礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2024年3月17日

 私たちの教会には大学生から中学生までの常連は10人ほどいる。それぞれ学年が違うので毎年受験生を抱える。本人や家族は当然ハラハラドキドキであろう。しかし牧師もかなり緊張している。「主の御心の道に進むように」と受験生にはお祈りをしているが、心情的には「本人の希望する道に進ませてあげて欲しい」というのが親心ならぬ牧師心である。
 娘は大学受験で初めての挫折を経験した。第一志望が不合格となったのである。その大学は聖書信仰に土台していて、キャンパス内では学生たちが自主的に祈り会を行ない、英語での授業、就職率99%という当時の私たちにとっては理想的な教育を提供する場所であった。韓国の大学なので授業料なども安い。私にとっても娘にとっても「ここしかない!ここは主の御心の場所!」と人間的な確信を持っていた。韓国国内ではかなりの難関校であるが、外国人枠はほぼ内申だけで合否が決まる。しかし蓋を開けてみると落とされてしまった。もう日本の大学も受験期は過ぎていて、もうどこにも行く当てがなく娘は大泣きしていた。私は「“神の御心”の道に進みますように」と祈っていながら、“自分の御心”がならないことに落ち込んでいることを示され悔い改め、こう娘に言った。「ここは神さまが『違う』と閉ざしてくださったんだよ。ここよりももっとあなたに相応しい場所を用意してくださっているから神さまに信頼しようよ」その半年ほど前に、韓国の別の大学の学長が教会に来られたときに大学のパンフレットを私に渡してくださっていたのを思い出した。長い話を短くするとその学校の言語学校からスタートすることとなった。 
 そしてその結果はどうであったか・・・外国人寮は、9割が中国人で中国語か英語しか通じない。授業は韓国語。仕えていた教会は国際部で主に英語を使用。この環境の中で本人が望んでいた多言語の学習を日常の中で修得することができマルチリンガルになった。様々な人に対応する度胸もついた。当時仕えていた教会の長老さんから大学四年間分の奨学金が贈られ無償で学ぶことができた。娘曰く「自分の中の第一希望が落ちて良かった!」創造主を信頼するなら万事は益!道は開かれる。

心のオアシス 2024年3月10日

 所ジョージが対談で「結婚生活の極意」みたいなことを話していた。なるほどと思わせるような内容があったのでそのまま書き出してみる。
 所:「かみさんと俺は“価値観”も違うし“好きなもの”も違うし・・・」
 質問者:「喧嘩とかしませんか?」
 所:「皆、“自分と同じ”と思うから喧嘩するんだよ。『自分と同じように思ってよ』と思うから喧嘩になる。面白いよね。元々は全然、価値観が違うのよ、かみさんとは。よく価値観が合わなくて離婚するじゃん? 他人だもん。だって合うわけねーじゃん。『俺はこう思うんだからお前もそう思えよ』っていう結婚をしてるじゃん。そうじゃないよ。相手は違うから楽しいんじゃん。人生を二つ楽しめるんだもん。かみさんが『どこか行こうよ』と言ったときに『いや、俺はいいよ』と言っちゃうと、もう一つの人生を遊べない。『めんどくさくて行きたくねーな』と思っても行くの。そうすると・・・意外に楽しい!」
 質問者:「じゃ、相手の趣味にも合わせるということですか?」
所:「合わせるというか・・・“合わせる・合わせない”“行く・行かない”じゃなくて行くの!まず!それは友達同士でもそう!『めんどくせ~』と思っても行くと面白い!」
 これを聞きながら私は「信仰生活の極意」がひらめいた。もし私に対談が申し込まれたならば、「神さまに従うなんて難しいし、この世の価値観と違うので信仰をもって生きるなんて無理なんじゃないですか?」との質問に次のように答えるであろう。「“従う”“従わない”“信じる信じない”ではなくて従ってみるの!信じてみるの!まず! そしたら不思議が起こるし奇跡を見れるし道が開かれる。『難し~』って思っても信じたら人生楽しくなるよ!」
神を信じ従うとは、神実現のために生き、神の御心を問い、神が与えてくださる答えを受け留め、神に信頼して自分の願い通りではなくても神が開かれる道を進むこと。神から来るものはすべて感謝し受け入れるということ。信じれば奇跡は起こる!

心のオアシス 2024年3月3日

 私たちの教会は開拓を始めたばかりの頃から、母教会からのお客様が多い。最近ではお客様がいない日の方が珍しいほどである。当時私は学生会担当牧師で20年間、学生たちと関わってきた。その子たちが今は家庭をもち、社会的立場が与えられ活躍しておられる人もいる。中には献身者となりカルバリーグループの教会や他教団で牧師になっておられる方々もいる。私の中ではみんな“学生”のままで止まっているが成長している姿に嬉しく思う。どうしてわざわざチャペルまで足を運んでくれるのだろうか? 関西に親族がいるからとか、旅の途中にということもあるだろうが、“関り”があったということが一番大きい。私は伝道者になったばかりの頃コミュニケーション能力が低めだった。そんな私が“関わり方”を学んだのがこの学生会であった。どうにか一回り以上若い学生たちと関わるためにしたことはランチを一緒に食べることからである。何も話さずにそこにいるだけでは、ただの難しいオヤジが座っているだけで緊張感を与えてしまう。そうならないようオヤジギャグを言ってみる。たまに関西の血が目覚めてボケツッコミをするが引かれてしまう。こんなことを繰り返しているうちに彼らとの距離が縮まるようになった。(今の私のギャグはその時からの名残である)勿論真面目な学生礼拝もしたが、“関り”がなければその場だけでお終いであったであろう。
 私は花園チャペルに出入する子どもたちに何かを教えるというよりも“関り”を持つことに専念している。要求されれば汗ダラダラになりながら鬼ごっこもする。超教派のミーティング場所として花園チャペルをお貸しした時に、若い牧師たちが別室で遊びに来た子どもたちと私がゲームをしている姿を見て驚き感動されていた。私にとってそれは普段の姿であるが、彼らにとっての主任牧師のイメージは違ったのかもしれない。今では登下校する子どもたちが遠くからでも声をかけてくれるようになった。感謝なことに教会メンバーの中には新規の人を見つけて声をかける方がいる。イエスさまは罪人ザアカイの家に入られ“関り”を持たれただけで彼の心に大きな変化が起こった。イエスさまに見習いたい。

心のオアシス 2024年2月25日

 小学生の登校時の旗振りボランティア時に様々なドラマが繰り広げられるので、その時の話題が必然的に多くなってしまうが今回も一話。
 先日の2月14日バレンタインデー当日、いつものように交差点で子どもたちの横断補助をしていると後ろに誰かが忍び寄ってくるのを感じ振り向くと教会に出入している子たちが二人立っていて、その一人が「ハッピーバレンタイン!」と言って手紙を渡してくれた。嬉しくて「わ~ありがとう!」とハイテンション気味に答えると、嬉しそうな顔をしながら歩いていった。終わってからラブレター読むとこう書いてあった。「おざき先生へ いつもおかしとかくれてありがとう。お年玉とかうれしかったよ。これからも仕事がんばってね。〇〇より」短い内容であるが、その“心”に感動した。先週レプタ2枚(150円前後)を捧げた貧しい女性をイエスさまは評価なさった聖書箇所から学んだばかりだが、そのイエスさまのお気持ちが少しわかるような気がする。今年の元旦礼拝はキッズクラスはないことを子どもたちには事前に伝えてあったので誰も来ないと思っていたが、その子は一人で大人の礼拝に参加するために来た。見知らぬ大人が大勢いて緊張していたせいか帰る時には表情が硬くなっていた。「よく来たね。礼拝もちゃんと受けれたね」という気持ちを込めてクオカードの入ったお年玉を玄関で渡すとパ~っと顔が明るくなってお礼を言って帰っていった。それがよほど嬉しかったのか一ヶ月半も経過しているが、未だそのお礼を書いてくれている。
 律法学者たちは宗教には熱心であったが、その動機や目的は自分が評価されるためであって本来中心にしなければならない「神」は無視した活動だった。彼らは自己満足感はあったかもしれないが、いつも何かに縛られた窮屈な生活をしていた。それが宗教の実体である。本来「クリスチャン」とは、宗教をやっている人ではない。もっと言うならばキリスト教をやっている者でもない。創造主なる神・イエスさま・聖霊さまの三位一体なる神との“心”の繋がりである。その中で、明るく元気でのびのびとした人生を生きることができるのである。 

心のオアシス 2024年2月18日

 私たちの教会ではこの二ヶ月で80~90代の3人が召された。私たちの教会規模からすると珍しいことかもしれない。母教会では冠婚葬祭の担当をしていたので葬儀のことはそれなりにわかっていたが、関西では葬儀や火葬場の事情など多少違うことと、どの葬儀社をお勧めしたら良いか決めかねて、かつてお付き合いのあった関東の葬儀社の社長さんに相談などしていた。今回の三件は、それぞれ違う形でのお見送りとなったが、それぞれご遺族の意向にそった良い葬儀となった。私が業者を評価するポイントは料金も含めていくつかあるが、仕事としてただ事務的に事を進めていくだけでなく礼を尽くして死者を弔いご遺族の相談に親身になって乗ってくれるかという点も大きい。それは牧師側にも問われることでもある。
 チャペルで葬儀をした時の業者さんの行動に感銘を受けた。出棺前に遺族がお花を棺に納めていくのであるが、棺の縁に葉っぱが一枚落ちて乗っていた。床に落ちたものなら私でもゴミ箱に入れるだろうが、棺の縁であれば、そのまま中に入れても責める人はいないであろう。しかしその業者のスタッフさんは、その葉っぱを自分のスーツのポケットに入れた。礼を尽くすとはこのようなことだと学ばされた。
小さなことであっても、それが人々に影響を与えることを考えると、キリスト者として人から見られていても恥じない生き方をしたいものである。まさに小さなことに忠実であれば大きなことを任せられる。
 「あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。」(Ⅱコリント6:4~8)
 今週も神さまの豊かな祝福をお祈りします。栄光在主。

心のオアシス 2024年2月11日

 先日ショックなことがあった。娘が教会に来ている近所の小学生から「小崎先生の介護のこと、今から考えておいたほうがいいよ」と言われたというのである。そして同じ日に違う小学生から「いつ小崎先生の車に『高齢者ドライバー』のステッカー貼るの?」と聞かれた。考えてみれば今の小学生の“おじいちゃん”“おばあちゃん”は50代なのである。気持ちはまだ20代だが、どう頑張っても加齢に逆らうことはできない。健康とか記憶力も神さまから貸し与えられたものは返していかなければならない。まだ想像できないが車の免許もいずれは返納しなければならない時が来る。今できることを感謝しながら生きることにしている。
 考え方はそれぞれあるので何が正しいかはわからないが、私は家内娘息子に伝えてあることがある。それはもし私がボケ始めたり、世話をしなければならなくなったら、情けをかけることはせず遠慮しないですぐに施設に入れて欲しいということ。なぜなら介護を家で続けることによって、家族に大きな負担がかかることを知っているからである。こんなことを書いておきながら、ボケてしまったらそんなことも忘れてしまい、頑固になって家に居続ける可能性を恐れているが、どうなることやら・・・
将来のことを考えると色々と心配事はあるが、聖書の言葉が大きな励ましになる。「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6章より抜粋)神さまの前にベストを尽くして、あとは神さまにお任せしよう。

心のオアシス 2024年2月4日

 昔の週報を整理していたところ5年前の「心のオアシス」を発見した。その内容を読んで改めて先日天に召されていった長老さまの心の姿勢に感銘を受けた。一部抜粋すると「先週の礼拝前に私たちの教会の80代の長老様とお祈りをしていた時に、こう祈られていました。『神さま、最近は耳も遠くなり、目も見づらくなってきました。これらは神さまから貸し与えてくださったもので、やがてはお返しすることになりますが、この目を耳を体を貸してくださったことを感謝します。』役に立たなくなってきた目や耳に不平や不満を言うのではなく、“ありがたい”という気持ちを持って生きておられることに感動しました。」
 ラインホールド・ニーバーの祈りの中に「神さま、変えられることのできるものは、変えていくエネルギーをください。しかし、変えられないものに対しては、それを、受け止めていく忍耐をください。そして、このことは変えることができるのか、変えることのできないものか、それを見極める英知を与えてください。」というのがあるが、確かに現実の世界においては、どれだけ頑張っても祈っても変えることができないことはある。“加齢”もその一つであろう。しかしそれさえも感謝しながら歩めたら、どれだけ恵まれた人生になろうか。しかし、私たちは更なる希望の中に生かされている。イエスさまを信じて歩む者は、“完全な者にされる”ことが約束されている。“完全な者”とは、病からの完全な癒し、あらゆる障がいや問題からの完全な回復である。「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(黙示録21章4節)。
 ここ数ヶ月の間に私たちの教会のご高齢のメンバーが何人か天に召されていった。癒しを求めて祈り祈られてきたが、“肉体の死”を通して、祈りの成就を本人たちは体験しておられることであろう。残された者たちには寂しさや悲しみはあるが、神を信じる者にとっての“肉体の死”は、天を指し示す道標に変わる。そして本当の人生はそこからスタートするのである。今の世は天国への予備校にしかすぎない。

心のオアシス 2024年1月28日

 「不正の富を用いなさい」とは、先週の礼拝メッセージのタイトルであった。これは私が発した言葉ではなくイエスさまが語られた内容である。もしこの説教題が教会玄関の掲示板に掲げられていたら、「ヤバい教会?」と思われるであろう。長年不可解であったこの箇所を理解できたら一番恵まれる箇所となった。是非1月21日のYouTubeをお聴きになってください。このメッセージを聴いた方で、介護とかヘルパーをしておられる方々から感謝の報告があった。内容は「会社の規則だとお金や物の受け渡しは禁止されているのですが、どう見ても何も食べていない状況で、このままだと何も食べないで過ごして倒れてしまうだろう人や、お金を貸して欲しいという人がいて、本当に困窮していて、何もしてあげないと大変な人にお弁当を買ってきてあげて一緒に食べてあげたりすることがあるのですが、いつも会社の規則と助けてあげなければならない現実の狭間でジレンマを覚えていたのですが、今日のメッセージで肩の荷がおりました。」というものであった。確かに、会社規則は働く人を守るためにあるが、その規則の故に助けることのできない人がいるのも事実である。勿論、教会が会社規則を破ってまで人を助けてあげなさいと言うことはできないので個人の判断に委ねるしかないが・・・
 パリサイ人や律法学者たちにとって、罪人と食事を共にしたりすることは律法違反であり不正行為となる。であるからイエスさまは、罪人を赦し受け入れることを「不正の富」と表現された。この「不正の富」を用いて友を作りなさいとういうのである。“神の正義”は、罪に対しては裁きと罰が加えられることを意味する。しかし“神の愛”は罪人を赦し受け入れるというものである。この互いに相容れることができない世界を全うされたのがキリストの十字架であった。イエスさまは神の正義に反して赦す選択をされたことによって人の罪が赦された。しかしその神の義に対する不正行為(赦す)によって十字架にかかられた。
 我々の正義は人を赦せないが、主は「赦せ」とおっしゃる。これが「不正の富」であり、「不正の富」で友を作った人は天で迎えられるのである。

心のオアシス 2024年1月21日

 先月天に召された長老さまが、開拓初期の時代に私にこのようなことをお話になった。「教会の牧師先生たちが『神に委ねよ』という言葉を発せられることがあるのですが、私は『委ねる』という言葉が嫌いなんです。何もせずにこの世の中、成り立っていくとは思えないんです。」長老さまは働き者であったので、恐らく「委ねる」という言葉が、「何もしないで待っている」というイメージを持たれていたのだろう。確かに「委ねる」という言葉は抽象的で、正しくない意味に捉えられる可能性がある。私も中学生時代にこの言葉を聞いた時に「では寝て過ごそう」と思ったのは確かである。牧師となった今は、誤解される可能性のある言葉に関しては、必ず具体的な説明をするよう心がけている。それぞれの役割分担がなされていても何もしないのは、ただの“怠慢”である。それは神さまから「怠惰な僕よ」とお叱りを受けるであろう。すべての人には神さまから与えられたこの地上での使命がある。大枠では「出ていって福音を伝える」ことであるが、それぞれ違った立場があり個性がある。であるから渡辺和子先生風で言うならば“自分の置かれた場所で咲く”ことである。私は“神の願いが実現するためのツール(道具)となる”よう願っている。私たちは与えられた場所で神さまのためにベストを尽くして努力しながら仕事やご奉仕をし、学生であれば学んでいき、その結果は神さま任せ・・・これが「神に委ねる」ことだと考えている。逆に結果に対して不満が出るのは「神に委ねていない証拠」でもある。
 先週、礼拝の帰り際にある方がおっしゃった。「先生が言われる『神実現に生きる』ことがよくわかります。問題が起こる時って必ず『自己実現』に走った時なのですよね。軌道修正してもまたすぐに戻ってしまうんです」この地上では人間は“肉”をぶら下げながら生きているので、それが神のために生きることの妨げになっている。私たちは毎日のようにして自分の願いを追い求めることが教え込まれている。だからこそ私は毎週「神実現」を語っている。己の願いを置いて、神の願いが成されるよう願っていたら、いつの間にか会堂が添えて与えられていた。

心のオアシス 2024年1月14日

 先日ある方と話していると「先生はこれだけ人が集まってきているのにまだ『開拓』だと言われるのですか?」とおっしゃった。確かに開拓教会は、“数名の集まり”“借り物の小さな部屋”などのイメージはあるが、花園の地域に移転してからまだ1年少々。私にとっては開拓である。1年前まで私たちの教会メンバーのほぼ95%が東大阪外在住の人たちで教会までの所要時間は平均1時間であった。集まってこられる人たちを分析してみると、HPやYouTubeを見たり、口コミ、また大和カルバリーの支教会ということで関西に移住されてきた方が来られるケースもあった。それも大変感謝なことではあったが、やはり近所の人たちにも来ていただきたいと思い、石切地域ではチラシを何千枚も配ったが地元の人が来ることは稀であった。これは今のネット社会の特有の現象なのだろうと思っていたが、花園に移ってからは様子が変化しつつある。チラシにもちらほら反応があり来てくださるようになり、その中の何人かが受洗された。教会にも様々な季節があるのだと思った。
 もし花園チャペルの今が春であるなら、これからも季節は変わっていくだろう。開拓初期は一人を前にしてメッセージ(お説教?)していたこともあった。何ヶ月も変化がなく数名の礼拝を続けていた。恐らくその時期を冬と例えることができるであろう。もし私が自分の願いを全面に出していたら途中で挫折していたであろう。しかし祈りの中で神さまが語られたことは「わたしが一夜にして何千人もの人たちを教会に送ることができないと思うか? あなたは現状に振り回されないでただベストを尽くしなさい! 神実現に生きよ!」それからというもの、前にいる数名の人たちが、神さまから託された人だと考えるようになり気持ちが楽になるだけでなく開拓が楽しくなったのを覚えている。
 神さまはこの地上に様々な季節を与え、それぞれを楽しむことができるようにしてくださっている。好き嫌いはあるかもしれないが、そこで私たちがどう生きるかをご覧になっておられる。神さまの一番の関心事は、この世でどれだけ成功したかではなく、どのように従ったかである。