礼拝メッセージ

心のオアシス

2026年7月12日 心のオアシス

 先週7月4日(土)朝6時14分、私の父が89歳で天に召された。老衰であったが、意識がなくなる前まで記憶力もしっかりしていて、聞き取れない部分はあったが対話もできた。救急車で運ばれ入院してからは、少しずつ衰弱していく様子を見ながら、葬儀の準備を始めた。家に帰りたいという思いが強かったので葬儀は自宅で家族だけで見送ることになった。父の言葉の聞き取りができる間にと思い、故人愛唱歌「輝く日を仰ぐとき」を4番まで一緒に歌い、葬儀ではその音源を流して故人自ら賛美リードをしてもらうことにした。そして最後に「遺族代表挨拶」ではなく「故人お別れの挨拶」の音源を流すことにして収録した。想い出話なども多数動画に残すことができた。次の日には意識が混濁して3日後に召され、葬儀で全て用いることができた。
 私たちは死の備えをしておかなければならない。それはいつ来るかわからないからである。葬儀の用意は必要であるが、絶対に疎かにしてはならないのは天国へ行く準備である。この地上は天国予備校であって、そこでイエス・キリストに繋がり歩み続けた者には永遠の天国へのゴールがある。私たちの本番はこの地上ではなく肉体を脱ぎ去った後にくる永遠の世界である。但しその永遠には2つの場所がある。一つはイエス・キリストと共に生きる“永遠の天国”か、悪魔と共に入る“永遠の死”である。聖書には「わたし(キリスト)を通してでなければ、だれひとり父のみもと(天)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と記されている。キリストは、私たちの罪(自己中心)の代価の身代わりになって十字架にかかって罪の支払いをしてくださった。愚かに聞こえるかもしれないが、ただその事実を受け入れキリストを信じ繋がるだけで救われるのである。信じるか信じないかでその生き方に大きな差が出てくる。私は父と天で会える未来の希望があるから寂しさはあるが安心がある。
 父は自宅に戻ることを切望していたが、今は天に帰ってこう言っているだろう。「こんなに素晴らしい場所が備えられているなら、家に帰ることを願っていたことは、ちっぽけなことでした。天国で会いましょう!」

心のオアシス 2026年7月5日

 私たちの教会ではバイブルフェローシップという交わり会を月1で開催している。参加される人数は毎月違うが、横との繋がりが少しずつ強められている。この会はその名の通り、御言葉や祈りによって恵まれていることを分かち合うことによって、お互いの生き方をより良くするためのヒントになったり、信仰を引き上げるためのキッカケに繋がっている。先週もそれぞれのお証を通して恵みの時間となった。牧師としては毎週語らせていただいている御言葉が、様々な問題や困難と闘っておられる方々に届き、毎日の歩みの力になっておられる様子に、ただ主に感謝しかない。そう考えると神の言葉を握っていない方々の歩みは自分との戦いの中で、どれほど希望がなく苦しいことかと思案に暮れてしまう。神の言葉を握っている人には希望がある。そしてその御言葉は圧倒的な力があって私たちをどん底から引き上げることができる。
以下はフェローシップでされた祈りの勇気づけられた証の一つである。
 「私の姉は子供を産んだ後、20歳の頃から精神を病んでしまい、寝ていることが多く、家事もできませんでした。そのことで家族は苦しみ、夫婦仲も悪く、家庭に平和はなく、子供たちは心に傷を持つようになりました。自分の母のご飯を食べた記憶もないそうです。最近姉と会ったときに不明の身体の痛みが全身を覆ってしまい、苦しくて歩けない姿を見ました。この姿をみて『祈りのリクエスト』に祈りの課題を追加させていただきました。しばらくしてずっと行っていなかった病院へいき、薬を飲み始めるとたちまち痛みが取れてきたそうです。そればかりか、すっかり元気になってしまい30年寝ていた姉に「働きたい」という心が湧き30年ぶりに仕事を始めました。今は体も全然痛くないようで料理をしたことがないのにお弁当も作っているそうです。床を取り上げてまさか働きだすなんて本当に晴天の霹靂です。実は学生会の祈り会でもそのことの為にみんなでお祈りしていたことを後で知り驚いています。祈りのリクエストの大切さも実感しました!私は時間があるので、祈る賜物を求めるようになりました。」
 時間はかかっても祈ることを諦めるな!

心のオアシス 2026年6月28日

 今礼拝では民数記から料理(メッセージ)を提供している。牧師としては礼拝で難しい箇所からあまり話したいとは思わない。勿論、平日行なっている聖書セミナーでは難解な書を講解しているが、必ずしも遠方やお仕事の方は参加できるわけではないので、たまにではあるが礼拝でモーセ4書(レビ記以外)や詩篇などをお話しすることがある。
 人生論的な内容を含めた旧約聖書からのメッセージが、どのように初心者に伝わっているのか気になるところである。先日一人の新来会者が、礼拝が終わって面談を求めてこられた。親御さんも本人も他宗教を信じておられるというのであるが、聖書からイスラエルの歴史を聞いて興味を持ったので教会に通ってもいいか?という内容であった。私は勿論、「他宗教の方も大歓迎!」とHPやチラシでも謳っているので受け入れた。私はある意味驚いているのは、旧約聖書の儀式や歴史からのメッセージであっても興味を持たれる方もいるということである。ただ儀式や歴史だけの説明ではなく、今の私たちにどのように関わりがあるのかをお話しすることが重要である。実はパウロがそのような手法で解説していて、私もそこから学んで今のメッセージ形態になっていった。
 たとえばⅠコリント10章では民数記を用いて「わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。」という解説を行なっている。「岩が歩くのか?!」というツッコミを入れたくなるが、ここでは食物である“マナ”も、飲んだ“水”も霊的に解釈している。そして“水が出てきた岩”はキリストなのだという。当時の彼らは意識はしてなかったはずであるがキリストが共に歩いてくださっていたのである。私たちも見えなくてもキリストはすぐ近くにおられる。もし“信仰”のツールを使えばキリストを見ることができる。助け主はすぐ傍におられる。信仰で見るか見ないかで、その人生は大きく変わることを民数記から学んだ。

心のオアシス 2026年6月21日

 今、花園チャペルの礼拝では民数記から豊かな恵みを味わっている。旧約聖書において、神はイスラエルの父祖アブラハムに対し、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し…地のすべてのやからは、あなたによって祝福を得る」(創世記12:3)と約束された。新約聖書ではこのアブラハムの祝福がイエス・キリストを通じて異邦人(ユダヤ人以外のすべての人)にも及ぶと明確に記されている(ガラテヤ人への手紙3:14)。ということは、神が荒野を旅するイスラエルを、どのように取り扱われているかを学ぶことによって、神を信じるすべての人々が、どのように神の恵みの中に生かされているかを知ることができる。
 先週の聖書箇所(民数記22~24章)には、イスラエルの民のことは具体的には出てこない。そこに描かれているのは異邦人のモアブの王と呪い師のやり取りについて記されている。モアブの国を通過しようと入ってきたイスラエルの民に対して脅威を持ったモアブの王が、呪いの言葉を言えばその通りになっていくという高名な呪い師を雇ってイスラエルを呪わせようとした。高い謝礼金を用意され、厚いもてなしを受け、王の願いを叶えてそれらを受け取りたくて仕方がない呪い師だったがイスラエルを祝福する言葉しか出ないように神の圧力がかかっていた。
 ここで学んだ恵みは、神はイスラエルが知らない間に水面下でイスラエルが呪いを受けないように阻止しておられたということである。「主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。」(詩篇127篇2節)とあるようにただ恵み以外何ものでもない。
 数週間前の台風でチャペル裏のエアコンの上につけていた日差しカバーが風で破れてしまった。新しいものを購入しようと簡単にはがれないものを物色して悩んでいた。とりあえずはテープで補修しておこうと裏に行くと、誰かがを新しい物に交換してくださっていた。しかも完璧なサイズで二重になっていて風では飛ばされないようしっかり施工してあった。水面下で着々を備えてくださる主の恵みを体験したような気分である。名乗り出ないその人のために神さまの大きな祝福をお祈りした。

心のオアシス 2026年6月14日

 民数記を読んでいるとイスラエルの民は奴隷状態であったエジプトから脱出しカナンの土地に入るまでの40年間の道のりの中で世代交代していった様子が描かれている。素直に神に信頼していれば長く見積もっても1ヶ月ほどで行けたのに、入るべき土地を目の前にして不信仰になった故に足踏みしてカデシという場所で38年も滞在してしまった。これは私たちを創造した神に対する信頼がない人は、人生を無駄に過ごしてしまうことを表している。
 特に日本では“不信仰”を継承している故にどの世代も希望を見い出すことができず、その日暮らし的な生き方をする人たちが多いのは残念である。人間がただの“進化”の産物であるならば、その存在価値は無いということは明白である。何の目的もなく“偶然”とか“たまたま”ある物に価値をつけることはできない。「人間の命は尊い」とは言っても、それはただ人間が自己防衛のために言っているに過ぎない。“神”という存在がいて、目的をもって天地宇宙を造られたところに真の価値がある。だからこそ人の命の尊さを語ることもできる。
 私たちがこの地上でしておくべきことは、信仰の遺産を継承していくことである。信仰者であっても、そうでなくても、地上においては荒野を経験していく。「それでも神はいる! 主が私たちを何とかしてくださる!」という信頼があれば、空虚や孤独や罪責感、死に対する恐怖から解放されていく。それを受け取ることができる恵みがあるのに、どうして人は拒否するのであろうか? 是非とも無料で受け取って欲しい。
 私たちの教会ではZ世代の大学生たちが献身的に神さまにお仕えしていて、今次のα世代の小学生たちが大学生たちの信仰のバトンを受け取り始めている。「賛美の奉仕のお手伝いをしたい」と楽器を習ったこともない子たちがピアノやキーボードなど弾けるように練習をするようになった。キッズクラスのお手伝いをしたいという子もいる。そしてこの子どもたちは、毎週礼拝を大切にしている大人たちの姿を見ながら成長して、また次の世代へとバトンを渡してくれるだろう。主は素晴らしい!

心のオアシス 2026年6月7日

 親が子どもには栄養バランスの摂れた食事を心がけるように、牧師もメッセージを聴く人たちの心の健康を配慮しながら語るものである。私の拘りは野菜とお肉を食べやすい味付けで提供するように、聖書の旧約と新約をブレンドしながら分かりやすく、かつ人生のプラスになるよう語ることを心掛けてはいる。その甲斐あってか良い評価をしてくださる方々が増えてきて励まされている。メッセージが「立体的」「3D」だと言われることも多く、何がそう感じさせているのかを分析してみた。まず新約聖書と旧約聖書を別物とするのではなく、新約はキリストの実体だとするならば、旧約はキリストの影として、その繋がりを御言葉から新旧一体型で説明し、それを人生論的にお話しする。連続講解してそれぞれの書を全体的に理解できるようにしてきた。先日も「民数記など難解で読む気もなかったけれど、こんなに楽しく、すべてがイエスさまに繋がっていることに驚きを覚え、神の愛をリアルに感じることができるようになりました」という言葉をいただくと励まされ次への活力になる。
 牧師にとっての一番の喜びは、人の人生がキリストの愛に触れられて変えられて、救われハッピーライフを送ることができるようになることである。もしイエスさまを信じてからも、恐れや心配ばかりで平安がないならば、それは健全な神を信じる者の歩みをしていない証拠である。ヨハネ福音書8章32節には「真理はあなたたちを自由にする」とある。これは人間を縛り付けている罪、死の恐怖、人生の空しさから解放され、人間の本来神から与えられた目的と使命に生きることを指している。自分が好き勝手にすることが本当の「自由」ではない。それは最終的には私たちをがんじがらめに縛り付けてしまう罪である。
 民数記にはイスラエルの民の姿が描かれている。エジプトで奴隷となっていたが、そこから解放され神と共に歩むことによって自由となったが、神から離れることによって疫病が蔓延しエジプトの束縛の中に帰りたいという始末であった。人生には信仰のテストはあるが、御言葉と祈りによってパスすることによって次のステージへと上がることができる。

心のオアシス 2026年5月31日

 “信仰”と“知恵”のバランスとは「信じる力」と「道理を見極める力」の調和だと考えることができる。信仰は心を支える軸となる一方、知恵は現実世界での適切な判断や応用をもたらす。両者が補完し合うことによって盲信や独断を避け、より豊かで調和のとれた生き方が可能になるものである。信仰だけに偏ると特定の思想や神学などを常軌を逸したレベルで盲信し、熱狂的になってしまうことがある。そうなると冷静な判断力や客観的な視点を欠いて周囲も見えなくなる傾向がある。イエスさまもルカ14章の中で、家を建てようとする際に費用を計算せずに無謀に工事を始めてしまい途中で行き詰って笑いものになる愚かさを教えておられる。しかし知恵や知識や経験だけに偏ると、不足や限界を感じたときに希望を見い出すことができなくなる。
 今礼拝で学んでいる民数記にはイスラエルの民が神が約束されている土地を目の前にして12人の偵察を送ったことが記されている。現地を実際に見た人たちの10人は「非常に良い土地ですが、そこに住んでいる人たちは強そうで太刀打ちできませんから止めましょう」と言って過酷な労役と重税に苦しんでいたエジプトに帰ることを求めた。これは知恵が優先されている人たちの姿である。しかし残る2人は「我々はあの土地に入ることができます!」と宣言した。それは神が願われ共におられたら大丈夫という信仰からくるものであった。その後エジプトに帰ろうと言っていた人たちは、目の前にある状況だけで判断して「やはりカナンの土地に入りましょう」と原住民との戦いにいどんだが惨敗であった。
 この両者の違いは何であったのだろうか? それは信仰と知恵のバランスの違いだと考えることができる。神の存在を無視した知恵・知識は場当たり的になり、計算上乗り越えられないと判断すると行き詰ってしまう。しかし私たちの人生に「神は生きておられ、私の人生を最善に導いてくださる」という信仰がブレンドされれば、想定外の脱出の道と光が与えられるものである。“信仰”と“知恵知識”のバランスは崩れやすい。そうならないよう神の言葉である聖書に立って祈りつつ歩みたい。

心のオアシス 2026年5月24日

 ペンテコステ(聖霊降臨日)は、世界中でキリスト教会の誕生を記念する重要な日とされている。イエス・キリストが十字架にかけられ、死から復活した(イースター)後、天に昇られてから10日目に、祈りを捧げていた弟子たちの上に神さまからの“聖霊”が下ったことを毎年祝っている。聖書(使徒行伝)にはその時の様子が描かれていて、激しい風のような音が響き天から炎のような形をしたものが現れて一人ひとりの上に留まったことが記録されている。そして聖霊に満たされた弟子たちは、自分でも理解できない様々な国の言葉(異言)を語り出しキリストの福音を世界へ伝えていく力と勇気が与えられた。これをもって「キリスト教の教会が誕生した日」とされている。
 「異言」に関して興味を持たれる方がいるので個人的な考えも含めて記述させていただく。最初の聖霊降臨の時には「御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」(使徒2:4)とあり、それを聞いた外国人たちは、ガリラヤ人が知る由もない自分の故郷の言葉を語っているので、あっけにとられ驚き怪しんだと記録している。「他国の言葉」であったということは、言語がわからないのに世界に出ていって福音を伝えることに躊躇するであろう弟子たちには勇気に繋がったのであろう。それは福音宣教の働きは“自分”がするのではなく、道具として人を用いての神ご自身の働きであることを示されたのだと確信している。
 しかし異言は時代と共に変化しているようである。パウロはコリント書の中で「躓きを与えないよう教会では異言を話さず、自分と神との間にとどめること」を勧告している。今の時代は“他国の言葉”ではなく神しか理解できない言語である。発することと止める時は自分の意志でできるが、語り始めると自分の意志ではなく舌が制御されて動いていることがわかる。人の器官の中で一番制御できないのが“口(舌)”である。言うべきでないことを言ってしまう。しかしその口が聖霊によって制御されているということは、自分の肉の思いによって生きてしまう人間も、神のために生きることが聖霊によって可能だということの表れでもある。

心のオアシス 2026年5月17日

 先日、私にとっては第二の故郷になる神奈川の地へ母教会(大和カルバリーチャペル)でのご奉仕のために赴いた。今回は息子の希望により卒業した小学校や住んでいたマンションを見て回り当時を懐かしんでいた。教会へ行くと私たち家族を育ててくださった霊的父母兄弟姉妹が列をなして歓迎し懐かしんでくださった。そして帰阪して花園チャペルに戻ると、ここでも「お帰りなさい」と喜んでくださる。帰る場所、甘えることができる場所、受け入れてくれる場所があることは幸いなことだと思わされた。これは普通の旅行では味わうことができない感覚である。
 実は私にはもう一ヵ所、楽しみにしている故郷がある。それは天の故郷である。この地上での歩みは帰省する旅の途中ということになる。地上での旅がどんなに辛くても、その旅のゴールは天国である。天においてはイエスさまや私たちのために執り成しの祈りを捧げてくださっていた先人たちが「お疲れ様」と歓迎してくれる。そこへ行くとこの地上での様々な不条理や悩みや弱さの全てが、神の緻密な計算の下にあったこと、そして全て私たちにとって必要なことであったことを悟ることとなる。そうなるともう地上で最も大きかった悩みや苦しんでいたことが、どれほど最も小さなことであったかを知り、嫌な記憶は全てが吹っ飛びただ神に栄光を帰することができる場所、それが天国だと確信している。
 天国を信じない人にとっては、これは空想話にしかすぎないだろう。 この地上だけで人はお終いだと考える人たちにとっての人生って何のためにあるのだろうか? だからこそ自分の願いを叶えるために自分を中心に物事を考えながら生きるのであろうが、だからと言って所詮この地上だけのことであって虚しいものである。聖書によると死の向こうには永遠の世界があって、最終的には天国か地獄しかないという。イエス・キリストを通してでなければ天国には入れない。紅海が分かれ乾いた土地を歩くような奇跡は毎日起こっている。神がいないわけがない。今まで私は神がおられることを前提に物を考え決断して後悔したことは一度もない。そして死後さえも保証してくださる安心感はハンパない。

心のオアシス 2026年5月10日

 実は花園チャペルが建っている地域は歴史的な場所であることを知って驚いている。今から約400年前の江戸時代に大阪は高麗橋から奈良は平城京の約34キロを最短距離で結んだ幹線道路“暗越奈良(大坂)街道”が整備された。途中、生駒山地(標高約455m)を越える、正に「酷道」と呼ばれる急こう配(約40%)の暗峠(くらがりとうげ)があり名前の由来は「馬のくらが返る」から来ているようである。松尾芭蕉もこの街道を通って大阪入りし、現在も道中で読んだ句の石碑が残っていたりと歴史を感じられる街道である。この街道は花園チャペルの南側を通り街道唯一の宿場(旅館)街があった。「松原宿」と呼ばれていたが、花園チャペルから徒歩5分ほどで行ける場所にある。英田北小学校南門の辺りに案内板と石碑が立っているが、「江戸中期から明治10年頃の宿」の地図があって、よく見るとそこには「キリスト布教所」がひっそりと存在している。江戸時代にはキリスト教は弾圧され、多くの宣教師は追放されたり処刑されていた。明治時代になっても同じような状態が続いていたが明治6年に解禁された。危険視され弾圧されている時代に祈られ福音が宣べ伝えられていたのである。当時は石地やイバラばかりしかない場所ではあったがみ言葉と祈りが蒔かれ、その種がこの地域に沢山落ちているということなのである。
 花園チャペルはその土地の上に建っている。そして今、子どもたちや地域の方々も少しずつ加えられている。100~150年ほど前には福音と祈りの種は石地やイバラばかりに落ちているように見えたであろうと思われるが、実は良い土地にも落ちた種もあったということなのである。
 神は“今”の神ではあるが、時間を超越しておられる普遍的なお方である。だからこそ“今”の為だけではなく“未来”のためにも種を蒔き続ける必要がある。どの時代に良い地に落ちた種が芽を出すかわからないからである。「ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」(マルコ4:8)
 祈りと福音は主にあって必ず成る。ここに立てば勇気100倍である。