礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2021年10月17日

 「多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」(ヨハネ2:24)
 ヨハネによる福音書の中には、「しるし」という言葉が多く見受けられます。それは奇跡のことをそう表現しているのですが、何故「しるし」なのでしょうか? 英語ではSign(サイン)と書きますが、これはそれそのものが重要なのではなく、それが指して人や物が大切なのです。大勢の人が奇跡を見てイエスさまを信じたのですが、主は彼らを信頼しなかったというのです。奇跡により心動かされ信じても、その感動は一時的なものに過ぎず、感情はいつか必ず冷めるものです。しるしだけを求めるなら、試練の時には立ち行かなくなってしまいます。必ずつまずき、離れ去ってしまいます。それは軸が自分にあり、自分が中心なので、自分のための信仰で、自分に得るものが無ければ離れてしまうのです。
 主は奇跡をされた時、必ず御言葉によって行われました。しかし人々は、そのしるしが指し示している“御言葉”や“イエスさまは救い主”ということより、目に見える奇跡の方に心奪われ、夢中になり奇跡を見て信じた人々は、皆、去ってしまいました。出エジプトを経験したイスラエルはあれほどの、神の超自然のわざを見たのに、すぐ荒野でつぶやき、荒野でも奇跡を見続けたにかかわらず、結局約束の土地に入れず、荒野で不信仰のゆえに滅んでしまった。奇跡的に物事が動くとすぐにこれが御心かと思う。それ程、人はしるしを求めてしまう。  
 イエスさまの弟子たちも、しるしを見て信じていたときには、危機が迫るとすぐに逃げ、不安と恐れが支配していました。しかし彼らが本当の意味で変えられたのは、「聖書とイエスさまが言われた言葉を信じた」(ヨハネ2:22)時からだったのです。彼らは殉教をも恐れない宣教者になりました。私たちが試練を乗り越える秘訣は、これしかありません。
 自分の側に立つと、奇跡があるかないか、問題が解決するかしないか、病が癒されるかどうかが気になりますが、神の側に立つと、主が戦ってくださるから大丈夫、という安心感に変えられるから不思議です。

心のオアシス 2021年10月10日

 もう30年近く前の話になるが、私がアメリカはロサンゼルス郊外にあるラグナヒルズという場所で、日本人教会の開拓をしていた時代に、アナハイムにあるスタジアムでハーベスト・クルセードというアメリカの教会が協賛して行なう大きな集会が毎年なされていた。そこには数千人の人たちが集まり、プロのミュージシャンたちによるゴスペルやダンス、そして当時はグレッグ・ローリー牧師による初心者向けのわかりやすいメッセージが語られるという素晴らしい時間でした。そこでの私の一番の感動は、メッセージの後に「今日、イエス・キリストを救い主として信じたい方々は、お祈りしたいので客席から立ち上がって、舞台のあるフィールドに降りてきてください。」という招きがあると、数百人の人たちが列をなして降りてくるのです。中には穴の開いたジーンズに髪の長いヒッピーや、入れ墨を入れたいかつそうな男性もいる。涙を流しながら友人や家族がその後に続いている。電光掲示板には、“Welcome to the family of God”と表示され、救われた魂に対する喜びと歓迎の拍手が鳴り響いている。そしてその背後でゴスペル歌手によって“Come Just as You Are”(ありのままで来てごらん)という歌がその感動を倍増させていた。歌の内容は、「ありのままで来てご覧なさい。活ける水を味わえば、二度と渇くことはありません。聖霊の呼びかけが聞こえませんか? Come and See来て見てください」とても美しい光景であった。
 Come and See・・・これはイエスさまが言われた言葉です。よく教会へお誘いすると「今の自分は罪深すぎて教会なんて行けません。もっとまともになってから行きます。」とか「聖書の知識がないから無理です。」とか言われる方がいるが、もしそうだとしたら私も牧師になっていなかったでしょう。ただありのまま来てイエスさまに出会うだけでいいのです。行ないとか知識ではなく、イエスさまに出会ったら、人生が変えられるのです。これがキリスト教は宗教ではないと言われる所以なのです。
 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)

心のオアシス 2021年10月3日

 ダビデとゴリアテの対決の記事は、旧約聖書の中では大変有名な箇所です。ゴリアテは身長2メートル86センチの巨体で、身に着けている鎧兜は57キロ、持っているヤリは6.8キロという威圧感満載の大男でした。そして彼が吐く暴言に対してイスラエルの人々は、恐れ震え縮み上がっていました。そこに父親の下で羊飼いとして働いていた当時中高生位の年齢であったダビデが、父親の言いつけでイスラエル軍の中いたお兄さんたちに弁当を持って戦場近くに行った時に、敵であるペリシテ軍とあのゴリアテが上ってきて、イスラエルに対する脅し文句を聞きました。ダビデは思いました。「あの神を信じない人たちは何者なので、生ける神の軍に挑もうとしているのか?! 主がペリシテ軍と戦って、やっつけてくださるだろう!」そして彼は武具をつけて出て行こうとするのですが合うサイズがなく、あまりにも重すぎて動けないので、全部脱いで丸腰状態でゴリアテの前に立ちました。持っているものは、谷間で拾った5個のなめらかな石と羊飼いをしている時にオオカミを散らすときに使う石投げだけでした。それは滑稽な姿だったことでしょう。武装した頑強な巨人を前に、弁当を届けにやってきた一人の羊飼いの少年が、立っているのです。しかし数分もかからないうちに、ダビデが放った一発目の石がゴリアテの額に当たり倒れてしまいました。
 ダビデの勇気はどこから出てきたのでしょうか? それはダビデから出た次の言葉にヒントがあります。「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。」(サムエル上17:45)ポイントは、相手の大きさと自分を比べていなかったというところです。彼が比べていたのは、相手と神さまの大きさでした。“自分”を用いて生ける神が戦ってくださるという信仰です。
 私たちも自分の実力や能力と問題を比べると押しつぶされそうになります。どうぞその時にこそ主を見上げてください。主は、私たちの問題よりも、病よりも大きなお方です。主がご一緒ならば何とかなります!

心のオアシス 2021年9月26日

 “イスラエル”は、ヘブライ語で「神の支配」という意味である。その名の通り、始祖であるアブラハムから約千年間は王政ではなく、“神”を王とする神権政治であった。エジプトから脱出し約束の土地(カナン)に入ってからは、霊的指導者(士師)が神の言葉を受け民に伝え、それに従うという政治形態であった。ところが紀元前千年頃に、士師サムエルに継ぐ妥当な後継者がいないことを理由に、周辺諸国のように「“王”が欲しい!」と叫ぶようになった。これは私たちにとって真っ当な主張のように思えますが、イスラエルにとっては掟破りだったのです。なぜならイスラエルはその名のごとく“神が支配”する国であり、創造主を“王の王、主の主”として従うために呼び出された民族だからです。サムエルは神以外を王とすることによって起こる悲劇を伝えましたが、民は言いました。「いや、我々には王が必要です。そうすれば他の国のように“王”が私たちを導き、先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう!」と食い下がりました。“神”が先頭に立って進み行かれることを拒否したイスラエルは、自分たちの願いのまま王を立ててから堕落が始まりました。四代目の王の時代に国は北と南に分かれ、王を立てるようになってからおよそ四百年後には北はアッシリアにより、南はバビロンによって捕囚され国を失うこととなります。
 私たちには真っ当な主張や正義があるかもしれませんし、それを無視してはなりませんが、それが必ずしも神の目には正しいことではない可能性があることも意識する必要があるでしょう。なぜなら私たちの主張や正義は、自分の利得や願望が中心になっていることが多いからです。それを押し切って進むことによって、人間関係に亀裂が入ったり、多くの混乱が生み出されていきます。そしてイスラエルのような道を歩むことになりかねません。
 「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救いを見なさい・・・主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」(出14:13-14)

心のオアシス 2021年9月19日

 聖書の中に、二通りの生き方が示されている箇所がある。イスラエルが神から行けと言われたカナンの土地に入る前に、モーセは12人の偵察隊を送り込みました。任務を終えて帰ってきた10人の報告はこうでした。「私たちが遣わされた土地を見てきましたが、そこは非常に潤った良い土地です。しかし、そこの住んでいる人たちは強く、町は堅固で、私たちはイナゴのように思われるでしょう。あの土地に入ることはできません!」そして残る2人の報告はこうでした。「あの土地は、非常に良い場所です。主が良しとされるなら、いただけるでしょう。その土地の人々を恐れてはなりません。主が共におられるなら大丈夫です!」
 同じ土地を見ていながらこの二者の違いは何なのでしょう? それぞれが見ている位置が違うのです。前者は、現状と自分の実力を天秤にかけています。後者は、神が導かれる自分を客観的に見ています。自分と相手との比較ではなく、神と相手を比較しているのです。これは「自分はできる! できる!」という思い込ませとか啓発ではなく、神の実力に生きる信仰者の姿なのです。ここに自分の身を置くことができたら、肩の荷を下ろして歩むことができるようになります。
 そうは言われても、なかなか難しいことだと思うでしょう? これは教えられてできるものではなく、自分が一歩踏み出して体験しなければ理解できない世界です。一度味わってしまえば信仰に生きることが、どれほど楽であるかがわかるはずです。
 ある放送局の新入社員はディレクターからいじめられても、全く影響がありませんでした。実は彼は財閥の息子で、父親の指示することに従えば必ずうまく行くと確信していたのです。神さまは私の父であり、人生の主人であり、私の罪をすべて取り去ってくださった方であると信じるなら、今、自分がいる場所は、人に認められるために生きる所ではなく、父なる神さまの働きのために遣わされた場所になります。私たちは、自分が「世の中の評価とは関わりのない、父なる神さまのもの」だということを悟ったとき、どんな時でも堂々としていられるのです。

心のオアシス 2021年9月12日

 聖書が示す人間の弱さの一つに「私」問題を取り上げている。実は、この問題があるために、人類は何千年経過してもストレスが軽減されることはなかった。「頑張れ!」とは言われても、頑張れない時もある。各個人には、時と場合によっても違うリミッターが付いていて、ある限界は超えられないようにできている。それを超えようとすると、病気になったり燃え尽きたりしてしまう。旧約聖書に出てくるモーセは、王子としてエジプトの王宮で育てられ、40歳になった時に思い立ちました。「“私”は今が一番脂の乗った年齢だ。地位も金もある。今ならイスラエルの民は“私”を信頼して従ってくれるだろう。今こそイスラエルを虐げるエジプトから救出する時がきた!」と言わんばかりに旗揚げしたのですが、誰も付いてくるどころか彼に対する不信感でいっぱいでした。同族であるイスラエル人を虐げていたエジプト人に腹が立ち殺してしまうのですが、それが発覚して荒野へ逃れて雇われ羊飼いとなりました。
彼が80歳になった時、神さまからイスラエル人エジプト脱出計画のリーダーとして呼ばれました。彼はまた“自分”を見て言いました。「“私”がですか?! “私”は、もう地位も名誉も財産もありません。“私”が何者なので、私を選ばれるのですか? もう一つ言っておきますが、“私”は口下手ですよ。人々を導いていくリーダーシップは、もう“私”にはありません!」
 これが人間の“私”問題で、これがストレスになっていることに気付いている人は非常に少ないのです。特に責任感の強い人は、精神的につぶれてしまうこともあります。
それに対して神さまは、「“わたし”がイスラエルと共にいて、“わたし”が導く!」とおっしゃるのです。「委ねる」とは、自分は何もせずに怠けるという意味ではなく、自分ができるベストは尽くして、結果は神さまのご意志通りに、という在り方を言います。まさにマザーテレサの「私は神の用いられる鉛筆です。」という言葉通りです。
 “私”ではなく“神”に委ねる人生こそストレスフリーへの近道です。

心のオアシス 2021年9月5日

 四肢欠損症という稀な病気のために、腕と脚のない身体で生まれたオーストラリア人のニック・ブイチチさんは、現在伝道者として活躍されているが、生まれた当初、手脚のない我が子に両親は打ちのめされましたが、牧師であった父親や愛情深い母親の下で励まされながら育てられた。しかし、物心ついた時から、「神さまは僕のことを愛しているのなら、どうして僕に腕と脚を与える奇跡を起こしてくださらないのか?」と怒りと混乱を抱えながら成長しました。そして彼はお医者さんから言われた「あなたは歩けるようにはなりませんし、車椅子にも乗れません。」という言葉を信じて絶望の淵にいました。両親はいつも「すべてのことは神さまが備えてくださるから」と語っていましたが、それは気休めにしか聞こえていませんでした。自殺も試みましたが、実行はできませんでした。そしてその後、神様は思いもしなかった方法で彼に答えてくださいました。15歳の時、ニックは聖書の中の生まれつき目の見えない男の話を読みました。なぜ目が見えずに生まれてきたのか誰もわかりませんでしたが、イエスさまは、「この人に神の栄光が現れるためだ」と言われました。その時の気持ちを、「嵐の雲を突き抜けるような神の喜びが注がれた」と表現されています。なぜ神がニックに腕と脚をくださらなかったのか、その理由はわかりませんが、だからと言って、何かの間違いでそのように生まれたのではないことを悟りました。彼は、こう祈りました「主よ、あなたが目の見えない人を癒されたように、私に腕と脚をくださるのならば、私はあなたを信じます。しかし、たとえ腕と脚をくださらなくても、私はあなたを信じます」
 彼が23歳のとき、カルフォルニアで3千人集まる集会でメッセージした時、手足のない赤ん坊を抱っこした母親が近づいてきてこう言いました。「私は奇跡を見せてくださいと祈ってきました。今日見ました。あなたは神さまの奇跡です!」そしてニックは、赤ん坊に言いました。「大丈夫、きっとうまくいくよ!」そしてその子はニック同様、小さな脚で歩き、電動車椅子で移動し、泳ぐことができるようになりました。

心のオアシス 2021年8月29日

 人は幸せを求めながら毎日を生きています。しかし私はかなり前からこの「幸せ」という言葉に違和感を覚えるようになっていた。なぜならこの世が言っている「幸せ」と、聖書が教える「幸せ」には、大きなギャップがあるからです。例えば、「幸せになってください!」とか、「あなたたちの幸せを願っています」と語ったりすることがあるが、恐らくそこでの「幸せ」の意味は、良い学校、良い就職先、良い収入、良い結婚が与えられ、子宝に恵まれ、病気せず、悩み事なく、良い老後を迎えることだと考えられる。そして、それらのものが無ければある意味「不幸な人」として思われるのです。しかし、それらのものが無くても、幸せ感に溢れている人たちに、私は今まで沢山出会ってきた。以下はリビングライフの黙想エッセイに書かれていた内容です。
 最近「幸せになりたい。もう不幸な人生は嫌だ。私には幸せになる権利がある」という言葉を、よく聞きます。ところが、自分の幸せだけを考えていると、誰かのために自分が不幸になったとき、その人を避けるようになります。そして、自分が幸せになることが一番と考え、自分のやりたいように行動します。そうすると、ある時から主に従うのが難しくなります。神さまの言葉に従うことは、時には苦痛に感じ、また困難を伴うからです。自分の幸せが人生の基準になると、神さまの言葉は力を失い、人生の基準ではなくなります。時間が経つにつれて、よく分かってくることは、幸せは必ずしも自分を前に進ませるわけではないということです。幸せは、主に対する私たちの聖なる情熱をむしばんでしまうこともあります。幸せになる権利は、神さまの祝福の中に含まれていますが、自分の手で掴むものではありません。神さまは「心を決めなさい。本当に何が重要なのかを考えなさい。あなたの人生の最期に何を残したいと思うか。人生を何によって締めくくりたいのか?」と言われます。つかの間の幸せが重要なのではありません。聖なる人生を追い求めなさいという神さまの召しに従うことを選び、その道を歩み続けることが、人生において最も重要なことなのです。(ダニエル・キム師)

心のオアシス 2021年8月22日

 誰でも平穏無事に過ごしたいと願っています。しかしながら、環境や状況、人間関係が、なかなかそうはさせてはくれません。変化が起こると、人はそれに対応できなくなることがあります。先週の礼拝メッセージは、“ヨセフ”の人生から学んだ。彼は異母兄弟たちから妬まれ、エジプトへ奴隷として売り飛ばされ、身に覚えのない罪に問われ監獄へ入れられ、忘れ去られる日々が続きました。しかしそこには、「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、...主が彼のすることをすべて栄えさせられた」と記されています。この祝福の秘訣とは一体何でしょうか? それは神さまの言葉にしがみつき、絶対的な信頼を主に置く、というです。“仕方なく”ではなく、“コンスタントに変わりなく”神さまが与えられた環境や状況を受け留め、それぞれの場所での自分の使命を忠実に果たしていったところに、思わぬ副産物が与えられたのです。
 人は不条理 非論理 利己的です 気にすることなく人を愛しなさい
 あなたが善を行なうと利己的な目的でそれをしたと人は言うでしょう 気にすることなく善を行ないなさい
 目的を達成しようとすると じゃま立てする人に出会うでしょう 気にすることなくやり遂げなさい
 善い行いをしても おそらく次の日には忘れられるでしょう 気にすることなくしつづけなさい
 あなたの正直さと誠実さがあなたを傷つけるでしょう 気にすることなく正直で誠実でありつづけなさい
 あなたの作りあげたものが壊されるでしょう 気にすることなく作りつづけなさい
 助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう 気にすることなく助けつづけなさい
 あなたの最善のものを世に与えなさい けり返されるかもしれません でも気にすることなく最善のものを与えつづけなさい
 (マザー・テレサ「あなたの中の最善なものを」)

心のオアシス 2021年8月15日

 聖書の中に「神の武具を身につけなさい」という箇所がある。それはこの世の中が戦場であることを示しています。戦場とは、辛いこと、悲しいこと、ストレスになることなど起こる場所です。その原因のほとんどは人間関係からくるトラブルです。また環境とか状況や様々な誘惑もあるでしょう。そのような戦いをどのように切り抜けていくことがベストなのかを聖書は教えています。
 創世記に出てくるヤコブは、兄のエサウから恨まれ、命の危険を回避するために一人旅をしました。持てるものは何もなく、独りぼっちの寂しさと恐怖と不安の旅でした。砂漠のど真ん中で石を枕にして寝ているときに夢を見ました。それは天と地を天使が上り下りしている姿と「わたしはあなたと共にいる!」という主の御声でした。彼はその言葉を握った時に、「この孤独と危機の最中に、主が共におられるなんて知らなかった!」と悟り元気が与えられました。それがベテルでの経験でした。それから20年経過して、叔父の元で働いていたヤコブは居づらくなり故郷へ帰るのですが、兄エサウからの復讐の恐怖がふつふつと沸き起こった時に、与えられていたベテルでの神の言葉を土台にして格闘の祈りをしました。そして彼は恐れに勝利して進むことができたのです。
 私たちは行き詰ったときに、何を頼りにして、何にしがみつきながら生きるでしょうか? 頼れる人がいれば安心かもしれませんが、なかなか上手くはいかないことが多いでしょう。その時にこそ、ヤコブが握り続けた“神の言葉”と“祈り”が最大の武器になるのです。私の経験上、ここに全幅の信頼を置くことができたら、不思議に上手くいくのです。
 「その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:16~18)
 一度お試しになってみてはいかがでしょうか?