心のオアシス
心のオアシス 2023年8月6日
今週から怒濤の2週間が始まる。コロナも感染症第5類に落ちて青年や学生、小学生のキャンプが各地で再開しているが、私たちの教会が関わっているキャンプが3つ連続で行なわれる。参加するだけでも1つのキャンプだけで疲れるだろうが、実行委員側として3つ連続でとなると大変なことである。打ち合わせをしていても、どのキャンプのことを話し合っているのかわからなくなる。すでに各キャンプ60人前後が集まる予定となっている。次世代の人たちに確実に福音が宣べ伝えられ、主に対する熱い思いが与えられ、他教会の若者たちとの交流を通しても勇気づけられ信仰を堅くすることができるよう願っている。
榎本保郎先生の「一日一章」の書物の中でこのようなことを書いておられ励まされた。「私たちが神に用いられるとき、持っている以上の働きをすることができる。将棋の名人が優勝するのは、将棋の駒がりっぱだから優勝するのではない。駒の良い悪いではなく、指し手がじょうずかそうでないかで決まるのである。私たちは駒である。私という単なる人間の感情や利害や思いで進んでいる間は、その駒がたとえどんなに高価なものであっても決して勝利できないのである。逆に紙に書いて作ったような駒であっても、名人がそれを進めていったならば、勝利することができるのである。大切なことは、誰に進められ、誰にさされて自分の人生を歩んでいくかということである。この決断こそ私たち人間の責任なのである。駒は指し手のままに進まねばならない。時には敵の陣地に乗り込み、犠牲になることがあるかもしれない。それでも良し、と絶対に指し手を信頼していかなければ、私たちはその栄光にあずかれないのである。だから与えられた確信というものをしっかり持ち、最後まで持続することが最も大切なのだと御言葉は教えているのである。
キャンプもそうであるが、日々の歩みの中で心配事は絶え間なく起こるものである。自分の力で乗り越えようとすると様々なストレスや問題が生じる。自分を“駒”と見なし“指し手”である創造主なる神さまに委ね、ベストを尽くし結果は神さまに委ねることができれば安心である。
心のオアシス 2023年7月30日
“初心者に紹介したい教会”に関西カルバリーが入っていることは誠に嬉しいこと。最近もある方から紹介されて来られるようになった方が、本人のSNSで「教会の色んな様子が少しずつわかってきて、色んなお交わりをさせていただくなかで、私の心の家となっていきつつあります。」なんてことを書いておられるのを発見してとても励まされた。
“初心者に優しい教会”そこは開拓初期から心がけてきた。サークルのようなただ“楽しい場所”を提供するのではなくキリスト教会として福音を伝える役割は全力で果たしつつ、その内容は初心者が来られても極力不安材料がないような工夫をしている。「アーメン」は多用するので、その意味を週報の中に書いておくとか、聖書や讃美歌を開いている間に朗読や歌が終わってしまうということもあるのでプロジェクターには出してはいるが、手元に残るの週報の中に聖書箇所もお祈りも賛美もすべて印刷している。牧師としてはなるべく教会内だけで理解できる言葉や専門用語を使わないように心がける。たとえば説教の冒頭「ハレルヤ!」と言わず「おはようございます」と一般的な挨拶をする。「クリスチャン」という言葉も疎外感を感じさせる可能性があるので「神さまを信じる人は」という表現に変えている。どうしても専門的な言葉を使わざるをえないときは、わかりやすいように説明を入れる。名前を呼ぶときには「〇〇兄弟・姉妹」とは言わず「〇〇さん」と呼ぶ。また音響や空調にも気をつける。小さなことかもしれないが、そういうことが新来会者の安心と居心地にも繋がると考えている。しかし教会ですから聖書から牧師が話しをすることは承知の上で、あるいは期待して来られているはずなので、そこは絶対にブレないよう“聖書”から日常生活の励ましになるよう紐解くようにする。実際にある宗教の責任者が、開拓12年目でどうして会堂が建ったのかを研究するため一度礼拝に出られたことがあったが「他宗教の私でもよく理解できました。違和感がありませんでした。これだと思いました。」と評価してくださった。他宗教の改革に貢献してしまった可能性はあるが、この路線は続けようと思う。
心のオアシス 2023年7月23日
先週開催されたKCF設立13周年イベントは大盛況で感謝でした。私たちの教会のとっては初のクラシック・ソプラノ・リサイタルと福音落語のコラボであった。そこにおられた人たちにとって至福の休日となったことは間違いない。チラシを見て何人かのご近所の人たちも加わってくださった。蒔かれた福音の種が、思わぬ時に思わぬ所で実を結ばせてくださることを確信している。
平日に近所の小学生が遊びにくることがある。インターホンのカメラ越しに子どもたちだとわかっても「子ども110番」に登録している手前、居留守を使うわけにはいかない。先日も汗だくになりながら、かくれんぼをしてゲームを一緒にしていた時に小学3年生の女の子が「ねぇねぇ、私のおじいちゃんになって~」とお願いされた。理由はその子が生まれた時からおじいちゃんがいなかったからということらしい。私は“おじいちゃん”と呼ばれたことにショックを覚えながらも、「いいよー、チャペルではあなたのおじいちゃんねー」と答えておいた。
「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。 律法のない人には-わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが-律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。 福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」(Ⅰコリント9:19-23) この姿勢は大切だと思わされている。なぜなら心が開かれていないならば語る福音は届かないからである。
“イベント”や“おじいちゃんになること”をさえも宣教の第一歩だと考える。暑い夏でも子どもたちとかくれんぼできることを感謝しよう。
心のオアシス 2023年7月16日
関西カルバリーフェローシップの新会堂・花園チャペルを使用し始めてから早9ヶ月。すべての季節を通過しないとわからないことも沢山ある。PA機材は夏場注意しなければならないこともわかった。夏冬は当然のことであるが電気代がハンパないこともわかった。では1年経過したら全部把握できるのか?と言えばそうではない。何年かすれば経年劣化していくものもあれば故障も起こるだろう。これは建物だけのことではない。私たちの人生も50年生きたら、ある程度のことは対処できるようになるかもしれないが、なかなか上手くいかないこともある。10代は10代なりに80代は80代なりに、どの年齢層も新たな問題は付きものである。でも崖っぷちに来た時に、助け求めることができる存在がいる人は幸いだと思う。
先日ドイツのルディガー牧師の証しを聴いた。様々な教会の問題などを経験して、もう牧師を続けていくことはできないと思っていたが一人の人物を通してそれを思いとどまることができた。ある日、信頼できるインド人のクリスチャンの友人に悩みを打ち明け「過去40年の自分の人生に欠けているものは何だと思う?」と質問すると彼は「それは簡単だ。信仰が足りないんだよ」と答えた。「冗談だろう? 自分は牧師だしイエスさま大好きだし、信仰を知ってるし、それについて説教もするし信仰の定義も知っている。信仰が無いなどと言わないで欲しい」と内心思いつつ「それはどういう意味?」と問うた。すると彼は「イエスさまを愛しているかの問題ではない。主を信頼しているかの問題だ。主には本当に全てのことができると信頼しているか? 君がコントロールしないで主にそれを委ねることができるか?」と言ったのです。「確かにイエスさまを愛することにおいては問題なかったが、神が成し遂げてくださると、神を信頼する信仰が自分にはなく自分でコントロールしようとしていたのです。」と述懐されていた。教えられる内容である。
私たちの教会には年代別の会などはなかったが、本日初めて学生会が発足する。若者たちの中にも主を信頼する者が多く起こされますように。
心のオアシス 2023年7月9日
昔床屋さんだっただろうか、店主とお話しする機会があり、会話の中で「牧師さんって、儲かりますか?」と聞かれたことがあった。商売人らしい質問に吹き出しそうになった。なぜならあまりにも次元が違いすぎるからである。恐らく日本の牧師の中で金儲けのために牧師になった人は一人もいないであろう。なぜならその9割以上は自分の仕事を持ちながら、またはアルバイトをしながら牧会しているケースがほとんどだからである。礼拝出席人数が平均約20名そこそこと言われる日本の現状では一人の牧師を支えることもできない。では何故献身するのか? 私は「この不動の喜びと安息を他の人にも知って欲しい。そして幸せな人生を送って欲しい」と願っているからである。生きていくことに何も希望を見出せなかった私が、希望を見出し、どんな困難があっても主にあってどうにでもなることを経験し、死んでも天国に行ける確信がある安定した恵みが与えられたことを伝えたいだけなのである。自己分析すると、サービス精神が旺盛なのかもしれない。よくテレビなどで、採算度外視したお店が紹介されたりする。どう考えてもお店の利益はないと思えるようなサービスが提供される。店主曰く「お客さんの笑顔や喜ばれる姿が見たいから」。まさにこれに似たような気持ちである。教会に来られた人たちから「イエスさまを信じたい」「イエスさまを信じて、私の人生が好転しました」「問題を乗り越える力と勇気が与えられました」などの声を聞くだけで、牧師を辞めることができなくなるほど嬉しくなる。
来週17日(祝月)には関西カルバリー開拓13周年記念イベントが開催される。今まではほぼイベント無しで教会は成長していったが、東大阪の花園の地域に新しい会堂が与えられた今、用いていかなければならない。これからも私たちの教会の存在を通して、主が確かに生きて働いておられることを証しできればと願わされている。その為には、“私たちの願い”ではなく“神の願い”が実現されることを切に求めていかなければならない。
「望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。」(ローマ12:12)
心のオアシス 2023年7月2日
キリスト教会はキリストの体として存在している。それぞれの教会の役割は違う。それは聖書にも書いてある通り、多くの肢体としてそれぞれがキリストの体を構成している。コリント書によると目が手に向かって、また頭が足に向かって「おまえはいらない」とは言えないというのである。キリストに繋がっている教会は、それぞれがその役割分担を担っている。大きな教会も小さな教会も、この地上には完全な教会があるわけはないので、多少の問題があってもお互いがそれを認めていかないといけない。それと同様、各教会の中にもそれぞれの個性があり、違う賜物の人たちによって成り立っている。群れを乱すのでなければ、どんな人たちも受け入れ合わなければならない。好き好みはあっても良いが、教会はお互いが受け入れ合い許し合うために存在している。旧約時代の幕屋も完全ではなかったように教会も完全ではない。やがて主が来られる時に完全な形でそれが完成されるのである。
先週、近所の小学生たちが誘い合って芋づる式に日曜学校に参加した。初めて来てくれた子どもたちも「どうしてこんなに楽しい場所を作ろうと思ったの?」とか「ここにずっといたい」と言って、昼になっても帰ろうとしない。家の人たちも心配するし、ずっと相手をしているわけにもいかないので一旦帰らせたのだが、午後にも来させてといって、また新しい友達を連れてきて午後の礼拝の前半の賛美まで会堂の一番前の席で賛美していた。メッセージの時間は、恵伝道師が別室で午後の日曜学校をしてくれた。そこに来られていたご夫妻の奥様が「主人はいつもディサービスで同じ年代の人たちと楽しくはやっていますが、今日は子どもたちに接して、顔つきが活き活きしています」とおっしゃっていた。これが教会での恵みだと思う。午前の礼拝後は、コーヒーを作っている人、子どもたちを相手している人、談笑する人たちもいれば、若者たちは他の部屋で話し合っている。牧師室では役員会が同時進行。新会堂は効率的に用いられている。そしてそれぞれの賜物が活かされている。しかし献身者が少ないのでフォローできなくなってきた。主に祈ろう。
心のオアシス 2023年6月25日
最近、過去の「心のオアシス」を読み返してみることがある。それによってその当時の教会の歴史を思い出したり、自分の信仰の在り方など再確認できて恵みを受けることが多い。以下は今から5年前のコラム。
先日役員会で「これからの関西カルバリーフェローシップの自分たちの教会堂をどうするか・・・買うか、広い場所を借りるか、今の建物をリフォームするか・・・」ということを話し合っていた時に、おもむろに長老さんが、「でも、開拓8年目で、もう会堂のことで悩むなんて凄いことですよ!」とおっしゃいました。私もその言葉にハッとさせられました。振り返ってみれば、8年前に教会をスタートした時は、聖歌隊が結成することすら夢のまた夢、会堂なんて夢にも出てこない状況でした。今は協力伝道師、そして新しく補教師まで加わるまでになりました。どうしてここまでなったのかは私にもわかりません。チョー先生が言われるように「聖霊さまの御業」としか言いようがないのです。
私たちは神さまにベストを尽くしますが、事を成してくださるのは、神さまです。だから心配無用。現実は、教会堂を建てるには経済力はまだまだです。でも、神さまが必要とされるなら、いとも簡単に与えられるでしょう。今までがそうでしたから。必要とされなかったら別の道を望んでおられるということだと思います。イスラエルの民も天幕(簡易テント)生活でしたから、建物に固執することはないとも考えています。
「マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓にむかってそこにすわっていた。」(マタイ27章61節)主語が複数なのに「すわる」は単数形なので、「墓に向かって祈っていた」とも解釈されます。どんなに大きな墓石のような問題でも“祈り”によって開かれていくのです!祈ろう!
(2018年4月8日「心のオアシス」)
なんとこれを書いた4年後に土地を購入し会堂が建った。経済力がなくても“神さまが必要とされるなら、いつも簡単に与えられる”信仰に、主が答えてくださった形だ。再度宣言します。「だから心配無用!」
このコラムをまた5年後に読み返してみたい。何が起こるか楽しみだ。
心のオアシス 2023年6月18日
多くの人たちは“自分の将来”を知りたがり、運気を高めるために、何か霊的なものを求める傾向がある。科学的根拠は何もないが、占いを求めたり、スピリチャルスポットと呼ばれる場所を訪れたりするのは、その良い例であろう。朝のニュースの終わりにも「今日の運勢」といって、その日一日の占いまでが紹介されるほどである。需要があるからこそ毎日流されているのであろう。この現象を聖書的に解釈するならば、元々人間の本質は霊であって肉体を身にまとっているので、それがぼやかされている。精神的・肉体的な満足を求め満たしながら人間は生きているが、実は神が私たちに与えられた“霊”のタンクがあって霊的教育を受けたことがなくても、そこを満たしたいという願望が自然と起こるのである。天地宇宙を造られた創造主との繋がりがない人は、“霊的死”の中にいるが、そこを埋めるために様々なものを求めるが満足はない。
詩篇102:19によると、私たちは、主を賛美(礼拝)するために造られたとある。私たちの本質は、神を礼拝したくてたまらないのである。実は神を礼拝するときが一番人の魂は安息の中にいる。一般的に天国は楽園のような場所だとイメージするが、そこでは何がなされているか? 神を礼拝しているのです。旧約時代のイスラエルの民は幕屋を造り、そこで小羊を捧げていたが、これはイエス・キリストの贖いの業を予表的に表していたものであった。では2000年間世界で行なわれているキリスト教会の礼拝は何を表しているのか? 実は“天国”を予表しているのである。地上の幕屋は完全ではなかったが、キリストがそれを完成なさった。そして地上の礼拝も不完全ではあるが、終末に教会が携挙(天への引き上げ)される時に、そこで真の礼拝が捧げられるようになる。
現在聖書セミナーでは黙示録の連続講解(限定公開)をしているが、「終末の恐ろしいイメージが希望になった」などの反響をいただいている。私も礼拝を大切にする重要性を学ばされている。主よ来たりませ!
心のオアシス 2023年6月11日
先週、花園チャペルのフェローシップルームで小学生たちが、かき氷を作り販売した。これは夏のキャンプ費用を補うために行なった小学生アルバイト企画である。堺チャペルの小学生も親に連れられ加わってくれた。勿論大人たちの背後の援助があってこそだが、それぞれが自分の役割分担を担い協力しあっていた。ここ数年できなかったことができるようになったことと、老若男女が集まってそれぞれが楽しんでいる姿を見ること、そして新会堂の機能が発揮し始めたことが、牧師にとって何よりも嬉しいことだった。
私たちは当たり前だと思っていることが当たり前でなくなった時に、初めてすべては恵みだったのだと気づかされるものである。会堂が与えられていることも、使用させていただいていることも、“神の恵み”以外何ものでもないと思わされる昨今である。昔、杖をつきながらヨタヨタと教会に来られているおばあちゃんが、「動けなくなってから後悔しないように、歩ける間は教会へ出向くことを心がけているのです。」と言っておられたことに感銘を受けたことがある。瞬間瞬間を悔いが残らないように全てに感謝しながら歩んで行きたいと願わされる。
先日の礼拝の特別賛美の歌詞に感動した。
「恵み/Grace」。
①築いてきた我が全て 過ごしてきた過去の日も 歩んできた道のりも
当たり前でなく恵み 朝日が昇り夕暮れ 春の花と秋の実も
移り行く季節さえも 当たり前でなく恵み
※すべて恵み 恵み 恵み 主の恵み
当たり前のことなど一つもない すべてが主のみ恵み
②この地に生まれ生くこと 幼き日から今まで息をし 夢見ることも
当たり前でなく恵み 神の子として生くこと
主を拝し称えること 福音を伝えることも 当たり前でなく恵み
心のオアシス 2023年6月4日
今月で関西カルバリーフェローシップの開拓は13年になる。当時の私にとって、関西での開拓伝道は未知の世界であった。24歳で東京へ出て仕事をしていたので、奈良で育ったとはいえ、知っている教会や牧師先生方はごく少数。どのようにしてここまでくることができたのかを探るために過去の「心のオアシス」を読み返してみた。11年前の6月(開拓2年目)にこのようなことを書いていた。以下に抜粋してみる。
関西での開拓は、単身赴任で、しかも子供たちは海外留学で、みんなバラバラ。人間的に計画していたこととは違うことも起こり、果たしてどうなることやら?といった心境でした。私の心を支えたのは、創世記28章に記されているヤコブがベテルという場所で経験した出来事でした。兄エサウの怒りにふれて逃げるようにして一人旅が始まりました。ヤコブは不安で満たされていました。自分がこれから行こうとするのは未知なる場所、兄から命狙われている恐怖、一人身の寂しさ、何もない荒野の旅をまっとうできるのかという心配・・・石を枕にして寝ているときに夢を見ました。一つのはしごが地の上に立っていて、天にまで達していて、神の使たちがそれを上り下りしている光景でした。そして神が彼のそばに立ってこう言われました。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」(28:15)それを見たヤコブは夢から覚めて悟りました。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」私はこの言葉にどれだけ励まされたかわかりません。そしてスタート時点から私の背中を押すかのようにして助け手を備え、救われる人たちを与え、不思議な導きばかりが起こりました。そのことを書き出すとこのスペースでは全く足りません。まことに主がおられたのです。
自分で書いた文章であるが改めて励ましを得た。開拓2年目も現在も同じように主の恵みが伴っている。そしてこれからもそれは続くのです。