礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2013年12月29日

ある相談員が、小学4年生の男の子から手紙で、「僕のお母さんに元気になってほしくてプレゼントをあげたいんだけど、お小遣いは329円しかありません。この値段で買えて女の人が喜ぶ物は何ですか?」という相談を受けました。その子の母親はガンで長く生きられないのですが、その男の子はその事実を知りません。その相談員は後日、男の子を連れてデパートに行きました。男の子はお母さんのことを心配しながらいろいろなことを話しました。「お母さんダイエットしてるのかな~? ご飯全然食べないし無理して笑ってるみたいなんだ。300円ぐらいでダイエットのやつ買えるかな? 靴買えるかな? お花買えるかな? でも枯れたら悲しいから、サボテンにしようかな? 手袋買えるかな? でも冬しか使えないよね・・・キャビア食べたいって言ってた! 買えるかな?」その子の母を思う言葉一つ一つに涙をさそいました。
「僕、靴にする!お母さんといろんな場所に行きたいんだ!」靴なんて、とても300円程度では買えません。相談員はその子がトイレに行っている間に靴売り場に行き事情を話して300円で買えるようにお願いしました。もちろん、後から足りない分は、その相談員が払うつもりでした。店員は快く了解してくれました。その子を連れて靴売り場に行くと、300円均一と紙に書いてありました。急いで作ったのか雑でしたが胸が熱くなりました。「これにする!」選んだのは白いヒールの靴でした。後で払おうとしたら「300円ですから、ちょうどです」と笑顔で言われました。感謝の気持ちで胸がいっぱいになったそうです。

今年一年間、表面には見えなくても様々な支えの中で生かされてきました。ある時には人を通し、仕事や出来事を通し、励ましや勇気が与えられました。指を折りながらこの一年の感謝を数えましょう。更に感謝の数が増えることを期待しつつ新しい年を迎えたいと願います。
「またその恵みをもって年の冠とされる。あなたの道にはあぶらがしたたる。」(詩篇65篇11節) 良い年をお迎えください✩

心のオアシス 2013年12月22日

アメリカでの笑い話です。
小さな男の子が、初めて教会の日曜学校のクリスマス会に参加して、そこでクリスマス・ストーリーの新しいイメージを持って、家に帰ってきたそうです。この子は、東方の博士たちが、赤ちゃんイエスさまに贈り物を持ってきたということを、劇を通して学びました。2千年前の世界で最初のクリスマスで起こった出来事を知って、早く両親に伝えたくて仕方ありませんでした。そして家に着くなり話し始めました。「僕ね~、今日、教会の日曜学校で、世界で最初のクリスマスについて学んだの~ えっと、今から2千年前には、サンタクロースがいなかったらしくて、ラクダに乗った3人の痩せた男たちが、オモチャを運んでたんだって。でもね、赤いお鼻のトナカイさんには、まだ明るい光を放つお鼻がなくてさぁ、空から大きなスポットライトで、彼らの行く道を照らしてたみたいだよ~ 昔は、オモチャを運ぶのも一苦労だったみたい~」

キリストの誕生ストーリーが、いつの間にか、この男の子の頭の中で2千年前の子どもたちに贈るオモチャの運び方がどうであったかということにすり替えられてしまったらしい・・・ 私たちは、笑ってしまうかもしれないけれど、果たして本当のクリスマスを理解している人たちがどれくらいいるでしょうか? クリスマス(Christmas)は、Christ(キリスト)とmas(礼拝)が結合して作られた言葉です。ですから、本来の意味は、「キリスト(救い主)を礼拝する日」または「キリストの誕生をお祝いする日」ということになります。このシーズンは、街もクリスマス一色になります。クリスマスケーキや、プレゼント交換、クリスマスツリー・・・楽しい気分になります。でも、本来何をお祝いしているのか忘れ去られています。クリスマスの主人公はイエス・キリストです。主役のいない誕生会なんてありえないですよね? このお方を知れば知るほど、驚くばかりの恵みの数々を体験していくことができるでしょう。
「今日ダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった。」

心のオアシス 2013年12月15日

ビリーグラハム・クルセードが、スコットランドで開催された時、グラスゴーの労働者地区に住み、日雇い労働をしていた一人の男性が救われました。貧しさのゆえに荒れた生活をしていた彼は、その時を境にして、生活ぶりが全く変わりました。教会へも日曜日ごとに忠実に出席しはじめ、仲間に会うと、誰かれとなく教会へ一緒に行こうと誘うようになりました。
ある日、仕事場で顔に刀傷のある、いかつい顔をした男と一緒になりました。以前の彼だったら、今の他の仲間たちと同じように、刀傷の男に近づかないように仕事をしていたでしょうけれども、神様によって変えられていた彼は、進んでその男と組んで仕事をしはじめました。二人は昼食時になり、ガレキの山に腰をおろし、ポツリポツリと世間話を交わしていましたが、彼は「今度、教会へ行かないかい?」と勧めました。突然のことに刀傷の男は「この俺が?」と自らを指しながら驚いた様子でした。しばらく無言の時が続きましたが、刀傷の男は悲しそうな顔をして、こう言いました。「俺なんかダメさ・・・こんな醜い傷を持った俺を、どうして教会が迎え入れてくれるんだ・・・」そうすると彼は言いました。「いいや、俺たちをな、迎えてくれるお方がいるんだよ。そのお方は、お前より、もっと酷い傷が体中に、顔に手足にあるんだよ。」

私たちの顔や体に傷はなかったとしても、目に見えない心の傷はけっこうたくさんあるものです。しかし、この地上で全ての苦難を通られたイエス・キリストが、私たちを理解し迎え入れてくださるなんて本当に有難いことです。
今から2千年前に、キリストは家畜小屋で生まれ、家畜の餌箱に寝かされていました。この貧しい幼子に何ができる?と思えるようなお姿でした。でも神共におられるならば、境遇は関係ありません。
「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエル『神われらと共にいます』と呼ばれるであろう」。(マタイ1の23)

心のオアシス 2013年12月8日

 榎本保郎先生が、かつて同志社の神学生であった時、牧師に連れられて路傍伝道へ行かれたときの体験したことを書いておられます。祭りの夜であったせいか大勢の人たちが町に出てきていました。牧師が街角に立って説教をしますが、誰一人足を止めて聞く人はいません。その後、今度は若き榎本神学生がお話をすることになりました。大きな声で「皆さん!」と叫びましたが、やはり誰も足を止めてはくれませんでした。話が終わり何とも言えない気持ちで教会へ引き上げました。その時は、恥ずかしさと信仰に耳をかさない人々に対する怒りで腹が煮えくり返っていたそうです。そんな神学生の傷口にでも塩を塗るかのようにして、前をちょろちょろしていた子供たちが「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」とからかいました。振り向いてにらめつけてやったとのこと・・・ 教会へ帰ると牧師はすぐに感謝祈祷をしようと言われましたが、またそれに腹が立ちました。「何が感謝や! 腹が立ったら腹が立ったっていいじゃないか! そのほうがよほど正直や!」と内心思いましたが、そこで歌った讃美歌536番の歌詞「むくいを望まで、人に与えよ、こは主のかしこきみ旨ならずや。水の上に落ちて流されし種も、いずこの岸にか生いたつものを。浅き心もて、ことを計らず、み旨のまにまにひたすら励め。風に折られしと見えし若木の、思わぬ木陰に人もや宿さん。」歌いながら自分の信仰のなさを恥じたと告白されています。     
 その20年後、榎本先生は牧師になっておられました。ある日、先生の教会に同志社の神学部の新卒生が派遣されてきて、彼と面接しながら住所を見たところ、かつていた教会の近くだったので、当時の路傍伝道の苦労をお話しされました。彼はその話の終わるのも、もどかしげな表情でこう言いました。「先生、あの時に『アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン』と言ったのは、この僕です。」先生は、あまりにもくすしき神の御業に、しばらく何も言えなかったと証ししておられます。
 
 先週は、何年も祈られ、私も訪問してきた80歳の女性がイエス様を受け入れ、洗礼を受けました! 人の時ではなく、主の時を感じました。

心のオアシス 2013年12月1日

「自分を振り返る鏡」というタイトルのお話です。
 ある町に不満ばかりを言っている人がいました。誰も彼の不満や愚痴から逃げることはできませんでした。ある日、彼は道で旅人に出会いました。やはりその旅人も、彼の隣人に対する不満を聞かされました。「今まで、これほど醜い人たちは初めてですよ。町の人たちはみな、人を助けることを知らず、利己的です。何より悪いのは、互いに中傷するのを止めないんですよ。」
 実は、その話を聞いていた旅人は天使でした。天使が聞きました。「それは本当ですか?」 男は答えました。「私の言うことが信じられませんか?」 するとその男が続けて言いました。「ほらほら、向こうから歩いてくるあの男を見てくださいよ。名前は知らないけど、顔は知っていますよ。あの小さくて切れ長の目、唇には貪欲があふれ、背中を丸めて、ずる賢くペコペコしていますよ。歩いているというより、こそこそと這っているようですね。」 天使が言いました。「あなたはすべてを把握していますね。大変頭の良い方ですね。しかし、あなたには一つ見えていないことがあります。あれは鏡なのですよ。そして、あなたが非難していたあの男は、あなた自身なのです。」

 「他人は自分を映す鏡」と言われます。他者が自分のことを大切にしてくれないと感じる時、実は自分も他者を大切にしていない。また他者の対応に不満を持つ時、実はその対応こそ自分が相手にしている対応であることが多いそうです。
 マザーテレサの愛した祈りの中に、「慰められるよりも慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりは愛することを」というのがあります。私たちは誰かから慰められること、理解され、愛されることを求めています。でも、本当は他者に与えていく人生の方が、幸せなのでしょうね。私たち自身の総点検をしなくてはいかなければ・・・。
 「受けるより与える方が幸いです。」(使徒行伝20章35節)

心のオアシス 2013年11月24日

ある病院での出来事・・・
寝たきりで首も動かせない男性が病室に運び込まれたとき、もう一人の患者が窓際のベッドに横たわっていました。お互いに親しくなると、窓際の患者は窓から外を眺めて、外の世界について詳しく話をしだしました。「今日は良い天気ですよ~。青空にぽっかり雲が浮かんでいます。向かいにある公園の桜が咲き始めたところですよ。」別の日には、「今日は風が強い日ですから、木の葉が揺れて、まるでダンスを踊っているようですよ~」などと、寝たきりで首さえ動かせない彼に語って聞かせてあげていたのです。彼は窓際の男性が語るその光景を想像することで、毎日毎日、心が慰められました。そして、自分も外の世界が見えるように早く病気を治そうと思うのでした。しばらくして、窓際の男性は退院することになりました。もう一人の男性は喜びました。「やった! これで、自分が外の世界を見ることができる。これからは、自分が窓の外の世界を見て新入り患者に話して聞かせてやろう。」看護師にベッドを窓際に移すように頼むと、すぐに聞き入れてくれました。しかし心躍らせて窓の外に目をやった彼は、愕然としました。窓はコンクリートの壁に面していて外の世界など何も見えなかったのです。それから彼は考えました。あの窓際の男性は、一体何を見ていたのでしょう? 彼の目に見えていたのは灰色の壁でした。しかし想像の力で、その向こうにあるものを見ようとしていたのです。そして、ただ天井を見ることしかできず、いつも辛そうにしているルームメイトのために、自分の思い描いた壁の向こうの世界を話して聞かせてくれていたのです。同じ壁を見て、ある人はその壁だけを見ます。しかし信仰の人は、その先にある「希望」を見ます。
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」(ヘブル12章2節) 私たちには揺るがない希望があります!

心のオアシス 2013年11月17日

ある日、一人のクリスチャンが登山に行きました。しかし途中で滑って落ちてしまいました。不幸中の幸いにも崖っぷちに松の木が生えていて、その枝を掴むことができたので、断崖絶壁から落ちることからは免れました。松の木にぶら下がっている状態だったので、一人で崖の上に登ることは不可能です。そこでその男は叫びました。「誰か助けてください! 上に誰かいませんか?」叫んでいると声が聞こえてきました。
神「私がここにいるから心配するな!」
男「誰ですか?」
神「神である!」
男「おぉ、神よ、私を助けてくださったら、私は命をあなたに捧げます!」
神「では、あなたは松の枝を握っているその手を今、放しなさい!」
男「神さま、そんなことをしたら落ちて死んでしまいます・・・」
神「あなたの信仰の通りになるから、手を放してごらんなさい」
しばらくそこに沈黙がありました。そしてその男は上に向かって叫びました。「すいませんが、上に神さま以外の人はいませんか?」
これは笑い話ではありますが、核心部分を突いていると思います。自分の思い通りに事が進んでいる時には、満足できるのですが、想定外のことを差し出されたら、それをなかなか受け止めることができないのが私たちです。
神は、私たち人間を造られたときに、「神のために生きる」というプログラミングをされました。しかし自分のために生き始めた時に、誤作動が生じ、様々な問題が起こったのです。この世の中には、不条理やストレスで満ちています。それは誤作動したまま生き続けようとする人間の罪の結果です。自分のやり方で上手くいかなくなったら、是非、神さまのやり方に委ねてみてください。その第一歩は「祈る」ことです。
「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。」(詩篇121:1・2)

心のオアシス 2013年11月10日

ケント・キースが綴った「それでも」という詩をご紹介します。
人は、わからず屋で、不合理で、自分勝手なものだ。それでも、人を愛しなさい。
人に親切にすれば、利己的な動機や裏があるにちがいない、と人はあなたを非難するだろう。それでも、親切にしなさい。
もしあなたが成功すれば、偽りの友達や真の敵ができるだろう。それでも、成功するために努力しなさい。
率直で誠実であることで、あなたは傷つきやすくなってしまうかもしれない。それでも、率直であり、誠実でいなさい。
あなたが今日した良い行ないは、明日には忘れられてしまうかもしれない。それでも、良い行ないをしなさい。
最も大きな考えを持っている偉大な人たちは、最も心の狭い未熟な人たちに打ち砕かれてしまうかもしれない。それでも、大きなことを考えなさい。
あなたの持っている最高のものを世の中に与えなさい。その結果、ひどい目にあうかもしれない。それでも、あなたの持っている最高のものを世の中に与えなさい。

先日、KCFの青年メンバーが結婚しました。お相手は私がずっとお祈りしていたクリスチャン女性。16年前、本人は当時中学2年生の時、お父様を病気で天にお送りしました。私が葬儀を担当したこともあり、ずっとお祈りしてきましたが、数ヶ月前に彼女がこんなメールをくださいました。「この16年間、色々な辛いことがありましたが、乗り越えることができたのは、神さまにしがみついていたからです。神さま無しの今の私はありません。」牧師の手の届かないところで、神さまが確実に一人の人物に触れ励まし支えていてくださっていたことに心から感謝を捧げました。「それでも」あなたは神さまにしがみついていられますか?

心のオアシス 2013年11月3日

ある青年が仕事の移動中に乗った電車での出来事を投稿していました。
僕の隣には、幼稚園くらいの女の子が、母親らしい若い女性と一緒に乗っていた。途中、駅で片腕のない女性が乗ってきて、僕たちの向かい側に座った。女の子が「お母さん、なんであの人は手がないの?」と、みんなに聞こえる声で言ったので、僕は一瞬ドキッとして、女性と親子から思わず目をそらした。が、母親らしき女性は慌てることなく、女の子に向かって言った。
母親「いろんな人がいるの。みんなが同じじゃないの。あなたにはおじいちゃんとおばあちゃんがいないでしょう?」
女の子「うん、みんなにはいるけど私にはおじいちゃんとかいないね」
母親「うん、いろんな人がいるけど、おじいちゃんやおばあちゃんがいないのは、あなたのせいじゃないでしょ?」
女の子「うん、違う。あ、友達の中に父さんいない子いるよ」
母親「そうで、でもそれはその子のせいじゃないよね? だからね、みんな同じじゃないの。みんなそれぞれ、持ってるものと、持ってないものがあるのよ。でもね、持ってないからといってその人は何も悪くないし、他の人と何も違わないのよ」
 腕のない女性を含めて、車内に乗り合わせていた人たちはみんな暖
かい目でその親子を見守っていた。思わず目をそらしてしまった自分
が恥ずかしくなった。

 マザーテレサは、願っている方向へ物事が進まない時、「私達は急い
でいても、神さまは急いでいらっしゃらないようですから・・・」ま
た経済的な必要に迫られたとき、「お金なら大丈夫です。神のご意志
なら集まります。集まらなかったら、主がお望みではなかったという
ことです」と言いました。神に委ねるなら「今」を満足して生きたい。

心のオアシス 2013年10月27日

「俺の人生は、ヤツに救われた」という投稿された文章です。
一番古い記憶でも、幼稚園の頃から俺はずっといじめにあっていた。友達はいなかったので、本ばかり読んでいた。大学は地元を離れた。今更ねじれた根性が直る訳もなく、やはり俺は一人きりだった。たまたまクラスが同じになり、たまたま俺の前の席に座ったのは、見た目も性格も素晴らしい男だった。しかし俺はヤツを警戒し、接触は極力避けるようにした。しかしヤツは何の気負いもなく笑顔で話しかけてきた。どもって黙っていてロクにコミュニケーションもとれない俺に一方的に話しかけて笑っていた。なぜか俺とヤツは一緒に行動するようになっていた。同じ授業を選び、ヤツの勧めで同じサークルにも入った。とは言え、まだ本音で付き合っていた訳ではなく、一定の距離は置いていた。夏の日、サークルの部屋に入る直前で中の会話が聞こえてきた。同じサークルの女子連中が、「なんであんなのと、つるんでるの?」と聞いていた。今更他人にどう評価されようと知ったことではなかったが、これはヤツの気持ちを知る良い機会ではあった。「おい、今『あんなの』と言ったか? お前らにあいつの何がわかる?! 俺やお前なんかかなわない位、すげー生き方してきてるんだ。 なんでつるんでるか聞いたよな? あいつは『いいヤツ』だからだよ。」その後、ヤツからメールが来た、「サークル辞めようぜ。つまんねぇや」それからもヤツとはつるみ続けて、気づいたら人並みなりの人間関係もできていた。俺の人生は、あの大学のあの日、ヤツに救われたといっても過言ではない。今、何とか真っ当に生きていられるのだから。今でも連絡は取り合っている。骨髄移植が必要になっているようだ。ヤツを死なせる訳にはいかない。明日、会社を休んで病院に行く。きっと俺の骨髄は適合するだろう。しなければならない。それが、俺が生まれてきた意味の一つに違いないはずだから・・・
イエス様とつるんでいれば、万事OK! 何とかなります!