礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2012年8月26日

私は傷だらけの人生を歩んできました」。その男性はまじめな顔をしてそう言いました。さぞかし人生の裏街道を歩いてきて苦労されたのだろうな、と同情したのですが、話しをよく聞いてみると、これまでに何回も大きな手術をして、おかげで体中傷だらけ、というお話しなのです。
 その場は笑い話で済みました。けれどもよく考えてみると、私たちは例外なく、「傷だらけの人生」を送ってきてはいないでしょうか。それまで大切に守ってきたものが突然、一瞬で崩れ去るような出来事と遭遇する。震災、事故、犯罪、リストラ、破産、突然の死別・・・そしてこれらは、私たちの心に深い傷を残すのです。傷は痛く、心は苦しむのです。ですから聖書に出会う前の私は、「傷」はあってはならないもの、傷つくことは不幸なことだと当たり前のように考えていました。ところが、聖書を開いてみて、「傷」ということばが人生の大切なキーワードの一つであることに気がついたのです。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ53章)という意味は、人類を救うために、キリストは十字架にかけられた。だから、あなたがキリストに心を向けるなら、あなたの傷もいやされるということなのです。私自身、この聖書のことばを初めて聞いたとき、正直どういう意味かまったく分かりませんでした。キリスト教会のシンボルが十字架であることも、どうしてなのかが分かりませんでした。しかし私たちは、それぞれに深く傷ついて人生を歩んでいることも事実です。その傷がいやされたいとだれもが願っているはずです。では一体だれが、この私の傷をいやしてくれるのだろうか? そう思い始めたころから、イエス・キリストのことをもっと知りたいと真理を求める旅が始まりました。もし私に傷がなかったなら、キリストを求める思いも起こらなかったでしょう。そして、もしキリストに出会っていなかったあら、「傷」を持っていても幸せになれる、という体験をすることもなかったと思います。 (クリスチャン新聞の福音版5月号より)

心のオアシス 2012年8月19日

私のビフォーアフター(S.Iさんの場合)
 私は韓国のクリスチャン家庭で生まれました。しかし成長と共に教会から遠ざかるようになり、今から20年前、日本に来てからは完全に神さまとは無関係の自分中心の生活に入りました。そのような中で子どもが生まれることで全てのことが滅茶苦茶になり暗闇の中にさまようようになりました。
 10年前に引越しすることになり、そこで教会に戻る決心をしてから1年後の2003年に洗礼を受けました。それからは、ただイエスさまだけを求めて歩み始めるようになり、現在は今までのどの時期よりも喜びと聖霊充満で忠実な教会生活を送ることができるようになりました。
 (証文の一部抜粋・編集)
 
 この方の息子さんは自閉症です。今はまだましになりましたが、数年前まで、突然家を飛び出しては、自分では家に帰れないし言葉が話せないので夜中に警察から呼び出しがくることがしばしばあったようです。夜、寝付くまで、ひと時も目が離せない生活をしておられました。でも、この息子さんがいたからこそ自分の力の限界を感じて、教会へ戻ろうと思われたのです。証文の中で息子さんのことを、「本当に可愛い子、私を救いの道に導いた伝道者」と表現しておられました。そして今では、自分たちが中心の生活から、他者に捧げる生活へ変化したとのことです。

榎本保郎先生の書物の中に、「私たちが神に用いられるとき、持っている以上の働きをすることができる。将棋の名人が優勝するのは、将棋の駒がりっぱだから優勝するのではない。駒の良い悪いではなく、さし手がじょうずかそうでないかで決まるのである。私たちは駒である。紙に書いて作ったような駒であっても、名人がそれを進めていったならば、勝利することができるのである。」神と共に歩む人生は勇気100倍!

心のオアシス 2012年8月12日

私のビフォーアフター(N.Sさんの場合)
私は転勤で東大阪に来て、慣れない育児と慣れない土地、そして主人のことなど、不安で叫びたいけど、無理やり心にフタをして我慢して過ごす日々が続いていました。叔母から紹介されて教会へ来るようになりました。娘もまだオスワリ状態で皆様にもご迷惑だったにもかかわらず、心よく受け入れてくださり、救われました。最初はただ心の拠り所ができて安心しただけでしたが、そのうちに神さまより平安をプレゼントされました。幼い頃から思っていた「人間とは・・・」の部分も解決され始め、消し去りたかった過去の醜い罪を許してくださることも知りました。「自分でもいっぱいなのに人の為に何かしなくてはいけないのかなぁ? すべて理解してからクリスチャンにならないと・・・」などと思っていましたが導かれました。委ねた方がいいのだとわかったのです。  
今では、悪いことも良いことも、どれだけこの人生を神さまは楽しませてくれるのかと毎日ニヤニヤしています。主に感謝します。もし最初に来たところが教会堂だったらずっと通ってなかったと思います。マンションの集会室だったから気兼ねせずに行けました。小崎牧師だったから心開くことができました。(かなりレベルをさげて接してくださるので!)なんなのでしょう・・・これをハレルヤと言うのですよね?! 
(証文の一部抜粋・編集)

人々の魂の救いと人生の変化を確認し、祈りの答えを体感し、この地上においても明るく、元気で、のびのびと生きることができるようになりましたという声を聞くことができるのは牧師の特権であります。ですからこの世的な報いはなくても、牧師を辞めるわけにいかないのです。これに勝る喜びは他にはありません。
イエスさまは、「あなたがたは私の証人となる」と言われました。イエス・キリストが生きておられることを、私たちの人生の中で感じ、証しできたら、どれだけ多くの人に感動を与えることができるでしょう!

心のオアシス 2012年8月5日

ハ・ヨンジョ先生の言葉です。

人生を歩んでいると、予想もしなかった嵐に襲われる場合があります。一生懸命にイエスを信じているのに、突然人生に恐ろしい嵐が襲うのです。神にすがりますが、何の応答もありません。まるで、神が眠っておられるかのようです。私たちは、イエスを信じればすべてうまくいくと考えますが、イエスを信じたからといって、病気が治るでしょうか? すべてがうまくいくでしょうか? そういかない時のほうが多いかもしれません。イエスを信じればすべてがうまくいくという程度の信仰から、もう一歩進まなければなりません。イエスを信じれば、祝福も受けますが、苦しみもあります。まことの苦しみがあった後で、まことの祝福が来ます。その前の祝福は単なる祝福であり、この世からいくらでも得ることのできる祝福です。人生には、いつも嵐が襲います。大切なのは、その嵐をどのように耐えるかです。それをどのように理解し、どのように受け取り、それによってどのように勝利するかが大切です。主がともにおられても、嵐が来ることがあります。嵐が来るとき、主が眠っておられるかのように感じることもあるでしょう。それでも、状況を恐れずにイエスを信頼することが信仰です。状況に左右されるのは、信仰の人ではありません。うまくいく時も高ぶらず、苦しい時でも落ち込まない人、いつも主を信頼する人、恐れのない人、天の平和が心の中にある人、そのような人が信仰の人です。

先週は、次回からの集会場所を変更しなければならない事態に追い込まれました。しかし大したことはありませんでした。ただ神さまが洗礼式と転入会式を、「教会堂」で行うことを望んでおられただけのことでした。誰が午前中礼拝をしていない教会堂が近くにあるなんて想像できましたか? そしてそれを貸してくださる教会があるなんて・・・。神さまが計画して動かれたら、問題は問題でなくなるのです。

心のオアシス 2012年7月29日

娘が当時小学校の2年生であった年のクリスマス・シーズンでの出来事です。クリスマスの1ヶ月ほど前から私に「今年のクリスマスは、サンタさんに新しい自転車(マウンテンバイク)を頼んだ」と言うのです。
実は、娘はサンタが誰なのか知っていながら、私に要求してきたのです。
私は、家計の予算の関係上、自転車のプレゼントは全く考えていませんでしたが、娘は諦めていませんでした。私は自転車のことは全く眼中になかったのですが、クリスマスの10日ほど前に、ある場所でマウンテンバイクが、なんと半額で売られているのを見つけて注文しました。
そのことを知らない娘は、私に何度かプレッシャーをかけてきましたが、私は相変わらずな素振りを見せながら、内心ではニヤけていました。
 届いた自転車を当時のアパートの荷物置きになっていた部屋の奥に隠しておきました。クリスマス3日前、2日前になっても、娘は私が、自転車を注文した素振りも見せないので諦めはじめました。そしてサンタさんに頼むプレゼントの希望変更をしてきたのです。「紙粘土でいい」と言うのです。そしてクリスマス前日には、「サンタさんが、いいと思うものだったら、何でもいいや!」と投げやり状態になっていました。
そして、当日の朝早く、夜の明けるよほど前に、私は起きだして隣の部屋に隠してあった自転車を取り出して、娘が寝ている部屋の隅に置きました。その朝、どのような歓声が上がったかは想像できますよね?!
人間の親は、子どもに最善を願い、期待に応えたいと願うものですが、失望させてしまうこともあるでしょう。でも、天の父なる神さまは、絶対に外すことはありません。私たちにとって最善をしてくださるのです。
私たちが祈っている祈りの答えは、すでに霊的な隣の部屋にはあるのです。それを霊の目で見て、満足することを「信仰」と言うのです。
「信仰とは、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル1:1)あなたの信仰の世界を広げたら人生もっと楽しくなりますよ!!

心のオアシス 2012年7月22日

マザー・テレサの言葉

 私たちはだれひとりとして、
絶対に必要な存在であるなどと
思ってはなりません。
 神はご自分のなさり方や方法をお持ちです。
 才能ある人や力量のある人の手を使って、
すべてのことを引っくり返すことを
お許しになるかもしれないのです。
 愛が織り込まれていなければ、
その働きは無駄なのです。
 神は、今までに何冊の本を読んだのか、
などとはお聞きにならないでしょう。
 けれども、神の愛のために
最善を尽くしたことがあるかどうかを
お尋ねになるでしょう。

 神の前には、全ての人は絶対に必要な高価で尊い存在です。でも、自分の才能や力量に酔いしれて、自分が世界を動かしているなどと高慢に思ってはならないというアドバイスでもあるでしょう。
 確かに歴史を調べてみるとリーダーシップや才能があっても、高慢になってしまった人々によって、間違った方向へ社会や政治を導いていったケースが数知れずあります。自分たちの力を過信して、天にまで届く塔を作ろうとした人々は、ことごとく散らされてしまいました。
 うぬぼれたり、人に厳しかったり、わがままでいるのはとても簡単なことですが、私たちは、もっと素晴らしいことのために創られました。
 私たちは、神さまに用いられるための道具です。与えられた人生で何をしたかではなく、どれだけ愛を込めて生きてきたかが問われるのです。

心のオアシス 2012年7月15日

先日は、「絶対得する先行投資」というタイトルで、「神さまのために費やす人生は必ずお得ですよ」とメッセージさせていただいたが、よく考えてみると、先行投資しておられるのは神さまの側であることに気付きました。私たちの持てる全て(肉体、経済、知恵、知識、健康、仕事etc.)は、私たちがこの地上で生きることができるように神さまから与えられているもの。すなわち神さまからの私たちに対する先行投資だということなのです。それをどのように神さまのために管理していくかが問われるのであります。預かりものを「自分のもの」として使っているならば、そこからは何も残りません。しかし、神さまのために用い始めるならば、神さまからのボーナス(祝福)が注がれるのです。この世界を、口でどう説明しても説明しきれない部分で、実際に自分が飛び込んで体験してみなければわからないものであります。  
マザー・テレサの映画の中で、私は多大な影響を受けたシーンがある。マザーの働きが外部に知られるようになって、いろいろな団体から献金が届くようになった。彼らはまず集まった小切手を、他の困っている宣教団体や診療所などへの献金として仕分けして、最後に自分たちが建設しようとしている平和の村のための取り分にしようとしたのですが、自分たちが受け取る小切手は一枚も残っていません。そこでその中の一人がこう言います。「2千ドルを送ろうとしている団体は急がないので後回しにして、まずは私たちの必要に用いましょう。」しかしマザーは、「そのまま送ってください。神さまはせっかちなお方ではないから。」
私たちの教会は開拓なので、支援してもらいたい立場ではありますが、他者を支援することによる祝福を実践し今年の4月からイスラエルへの新移民であるルベン&ナターリア・ベシャダさんたちを、B.F.P.Japanを通しサポートし始めた。どうなったと思いますか? 教会への献金額が支援を始めたその月から毎月1.5倍増えたのです。去年の3月には、まるまる3月分の献金を被災地へ送ると、次の月に受洗者が2名与えられ東大阪での集会が始まりました。神に捧げる人生こそが本当の豊かさです。

心のオアシス 2012年7月8日

この地上における私たちの時間、エネルギー、知性、機会、人間関係、そして財産などはすべて、神から大切に管理するように任されている賜物です。私たちは、これらを管理する立場にあるわけです。この管理という概念は、神がいっさいのものの所有者であられるという認識に基づいています。聖書によれば、「世界とその中にあるすべてのものは主のものである。地球とその中に住むものはすべて主のものである」のです。
この地上にいるわずかの間、私たちが本当の意味で所有しているものなど何一つありません。すべてのものは、私たちがこの地上にいる間、神が一時的に貸してくださっているにすぎません。あなたが生まれる前は神のものでしたし、あなたが死んだ後はまた誰かに貸し出されるのです。ただしばらくの間、持たせていただいているというだけなのです。
       「人生を導く5つの目的」リック・ワーレン著より抜粋

人生は預かりものです。私たちが、この地上で生きていくために必要なものを貸し出してくださっているのです。それは、ある人が旅に出るとき、しもべに財産を預けておくようなものです。ある者には5タラント、ある者には2タラント、ある者には1タラントを預けました。それをどのように管理するかを試すようなものです。
私たちは、神さまから預かった人生を、その人生の管理者として、神さまのために有効活用することが求められています。ノルマはありません。ただこれは神さまからの預かり物だという意識があるかないかが重要なのです。もし、自分の人生は自分のもので、自分で働いて、自分が儲けて、自分のために使って何が悪いというならば、それは神から与えられたものを地の中に隠しているような人生だということが言えるでしょう。
私たちが、この地上での人生が終わったときに、清算する時があると聖書は教えます。神に投資する人生は絶対ハズレがありません。神さまから預かった「わたし」を大切に使いましょう!

心のオアシス 2012年7月1日

先週は寂しい出来事と嬉しい出来事が同時に起こりました。また今までの祈りの答えを見、神の言葉の成就を体感する不思議な週でした。
6月27日早朝、私たちの教会で一番長く祈られてきた、辛くともニコニコ顔の中原豊子さんが天に召されました。前の週に危険な状況になったことを知り、先週の日曜日、お祈りに行かせていただいた。痩せた豊子さんが精一杯の笑顔を見せてくれました。長男の勇樹さんは、1年位前からすでに私が行なっていた聖書入門セミナーや人生セミナーに奥様と何度も出席して多少の知識はあると思ったので、帰り際に見送りに出てくれた彼に、こう言って別れた。「もしお母さんが召されるようなことがあっても、悔いの残らないように精一杯の親孝行してください。お母さんはあなたの救いのために祈っておられました。たぶん今できる最高の親孝行はイエス様を信じてお母さんと同じ天国にいけるように信じる決心をすることだと思うよ。もしその決心ができたら、申し出てください。お母さんの前で洗礼式を行ないます。ただし情に流されてとか、勢いでというのは駄目ですよ。考えてみてください。」
その二日後、彼から電話があり「すべてを理解できたわけじゃないけど、信じて飛び込んでみないとわからないこともあると思いました。決心しましたので洗礼をお願いします」この報告をその日お母様にもしたそうです。そして次の日27日の早朝、天へ凱旋していかれました。
生かされている間に洗礼式とはいきませんでしたが、召されたその日の夜に亡骸を前にして、急遽、前々夜式と洗礼式を執り行いました。感動感動のひと時でした。豊子さんの長年の祈りの成就を見ました。それと同時に、ガンの完全な癒しも死を通して成就したのです。今はもう病の肉体を脱ぎ去って完璧な神様が与えてくださる栄光の体をいただいて、天国から私たちを見守っているのです。
そしてもう一つの奇跡・・・豊子さんのお母様の秀子さんが洗礼式の後で恵まれた表情でこう言われた。「今の私は、悲しみより喜びの方が勝っています!」    「死は勝利にのまれてしまった」(Ⅰコリント15:55)

心のオアシス 2012年6月24日

あの福島の原発の半径20キロ圏内に川内村という人口3千人の村があります。そこに89歳と88歳のご夫妻が住んでいたそうですが、なんとその村にはそのご夫妻を入れて3人しかクリスチャンがいませんでした。そして原発が津波をかぶって避難命令が出されてから10日間の避難所生活を経て、大阪に住む息子さんを頼りに移住してこられました。
ある人がこのご夫妻に質問しました。「10日間の避難所生活は大変だったでしょう?」するとこのご夫妻「いえいえ、私の今までの人生の中で最も充実した10日間でしたよ。」「え? 充実していたって、どうしてですか?」「実は、今までずっと村の人たちに『頼りにしているものが、頼りにならなくなる時がくるから、神さま信じてないと大変なことになるよ』」しかし、耳を傾ける人はいなかったそうです。なぜなら、川内村の人たちは、「地球のどこかで災害が起こっても、この村にはないだろう。飢饉がきても、この村は自給自足できる農業も水産業も畜産業もある。だから大丈夫だ」と考えていたからです。ところが、地震が起こって、津波がきて、放射能が飛び散ってから、頼りにしていたそれらの全てが駄目になりました。今まで、「これさえあれば・・・」としがみついていた保険のようなものが、ことごとく流されてしまった現実の中で目が覚めて、避難所で村の人々がこのご夫妻のところにきて言ったそうです。「あなたが言っていたことは、本当だった。是非、聖書の話をしてください。」とお願いされて集まってきた人たちに、福音を伝えることができたそうです。避難所での生活は、このようにして恵みのひと時だったとのことでした。
私たちは、流されてしまうような物のために、どれだけ時間を費やしているでしょうか? しかし、神抜きの経済は必ず崩されます。神抜きの啓発思考も長続きしません。神抜きの人生ほど不安に満ちたものはありません。「心配」とは「心を配る」と書きます。「忙しい」という字は「心を亡くす」と書きます。この世のことで思い煩い、忙しさの中に悩み苦しむことがあっても、永遠なる希望の世界があることを忘れなく!