礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2011年1月23日

1860年代、米国シカゴにホレーショウ・スパフォードというクリスチャンの実業家がいました。彼の事業は大きな成功を収め、愛する妻、息子、4人の娘たちと幸せな家庭を築いていました。通っている教会においても大きな貢献をしていました。
 1871年。そんな幸せに満ちた彼の家庭に悲劇が訪れました。シカゴの大火事によって息子を失い、彼の事業にも大きな損害を受けました。しかしそんな状況に追いやられたにもかかわらず、彼と妻は大火によって被害を受けた人々のために財と時間を費やし捧げ、多くの人々に助けと励ましを与えました。
 ある時、彼と家族はヨーロッパで休暇を過ごすために汽船を予約しますが、スパフォードだけが仕事の関係でやむなく別の便でヨーロッパに向かうことになりました。先にヨーロッパに向かった彼の妻と娘たちを乗せた汽船は航海中に船と衝突し、彼の妻は救助されましたが、娘たちを全て失いました。
 スパフォードはその悲報を受けて妻の待つヨーロッパに向かい、航行中の汽船のデッキから娘たちを呑み込んだ海を深い悲しみの中、見つめました。そんな悲しみに打ちひしがれた彼の心は誰にも慰めることは出来ないはずでした。しかし大海原を見つめる彼の心を驚くほどの平安が包み込み始めたのです。「愛する娘たちとは再び天国で必ず会える!」その慰めを直接神さまから与えられました。そしてその時に書き記した詩が、教会で愛される讃美歌となったのです。

 安けさは川のごとく 心 浸す時 
悲しみは波のごとく わが胸 満たす時 
全て 安し 御神 共にませば     (神聖歌252番)

人はその意のままに神が動くことを奇跡と呼びますが、本当の奇跡とは、神の意のままに人間が従うことをいうのです。

心のオアシス 2011年1月16日

私たちは、神という存在を見て、直接声をかけられることを望み、奇跡を見せていただくことを願います。でも、心の眼を開くならば、すでに声を発せられ、奇跡を起こしている神さまを見ることができることにお気付きでしょうか? 見つけた英語の詩を訳してみました。

人がささやきました。「神さま! 私に語りかけてください。」
その時、ひばりが歌いました。でも人には聞こえませんでした。

人は叫びました。「神さま! 話してください!」
するとカミナリが空に響き渡りました。でも人には聞こえませんでした。

人は見回して言いました。「神さま! あなたを見させてください。」
すると星が明るく輝きました。でも人は見ませんでした。

人は大きく叫びました。「神さま! 奇跡を見せてください。」
すると、生命が生まれました。でも人は気付きませんでした。

 人は絶望の中で、大声で泣き叫びました。「神さま触れてください。
ここにおられることを教えてください。」
 そこで神さまは手を伸ばして、その人に触れました。
でも人は、そのチョウを払いのけました。そして歩き続けたのです。

 私は神様が、小さな単純な出来事の中にも、私たちの回りにいつもいてくださるということを示してくださっていることに気付きました・・・

 神さまは毎日毎日、今の瞬間瞬間に、何らかの形で声を発せられ、姿を見せられ、奇跡を行なっておられます。今日は何回神さまの声を聞くことができましたか? 神さまを見ましたか?

心のオアシス 2011年1月9日

「ひとりぼっちでない ひとりぼっちになってみたい」。数年間の結婚生活が破れ、その後、都会に出て一人で生活しながら働いている卒業生からの手紙にそう書いてあった。「今の私は、本当の『ひとりぼっち』なのです。」この人が言いたいことは、人間というものは結局ひとりぼっちなのだ、ということは良くわかっているのだけれども、そのような理解、そのような諦めを、愛し、愛されている状況の中で味わってみたいということのようだ。これは一種の贅沢というものだろう。しかしながら、このような願いを誰もが多かれ少なかれ抱いているということも、また事実である。自分を無条件に受け留めてくれる大きな手の中での安定感を持ちながら、人間の本質的孤独にひたれる人は、だから、幸せな人と言わねばなるまい。それはあたかも、喫茶店なりレストランに入って、人を待っている時の気持ちにも似ている。遅れて来るかもしれないが確実にやって来て、自分の正面に腰をおろすであろう人を待っている時には、周囲がどれほどさんざめいていようが、カップルが楽しげに食事をしていようが、うらやましいとも思わず、みじめな気持ちにもならない。なぜなら、やがてそこに座る人がある空席は、心理的には実は空席ではないからなのだ。卒業生が今味わっている淋しさは、そこに座る人のない空席を前にしている一人身の淋しさといってもよいだろう。この種の淋しさも大切にしたいと思う。なぜなら、淋しさは孤独という人間の本来の姿に眼を開かせるために、通らねばならない道程におかれている飛び石のようなものだからである。私たち一人ひとりは、今日も「ひとりぼっち」の淋しさを味わいながら生きている。「ひとりぼっちでない ひとりぼっち」を味わいたいと願いながら生きている。レストランの片隅に腰をおろして、前の空席にやがて座るであろう人を待っている。「世の終わりまで、あなたたちと共にいる」と約束した同伴者が、実はすでにその空席に来て、私たちを待っていたことに気付かないで・・・
(「愛をつかむ」渡辺和子著より抜粋)
 あなたはひとりぼっちではありません。愛されています。

心のオアシス 2011年1月2日

「隠れておられる神」キム・ヨンボン著より
神は、私たちの平凡な日常、時にはいらいらしたり、絶望したりする日常の中に宝を隠されました。最初はその宝がまったく見えませんが、一つずつ探し始めると、その宝がどこにどのように隠されているかわかるようになります。目が開かれると、どこもかしこも宝のある場所になるのです。
ある教会の掲示板に、このようなユーモアのあることばがありました。「神が遠く感じるとしたら、神を遠くに移したのは一体誰だろう。」神が遠く感じるなら、それは私たちの心が鈍くなったからです。神がおられないように感じるなら、それは私たちの心の目が見えなくなったからです。神を一度も経験できないとすれば、それは霊的な感覚が死んでいるからです。霊である神は、秘密の日差しのように私たちをいつも照らしています。暗い夜にも太陽の光が地球を照らしているように、神がいないように感じるときにも、神は私たちとともにおられます。風一つ感じないようなときでも、風はいつも吹いているように、神の働きを感じることができなくても、神は私たちのために働いておられます。秘密の日差しを感じることのできる敏感ささえあれば、私たちはいつも神のご臨在の中で主の導きを経験できるのです。

新しい年365日、神様は確実に私たち一人一人のそば近くで導いてくださいます。楽しいことや喜びも経験するでしょう。また辛いことも問題も起こるかもしれません。でも神様は変わらずすぐ近くにおられるのです。問題は私たちが、どのような心で現実を見るかということです。
さぁ一年後、誰が一番宝を見つけたか競争しましょう!
「すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」
(エペソ3章18~19節)

心のオアシス 2010年12月26日

マザーテレサの祈りです。
主よ、私は信じきっていました。私の心が愛にみなぎっていると。でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。私が愛していたのは他人ではなく、他人の中に自分を愛していた事実に。主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は思いこんでいました。私は与えるべきことは何でも与えていたと。でも、胸に手を当ててみて、真実が分ったのです。私の方こそ与えられていたのだと。主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は信じきっていました。自分が貧しい者であることを。でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。実は思い上がりと妬みとの心に、私が膨れ上がっていたことを。主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、お願いいたします。私の中で天の国と、この世の国々とがまぜこぜになってしまう時、あなたの中にのみ、真の幸福と力添えとを見いだしますように。

自分がどのような存在であるかを正しく自己分析できなくなった時、人間は傲慢になり、回りが見えなくなってしまうばかりか、神様とも人とも、いつの間にか孤立していってしまうのが現実です。このことは一生涯自問自答していかなければならない課題であります。失敗しても、それを悔い改め、神様が示される道へ進む。それが信仰の父・アブラハムの人生の歩みでした。
私が関西に戻ってきて、今年の6月から関西カルバリーフェローシップをスタートしてから、皆様の様々なご協力によって前進することができました。不思議な出会いによって神様が生きておられることを体験させていただいて感謝しています。それと同時に、私の言動から不快な思いをされた方もいらっしゃるかと思いますが、キリストにあってお許しください。指を折りながら感謝と反省の年末です。栄光在主。

心のオアシス 2010年12月12日

私は留学生時代に、大学キャンパス内の芝刈りのアルバイトをしていました。一年に一度、それぞれのアルバイト生に対する評価を現場の監督責任者が大学に提出することになっていました。ボスが私を事務所に呼んだので、中に入ると、生徒の評価表を大学へ持っていってくれと言いました。しかし、ボスはまだ用紙に評価をしている最中だったので、すぐにその場を離れようとしますと、前に座って待っていなさいというのです。しかし狭い空間の中で私が前のイスに座ると、採点の内容が私から丸見えなのです。しかしボスはそれ良しとしているかのごとく何も言わないし、あえてそれを見せたいようでもあったので、仕方なく様子を眺めていました。10項目ぐらいある各生徒たちに対する評価のほとんどが「良い」か「悪い」にチェックが入れられていました。そしていよいよ私の名前が書いた用紙をボスが手にしました。私は緊張しましたが、どのような評価をしてくれるのか興味を持っていました。自分の働きぶりを考えると、他の生徒と変わらない評価であろうと想像していました。ところで私の目を疑うようなことが起こったのです。何とボスがスラスラとチェックし始めたのは、Excellent(大変良い)という欄だったのです。結局、ほとんどの項目に「大変良い」をチェックして、コメントの欄には、「この学生の仕事ぶりは、模範的で、よく働き、周りの学生に良い影響を与えています。」という内容を書いているのです。たとえ私が目の前で見ているからといっても、それは過剰な評価でした。今から考えると、小さな島国である日本からアメリカに渡って苦労しながら勉強している私をえこひいきするかのようにして愛情を表して励ましてくれたんだと思います。私は身に余る光栄な評価をしていただいてから、言うまでもなく、今まで以上に、他の学生以上に、ボスの期待に応えていこうと努力するようになりました。それは強いられてではなく、私に対する先行的に表してくださった愛に応えたいという気持ちからでした。
神がこの地上に来てくださったのは、私たちに対する愛の表れ故でした。それを知ったら応えずにはおれません。メリー・クリスマス!

心のオアシス 2010年12月5日

私たちは案外「自分は所詮この程度の者よ。」とか「もう年齢が年齢だから。」と諦めていることが多くないでしょうか? もちろん現実は現実として受け止めて、決して無理をする必要はありませんが、心の持ち方で、その人の人生が広げられたり狭まれたりするものであります。退職したりして急に老ける人がいますが、それが一つの例でしょう。「諦め」や「絶望」は、私たちの身も心も衰えさせ、「希望」を持ち続けることは、私たちをあらゆる面で強くすることが証明されています。
ヴィクター・フランクルというオーストリアの精神科医は、第二次世界大戦中にナチスに捕らえられて収容所に送られ、ガス部屋で殺される恐怖を絶えず味わいながら、九死に一生を得て終戦を迎えた人物です。この人が書いた「世の霧」「死の愛」という本の中には、この収容所体験をもとに、極限状態に置かれた人間が、いかにして行き続けることができたかについて書かれています。
同じ過酷な状況のもとにありながら、最後まで生き延びた囚人もいれば、力尽きて死んでいった人々もいました。その両者を分けたのは、決して体の頑強さではなかったのだとフランクルは述べています。では、何が生命力を与えたのでしょうか? それは「希望」の有る無しだと言うのです。「この戦争はいつかは必ず終わり、妻子に再び会える」という希望、「戦争が終わったら、やりかけていた仕事を完成しよう」という希望・・・それは、収容所の中にいて、ほとんど夢のようなものであり、実現不可能と思えるものでした。にもかかわらず、その希望を持ち続けた人々のみが、生きて終戦を迎えることができたというのです。
クリスマスは、私たちの希望です。自分がどこへ向かって進んでいるのかわからない無意味な人生に、光を与える出来事が起こった日です。私たち全ての人に、存在している意味があります。それが何なのかを、是非教会で発見されたらいかがでしょうか? 日曜日は教会へ。
「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。」

心のオアシス 2010年11月28日

笑い話です。様々な国の人たちを乗せた大型客船が氷山に衝突して浸水し始めました。すぐに救命ボートが出されましたが、真っ先に乗り移ったのは男性ばかりでした。ボートは満員で、後から来た女性や子供たちは乗れません。そこで一人の女性がボートにいる男性たちに向かって言葉を発しました。「この中にヒーローはいませんか?」そうするとアメリカ人の男性たちがボートから降りて女性や子供たちを代わりに乗せました。また女性は叫びました。「この中に紳士はいませんか?」そうするとイギリス人の男性たちがボートから降りて女性は子供たちに譲りました。また女性は言いました。「この中にルールを守る人はいませんか?」そうするとドイツ人の男性陣が降りて女性子供と交代しました。まだボートに乗ったままの男性たちがいるのに気づいて女性が呆れ顔で言いました。「みんなボートを降りて女性や子供たちに譲っていますよ!」そうすると日本人の男性たちが救命ボートからぞろぞろと降り始めたそうです。
日本人は「みんなしている」という言葉に反応するようです。これは国民性をよく表している話ですが、イエス・キリストというお方は、今から2010年前に沈みゆく私たちを救うために、真っ先に神の座から降りて、この地上に来てくださいました。これは神様が創造されたすべての人たちが無条件で救いを受けることができるようにするためでした。私たちはただイエス・キリストがしてくださったことを信じ受け入れるだけで良いのです。何と簡単な救いを提供してくださっているのでしょうか・・・
今日からアドベント(待降節)に入ります。クリスマスは華やかな楽しいイメージを持たれる人も多いと思いますが、一人でも多くの人たちがこのシーズンに本当の意味を知って欲しいと願います。
マメ知識です。ちまたで見かけるようになった「Xマス」の文字は、クリストス・マス=「キリスト(救い主)を礼拝する」という意味です。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。」

心のオアシス 2010年11月21日

時計の作られた目的は時間を正確に示すため。車の目的は人を乗せて楽に移動するため。ハサミの目的は紙や布を切るためです。人間が作ったものには、それぞれ目的があって、それはすべてそれを作った人間の 便利のために存在しています。もしそれらが人間の意図するものとは違う目的のために使われるようになったら混乱が生じます。たとえばバットは本来ボールを打つために作られましたが、人を殴るために用いたら凶器になります。
また、作られた物が壊れた時には、どこへ持って行けば良いのでしょうか? 車が故障してラーメン屋さんに持って行く人はいないでしょう。エアコンが壊れて、それを植木屋さんに持って行く人もいません。それぞれの製作者(メーカー)へ持って行かなければ、直らないのです。
さて、人間はどうでしょうか? 人間は何の目的のために存在しているのでしょうか? これは遠い昔からされてきた質問です。人間の社会に、世界中に混乱が絶えず生じていることが、もし自分自身の用い方を間違っている故であるならば・・・。
聖書は、神が人間の創造主であって、神の目的のために造られたと述べています。もしそれが本当であるなら、混乱の原因は、「自分」をメーカー(創造主)の意図しない使い方をしている故であるということになります。ということは、メーカーの目的通りに使用方法を改善するならば、混乱を解消することができるということになります。
もし私たちの心が空虚で壊れているならば、どこへ持って行けばいいのでしょうか? そうメーカーに持って行けばいいのです。
私たちには希望があります。何をしても無駄だった、効果がなかったと思える現実の中に、私たち人間の造り主がいるというところに光を見出すことができるのです。
「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」(創世記1章31節) 無駄な努力をするより、そろそろ聖書に書かれていることを信じてみませんか?

心のオアシス 2010年11月14日

渡辺和子さんの書物からの抜粋です。

シェークスピアでしたか、人生は芝居なんだ。舞台の上で王様をしたから、いい役者ではないし、舞台の上で乞食をしたから悪い役者ではなくて、大切なのは王様を王様らしく演じたか、乞食を乞食らしく精一杯演じたかだと言っています。
人生の終わり、舞台の幕が下りた時に問われるのは、何をしたかではなく、その役割をいかにその役になりきって演じたかということなのです。確かに生きている間は、王様を演じていれば良い洋服が着られますし、王妃様になっていれば冠がかぶれますし、みんなが、かしずいてくれる。それに比べて自分が乞食の役だったとしたならば、汚いボロをまとってみんなからバカにされて、食うや食わずの生活をしなければいけないかも知れない。その辛さは、一生の間あるかもしれないけれども、一生の終わりに、幕が下りた時に問われるのは、何をしたかではないのです。一生の終わりに問われるのは、何タラントもらったかではなくて、それを何タラントに増やしたかということなのです。
そう思ったらあんまり他人をうらやまないですむかも知れません。勝負はそれをどれだけ増やすかにあるのですから。

神様は、全ての人に10タラント与えておられるわけではありません。現実を見ると、ある人には5タラント、ある人には1タラントしか与えられていないように見えます。私たちはそれを不公平だと感じるのですが、神様は、えこひいきしておられるのではありません。王がいて乞食がいて芝居が楽しくなるように、私たちの人生を楽しくするために、それぞれの役目を与えてくださっているだけなのです。与えられた役目をどれだけ輝いて果たしていくかに力を注ぐならば、私たちの人生は百倍楽しくなるでしょう。他者との比較ではなく、自分しかできないことや、自分の内にあるものを伸ばしていくことが私達の使命なのです。