心のオアシス
心のオアシス 2025年2月16日
渡辺和子さんの著書の中に「愛と祈りで子どもは育つ」というのがある。このタイトルを見たときに全くその通りだと思った。そしてこれは親子だけの関係ではなく教会も同じことが言えると考えてきた。しばしば親のエゴが強すぎると子供は反発するようになる。教会の牧師も高い理想を押し付けると人々はついていけなくなる。もちろん神が我々に与えられたこの世での使命や存在目的は伝えていかなければならないが、それができていないからと言って咎めるのは指導者の仕事ではない。
私の信念は、神の愛を体験した人は強制しなくてもイエスさまに何らかの形でお仕えしたい、捧げたいという願いが起こるようになるということ。そしてそのために牧師としてできることは、神の道具として主の愛を伝え続け、聖霊さまが一人一人の心にリアルに働きかけてくださることを祈るのみである。
先週の日曜日の夕方、チャペルに残っていた高校生と話す時間が与えられた。お互いが受けた“神さまからの恵み”や教会に繋がっておられる人たちの不思議な変化を語り合ったのであるが、まさに神が様々な人間関係の絡みも用いながら、あらゆる手段でご自分が創造された愛する一人一人を最善に導いておられることを実感しつつ時間を忘れて2時間も証合戦していた。3回のメッセージの後であったが全く疲れはないどころか、ますます元気が与えられた。エマオの途上でイエスさまとは気付かずに一緒に話していた弟子たちが後になって「お互いの心が燃えた」と同じ経験をさせていただいた。“神の恵”を語り合うと恵みが満ち溢れる。これが本当のコイノニア(フェローシップ)であり交わりである。「今、関西カルバリーはリバイバルが起こっているのではないですか?」と質問されたが「アーメン」である。確実に神さまがどの年齢層にも触れていてくださっている。ただこの波の乗れていない人もいるかもしれないが心配する必要はない。それぞれの成長の度合いは違うが、神の流れのほとりにいる限り、確実に主の手の中にある。「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。」(Ⅰコリント3:6)
心のオアシス 2025年2月9日
先週の「心のオアシス」にも書いたが、人には“魂”(心・精神)と“肉”と“霊”の部分があって、それぞれは違うが切り離すことはできなくて、一人の人間を形成している。魂と肉の部分は、この世の中でもある程度一時的には満たすことはできると考えている。リラックスしたり趣味をしたり飲食することによってそれが可能となるであろう。しかし、霊の部分の補給をしていない人がほとんどである。牧師はこの“霊”の補給をしていただくために労することが勤めだと思っている。
私は牧師になる前に「伝道者は言葉で福音を伝えているが、障がいがあったり、言葉を理解することができない人たちは一生救いにあずかることはできないのではないか?」と疑問に思ったことがあった。しかし牧師となってからは、その考えは全くなくなった。たとえ牧師の説教が理解できなくても礼拝の中で、その“霊”の部分が理解し喜んでいる世界があることを悟ったからである。私自身も中学2年生の時に初めて教会の門をくぐった。説教は全く理解できなかったが“霊”の部分が喜び神の存在を認めたことを覚えている。それ故に教会に繋がった。
一昨年の大晦日に病床洗礼を受けたSさんは、キリスト教に強い抵抗し家族の洗礼にも強く反対していた方であった。晩年に身体を弱められ入院されてからも反発しておられた。しかし気力も失せて肉体も力を失ったときに、その“霊”の部分が発動したのである。すなわち「神を求めるしか救いはない」ことを“霊”が感じ取り、イエスさまを求め信じ受け入れられたのである。誰からか説教されたわけではない。ただクリスチャンの家族と教会の祈りがあっただけである。そして奥様の「イエスさま信じて洗礼受けたら?」との言葉に応答されたのである。
先日はある方が目を腫らしておられ花粉症かと思いきや、礼拝中ずっと感動で涙が出ていたという。最近は教会の前を通るだけで涙が出てくるという人もおられた。私も説教中に涙目になり声を詰まらせることがある。それは悲しいからではない。神の恵みと愛が“霊”の部分に共鳴して感動するのである。礼拝は霊のタンクを満たす唯一の方法である。
心のオアシス 2025年2月2日
ヨハネによる福音書 4章24節に「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。という御言葉がある。これはサマリヤの女性が「私のご先祖さまは、礼拝すべき場所はゲリジム山だと言っていましたが、ユダヤ人はエルサレムだと言っている。どちらが正しいのですか?」という話題の中でのイエスさまの答えだった。要約すると「礼拝は霊と真実とをもってするべきものであるから場所は関係ない」と言われたのである。ここでは“礼拝すべき場所”に関しての問答だったが、これを深めるとある世界が開かれていく。創世記1章26節に「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」とあるが、“我々”と複数であることから聖書に現れる神の形である“父”“御子”“聖霊”であると考えることができる。神は魂・肉・霊によって一つである。ということは私たちもその部分を持ち合わせて一人の人間として生きているということであろう。魂とは“心・精神”のことであることは私たちも感覚的に分かるだろう。肉の部分に関しても実際に見て触れているので認めることはできる。霊の部分に関しては実際に見えるものではないので分からないかもしれないが、聖書には「神の息(霊)が吹き入れて土が生きるものとなった」(創世記2章)と書かれていることから“霊”の部分も持ち合わせていると考えられる。実際、人はどんなに文明科学が進歩しても、無神論者であっても窮地に追い込まれると祈るという。“何か偉大な存在”を感じていることは確かである。そしてこの“霊”には子どもとか大人とか関係なく与えられているものである。子どもだから、知識がないから、経験が浅いから“神”を感じないわけではない。神は誰でも神を感じることができるように造られた。
先日の賛美集会に参加していた小学生が終り頃に泣いていた。私は心配して「悲しいことや嫌なことがあったの?」と問うと首を横に振りながら「イエスさまを感じた」と答えが返ってきた。その子も新しい賛美が多くて歌えなかったが、それでも主が“霊”の部分に触れておられる様子に驚いた。霊が満たされて人は安息を得ることができるのである。
心のオアシス 2025年1月26日
マズローの欲求5段階説とは、一番下が「生理的欲求」(衣食住)。その上が「安全の欲求」(集団に属することでリスクや危険から身を守る)。その上が「社会的欲求」(他者からの評価)。この上に「承認欲求」(他者からの尊敬)が出てきて「自己実現」(自己の存在意義を実現)と言われていて、更に上には「自己超越」という概念がある。この理論は一番下の基本的欲求が満たされることで、次の欲求が行動を支配するというのだ。
ある政治家が講演会でこの理論を用いてこんな話をしていた。「ここにおられる方の多くは政治に関わっておられますが、皆さんはこの5大欲求のどのあたりの欲求で政治と向き合っておられますか? もしかしたら承認欲求とかなのかなと思います。国会議員の方々を見ているとそう思います。できれば自己実現であってほしいですし、理想はそれを超えた所(自己超越)の欲求で政治をして欲しいなというのが個人的な思いです。この欲求の中にテイカー(Taker)とギバー(giver)という言葉があって、テイカーというのは、もらって初めて喜びを得るという方だそうです。だから見返りがないと頑張れないのです。普通と言えば普通です。でも政治においては究極的にギバーの方がいいんじゃないかと思います。それは無責任なことをしろという意味ではなくて、誰かに褒めてもらいたい、評価してもらいたいではなく、これをしなきゃいけないんだという志しで、得るものがなく、逆に失うものばかりでも自分がやるんだと、ギバーになるんだという心構えがあった方がいいんじゃないかなという思いです。」この方はクリスチャンではないが共感できる部分も少しある。
この理論の“自己超越”というのは、“神実現”を当てはめるのが私にとってスッキリする。そしてこの方の後半のギバーのくだりは、政治家だけではなく、すべての人がそうであれば、もっとスムーズに世の中は進んでいくのではないかと思わされる。そしてマズローの理論では、下の層の欲求が満たされると次のステージ欲求に上がるというのであるが、“自己超越(神実現)”の領域は段階を踏まなくても飛び越えることができる。何故なら私たちはその為に造られているからである。
心のオアシス 2025年1月19日
ついに還暦を迎えた。まだ若かりし頃は、自分が60歳になることを想像すらできなかった。何故還暦をお祝いするのかを調べると、「満60歳を迎えて暦が一巡するまで長生きしたことを人生の区切りとしてお祝いする。」と書かれてあった。60歳まで生きれば長生きしたことになるようだ。今は働き盛りで引退する必要がないくらい元気な人たちも多い。
「還暦祝いの際には、『苦しい』『老い』を連想させる縁起の悪い言葉や数字の『4』や『9』を使用しないように注意すること」という内容も書かれていた。しかし神を信じる者にとってそれらは縁起の良い言葉だと捉えることができる。「苦しみ」があれば、その分苦しんでいる人のそれを軽くしてくださいと祈ることができる。人生の中の「老いる」という季節でしかできない事もある。「4」は“死”を連想するのであろうが、私にとっての死は天国への入口にしかすぎない。“喜(4)び”である。
私は“神さま”が注目されるためには大胆にメッセージを語っているが、こう見えて自分にスポットライトが当たることは大の苦手で照れくさくて遠慮しがちである。伝道師には教会で私だけ誕生日をお祝いしたりしないように話していたが、先週還暦のプチセレモニーをしてくれた。センスの良いプレゼントと共にいつの間にか教会メンバーの写真入りの寄せ書き帳まで作り、その中には母教会の元学生たちからも沢山のお祝いメッセージも含まれていてとても懐かしくなり一人一人のメッセージに胸が熱くなった。日本で牧師をしていても世の中的には何の良いこともないように見えるが、関わった人たちの人生が変えられ、恵まれて歩んでおられる様子を見ることが牧師の最大の喜びであり特権である。
関西での開拓を始めた当初から「神さまご自身が人々に触れて祝福された人生へと変えて、私はただの道具して用いてください」と祈っていた。急に会堂が与えられ、小学生がチャペルに入り浸るようになり、学生たちは変えられ、集っておられる人たち皆さまが恵まれておられる様子に「関西カルバリーは一体どうなってるんだろうね?」と問うと伝道師曰く「神さまがなさっておられるよね」。全くアーメンである。
心のオアシス 2025年1月12日
実は先日の午後礼拝前、左腰部に激痛が走り脂汗と吐き気を催し救急車で運ばれた。午前の礼拝前から少し兆候はあったのだが、礼拝直前に痛みが治まったのでそのままメッセージをさせていただいた。何度か経験している尿管結石の予想は当たっていた。これは世界三大激痛のトップに君臨している病気である。地獄がこの苦しみなら絶対に行きたくない。でも地獄はそれ以上の苦しみの場所である。何が何でも人々を救いにお導きしなければ永遠にこの苦しみを味わうことになる。居ても立っても居られない気持ちになった。
午前の礼拝で語った第二次世界大戦中にナチスに捕らえられて収容所に送られ、ガス部屋で殺される恐怖を絶えず味わいながら、九死に一生を得て終戦を迎えたヴィクター・フランクルというオーストリアの精神科医の話を激痛の中で思い出した。この人が書いた「夜と霧」「死と愛」という本の中には、この収容所体験をもとに、極限状態に置かれた人間が、いかにして生き続けることができたかについて書かれている。結論は、同じ過酷な状況の下にいながら最後まで生き延びることができた人と力尽きてしまった人がいたが、その両者を分けたのは、身体の頑強さではなかった。それは「希望」の有る無しだったというのだ。書物の一部を抜粋すると・・・「一人の囚人は、何度か高圧電流が走っている鉄条網に自ら触れて自殺してしまいたい衝動にかられました。この人がその衝動に打ち勝てたのは、彼が結んでいた『天との契約』に他なりませんでした・・・私は、収容所での苦しみを喜んで苦しみますから、その代わりに、私の愛する母親の苦しみを、その分だけ和らげてやってください。もし、ガス部屋へ送られて死なねばならないとしたら、どうぞ、私の命の短くなった分だけ、どこかの収容所に入れられているだろう母親の命を長らえさせてください」
自分の苦しみや死も無意味なものとならないという希望に支えられて、この人は終戦までの地獄のような日々を生き続けることができた。私も激痛の中で病める人の痛みが取れるよう祈ることができて感謝であった。
心のオアシス 2025年1月5日
年末クリスマスの介護施設でのミニコンサートが終わってから、鼻声(美声?)になってしまった。コロナやインフルエンザではなかったが、「風邪を引かない牧師」との異名を持ちたかった。しかしそれは私の高慢な思いであったことが新年早々に示された。
クリスマス前後、教会外でのボランティア活動のために、あるボーカリストと共に行動していて、彼と同じような症状が出たので、どちらかが移すか移されたかであると思われたが、同じように行動していた娘は全く風邪症状は出ないばかりか元気そのものであった。その話をボーカリストに話すと、彼はおもむろに自分の風邪の原因と思われることを話された。「実はつい先日、ある人から、『周りでインフルエンザや風邪が流行ってて大変ですね』と言われたので、『僕はここ数年風邪など引いたことがないんだよ』とイキって言ってしまったあとで後ろ髪引かれる感じがしたんです。その後すぐに風邪になりました」それを聞いて私にも心当たりがあった。それは12月に入ってから何人かの方々と健康の話題になったときに「私は4年ほど前からエキナセアという植物由来のサプリを飲んでいるので、インフルエンザにもコロナにもなったことがないんです」とイキったつもりはないが少し自慢げに話をしてしまった。その時に私も「誰があなたに健康を与えた? 免疫効果のあるサプリを見つけたあなたの凄さや頭の良さによってか?」という後ろ髪引かれるような感覚が私にもあったことに気付いた。その時に、新年の教会聖句であるゼカリヤ書4章6節「万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」がピタリとリンクした。
元々人間は“土”(アダーマー)であったが、神の霊が吹き入れられて生きるものとなったとある。土くれである私たちが、どうやって歩くことができるようになり、知恵を尽くして様々な便利な物を作ることができるようになったのか?能力があったからか?しかし“霊”が肉体から抜けると、それは動かない土に帰っていく。私たちは“生きている”のではない。“生かしていただいている”ことを忘れてはならない。
心のオアシス 2025年1月元日
今年の標語聖句は「万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」(ゼカリヤ書4章6節)。
これは私が教会開拓を始めた時から与えられていた言葉である。この言葉があったからこそ会堂がなくても能力が乏しいように思えても希望を失うことはなかった。なぜなら神はご自分がされるからとおっしゃるので、私はただ主が用いられる道具に徹するだけで良かったからだ。だから当初から「神さまが必要だと思われたら、天地万物を造られそれを所有しておられる神だから簡単に、指一本で会堂を与えてくださるでしょう」と宣言してきた。何の当ても手持ちもなかったが“神の霊”に賭けていた。まさに大軍を率いる敵に震えおののいている人たちに対してヨナタンは「主がわれわれのために何か行なわれるであろう。多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである。わたしのあとについて上ってきなさい。主は彼らをイスラエルの手に渡されたのだ」(Ⅰサムエル14:6)と言い、武器をとる若者と二人だけで敵を追い払うことができた。これがただの物語や空想話ではないことが、花園チャペルが建てられた経緯を通してわかる。
この世の中では人の財力や権力などによって思い通りのことができるように見えるが、神の霊に対抗することは決してできない。世の力には不安や心配や怒りが生じるが、神の霊に従う者には安心と希望しかない。
イエスさま誕生の時代のパレスチナでは、羊飼いは社会の最下層の人々として見下げられ貧しく蔑まれる存在の代表で裁判などでも彼らの発言は認められなかった。放浪生活をしていたために会堂で聖書の言葉も聴いたことがない。しかし神はキリスト誕生をまず彼らに知らせ、周りの人々にその恵みを伝える者として用いられた。誰が羊飼いの言葉を信じたであろうか? 神が用いられるとその道具の大小は全く関係ない。
神が造られる道を明るく元気でのびのびと歩みたい。Happy New Year!
心のオアシス 2024年12月29日
年末は忙しくしているが私は一年を振り返って感謝の祈りを捧げるように心がけている。直近だとクリスマス礼拝、イブコンサート礼拝、学生クリスマス、キッズクリスマスのいずれも沢山の新来会者も来られて大盛況であった。今のところ一年に一度の愛餐会も混乱を心配していたが皆さまの協力もあってスムーズに流れ、余興も楽しかった。余るかと思っていた持ち寄りの食事が、午後礼拝だけに来られた方々や遅くまで残ってイブの会場設定や掃除などお手伝いしてくれていた学生たちが余すところなく完食してくれた。小さなことかもしれないが、どんなことでも感動して感謝していると、この地上が別世界に見えてくる。
「バラの木にバラの花咲く 何事の不思議なけれど」これは北原白秋の詩だが、バラの木にバラの花が咲くなんて不思議なことでもなんでもない。むしろバラの木にヒマワリが咲いたりミカンがなるわけがない。
バラの木にはバラの花が咲くのは当たり前のように思えるが、ある方が「よくも間違えないで、古来から何度も繰り返して同じ花を咲かせてきたものだ。命というのはすごいなあ」と白秋は畏怖の念をもってバラの木を見つめていたのではないかと感想を述べておられた。
ある本にこんなことが書いてあった。その方は病院でガンを宣告され、その帰り道のことであるが、いつも通っている道なのに、生えている雑草も、川の水も、小石さえも、輝いて見え、家に帰って、奥さんの顔を見たら、神々しく仏様のようで涙が溢れたと。
失うことによって初めて有難さに気付くこともあれば、弱さを覚えて今までの当たり前が当たり前ではなく恵みだったことに気付くこともある。何気なく生きた一日も、余命を宣告されてからの一日も、等しく輝いている一日にしていきたいものである。
かつて心臓の病気で危険な状況から回復したオーラル・ロバーツ先生は「毎日を当たり前のように生きてきたが、今は一日一日が神さまからのボーナスだと感じています」と言われていた。
新しい年も感謝感謝の毎日でありたい。良い年末をお過ごしください。
心のオアシス 2024年12月22日
食肉加工センターで働く坂本さんの職場では、毎日たくさんの牛が殺され、その肉が市場に卸されている。牛を殺すとき、牛と目が合うたびに坂本さんは、「いつかこの仕事をやめよう」と思っていた。ある夕方、牛を荷台に乗せた一台のトラックがやってきた。「明日の牛か・・・」と坂本さんは思った。しかし、いつまで経っても荷台から牛が降りてこない。荷台を覗いてみると、10歳位の女の子が、牛のお腹をさすりながら「みいちゃん、ごめんねぇ・・・」と話し掛けている。女の子のおじいちゃんが坂本さんに頭を下げた。「みいちゃんはこの子と一緒に育てました。だけん、ずっとうちに置いとくつもりでした。ばってん、売らんとお正月が来んとです。」坂本さんは思った。(もうできん。もうこの仕事はやめよう)明日の仕事を休むことにした。家に帰ってから、そのことを息子のしのぶ君に話した。じっと聞きながらしのぶ君は言った。「やっぱりお父さんがしてやってよ。心の無か人がしたら牛が苦しむけん」しかし休むと決めていた。翌日、小学校に行く前に、しのぶ君はもう一度言った。「お父さん、今日は行かなんよ!」心が揺れしぶしぶと仕事場へ。他の牛同様、角を下げて威嚇ポーズをとった。「ごめんよう。みいちゃんが肉にならんとみんなが困るけん。ごめんよう」と言うと、みいちゃんは坂本さんに首をこすり付けてきた。殺すとき、動いて急所をはずすと牛は苦しむ。坂本さんが「じっとしとけよ」と言うと、みいちゃんは動かなくなった。次の瞬間、みいちゃんの目から大きな涙がこぼれ落ちた。牛の涙を坂本さんは初めて見た。(「みやざき中央新聞」社説抜粋)
有難いことだが、坂本さんのような方々の苦悩も知らず、自分で直接手を汚すことなく、奪われた命の意味も考えずに、生きる為に肉を食べている。私たちが生かされている背後にどれだけの犠牲があったかを考える時に、キリストが与えてくださった恵みを無視することはできない。二千年前、神の愛を表すためにこの地上にお生まれになり、33年後、我々の罪の代価を十字架で死んで支払ってくださった。キリストの犠牲の故に生かされていることを忘れてはならない。Merry Christmas!