礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2011年6月5日

世界中を飛び回っているある韓国人いて、その人は英語やドイツ語、フランス語など、何ヶ国語も身につけた語学の達人のような存在であります。日本語もかなり使えるようになってから、日本を旅行するたびに、日本語の前向き、積極的な表現に出会って、うならされてしまうことが多いという。
日本滞在中のこと、ある日、早めに昼食をすませようと、一人でレストランに入ろうと思い入り口に近づくと、店の前に「準備中」という小さな看板が下がっていて、午前11時半開店とあった。そこに着いたときは11時ごろだったので、少し待てば食事をすることができると思い、そのまま待つことにしたそうです。よその国では、「閉店」とか「営業していない」といった意味をあらわす表示をしていることが多いが、「準備中」という肯定的な表現の看板に感心したというのです。
また、沖縄の空港ロビーで、時計が故障していた時にはこのような表示がされてあったという。修理している様子はまったくないのに「修理中」。これも素晴らしい表現であると思ったそうです。この場合、正確には「修理の準備中」なのだろうけれども、とにかく「修理中」といえば、「もうすぐ直る」、「もうすぐ直しますよ」ということで、見るものに希望が残るが、「故障中」ならば、その場は絶望的ともいった気分になる。
当事者は「準備中」とか「故障中」という表現を、この外国人が感じ取ったようなニュアンスの意味で使ったわけではないのであろうけれども、日本語の表現にはおのずと積極的、肯定的な思想がにじみ出ていると褒めてくださっているのです。
私たちの人生は、「修理中」です。天国に入るための「準備中」でもあります。すべてが完成するのは、天国に入った時です。その時まで、焦らず、諦めず、神さまに委ねるのです。ゆっくりゆっくり神さまのペースで治してくださっているのです。重要なことは、故障している自分の人生を神さまの前に持って行くということです。そして繋がりつづけるということ。                 今日も良い一日を!

心のオアシス 2011年5月29日

「世界に一つだけの花」という歌の歌詞は、聖書からのメッセージと思わせるような内容が含まれている。競争社会の中で、多くの人たちに励ましを与えていることでしょう。以下に歌詞の一部をご紹介します。

No.1にならなくてもいい もともと特別な Only one
花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて 争う事もしないで 
バケツの中誇らしげに しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で 一番になりたがる?

そうさ 僕らは 世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい

神さまが創られている壮大な歴史は、様々な個性の持ち主を用いて形成しておられる。パズルの1ピースに様々な形があって一つの作品ができています。好きな形状ではないからといってそのピースを用いないわけにはいなかいでしょう。又、一つの絵の中に色々な色が用いられています。黒い色は嫌いだと思っていても、絵の中で使わないわけにはいかないでしょう。神さまは、この世界を導くために様々な個性を用いておられることがわかります。だから争わないで、それぞれ神さまから与えられた個性を受け止め、他者との違いを認め合い受け入れあって、許しあってこそ本当の平和が与えられるのでしょう。
わかっていてもなかなかできないのが現実かもしれません。まずは自分を受け入れることから始めてみてはいかがでしょうか。
神はこう語りかけています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」

心のオアシス 2011年5月22日

ユダヤ人の古いことわざに、「他人よりすぐれようと思うな、他人と違った人間になれ」というのがある。他者と比べて優越感に浸ったり、劣等感をいだいたりが、社会の現状です。資本主義社会は、他者と比べて競争することによって刺激しあって成長するという構図があります。   
1990年代後半以降、多くの日本企業が人事評価制度に成果主義を導入した。しかし社員のモチベーションが低下して、多くの問題が噴出し、見直しを余儀なくされた大手企業が出てきました。しかし問題が指摘されながらも現在でも上場企業の8割以上は、まだ何らかの形で成果主義に基づいた人事評価をしているのが現実です。そのような背後で疲れてしまい、多くの人たちが心病むようになったのです。
ある家族が、田舎に小さな家を建てて幸せに住んでいました。何年かしてから他の家族が隣の土地を買って、大きな家を建てました。それまで何の問題もなかったのですが、隣の家を見て奥さんはご主人に言いました。「お隣の家は大きくて立派な家を建てたね・・・うちは小さくない?」「小さな家でいいからと、同意してここに引っ越してきたんじゃなかったか? 今更何を言ってるんだ!」と喧嘩になりました。子供は隣に引っ越してきた子が新しい自転車に乗っているのを見てお母さんに言いました。「どうして僕はずっと古い自転車に乗らなきゃいけないの? 新しいの買ってよ!」お母さんは言います。「お隣の子は、勉強よくするし成績がいいでしょ!」
今まで何も愚痴も不満もなく幸せだったのに、隣を見て比べ始めてから家族の中に不和が生じたという話です。
私たちの人生は他者と比べるためにあるのではありません。神さまがあなたに与えてくださった人生を楽しむことを神さまは望んでおられるのです。ペテロがイエスさまに質問しました。「主よ、この人はどうなのですか?」それに対する答えは、「あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」
神さまは、一人一人に最高の人生をすでに与えてくださっています。

心のオアシス 2011年5月15日

東日本大震災では、多くの町が津波によって壊滅的な被害を受けました。アメリカでも、過去に何度かハリケーンによる洪水で町が水没するという災害に遭ったことがあります。当時のアメリカ国内でのテレビニュースのインタビューで被災者の多くは、不満を訴えていました。「政府の対策が遅い・・・エアコンが水に浸かってしまって壊れて、暑くて大変だ・・・下水が臭くて、病気も蔓延している・・・」など、現実の厳しい状況を描写した内容でした。しかし、誰が見てもその顔が輝いている一人の被災者の女性にマイクが向けられたとき、驚きの答えが返ってきたのです。インタビュアーが女性に問いました。「何か問題はありますか?」すると、「いいえ、問題はありません。命守られ、家族も守られ、今、こうやって健康でいることができることを嬉しく思います。」そして突っ込んで聞きました。「エアコンがなかったら暑いんじゃないですか?」女性は答えます。「いいえ、私の家は全部流されましたから、そんなものは何もありませんよ。でも、私にこの聖書がある限り、何ものをも私の平安と喜びと希望を流すことはできません。私は心から神さまに感謝しています。これさえあれば大丈夫なのです!」大柄なその女性は聖書を掲げながら輝いて答えていました。
マザーテレサは、自分が願っている方向へなかなか物事が進んでいない時、「私たちは急いでいても、神さまは急いでいらっしゃらないようですから・・・」又、経済的な問題と直面したときには、「お金なら大丈夫です。神のご意志なら集まります。集まらなかったら、主がお望みではなかったということです。」と言ってのけました。
これらの告白は、一体何なのでしょうか? これが信仰の力なのです。信仰が人の中に入ると、驚くような力が与えられるのです。誰もが天国に住みたいと思っています。でも、今すぐにでも自分の心の中に天国をつくり出すこともできるのです。
「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスになって守るであろう。(ピリピ4の7)

心のオアシス 2011年5月8日

ある青年の証です。
彼は教会には通っていましたが、ずっと暗い過去を背負っていました。母親を早くに失い、毎晩ウィスキーを飲んで、寂しさをまぎらし、過去の辛い思い出を忘れようとしていました。ある日、教会の牧師が彼に尋ねました。「過去の出来事で、何が一番心の傷になっていますか?」すると青年は答えました。「母と卵を売り歩いたひとです。」雪の北海道で少年は、母親について、一軒一軒、卵を売り歩きました。しかしどこへ行っても、「いらないよ」「間に合ってるよ」と冷たく追い返されました。幼いながらも、そういう母親の姿を見て、可哀想になり、みじめにも思えてきました。そして「自分がこうなったのは、母親のせいだ!」と裁き当たるようになりました。やがては母親のイメージは、すっかり崩れてしまいました。そして母親の死に直面したのです。
牧師はそんな青年に言いました。「君が思い出したくない、その情景を、イエス様の前に開いてお見せしてごらん・・・」冬の北海道での、あの辛い情景を回想しているうちに、青年の顔がゆがんでいきました。しばらくして、滝のように涙を流し始めたのです。長い時間が経過しました。彼は涙を拭ってこう言いました。「牧師先生・・・イエス様が母の卵を全部買ってくれました。」
青年の心の傷は、この時を境にして癒されていきました。そして母親に対するイメージが変わり、優しく温かなものに回復していったのです。「お母さん、ありがとう。」青年は、そんな母親を持ったことを感謝し、誇りに思うように変えられたのです。
人間同士の問題は、身内であっても他人であっても、なかなか修復するのは難しいと思います。なぜならお互い自分が正しいと思っているからです。それが罪の姿なのです。そして人間はこの罪のトゲによって相手を刺してしまい傷つけ合うのです。人間が直接的に人と触れ合うと、自分の持っているトゲの故に、相手を傷つけてしまいます。しかし間にイエス・キリストを挟んで媒介的に近づくと、痛みも和らぎますよ。

心のオアシス 2011年5月1日

一度も愛されたことがない人物が、他者を愛することはできるのでしょうか? 
イスラエルを旅したときに、私は一人の初老の黒人がこのような話をするのを聞きました。「私は生まれてすぐに、両親に捨てられ、すぐに施設に入れられました。だから、今まで親の顔も見たことがなく、抱かれた経験も一度もありません。親の愛を知らず、誰からも愛されることなく施設で育ちました。ですから、学校へ行くようになっても、親のいる友達が羨ましかったし、私の性格はだんだんとゆがんでいったのです。彼は親から捨てられたという事実を知った時から、心には何をもっても癒されない大きな傷ができました。自暴自棄になりました。愛された経験がないから、人の愛し方がわかりませんでした。いつも学校では暴力を振るい問題児でした。結婚はしましたが、奥さんを愛することができない、愛し方がわからない状況のままでした。何をしても満たされない、癒されない心を引きずっていましたが、ある日、教会へ誘われて行きました。そこでイエス・キリストに出会ったのです。生まれて初めて、こんな自分をも愛してくださる愛を知り、その時、温かい腕に抱かれているような平安を経験しました。それから深い心の傷が癒されていくのを感じました。私の人生は、イエス様と出会った時から全く変わりました。もう二度と昔のような人生を送ることはないでしょう。この地上にイエス様が歩いてくださったことを心から感謝しています。」そう語る男性は、柔和で、穏やかで、愛されている人の顔そのものでした。
70年近い人生を過ごしてきて、一度も親の顔を見たこともなく、愛を受けたこともなく、抱かれたこともない人生とは一体、どのようなものであったのでしょうか。私はショックでした。このような人物を、誰がどのような言葉をもって励まし、慰めることができるでしょうか?
しかし私が驚いたことは、そのような人がイエス・キリストと出会った時から変えられ、愛と希望に満ちた人生へと変えられている事実でした。
どんな人でも変えられます!癒されます!満たされます! 

心のオアシス 2011年4月24日

社会に出て、ある程度落ち着き始めた何人かの大学の卒業生たちが、同窓会をすることになり、今は引退した教授の家を訪ねることにしました。大学時代の思い出話に花を咲かせていたのですが、だんだんと自分たちの仕事や人生のストレスに対する愚痴をこぼすようになりました。
教授はキッチンへ行き、ココアを入れた大きなポットと、色々な種類のカップを持ってきました。カップには、陶器のものやガラス製やプラスチック製、いくつかは質素で、いくつかは高価なものもあり、また、いくつかは上品で美しいカップもありました。めいめい好きなカップでココアをついで飲めるように置きました。みんながそれぞれ好きなカップをとってココアを注いで手に持った時、教授は言いました。「見てください。質素なカップや、安っぽいカップを残して、みんな美しく高そうなカップを手に持っています。あなたが、自分の最高だけを求めている間は、それがあなたの問題になり、ストレスになります。どのカップを使ってもココアの品質には何の影響も与えません。高価すぎる器に気を取られて、飲んでいるものが何なのか、わからなくしてしまっていることだってあります。みんなが本当に欲しいのは、ココアであって、カップではないのです。考えてみてください。人生はココアです。そして、みんなの仕事やお金や地位はカップです。それらは人生を支える道具にしかすぎません。あなたが持っている器は、あなたの人生の質を限定したり変えたりするものではありません。時々、カップばかりに気が取られてしまって、神さまが私たちに備えてくださっているココアを楽しむことができないことがあります。神さまはココアを作られ、人はカップを選びます。最高に幸せな人は、全てに最高を求めない人です。彼らは今持っているものを最高のものとしているのです。質素に生き、惜しみなく愛し、最大限に助け、優しく話しなさい。そしてあなたのココア(人生)を楽しみなさい。」
私たちも現実に縛られないで、神さまが与えてくださっている人生を楽しもうではありませんか! ハッピーイースター。

心のオアシス 2011年4月17日

一人の母親が8歳の娘を白血病で失いました。死ぬ時期も近いある夜に、消灯時間が過ぎても寝付かれないでいるその子のために、若い看護師が本を読んであげたそうです。やがて静かな寝息をたて始めましたが、その看護師は、なお30分近くもベッドサイドに寄り添ってあげていたそうです。その子どもの死後、母親はその看護師にこう語りました。「あの子がその夜、ふと、薄目を開けてみたら、まだ看護師さんが傍らにいてくれた。『眠らせるためだけに本を読んでくれる人が多いのに、本当に嬉しかった』と言っておりました。」
大病を患う心細い病床で、人の出入りが少なくなり寂しくなる病院で過ごす夜に、一緒にいてくれる人がいたら、どれだけ心強いでしょうか。
ブランデンという詩人が「祖先たち」という詩の中でこう唄っています。「記録にもとどめられず 世に知られないで 人は死んで行く・・・君達の生活のほんの一瞬間もとどめられてはいない・・・」
なんと虚無に満ちた詩でしょうか。これが現実ならば、人間の生は、何の意味も持たず、ただ虚しく現れては消えて行く霧のようなものであります。
イエス・キリストは語ります。「わたしはいつもいつまでも、あなたと共にいます。」神は30分どころではなく、いつもいつまでもご一緒してくださるというのです。このお方とご一緒する人生には、安心があり、生き甲斐があります。
虚無の詩とは対照的な河野進さんの詩をご紹介します。

わたしが病むとき 主イエスさまも病んでくださる
わたしが苦しむとき 主イエスさまも苦しんでくださる
わたしが喜ぶとき 主イエスさまも喜んでくださる
十字架にかかってまでも愛してくださる
おお 主イエスさま み名をさんびするありがたさ

心のオアシス 2011年4月10日

 私の神学校時代の同級生の中に青木かのゑさん(現在86歳)という私とは母親以上に年の離れたご婦人がおられます。数年前にご自分の壮絶な人生を綴った証集を出されましたが、その中でも、結婚秘話には驚かされました。その内容はこうです。
1950年ごろから「クリスチャンを与えてください。」と祈り3年後、教会の牧師を通してある青年の方とのお話がありました。(本人曰く、「自分の好みのタイプではなく、到底受け入れがたい男性だった」とのこと)そんなことでなかなか先生にご返事することができませんでした。祈る度に心に残る御言葉は、「主はわたしたちのために命を捨ててくださった。それによってわたしたちは愛ということを知った。それゆえにわたしたちもまた兄弟のために命を捨てるべきである」(Ⅰヨハネ3の16)の聖書の言葉でした。そこで「祈って与えられた機会だから、私もこの人のために命を捨てよう」と決意して結婚したのです。ところが結婚して2ヶ月後、そのご主人が肺結核になり肋骨9本を取り、片肺摘出の大手術を受けました。ご主人が働けませんから生活は貧しい状況でしたので、かのゑさん自身が働きなんとか生活しました。身内からは、「結婚するまで病気のことを、あの人は隠していたんだ。お前は騙されていたのだから今なら別れても誰もお前を批判するものはいないぞ。」彼女はもっともなことだと思いましたが、その危機の中でも愛は冷えることはありませんでした。なぜならその愛は感情とか好き好みに土台したものではなく、「この人のために命を捨てよう」という決意のよるものだったからです。
 それから不思議なようにしてご主人は回復され54年間の結婚生活が守られたとのことでした。
 神が人を愛するというとき、聖書の原文には「アガペ」という言葉が用いられています。これは感情によるものではなく、条件付きでもない、何ができるできない関係なく、神を知っていても知らなくても、ただ一方的な決断による「愛」なのです。世の愛も物資も不安定です。しかし神の愛は変わりません。あなたも愛の安定供給受けてみませんか?

心のオアシス 2011年4月3日

 若い男女がひょんなことから顔見知りになり、いつの間にか二人の間に恋がめばえ、結婚するに至ったというケースがいくつかあります。
 ゴンベイ先生こと内越正俊牧師は、学生時代に聖書を読み、初めて教会の門をたたいた。教会に入ると、受付の女性が「名前と住所をここに記入してください。」と言ったので、「いやです。」と断りました。なぜなら、後で入信させられたりしたら困るからです。そうするとこの女性は、「そうですか。名前がないなら名無しのゴンベイですね。」と言いました。それで先生のニックネームはゴンベイとなりました。そしてその時の女性が今の奥さんだそうです。
 もう一つ紹介します。母教会の大川牧師の母校・青山学院大学の0教授のケースである。学生時代のある日、横浜駅のプラットホームを急ぎ足で走っていた。あまりあわてたので前にいた女学生にぶつかり、なんと、ハカマの中に足を突っ込み、いっしょに階段を転げ落ちてしまった。恥ずかしくて、何とお詫びをしてよいのやら、ほうほうのていで逃げ帰った。次の日、駅で昨日の女学生と会ってしまい、「昨日はどうもすいません。」と少し離れたところからお詫びした。一週間ぐらい経って、また駅で再会。「先週は失礼しました。」と謝る。一ヶ月ぐらいすると、また駅で会ってしまい、顔を赤らめながら、「先月はどうも失礼しました。」と詫びる。その「ハカマの女性」は、今の奥さんだそうです。
 「人生は出会いで決まる」と言われますが、結婚のパートナーだけではなく、どのような人に出会うかによって、良くも悪くもその人の人生が大きく左右し、影響を与えていくものです。そして日々出会う全ての人は、神さまから送られてきた存在として受け留めるならば、苦手な人でも、少しは優しくなれるのではないかと思います。
 本日、洗礼を受けられるご夫妻も、沢山の不思議な出会いの中で、牧師と出会い、そしてイエス様とお出会いなさいました。イエス・キリストとの出会い、そのお方とご一緒するならば、必ずその人の人生に平安と安息が与えられることを保証します。God bless you!