礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2010年8月15日

私たちの一生の間に、様々な人と出会い、接し、関わっていきます。しかし、その中には必ずしも自分の好みではないタイプもいるでしょう。上手く避けることができればいいですが、嫌でも関わっていかなければならない場合もあります。そうなるとストレスになっていきます。でも、「神」という存在を信じる人々は、考え方を変えることによってストレスが軽減されます。また優しい心にもなれます。すなわちそれらの人々は全て神があなたのために遣わされた存在だと信じることです。
トルストイの「靴屋のマルチン」は、それをよく表しています・・・靴屋をしていたマルチンが、ある夜、夢を見ます。「明日はお前の家にいくから」と神様が言われました。次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外を見ていると、寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはそのおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。それからマルチンが外を見ていると、赤ちゃんを抱いた貧しい母親が外を歩いていました。それを見て、マルチンは可哀想になり、出て行って、その母子を家に迎え、ショールをあげました。しかし、なかなか神様は来られません。今度は、おばあさんのカゴから一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなしをして、一緒に謝りました。そうして、一日が終わりましたが、とうとうマルチンが期待していた神様は来られませんでした。「やっぱり、あれは夢だったのか」とガッカリしているマルチンに、神様が現れて言いました。「マルチン、今日はお前の家に行ったよ。」すると、雪かきのおじいさんや貧しい母子やリンゴを盗んだ少年の姿が次々と現れました。
神様が目に見える形で、私たちの前に現れたら、わかりやすくて、私たちはお従いしやすいですが、神様はそういう現れ方はなさらないのです。私たちの周りにいる「あの人もこの人も」、実は神様が遣わされた人、いや神様ご自身だと考えるならば、親切にしないわけにはいかないでしょう。赦さないわけには、愛さないわけにはいきません。
「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)

心のオアシス 2010年8月8日

「3本の木」という民話があります。山の上に3本の木が立っていて、それぞれの木が将来に対する願いを持ったというのです。一番目の木は「将来、世界一きれいな宝箱になりたい!」。二番目の木は「世界一大きな船になりたい」と願い、三番目の木は「このまま、ずっとこの山にいて、世界一背高のっぽの木になりたい」と思っていました。何年もたってから、それぞれりっぱな大木になりました。ある日、3人の木こりがやって来てそれぞれの木を切りました。3本の木は、自分の願い通りになれると期待していました。しかし一番目の木は、大工さんの仕事場へ運ばれましたが、作ったのは宝箱ではなく家畜のエサ箱でした。宝石を入れられることはありません。お腹を空かせた家畜のために、わらや草が盛られました。二番目の木は、造船所に運ばれました。ところが、そこで作られたのは大きな船ではなく小さな漁船になりました。小さな湖に運ばれて、生臭い魚を運ぶ毎日になりました。三番目の木は、太い材木にされて、そのままになりました。こう思いました。「私は、ただあの山の上に立っていれば満足だったのに・・・」。そして何年も経過してから、3本の木は自分たちが見た夢のことなどすっかり忘れていました。  
ある夜、一人の女の人が、生まれたばかりの赤ん坊をエサ箱に寝かせました。その時一番目の木は、自分は世界で一番尊い宝物をお入れしているのだと気づきました。ある晩、二番目の木が湖の上を滑り出すと、ひどい嵐になって沈みそうになりました。乗っていた一人の人が立ち上がって「静まれ!」と言われると、嵐が止んだではありませんか。その時二番目の木は、自分は天と地を治める王をお乗せしていることに気づきました。ある金曜日、材木になった三番目の木は引き出され、あざける大勢の人々の間を運ばれていきました。そして兵士が一人の人の手を木に釘で打ち付けました。日曜日の朝、大地が喜びに震えていました。人々が三番目の木のことを思う時、神の愛を考えるようになりました。
これが自己実現と神実現の違いです。思い通りならなくても大丈夫!「神のなさることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3章11節)

心のオアシス 2010年8月1日

医学の専門家が言うには、アルコール依存症の患者が自分はアルコール依存症だと認め、そこからの解放と心の平静に対する強い健全な欲求を持ったときには、その人はその時点で、すでに51%まで癒されているというのです。すなわち、自分が病気なのだという認識と、治りたいという願望が、その人の体に治癒力を高める何かが分泌するのだというのです。そして、そのような問題解決の達成に対する強い願望の心を持ったら、依存症による震えや喉の渇きなどは、自動的に消えていくそうです。逆に病気である認識のない人や、治りたいという願望を持たない患者には、そのような現象は起こらないとのこと。
このように私たちの心の姿勢というものが、私たちの体や生活や心の状態にまで影響しているのです。自分の好きなことだけをしたり、自分と馬の合う人とだけ付き合うことができれば平穏な毎日を過ごすことができると思いますが、現実にはそういうわけにはいきません。私たちのストレスになる出来事は必ず起こるものです。その時に、私たちがどのような心の態度を持つかによって、その重荷が重くなったり軽くなったりするのです。
南アメリカの多くの少数民族の中には、30歳にも満たないまま死んでしまう大変寿命の短い部族があるそうです。学者たちが調べてみると、土で造った塀の中にいる虫が原因であることがわかりました。その虫が毒素を出すので、それを吸いながら生活している人々は正常に生きることができないということでした。そこで学者たちは彼らに生きる方法を3つ教えました。①殺虫剤で虫を退治する。②塀を壊す。③他の場所へ移住する。しかし、この部族はどの提案も受け入れずに、依然短命の道を歩んでいるそうです。変わりたいという意志の欠如の表れであります。
イエス・キリストを信じたら救いは確実です。しかし天国へ行くまでの人生、私たちの心をどのように保つかによって、喜びの多いものになるか不平不満ばかりになるかが決まります。喜びを勝ち取るためには、不動なる神の言葉にしがみつくことがポイントです。

心のオアシス 2010年7月25日

私たちのストレスの多くは、「こだわり過ぎる」ところに原因があると考えられます。勿論、「こだわり」がなければ、良いものは生まれないでしょうし、張り合いもなくなるでしょう。私はラーメンにはうるさくて、麺やスープにこだわりがないと、そのお店には二度と行きたいとは思いません。また、毎週のメッセージにはこだわっているつもりです。最善のものを提供して、満足して帰っていただきたいという願いからです。     
しかし、どのような「こだわり」でもそれが過ぎれば他者を苦しめることもありますし、何より自分に大きな悪影響を及ぼすことがあります。例えば、健康にこだわっている人は、度が過ぎると食べる物にも神経質になり、ちょっとした体の変化にビクビクしてしまいます。財産にこだわりすぎると、それを失うことへの不安が絶えず起こります。     
もしイエス・キリストが、ご自分の「神」という立場や、聖さにこだわりつづけておられたら、ドロドロとした罪の世界には来ることはできなかったでしょう。地上での様々な苦難を考えると、ご自分の立場に居座っておられた方がどれだけ楽だったでしょうか・・・ご自分の地位や環境に対するこだわりを持ち続けなかった故に私たちに対する救いを完成することができたのです。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」(ピリピ2:6~7)

主よ、変えられないものを 受け入れる心の静けさと
変えられるものを変える勇気と
その両者を見分ける 英知を与え給え
(ラインホールド・ニーバーの祈り)    

私たちの「こだわり」が、自分や他者へのストレスになっていないかをチェックして、変えるべきことは、勇気をもって変え、変えられないことへの執着は止めて、心穏やかに過ごしたいものです。

心のオアシス 2010年7月18日

私たちは、敵とは言えない、むしろ仲間内の党派心や、みえの故に苦しむことがあります。それに対してそれぞれの対処法を持っていると思いますが、それが自分中心的なものであれば、必ず人間関係に大きな歪みを生み出します。「目には目を。歯には歯を」的な対処は、本人にとってはスッキリするでしょうけれども、世界の歴史を学ぶならば、それが賢明ではないことは一目瞭然であります。
ヨハネ・パウロⅡ世教皇は「人を許す時、許した人は自由になり、解放されます。人を許さない人は、他人の支配下にあります。」と言いました。
確かに「許さない」ということは、心は依然として相手に振り回されている状態あります。嫌な相手にコントロールされていることほど悔しいことはありません。「許し」は自由と解放の鍵だというのです。許す決断によって許しは完了します。感情がなかなか伴わなくて苦しむ人もいますが、実は感情はモノの見方によって数秒で違う感情に変えることができるものなのです。 
ある教会で賛美が始まると、必ず下手な踊りをする男性がいました。若者たちは、彼に対して批判的な陰口を言っていました。ある日、牧師がその男性に体験談(証)をするように促して講壇の前に立たせました。彼はこのような話をしました「私が幼い時に両親が離婚して、自分は親戚の家を渡り歩いていました。自分が生きている意味がわからず、愛される経験がなく、自暴自棄になってしまいました。ある日、教会へ誘われて、初めて礼拝に出て、そこで神様に出会うことができました。神様に愛されていることがわかりました。それから良い仕事が与えられ、結婚して子供が与えられ、神様が私にしてくださった素晴らしい出来事の数々を思い起こすと、下手な踊りであっても、そうやって神様に感謝せざるを得なくなるのです。」と涙ながらに話しました。これを聞いた若者たちは、この日以来悪口を言わなくなったのです。
自分ではなく相手の立場に立って見るならば、新しい世界が見えてくるものです。私たちも自由で解放された人生を歩みたいものです。

心のオアシス 2010年7月11日

人は、みんな現実において喜びの多い生涯を願っていますし、安楽な生活を志向しています。「苦しみや悩みを、取り除いてくださる神」というのは、ただ人間が、そういうものを求める故に、そのような神を造っただけであって、実際には、クリスチャンであっても、またいかなる宗教を信じる人にも、そして神の存在を信じない人にも、本人の自業自得では片付けられないような無情な出来事は起こりえるものであります。   
新約聖書13の書簡を書いたパウロは「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と語りました。聖書の教える神概念は、人間の苦しみも悩みも、すぐに解決してくれるばかりか、人間にとって一番都合の良い環境を作ってくださるお方ではないということなのです。神は、私たちの都合通りに働いてくださるのではなく、「神の都合」で働いておられるお方であるのです。「神のご勝手の神学」についてお話しなさっていた先生がいますが、ある意味、その通りだと思います。私たちにとっては都合の悪い神様ですが、実際には神がご勝手にこの世界を導いておられるのです。
アメリカにヤングという名投手がいました。ある時、インタビューされました。「どうして、あなたはそんなに三振を取る事ができるのですか?」。すると彼はこう答えたそうです。「投げる時は、一生懸命投げます。後はバッター任せです。」自分が与えられている使命に全力投球して、その後の結果は、バッターが打っても空振りでも、相手次第ということ。
私たちも「神任せ」ができれば、もっと人生のストレスは軽減されるでしょう。どんなに可愛い子供であっても、ナイフを貸して欲しいと要求する幼児に、答える親はいないでしょう。その子供にとって、今は与えられないことが必要なことだからです。
神様はご勝手なのですが、その「ご勝手」を、私たちの最善のため、私たちを愛するために用いておられるのです。もしそれを本気で信じることができるならばハッピーライフが待っています。

心のオアシス 2010年7月4日

日本人のもっている神概念は、自分の願いをかなえてくれるのが神の役目であり仕事だと思っている人が多い。だから役に立つ神々を求め続けて、日本には何と八百万(やおよろず)の神人口になってしまったというわけです。本来、能力のある神であれば、お一方で十分だと思いますが、人間の願いを実現してくれない、いわゆる「役立たずの神」を切り捨てて、次から次へと神々を作っていった結果であります。
ある村では、従来七十いくつもあった神社を、四箇所にまとめてしまうということが、かつて行なわれました。お陰で神社費は減って、村の経済は大変助かりましたが、気の毒なのは神様たちです。今までは、それぞれ大きな社(やしろ)の中に祭られていたものが、その改革で、小さな祠(ほこら)の中に押し込められ、大勢の神々との共同生活になりました。神様たちには何もお伺いせずに、村人たちの一方的な判断ですから、神様たちには寝耳に水で驚いたことでしょう。もし、私たちを、住み慣れた我が家から追い出し、知らない人々と狭いアパートで共同生活しろという人があったらどうでしょうか? 家は自分の城であります。場合によっては命がけで守らなければならないでしょう。しかし、七十数名の神々の中で、抗議する者もたたる者もなかったところを見ると、合併するのも捨てるのも、造り主である人間の自由ということなのでしょう。

聖書の教える神概念は、逆であります。人が神を造ったのではなく、神が人間を造ったというのです。ですから、人間のために神々がいるのではなく、神のために人間がいて、「神実現」のために私たちは存在しているということなのです。「自己実現」のために神が存在しているなら、意のままにならない神々に対して文句を言って捨ててもかまわないでしょう。しかし、神の御心がなされるために私たちが存在し用いられていることを知れば、文句は言えません。自分の罪深さや弱さに気づけば気づくほど、神様の恵みは大きくなってくるのです。
「恵みの世界」を見たいなら神概念を変えてみてはいかがですか?!

心のオアシス 2010年6月27日

日本の子供たちの学力低下の原因の一つとして、勉強に対する意欲の低下が挙げられています。勉強する意味がわからないから意欲が出てこないというのです。もし何かの意味や目的を見出すことができるならば、やる気も起こるでしょう。勉強だけではなく、仕事にしても、人間関係にしても、自分の人生に対しても、物事に意味を与えていくと生き甲斐や、やり甲斐が出てくるものです。「何故?どうして?」と原因追求することが悪いわけではありませんし、時にはそれも必要でしょう。しかし、それだけに終始していると、悩みとストレスだけが残ることになります。

ノートルダム清心学園理事長・渡辺和子さんは、著書の中でこう書いておられます。
早天祈祷会のために朝5時にチャペルにきて、4つある窓のカーテンを開け、冬であれば、ストーブをつけている。しかしやっている内に腹立たしくなってきた。「自分は一番年長なのに、なぜ私だけが毎日これをしなければならないのか?」「もっと遅く来れば、先に来たシスターがするから自分はしなくて済むだろう」。しかし、しばらくして思いを改めて「自分が決めたことは自分がしよう」そして考え方を変えました。何も考えずにカーテンを開けるのはもったいないから、こうしよう。一つは、2.26事件で目の前で殺されていった父親のことを祈りながら開け、一つは、子供のように亡くなっていった母親のために。一つは、もう召された兄のために。一つは、ガンで苦しむ卒業生のために祈りながら開けよう。そのように決めてから、カーテンを開けることが楽しくなりました。そればかりか、この特権を誰にも渡すまいと思うようになりました。

このように物事に意味を与えていくと、世界が変わってくるものです。私たちもより良い人生を送るためには、考え方を柔軟にして、一つのことに固執しないで、わからなくても「神の側に意味があるから委ねよう」という心の持ち方が、人生を豊かなものにしていくものだと確信します。

心のオアシス 2010年6月20日

アドレナリンというのは、人間の体の中で瞬時に燃焼される強力な化学物質で、エネルギーや力を瞬時に与えることができます。これはスポーツの世界でも、芸能の世界でも、講演者がお話をする時にも分泌されるものであります。このアドレナリンの作用によって、興奮したり、普段持っている力以上の能力を発揮できたりするわけです。このように大変良い働きをしているようにも思えますが、人間の体に良くない分泌の仕方もあるようです。それは長い間、イライラやストレス、心配ごとが長く続くと、力になるはずのアドレナリンが、ポトポトと血液の中に一日中流れ落ちている状態になります。燃焼しないで、そのまま体の中に溜まると、短気になったり、皮肉っぽくなったり、老化の進みが早くなったり、傷つきやすくなったり、いくら寝ても疲れがとれない状態になるそうです。医者が推奨するコレステロール値を下げる方法は、錠剤を飲んだりダイエットするのではなく、「幸福な心」で生きることが最も効果的だと言っています。
誰でも幸福になりたいと願っていますが、幸福になれないのは、「幸福」を条件付にしてしまうことにあります。例えば、お金があれば幸福になれるとか、地位があれば、学歴があれば、友達がいれば、結婚すれば、この問題が解決したら、健康になったら幸福になれると考えている人は、死ぬまで幸福にはなれないでしょう。なぜなら人間の理想というものは果てしなく続くので、一つの欲求が満たされても、また次の欲求が出てくるからです。
田原米子さんは、新宿駅で鉄道自殺を試みて失敗し、両足切断、左腕切断、右手の指も2本切断し絶望状態にありましたが、聖書の言葉に触れてから、「3本も指が残っている!」と喜びへと変えられたそうです。
聖書は、ない足が突然はえてくるという奇跡も紹介していますが、多くの場合、ない所はないと認め、それでも満足することができる歩みができ、なくても不自由のない人生を歩むことができるように導いています。是非この素晴らしい人生をあなたのものにしてください。

心のオアシス 2010年6月13日

ある学校で、このような実験が行なわれたそうです。ある研究者が、一定のプログラムを通して、将来絶対に伸びる可能性を秘めた、よりすぐった生徒30名を選びました。この子たちの成績は必ず伸びると太鼓判を押された子供たちでした。そして学校にその子供たちのために特別クラスを設けて、この生徒たちをある一定期間、教育してくださいと要請されました。先生が送り込まれた生徒たちを見ると、どう見ても優秀に見えないような子供もいましたが、専門家が様々な観察と実験から選ばれた子なのだから、伸びるだろう!と定められた期間、彼らを教えました。他のクラスと同じ教科を同じように教えていった結果、実際にその特別クラスの子供たちの成績が飛躍的に伸びていったそうです。やはり選ばれた特別な生徒たちであったから素晴らしい結果だったのだと思われていましたが、後でわかったことは、そのプログラムはデタラメで、ランダムに普通の生徒が選ばれて送り込まれていただけだったのです。そのことは、教師にも親にも伝えられていませんでした。何が違ったのかといいますと、先生たちや親の、その子たちを見る目でありました。この子たちは普通の子ではない!どんな成長を遂げるんだろうか?という期待をもってその子たちを見、教えていたということでした。
 状況や環境は変わらなくても、私たちの内に秘めている思いや考え方が変わるだけで、周りにも大きな良い変化をもたらせることができるのならば、この手を使わないわけにはいかないでしょう。

奈良カルバリーフェローシップでは、世界のベストセラーである聖書から、人生を楽しくする秘訣をご一緒に学んで「明るく・元気で・のびのび」とした毎日を過ごせるようにと願っています。ご一緒に楽しく学んでいきましょう!