礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2012年7月22日

マザー・テレサの言葉

 私たちはだれひとりとして、
絶対に必要な存在であるなどと
思ってはなりません。
 神はご自分のなさり方や方法をお持ちです。
 才能ある人や力量のある人の手を使って、
すべてのことを引っくり返すことを
お許しになるかもしれないのです。
 愛が織り込まれていなければ、
その働きは無駄なのです。
 神は、今までに何冊の本を読んだのか、
などとはお聞きにならないでしょう。
 けれども、神の愛のために
最善を尽くしたことがあるかどうかを
お尋ねになるでしょう。

 神の前には、全ての人は絶対に必要な高価で尊い存在です。でも、自分の才能や力量に酔いしれて、自分が世界を動かしているなどと高慢に思ってはならないというアドバイスでもあるでしょう。
 確かに歴史を調べてみるとリーダーシップや才能があっても、高慢になってしまった人々によって、間違った方向へ社会や政治を導いていったケースが数知れずあります。自分たちの力を過信して、天にまで届く塔を作ろうとした人々は、ことごとく散らされてしまいました。
 うぬぼれたり、人に厳しかったり、わがままでいるのはとても簡単なことですが、私たちは、もっと素晴らしいことのために創られました。
 私たちは、神さまに用いられるための道具です。与えられた人生で何をしたかではなく、どれだけ愛を込めて生きてきたかが問われるのです。

心のオアシス 2012年7月15日

先日は、「絶対得する先行投資」というタイトルで、「神さまのために費やす人生は必ずお得ですよ」とメッセージさせていただいたが、よく考えてみると、先行投資しておられるのは神さまの側であることに気付きました。私たちの持てる全て(肉体、経済、知恵、知識、健康、仕事etc.)は、私たちがこの地上で生きることができるように神さまから与えられているもの。すなわち神さまからの私たちに対する先行投資だということなのです。それをどのように神さまのために管理していくかが問われるのであります。預かりものを「自分のもの」として使っているならば、そこからは何も残りません。しかし、神さまのために用い始めるならば、神さまからのボーナス(祝福)が注がれるのです。この世界を、口でどう説明しても説明しきれない部分で、実際に自分が飛び込んで体験してみなければわからないものであります。  
マザー・テレサの映画の中で、私は多大な影響を受けたシーンがある。マザーの働きが外部に知られるようになって、いろいろな団体から献金が届くようになった。彼らはまず集まった小切手を、他の困っている宣教団体や診療所などへの献金として仕分けして、最後に自分たちが建設しようとしている平和の村のための取り分にしようとしたのですが、自分たちが受け取る小切手は一枚も残っていません。そこでその中の一人がこう言います。「2千ドルを送ろうとしている団体は急がないので後回しにして、まずは私たちの必要に用いましょう。」しかしマザーは、「そのまま送ってください。神さまはせっかちなお方ではないから。」
私たちの教会は開拓なので、支援してもらいたい立場ではありますが、他者を支援することによる祝福を実践し今年の4月からイスラエルへの新移民であるルベン&ナターリア・ベシャダさんたちを、B.F.P.Japanを通しサポートし始めた。どうなったと思いますか? 教会への献金額が支援を始めたその月から毎月1.5倍増えたのです。去年の3月には、まるまる3月分の献金を被災地へ送ると、次の月に受洗者が2名与えられ東大阪での集会が始まりました。神に捧げる人生こそが本当の豊かさです。

心のオアシス 2012年7月8日

この地上における私たちの時間、エネルギー、知性、機会、人間関係、そして財産などはすべて、神から大切に管理するように任されている賜物です。私たちは、これらを管理する立場にあるわけです。この管理という概念は、神がいっさいのものの所有者であられるという認識に基づいています。聖書によれば、「世界とその中にあるすべてのものは主のものである。地球とその中に住むものはすべて主のものである」のです。
この地上にいるわずかの間、私たちが本当の意味で所有しているものなど何一つありません。すべてのものは、私たちがこの地上にいる間、神が一時的に貸してくださっているにすぎません。あなたが生まれる前は神のものでしたし、あなたが死んだ後はまた誰かに貸し出されるのです。ただしばらくの間、持たせていただいているというだけなのです。
       「人生を導く5つの目的」リック・ワーレン著より抜粋

人生は預かりものです。私たちが、この地上で生きていくために必要なものを貸し出してくださっているのです。それは、ある人が旅に出るとき、しもべに財産を預けておくようなものです。ある者には5タラント、ある者には2タラント、ある者には1タラントを預けました。それをどのように管理するかを試すようなものです。
私たちは、神さまから預かった人生を、その人生の管理者として、神さまのために有効活用することが求められています。ノルマはありません。ただこれは神さまからの預かり物だという意識があるかないかが重要なのです。もし、自分の人生は自分のもので、自分で働いて、自分が儲けて、自分のために使って何が悪いというならば、それは神から与えられたものを地の中に隠しているような人生だということが言えるでしょう。
私たちが、この地上での人生が終わったときに、清算する時があると聖書は教えます。神に投資する人生は絶対ハズレがありません。神さまから預かった「わたし」を大切に使いましょう!

心のオアシス 2012年7月1日

先週は寂しい出来事と嬉しい出来事が同時に起こりました。また今までの祈りの答えを見、神の言葉の成就を体感する不思議な週でした。
6月27日早朝、私たちの教会で一番長く祈られてきた、辛くともニコニコ顔の中原豊子さんが天に召されました。前の週に危険な状況になったことを知り、先週の日曜日、お祈りに行かせていただいた。痩せた豊子さんが精一杯の笑顔を見せてくれました。長男の勇樹さんは、1年位前からすでに私が行なっていた聖書入門セミナーや人生セミナーに奥様と何度も出席して多少の知識はあると思ったので、帰り際に見送りに出てくれた彼に、こう言って別れた。「もしお母さんが召されるようなことがあっても、悔いの残らないように精一杯の親孝行してください。お母さんはあなたの救いのために祈っておられました。たぶん今できる最高の親孝行はイエス様を信じてお母さんと同じ天国にいけるように信じる決心をすることだと思うよ。もしその決心ができたら、申し出てください。お母さんの前で洗礼式を行ないます。ただし情に流されてとか、勢いでというのは駄目ですよ。考えてみてください。」
その二日後、彼から電話があり「すべてを理解できたわけじゃないけど、信じて飛び込んでみないとわからないこともあると思いました。決心しましたので洗礼をお願いします」この報告をその日お母様にもしたそうです。そして次の日27日の早朝、天へ凱旋していかれました。
生かされている間に洗礼式とはいきませんでしたが、召されたその日の夜に亡骸を前にして、急遽、前々夜式と洗礼式を執り行いました。感動感動のひと時でした。豊子さんの長年の祈りの成就を見ました。それと同時に、ガンの完全な癒しも死を通して成就したのです。今はもう病の肉体を脱ぎ去って完璧な神様が与えてくださる栄光の体をいただいて、天国から私たちを見守っているのです。
そしてもう一つの奇跡・・・豊子さんのお母様の秀子さんが洗礼式の後で恵まれた表情でこう言われた。「今の私は、悲しみより喜びの方が勝っています!」    「死は勝利にのまれてしまった」(Ⅰコリント15:55)

心のオアシス 2012年6月24日

あの福島の原発の半径20キロ圏内に川内村という人口3千人の村があります。そこに89歳と88歳のご夫妻が住んでいたそうですが、なんとその村にはそのご夫妻を入れて3人しかクリスチャンがいませんでした。そして原発が津波をかぶって避難命令が出されてから10日間の避難所生活を経て、大阪に住む息子さんを頼りに移住してこられました。
ある人がこのご夫妻に質問しました。「10日間の避難所生活は大変だったでしょう?」するとこのご夫妻「いえいえ、私の今までの人生の中で最も充実した10日間でしたよ。」「え? 充実していたって、どうしてですか?」「実は、今までずっと村の人たちに『頼りにしているものが、頼りにならなくなる時がくるから、神さま信じてないと大変なことになるよ』」しかし、耳を傾ける人はいなかったそうです。なぜなら、川内村の人たちは、「地球のどこかで災害が起こっても、この村にはないだろう。飢饉がきても、この村は自給自足できる農業も水産業も畜産業もある。だから大丈夫だ」と考えていたからです。ところが、地震が起こって、津波がきて、放射能が飛び散ってから、頼りにしていたそれらの全てが駄目になりました。今まで、「これさえあれば・・・」としがみついていた保険のようなものが、ことごとく流されてしまった現実の中で目が覚めて、避難所で村の人々がこのご夫妻のところにきて言ったそうです。「あなたが言っていたことは、本当だった。是非、聖書の話をしてください。」とお願いされて集まってきた人たちに、福音を伝えることができたそうです。避難所での生活は、このようにして恵みのひと時だったとのことでした。
私たちは、流されてしまうような物のために、どれだけ時間を費やしているでしょうか? しかし、神抜きの経済は必ず崩されます。神抜きの啓発思考も長続きしません。神抜きの人生ほど不安に満ちたものはありません。「心配」とは「心を配る」と書きます。「忙しい」という字は「心を亡くす」と書きます。この世のことで思い煩い、忙しさの中に悩み苦しむことがあっても、永遠なる希望の世界があることを忘れなく!

心のオアシス 2012年6月17日

ほのぼのとするお話です。タイトルは「父の日と父の欲しかったもの」

私が小学校5年生の父の日。父に買い物に誘われた。普段から父とは仲良しだったので、喜んでついていった。行き先は御徒町。どこに行くでもなくプラプラと歩いていたら露店でバッグ類を売っていた。覗いてみると旅行用の大きな、でも薄っぺらい、お人形がたくさん描いてあるバッグがあり、手にとって見た。
「買うか?」
「いいの? でも今日は娘の日じゃなくて父の日だよ?」
「父の日だから子供に買ってあげるんだよ」
この会話をはっきりと覚えている。いいのかなーと思いながら、ニコニコ顔の父に買ってもらいました
自分が親になった今、父の気持ちが分かります。娘の笑顔が嬉しかったんだろうなぁ。流行遅れでボロボロのバッグは、未だに捨てられません。いや、一生とっとくんだろうな私。

子供から何かしてもらわないと機嫌が悪いというのは、本当の親の姿ではないでしょう。本来、父親とは、見返りなしに子供のために何かをしてあげたい・・・という気持ちを持っているものです。そして何かをしてあげることに喜びを感じるのです。
天の父なる神さまも、やはり私たちから何かをされることを望んでおられるのではありません。ただ私たちと親子の関係を楽しみたいと願っておられるのです。それは無条件に、一方的に与えてくださる父なる神の恵みです。それを喜んで受け取る私たちの笑顔を見ることが、父なる神にとっての一番の喜びなのでしょう。
ボロボロになった十字架上のイエスさまの姿は、私たちに対する最大級のプレゼントでした。私たちの罪を全部背負いたいと願っておられます。私たちは躊躇せずにその愛を受け取ることが、父なる神の御心です。

心のオアシス 2012年6月10日

2010年6月6日は、関西カルバリーフェローシップがスタートした記念日です。今月で2年になりました。思えばゼロからの開拓は二度目の経験です。一回目は今から19年前にアメリカのカルフォルニア州での開拓でした。その時は家族で派遣されましたので、ゼロではなかったように思います。家庭礼拝からの出発でした。受洗者も与えられました。しかし今回の関西での開拓は、その時とは違った形になりました。単身赴任で、しかも子供たちは海外留学で、みんなバラバラ。人間的に計画していたこととは想定外のことも起こって、果たしてどうなることやら?といった心境でした。私の心を支えたのは、創世記28章に記されているヤコブがベテルという場所で経験した出来事でした。兄エサウの怒りにふれて逃げるようにして一人旅が始まりました。ヤコブは不安で満たされていました。自分がこれから行こうとするのは未知なる場所、兄から命狙われている恐怖、一人身の寂しさ、何もない荒野の旅をまっとうできるのかという心配・・・石を枕にして寝ているときに、夢を見ました。一つのはしごが地の上に立っていて、天にまで達していて、神の使たちがそれを上り下りしている光景でした。そして神が彼のそばに立ってこう言われました。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」(28:15)
それを見たヤコブは夢から覚めて悟りました。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」
 私はこの言葉にどれだけ励まされたかわかりません。そしてスタート時点から私の背中を押すかのようにして助け手を備え、救われる人たちを与え、不思議な導きばかりが起こりました。そのことを書き出すとこのスペースでは全く足りません。まことに主がおられたのです。
 私たちの人生には、心配、恐れ、不安、孤独、痛みがつきものですが、その現実にも神がおられて、共にいてくださることを悟るならば大きな力になります。あなたの気分や感情ではなく、信仰に立ち続けて下さい。

心のオアシス 2012年6月3日

アルバート・アインシュタインは、4歳になるまで言葉を話すことがありませんでした。本を読み始めたのも7歳になってからでした。彼の担任教師の一人は、彼のことを「知的障害で、人付き合いを好まず、愚かな夢を追って途方に暮れてしまっている」と決め付けるほどでした。現代では、アインシュタインは読字障害であったと言われることもあります。しかし彼は1921年にノーベル物理学賞を受賞しました。
トーマス・エジソンは、小学校に入学するも、教師と馬が合わず中退しました。「なぜ物は燃えるのか」を知りたいと思い立ち、ワラを燃やしたところ、自宅の納屋を全焼させてしまったこともあった。これらが重なった挙句、最終的には担任の教師から「君の頭は腐っている」と吐き捨てられ、校長からも入学からわずか3ヶ月で退学を勧められました。しかし彼は多くの発明をすることになりました。
フットボールの監督になって間もないビンス・ロンバルディについて専門家は、「彼はフットボールに関して最小限の知識しか持っていないし、やる気に欠けている」と酷評しました。しかし彼は、プロフットボール史に大きな足跡を残し、彼のコーチング哲学やモチベーションを上げさせるスキルは伝説的なものとなり、名監督として名を残しました。
ウォルト・ディズニーは、何度も倒産を重ねた末、やっと勤めた地元の新聞社の編集長からも「アイデア不足」という理由で首にされました。しかし彼はやがて「ミッキー・マウス」の生みの親となり、兄と共同で設立したウォルト・ディズニー・カンパニーは350億ドルの収入を持つ国際的な大企業に発展しました。
ウィンストン・チャーチルは、小学校6年生の時に落第し、挫折と敗北を生涯繰り返し、シニアシチズン(65歳以上の高齢者)になって、英国の首相になりました。
さぁ、世があなたに与える過小評価をそのまま受け止めてはなりません。神があなたに対していだいている計画は、とてつもなく大きいのです。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(ルカ11章9節)

心のオアシス 2012年5月27日

サーカスで用いられるゾウは、待機するテントの中で地面に打ち付けられた30センチほどの杭に細いロープで繋がれているだけだそうです。ロープがピンと張り詰める範囲内で歩き回っていますが、少しでもロープに引っ張られると止まってしまうのです。あの巨大な足でちょっとはじけば、杭なんていとも簡単に吹き飛ばすことができるはずなのに、決して試そうとしないのです。
世話係は、その現象をこう説明します。ゾウがまだ幼く体も小さい時に、地面に深く打ち込んだ頑丈な杭に縛り付けておきます。するとゾウは何度強く引っ張ってもいっこうに杭を動かすことができないので、そこから逃げ出すのは無理なのだと思い込んでしまうそうです。そのうち、ゾウは試みることさえしなくなります。いつしかゾウは成長して体も大きくなりますが、心ではこの限界を感じたままでいます。こうなると、世話係は地面に小さな杭を打ち付け、ゾウの足に普通のロープを縛り付けさえすれば、どこへも行こうとしなくなるそうです。それはゾウ自身が、このロープからは逃げ出せないと信じているからです。大きな動物が、物事を小さく考えるように調教されてしまうのです。
私たちには、どれほどの可能性があるかご存知でしょうか? しかし、自分の過去の経験や傷、自分の能力の小ささの思い込みや、現実の貧しさ、環境の悪さによって、本来の能力を発揮できないまま過ごしてしまう人も少なくないと思います。可能性とは氷山のようなものです。その10パーセントだけが水面に現れていて、残りの90パーセントは水面下に隠れているのです。氷山全体が可能性であるにもかかわらず、私たちの多くは水面に現れている10パーセントしか使わないまま終わってしまうのです。しかし、私たちは神さまの助けによって、可能性を主のために最大限に用いることができるのです。
「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ・・・わたしを強くして下さるかた(神)によって、何事でもすることができる。」(ピリピ4章11・13節)

心のオアシス 2012年5月20日

先日、ある幼稚園の前を通ったときのこと、自分の子供を幼稚園に送った後、建物の周囲にあるフェンス越しの植え込みの間から、園庭で遊ぶ我が子の様子を食い入るように目で追っているお母さんの姿を見た。どこでも見かけるようなシーンですが、親の子供に対する気持ちは特別なものであり不思議なものだと思いました。なぜなら、子は生まれたときから親にとって何か益になることをしたわけでもないにも関わらず、その存在そのものが親によって受け入れられ、愛されています。子は親に迷惑ばかりかけていますが、親は子を保護し守ろうとします。大したことができるわけではないのに子の発表会に親は喜んで参加します。たとえ芸術性ゼロの絵であっても、子が描いたものは大切に保管します。何ゆえに親はそのような行動を子に対してするのでしょうか? 恐らく、神が人に対する気持ちを、親と子の中に表しておられるのではないかと思うのです。勿論、人間は肉の弱さがあり、自己中心性という罪をもっている故に、100%表すことはできないにしても、無条件で子を愛する性質を少なからず親は子に対してもっていると言えるでしょう。
何十年も前の話ですが、ある銀行に猟銃をもって押し入り、人質をとって立てこもった犯人がいました。死傷者が出た悲惨な事件でした。その犯人の母親までもが説得にあたりましたが、犯人は拒絶しました。そのときの母親の様子をニュース記者はこのようにレポートしていました。
「すべての人たちを敵にまわし、憎まれている犯人に対して、自分だけは息子の側にいてやりたいという母親の気持ちが、その後姿からにじみ出ていました。」
 世界中の人から憎まれていても、自分だけは助けてあげたい・・・これは神の私たちに対する気持ちそのものだと思います。自分勝手に生き、どうすることもできない罪の中に生きる私たちに対して、それでも一方的に受け入れ、愛し、助けたいと願われたゆえに、御子イエス・キリストを送ってくださって、私たちの罪の身代わりになってくださいました。
 信じるだけで救われるなんて、神しか考え出せない救いの方法です。