心のオアシス
心のオアシス 2012年10月28日
先週、石原東京都知事が、新党結成の表明をした。多くの人たちは驚いたことでしょう。もう引退して悠々自適に生きることができる立場にありながら、自分の安定よりも、誰かが立ち上がって国を何とか変えなければ国民が路頭に迷ってしまうのではないかいう自己犠牲にも近いものがあるように思った。本人も体力は落ちてきていることは認めながらも、日本という国に対する危機感から、何とかしなければという熱い情熱が彼を動かしているのではないだろうか。インタビューで80歳という年齢のことを問われ、「どうしてオレがこんなことやらなきゃいけないんだよ。若い者よ、しっかりしてくれよ!」という言葉がそれを物語っているように思う。石原都知事が何とかしてくれるとか、してくれないとか、新党結成に賛同でも反対でもない立場ですが、その意気込みだけは見習わなければならないと思う。
私たちの教会には、四捨五入すると80歳になられる若者が数名いらっしゃいます。毎週、忠実に教会に来られる方々ばかりである。中には1時間もかけて運転して来られる人もいる。都知事に勝るとも劣らない神さまへの熱い情熱を感じる。結局、若者も壮年も気力を保ち続けることが、いつも活き活きとできる秘訣ではないだろうか。
では、気力はどこから出てくるのか? ウェイン・コデイロ先生の著書によると、私たちの多くがやる気を失ってしまったのは、神様が私たちの将来、教会、家族、そして財政のために、どんなにすばらしいことをしてくださるかということを夢見なくなったからだというのです。神様のために大きな夢を見ることは遅すぎません。神はモーセが80歳の時に星空を見せて大きな夢を持たせました。私たちの夢が自分の生きている間に成就すると考えているならば、遅すぎると感じるかもしれませんが、主は歴史を通じて働かれるお方です。信じた通りになります!
「年寄りは夢を見、若者はビジョンを見る」(ヨエル2の28)
心のオアシス 2012年10月21日
パク・ヨンソン先生が、著書の中で、「愛とは、相手がうまく行けば、自分自身はどうなっても嬉しいのです。自分のことはどうでもいいのです。・・・数年前、ある長老さんと一緒に信徒の家庭訪問に行ったとき、それを経験しました。イチゴが出されたのですが、その長老は、つぶれたものばかり食べるのです。私にいいものを食べさせるためにです。これが愛です。」と書いておられた。確かに私も少なからずそういうことを経験してきた。例えば、親は食事をするとき、見た目の悪いものや、つぶれたものなどを、進んで自分の皿に入れて食べている。これは子には、良い部分を食べさせるために自分が喜んで犠牲になっている姿だと思う。自分は貧乏くじを引いても、子供が喜んでいる姿を見て満足できるのが本当の親の愛の姿です。「親は、つぶれたイチゴや、形の崩れた魚、少し古くなった残り物のおかずが大好き」なんて思っている子供は、まだまだわかっていない子供でしょう。
愛とは、相手がうまくいくようにすることです。ある本に、「何でもうまくやる人間を雇わないように。その代わり、他の人がうまくできるよう手助けする人間を雇いなさい。」とあった。自分がうまくいくように考えている人は、他者の成功を喜ぶことができません。そればかりか嫉妬したり妬んだりするものです。夫婦の関係に、親子の関係に、職場、学舎、友人関係に、相手がうまくいくように歩み始めたら、この世界の悩みの大部分はすぐに解決するでしょうね。
他者がうまくいくためには、自分がどんな茨の道を通ってもお構いにならなかった方がいます。このお方は、あなたの人生がうまくいくように願い、やがては天国へ導きたいと願っておられるのです。人が生きるために自分が損をする生き方を徹底されました。最後には私たちが天国に入ることの障害になっている罪を、全部背負って十字架にかかってくださいました。そのお方の名前は、イエス・キリストです。
心のオアシス 2012年10月14日
Steveは、留学時代からの友人で、毎年のようにして彼の実家のあるミシガン州へクリスマス休暇を過ごさせてもらっていた。卒業後もずっと手紙のやり取りが続いていたが、彼が引越しなどしているうちに、私の住所や電話番号など一切を紛失していまい、7年ほど前に、急に連絡が取れなくなってしまった。ところが最近、彼がパソコンを購入し、フェイスブックに登録してから私を見つけたというのです。早速、先週メールも復活しスカイプ電話でも話をした。30年ほど前に出会った友人だが、あの当時と変わらず、懐かしく様々な想い出が駆け巡った。
留学当時の私は、まだ英語もつたなく、コミュニケーションを上手くとれませんでした。社交辞令の友人は何人かいたが、なかなか心を分かち合える友を作ることができませんでした。そんな留学生活が3ヶ月ぐらい過ぎたある日、大学にある大きなダイニングホールで学食をとっている時、たまたま隣に座ったのがSteveでした。私のつたない英語で内容のない話にも耳を傾けてくれて、また彼の早口の英語を私が理解できなければ、何度でも同じことを話してくれた。その場だけの関係に終わると思っていたが、彼は夕食後、近くの散歩コースを一緒に歩かないか?と誘ってくれた。私といても楽しくないだろうと思っていたが、彼は事あるごとに私に声をかけ行動を共にし、様々なことを助けてくれることが多くなった。それでも言葉や生活に不自由な私を哀れんでのボランティア精神で私といてくれるのだろうと思っていたが、ある日、彼が他の友人に私を紹介する時にこう言ってくれたことが忘れられない。“This is my best friend, Atsuhiro”(これは私の親友です)心の涙が出た。
神さまは、その時その時に、必要な人と出会わせてくださいます。それは偶然ではなく神の摂理です。この度、なほこ姉としおりちゃんが実家の福岡へ引越しされる。寂しいですが祝福して送り出したいと思います。神のご摂理の下に出会った家族の為にこれからも祈り続けます!
心のオアシス 2012年10月7日
ある学校の文化祭で、「人生とは」というテーマで、ディスプレイに靴が並べて置いてあったそうです。それは靴(苦痛)の連続だということを表現したかったようです。
確かに、私たちの人生には悩みはつきものです。一つの問題が解決したかと思ったら、次の問題が発生するのです。絶妙な時期と間隔で、私たちの人生全体に試練が散りばめられています。でも、大人になって振り返ってみると、子供の時の悩み、青年時代の悩み、中年、壮年と、それぞれ同じ自分でも、悩みが変化していることに気付くと思います。それぞれのシーズンがあって、春になれば花粉症で苦しみ、夏になれば暑さで疲れ、秋になれば何か寂しい気分になり、冬になれば寒さで凍える・・・みたいな現実があると思います。でも、同じ環境でもそれぞれの季節から学び、楽しむこともできるでしょう。
ある方から、「昔は問題ばかりで悩んでばかりでしたが、神さまを通して現実を見るようになってから、問題が問題でなくなってしまいました。」と話しておられたことが印象に残っています。私も私なりには、何かあったら心痛め、自己卑下したりしていましたが、神の愛とご計画の深さを知ってからは、「神にあってどうにかなる!」と楽観的に生きることができるようになりました。
空の鳥は明日の食事の心配をしているようには見えません。野の草花も明日は何を着ようかと悩んでいません。でも神さまが鳥を養い、野の草花も、地上のどのような服よりも綺麗に着飾らせてくださっているなら、それ以上の存在である私たちは何を悩む必要があるのでしょうか?
ある先生の言葉に、「神は決して、あなたの力に余る試練を与えない。」というのがあった。神さまは、あなたが立ち上がることができないほどの試練はお与えにならないという意味です。人間に悩みはつきものですが、試練に耐える力と逃げ道を必ず備えていてくださっています。
心のオアシス 2012年9月30日
ある本の帯に書かれてあった言葉です。
「時間の使い方は、そのまま、いのちの使い方なのです。置かれたところで咲いていてください」結婚しても、就職しても、子育てしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために・・・。
砂漠地帯に移植する木は、成長のプロセスの中で水をやらない時期があるそうです。そうすると根が水を求めて下へ下へと伸びていって、やがては水の無い地に植えられても耐えることができる強い木になるのだというのです。「咲く」努力をして、できないときは、無理に咲かないで、根を張る・・・これは私たちの人生に必要な教訓だと思います。どのような状況の中でも造り主である神さまに忠実でありたいですね。神の法則の中に生きていたら、全ての必要は満たされます!
関西カルバリーフェローシップの礼拝をインターネットで見ておられ、毎月献金を送ってくださっている青年から、先日このような嬉しい報告がきました。「先生、お疲れ様です。つい先日、就業先の契約書を読んで気が付いたのですが、先生の教会に献金を始めてから、時給が少しだけUPしていました。マラキ書でしたっけ? 書いてあるように神様が祝福してくださいました。彼氏(未信者=未来信じる者)にもそれを伝えたら、神様のなさることに驚いていました。就業してから3年経つと時給が上がることもあると聞いていましたが、まだ3年経っていない変なタイミングだったので余計に驚きました。今日、感謝献金を少額ですが送りました。受け取ってください。」神があなたの必要を添えて与えられます!
心のオアシス 2012年9月23日
先週、友人牧師のお母様が天に召されました。告別式は、私に式辞の要請があり、ご奉仕させていただきました。お母様の親しかった近所の方々が集まることができるようにと、家の近所の小さな公民館を借りて葬儀が営まれました。そこに溢れる人たちが集まりました。
数ヶ月前に発病し、闘病生活を送られていました。熱心なクリスチャンで伝道一筋のお方でしたが、何と自由に動けなくなり、福音を伝えることができなくなってから召されるまでの数ヶ月が、一番人々を救いにお導きされたようです。ご主人が洗礼を受けられ、親戚の方も、お母様をよく知っている友人牧師の同級生も、次々に洗礼を受けられました。
人間の目にはマイナスと思える出来事も、神さまが背後におられるならば、それが全てプラスに変えられているという、神さまの鮮やかなイリュージョンを見させていただきました。考えてみれば、私たちの教会にもお母様を天にお送りしてから、教会に繋がるようになった人たちもいます。不思議です。まさに全てのマイナスはプラスになります!の世界ですね。
ある方の誕生カードに御言葉を書こうと祈って与えられた箇所が、箴言19章21節の言葉。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ」 私たちは、計算が大好きです。予定通りになったときは、喜びますが、想定外の出来事が起こると慌てたり、悩んだり、苦しんだりします。でも、もし全ての計画の背後に、神さまの壮大な私たちに対する計画があることを信じることができるなら、私たちのちっぽけな計画がならなくても、平気でいることができるようになります。
計算通りのことが起こらなくても、心配しないでください。もし神に信頼しているならば、穏やかであるべきです。世界では様々なマイナスのニュースが流されていますが、是非、神さまが流しておられるグッド・ニュースを受けとめてください。十字架はマイナスのようですが、形はプラスです。名実ともにプラスです。あなたの人生もプラスです!
心のオアシス 2012年9月16日
中国の伝説上の堯邸(ぎょうてい)という皇帝の時代にずっと平和が続いていたそうです。ところが一人の老人が、こう歌いました。「日が出れば働き、日が没すれば休む。井戸を掘って飲み、田を耕して食べる。皇帝の力など私には無関係」
この老人が言うことは、もっともらしく聞こえますが、見逃してしまうポイントは、皇帝が、その国を治めていたからこそ、平和の中で、この老人は働くことができたということなのです。
私たちは、どれだけ神の恩恵を受けながら生きているでしょうか? にも関わらず、今の現実を見て不平不満を言っているのは、紅海を分けられた奇跡を見ながら、荒野で毎日マナが与えられて生かされていたにも関わらず不平をいうイスラエルの人々のようです。小さなことに感謝できなくなったら、小さなことにつまずきます。毎日見ている当たり前に感謝できなくなったら不平不満が溢れるようになります。生かされていること。食事が与えられていること。お風呂に入れること。教会に来ることができること。家があること。話せる人がいること。感謝しようと思えば数えきれません。
「もし神が忘れたら」という詩を紹介します。
もし神が忘れたらどうなるのだろう。神が世界を忘れたら、たった一日でも忘れたら。太陽を照らすのを忘れ、夜を昼に変えるのを忘れたら。花を咲かせるのを忘れ、小鳥や蜂たちを忘れたら。木々に新鮮な南風を吹かせるのを忘れ、雨を降らせるのを忘れたら。人間に友情を与えるのを忘れ、子供たちに遊び声を与えるのを忘れたら。そして痛みを和らげるのを忘れたら、いったいこの世界は、私たちはどうなるのだろう。もし神がたった一日でも忘れたとしたら。
「現実が変わらないなら、悩みに対する心の持ちようを変えてみる」とは、ある方が書物に書いていた言葉です。今の現実は理想ではありません。でも私たち一人一人の心の持ち方でそれが感謝な場所へと変わるのです。私は神さまの恵みによって生かされていることに感謝します!
心のオアシス 2012年9月9日
マルチン・ルターは、宗教改革を行なう度に極度の心配と精神的な苦痛を味わいました。一人の神父が、ヨーロッパを掌握する教皇を相手に宗教改革を行なったのですから、ものすごい圧力を受けたことでしょう。
そんなある日、小鳥が餌を食べ、木の枝の上で安心して寝ているのを見て、大きな悟りが与えられました。「あの小さな鳥は、明日の朝に食べる物も、明日の夜に寝る場所も、何も心配していない。鳥でさえ神にすべてを委ねて何の心配もせずに寝ているのに、なぜ私はこれほど多くの心配をしているのだろうか。神が一羽の小さな鳥を顧みられるならば、ご自分の子供をどれほど大切にして守られるだろうか。」その後、ルターは、自分もその小さな鳥のように神を信じ、すべての心配を神にゆだねることを決心しました。
こうしてルターは勇気と力を得て、教皇を相手に勝利し、宗教改革をなすことができたのです。
確かに鳥を見ていると、お気軽に生きているように感じます。明日の心配もしていません。毎日毎日を、精一杯生きているだけです。鳥たちが明日の食物のことや、将来のことを心配し始めたら、一体どんな鳥社会になるでしょうか? 明日のことを何も考えていない鳥たちでも神さまは養っていてくださっているのですよね。であるなら、私たちを養ってくださらないはずがないでしょう?! 神さまは語りかけています。「空の鳥を見なさい!野の花を見なさい!何か思い煩っていますか?」
マザー・テレサの言葉です。
与えるものが何もない時は、神に、その“無そのもの”を差し出しましょう。できる限り自分が空っぽでいられるように。そうすれば、神が私たちを満たしてくださいます。たとえ神様でも、もうすでにいっぱいになっているものを満たすことはできません。神は決してご自分を私たちに押しつけたりなさいません。あなた方は、神が与えてくださった愛でこの世界を満たしているのです。
心のオアシス 2012年9月2日
サーカスで活躍している巨大な象がいますが、この象はとてつもない力を持っています。しかし、その裏側で繋がれているのは、地面に打ち付けられた30センチほどの杭に細いロープだけなのです。ロープがピンと張り詰める範囲内で歩き回っていますが、少しでもロープに引っ張られると止まってしまうのです。あの巨大な足でちょっとはじけば、杭なんていとも簡単に吹き飛ばすことができるのですが、決して試そうとはしないのです。
世話係の人の説明によると、象が、まだ幼く体も小さい時に、地面に深く打ち込んだ頑丈な杭に縛り付けておくと、象は何度強く引っ張っても、いっこうに杭を動かすことができないので、ここから逃げ出すのは無理だと思い込んでしまうそうです。そのうち、象は試みることさえしなくなるというのです。いつしか象は成長して体も大きくなりますが、心ではこの限界を感じたままでいます。こうなると、世話係は地面に小さな杭を打ち付け、象の足に普通のロープを縛り付けさえすれば、象はどこへも行こうとしなくなるのです。何故でしょうか? それは、象が逃げ出せないと信じているからです。大きな動物が、物事を小さく考えるように調教されてしまったのです。
私たちも似たようなところがあると思います。この世の現実の社会で、「こうやれば、こうなる。これ以上にはならないし、それは現実的にはありえない・・・」ということが自己の経験や学習から刷り込まれていて、なかなか本当の信仰の世界を受け入れることができないのです。自分の頭の中で、神様の力=自分の頭で理解できる範囲という方程式を作り限界をつけているところがあると思います。偉大な神さまを、小さな弱い存在にしてしまっているのは私たち自身なのです。
先日ある方が言いました。「神さまが諦めておられないのに、どうして私たちが諦めるのですか?!」まさにその通りだと思います。私たちの家族の救いを諦めてはならないのです。病の癒やしを諦めてはならないのです。自分自身に諦めてはならないのです! 主は我が力です!
心のオアシス 2012年8月26日
私は傷だらけの人生を歩んできました」。その男性はまじめな顔をしてそう言いました。さぞかし人生の裏街道を歩いてきて苦労されたのだろうな、と同情したのですが、話しをよく聞いてみると、これまでに何回も大きな手術をして、おかげで体中傷だらけ、というお話しなのです。
その場は笑い話で済みました。けれどもよく考えてみると、私たちは例外なく、「傷だらけの人生」を送ってきてはいないでしょうか。それまで大切に守ってきたものが突然、一瞬で崩れ去るような出来事と遭遇する。震災、事故、犯罪、リストラ、破産、突然の死別・・・そしてこれらは、私たちの心に深い傷を残すのです。傷は痛く、心は苦しむのです。ですから聖書に出会う前の私は、「傷」はあってはならないもの、傷つくことは不幸なことだと当たり前のように考えていました。ところが、聖書を開いてみて、「傷」ということばが人生の大切なキーワードの一つであることに気がついたのです。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ53章)という意味は、人類を救うために、キリストは十字架にかけられた。だから、あなたがキリストに心を向けるなら、あなたの傷もいやされるということなのです。私自身、この聖書のことばを初めて聞いたとき、正直どういう意味かまったく分かりませんでした。キリスト教会のシンボルが十字架であることも、どうしてなのかが分かりませんでした。しかし私たちは、それぞれに深く傷ついて人生を歩んでいることも事実です。その傷がいやされたいとだれもが願っているはずです。では一体だれが、この私の傷をいやしてくれるのだろうか? そう思い始めたころから、イエス・キリストのことをもっと知りたいと真理を求める旅が始まりました。もし私に傷がなかったなら、キリストを求める思いも起こらなかったでしょう。そして、もしキリストに出会っていなかったあら、「傷」を持っていても幸せになれる、という体験をすることもなかったと思います。 (クリスチャン新聞の福音版5月号より)