礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2013年2月10日

何年か前に神学校で学んでおられた学生の体験談です。
彼がイエス・キリストと出会う10年前に交通事故で身体的なハンディを負い、それから精神的にも障がいが出て、薬漬けの毎日で、人格は変わり、薬なしでは生きることができなくなりました。夜に突然暴れだし、家の中は滅茶苦茶、奥様も裸足で家から逃げ出すことも度々あったという10年間でした。そんな生活から心機一転するために彼は3ヶ月間、静養と将来やってみたかった牧場の下見をするために単身でオーストラリアへ渡りました。ところが頼りにしていた知人が突然亡くなられて、現地で身動きがとれなくなってしまったのです。そのまま日本に帰ることもできず、不思議な出会いからティーンチャレンジという薬物更生施設でボランティア・スタッフをすることになりました。その施設は、他の施設とは違い、薬物中毒患者に対して、薬物治療を行うのではなく、朝から晩まで賛美歌を歌い聖書の言葉に触れさせて、薬物依存から解放させるというクリスチャンの施設だったのです。そこに最初、死んだような目をして入所してくるのですが、1・2ヶ月するうちに輝いた目に変化していって薬物から解放されてそこから出ていくのです。彼は何がそうさせているのかわかりませんでしたが、スタッフとしてその中で手伝いをしながら毎日賛美して聖書に触れているうちに、自分自身が癒されているのに気がつきました。そして日本からはビニール袋いっぱいの薬を持参していたのですが、それらなしでも生きることができるようになりました。「聖書の神さまは生きておられる」と実感して、現地の教会で洗礼を受けたのです。それから3ヶ月後、日本に帰国してからの病院での診断結果は、C型肝炎完治、テンカンの完治、精神疾患の完治の宣言でした。ご主人が3ヶ月で別人のように変わった姿を見て、自分も神さまを信じますと、洗礼を受けられました。
 あなたも神にある不思議な力を体感してみてはいかがですか?!

心のオアシス 2013年2月3日

最近、複数の方々から、自分と神さまとの関係を優先するようになってから悩んでいたことや問題が自然と解決しましたという報告を聞きました。その方々は神さまとの会話(祈り・聖書を読み瞑想)の時間を工夫されて継続することによって、気づいたら問題が問題でなくなってしまったというのです。祈りの力を私も何度も体験しています。
ある教会で配布された「祈りの学校」という資料の一部を紹介します。

私たちは無力になった時、本気で祈り出します。その時は「神様は聞いて下さらない」、そう訴えるかもしれません。しかし、実際に神様はもう祈りに答えて下さっているのです。無力さの中で神様に心の戸を開いた時、神様は既にあなたの所に来ておられ良い業を始めています。祈りは答えられています。しかし、すぐにその答えを理解することができません。私たちはせっかちで、忍耐が足りないので誤解していることが多いのです。それをよそ目に静かに働きを進められる「イエスは彼らに答えて言われた、『わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう』(ヨハネ13章7節)。神様は、私たちがすぐに理解できない程多くの答えや恵の業を用意しておられるのです。ですから、祈る時に無力さを感じても、思い煩ってはいけません。ましてや無力さによって祈りが妨げられているなんてことはないのです。無力を通して、神様に目を向け、心の戸を開くことが出来るのです。

祈りは万民に与えられている救いの最終手段です。祈りは神さまとの会話です。難しく考えないで、思うことを申し上げてみてください。ヘンリー・ナウエンは、祈りに集中することができない難しさと葛藤を覚えながらこう祈りました。「どうか、わたしの心の傲慢さを、疲労を、いらだちを、不信仰なさすらいを、そのまま受け入れてください。あなたはわたしという人間を、余す所なくご存知です。」祈りは心の呼吸です。

心のオアシス 2013年1月27日

それぞれの会社にはクレームを処理する部署があります。特に飲食業であれば、毎日たくさんのクレームが届くそうです。そんな中、絶対数はクレームに比べて少ないのですが、「ありがとう」という感謝の手紙やメールもあるそうです。そのサンキューレターのほとんどは、同じような場面での「ありがとう」だというのです。ミスタードーナツに送られてきたそれを数件分ご紹介いたします。
● 福島西口ショップへ
1月3日に子供とお店を利用しました。店内で飲食している時に、子供が食べかけのドーナツを落としてしまったのですが、無償で新しいドーナツを持ってきてくれました。お礼が遅くなってしまったのですが、子供も喜んでいたと伝えてください。
● イオンモール新瑞橋ショップへ
お正月ころの出来事ですが、私の不注意で会計前のドーナツを落としてしまいました。店員さんは嫌な顔せずに、取り替えていただきました。その時のお礼を言いたいのですが、なかなか店舗に行くことができず、まだお礼を言えていない状況です。
● 静岡城北ショップへ
今日お店を利用した際に、私がテーブルにジュースをこぼしました。店員さんがすぐに対応してくださり、お皿にあったパイまで全て交換していただきました。ご迷惑かけましたのにありがとうございました。

 お客さんが、自分のミスで商品を落としたり、こぼしてしまったにも関わらず、お店側が無償で交換してくれたことに対する感謝ばかりです。
 神さまは私たちのミス(罪)の尻拭いしてくださっただけではなく、無償で天国への切符を提供してくださっています。私たちはその神さまのご好意を感謝して受け止めているでしょうか?? 

心のオアシス 2013年1月20日

神が置いてくださった所で咲きなさい。
仕方ないとあきらめないで咲くのです。
咲くということは、自分が幸せに生き、他人も幸せにすることです。
咲くというのは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、私は幸せなのだ、ということを、示して生きることなのです。
神が私をここに置いてくださった、それは素晴らしいことであり、ありがたいことだと、あなたのすべてが、語っていることなのです。
置かれていた所で、精一杯咲くと、それがいつしか、花を美しくするのです。
神が置いてくださっている所で咲きなさい。
(ラインホルド・ニーバー)

 人生を悟りきった人は、「運命だから仕方ない」と諦めます。諦められない人は、「どうして?」と不平も漏らします。しかし神を知っている人は、「神がここに置いてくださった」と、神のご摂理に従い、それを喜ぶことができます。そして精一杯咲こうと努力するのです。そしてどのような花が咲くかは神に任せます。それが「委ねる」の意味です。
 
 先週の成人の日に京都で行われた新年聖会に出席しました。知人牧師の計らいで世界最大のプロテスタント教会、ヨイド純福音教会堂会長のリー・ヨンフン牧師とお話もできました。何よりも感動させられたことは、博士号を持っておられる頭の良い先生方が本気で、「神さまには不可能はない!」と信じておられ、祈ることを最優先しておられる姿だった。「ミーティングを長くしてもリバイバルは起こりません。教会は祈るところです!」と、新宿に15億円の8階建てのビルを会堂献金のアピールなしで購入することができたというお話しをされていた。それを聞きながら励まされました。「同じ神を信じる私たちにも不可能はない!」

心のオアシス 2013年1月13日

No.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly one

花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた
人それぞれ好みはあるけど どれもみんな綺麗だね
この中で誰が一番だなんて 争う事もしないで
バケツの中 誇らしげに しゃんと胸を張っている

それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのに その中で 一番になりたがる?
そうさ僕らは 世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい

小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
No.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one

これは「世界で一つだけの花」というヒット曲の歌詞です。日本の教育や社会は、綺麗な方が良いとか、偏差値が高い方が良いとか、仕事の成績が良い方に価値があるかのように教えています。そしていつの間にか私たちも、そういった考え方が頭にインプットされていくうちに他者と比べて優越感に浸ったり、劣等感を感じたりしながら生きています。これは神の目から見たら間違いです。神さまは、あなたをあなただけしか持っていない独特なユニークな存在として造ってくださいました。世界で特別なオンリー ワンなのです。人生とは、精一杯オンリー ワンを輝かせることです。
子供達もそのような価値観の中で成長していって欲しいと願います。

心のオアシス 2013年1月6日

私は大学を卒業してから、帰国してから大阪で就職しました。仕事をしながら、様々な現実を前にして、次第に下ばかり、現実ばかりを見て、心は砂漠状態になり苦しんでいました。何か長いトンネルに入っているようで、いつまでもそこから抜け出そうにない感覚にさえなっていました。そんなある日、それは私が留学時代に、その大学のキャンパスでアルバイトをしていたときの上司であったリース・ロジャースから一通の手紙が届きました。その手紙に大変励まされて今でも時々思い起こしては、励まされることが度々あります。

その手紙の内容の一部を抜粋します。

「これで、ペンを置きます。もし主が、この地上で、我々を再会させる機会をくださらなかったとしても、この地上での人生が終わった時、もう一つの場所、天で会うことができます。それは、我々が待ち望んでいる所です。又、一緒になることができるのですから、主が来られるその日のことを考えていてください。それまでKeep looking up(上を見上げて歩んでください)神様の恵みによって、そこでお会いしましょう。 キリストにあって リース」

 昔、「上を向いて歩こう」というフレーズの曲が流行りました。この曲は大ヒットしました。多くの人たちは前向きに生きようと励まされましたが、その助けがどこから来るのかを知っている人はほとんどいませんでした。前向きに生きた結果、日本は経済大国になりました。しかし自分たちが築き上げた文明・文化によって、やがては自分たちの首を絞めることになっていったのです。私が言いたいことは、永遠の天国に繋がる神の助けでなければ、本当の助けにはならないということです。例えこの地上において報われないようなことがあったとしても、最終ゴールは、世の成功ではなく、天国にあることを知っているならば、希望に満ちた幸せな人生を送ることができます。この地上にて再会の希望がなくても、天での再会に希望を託せるなんて何と幸いなことでしょうか。

心のオアシス 2013年1月元日

新年明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いいたします。

関西カルバリーフェローシップ
牧師 小崎淳広

昨年のクリスマスイブ礼拝では、「あなたには夜がある」というタイトルでメッセージさせていただいた。このタイトルは私の恩師である大川従道師が、何十年も昔にされたメッセージタイトルであった。
確かに多くの人たちは、大きな不安から目をそらして、誤魔化しながら生きてきた。心の闇を闇と認めないし、認めたくないのである。これさえあれば安心だというものを求めて旅をしている。しかしそれを手にしても、そんな安心なんて一時的な気休めみたいなものであって、永続的な安心には繋がらないことを悟るのである。
そして今年の初詣礼拝のメッセージタイトルを「あなたにも朝は来る」とした。対照的ではあるが、そうやってバランスを考えているのである。人生の夜に気づかない人がいる一方、闇の中を迷走して、自分には希望はないと諦めている人たちもいる。そのような人たちに、「あなたにも必ず朝は来る!」ということを知って欲しいのである。出口のないトンネルはありません。神さまは、私たちに耐えられないような試練にあわせることはないというのが聖書の約束である。あなたにはすでに希望はありますが、雲霧が多くて、それが見えないこともあるでしょう。その時には是非、上を見上げてください。あなたの人生を握っておられるお方が誰であるのかを考えてみて欲しいのです。そこに答えがあります。
今年の教会の聖書箇所です。
「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。・・・・・昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。」(詩篇121篇1~3・6~8節)

心のオアシス 2012年12月30日

「足跡」

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりの足跡が残されていた。
ひとつはわたしの足跡、もう一つは主の足跡であった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは砂の上の
足跡に目を留めた。
そこには一つの足跡しかなかった。
わたしの人生で一番辛く、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みに
ついて主にお尋ねした。「主よ。わたしがあなたに従う決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生の一番辛い時、ひとりの足跡しかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛し
ている。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。足跡がひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」
(マーガレット・パワーズ)

今年はどのような年でしたか? 振り返って見ると必ずしも嬉しいことや楽しいことばかりではなかったでしょう。辛いことも悲しいことも人生にはつきものです。でも主が、私たちからひと時も離れないで、共に歩んでくださった足跡を見つけることのできる人は幸いです。何回、ひとりの足跡しかなかったことがありましたか? それはイエス様から背負われた回数です。感謝しつつ新しい年を迎えましょう!

心のオアシス 2012年12月23日

1897年、バージニアという8歳の少女から、「サンタクロースって本当にいるの?」いう手紙を受け取った「ニューヨーク・サン新聞」の記者は、それに対する答えを新聞社の顔ともいうべき社説に、その答えを出しました。それが、世界中で大反響を呼び、世界で最も有名な社説のひとつとなり、本にもなりました。大まかなやり取りです。

ニューヨーク・サン紙さま
わたしは、8才の女の子です。私の友だちは「サンタクロースなんていない」と言います。パパに聞いたら「もしサン新聞の記者さんに聞いて、サンタクロースが本当にいると言われたら、そのとおりだと思うよ」と言いました。だから本当のことを教えてください。サンタクロースは、本当にいるんですか? バージニア・オハロン 西495番街115番

バージニアへ
君の友だちは、まちがっていますよ。その子たちはきっと、疑い病にかかっているんだと思います。人は自分に見えるものだけしか信じないし、自分の小さな心で理解できないことは何でも否定してしまいます。
 もし、サンタクロースがいないとするならば、あなたは手に触れられるもの、目に見えるもの以外で、幸せを感じたことはないですか? 目に見えなくても、手に触れられなくても、幸せって感じられるはずです。ひょっとすると、それがサンタクロースなのかもしれませんね」
1897年12月24日 ニューヨーク・サン紙

神様は目で見えなくても、手で触れることができなくても、たとえその存在を否定しても、どのような人の中にも、確かに共に生きて働いておられます。そして、クリスマスは、その存在が明らかにされた日です。
「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」(ルカ2章11節)

心のオアシス 2012年12月16日

先日こんな投稿を見つけて考えさせられた。
俺が23歳の頃、就職1年目の冬、俺の誕生日の日のこと。職場の人たちが「誕生パーティーをしてあげる!」というので、家に「今日は遅くなるよ。ご飯いらないから。」と電話を入れたら、父が「今日はみなさんに断って、早く帰ってきなさい。」と言う。「だってもう会場とってもらったみたいだし、悪いから行く。」と俺が言うと、いつもは温厚な父が、「とにかく今日は帰ってきなさ、誕生日の用意もしてあるから。」とねばる。「???」と思いながら、職場のみんなに詫びを入れて帰宅した。家にはその春から胸膜炎で療養中の母と、その父。食卓にはスーパーで売ってるような鶏肉のもも肉のローストしたみたいなやつとショートケーキが3つ。「なんでわざわざ帰らせたの?! 俺だってみんなの手前、申し訳なかったよ!」と言ってしまった。父は何か言ったと思うが、覚えていない。母が、「ごめんね。明日でも良かったね。」と涙ぐんだ。俺は言い過ぎたな、と思った。でも謝れず、黙々と冷えた鶏肉とケーキを食べて部屋に戻った。その2ヶ月後、母の容態が急変し入院した。仕事帰りに病院に行くと、父がいた。廊下の隅で、「実はお母さんは春からガンの末期だとわかっていたんだよ。隠していてごめん。」とつぶやいた。呆然として家に帰ったあと、母の部屋の引き出しの日記を読んだ。あの誕生日の日のページに「○男に迷惑をかけてしまった。」とあった。ワーッと声を出して泣いた。何時間も「ごめんね。」といいながら泣いた。4、5日して母は亡くなった。仕事を辞めて、看病していた父も数年前に亡くなった。父が準備したささやかな誕生日パーティーをどうして感謝できなかったのか。母にとっては最後だったのに・・・。
切ない話ですね。主人公抜きのクリスマスは、たとえ沢山の人たちが集まってパーティーをしても本当は寂しいものなのです。クリスマスは神さまが準備してくださった、私たちへの愛と救いの証なのです!