礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2012年9月30日

ある本の帯に書かれてあった言葉です。
「時間の使い方は、そのまま、いのちの使い方なのです。置かれたところで咲いていてください」結婚しても、就職しても、子育てしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために・・・。
砂漠地帯に移植する木は、成長のプロセスの中で水をやらない時期があるそうです。そうすると根が水を求めて下へ下へと伸びていって、やがては水の無い地に植えられても耐えることができる強い木になるのだというのです。「咲く」努力をして、できないときは、無理に咲かないで、根を張る・・・これは私たちの人生に必要な教訓だと思います。どのような状況の中でも造り主である神さまに忠実でありたいですね。神の法則の中に生きていたら、全ての必要は満たされます!
関西カルバリーフェローシップの礼拝をインターネットで見ておられ、毎月献金を送ってくださっている青年から、先日このような嬉しい報告がきました。「先生、お疲れ様です。つい先日、就業先の契約書を読んで気が付いたのですが、先生の教会に献金を始めてから、時給が少しだけUPしていました。マラキ書でしたっけ? 書いてあるように神様が祝福してくださいました。彼氏(未信者=未来信じる者)にもそれを伝えたら、神様のなさることに驚いていました。就業してから3年経つと時給が上がることもあると聞いていましたが、まだ3年経っていない変なタイミングだったので余計に驚きました。今日、感謝献金を少額ですが送りました。受け取ってください。」神があなたの必要を添えて与えられます!

心のオアシス 2012年9月23日

先週、友人牧師のお母様が天に召されました。告別式は、私に式辞の要請があり、ご奉仕させていただきました。お母様の親しかった近所の方々が集まることができるようにと、家の近所の小さな公民館を借りて葬儀が営まれました。そこに溢れる人たちが集まりました。
数ヶ月前に発病し、闘病生活を送られていました。熱心なクリスチャンで伝道一筋のお方でしたが、何と自由に動けなくなり、福音を伝えることができなくなってから召されるまでの数ヶ月が、一番人々を救いにお導きされたようです。ご主人が洗礼を受けられ、親戚の方も、お母様をよく知っている友人牧師の同級生も、次々に洗礼を受けられました。
人間の目にはマイナスと思える出来事も、神さまが背後におられるならば、それが全てプラスに変えられているという、神さまの鮮やかなイリュージョンを見させていただきました。考えてみれば、私たちの教会にもお母様を天にお送りしてから、教会に繋がるようになった人たちもいます。不思議です。まさに全てのマイナスはプラスになります!の世界ですね。
ある方の誕生カードに御言葉を書こうと祈って与えられた箇所が、箴言19章21節の言葉。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ」 私たちは、計算が大好きです。予定通りになったときは、喜びますが、想定外の出来事が起こると慌てたり、悩んだり、苦しんだりします。でも、もし全ての計画の背後に、神さまの壮大な私たちに対する計画があることを信じることができるなら、私たちのちっぽけな計画がならなくても、平気でいることができるようになります。
計算通りのことが起こらなくても、心配しないでください。もし神に信頼しているならば、穏やかであるべきです。世界では様々なマイナスのニュースが流されていますが、是非、神さまが流しておられるグッド・ニュースを受けとめてください。十字架はマイナスのようですが、形はプラスです。名実ともにプラスです。あなたの人生もプラスです!

心のオアシス 2012年9月16日

中国の伝説上の堯邸(ぎょうてい)という皇帝の時代にずっと平和が続いていたそうです。ところが一人の老人が、こう歌いました。「日が出れば働き、日が没すれば休む。井戸を掘って飲み、田を耕して食べる。皇帝の力など私には無関係」
この老人が言うことは、もっともらしく聞こえますが、見逃してしまうポイントは、皇帝が、その国を治めていたからこそ、平和の中で、この老人は働くことができたということなのです。
私たちは、どれだけ神の恩恵を受けながら生きているでしょうか? にも関わらず、今の現実を見て不平不満を言っているのは、紅海を分けられた奇跡を見ながら、荒野で毎日マナが与えられて生かされていたにも関わらず不平をいうイスラエルの人々のようです。小さなことに感謝できなくなったら、小さなことにつまずきます。毎日見ている当たり前に感謝できなくなったら不平不満が溢れるようになります。生かされていること。食事が与えられていること。お風呂に入れること。教会に来ることができること。家があること。話せる人がいること。感謝しようと思えば数えきれません。
「もし神が忘れたら」という詩を紹介します。
もし神が忘れたらどうなるのだろう。神が世界を忘れたら、たった一日でも忘れたら。太陽を照らすのを忘れ、夜を昼に変えるのを忘れたら。花を咲かせるのを忘れ、小鳥や蜂たちを忘れたら。木々に新鮮な南風を吹かせるのを忘れ、雨を降らせるのを忘れたら。人間に友情を与えるのを忘れ、子供たちに遊び声を与えるのを忘れたら。そして痛みを和らげるのを忘れたら、いったいこの世界は、私たちはどうなるのだろう。もし神がたった一日でも忘れたとしたら。
「現実が変わらないなら、悩みに対する心の持ちようを変えてみる」とは、ある方が書物に書いていた言葉です。今の現実は理想ではありません。でも私たち一人一人の心の持ち方でそれが感謝な場所へと変わるのです。私は神さまの恵みによって生かされていることに感謝します!

心のオアシス 2012年9月9日

マルチン・ルターは、宗教改革を行なう度に極度の心配と精神的な苦痛を味わいました。一人の神父が、ヨーロッパを掌握する教皇を相手に宗教改革を行なったのですから、ものすごい圧力を受けたことでしょう。
そんなある日、小鳥が餌を食べ、木の枝の上で安心して寝ているのを見て、大きな悟りが与えられました。「あの小さな鳥は、明日の朝に食べる物も、明日の夜に寝る場所も、何も心配していない。鳥でさえ神にすべてを委ねて何の心配もせずに寝ているのに、なぜ私はこれほど多くの心配をしているのだろうか。神が一羽の小さな鳥を顧みられるならば、ご自分の子供をどれほど大切にして守られるだろうか。」その後、ルターは、自分もその小さな鳥のように神を信じ、すべての心配を神にゆだねることを決心しました。
こうしてルターは勇気と力を得て、教皇を相手に勝利し、宗教改革をなすことができたのです。
確かに鳥を見ていると、お気軽に生きているように感じます。明日の心配もしていません。毎日毎日を、精一杯生きているだけです。鳥たちが明日の食物のことや、将来のことを心配し始めたら、一体どんな鳥社会になるでしょうか? 明日のことを何も考えていない鳥たちでも神さまは養っていてくださっているのですよね。であるなら、私たちを養ってくださらないはずがないでしょう?! 神さまは語りかけています。「空の鳥を見なさい!野の花を見なさい!何か思い煩っていますか?」

マザー・テレサの言葉です。
与えるものが何もない時は、神に、その“無そのもの”を差し出しましょう。できる限り自分が空っぽでいられるように。そうすれば、神が私たちを満たしてくださいます。たとえ神様でも、もうすでにいっぱいになっているものを満たすことはできません。神は決してご自分を私たちに押しつけたりなさいません。あなた方は、神が与えてくださった愛でこの世界を満たしているのです。

心のオアシス 2012年9月2日

サーカスで活躍している巨大な象がいますが、この象はとてつもない力を持っています。しかし、その裏側で繋がれているのは、地面に打ち付けられた30センチほどの杭に細いロープだけなのです。ロープがピンと張り詰める範囲内で歩き回っていますが、少しでもロープに引っ張られると止まってしまうのです。あの巨大な足でちょっとはじけば、杭なんていとも簡単に吹き飛ばすことができるのですが、決して試そうとはしないのです。
世話係の人の説明によると、象が、まだ幼く体も小さい時に、地面に深く打ち込んだ頑丈な杭に縛り付けておくと、象は何度強く引っ張っても、いっこうに杭を動かすことができないので、ここから逃げ出すのは無理だと思い込んでしまうそうです。そのうち、象は試みることさえしなくなるというのです。いつしか象は成長して体も大きくなりますが、心ではこの限界を感じたままでいます。こうなると、世話係は地面に小さな杭を打ち付け、象の足に普通のロープを縛り付けさえすれば、象はどこへも行こうとしなくなるのです。何故でしょうか? それは、象が逃げ出せないと信じているからです。大きな動物が、物事を小さく考えるように調教されてしまったのです。
私たちも似たようなところがあると思います。この世の現実の社会で、「こうやれば、こうなる。これ以上にはならないし、それは現実的にはありえない・・・」ということが自己の経験や学習から刷り込まれていて、なかなか本当の信仰の世界を受け入れることができないのです。自分の頭の中で、神様の力=自分の頭で理解できる範囲という方程式を作り限界をつけているところがあると思います。偉大な神さまを、小さな弱い存在にしてしまっているのは私たち自身なのです。
先日ある方が言いました。「神さまが諦めておられないのに、どうして私たちが諦めるのですか?!」まさにその通りだと思います。私たちの家族の救いを諦めてはならないのです。病の癒やしを諦めてはならないのです。自分自身に諦めてはならないのです! 主は我が力です!

心のオアシス 2012年8月26日

私は傷だらけの人生を歩んできました」。その男性はまじめな顔をしてそう言いました。さぞかし人生の裏街道を歩いてきて苦労されたのだろうな、と同情したのですが、話しをよく聞いてみると、これまでに何回も大きな手術をして、おかげで体中傷だらけ、というお話しなのです。
 その場は笑い話で済みました。けれどもよく考えてみると、私たちは例外なく、「傷だらけの人生」を送ってきてはいないでしょうか。それまで大切に守ってきたものが突然、一瞬で崩れ去るような出来事と遭遇する。震災、事故、犯罪、リストラ、破産、突然の死別・・・そしてこれらは、私たちの心に深い傷を残すのです。傷は痛く、心は苦しむのです。ですから聖書に出会う前の私は、「傷」はあってはならないもの、傷つくことは不幸なことだと当たり前のように考えていました。ところが、聖書を開いてみて、「傷」ということばが人生の大切なキーワードの一つであることに気がついたのです。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ53章)という意味は、人類を救うために、キリストは十字架にかけられた。だから、あなたがキリストに心を向けるなら、あなたの傷もいやされるということなのです。私自身、この聖書のことばを初めて聞いたとき、正直どういう意味かまったく分かりませんでした。キリスト教会のシンボルが十字架であることも、どうしてなのかが分かりませんでした。しかし私たちは、それぞれに深く傷ついて人生を歩んでいることも事実です。その傷がいやされたいとだれもが願っているはずです。では一体だれが、この私の傷をいやしてくれるのだろうか? そう思い始めたころから、イエス・キリストのことをもっと知りたいと真理を求める旅が始まりました。もし私に傷がなかったなら、キリストを求める思いも起こらなかったでしょう。そして、もしキリストに出会っていなかったあら、「傷」を持っていても幸せになれる、という体験をすることもなかったと思います。 (クリスチャン新聞の福音版5月号より)

心のオアシス 2012年8月19日

私のビフォーアフター(S.Iさんの場合)
 私は韓国のクリスチャン家庭で生まれました。しかし成長と共に教会から遠ざかるようになり、今から20年前、日本に来てからは完全に神さまとは無関係の自分中心の生活に入りました。そのような中で子どもが生まれることで全てのことが滅茶苦茶になり暗闇の中にさまようようになりました。
 10年前に引越しすることになり、そこで教会に戻る決心をしてから1年後の2003年に洗礼を受けました。それからは、ただイエスさまだけを求めて歩み始めるようになり、現在は今までのどの時期よりも喜びと聖霊充満で忠実な教会生活を送ることができるようになりました。
 (証文の一部抜粋・編集)
 
 この方の息子さんは自閉症です。今はまだましになりましたが、数年前まで、突然家を飛び出しては、自分では家に帰れないし言葉が話せないので夜中に警察から呼び出しがくることがしばしばあったようです。夜、寝付くまで、ひと時も目が離せない生活をしておられました。でも、この息子さんがいたからこそ自分の力の限界を感じて、教会へ戻ろうと思われたのです。証文の中で息子さんのことを、「本当に可愛い子、私を救いの道に導いた伝道者」と表現しておられました。そして今では、自分たちが中心の生活から、他者に捧げる生活へ変化したとのことです。

榎本保郎先生の書物の中に、「私たちが神に用いられるとき、持っている以上の働きをすることができる。将棋の名人が優勝するのは、将棋の駒がりっぱだから優勝するのではない。駒の良い悪いではなく、さし手がじょうずかそうでないかで決まるのである。私たちは駒である。紙に書いて作ったような駒であっても、名人がそれを進めていったならば、勝利することができるのである。」神と共に歩む人生は勇気100倍!

心のオアシス 2012年8月12日

私のビフォーアフター(N.Sさんの場合)
私は転勤で東大阪に来て、慣れない育児と慣れない土地、そして主人のことなど、不安で叫びたいけど、無理やり心にフタをして我慢して過ごす日々が続いていました。叔母から紹介されて教会へ来るようになりました。娘もまだオスワリ状態で皆様にもご迷惑だったにもかかわらず、心よく受け入れてくださり、救われました。最初はただ心の拠り所ができて安心しただけでしたが、そのうちに神さまより平安をプレゼントされました。幼い頃から思っていた「人間とは・・・」の部分も解決され始め、消し去りたかった過去の醜い罪を許してくださることも知りました。「自分でもいっぱいなのに人の為に何かしなくてはいけないのかなぁ? すべて理解してからクリスチャンにならないと・・・」などと思っていましたが導かれました。委ねた方がいいのだとわかったのです。  
今では、悪いことも良いことも、どれだけこの人生を神さまは楽しませてくれるのかと毎日ニヤニヤしています。主に感謝します。もし最初に来たところが教会堂だったらずっと通ってなかったと思います。マンションの集会室だったから気兼ねせずに行けました。小崎牧師だったから心開くことができました。(かなりレベルをさげて接してくださるので!)なんなのでしょう・・・これをハレルヤと言うのですよね?! 
(証文の一部抜粋・編集)

人々の魂の救いと人生の変化を確認し、祈りの答えを体感し、この地上においても明るく、元気で、のびのびと生きることができるようになりましたという声を聞くことができるのは牧師の特権であります。ですからこの世的な報いはなくても、牧師を辞めるわけにいかないのです。これに勝る喜びは他にはありません。
イエスさまは、「あなたがたは私の証人となる」と言われました。イエス・キリストが生きておられることを、私たちの人生の中で感じ、証しできたら、どれだけ多くの人に感動を与えることができるでしょう!

心のオアシス 2012年8月5日

ハ・ヨンジョ先生の言葉です。

人生を歩んでいると、予想もしなかった嵐に襲われる場合があります。一生懸命にイエスを信じているのに、突然人生に恐ろしい嵐が襲うのです。神にすがりますが、何の応答もありません。まるで、神が眠っておられるかのようです。私たちは、イエスを信じればすべてうまくいくと考えますが、イエスを信じたからといって、病気が治るでしょうか? すべてがうまくいくでしょうか? そういかない時のほうが多いかもしれません。イエスを信じればすべてがうまくいくという程度の信仰から、もう一歩進まなければなりません。イエスを信じれば、祝福も受けますが、苦しみもあります。まことの苦しみがあった後で、まことの祝福が来ます。その前の祝福は単なる祝福であり、この世からいくらでも得ることのできる祝福です。人生には、いつも嵐が襲います。大切なのは、その嵐をどのように耐えるかです。それをどのように理解し、どのように受け取り、それによってどのように勝利するかが大切です。主がともにおられても、嵐が来ることがあります。嵐が来るとき、主が眠っておられるかのように感じることもあるでしょう。それでも、状況を恐れずにイエスを信頼することが信仰です。状況に左右されるのは、信仰の人ではありません。うまくいく時も高ぶらず、苦しい時でも落ち込まない人、いつも主を信頼する人、恐れのない人、天の平和が心の中にある人、そのような人が信仰の人です。

先週は、次回からの集会場所を変更しなければならない事態に追い込まれました。しかし大したことはありませんでした。ただ神さまが洗礼式と転入会式を、「教会堂」で行うことを望んでおられただけのことでした。誰が午前中礼拝をしていない教会堂が近くにあるなんて想像できましたか? そしてそれを貸してくださる教会があるなんて・・・。神さまが計画して動かれたら、問題は問題でなくなるのです。

心のオアシス 2012年7月29日

娘が当時小学校の2年生であった年のクリスマス・シーズンでの出来事です。クリスマスの1ヶ月ほど前から私に「今年のクリスマスは、サンタさんに新しい自転車(マウンテンバイク)を頼んだ」と言うのです。
実は、娘はサンタが誰なのか知っていながら、私に要求してきたのです。
私は、家計の予算の関係上、自転車のプレゼントは全く考えていませんでしたが、娘は諦めていませんでした。私は自転車のことは全く眼中になかったのですが、クリスマスの10日ほど前に、ある場所でマウンテンバイクが、なんと半額で売られているのを見つけて注文しました。
そのことを知らない娘は、私に何度かプレッシャーをかけてきましたが、私は相変わらずな素振りを見せながら、内心ではニヤけていました。
 届いた自転車を当時のアパートの荷物置きになっていた部屋の奥に隠しておきました。クリスマス3日前、2日前になっても、娘は私が、自転車を注文した素振りも見せないので諦めはじめました。そしてサンタさんに頼むプレゼントの希望変更をしてきたのです。「紙粘土でいい」と言うのです。そしてクリスマス前日には、「サンタさんが、いいと思うものだったら、何でもいいや!」と投げやり状態になっていました。
そして、当日の朝早く、夜の明けるよほど前に、私は起きだして隣の部屋に隠してあった自転車を取り出して、娘が寝ている部屋の隅に置きました。その朝、どのような歓声が上がったかは想像できますよね?!
人間の親は、子どもに最善を願い、期待に応えたいと願うものですが、失望させてしまうこともあるでしょう。でも、天の父なる神さまは、絶対に外すことはありません。私たちにとって最善をしてくださるのです。
私たちが祈っている祈りの答えは、すでに霊的な隣の部屋にはあるのです。それを霊の目で見て、満足することを「信仰」と言うのです。
「信仰とは、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル1:1)あなたの信仰の世界を広げたら人生もっと楽しくなりますよ!!