礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2026年8月30日

 東京ディズニーランドにある若い夫婦が訪れ、中にあるレストランで彼らは「お子様ランチ」を注文した。しかしそれは9歳以下限定だとメニューに書いてある。そのようなお客さんには断るルールになっている。キャストはマニュアルにある内容以外に一歩踏み出して尋ねた。「お子様ランチは誰が食べられるのですか?」「私たちにはなかなか子供が授かりませんでしたが、やっと待望の娘が生まれたのです。一緒にディズニーランドへ行こうと願っていましたが、1歳の誕生日を待たずに神さまのもとへ召されました。そこで召天1年目を記念して夫婦でここへ来ました。お子様ランチがあったので思い出にと思い・・・」そう言って夫婦は目を伏せた。キャストの青年は、「そうですか。どうぞ召し上がってください」と応じて、この夫婦を4人席の家族テーブルに移動させて子供用イスを一つ用意した。「お子さまは、こちらに」と、まるで亡くなった子供が生きているかのように小さなイスに導いた。しばらくして運ばれてきたのは3人分のお子様ランチだった。そして「ご家族でゆっくりお楽しみください」と挨拶してその場を立ち去った。若い夫婦は失われた子供との日々を噛みしめながら、お子様ランチを食べた。後日この夫婦からディズニーランドに手紙が届く。「お子様ランチを食べながら涙が止まりませんでした。まるで娘が生きているようにして家族団欒を東京ディズニーランドでさせていただけるとは、夢にも思いませんでした。これから、二人で涙を拭いて生きて行きます。また来年も来ます。そしていつかこの子の妹か弟を連れて遊びに行きます!」
 お店のルールを破ってまでキャストは自分のことを顧みず、この夫婦のために配慮した。それによって夫婦の心が救われた。それ以上に神の正義(罪に対して罰を与える)違反をしてまでキリストは私たちの罪の支払いを十字架で完了し愛を示され信じる者を赦し救い生きる道を開かれた。驚くばかりの恵みである。

心のオアシス 2026年8月23日

 キリスト教と言うと愛と平和の神をいうイメージを持つ人も多いだろう。しかし旧約聖書を調べてみると神はイスラエル民族に対して、ある特定の民族を聖絶(根絶やし)せよと命じられている。その中のアマレク人はパレスチナ南部の遊牧民で攻撃や略奪を繰り返していた。また目的地であるカナンの土地には、あらゆる偶像を拝み、目を覆うような悪や淫らな行為を行なっていて周りに悪影響を与えていた民族があった。神は平和を望んでおられるが、時間を超越しておられる故、イスラエルが戦うことを知っておられ、その性質を用いて悪を一掃するようにされた。ある意味“悪”さえも用いて神は計画を進められたのである。また神は私たちを創造した時に、体の中にウィルスなど侵入してくると、それに対して免疫力によって防御するシステムを作られた。同じように私たちは悪影響を及ぼす者や不法侵入してくる人たちに対して憎しみはなくとも取り押さえ外に追い出すことを本能的に行なう。これは群れやコミュニティーを守るために働くものである。このように神は野放しにしていたらイスラエルにも影響を与えて破滅へ進んでしまうことを知っておられて「聖絶せよ」と言われたのである。しかし後の歴史を見ると、悪に妥協し共存の道を辿ったことが原因でイスラエルは国を失うことになる。 
 私たちは徹底的に神の喜ばれないことに対しては抵抗し滅ぼしていかなければならない。しかし自分では到底太刀打ちできる相手ではない。どうすれば良いのか? 神が戦ってくださることを期待するのである。丸腰のイスラエルが最強のエジプト軍隊に戦わずして勝利した。ただ神の言葉を握っただけである。ダビデは「あなたはわたしの敵の前で宴をもうけてくださる」と言った。敵が近づいていてもパーティーを楽しむことができる安心があるというのである。それは神が盾となり岩となり戦ってくださるという信仰からくる。花園チャペルの日曜日は、大学生をはじめ小中高生が朝から夕方、夜まで家にいるかのようにしてリラックスしている。神の臨在の中で憩っているのがわかる。神を信じる者の最大の防御システムは天地万物を創造された“神”である。

心のオアシス 2026年8月16日

 毎年、学生・青年たちに大きな変化を与えてきたキャンプが行なわれた。これを書いているのは事前なので、どうなったかは分からないが、信仰をもって良い結果を確信している。主にあっては万事益になることを信じることができることは信仰者の特権であり恵みである。少なくとも私たちの教会では、恵みの連鎖が起こっている。変化した学生を見て他の若者も「行きたい」という願いが起こる。サマリアの女性が主に出会い町に行って「来て見てください」と人々をキリストへと導いた。人生が変えられ喜びに満ちている姿を見たら見に行きたくなるものである。これが理想の宣教の働きである。
 教会の働きもそうである。難しい言葉を並べなくても、その人が輝いて生きるようになれば、人は自然とそちらの方向を見るようになる。その輝きは頑張って出すものではなく、聖霊に触れ導かれたら自然と出てくる実である。私たちがキリストへのサインになることができる。
 先週は葬儀があった。教会メンバーではなかったが、8年間ガンとの戦いの中で近くの花園チャペルが良いと考え通うようになられた。召される二日前の礼拝にも来られていた。自家栽培の野菜も沢山届けてくださった。私も必ずお祈りした。短い間ではあったが想い出が沢山できた。奥さまも先が長くないご主人のことを思い涙流されていることもあった。しかし召された直後に送ってこられたLINEの内容に感動した。「良一の痛みを癒してくださった神さまに感謝します。これから先生宜しくお願いします。」抗がん治療の苦しみを間近で見ておられた奥さまは“死”を“癒し”と考えられておられるのである。詩篇 103篇3節に「主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし」とあるが、まさに私たちの病はすべて癒される。それは死を通してでもある。
 私たちの本番はこの地上ではなく肉体を脱ぎ去り(死)天から始まる。「神は彼らの目から涙をすっかりぬぐい取ってくださり、もはや死はなく、もはや悲しみも、叫びも、苦しみもない。最初のものが過ぎ去ったからである。」(黙示録21:4)からスタートする。目指そう天の御国!

心のオアシス 2026年8月9日

 聖書全体を連続講解していると、神の知恵の偉大さと人間の頭では到底計算しつくせない神の計画の緻密さに圧倒される。パウロはコロサイ書2章の中で、旧約時代の儀式、祭り、食べ物の規定、神殿のいけにえなどは、後にやって来る救い主(キリスト)を前もって示す影(印や型)だと表現しているが、その通りだと今更ながら驚いている。聖書は旧約と新約を合わせて約1600年かけて40人以上の人たちが書いて66巻にまとめられているが、それぞれ違う時代に生きていた人たちが、どのようにしてこれらの壮大な計画を計算できたのであろうか? それぞれは点であったが線として繋がり大きな世界観が見えてくる。隠されていたことが明らかになると大きな驚きがある。確かに著者は神である。
 申命記29章29節に「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。」とあるが、私たちが住んでいる世界には二つの領域がある。一つは神によって隠されている領域で、もう一つは神が人に明らかにする領域である。人は、ある出来事がなぜ起こるのかを常に知っているわけではない。しかし神はご存知である。私たちは答えを求めたがる。なぜ問題が起こったのかを知りたいのである。しかし神の答えはいつも同じで単純明解である。「わたしはあなたを愛している。ただわたしを信じなさい。」ヨハネ福音書9章には、生まれつき目が見えない人についてイエスさまは「本人の罪でも両親の罪でもなく、神のわざがその人に現れるためである」語られた。私たちはそのような答えは求めていない。知りたいのは何故なのかという理由である。神がなされることを、私たちは常に理解できるわけではない。しかし神は誠実なお方で、私たちが待ち望むならば神ご自身の奥義を明らかにしてくださる日が必ずくる。そしていつの日か、今ある試練を神に感謝することになるのである。なぜなら神の奥義は試練を通して明らかになるからだ。天国に帰ったときには全ての全てが繋がり、神に感謝しかなくなるであろう。その鮮やかな計画に圧倒されるのである。

心のオアシス 2026年8月2日

 ストレスを軽減するための一番の方法がある。ある牧師も書いておられたが、「すべては神さまのもの」であるという意識をいつもすること。言い換えれば、人生のすべての領域において、自分のものは一つもないということを常に自覚することで、神が自分にしばらく預けておられたものを再びお返しするという生き方に変えられ、それが確信と安心感につながり、神に人生を委ねる一番の近道となる。
 申命記の中でモーセは次世代の民に「経済が豊かになった時も、戦いに勝利して領土を広げたときも、自分の力でそうなったのだと思ってはならない。また正しい民だからでもない」と語っている。これらのモーセの遺言を受け取った後継者のヨシュアはイスラエルの民に言った。「あなたがたは自らを聖別しなさい。明日、主があなたがたのただ中で不思議を行なわれるから」(ヨシュア記3:5) いよいよ目的地であるカナンに入るわけであるが、次世代の人たちにとっては初めて入る土地であり、どんな住民が住んでいるのか、どんな環境にあるのかもわからない未知の世界である。「聖別せよ」とは「神の目的のために用いる」ということで、もっとわかりやすく言うと「神の言葉に聞き従う」ということである。そうすれば主があなたの明日を保障され導くというのである。私たちの不安や心配は未来にある。しかし神の目的のために生きるなら、神が私たちの未来を歩いて導いておられる事実を見ることができる。未来は不確かであるが確かな事実は私たちの過去である。イスラエルの過去はエジプトでの奴隷としての苦しみや荒野での恐れや不安であった。しかし飢えることもなく、服も靴も擦り切れなかった。この過去に体験した神の助けに土台して不確かな将来も神を信頼することによって前を向くことができる。神はあなたを見捨てない事実に立つのである。
 もう天に召された私たちの教会の長老さまは、ある時このような祈りをしておられた。「もう私の目もぼやけ、耳も聞こえにくくなりました。今まで神さまが貸し与えてくださったものをお返しできることを感謝します」これを長老さまの遺言として受け取っている。すべては神のもの!

心のオアシス 2026年7月26日

 申命記の学びを進めていく中で気付かされることは、神の価値観は、人間のそれとは全く異なっているということである。通常私たちが助けたり守ったりするは、悪人ではなく善人である。しかし申命記9章には、神がイスラエルを導きカナンの土地を与えたのは「イスラエルが正しい行ないをしたからではない。」と3度も強調して言われている。そしてカナンの土地の人々を追い出させるのは、彼らの悪があまりにも酷過ぎたので、その影響が周囲に及ばないようにイスラエルを用いて一掃しようとされたのである。しかしイスラエル自身も「根絶やしにする」と言われるほど神を裏切り続けたことが記されている。にもかかわらずどうしてイスラエルだけが存続し続けたのでしょうか? それはモーセの執り成しの祈りがあったからである。神の怒りがイスラエルに、また個人に向けられた時に、彼はすぐに神の前に執り成している。それは「悔い改めているから救ってください」とか「正しい者になったので助けてください」というものではなかった。イスラエルがいかに罪深く、滅ぼされても仕方ない民であるという前提で祈っているのである。
 今のイスラエルも戦争や紛争ばかりしているにも関わらず、どうしてイスラエルを導かれるのか? 申命記には、悪であるイスラエルさえも助け導かれるのは、主が唯一なる聖なる神であることを彼らを通して現わすためだと記されている。すなわち彼らの行ないによって導くのではなく神の一方的な恵みと憐みを示すためだというのである。
 ローマ書5章には「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」とある。“まだ罪人であった時”である。私たちが今生かされているのは、神と人とをつなぐキリストの執り成しがあったからこそであることを忘れてはいけない。
あなたが正しくなったから祝福されるのではない。恵みはもう既にキリストを通して注がれているのであるが、それを信仰をもって受け取るか受け取らないかで決まるのである。受け取った方がお得ですよ!

心のオアシス 2026年7月19日

 先日ある方から、カデシ・バルネアという場所でイスラエルの民が、カナンの地にすぐ入らないで土地の偵察を送って、その報告を聞いたときに人々が不信仰になっては入れなくなってしまい38年間もそこに留まることになった箇所から、民数記13章には、「主の命により人々をスパイに遣わした」とあるが、並行記事である申命記1章では神が「入って行けと言われたのに民があえて偵察を送った」という表現になっている。この矛盾をどう解釈すれば良いのか?との質問を受けた。 
 ここは色々と説はあるが、どちらにしても同じ著者であるモーセが書いたものである。私は「神の主権」と「人の自由意志」の関わりを言葉の限界の中で説明しているものだと思っている。たとえば神は「人を殺してはならない」と言いながら、「カナンの人達を打ち滅ぼせ」と命じられるのは矛盾する内容である。神はカナンの土地に住んでいる住民たちの目を覆うような悪を、神の正義からは見過ごすことはできなくて、一つの民族を用いてそれらの悪を一掃することを計画された。そのことのために用いられたのがイスラエル民族である。これはイスラエルの喧嘩早い性質を用いて神の計画は進められているという、“神の主権”と“人間の自由意志”の表れであろう。すなわち人間の側の自由意志を尊重されながら善であれ悪であれ、神はそれらを用いながら神の計画を進めておられるということなのである。すべては神の手の中にある。だからたとい神に反抗したとしても、妨げられることなく神の計画はそれさえも用いて着々と進められていく。ユダヤ人が反発することさえも用いて、全世界に福音が広げられることさえも神の業なのである。サムエル記上8章では、神はイスラエルに王を立てることを良しとはされなかったが、民が激しく求めた故に「王を立てよ」と命じられている。神の御心ではなかったのだが、救い主の系図がダビデを通ることを預言されている。
 これは地上の言語で説明できる限界だが、神の主権と人間の自由意志の双方を一見すると矛盾のように見えても、別の視点からは真実を突くという神のパラドックス(逆理)が用いられているのであろう。

心のオアシス 2026年7月12日

 先週7月4日(土)朝6時14分、私の父が89歳で天に召された。老衰であったが、意識がなくなる前まで記憶力もしっかりしていて、聞き取れない部分はあったが対話もできた。救急車で運ばれ入院してからは、少しずつ衰弱していく様子を見ながら、葬儀の準備を始めた。家に帰りたいという思いが強かったので葬儀は自宅で家族だけで見送ることになった。父の言葉の聞き取りができる間にと思い、故人愛唱歌「輝く日を仰ぐとき」を4番まで一緒に歌い、葬儀ではその音源を流して故人自ら賛美リードをしてもらうことにした。そして最後に「遺族代表挨拶」ではなく「故人お別れの挨拶」の音源を流すことにして収録した。想い出話なども多数動画に残すことができた。次の日には意識が混濁して3日後に召され、葬儀で全て用いることができた。
 私たちは死の備えをしておかなければならない。それはいつ来るかわからないからである。葬儀の用意は必要であるが、絶対に疎かにしてはならないのは天国へ行く準備である。この地上は天国予備校であって、そこでイエス・キリストに繋がり歩み続けた者には永遠の天国へのゴールがある。私たちの本番はこの地上ではなく肉体を脱ぎ去った後にくる永遠の世界である。但しその永遠には2つの場所がある。一つはイエス・キリストと共に生きる“永遠の天国”か、悪魔と共に入る“永遠の死”である。聖書には「わたし(キリスト)を通してでなければ、だれひとり父のみもと(天)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と記されている。キリストは、私たちの罪(自己中心)の代価の身代わりになって十字架にかかって罪の支払いをしてくださった。愚かに聞こえるかもしれないが、ただその事実を受け入れキリストを信じ繋がるだけで救われるのである。信じるか信じないかでその生き方に大きな差が出てくる。私は父と天で会える未来の希望があるから寂しさはあるが安心がある。
 父は自宅に戻ることを切望していたが、今は天に帰ってこう言っているだろう。「こんなに素晴らしい場所が備えられているなら、家に帰ることを願っていたことは、ちっぽけなことでした。天国で会いましょう!」

心のオアシス 2026年7月5日

 私たちの教会ではバイブルフェローシップという交わり会を月1で開催している。参加される人数は毎月違うが、横との繋がりが少しずつ強められている。この会はその名の通り、御言葉や祈りによって恵まれていることを分かち合うことによって、お互いの生き方をより良くするためのヒントになったり、信仰を引き上げるためのキッカケに繋がっている。先週もそれぞれのお証を通して恵みの時間となった。牧師としては毎週語らせていただいている御言葉が、様々な問題や困難と闘っておられる方々に届き、毎日の歩みの力になっておられる様子に、ただ主に感謝しかない。そう考えると神の言葉を握っていない方々の歩みは自分との戦いの中で、どれほど希望がなく苦しいことかと思案に暮れてしまう。神の言葉を握っている人には希望がある。そしてその御言葉は圧倒的な力があって私たちをどん底から引き上げることができる。
以下はフェローシップでされた祈りの勇気づけられた証の一つである。
 「私の姉は子供を産んだ後、20歳の頃から精神を病んでしまい、寝ていることが多く、家事もできませんでした。そのことで家族は苦しみ、夫婦仲も悪く、家庭に平和はなく、子供たちは心に傷を持つようになりました。自分の母のご飯を食べた記憶もないそうです。最近姉と会ったときに不明の身体の痛みが全身を覆ってしまい、苦しくて歩けない姿を見ました。この姿をみて『祈りのリクエスト』に祈りの課題を追加させていただきました。しばらくしてずっと行っていなかった病院へいき、薬を飲み始めるとたちまち痛みが取れてきたそうです。そればかりか、すっかり元気になってしまい30年寝ていた姉に「働きたい」という心が湧き30年ぶりに仕事を始めました。今は体も全然痛くないようで料理をしたことがないのにお弁当も作っているそうです。床を取り上げてまさか働きだすなんて本当に晴天の霹靂です。実は学生会の祈り会でもそのことの為にみんなでお祈りしていたことを後で知り驚いています。祈りのリクエストの大切さも実感しました!私は時間があるので、祈る賜物を求めるようになりました。」
 時間はかかっても祈ることを諦めるな!

心のオアシス 2026年6月28日

 今礼拝では民数記から料理(メッセージ)を提供している。牧師としては礼拝で難しい箇所からあまり話したいとは思わない。勿論、平日行なっている聖書セミナーでは難解な書を講解しているが、必ずしも遠方やお仕事の方は参加できるわけではないので、たまにではあるが礼拝でモーセ4書(レビ記以外)や詩篇などをお話しすることがある。
 人生論的な内容を含めた旧約聖書からのメッセージが、どのように初心者に伝わっているのか気になるところである。先日一人の新来会者が、礼拝が終わって面談を求めてこられた。親御さんも本人も他宗教を信じておられるというのであるが、聖書からイスラエルの歴史を聞いて興味を持ったので教会に通ってもいいか?という内容であった。私は勿論、「他宗教の方も大歓迎!」とHPやチラシでも謳っているので受け入れた。私はある意味驚いているのは、旧約聖書の儀式や歴史からのメッセージであっても興味を持たれる方もいるということである。ただ儀式や歴史だけの説明ではなく、今の私たちにどのように関わりがあるのかをお話しすることが重要である。実はパウロがそのような手法で解説していて、私もそこから学んで今のメッセージ形態になっていった。
 たとえばⅠコリント10章では民数記を用いて「わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。」という解説を行なっている。「岩が歩くのか?!」というツッコミを入れたくなるが、ここでは食物である“マナ”も、飲んだ“水”も霊的に解釈している。そして“水が出てきた岩”はキリストなのだという。当時の彼らは意識はしてなかったはずであるがキリストが共に歩いてくださっていたのである。私たちも見えなくてもキリストはすぐ近くにおられる。もし“信仰”のツールを使えばキリストを見ることができる。助け主はすぐ傍におられる。信仰で見るか見ないかで、その人生は大きく変わることを民数記から学んだ。