礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2023年4月2日

 「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ福音書16章33節)
 イエスさまは、「これから勝ちます」「勝てると思います」と言われたのでなく「“すでに”世に勝っている」とおっしゃった。この地上においては“過去・現在・未来”という時間の時空の中で生きているので、なかなか理解できないことだが、“信仰”というツールを用いてイエスさまの言葉を受け止めるならば、現実的には、様々な辛いことや困難があっても、勝利している生き方をすることができる。その一つの例として、先日WBC(ワールド・ベースボール・クラッシック)という野球の国際試合で日本が優勝した。強豪国相手に勝ち進む“侍ジャパン”の各試合がテレビでも放映された。決勝ラウンドでは会場がアメリカに移され、時差もあって日本時間では午前中に試合が行なわれた。昼にはネットニュースで勝敗がわかるのであるが、それで日本が勝ったことを知った上で夜の実況放送を見た。“すでに勝利した”事実に基づいて試合を見ると安心できる。どんなに相手が優勢になっても、日本がチャンスを逃しても、全く動揺しない。なぜなら勝ちの結果がわかっている試合だからだ。
 私たちもこの地上では様々な壁にぶつかり悩むことは多くある。人生の断崖絶壁にいたとしても信仰をもって現実を見るならば、すでに勝利して乗り越えているわたしたちがそこにある。なぜならイエスさまは“死”に勝利して甦られたから。この勝利者なるお方が私たちの人生の“主”であり中心におられるなら、恐れることも悩むこともない。ただ勝利に向かって歩んでいるだけなのです。先週も「メッセージに勇気が与えられました」と伝えてくださる方がいた。信仰は気休めではない。私たちの現実に対するリアルな“力”なのである。だから心配無用。
 今週は受難週。イエスさまは勝利するために死なれました。

心のオアシス 2023年3月26日

 人生は預かりものである。すべてのものは、私たちがこの地上にいる間、神が一時的に貸してくださっているにすぎません。あなたが生れる前は神のものでしたし、あなたが死んだ後はまた誰かに貸し出されるのです。ただしばらくの間、持たせていただいているというだけなのです。(「人生を導く5つの目的」リック・ワーレン著より引用)
 この心の持ち方は、この地上で生きていく上でとても大切な真理だと思う。「人生は神からの預かりもの」という意識がなければ、“得る”ことにほとんどのエネルギーを使いならが生きることになる。そして他者と比べながら優越感に浸ったり、劣等感に陥ったりの繰り返しとなる。
 ある牧師がこのように言っておられた。「私は自分の元手がゼロの状態で生きてきたので、貧乏になるかと思ったが、かえって金持ちになった。驚くなかれ!私の資本がどれくらいあるかというと、およそ12億円である。なぜか? 私の身体を作ろうとすればドイツのような科学が発達した国でも2億円するという。19歳の時に妻に出会ったため、それだけでも、もう4億円である。さらに、愛する娘が4人いるため、すでに12億円の財産がある。私は家に帰るたびに、自分を12億円所有している富豪だと考え感謝している。もし神さまが私を呼ばれて死んだとしても、損することなど何もない。なぜなら、神さまが下さったこの高価な身体をただお返しするだけだからだ。このような人生観をもって生きているので、私の人生はいつも平安で感謝なのである」
 先日「最低6千万円は持っています」と題して、私がどうしてそんな大金を持っているのかを説明しながら、みなさまも今日から同様に富豪になることができることをお話しさせていただいたが、上には上がいるもので2億円所有している牧師がいた。神さまが主体となる世界のカラクリがわかると豊かな生き方ができるようになるものである。気になる方は2023年3月19日の礼拝メッセージをYouTubeでご視聴ください。

心のオアシス 2023年3月19日

 聖書を読んでいて恵まれた感想を述べてくださった方がいる。内容は、「これまで、聖書を勉強しようとして、最初は注解書を引きながら読もうとしたのですがとんでもなく時間がかかるので諦め、今は中身が理解できなくてもまず1回目は字面だけでも追ってみようと思って読んでいるところで、ちょうどエレミヤ書に差しかかったところです。『主よ、わたしは知っています。人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることができないことを』(エレミヤ10:23)これを読んで、ハッとさせられました。というのは、これまでの長い人生において、自分の道は自分で決めて歩んできた、と当然のように思っていたからです。しかし確かに言われてみれば、神のご計画がある以上、ここに書かれているとおりであり、そのことに気付かないまま今まで生きてきたことに我ながら改めて唖然とさせられたと共に、それはその通りだなあ、と非常に感慨深い思いに浸りました。また、これまで自分で決めた道を後悔することもたびたびありましたが、実は神のご計画に沿って歩んできたと思うと、これまでの歩みにおいては自分のできる範囲で精一杯歩んできたのだから後悔する必要はないと思えてきて、少し気が楽にもなりました。さらに本論からは少し外れるかもしれませんが、1行目の『わたしは知っています。』というのは、わたしは知っているけれど、これを知らない(愚)者も結構多い、ということを言外に言っているようにも思え、そのことについても深みのある神の言葉だなあ、と思った次第です。」
 これを送ってくださった方は、人生の先輩でもあり社会的にも様々な経験をしてこられた方なので真実味がある。親は子どもが自立していく姿を見ることは嬉しいものであるが、牧師もメンバーの方々が自ら聖書やデボーションを通して恵まれておられるご様子に喜びを感じる。こうやって恵みをシェアすると、それは他者にも伝染していくものである。栄光在主。

心のオアシス 2023年3月12日

 先日、平日の午後に花園チャペルのインターホンが鳴り、モニターを見ると映っていたのはランドセルを背負った小学一年生だと思われる男の子。数週間前にも小学生だと思われる男の子がピンポンしたので、それに応答すると逃げていったという経緯があったので、今回もピンポンダッシュだろうと思いながら応答すると逃げないで「誰かいますか?」との返答があった。私は急いで玄関を開けると、その男の子は「ここのお母さんいますか?」と質問してきた。「ここのお母さん??」私の頭はグルグル停止状態になった。「教会にはお母さん的立場の人たちは何人もいるが、誰のことを言っているのだろう??」と考えながら気を取り直して「どのお母さん?」と聞いてみたが、それには答えず「ここのお母さん」としか言わない。恵先生のことを言っているのかもしれないとも思ったが、その日はいなかったので、「ごめんね~今日はアルバイトしてるからいないんだよ~」と言うと、「うん」と頷いて帰っていった。“ここのお母さん”に何を求めに来たのだろう?と思いめぐらしていたが全く見当がつかない。1ヶ月ほど前から土曜日の会堂掃除を手伝い、日曜は朝から午後まで教会に入り浸っている近所の小学生の女の子がいるが、子どもたちも様々な事情で憩いの場を求めているようだ。そんな時代こそ教会が、“心のオアシス”として“イエスさまに出会う場所”として用いられることは主が願っておられることだと実感している。
 献堂から半年が過ぎたが、KCFは、開拓13年目に入り次のステージに進んでいる。対内外的にもご奉仕や活動が増えている。しかしそれぞれの集会や活動がただの“楽しいイベント”で終わるのではなく主に出会うキッカケとなるようお祈りくださると幸いです。
 「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」(エレミヤ29:11)

心のオアシス 2023年3月5日

 私たちの教会の堺チャペルには、岩男くんという青年がいます。
 2年ほど前の話であるが、礼拝の時ご機嫌斜めで、時折「ウォー」と泣き始めたので、会衆賛美の最中に私は彼の後ろに立って、そっと手を伸ばし肩に手をおいて、彼の癒しと祝福を祈りながら賛美していました。
 彼は現在25歳。重度の自閉症。意思疎通はできません。感情のコントロールもできないので、フラッシュバックが起こると大粒の涙をポロポロ流しながら突然声を上げて泣き出したりします。しばらくすると彼は落ち着き始めました。私は「岩男くん、辛いだろうな・・・自分の気持ちを伝えることもできない、したいこともできない。神さまは、どうして岩男くんをこのような形で生まれさせられたのだろうか?」と思いめぐらしていると突然、神さまの濃厚な臨在を感じ、このように語られた。「わたしは岩男を愛している。だからこそ彼はここに存在している。」それは何故、障がいを持って生まれさせられたのかという理由はなく、ただ「彼を愛している」と言われたのです。岩男くんのお母さんは、周囲に「この子は、私の宝です!」と言ってレストランIMUの店長をしながら施設には預けないで、彼と生活をつづけておられます。岩男くんを、このような母親の元に生まれさせられたのは、神さまの最大のご配慮であり、岩男くんに対する愛の表れであったことを悟ったときに、涙が溢れてきました。それはもはや、切なさではなく、神さまの愛の大きさに圧倒された故の涙でした。
 これを読んでおられる人たちは、確実に一人もこの神の愛から漏れている人はいません。あなたが生かされていることは、神さまの愛の証なのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節)【近放伝機関紙「福音の光3月号」掲載】
 キリストの福音が多くの人たちに広げられていきますように。

心のオアシス 2023年2月26日

 今や世界人口は80億人に達する勢いで、何年も前に人類統計比率から以下のような計算をした人がいた。
 「もしあなたは今朝目が覚めた時、病気でなく健康だなと感じることが出来たなら、あなたは今週生き残る事のできないであろう100万人の人たちより恵まれています。もしあなたが戦いの危険や投獄される孤独や獄門の苦悩、あるいは飢えの悲痛を一度も経験したことがないのなら、あなたは世界の5億人の人たちより恵まれています。もしあなたが苦しめられることや逮捕拷問または死の恐怖を感じることなしに教会の礼拝に行くことが出来るなら、あなたは世界の30億人の人たちより恵まれています。もし冷蔵庫に食料があり着る服があり、頭の上に屋根があり寝る場所があるなら、あなたは世界の75%の人たちより裕福で恵まれています。もし銀行に預金があり、お財布にお金があり、家のどこかに小銭が入った入れ物があるなら、あなたはこの世界の中で最も裕福な上位8%のうちの一人です。もしあなたの両親がともに健在で、そして二人がまだ一緒なら、それはとても稀なことです。もしこのメッセージを読む事ができるなら、あなたはこの瞬間2倍の祝福を受けるでしょう。何故ならあなたの事を思ってこれを伝えている誰かがいて、その上あなたは全く文字の読めない世界中の20億の人々よりずっと恵まれているからです。」
 貧しい人たちや、弱い人たちと比べて優越感を持つべきではありません。このデータを計算した人が言いたいことは、私たちはどれほど恵まれた環境の中にいるかを自覚して欲しいということなのです。
 私たちが幸せに生きることができる秘訣は、他者と比べることなく神さまが与えてくださった“自分”を受け入れること。比較すると妬みやストレスが生じます。すでに“恵み”の中に自分がいることを自覚することが大切です。これから来るものではなく、“今”が恵みの時なのです。

心のオアシス 2023年2月19日

 レオ・ダーカンジェロは、わずか11歳の時に窃盗を繰り返し捕まりました。その後、彼はヘロインにも手を出しました。逮捕され監獄に入れられたレオは壁になぐり書きされていた言葉を見つけました。「人生の旅路が行き詰まった時、苦しくて心が痛む時、ただ嘆くほかない時、イエスさまに頼りなさい。あなたが求めるべきものはイエス・キリストです」これを読んで彼は考え込みました。「今、俺の人生の旅路は行き詰っている。あるのはただ汚い過去と暗い未来だけだ」そして彼は涙を流しながら祈りました。「イエスさま、助けてください。俺は人生を台無しにして行き詰ってどうすることもできません。俺の人生を変えてください。これからは違う生き方ができるように助けてください。」祈り終わった後、彼は生まれて初めて絶望以外の感情を覚えました。監獄にいるのに自由を感じることができたのです。刑期を終えた後、高等学校を卒業して、ウエストチェスター州立大学と改革聖公会神学校を卒業しました。生まれ変わったレオは、監獄伝道に身を投じ自分がキリストの中で得た本当の自由を人々に伝えるようになったということです。
 マタイ福音書19章の中に登場する青年は人がうらやむような人物でした。地位や名誉、学歴、財産を持ち合わせ律法もすべて守ってきたというのです。隣人も愛してきたというのですから福祉活動もしてきたのでしょう。しかし“親切な良い人”であってもまだ不足を感じていたのです。イエスさまは彼に「自己犠牲のある愛をもって、わたしに従ってきなさい」と話され、それを聞いた青年は悲しみながら立ち去りました。
 損得関係なく自己犠牲を成就されたのはイエスさまただお一人です。神なるお方がこの地上に来て、裏切る弟子たちを最後まで愛し通され、私たちの罪の代価を背負って十字架にかかられました。必要なことは「どうぞ私を助けてください」と謙遜にイエスさまを求められるかということです。そうすればレオのような助けを得ることができるでしょう。

心のオアシス 2023年2月12日

 モーセとアロンはイスラエルの民のリーダーであったにも関わらず、神がかつて与えると言われたカナンに入ることができなかった。エジプトから民を引き連れ脱出し40年かけて辿り着いたカナンの地を目前にして召され、次世代の人たちが入っていったのです。入れなかった理由は民数記に、モーセは信仰によってではなく自分の感情まかせに言動してしまったことが原因だとされている。本来ならばモーセの功績からいくと無事にカナンの土地に入れてあげることが人間の情であるが、神さまの情と人間の情には違いがあることがわかる。非情に思えるが、それが神の栄光を表さない罪に対する裁きの実体なのです。私たちは襟を正していかなければならない。モーセがネボ山からカナンの土地を見渡している時に、「あなたはそこに入ることはできない」と神さまからの声がありました。しかしそこにはモーセが言い訳したり、情状酌量を求めたりはしている姿は見受けられない。私の想像であるが、恐らくモーセは自分の言動を反省しつつ、この壮大な歴史は自分だけで完結するものではないことを意識するようになり、自分はあくまで脇役であり神が主役だと考え、神がなさることにただ粛々と従っていこうと覚悟を決めたのだと思われる。私はこの“信仰の潔さ”はこの地上での人生で大きな助けになるのではないかと考えている。
 昨年までの9年間の石切での伝道では、神さまは遠方の方々を集めてくださった。しかし地元の人たちはほぼ来なかった。花まるキッズクラブなど楽しいイベントを知恵と労力を尽くしてしてきたが、日曜学校の子どもたちも集まらなかった。しかし花園の地では奉仕者を募らなければならないほど真逆のことが起こっている。では石切での9年間は無駄であったのか? 私はそうは考えない。難しい時期があっての今であり、神さまはそれぞれの季節を各個人にも教会にも与えられておられるのだと確信している。もっと“人生の季節”を楽しもうではありませんか!

心のオアシス 2023年2月5日

 先日「心のオアシス」にも書いたアメリカ人の友人であるSteve Younceの告別記念礼拝が行なわれた。アメリカまで行けなくて残念だったが、私が彼のことを綴ったコラムをSNS上で見つけた遺族が英訳して、拡大してボードを作り、それに私たちの学生時代から4年前に彼が日本を訪れたときの私とのツーショット写真等を沢山つけて葬儀が行われた教会に置いてくださった。私はそのことを知らなかったが、葬儀に参列されたSteveの友人がその画像を私に送って知らせてくれた。私のせめてもの彼に対する感謝と想い出をご遺族や彼の友人たちに伝えることができてとても嬉しかった。今やSNSで発信したものが全世界に届いている。距離を感じない時代になりつつあるが襟が正される思いでもある。
 私は留学時代に毎年のように年末年始にSteveの家に招かれ過ごしていたので彼の家族とも親交があった。実は彼が事故死した4日後に彼の父親であるSamuelも84歳で天に召された。私は奥さまのDorothyにお悔みのメッセージを送ると、「主人と息子が亡くなったことは悲しいことです。しかし私の周りに助けてくれる人が沢山いて祝福されています。これは神さまのご意志で計画であったと確信しています。」と返答があった。信仰の人だと思わされた。そして私の方が励まされた。告別式の後、赤い服を着たDorothyを中心にその家族親族が一同に集まり、SamuelとSteveの好きだったボーリングを楽しみながら追悼している写真がアップされていた。恐らく“情”を大切にする日本人は、しばらく喪に服するのでしょうけれども、これは死生観の違いなのです。“永遠”を信じる者は、“死”は終わりではないので“薄情”だと思われるかもしれないが立ち直りは早い。私も彼の突然の死にショックはあったが、彼の母親の信仰の告白によってすぐに立ち直ることができた。Steveは、よく天国の話をしていた。「天国では言葉の壁はない。自由に時間制限もなく話せるよ」と。天国が今まで以上に近くなり楽しみになった。

心のオアシス 2023年1月29日

 ある少年が交通事故で左腕を失いました。ある日、少年は父親に柔道を習いたいと言いました。何かにチャレンジしようとする息子に感心した父親は、早速息子を教えてくれる師範を探し出しました。少年は週に3回指導を受けました。しかし、おかしなことに師範は柔道の基本動作のうち一つだけを練習させました。練習では、この動作だけを強調し、完璧になるまで練習するように言いました。2ヶ月後師範が試合に登録したことを伝えると少年は驚きました。「先生、ぼくはまだ習って2ヶ月です。できる動作も一つだけなのに試合ですか?」しかし、師範は頑としてその言葉を受け付けませんでした。そして試合の日、なんと少年は第1試合に勝ちました。そして驚くことに、第2試合も第3試合も勝ちました。少年は全く信じられませんでした。しかし、そこで終わりではありませんでした。少年はすべての予想を超え決勝に進出し優勝までしました。家に帰る道で師範に尋ねました。「一つの動作しかできず、しかも片腕のぼくが優勝だなんて、どういうことですか?」「君が優勝した理由は2つある。君が完璧に会得した動作は、柔道で最も強力な動作であることと、その攻撃を防ぐ方法は『左腕』をつかむことだけだからだ。」(「トニー・キャンポロの回復」トニー・キャンポロ著より)
 私は毎週、講壇でメッセージさせていただくことや「心のオアシス」を書いていることを“当たり前”とは思っていない。勿論牧師としての職務としては当たり前なのかもしれないが、文章が書けない、人前で話せなかった男が、毎週それをしている。いいえ、「させていただいている」という方が正しい。イエスさまは、私たちの弱さの中に強さを与えると言われた。短所のように見えるものでも、天を見上げるとそれが長所に変えられている。実は毎日が奇跡なのです。会堂が与えられたことも目に見える大きな奇跡かもしれないが、息をすること、瞬きをすること、歩けること、寝ることができること、すべては神の奇跡なのです。