礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2014年10月12日

 ある人が、古本屋で一枚の古い地図を安く買いました。それを買った価格より少し高い値段で売ろうとしましたが、結局その地図の買い手は見つかりませんでした。彼はその地図を売ることも捨てることもできず、本棚の隅に押し込みました。ある日、歴史学の教授である友人が家に来ました。いろいろと話をするうち、ふと地図のことを思い出して、言いました。「随分前に古本屋で買った地図があるんだが、一度見てくれないか? もちろん、そんなに大したものではないだろうけどね・・・」その友人は難しい頼みでもなかったので快く引き受けました。そして本棚から持ってきた地図を見てすぐ、友人は驚きの声を上げました。その地図は、ルイ14世の当時に王の命令でパリの市街地を描かせた地図だったのです。地図は1650年代に描かれたもので、当時のお金で計算すると100万ドル(約1億円)以上の価値のある宝物でした。彼は溜息をつきながら友人に言いました。「私がもう少し早く知っていたら、今よりいい暮らしをしていただろうに。しかし、誰のせいでもないよ。私が知らなかったせいだから・・・」 

 ニック・ブイチチは、四肢欠損症で生まれたオーストラリア人です。彼は物心ついたころから自分の人生の意味も価値も見いだせませんでした。神に「どうして僕を手足のない形に作ったのか?」と問い続けていました。ある日、神さまから「あなたはわたしを信じるか?」この質問に「はい、信じます」と答えたときに全てを受け入れられるようになったと彼は告白しています。そして「たとえ手足があったとしても平安は得られないことに気付きました。この世には、僕に満足のいく答えを与えてくれるものは何もありませんでした。自分は何者で、何の価値があり、どこへ行くのか・・・イエス・キリスト以外に答えを見つけることはできなかったのです。」
 絶望しか残っていない人物に、生きる意味と希望を与えることができる宝が、あなたのすぐ目の前にもあることに気づかないのは、大損です!

心のオアシス 2014年10月5日

 韓国での5年間の学びを振り返ると、神様が働いていて下さったんだな、と思える出来事がいくつもありました。韓国へ最初に行った時は韓国語が話せなかったので、良い友達が与えられるように祈りました。すると、最初のルームメイトである台湾人の留学生と仲良くなることができました。毎朝一緒にデボーションをしたり、夜には祈祷会をしたりして、信仰の友を得ることができました。
 あるとき、その友人が祈りのリクエストとして学費が不足していることをあげました。今学期の学費が払えていないため、もう大学を辞めなければいけないと泣きながら祈っていました。その時私が父を少しでも助けようとアルバイトを掛け持ちしながら貯めていた貯金があったのですが、友人が必要としていた金額と同じだったのでこのように祈りました。「神様、このアルバイトもお金も神様が下さったものです。神様が喜ばれるように使うことができますように。私の学費や父の助けは神様が下さると信じます!」そして貯めていた全額を友人に渡しました。
 その次の週、私がインターンをしていたヨイド純福音教会から一本の電話が掛かってきました。「外国人の神学生を助けたいと、4年間の学費を出してくださるという長老様がいるんだけど、恵さんを推薦しましたよ。」こうやって神様は不思議なようにして4年間の学費を与えてくださいました。また、それは父が大阪へ開拓をしに出た年でもありました。後に父から、「子どもの学費をこの先どうしようかという不安はあったけど、神様を信じて関西に出てきたんだよ。恵から奨学金の話を聞いた時は本当に驚いたし、神様に感謝したよ。」といわれました。神様は人々の心からの祈りに、必ず最善の形で答えて下さる素晴らしい神様だな、と実感した出来事でした。(文責:小崎恵)

 右も左もわからずに留学した娘が、親からの経済援助はほとんど無しで学校を卒業してしまいました。娘に能力があったからでしょうか? いいえ、「この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストです」(聖書)

心のオアシス 2014年9月28日

 マックス・ルケードの「贈り物」という本に出てくるお話です。
 ある少年が犬を買いにペットショップにやってきました。ペットショップの主人は少年に犬を何匹も見せました。少年は犬を抱いたりしながら、じっくり選んでいました。「どれを選んだんだい?」「また今度にします。ところで一匹いくらなんですか?」主人が値段を言うと、少年は数日後にまた来ると言いました。「なるべく早く来たほうがいいよ。この犬たちはすぐに売れてしまうから」少年は何かを確信しちょうにニッコリと笑い「心配ありません。僕が選んだ犬は、その時まで絶対に残っていると思うから」と言いました。
 それから少年は、一生懸命お手伝いをしてお金を貯めました。そしてそのお金を持ってお店に行きました。店の主人はお金を数えた後、ニッコリ笑って言いました。「よし、好きな犬を持っていっていいよ。」すると少年はやせ細った足の不自由な犬を選んできました。主人は少年を止めて言いました。「その犬は止めた方がいい。君と遊んだり走ったりできないし、ボールを取ってくることもできないよ。もっと元気な犬を選んだらどうだい?」少年は首を横に振って、答えました。「この犬が一番欲しかったんです」少年が店を出るときに主人は何か言おうとしましたが、言葉を飲み込みました。その訳がわかったからです。少年のズボンの下から義足が見えたのです。なぜ、少年はその犬を選んだのでしょうか。足を引きずりながら歩く犬の気持ちを知っていたからです。そして、その犬が本当に特別であると分ったからでした。

 イエス・キリストは、私たちの罪の世界にまで降りてきてくださって、私たちと同じ生活をされました。人の裏切りを経験され、寂しさや孤独や罪の誘惑にもあわれました。だからこそ、私たちを理解し、あわれみと恵みを一方的に与えてくださることができるのです。
 この神様の恵みを知れば、人生における問題の全てが解決するといっても過言ではないでしょう。一度お試しになってみてはいかがですか?

心のオアシス 2014年9月21日

 ジョン・ホンジュンという先生が「夢を捨てなさい」という書物の中でこう書いておられます。「神が約束された地は、永遠のいのちの地です。神はキリストを信じる者にその地を約束されました。問題は『私たちがその約束を信じるか?』です。神が約束された地に入ることができるなら、きょう私が涙を流したとしても、病気で苦しんだとしても、たいしたことではありません。神の真実さは、私たちの短い人生を数年もしくは数十年引き伸ばすかどうかの次元ではありません。私たちが本当に神の約束を信じるなら、神は私たちの死までも責任を取ってくださいます。神が責任を取ることのできないことは、私たちの人生には起こりません。問題は『私たちがそれを信じるか?』です。神を信頼しますか。神の約束を信じますか。そうするなら、死んでも生きるのです。」

 私たちは「点」としての現実を見て悩んだり苦しんだりします。点だけを見ていると、その時その時の現状に振り回されながら、一時的な応急処置をしながら生きることになります。しかし、神さまは永遠の世界から「線」として現実を見ておられます。線ということは、繋がりがあり、続いているということです。その場だけで結論を出さないということです。聖書を調べても、アブラハムの一代だけで歴史を完成されたのではなく、イサク、ヤコブへと信仰のバトンが受け継がれ、今現在に至っているのです。神さまは、私たち一人一人に、その人でなければならない壮大なご計画を持っておられます。ですから、無駄なく神さまが与えてくださっているエコな人生を送ろうではありませんか!

 先週、教会メンバーの一人が家族向けのHPを開設されて、その一部を友人にも公開しておられました。その中に「これからの人生で一番大事にして欲しいことは、イエス・キリストを第一とすることです・・・」と、家族への遺言のような内容が綴られていました。私たちはいつ召されるかわかりません。次世代へ信仰バトンを渡していかなければならないと改めて考えさせられました。私たちは、神さま主催の信仰リレーの選手です。確実にバトンを渡せますように祈ります。 

心のオアシス 2014年9月14日

 四肢欠損症という稀な病気のために、腕と脚のない身体で生まれたオーストラリア出身のニック・ブイチチは、今、神の手足として世界で用いられています。生まれて間もなく医者は両親に「この子は将来、歩くことも、学校へ行くこともできない。」と宣告しました。しかし両親はニックに「あなたには神さまからの特別な使命があるから」と励ましながら育てました。ところが彼は成長していくにしたがって、「どうして神は他の人のように自分に手足を与えなかったのだろうか?」と、神に対する怒りと周りへの憎しみを持つようになりました。自分のことは誰も理解してくれないという寂しさ、将来への不安、人の世話になりながら生きなければならない「自分」という存在の虚しさ。学校へ行く理由もわからなくなりました。そして10歳の時に自殺をするため浴槽に身を沈めようとしましたが、両親を傷つけることになると思い断念しました。15歳のとき、聖書の中の生まれつき目の不自由な男性の話を読みました。何故、目が見えずに生まれてきたのか誰にもわかりませんでしたが、イエスさまは、「この人に神の栄光が現れるためだ」と言われました。この時、ニックに嵐の雲を突き抜けるような神さまの喜びが注がれました。何故、神が彼に腕と脚をくださらなかったのか、その理由はわかりませんでしたが、だからと言って、何かの間違いでそのように生まれたわけではないことがわかりました。ただ神さまが将来と希望を与える素晴らしいご計画を持っておられることを信じることができたのです。彼はこう言っています。「『よく人から、あなたは手足をくださいと祈っていますか?』と質問される時があります。もちろん、手足はほしいです。でも与えられなかったとしても落ち込みません。与えられても、与えられなくても、僕は奇跡を信じています。神さまは僕にとても大きな使命を与えてくださいました。手足がないゆえに、世界中を飛び回り、数知れない人たちに勇気を与え、何十万人という人たちがイエスさまを信じました。僕に手足がなくても、神さまは、僕を神の手足をして使ってくださっているのです。」

 あなたも神の奇跡です。決して諦めないでください。

心のオアシス 2014年9月7日

 比較を常にしてしまいがちの人は、劣等感の塊、または優越感の塊になりがちです。私と全く同じ人間は、世界広し、宇宙広しといえども、二人とおりません。オーストリア出身の宗教哲学者、マルチン・ブーバーは、「この世に新しく生まれいずる赤ん坊は、それまで誰も持っていなかった新しいもの、独自なものを持って生まれて来る。その人の生まれる前に同じ人は一人もいなかった。その人が死んだ後、同じ人は一人としてこの世に現れることはない。もしあったとしたら、その人は生まれて来る必要はなかったのだ。その人は、自分が唯一の、独自な人間であることを知る義務がある」ということをいっています。たとえ自分がどんなに惨めになっても、人と比べて「どうして私はこんな馬鹿なことをしたのだろう。こんな取り返しのつかないことをしてしまったのだから、もう死ぬよりほかはない」と思ったりしないようにしましょう。確かにそういう時もあります。私も自己嫌悪に陥って、「私なんかこの世の中に生きていていいのだろうか」とシスターになってからも思ったことがあります。その時は、マルチン・ブーバーの「人にはその人にしか果たせない使命がある、その人しか与えることができない愛がある」という言葉を自分に言い聞かせて、どんなに辛い時でも、自分で自分のいのちを断つ、または劣等感の塊になって自らをさいなむようなことはやめようと思いました。
(渡辺和子著「それぞれが“たった一つの花”として咲く」より抜粋)

 ヒマワリは、どんなに頑張ってもアサガオにはなれません。アサガオもヒマワリにはなれません。私たちは他者と比較して悩むことが多いのですが、神さまは、私たち一人一人に与えられた独自性を、精一杯咲かせることで、その使命を全うすることができるように造られました。

 毎週訪問させていただいている難病と戦う86歳の隅谷光さんの言葉が輝いていました。「残りの生涯、聖書を通読していこうと思います。それが今、私が生かされている使命だと思っています。」アーメン!!!

心のオアシス 2014年8月31日

私たちの人生には、さまざまな荒波やハプニングが起こり、毎日を平穏に過ごすことは大変難しいというのが実感です。心乱されずに、コツコツと自分のするべき使命を全うしていくためには、どうしても「神がここにも共におられる!」という信仰がなければできないことだと思います。マザー・テレサの「あなたの中の最善なものを」という詩です。

人は不条理 非論理 利己的です
気にすることなく人を愛しなさい
あなたが善を行なうと 利己的な目的でそれをしたと人は言うでしょう
気にすることなく善を行ないなさい
目的を達成しようとすると じゃま立てする人に出会うでしょう
気にすることなくやり遂げなさい
善い行いをしても おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなくしつづけなさい
あなたの正直さと誠実さがあなたを傷つけるでしょう
気にすることなく正直で誠実でありつづけなさい
あなたの作りあげたものが壊されるでしょう
気にすることなく作りつづけなさい
助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
気にすることなく助けつづけなさい
あなたの最善のものを世に与えなさい けり返されるかもしれません
でも気にすることなく最善のものを与えつづけなさい

 この詩のような生き方を完璧にこなされたのはイエス・キリストさまです。不条理、非論理、利己的な人間に対し、また様々な邪魔や批判をされ、信頼していた弟子たちにも裏切られ、十字架につけられましたが、気にすることなく私たちに一方的に愛を注ぎ、最善を与え続けてくださいました。今日もコンスタントに変わらなく導いてくださっています。

心のオアシス 2014年8月24日

 私たちの神学校では、説教者と牧会者コースがあります。そのカリキュラムは、さまざまな科目によって構成されていて、その中には学生達が嫌うギリシャ語、ヘブル後、組織神学などがあります。科目自体も難しいのに、教授まで厳しいとさらに嫌になってしまいます。たとえば、ある組織神学の教授は非常に厳しいので「組織のボス」というあだ名をつけられました。実際、これらの科目の勉強は簡単ではありません。とても苦しい時間を経なければなりません。しかし、学生たちはその事実を知った上で受講しているので、なぜそのような科目があるのかと不平を言ったりはしません。むしろ、その大変な科目がなければ、まともな説教者や牧会者になることができないことを知っているため、自ら志願し、喜んでその訓練を受けているのです。
 神は、私たちをイエスに似た者へと変えようとされます。それが主の関心事なのです。神は私たちの幸せよりも聖さに関心を持っておられます。ですから、時には苦しみや問題の中に私たちを置かれたりもするのです。今日、クリスチャンがちょっとした苦しみに会っただけで簡単に喜びを失ってしまうのは、このカリキュラムを理解できないからです。イエスを信じるということは、十字架を負って歩まれた主の後に従って行くという意味です。その過程には苦しみもあり、難しさもあります。それが神のカリキュラムです。何をするにしても、どんな状況でも、神の観点から物事を見るようにしましょう。
イ・ジェギ牧師著「天の光・喜び」より抜粋。

 先週のメッセージをインターネットで聴いた方から、「今は、本当に時間がなくて、忙しく息を休める暇もないほど、通常では対処できないことまで対応してきたことは、この神さまのカリキュラムがあって今の知識や技術や能力が磨かれ、今の自分を作り上げて完成へと向かっていることを知り、苦しいほど感謝が溢れ出しそうな気持ちとパワーをもらいました・・・」とメールをいただき私も力をいただきました。栄光在主!

心のオアシス 2014年8月17日

最近、日曜礼拝のメッセージは旧約聖書の人物を取り上げてお話させていただいています。先週の創世記28章は私の好きな箇所でした。
ヤコブはお兄さんの怒りをかい、命の危険が迫る中、追いやられるようにして、500キロ離れた土地への旅を余儀なくされました。出発してから間もなく、ある場所で石を枕として寝ていたときに、天と地を結ぶはしごを、天使が上り下りしている夢を見ました。そして主が近くに立ってこう言われたのです。「わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」 一人ぼっちの寂しく、また様々な危険も伴う旅でした。しかしその言葉にヤコブは励まされてこう言いました。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった! これは神の家である。これは天の門だ!」この後、ヤコブは長い旅を経て、叔父ラバンの下で、長い期間、無報酬の労働をしなければならなかったのですが、この主の言葉にしがみつきながら乗り越えることができたのです。ヤコブにとっては、神を感じることができないような場所で、精神的にも肉体的にも限界を感じている状況の中に、神がすぐそばにおられるということに気づいて驚きを覚えたのです。ですから「神がこんなところにいてくださっていたなんて知らなかった」と告白しているのです。

「あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(Ⅰコリント10章13節)とあるように、神さまは前もって、必要な力と知恵と励ましを与えてくださっているのです。

ナチの強制収容所に入れられ、奇跡的に生還したコーリ・テン・ブーンが、ナチに捕まる前の父子の会話に励まされます。「お父さん。私はこれから起こる試練に耐えられるかどうかわかりません」お父さんは言いました「汽車に乗る時、お父さんは、いつコーリに切符を渡したかな?」「乗る前よ」「その通り! 天の父なる神様も同じように、私たちが迫害や苦しみを受ける前に、それに耐えうる十分な恵みを、既に与えてくださっているのだよ」 日々の歩みの中で神さまを発見してみましょう!

心のオアシス 2014年8月10日

神の存在を否定すれば、人間の尊さの根拠はなくなってしまいます。進化論を教える日本の現代社会でも「命は地球よりより重い」と唱えています。しかし、神を否定しながら「命は地球より重い」ことの客観的な根拠を提示できるのでしょうか? 地球上にあった物質から偶然に進化してきただけの生き物が、「自分は尊い」などと宣言はできないでしょう。それは人間社会でいい慣わしてきた通念か、人間の単なる願いであり、根拠もなくそう思っているだけの共同幻想だと言えます。

以前に私の友人牧師が語っていた内容です・・・人間は「直立歩行する」「知能が発達している」「言語をもつ」「道具を使う」から尊いなどとはいえません。それは人間が自己尊厳を正当化するために考え出したことにすぎません。それは白人が「我々は背が高く、色が白く、文化が進んでいるから尊い」と優越意識を持ち、有色人種を蔑んできたのと同じです。それが許されるなら、チーターは「早く走れるから」、ハヤブサは「空を早く飛べるから」尊いと、勝手に主張することができます。誰が、命は尊いと決めたのですか? 人間です。人間は何を根拠に命は尊いと決めたのですか? それはただ、死ぬのが怖いからです。自分自身のかわいい命を守るために、命は尊くあらねばならないのです。とにかく命は尊いものであってほしいのです。それ以上の根拠はありません。学校教育でいくら人間の命は尊いと教えても、人間が物質から化学進化し単細胞生物から進化を遂げた存在であるかぎり、白々しいだけです・・・

そう考えると、私たちの存在価値を示すことができるのは、「神」という存在があってからこそなのです。創造者である「神」が、人間を尊いものとして造り、尊いと思い、尊く扱ってくださるからこそ、人間は尊いのです。創造者であり絶対者である「他者」に尊いと宣告されていること、これ以外に、人間が尊いとされる絶対的な根拠はありません。
先日、生産性も記憶力も乏しく、人から介護されなければならない、世から見れば価値なしと言われるような施設のご高齢の方々に「あなたは高価で尊い存在です!」(イザヤ43章)と確信をもって語ってきました。