礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2023年9月3日

 花園チャペル周辺地域に何か貢献できないかと考え、先日、小学生の登下校時の見守りボランティアをしようと近所の小学校の校長先生と教頭先生にご挨拶に行った。校区が広くて700名も生徒がいる小学校だが花園チャペルが建って1年間にすでにその1割が教会に出入している。挨拶が終わった時に丁度チャイムが鳴って、生徒たちが帰る時間と重なった。校長先生と共に生徒たちに声をかけながら見送らせていただいていたが、子どもたちが恵先生と私を見つけて群がってきて、「一緒に帰ろう」とせがんでくる。この光景に校長先生は驚いておられたと思う。
 前にも書いたが、平日にも花園チャペルには子どもたちが遊びにくる。人間的には執務中だと相手をしたくない時もあるが、長い目で見る種まきだと思い受け入れる。日曜日の午前と午後の礼拝の最初の賛美の部分に10名前後の子どもたちが座っていることが多くなった。途中から別室で子どもの集会をしているのだが、何も知らない子どもたちは会堂でおしゃべりしたり立ったり座ったりと落ち着かない子もいる。牧師としては「もう会堂に入らないように」と言いたくなるが、イエスさまに近づいてくる子どもたちを拒否する弟子たちに、「イエスは憤り、彼らに言われた、『幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない』」(マルコ10:14~15)の聖書箇所がすぐに私の心を駆け巡り拒否する気持ちを抑えることができる。私は子どもたちに対する重荷がこんなに与えられるとは思ってもみなかったが、日ごろから「神さまの道具として用いてください」と祈っている通りにならなければならないと自分を戒め、今まで人任せであった子どもたちの名前も覚えて祈るように追い込まれている。
 そのような中で、近所の小学6年生の女の子がクリスチャンではない保護者の許可を得て本日受洗する。最初は遊ぶために来ていたが、献堂してから1年近くほぼ毎週通ってきた。ただただ嬉しい。栄光在主。

心のオアシス 2023年8月27日

 1900年前後に、アメリカの大リーグで活躍した奪三振王がいる。その名はサイ・ヤング選手。彼が亡くなった翌年に、その偉業を称えて、サイ・ヤング賞が設けられ、毎年優秀な選手に贈られることとなった。ヤング投手は現役時代に記者から「あなたはどうして多くの三振を奪うことができるのですか? その秘訣は何ですか?」問われた時、こう答えた。「僕は投げる時、対戦するバッターがどんな選手であっても、気にしないで自分のベストを尽くすだけ。悔いがないように投げたら、あとはバッター任せなんだ。相手が打っても打たなくても、心は揺すぶられることはない。なぜなら自分がベストを尽くした結果なんだから。」ここから「私たちはベストを尽くして、結果は神さま任せ」という私の名言(?)が生まれた。世の中は、自分の求める結果を残すために必死に生きている。だから結果が残せなければ自分を否定したり、他者を責めたりもする。悔しい思いをバネにして次に生かそうとする人もいるが、そこには多くのストレスがかかる。もしベストは尽くしながらも、結果には拘りを持たなければ、継続することが容易になる。私は教会開拓はこの気持ちが大切だと思っている。結果は神さまが与えるものだと考えるなら、たとえ会衆が1名であっても、それが何年続いたとしても、悩むことはない。やり方を試行錯誤しながら全力で主にお仕えしていくだけである。「神実現の人生」という言葉も、ここからひらめいた。“自己実現”を求めると苦しくなっていずれはやっていけなくなる。でも“神実現”に生きたら、自分はただ神さまに用いていただく“道具”だという意識があるので、神さまがご自分のお好きなように全てを導いておられるという安心感のあるおめでたい生き方ができる。しかしその“道具”が何もしなければ、それはただの怠慢である。全力を尽くすことを聖書は教えている。そして“委ねる”のは、その“結果”である。
 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8章28節) これを信じれば委ねることはできる。

心のオアシス 2023年8月20日

 怒涛の二週間に渡る3つのキャンプが終わり、夏が過ぎたような気分になっている。私たちの教会の大人しく(?)他教会とあまり交流のない若者たちが、しかも泊まりで参加してくれるかが心配であったが、応答してそれぞれのキャンプに分散して参加してくれた。嬉しい限りです。それぞれがイエスさまに従っていきたいという決意を新たにして帰ってきた。そして他教会の同年代の人たちからも良い刺激を受けてきた。実りある良い収穫だったと思う。それぞれのキャンプの若先生方は表裏の奉仕を全力で仕えてくださり大変感動した。
 私たちは何か事を成し遂げたりしたときに「自分を見てほしい」「話を聞いてほしい」「誰かに褒めてほしい」といった「他者から認められたい」という承認欲求がある。それは誰もが持っている自然な欲求ではあるものの、時には自分自身を苦しめたり、周囲の人を不快な気持ちにさせてしまったりと、強すぎる承認欲求には良い影響を及ぼさないものもある。世の中の奉仕やボランティアの中には、自己アピールのためにしているケースも少なからずあるようだ。しかし「誰の目に留められていなくても、神さまが知っていてくださるなら、それで十分」という主にある働きは、褒められても指摘されても、有頂天にもなることなく腐ることなく前向きに生きることができる。そういう意味において、どのキャンプの奉仕者も、そのような姿勢で働いておられた。
 星野富弘さんがこのような詩を書いておられる・・・
  誰がほめようと、誰がけなそうと、どうでも良いのです
  畑から帰ってきた母が でき上がった私の絵を見て
 「へえっ」とひと声 驚いてくれたら それで もう 十分なのです

 八風吹いても動じない生き方ができれば、どんなに楽かと思わされる。そのためには信頼できるお方、イエスさまが私たちを「へぇっ」って受け留めてくださっていることを知ることが大切だと学ばされる。私もその領域に近づけるよう主を見上げて歩んでいこうと思う。

心のオアシス 2023年8月13日

「むくいをのぞまで」(讃美歌536)  
① 報いを望まで 人に与えよ こは主の賢き み旨ならずや 
  水の上に落ちて 流れし種も いずこの岸にか 生いたつものを
② 浅き心もて 事を計らず み旨のまにまに ひたすら励め
  風に折られしと 見えし若木の 思わぬ木陰に 人もや宿さん
 これは好きな讃美歌の一つである。文語調なので若い人らちが理解できるかどうかわからないが、とても深く味わい深い。福音宣教にしても祈りや親切も、時として手ごたえがなく虚しさを感じることもある。バイブルキャンプや学生キャンプで恵まれても、現実に引き戻されてからどれだけの子どもたちがそれをキープできるだろうか? 命懸けで伝えても届いていないようにみえることもある。しかし、時が良くても悪くても・・・すなわち人々の心に福音が届いていても届いていないように見えても福音は伝え続けていかなければならないのである。上の讃美歌にあるように報いや良い反応を願って福音を伝えてはならない。無駄、無意味に思えたとしても、福音の種はどこかにたどり着いたときに実を結んでいくものである。私たちの浅はかな考えによって判断してはならない。教会の中で一番手に負えない子どもが献身者になることだってある。これこそが「権勢によらず、能力によらず、神の霊による」という御言葉のとおり神の業なのである。
 夏休みに入ってからも私がチャペルで執務をしていると時々近所の子どもたちが「遊んでいいですかー」と訪問してくれる。忙しい状況だと「今日は拒否しよう」という思いが心をよぎるが、主は瞬時にその思いを改めさせられる。「この子たちの数十年後の姿を考えてみなさい。青年となり親となって自分たちの子どもたちに『あの教会は安心できる場所だから、行ってもいいよ』と教える立場になるのだから、子どもたちを拒否してはならない。彼らはやがて教会のインフルエンサーになってくれるのだから」。私たちの計画なんてちっぽけなもの。神さまの計画に委ねよう。さて、今週も若者キャンプは続く。種を蒔き続けよう。

心のオアシス 2023年8月6日

 今週から怒濤の2週間が始まる。コロナも感染症第5類に落ちて青年や学生、小学生のキャンプが各地で再開しているが、私たちの教会が関わっているキャンプが3つ連続で行なわれる。参加するだけでも1つのキャンプだけで疲れるだろうが、実行委員側として3つ連続でとなると大変なことである。打ち合わせをしていても、どのキャンプのことを話し合っているのかわからなくなる。すでに各キャンプ60人前後が集まる予定となっている。次世代の人たちに確実に福音が宣べ伝えられ、主に対する熱い思いが与えられ、他教会の若者たちとの交流を通しても勇気づけられ信仰を堅くすることができるよう願っている。
 榎本保郎先生の「一日一章」の書物の中でこのようなことを書いておられ励まされた。「私たちが神に用いられるとき、持っている以上の働きをすることができる。将棋の名人が優勝するのは、将棋の駒がりっぱだから優勝するのではない。駒の良い悪いではなく、指し手がじょうずかそうでないかで決まるのである。私たちは駒である。私という単なる人間の感情や利害や思いで進んでいる間は、その駒がたとえどんなに高価なものであっても決して勝利できないのである。逆に紙に書いて作ったような駒であっても、名人がそれを進めていったならば、勝利することができるのである。大切なことは、誰に進められ、誰にさされて自分の人生を歩んでいくかということである。この決断こそ私たち人間の責任なのである。駒は指し手のままに進まねばならない。時には敵の陣地に乗り込み、犠牲になることがあるかもしれない。それでも良し、と絶対に指し手を信頼していかなければ、私たちはその栄光にあずかれないのである。だから与えられた確信というものをしっかり持ち、最後まで持続することが最も大切なのだと御言葉は教えているのである。
 キャンプもそうであるが、日々の歩みの中で心配事は絶え間なく起こるものである。自分の力で乗り越えようとすると様々なストレスや問題が生じる。自分を“駒”と見なし“指し手”である創造主なる神さまに委ね、ベストを尽くし結果は神さまに委ねることができれば安心である。

心のオアシス 2023年7月30日

 “初心者に紹介したい教会”に関西カルバリーが入っていることは誠に嬉しいこと。最近もある方から紹介されて来られるようになった方が、本人のSNSで「教会の色んな様子が少しずつわかってきて、色んなお交わりをさせていただくなかで、私の心の家となっていきつつあります。」なんてことを書いておられるのを発見してとても励まされた。
 “初心者に優しい教会”そこは開拓初期から心がけてきた。サークルのようなただ“楽しい場所”を提供するのではなくキリスト教会として福音を伝える役割は全力で果たしつつ、その内容は初心者が来られても極力不安材料がないような工夫をしている。「アーメン」は多用するので、その意味を週報の中に書いておくとか、聖書や讃美歌を開いている間に朗読や歌が終わってしまうということもあるのでプロジェクターには出してはいるが、手元に残るの週報の中に聖書箇所もお祈りも賛美もすべて印刷している。牧師としてはなるべく教会内だけで理解できる言葉や専門用語を使わないように心がける。たとえば説教の冒頭「ハレルヤ!」と言わず「おはようございます」と一般的な挨拶をする。「クリスチャン」という言葉も疎外感を感じさせる可能性があるので「神さまを信じる人は」という表現に変えている。どうしても専門的な言葉を使わざるをえないときは、わかりやすいように説明を入れる。名前を呼ぶときには「〇〇兄弟・姉妹」とは言わず「〇〇さん」と呼ぶ。また音響や空調にも気をつける。小さなことかもしれないが、そういうことが新来会者の安心と居心地にも繋がると考えている。しかし教会ですから聖書から牧師が話しをすることは承知の上で、あるいは期待して来られているはずなので、そこは絶対にブレないよう“聖書”から日常生活の励ましになるよう紐解くようにする。実際にある宗教の責任者が、開拓12年目でどうして会堂が建ったのかを研究するため一度礼拝に出られたことがあったが「他宗教の私でもよく理解できました。違和感がありませんでした。これだと思いました。」と評価してくださった。他宗教の改革に貢献してしまった可能性はあるが、この路線は続けようと思う。

心のオアシス 2023年7月23日

 先週開催されたKCF設立13周年イベントは大盛況で感謝でした。私たちの教会のとっては初のクラシック・ソプラノ・リサイタルと福音落語のコラボであった。そこにおられた人たちにとって至福の休日となったことは間違いない。チラシを見て何人かのご近所の人たちも加わってくださった。蒔かれた福音の種が、思わぬ時に思わぬ所で実を結ばせてくださることを確信している。
 平日に近所の小学生が遊びにくることがある。インターホンのカメラ越しに子どもたちだとわかっても「子ども110番」に登録している手前、居留守を使うわけにはいかない。先日も汗だくになりながら、かくれんぼをしてゲームを一緒にしていた時に小学3年生の女の子が「ねぇねぇ、私のおじいちゃんになって~」とお願いされた。理由はその子が生まれた時からおじいちゃんがいなかったからということらしい。私は“おじいちゃん”と呼ばれたことにショックを覚えながらも、「いいよー、チャペルではあなたのおじいちゃんねー」と答えておいた。
 「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。 律法のない人には-わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが-律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。 福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」(Ⅰコリント9:19-23) この姿勢は大切だと思わされている。なぜなら心が開かれていないならば語る福音は届かないからである。
 “イベント”や“おじいちゃんになること”をさえも宣教の第一歩だと考える。暑い夏でも子どもたちとかくれんぼできることを感謝しよう。

心のオアシス 2023年7月16日

関西カルバリーフェローシップの新会堂・花園チャペルを使用し始めてから早9ヶ月。すべての季節を通過しないとわからないことも沢山ある。PA機材は夏場注意しなければならないこともわかった。夏冬は当然のことであるが電気代がハンパないこともわかった。では1年経過したら全部把握できるのか?と言えばそうではない。何年かすれば経年劣化していくものもあれば故障も起こるだろう。これは建物だけのことではない。私たちの人生も50年生きたら、ある程度のことは対処できるようになるかもしれないが、なかなか上手くいかないこともある。10代は10代なりに80代は80代なりに、どの年齢層も新たな問題は付きものである。でも崖っぷちに来た時に、助け求めることができる存在がいる人は幸いだと思う。
 先日ドイツのルディガー牧師の証しを聴いた。様々な教会の問題などを経験して、もう牧師を続けていくことはできないと思っていたが一人の人物を通してそれを思いとどまることができた。ある日、信頼できるインド人のクリスチャンの友人に悩みを打ち明け「過去40年の自分の人生に欠けているものは何だと思う?」と質問すると彼は「それは簡単だ。信仰が足りないんだよ」と答えた。「冗談だろう? 自分は牧師だしイエスさま大好きだし、信仰を知ってるし、それについて説教もするし信仰の定義も知っている。信仰が無いなどと言わないで欲しい」と内心思いつつ「それはどういう意味?」と問うた。すると彼は「イエスさまを愛しているかの問題ではない。主を信頼しているかの問題だ。主には本当に全てのことができると信頼しているか? 君がコントロールしないで主にそれを委ねることができるか?」と言ったのです。「確かにイエスさまを愛することにおいては問題なかったが、神が成し遂げてくださると、神を信頼する信仰が自分にはなく自分でコントロールしようとしていたのです。」と述懐されていた。教えられる内容である。
 私たちの教会には年代別の会などはなかったが、本日初めて学生会が発足する。若者たちの中にも主を信頼する者が多く起こされますように。

心のオアシス 2023年7月9日

 昔床屋さんだっただろうか、店主とお話しする機会があり、会話の中で「牧師さんって、儲かりますか?」と聞かれたことがあった。商売人らしい質問に吹き出しそうになった。なぜならあまりにも次元が違いすぎるからである。恐らく日本の牧師の中で金儲けのために牧師になった人は一人もいないであろう。なぜならその9割以上は自分の仕事を持ちながら、またはアルバイトをしながら牧会しているケースがほとんどだからである。礼拝出席人数が平均約20名そこそこと言われる日本の現状では一人の牧師を支えることもできない。では何故献身するのか? 私は「この不動の喜びと安息を他の人にも知って欲しい。そして幸せな人生を送って欲しい」と願っているからである。生きていくことに何も希望を見出せなかった私が、希望を見出し、どんな困難があっても主にあってどうにでもなることを経験し、死んでも天国に行ける確信がある安定した恵みが与えられたことを伝えたいだけなのである。自己分析すると、サービス精神が旺盛なのかもしれない。よくテレビなどで、採算度外視したお店が紹介されたりする。どう考えてもお店の利益はないと思えるようなサービスが提供される。店主曰く「お客さんの笑顔や喜ばれる姿が見たいから」。まさにこれに似たような気持ちである。教会に来られた人たちから「イエスさまを信じたい」「イエスさまを信じて、私の人生が好転しました」「問題を乗り越える力と勇気が与えられました」などの声を聞くだけで、牧師を辞めることができなくなるほど嬉しくなる。
 来週17日(祝月)には関西カルバリー開拓13周年記念イベントが開催される。今まではほぼイベント無しで教会は成長していったが、東大阪の花園の地域に新しい会堂が与えられた今、用いていかなければならない。これからも私たちの教会の存在を通して、主が確かに生きて働いておられることを証しできればと願わされている。その為には、“私たちの願い”ではなく“神の願い”が実現されることを切に求めていかなければならない。
 「望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。」(ローマ12:12)

心のオアシス 2023年7月2日

 キリスト教会はキリストの体として存在している。それぞれの教会の役割は違う。それは聖書にも書いてある通り、多くの肢体としてそれぞれがキリストの体を構成している。コリント書によると目が手に向かって、また頭が足に向かって「おまえはいらない」とは言えないというのである。キリストに繋がっている教会は、それぞれがその役割分担を担っている。大きな教会も小さな教会も、この地上には完全な教会があるわけはないので、多少の問題があってもお互いがそれを認めていかないといけない。それと同様、各教会の中にもそれぞれの個性があり、違う賜物の人たちによって成り立っている。群れを乱すのでなければ、どんな人たちも受け入れ合わなければならない。好き好みはあっても良いが、教会はお互いが受け入れ合い許し合うために存在している。旧約時代の幕屋も完全ではなかったように教会も完全ではない。やがて主が来られる時に完全な形でそれが完成されるのである。
 先週、近所の小学生たちが誘い合って芋づる式に日曜学校に参加した。初めて来てくれた子どもたちも「どうしてこんなに楽しい場所を作ろうと思ったの?」とか「ここにずっといたい」と言って、昼になっても帰ろうとしない。家の人たちも心配するし、ずっと相手をしているわけにもいかないので一旦帰らせたのだが、午後にも来させてといって、また新しい友達を連れてきて午後の礼拝の前半の賛美まで会堂の一番前の席で賛美していた。メッセージの時間は、恵伝道師が別室で午後の日曜学校をしてくれた。そこに来られていたご夫妻の奥様が「主人はいつもディサービスで同じ年代の人たちと楽しくはやっていますが、今日は子どもたちに接して、顔つきが活き活きしています」とおっしゃっていた。これが教会での恵みだと思う。午前の礼拝後は、コーヒーを作っている人、子どもたちを相手している人、談笑する人たちもいれば、若者たちは他の部屋で話し合っている。牧師室では役員会が同時進行。新会堂は効率的に用いられている。そしてそれぞれの賜物が活かされている。しかし献身者が少ないのでフォローできなくなってきた。主に祈ろう。