は初めてです。」この方は、昔は教会に通っていた時期があるそうですが、ずっと離れている状態でした。しかし神さまが心に触れてくださってから、その生き方が変えられてきたそうです。世の中の情報に翻弄されて悩んでおられたその心に平安が与えられたとのことです。
また、「夫婦で朝のデボーションをしていますが、気付かない所で成長しているのを感じます。」「私は神さまに仕えているつもりが気が付くと神さまのふりをしたサタンにすり替わっていたりします。日曜日ごとにそれに気付かせて頂いています。」「イエス様を信じてから、クヨクヨしなくなりました。神さまが何とかしてくださると思えるようになりました。」などの体験談を聞いて感動しています。人が救われる姿を見ることが一番嬉しいことではありますが、イエス様に繋がったら、ある人は突然、ある人はだんだんボチボチと螺旋階段のように人生が上向いていく体験をしておられる様子に、神さまに感謝しています。
私たちは、一瞬にして、何かが変わることを期待しますが、神さまは、この世を造られた時に、「時間」を与えられました。これは神さまが私たちに「一瞬」に事が変わることを、あまり望んでおられないということでもあろうかと思います。時間があれば、時間を費やすこともあるし、忍耐も養われるし、祈りも生まれます。
モーセが神さまに用いられたのは、王宮にいた若い時期ではありません。荒野で40年間費やして80歳になった時でした。アブラハムとサラは子を宿す力がなくなってから、イサクが与えられるという恵みを授かりました。自分が何とかできると考えている間は、神さまはあまり働かれないようです。なぜなら神さまの出番がないからです。徹底的に自分には力がないことを知ってから、初めて大きく用いられるということになるのでしょう。合言葉は「頑張らないで諦めない!」

心のオアシス 2011年8月28日

これは朝日新聞「声」の欄に掲載された母教会付属のインターナショナル・カルバリー・アカデミー(ICA)の菅野勝治郎先生の文章です。
私が代表を務めるボランティア活動「手を貸す運動」は西アフリカ・シエラレオネで生徒約2600人の学校に給食援助など行なっています。先日、同校で働く日本人シスターが一時帰国され、生徒たちが集めた総額500ドル(約4万円)の東日本大震災義援金を届けて下さいました。
一日一食も満足に食べることができないシエラレオネ。学校給食が一番の頼りという家庭の子どもが多い中での寄金です。自分たちの食料でもある野菜やマンゴーを売って得たお金を持ち寄ってくれたそうです。また、同校は私たちが贈る予定だった給食・教育支援金一カ月分計200万円も辞退されました。
「自分たちの給食をイモや雑穀にすれば何とかなる。こちらの子にひもじい思いはさせないから支援金を全額、東日本の義援金にして下さい」というのです。彼らには貴重な資金のはず。私たちはそれを同校の名で義援金にしました。
世界の最貧国の一つの国の子どもたちから寄せられた心からの義援金が、被災地の皆さんを元気づけてくれることを願って、報告させていただきます。

現代の日本人が学ばなければいけないことに気づかされます。日本に住んでいるなら、努力さえすれば生きていく道はいくらでもあります。しかし働きたくても働くことができない国や、働いても食べていくことさえできない国は数多くあります。それでも哀れむ心、与える心があるのは、心が富んでいるからです。心は物質だけでは豊かになりません。豊かになった気分を一時的に味わうことができるかもしれません。私たちの人生を保障してくださる神さまに信頼することが、本当の豊かさを得る近道です。目の前の足元だけを見てあれこれ悩んでいませんか? 立ち止まって目を上げて見てください。違った風景が見えてきますよ。

心のオアシス 2011年8月21日

ラインホールド・ニーバーの祈りです。「主よ、変えられないものを 受け入れる心の静けさと、変えられるものを変える勇気と、その両者を見分ける英知を、我に与えたまえ。」
男性であること、女性であること、国籍、人種など、どう頑張ってみても、祈っても変えられない現実があります。変えられないことを、変えて欲しいと願っても、それは神さまが定められたことでありますから、どう逆立ちしても変えられないのです。そのような現実を受け入れる心の静けさがあるならば、そんなにストレスを溜める必要はなくなるでしょう。また、変えることができるものを、なかなか変えないで、そのままにしておく人もいます。変えるために勇気が必要となることもあります。ある時には、変えたほうが良い場合と、変えないほうが良い場合がありますが、その時には、どちらが得策なのかを見分ける知恵も必要であります。いずれにしても、私たちには「祈り」なしにはどうすることもできません。新約聖書の13の書簡を著者のパウロがこう書いています。「高慢にならないように、私の肉体に一つのとげが与えられた・・・このことについて、私は離れ去らせて下さるようにと、3度も主に祈った。ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』」(Ⅱコリント12章7~9節)。彼が今の自分の肉体にある病の現実を取り去るように変化を求めたのですが、神さまからの知恵は、高慢にならないようにそのままにしておくということでした。しかしパウロは文句を言わず、その現実を受け留めているのです。
「運命は冷たい。しかし摂理は温かい」これは神に信頼する者だけが知ることができる世界であります。突然の不幸を神抜きで考えるならば、運命だったと諦めるしかありません。しかし神のなさることは摂理として受けとめることができるのです。摂理とは嫌なこともありますが、同時に救いも残るのです。どうすることもできない問題には、焦らないで、慌てないで、受けとめ待ち祈る。これが最善の解決方法です。

心のオアシス 2011年8月14日

ある一人の受刑者の話です。
その男の母親は、彼が少年時代に実家に預けたまま再婚して離れ離れで生活するようになりました。彼は長い間「俺の母親は俺を捨てて再婚するような冷たい女だ。」と思い込んでいました。ところが、刑務所の独房の中で、そういった色々なことを考えているうちに、ふと、こんなことを思い出しました。
小学校4年の頃、再婚先の母親を訪ねる機会がありました。母親は、新しい夫に「息子が来たから、こずかいやろうよ。」と言って硬貨を一枚、夫に見せて承諾をとってから彼に渡しました。帰り道に、よくよく硬貨を見ると、一枚だと思っていた硬貨が、そうではなくて2枚だったのです。そのコインは、ご飯粒でくっつけてあって、はがそうと思ってもガチガチにくっついていました。彼は田んぼの水に硬貨をつけてはがしました。
そんなことを思い出しているうちに涙が出てきました。「俺を捨てて再婚したと思ったけど、いつも心の中で俺のことを思い、俺が来るのを待っていてくれたんだ・・・飯粒がガチガチになっていたのを考えると相当前から待っていてくれたんだろうな・・・新しい夫に気兼ねしながらも、こっそり2枚もくれたんだ。母は俺のことをいつも考えてくれていたんだ・・・」彼が今まで考えていた母親に対する考えが急変しました。そして、その時から彼の生き方が変わり始めたそうです。
人間は面白いことに、嬉しいことや良い出来事は自分の努力の結果だと考え、辛いこと悲しいことに関しては神のせいにする傾向があります。日本人の多くは、「神がいるなら、どうしてこんなことが私の人生に起こるのですか?」「神がいるのに、どうして世界に飢饉や戦争があるのですか?」という疑問符で神に対する不信感をあらわします。しかし、もし逆に考えるならばどうでしょう? 「神さまのお陰で、この喜びが与えられています!」と指を折りながら感謝を数えるならば、私たちの人生観が変わるでしょう。 God is good all the time.

心のオアシス 2011年8月7日

修道院が盛んだった時代に、アントニオという修道士が修道院に入りました。彼は長くそこで修練して、これぐらい訓練できたらもう大丈夫だろうと自信を持って修道院を出ました。その時、ちょうど修道院の門前で靴屋さんが靴を直していました。修道士は彼に自分の靴を直してもらい、待っている間に話しかけました。
修道士「家族は何人ですか?」
靴 屋「子供8人に、妻と私の10人家族です。」
修道士「収入はどれくらいあるのですか? 家族がそんなに多くては靴を直すだけではお金が足りないのではないですか?」
靴 屋「・・・・・」
彼は何も言わずにただ黙々と靴を直し、少ししてからこう答えました。
「先生、私はただ主に仕える人たちが、長く楽に靴をはけるように最善
を尽くすだけです。私の家族のことは神さまが責任を持っていてくださいますから。」
 それを聞いた修道士は、自分の足りなさを悟り修道院に戻って出直しました。

 私は神奈川県の母教会から、自分に自信がついたから出てきたのではありません。逆に自分の信仰を養っていただくために出てきたようなものです。勿論、無謀な行動をしたわけではなく、神さまから押し出されるようにして、様々なしるしを見させていただいて確信を得て決心したのです。開拓宣教に対する不安がなかったわけではありませんが、「神さまが責任をとってくださる」という期待の方が勝っていました。開拓を始めて1年が経過しました。様々な出会いや出来事を通して、神さまは不思議な助けや道を開いてくださいました。まさに紅海を渡るモーセのような気持ちです。何もかも満たされている場所から、あえて荒野に出ることを通してでなければ得ることができない恵みを沢山与えられました。私たちの不足や試練は、実は私たちにとって恵みなのです。