礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2022年7月17日

 先日、安倍元首相が凶弾に倒れるという日本を震撼とさせるような事件が起こった。特に銃社会ではない日本において想定できなかったことが多くあったことでしょう。国内では問題も多く取り上げられてきたが、かつてないほど海外のリーダーたちからは惜しむ声が寄せられ、外国との良きパイプ役になっておられたことがわかる。世界を舞台に活躍しておられるシーンが映像で流される度に、今回の凶行は本人にとってどれほど無念だっただろうかと思わされる。しかし彼の死を無駄にしないためにも世界の人々が考えなければならないことがある。それはどんな人も、どんな形かはわからないが、人は必ず死ぬということです。そしてその時期は予測不可能ということです。しかし、もし聖書が示すように死後の世界が本番であるならば、そこに希望を置くことができる。
 教会メンバーの一人が書いた証しの一文に目が留まった。「定年を迎え・・・(中略)アップル社のスティーブ・ジョブズの例を挙げるまでもなく、財産や地位が幸せには結びつかないことが実感されるようになり、これまで何を思って必死に頑張ってきたのか、残された時間をどう生きればいいのか、虚しさを覚えるようになっていた。」多くの人は、ここに目を留めるべきなのに見て見ないふりをして騙しだまし生きている。実はこの世の幸せや満足は、天国で永遠に味わう幸せや満足の予表のようなもので、この世で一時的にだけ味わわせていただいているもので本物ではないのです。もっと言うならば、毎週日曜日に礼拝をしているが、これはある意味本番ではありません。天国で味わう霊的恵みのほんの一部分をこの世で垣間見させてくださっているだけなのです。天国では神以外に誰も地位や名誉を得る者はなく、寝ることも食べることもなく、疲れることも病気もなく、途切れることなく創造主を礼拝して、そこに永遠の幸せと満足を得るのです。どうして神を礼拝することで満足できるのでしょうか? それが人を造られた目的だからです。

心のオアシス 2022年7月10日

 この世でいう「成功者」には共通する特徴があるそうです。それに関してある書物にこのようなことが書いてありました。「私は、この仕事をはじめてから、いろいろなスーパー成功者にお会いしたが、彼らに共通することの第一は、過去のグチ話をけっして話さないこと。第二は、未来の希望についてのみ話すこと、そして、自分はつねに運がよかったし、これからもよいに違いないと思っていることです。知ってか知らずか、プラスの感情でプラスのことしか考えていないから、成功しちゃう。まさに『因果は同類にしたがう』なんです。我々は、いいことを願い、そして、それを暗い感情で打ち消さないかぎり、必ず成功、陽気のほうに向いて歩いていくことになるんです。」
 聖書の中に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5章16~18節)という言葉があるが、世の中の成功者も、聖書を知ってか知らずか、とにかく祝福される法則だけはご存知のようで、それを実践しておられる。「愚痴って発散させても良いのではないか?」「別にこの世で成功したいとは思わないし・・・」などと、最近は個性を大切にする風潮があるが、この「いつも喜べ、絶えず祈れ、すべての事に感謝せよ」という言葉の後に、「これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」という言葉が続いている。私にとってこの続きの言葉が実践を促すキーワードになっている。自分では気分が乗らなくても、“神が求めておられる”ことなら従わなければという気持ちになれる。
 私は昔、心配性であったが聖書を学べば学ぶほど“おめでたい人”になってきた。そうこうしているうちに“主にあって何とかなる!”という確信へと繋がるようになった。勿論、失敗は反省しなければならないが、そこにいつまでもくよくよ立ち止まったり、振り回されたりはしない。荒野に道を、砂漠に川を流れさせる万軍の主が共におられる!

心のオアシス 2022年7月3日

 イエスさまの弟子たちにとっての“エルサレム”は、あまり良い印象がないのではないかと思われる。なぜならそこはイエスさまを裏切った場所であり、十字架にかけられた場所である。クリスチャンに対する大迫害が起こり戸を固く閉じて隠れるような生活をしていた場所でもある。彼らにとっての“エルサレム”は、悲しみ、絶望、孤独、不安、恐れなど負の要素しかない場所であった。恐らく彼らはそこから逃れたいと願ったことでしょう。でも主は「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。」(使徒行伝1章4節)と言われ、また「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1章8節)と言われました。弟子たちの弱さの象徴とも言える“エルサレム”に留まり、そこからキリストが生きておられる証人になるのだというのです。お言葉通り祈り留まっていたときに聖霊がくだり力を受けました。その時から彼らにとってのエルサレムは、“主が甦られた場所”へと変わったのです。まさに“弱さのエルサレム”から“強さのエルサレム”になったのです。
 私たちにも当時の弟子たちのように、何らかの“エルサレム”(弱さ)を覚えることがあるでしょう。日常であったり、職場や学び舎、人間関係の中にそういった弱さへと導く要因がいくつもある。そして多くの人たちは、そこから逃れたいと願うのですが、神を信じる人たちは、エルサレムに留まり、そこからスタートすることができるのです。何のために留まるのか? 弱さがなければ人は真剣に祈りはしません。“弱さ”は祈りへと導く最大の宝です。だからこそ、そこに留まってみ言葉を握って主に祈るのです。そうこうしているうちに、イエスさまの甦りの力を体験するようになり、いつの間にか私たちの人生は動き出すようになります。神を信じる者にとってのエルサレムは最大のチャンスです!

心のオアシス 2022年6月26日

 ウェイン・コディロ先生が会衆に、このようにアプローチされたことがありました。「みなさんは、次の質問に全員手をあげてください。」と前置きをしてから、「では、この中でフルタイムのミニスター(伝道者)は、どのくらいおられますか?」全員が手をあげました。それを見てから先生はこのようにお話を続けられました。「手をあげている人たちの中には、『自分は教会から謝儀をもらっていないのに、どうしてフルタイムのミニスターなんだ?』と疑問に思われる方がいらっしゃるでしょう。この中には、会社員もいるでしょう? 学校の先生もいるでしょう? お医者さんもいるでしょう? それぞれ給料は、会社や学校や病院など違った場所から支給されますが、もっとその向こうの源まで行き着くならば、それは神様から与えられているものですよ!」
 またある日、スピーカーを移動させている奉仕者に問うたそうです。「あなたは、今何をしていますか?」その人は言いました「スピーカーを移動させているのですよ」しかしコディロ先生は言いました「いえ、あなたはスピーカーを移動させているのではありません」「いえ、移動させています。見ればわかるでしょ? 私は一体何をしているというのですか?」そこで先生はこう答えられました。「スピーカーを通して、メッセージの声が拡張されて人々に聞きやすくなるでしょう。あなたは礼拝に来る人々が、メッセージを聞きやすくして、イエス様を信じる決心をするお手伝いの宣教の働きをしておられるのですよ!」
 これは、私たちがどのような立場であったとしても、それぞれは神さまが遣わされた宣教者であることを説明されるために用いられたお話しでした。宣教の働きは必ずしもメッセージをしたり個人伝道することだけではない。その働きは多岐に渡ります。その中でも“祈り”は究極の宣教の働きであり奉仕であると確信しています。
 見える奉仕ができなくても、見えない祈りは強力な奉仕です!

心のオアシス 2022年6月19日

 萩本欽一さんの息子さんは、なんと大学受験のための予備校に通い、いざ受験というときになった時に、「さあ、就職だ!」と叫んだそうです。欽ちゃんが子どもたちに言っていた「人と違うこと、また、やったことが無駄になるようなことをやれ」という言葉を実践したそうです。そんな面白い息子さんは、リフォーム会社に就職。しかし1ヵ月後に息子さんから家のリフォームを300万円ぐらいでやらせてもらえないかと電話がありました。彼はそれまで契約ゼロ。何とかするべく父親にすがってきたわけです。欽ちゃんは息子さんに「セールスマンとして失格だ! いい加減にしろ!」と怒りました。息子さんは下を向いてだまっていましたが、その後、欽ちゃんは言いました。「だけどな、そんなメチャメチャな話でも、『わかった』って言ってやるために親父ってのはいるんだよ」そして最後はリフォームを引き受けたとのこと。息子さんは、喫茶店でボロボロ泣いたそうです。実は欽ちゃん、最初は怒らずに優しく話して断ろうと思っていたそうです。それは何でも親がやってあげては、息子さんが成長できないから。
 子どもの無理なお願いを聞くのも親の愛、断るのも親の愛です。勿論、人間の親は完全ではないことを前提ではありますが、親と子の関係の中に、天の父なる神さまと私たち人間の関係を垣間見ることができます。愛は、無条件であり、基本、そこに存在しているだけでいい、という思いが根底にあると考えられます。もし子供や愛する人が原因不明の病気で寝たきりになってしまったとするならば、病室のベッドで横になっているその人は愛せないでしょうか? そんなことはないはずです。寝たきりでも、何も結果を残せなくても、何もお手伝いができなくても、愛しているはずです。何かをしてくれたときや、何かの結果を残したときだけ認めるのは“愛”ではなく“評価”です。愛は、無条件なのです。 
 天のお父さまの愛に感謝します! そしてお父さんにも感謝です!

心のオアシス 2022年6月12日

 中国の昔の話でありますが、後漢時代に楊震(ようしん)という人がいて、非常に高い地位にあった人物でした。この人があるところへ赴任した時に、下心を持った部下が挨拶に来てお金を贈りました。「どうぞこれをお取りください。もう夜ですから誰も知っている者はありません」と言いました。そうすると、この楊震は「いや、知っている人は少なくとも四人おる。天知る、地知る、子(し)知る、我知る」。天が知る、地が知る、「子」は「あなた」で、あなたが知る、私が知る。だから誰も知らないなんていうのはとんでもない話だと言って、その持ってきた人を戒めました。これを“四知(しち)”と言うそうですが、その通り知らぬ人はいないし、知っている人は必ずいるわけです。
 これは悪い行いだけに適応できる言葉ではありません。善い行いも同様に、「四知」。日本には「陰徳」という人に知らせずひそかにする善行することが大切にされてきました。ちなみに「陽徳」というのもありまして、これは人が見ているところで徳を積むことをいいます。良いことをしたときに、「それ、私がやったんだよ!」と言うのが陽徳で、もちろん善いことをしている訳ですから素晴らしいことなんですが、もう一つ上の素晴らしさを感じるのが「陰徳」なのだと思います。ある方の言葉に「見て見ぬふりより、助けて助けていないふり」というのを聞いたことがありますが、まさしく「陰徳」の極みだと感じさせられます。誰かが困っていたら、率先して助けて、でも手柄は他人にあげてしまうのです。もちろんその行いも「四知」です。あなたが人知れず頑張っていることも、人知れず赦していることも、人知れず助けていることも、人知れず祈っていることも、人知れず捧げていることも、明らかにされないことはありません。
 「隠れた事を見ておいでになるあなたの父は、報いてくださるであろう。」(マタイ6:6)「御霊も言う、『しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく』(黙示録14:13)

心のオアシス 2022年6月5日

 先日、ある方(愛称:おっちゃん)の直葬の司式をさせていただいた。クリスチャンではあったのですが、どこの教会にも属していない人でした。いくつかの教会を渡り歩いている人で、病床で「関西カルバリーに行きたい・・・」と言っておられたことがキッカケとなり、ご遺族の要請があったことから私が司式をする運びとなった。未信者の妹さんによると昔はかなり荒くれ者だったようでヤクザまがいの仕事もしていたようです。しかしイエスさまを信じてからガラリと生き方が変わったとのこと。人からむしり取る生き方から、与える人になったそうです。火葬前式には何人か“おっちゃん”が関わっていたご友人が参列されていてお話しをお伺いすると、“おっちゃん”の悪い話題は一切出てこない。生前に「おっちゃんには、こんな助けをいただいた。」「こんな親切をしてもらった。」という話題ばかり。確かに私たちの教会にも何年も前に来られていた時期には、教会の子どもたちに毎週お菓子を持ってきて配っておられた。また喫茶店の手作りサンドイッチを毎週日曜日、私に持って来てくださっていた。ホテルのレストランに招待してくださったこともあった。親しい人には、いつも「牧師先生は大切にせなあかんぞ!」と言っておられたようで、ご自身がそれを実践しておられたことに感動した。
 ジェラール・シャンドリの名言の中に「一生を終えて後に残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである。」というのがある。私たちはこの世で、“得る”ことばかり求めていないだろうか? でも結局、人生の最後に残るものは、“得た”ものではなく“与えた”ものであることを彼は証明してくれた。“おっちゃん”には学歴も名誉も財産もなかった。この世の中で受けたものは少ないように見えた。でも与えたものが想い出として多くの人たちの心に残った。私もそのような生き方をしたいと“おっちゃん”の人生の最後に願わされた。
 「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒行伝20章35節)

心のオアシス 2022年5月29日

 先週5月23日(月)、花園チャペル建設地での起工式を無事終えることができた。新しい土地で初賛美、初メッセージさせていただけて感無量であった。
 そこでの式辞の内容は工事関係者の方々を意識して詩篇127篇1~2節「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。」の箇所からこんなお話しをした。「造られたものには必ずメーカーがあります。家であればハウスメーカーもそうですし、車のメーカー、時計のメーカーなどがあります。メーカーがあることは、私たちの安心にも繋がります。なぜなら壊れたら製作者に持っていけばいいからです。時計が壊れてハウスメーカーに持っていっても修理はできないでしょう。時計は時計のメーカーに持ち込まなければ直ることはありません。国や時代を越えて世界中の人々が抱えてきた悩みが少なくとも4つあるという資料があります。その一つは「空白感」です。自分を満たすために色々なものを手に入れますが永続的な満足には繋がりません。二つ目は「孤独感」。家族がいても、友人が何人いても、自分のことを本当に理解してくれる人はいないと孤独を感じる人も多くいます。三つ目は「罪責感」。心のどこかで“赦されたい”と叫んでいるというのです。四つ目は「死に対する恐怖」。人間はどこから出てきて、どこへ帰っていくのかわからない不安があるものです。これらの不安に対しては、人間を造られたメーカーに持って行くしか解決はありません。違う何かで埋めようとしても埋まらないのです。聖書には、「神が私たちを創造した」と書かれています。私たちのメーカー・造り主なる神さまに持って行かなければ根本的な解決はないということです。是非、人生の土台にイエス・キリストさまを据えてください!」栄光在主!

心のオアシス 2022年5月22日

 幼稚園の頃から俺はずっといじめにあっていた。友達はいなかったので本ばかり読んでいた。大学は地元を離れたが、今更ねじれた根性が直る訳もなく、やはり俺は一人ぼっちだった。たまたまクラスが同じになり俺の前の席に座ったのは、見た目も性格も素晴らしい男だった。しかし俺はヤツを警戒し、接触は極力避けるようにした。だがヤツは何の気負いもなく笑顔で話しかけてきた。どもってロクにコミュニケーションもとれない俺に一方的に話しかけて笑っていた。なぜか俺とヤツは一緒に行動するようになっていた。同じ授業を選び、同じサークルにも入った。とは言え、まだ本音で付き合っていた訳ではなく、一定の距離は置いていた。夏の日、サークルの部屋に入る直前で中の会話が聞こえてきた。同じサークルの女子連中が、「なんであんなのと、つるんでるの?」と聞いていた。今更他人にどう評価されようと知ったことではなかったが、これはヤツの気持ちを知る良い機会ではあった。「おい、今『あんなの』と言ったか? お前らにあいつの何がわかる?! 俺やお前なんかかなわない位、すげー生き方してきてるんだ。 なんでつるんでるか聞いたよな? あいつは『いいヤツ』だからだよ。」その後ヤツからメールが来た「サークル辞めようぜ。つまんねぇや」。それからもヤツとはつるみ続けて、気づいたら人並みなりの人間関係もできていた。俺の人生は、あの大学のあの日、ヤツに救われたといっても過言ではない。今でも連絡は取り合っている。骨髄移植が必要になっているようだ。ヤツを死なせる訳にはいかない。明日、会社を休んで病院に行く。きっと俺の骨髄は適合するだろう。しなければならない。それが、俺が生まれてきた意味の一つに違いないはずだから・・・(ある男性の投稿より抜粋)
 私も今まで“ヤツ”のような存在に助けられてきた。そして私も誰かの“ヤツ”になりたい。私の人生最高の“ヤツ”はイエス・キリストです。このお方のために生きたいと切に願わされる毎日です。

心のオアシス 2022年5月15日

~NYリハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩~

 大きなことを成し遂げるために
 力を与えて欲しいと神に求めたのに
 謙虚を学ぶようにと 弱さを授かった。

 偉大なことができるように健康を求めたのに
 より良きことをするようにと 病気をたまわった

 幸せになろうと富を求めたのに
 賢明であるようにと 貧困を授かった

 世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに
 得意にならないようにと 失敗を授かった

 人生を楽しもうとして あらゆるものを求めたのに
 あらゆることを喜べるようにと 命を授かった

 求められたものはひとつとして与えられなかったが
 願いはすべて聞き届けられた
 
 神の意に添わぬものであるにもかかわらず
 心の中に言い表せない祈りはすべて叶えられた
 私はあらゆる人の中で 最も豊かに祝福されたのだ

 この詩を通して学べることは、神に対する絶対的な信頼は人を本物の幸せへと導いていくということです。幸せはその人の境遇や環境に関係なく、その人の心一つで与えられるものです。