礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2012年7月1日

先週は寂しい出来事と嬉しい出来事が同時に起こりました。また今までの祈りの答えを見、神の言葉の成就を体感する不思議な週でした。
6月27日早朝、私たちの教会で一番長く祈られてきた、辛くともニコニコ顔の中原豊子さんが天に召されました。前の週に危険な状況になったことを知り、先週の日曜日、お祈りに行かせていただいた。痩せた豊子さんが精一杯の笑顔を見せてくれました。長男の勇樹さんは、1年位前からすでに私が行なっていた聖書入門セミナーや人生セミナーに奥様と何度も出席して多少の知識はあると思ったので、帰り際に見送りに出てくれた彼に、こう言って別れた。「もしお母さんが召されるようなことがあっても、悔いの残らないように精一杯の親孝行してください。お母さんはあなたの救いのために祈っておられました。たぶん今できる最高の親孝行はイエス様を信じてお母さんと同じ天国にいけるように信じる決心をすることだと思うよ。もしその決心ができたら、申し出てください。お母さんの前で洗礼式を行ないます。ただし情に流されてとか、勢いでというのは駄目ですよ。考えてみてください。」
その二日後、彼から電話があり「すべてを理解できたわけじゃないけど、信じて飛び込んでみないとわからないこともあると思いました。決心しましたので洗礼をお願いします」この報告をその日お母様にもしたそうです。そして次の日27日の早朝、天へ凱旋していかれました。
生かされている間に洗礼式とはいきませんでしたが、召されたその日の夜に亡骸を前にして、急遽、前々夜式と洗礼式を執り行いました。感動感動のひと時でした。豊子さんの長年の祈りの成就を見ました。それと同時に、ガンの完全な癒しも死を通して成就したのです。今はもう病の肉体を脱ぎ去って完璧な神様が与えてくださる栄光の体をいただいて、天国から私たちを見守っているのです。
そしてもう一つの奇跡・・・豊子さんのお母様の秀子さんが洗礼式の後で恵まれた表情でこう言われた。「今の私は、悲しみより喜びの方が勝っています!」    「死は勝利にのまれてしまった」(Ⅰコリント15:55)

心のオアシス 2012年6月24日

あの福島の原発の半径20キロ圏内に川内村という人口3千人の村があります。そこに89歳と88歳のご夫妻が住んでいたそうですが、なんとその村にはそのご夫妻を入れて3人しかクリスチャンがいませんでした。そして原発が津波をかぶって避難命令が出されてから10日間の避難所生活を経て、大阪に住む息子さんを頼りに移住してこられました。
ある人がこのご夫妻に質問しました。「10日間の避難所生活は大変だったでしょう?」するとこのご夫妻「いえいえ、私の今までの人生の中で最も充実した10日間でしたよ。」「え? 充実していたって、どうしてですか?」「実は、今までずっと村の人たちに『頼りにしているものが、頼りにならなくなる時がくるから、神さま信じてないと大変なことになるよ』」しかし、耳を傾ける人はいなかったそうです。なぜなら、川内村の人たちは、「地球のどこかで災害が起こっても、この村にはないだろう。飢饉がきても、この村は自給自足できる農業も水産業も畜産業もある。だから大丈夫だ」と考えていたからです。ところが、地震が起こって、津波がきて、放射能が飛び散ってから、頼りにしていたそれらの全てが駄目になりました。今まで、「これさえあれば・・・」としがみついていた保険のようなものが、ことごとく流されてしまった現実の中で目が覚めて、避難所で村の人々がこのご夫妻のところにきて言ったそうです。「あなたが言っていたことは、本当だった。是非、聖書の話をしてください。」とお願いされて集まってきた人たちに、福音を伝えることができたそうです。避難所での生活は、このようにして恵みのひと時だったとのことでした。
私たちは、流されてしまうような物のために、どれだけ時間を費やしているでしょうか? しかし、神抜きの経済は必ず崩されます。神抜きの啓発思考も長続きしません。神抜きの人生ほど不安に満ちたものはありません。「心配」とは「心を配る」と書きます。「忙しい」という字は「心を亡くす」と書きます。この世のことで思い煩い、忙しさの中に悩み苦しむことがあっても、永遠なる希望の世界があることを忘れなく!

心のオアシス 2012年6月17日

ほのぼのとするお話です。タイトルは「父の日と父の欲しかったもの」

私が小学校5年生の父の日。父に買い物に誘われた。普段から父とは仲良しだったので、喜んでついていった。行き先は御徒町。どこに行くでもなくプラプラと歩いていたら露店でバッグ類を売っていた。覗いてみると旅行用の大きな、でも薄っぺらい、お人形がたくさん描いてあるバッグがあり、手にとって見た。
「買うか?」
「いいの? でも今日は娘の日じゃなくて父の日だよ?」
「父の日だから子供に買ってあげるんだよ」
この会話をはっきりと覚えている。いいのかなーと思いながら、ニコニコ顔の父に買ってもらいました
自分が親になった今、父の気持ちが分かります。娘の笑顔が嬉しかったんだろうなぁ。流行遅れでボロボロのバッグは、未だに捨てられません。いや、一生とっとくんだろうな私。

子供から何かしてもらわないと機嫌が悪いというのは、本当の親の姿ではないでしょう。本来、父親とは、見返りなしに子供のために何かをしてあげたい・・・という気持ちを持っているものです。そして何かをしてあげることに喜びを感じるのです。
天の父なる神さまも、やはり私たちから何かをされることを望んでおられるのではありません。ただ私たちと親子の関係を楽しみたいと願っておられるのです。それは無条件に、一方的に与えてくださる父なる神の恵みです。それを喜んで受け取る私たちの笑顔を見ることが、父なる神にとっての一番の喜びなのでしょう。
ボロボロになった十字架上のイエスさまの姿は、私たちに対する最大級のプレゼントでした。私たちの罪を全部背負いたいと願っておられます。私たちは躊躇せずにその愛を受け取ることが、父なる神の御心です。

心のオアシス 2012年6月10日

2010年6月6日は、関西カルバリーフェローシップがスタートした記念日です。今月で2年になりました。思えばゼロからの開拓は二度目の経験です。一回目は今から19年前にアメリカのカルフォルニア州での開拓でした。その時は家族で派遣されましたので、ゼロではなかったように思います。家庭礼拝からの出発でした。受洗者も与えられました。しかし今回の関西での開拓は、その時とは違った形になりました。単身赴任で、しかも子供たちは海外留学で、みんなバラバラ。人間的に計画していたこととは想定外のことも起こって、果たしてどうなることやら?といった心境でした。私の心を支えたのは、創世記28章に記されているヤコブがベテルという場所で経験した出来事でした。兄エサウの怒りにふれて逃げるようにして一人旅が始まりました。ヤコブは不安で満たされていました。自分がこれから行こうとするのは未知なる場所、兄から命狙われている恐怖、一人身の寂しさ、何もない荒野の旅をまっとうできるのかという心配・・・石を枕にして寝ているときに、夢を見ました。一つのはしごが地の上に立っていて、天にまで達していて、神の使たちがそれを上り下りしている光景でした。そして神が彼のそばに立ってこう言われました。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」(28:15)
それを見たヤコブは夢から覚めて悟りました。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」
 私はこの言葉にどれだけ励まされたかわかりません。そしてスタート時点から私の背中を押すかのようにして助け手を備え、救われる人たちを与え、不思議な導きばかりが起こりました。そのことを書き出すとこのスペースでは全く足りません。まことに主がおられたのです。
 私たちの人生には、心配、恐れ、不安、孤独、痛みがつきものですが、その現実にも神がおられて、共にいてくださることを悟るならば大きな力になります。あなたの気分や感情ではなく、信仰に立ち続けて下さい。

心のオアシス 2012年6月3日

アルバート・アインシュタインは、4歳になるまで言葉を話すことがありませんでした。本を読み始めたのも7歳になってからでした。彼の担任教師の一人は、彼のことを「知的障害で、人付き合いを好まず、愚かな夢を追って途方に暮れてしまっている」と決め付けるほどでした。現代では、アインシュタインは読字障害であったと言われることもあります。しかし彼は1921年にノーベル物理学賞を受賞しました。
トーマス・エジソンは、小学校に入学するも、教師と馬が合わず中退しました。「なぜ物は燃えるのか」を知りたいと思い立ち、ワラを燃やしたところ、自宅の納屋を全焼させてしまったこともあった。これらが重なった挙句、最終的には担任の教師から「君の頭は腐っている」と吐き捨てられ、校長からも入学からわずか3ヶ月で退学を勧められました。しかし彼は多くの発明をすることになりました。
フットボールの監督になって間もないビンス・ロンバルディについて専門家は、「彼はフットボールに関して最小限の知識しか持っていないし、やる気に欠けている」と酷評しました。しかし彼は、プロフットボール史に大きな足跡を残し、彼のコーチング哲学やモチベーションを上げさせるスキルは伝説的なものとなり、名監督として名を残しました。
ウォルト・ディズニーは、何度も倒産を重ねた末、やっと勤めた地元の新聞社の編集長からも「アイデア不足」という理由で首にされました。しかし彼はやがて「ミッキー・マウス」の生みの親となり、兄と共同で設立したウォルト・ディズニー・カンパニーは350億ドルの収入を持つ国際的な大企業に発展しました。
ウィンストン・チャーチルは、小学校6年生の時に落第し、挫折と敗北を生涯繰り返し、シニアシチズン(65歳以上の高齢者)になって、英国の首相になりました。
さぁ、世があなたに与える過小評価をそのまま受け止めてはなりません。神があなたに対していだいている計画は、とてつもなく大きいのです。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(ルカ11章9節)

心のオアシス 2012年5月27日

サーカスで用いられるゾウは、待機するテントの中で地面に打ち付けられた30センチほどの杭に細いロープで繋がれているだけだそうです。ロープがピンと張り詰める範囲内で歩き回っていますが、少しでもロープに引っ張られると止まってしまうのです。あの巨大な足でちょっとはじけば、杭なんていとも簡単に吹き飛ばすことができるはずなのに、決して試そうとしないのです。
世話係は、その現象をこう説明します。ゾウがまだ幼く体も小さい時に、地面に深く打ち込んだ頑丈な杭に縛り付けておきます。するとゾウは何度強く引っ張ってもいっこうに杭を動かすことができないので、そこから逃げ出すのは無理なのだと思い込んでしまうそうです。そのうち、ゾウは試みることさえしなくなります。いつしかゾウは成長して体も大きくなりますが、心ではこの限界を感じたままでいます。こうなると、世話係は地面に小さな杭を打ち付け、ゾウの足に普通のロープを縛り付けさえすれば、どこへも行こうとしなくなるそうです。それはゾウ自身が、このロープからは逃げ出せないと信じているからです。大きな動物が、物事を小さく考えるように調教されてしまうのです。
私たちには、どれほどの可能性があるかご存知でしょうか? しかし、自分の過去の経験や傷、自分の能力の小ささの思い込みや、現実の貧しさ、環境の悪さによって、本来の能力を発揮できないまま過ごしてしまう人も少なくないと思います。可能性とは氷山のようなものです。その10パーセントだけが水面に現れていて、残りの90パーセントは水面下に隠れているのです。氷山全体が可能性であるにもかかわらず、私たちの多くは水面に現れている10パーセントしか使わないまま終わってしまうのです。しかし、私たちは神さまの助けによって、可能性を主のために最大限に用いることができるのです。
「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ・・・わたしを強くして下さるかた(神)によって、何事でもすることができる。」(ピリピ4章11・13節)

心のオアシス 2012年5月20日

先日、ある幼稚園の前を通ったときのこと、自分の子供を幼稚園に送った後、建物の周囲にあるフェンス越しの植え込みの間から、園庭で遊ぶ我が子の様子を食い入るように目で追っているお母さんの姿を見た。どこでも見かけるようなシーンですが、親の子供に対する気持ちは特別なものであり不思議なものだと思いました。なぜなら、子は生まれたときから親にとって何か益になることをしたわけでもないにも関わらず、その存在そのものが親によって受け入れられ、愛されています。子は親に迷惑ばかりかけていますが、親は子を保護し守ろうとします。大したことができるわけではないのに子の発表会に親は喜んで参加します。たとえ芸術性ゼロの絵であっても、子が描いたものは大切に保管します。何ゆえに親はそのような行動を子に対してするのでしょうか? 恐らく、神が人に対する気持ちを、親と子の中に表しておられるのではないかと思うのです。勿論、人間は肉の弱さがあり、自己中心性という罪をもっている故に、100%表すことはできないにしても、無条件で子を愛する性質を少なからず親は子に対してもっていると言えるでしょう。
何十年も前の話ですが、ある銀行に猟銃をもって押し入り、人質をとって立てこもった犯人がいました。死傷者が出た悲惨な事件でした。その犯人の母親までもが説得にあたりましたが、犯人は拒絶しました。そのときの母親の様子をニュース記者はこのようにレポートしていました。
「すべての人たちを敵にまわし、憎まれている犯人に対して、自分だけは息子の側にいてやりたいという母親の気持ちが、その後姿からにじみ出ていました。」
 世界中の人から憎まれていても、自分だけは助けてあげたい・・・これは神の私たちに対する気持ちそのものだと思います。自分勝手に生き、どうすることもできない罪の中に生きる私たちに対して、それでも一方的に受け入れ、愛し、助けたいと願われたゆえに、御子イエス・キリストを送ってくださって、私たちの罪の身代わりになってくださいました。
 信じるだけで救われるなんて、神しか考え出せない救いの方法です。

心のオアシス 2012年5月13日

19世紀末、プロイセン王フリードリヒ2世は、聖書の真理性についてチャプレンと討論しました。当時の王は、理神論者の悪影響を受け、聖書を疑っていました。「あなたの聖書が本当に神から来たものか、その証拠を説明してみよ。」王の質問に、チャプレンはこのように答えました。「一言で申し上げることができます。イスラエルです。」チャプレンの答えに、王は沈黙しました。チャプレンは、数え切れないほどの苦しみと迫害を受けたイスラエルが今も存在するという事実を挙げました。
聖書に記録として残されているイスラエルに対する迫害は、民族が形成された頃に、エジプトから激しい迫害を受けることに始まりました。それから士師の時代には、北イスラエル王国は、シリヤ軍隊の侵略と圧迫を受け続けて、後にアッシリヤによって滅ぼされました。南ユダ王国は、バビロンによって滅ぼされ、その後もユダヤ人は、ギリシアとローマ、中世期にはヨーロッパ、20世紀にはナチスの激しい迫害を受けました。しかし敵はイスラエルに勝利することができませんでした。歴史の中で自国を失い、全世界に散らされたユダヤ人はどうなったでしょうか? 1948年、イギリスによる委任統治期間が終了後、テルアビブで初代首相ベングリオンによる独立宣言が行なわれたのです。しかし、その周辺のアラブ諸国がこれを認めず、武力攻撃を開始しました。周囲をアラブに囲まれ、昨日建国したばかりのイスラエルの小さな軍隊では勝ち目がないと思われていましたが、なんとこの戦争にイスラエルは勝利するのです。これ以来、イスラエル軍とアラブ軍との間には戦争が何度も行なわれているのです。4千年にも渡る歴史を調べてみても、イスラエルの生存を説明できる言葉はありません。ただ一つ言えることは、「あなたを守り祝福する」という神のイスラエルに対する契約のゆえであります。そして「あなた(イスラエル)を祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」(創12章3節)の言葉通り、今までイスラエルを援助してきた国々は祝福されています。
神の計画を応援する者は祝福されます!私たちも選びの民なのです!

心のオアシス 2012年5月6日

先週の日曜日、午後2時から行なっている奈良・学園前の礼拝に、関東から二人の若者が訪問してくれた。一人はクリスチャンで今から15年前、本人が中学生のときにお父様を病気で天にお送りしたのですが、私がその葬儀の司式をしました。そのようなこともありましたので、私がいつも心痛めてお祈りしていた若者の一人でした。今回は、昔お世話になったからという理由で、礼拝に出ることだけを目的に来られました。それを聞きつけた友人も、「一緒に行きたい」ということでついてこられた。彼は未信者でしたが、礼拝が終わってから、「礼拝もメッセージも雰囲気も環境も最高でした。毎週でも参加したい気持ちです。今回は本当に来て良かったと思っています」と言ってくれた。二人とも喜んでくれて、大変嬉しく疲れも吹っ飛びました。
思えば今から2年前のこの時期は、関西に戻ってきたばかりで、どのように伝道をしていこうかと考え祈っていた時期でした。「私でなければ福音が届かない人たちは必ずいるはず」という、神さまからいただいた確信によって帰ってはきましたが、人間的には心配がたくさんありました。しかし、この2年間を振り返ってみれば、不思議なことばかり。まさに紅海が分かれ、その中を歩んでいるような日々でした。そしてこれからも荒野で養われる経験をしていくのだろうな~という期待感と楽しみでいっぱいです。
どうして私が関東にいるときには出会えなかった関東人が、わざわざ関西に来て福音に触れ、感動する人たちが起こされるのでしょうか? これは神さまのミステリーだと思います。神さまの計画は人の知恵では到底理解できません。何故か大阪堺市にもリバイバルの兆候が・・・
マザー・テレサは、たった3ペニーで孤児院を建てようとしました。院長のシスターは言いました。「3ペニーでは孤児院を建てることはできません。」するとテレサは微笑みながらこう答えたそうです。「よくわかっています。しかし、神さまが私と共におられるなら、この3ペニーで私はどんなことでもできるということを知っています。」アーメン!

心のオアシス 2012年4月29日

昔々、あるところに動物たちが新しい世の中の問題を解決するために、何か意味あることをしようと決めました。そこで、学校を作りました。 
カリキュラムの中に、かけっこ、木登り、水泳、そして飛行を入れました。学校を運営しやすくする為に動物たちは全ての科目を取りました。
アヒルは水泳が得意で、先生よりも上手なほどでした。しかし彼は飛行クラスはやっとのことで合格し、かけっこも苦手でした。走るのが遅いので、放課後残ってかけっこの練習をしなければなりませんでした。彼の足の水かきはひどく弱ってしまい、水泳でも平均点しか取れませんでした。
ウサギはかけっこではクラスで一番でしたが、水泳の補習で足の筋肉を使いすぎたため、いつも足がうずくようになってしまいました。
リスは木登りが大の得意でしたが、飛行クラスにはいつも悩まされていました。特に先生が木の上から下に降りるのではなく、地面から木の上まで飛び上がりなさいって言うものですから結局無理をしすぎて足をつってしまい、木登りで「C」、かけっこで「D」を取ってしまいました。
ワシは問題児で、誰の言うことも聞かないため、いつもひどいお仕置きを受けていました。木登りでは他のみんなを差し置いて一番になりましたが、自分のやり方でやるのだと言い張りました。

このお話の教訓は何でしょう? 私たちには、それぞれ違った賜物、能力、そして情熱が与えられていて、その中で実力を発揮できるようになっている、ということです。誰でも何かで満点を取れるようになっているのです。自分を他の人と比べることで、神様が本来私たちに与えてくださったすばらしい性質を見失ってしまいます。大切なのは、神に造られた者として、それぞれが自分の持てる賜物を磨き上げながら、他の人の賜物も尊重できるようになるこです。
(「チームでする教会づくり」ウェイン・コデイロ師著書より抜粋)
どのような人でも、あなたしか持っていない賜物が必ずあります!