礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2013年5月12日

理想主義に燃える若者にとっては、世の中は「不条理」で出来上がっている、ということは認めにくいかもしれません。しかし、汚職まみれの政治家が何度も当選したり、人を不幸にしながら成功していく企業がある、ということは理不尽ですが、世の中は、その理不尽によって成り立っています(少々語弊があるかもしれませんが、そういう「理不尽」な仕組みがまかり通って、現実の社会が構成されているのだ、ということを認める必要があります)。自分たちが思っている、ある種の「正義」なり「道義」なりのとおりに世の中ができているのではありません。
自分が、ある「正義」や「道義」をもっているのは自由ですが、必ずしも、自分以外の人たちも同じ考えをもっているとはかぎりません。では、そのような「理不尽」なことをしている人を見かけたときに何も糾弾しなくていいのか、ということになりますが、実は「人を裁かない」「人を糾弾しない」ということは、とても重要なことに思えます。では何もしないのか、という話にまた戻りますが、何もしないのではなく、「ああいうことは、自分はしない」と決意することが、たぶん最も重要なことなのでしょう。
世の中は「不条理」に満ちている、「不条理」がたくさん集まってできているのだ、と認めること、その「不条理」が、自分にとって許せないものであるならば、「不条理」の中にいる人を糾弾するのではなく、「自分自身はそういう生き方をしない」と固く決意し直すこと・・・それが遠回りのようでも、結局は温かで穏やかな社会をつくっていくための近道のような気がします。 (「き・く・あ」の実践・小林正観より抜粋)

私はこの内容に同感します。そして聖書的エッセンスを加えるならば、「不条理」とは、私たちを最高の人生へと導くために神が準備された壮大な計画の一部分であります。必ず乗り越えられます!

心のオアシス 2013年5月5日

私は今でも娘や息子が幼い時に私に書いてくれた手紙や絵などを大切に持っています。他者に見せたり家に飾ることはできないようなレベルのものもありますが、私にとっては何万円であっても値踏みすることのできない宝物なのです。恐らく世の中に出るとゴミ箱行きでしょう。他者にとってはゴミ同然の作品を私は何故大切にしているのでしょうか? それは親子という「関係」の故です。神さまと私たちの関係は、地上での親子の関係に反映されています。たとえこの世の中からは捨てられるような存在であったとしても、誰からも評価されない人生であったとしても、それでもあなたをVIP(Very Important Person)とても大切な存在として、神さまが受けとめているのです。
神さまの側は、あなたとの関係を決して切ることはありません。しかし私たちの側が、その「関係」に無関心であったり、切っているならば、それは完全な関係とは言えません。私たちの手首を掴まれているように、私たちも神さまの手首を掴み続けるなら、それは人生におけるどのような荒波にも耐えることができる平安が与えられるものです。
フェイスブックにある青年がこのような書き込みをしておられました。「父が天に召されて16年が経ちました。振り返ると、よくグレないでここまできたなと思う。」私はこの青年が中学生の時代から知っていて、お父様の葬儀の司式もさせていただきました。それからも人知れぬ苦労や辛い経験を何度もされて今は29歳。私も祈ることしかできませんでしたが、彼女が最悪の状況でも神さまとの関係を切らなかったことが大正解でした。弱さの故に教会に行けなくなった時期もありましたが、インターネットでも繋がっていたいというその心を神さまは見ておられたのだと思います。そしてこの度、教会に戻ることができただけではなく、ご友人を救いにお導きすることができました。先週も私にとっては忘れられない洗礼式となりました。He is good to us all the time!

心のオアシス 2013年4月28日

クリスチャンである彼女から関西カルバリーフェローシップのインターネット礼拝を紹介されたことがきっかけで、信じる決心をされた一青年の証の一部をご紹介します。
ある時、新宿のクリスチャンブックストア「オアシス」を訪れました。そこで「あしあと」という作品が目に留まりました。「砂浜に一つしかない足跡はイエスさまが一番苦しかった時の私を背負って歩かれている」との言葉にとても感動しました。私は「あしあと」が書かれたポストカードを買って帰りました。次の日・・・インターネット礼拝で、なんと小崎先生が「あしあと」を用いて説教をしてくださいました。ただの偶然とは思えない衝撃に私はとても感動しました。先生のお話が、ちょうど今まさに、私が抱えている問題を救ってくださる、そんな経験がその後も立て続けに起こりました。先生のお話は初心者の私でも非常に分かりやすく、丁寧で、ユーモアもあり、かつとても熱いものがあります。東大阪と横浜で離れた場所にいながら、常に小崎先生に励まされ、明日への活力がふつふつと湧いてくる、そんな経験を何度も何度も体験することができました。昨年の4月末に小崎先生を訪ね、そこで礼拝に参加することができました。そこに集う方々と交わりを持つことができ、皆様から神様との繋がりや数々のお話を伺うことができました。これらの一つ一つのことを振り返ってみると、全てのピースは神様が導いてくださった一本の道として繋がっているように感じます。そう感じた時に、私は神様の大きな懐に包まれているようでした・・・(A.K.)
「人生は出会いで決まる」と言いますが、私たちの人生は全て神さまのお取り計らいの中にあります。「あしあと」の詩のように、私たちが知らない間も不思議な出会いや助け舟を送って、直接的に間接的に私たちを背負って歩いてくださっているのが神さまです。
「わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」(イザヤ46:4)

心のオアシス 2013年4月21日

CMなどでも起用され、世界で最もよく歌われている讃美歌といえば、Amazing Grace「驚くばかりの恵みなりき」が有名です。この詞を書いたジョン・ニュートンは元奴隷商人でした。彼が生きた18世紀は、奴隷商売が盛んな時代で、当時は“Triangle Trade”(三角貿易)と呼ばれていました。その名称の由来は、イギリス本土からアフリカへ何下して奴隷たちを船いっぱいに乗せて北アメリカ大陸へと運び、そして奴隷たちを金品と交換してイギリス本国へ帰るという航路が、ちょうど三角形を描いていたことから、そう呼ばれるようになりました。ジョン・ニュートンは荒くれ者で、奴隷に対しても冷酷な男でした。しかしある日、大きな嵐に遭遇して、死に直面したとき初めて「神さま、助けてください!」と叫んだのです。幸い命は助かり、その後、彼が7歳の時に亡くなった母親が残した聖書を読み始めて、クリスチャンになり生まれ変わり、献身して牧師になる決心をしました。その時の年齢は23歳でした。
「こんな愚かな、どうしようもない者をも神は救ってくださった」という恵みを歌ったのがこの讃美歌だったのです。
 82歳で死ぬまで、彼は自分の生涯をあれほどドラマチックに変えてくださった神さまの憐れみと恵みとを語り続けました。それこそ彼の毎回するメッセージの主要なテーマでありました。彼は召される少し前のメッセージの中でこう語りました。「私の記憶は、ほとんど失われました。しかし、私は二つのことはハッキリと覚えています。一つは私が大いなる罪人であること。そしてもう一つはキリストが大いなる救い主であることです。」
 「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ書5章8節) 私たちの存在は神の愛の表われです。あなたが存在しているというだけで喜ばれているのです! Amazing Grace!

心のオアシス 2013年4月14日

1979年に起こった銀行強盗の事件をご存知でしょうか?
猟銃を持った男が、大阪のある銀行に押し入り、人質をとって立てこもり、4人が犠牲となり、42時間後、犯人は射殺されるという、悲惨なものでした。
私も当時中学生でしたので、今まで考えられなかったような事件が生中継されているテレビを見ながら、早期解決を期待しながら見守っていました。
犯人の母親が説得に当たった時に、ニュースレポーターが言った言葉が、心に残りました。「母親の説得は功を奏しませんでした。全てのものを敵に回して立てこもる犯人。母親はそれでも、ただ一人、自分だけでも息子の理解者となり味方になってやりたいと、説得を終えて引き上げる後ろ姿が語っているようでした。」
とんでもない事件を起して、犠牲者まで出ているのに、そんなことがよくぞ言えるものだと私は思いました。しかし、今、親の立場になってみて、その犯人の母親の気持ちを、少し理解することができるようになりました。
無条件の愛・・・それは神さまが人間の親に与えた神様のご性質の表われであろうと思います。悪いものは悪いし、処罰されなければならない存在だけれど、世界中の全ての人を敵にまわして憎まれていても、自分だけはその存在を理解し味方になってやりたい・・・神さまは、私たちに一人一人に対して、そのような気持ちを持っておられるのです。何かをした結果ではなく、ただ一方的な恵みと愛の故です。人間の親には限界があります。しかし神様は、イエス・キリストを通して、私たちの罪の罰を解決して、信じるだけで救われるという世界を実際に成就してくださいました。私たちを苦しめる罪を憎み、私たち自身は救いたいと願われ、その両面の解決をイエス様の十字架が見事に実現したのです。まさに十字架は私たちの罪を取り除くフィルターです。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」(マタイ11の28)

心のオアシス 2013年4月7日

「わたしたちの人生というドラマの中で、サタンはその役割を演じる俳優であるかもしれません。しかし、神は依然として監督なのです。」
            マーリン・キャロザース著「賛美の力」より

 この数週間は、今までの私の人生の中でも上位に入るぐらいの試練の時でした。息子が韓国留学しましたが、急な環境の変化や言葉の違いなどのストレスなどが重なり、やる気満々だったにも関わらず学校へ行けなくなりました。当初はサタンにやられてしまったのではないかと心配するほどでしたが、私には確信がありました。それはサタンは神の許可なしには誰ひとり攻撃できないということ、そして、神は私たちの人生を最善に導くために、あえてサタンを利用されることもあるということです。ですから、私は試練の中でも、ある種の平安がありました。
 私が関西地域で開拓伝道を始めてから、毎日が奇跡の連続でした。そして今もそれは継続しています。長く通っておられる人たちは紅海が分かれて、乾いた地を歩いて渡るというようなできごとを何度も見てきたのでおわかりでしょう? 私たちの集会場所が追い出されて、どうすることもできない壁にぶつかる度に、場所がグレードアップしていきました。日曜日の礼拝の為に、奈良ではカトリック教会、東大阪では東大阪福音教会のご好意によって、無償で会堂を貸していただけるなんて考えられますか?(勿論、献金はさせていただいています) 開拓教会は、家賃の支払い能力がないことをご存知の上で、そのような場所を与えてくださっているのです。しかも毎回グレードアップしています。
 このようなことを考えていると、今回の様々な出来事も、教会を整えるために必要なことを主はされておられるのだという思いが与えられました。仕事などでなかなか日曜日に教会へ顔を出すことができなかった家内も来ることができました。主はあなたの道を創られます!

心のオアシス 2013年3月31日

今日はイースター。イースターとは「復活祭」とも呼ばれ、イエス・キリストが墓からよみがえられたことを記念する日です。
教会で、何年もの間、受け継がれてきた心暖まる実話があります。
あるアメリカの教会の日曜学校にスティーブンという8歳で肉体的も精神的にもかなりの弱さを持っている男の子がいました。イースターの前の日曜日に、その日曜学校の先生が自分のクラスの10人の生徒達に、空の卵の形をしたプラスティックの容器を渡しました。次の日曜日に、イースターの話に関連する物をその卵の中に入れてくるようにと課題を出したのです。次の日曜日に、生徒たちが持ってきたそれぞれの卵が開かれていきました。あるものには、命の性質を示す小さな花が入っていました。他のものには、墓からころがった墓石を意味する石が入っていました。他には色紙のチョウチョウが入っていました。それは私たちの中で起こるキリストによる生まれ変わりを表していました。そして先生はスティーブンの卵を開けました。それには何も入っていませんでした。他の9人の生徒はそれを見て笑いました。先生はスティーブンが宿題のことを理解することができないことを知っていましたので、何も言わず、すぐに次の卵を開けようとしました。するとスティーブンはそれに割り込むようにして言いました。「先生、ボクの卵を飛ばさないでください。」先生は答えました。「だけどあなたの卵は空っぽですよ。」その時スティーブンは自信をもって言いました。「その通りです。その卵はイエス様の墓のように空っぽなのです! これは全ての人のための新しい生命を意味しているんです!」その年の夏、スティーブンは体の状態が悪くなって召されていきました。葬儀には何百人という人たちがきましたが、棺に入れられた10個の空の卵の形をした小さな容器の意味を知っていたのは、9人の子供達と日曜学校の先生だったというお話。
イエスさまは今も生きておられます! ハッピー・イースター☆

心のオアシス 2013年3月24日

この度、韓国の旅をさせていただいてたくさんの収穫がありました。
その中でもビジョンを持って、神さまに信頼していくところに奇跡が起こるということを強く教えられました。
チョー・ヨンギ牧師は、80万人も集まる教会を建てあげました。何度行っても圧倒される礼拝堂には、どの集会にも所狭しと何万人もの人々が押し寄せてきます。日本の霞ヶ関に相当する場所(近くに国会議事堂があります)に、神さまを礼拝するために集まってくるのです。貧しいテントでの伝道をしていた当時のチョー先生には、想像もつかなかったでしょう。ハー・ヨンジュ牧師は、CGNTVの創立者でありますが、一つの教会が衛星を買い取って世界の人々に24時間無料で福音を伝える番組を放送するなんて無謀なことだと思います。人材は? 経費は? 様々な問題が山積みでした。夢を語ったときに教会のほとんどの人たちに反対されたそうです。ノアに神さまが、「箱舟を作りなさい!」と具体的なビジョンを見せられた時、回りの人々は笑いました。100歳近くになったアブラハムに「空の星を見なさい。数えることができるなら数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるであろう」と神さまからの声があったときに、アブラハム自身が笑いました。でも、どんなに大きな壁があっても、神さまが成されるならば、必ずそうなるのであります。
あなたに具体的な示しや夢がなかったとしても、神さまは明確に、「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである!」(エレミヤ29の11)という計画をあなたに与えておられます。このビジョンを握って人生を乗り越えていきたいですね!
関西カルバリーフェローシップにもやがては想像もしないような教会が建て上げられることを夢見つつ・・・ビジョンは大きい方が正解です!

心のオアシス 2013年3月17日

「普通」とは? 私たちそれぞれ個人が考える範疇における状態や言動や常識などが「普通」とされている傾向にあると思います。それ以外の人を「おかしな人」と呼び、それが出来事であるなら「奇跡」とか「災い」と呼びます。ある学者が書物の中で興味深い内容を以下に記します。

先日、次のような相談を受けました。二十歳の大学生の娘に、母親が「30~40万円の振り袖をつくってあげる」と言ったところ、「そんなお金があるのなら、私は振り袖はいらないから、アメリカに留学する費用として、それを現金でください」と言ったのだそうです。「親として、普通に、常識的に育ててきたつもりなのに、どうして、あんな変わった娘になってしまったのだろう」ということでした。その母親の友人で、同じようなことを言う女性がいました。その人の大学4年生の息子は、「卒業したら、就職はしないで、世界の国々を旅したい。半年くらい、一人旅をしたり、どこかに住み込んで働いてみたり、そういうことをやりたい」と言ったのだそうです。その母親は、「普通に就職して、普通に働いて、普通に暮らしてほしいのに、どうしてこんな子になってしまったのだろう、どうしたらこの子を直すことができるのだろうか」と悩んでいたのです。私は、この二人の母親に同じ答えをしました。「不肖の娘や息子どころか、大変素晴らしい教育をしたと思います。素晴らしいお子さんに育てられましたね」と。私は、教育の専門家ではありませんが、多分、教育の本質というのは、「みんなと同じことをする子供にすること」ではなく、「自分でものを考え、その結果、自分で自分の行動や生活、生き方を組み立てていけるようにすること」であると思います・・・

私もこれには同感です。人に迷惑をかけるような行為は見逃してはなりませんが、人それぞれに与えられている個性や持ち味は、神さまからの賜物です。神さまの目から見れば、みな「普通」なのでしょうね。上手くブレンドされて世の中はバランスがとられているのです。

心のオアシス 2013年3月10日

幸せというと、精神的なことよりも、実際にお金が入ってくるほうがうれしい、という人がほとんどかもしれませんので、無限にお金が入ってくる方法をお教えします。無限にお金が入ってくる方法は、3秒で言うことができます。それは、トイレ掃除をすること。トイレ掃除を続けていると、お金が無限に入ってきます。どんどん入ってくるのですが、この言葉をもう一度反芻してみてください。「無限にお金が入ってくる」とは言いましたが、「無限にお金が貯まる」とは言っていません・・・
実は、今、生きていて、生活しているというのは、無限にお金が入ってきているからです。世の中に、「私の人生はついていなかった。恵まれていなかった」と言う人がいますが、これまで生きてきたこと自体が、とても恵まれていたと思います・・・(中略) 
お金が入ってくるだけではなくて、心のメカニズムとして、非常に大きな幸せ感が得られるようです。ある年、1年間に12人のうつ病の患者が私の前に現われました。「うつ病を治したいですか」とたずねると、「治したい」と言う人が8人いました(残りの4人は「治りたくない」と言うので、「そのままでいてください」とお話ししました)。で、実は8人が8人とも全員、治ってしまいました。短い人は1週間、長い人でも3か月です。その方法というのは、トイレ掃除をすることでした。(小林正観著「そ・わ・か」の法則 より抜粋)

うつ病の人は、「私なんかこの世に生まれてこなければ良かった」などと、自分のことが嫌いになっている人が多いようです。しかし他人が嫌がるトイレ掃除を進んでやることで、他者がしないことをやって何らかのお役に立っている自分を好きになれるようです。「トイレの神様」がいるわけではありませんが、神さまはこの世に一定の祝福の法則を与えておられるようです。それは自分に向けてではなく、他者に向けて愛を注ぎ、親切や奉仕をする時に、結局は自分が祝福されるということです。