礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2022年11月27日

 先週23日に花園チャペルの献堂式を迎えることができた。遠くから近くから牧師先生方や献身者、宣教師の方々、応援お祈りしてくださっていた人たちが150人お集まりになり感謝が絶えない。私自身、未だに会堂が与えられたこと自体が夢のようで、この夢はまだ覚めていないような感覚でいる。恐らくエジプトから脱出したイスラエルの民の行く手を阻んでいた紅海が水垣となって乾いた土地を歩いた時も、夢の中を歩いているような気分だったのではないかと思う。計画立てながら進んでいたら、着々と進められていることに実感が湧くと思う。しかし突然予期しないことが目の前で起こると実感は湧かないだろう。“気持ち”がついていくのに時間がかかる。ずっと借り物の教会で場所を転々として、それが私たちの教会に委ねられた神さまのご計画だと思わされていたが、今年になって自分の会堂を所有している?! 不思議でしかない。
 まだ土地を買う話題さえもなかった3年ほど前に、リビングライフの巻頭言を依頼されこう書いていた。「私たちの教会は、まだ自分たちの会堂を所有していません。財力もありません。しかし、神さまが計画されているならば、いとも簡単に会堂が与えられると信じています。主が共におられれば、小さな群れでも大きなことが起こるのです」。
 私が信じていたことは真実だったことが証明された。手持ちも能力もなくても、神さまがお集めになり、能力ある人たちを送ってくださり、事を成し遂げてくださることを確信できるようになった。主と共に歩む人生は、恵みが付いて回る。どうして神さまを抜きにして歩もうとするのだろうか? 勿体ない話である。ダビデが「わたしの生きているかぎりは 必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」と唄った気持ちがわかるようになった。神さまにお委ねする人生の味を知ったら、もうそこから離れられない。離れたくはない。
 花園の地がその名のごとく、主にあってのオアシスとなりますように。

心のオアシス 2022年11月20日

 花園チャペルに移転してからミラクルばかりではなく、ホッコリすることも毎週起こる。先週は建築委員会のミーティングが牧師室で行われたが、役員の一人が「私たちにミーティングする部屋があるって凄くないですか?!」と言われた。私も同感である。今まで借り物の場所では、部屋は二部屋しかなく、何をするにも他のグループなどに気を使いながらであった。他の部屋では、献堂式の記念品の包装する作業が同時に行なわれている。途中で近所の小学生が遊びに来たが追い返す必要はなくヤング&キッズの部屋でギターを弾いたりゲームをして遊んで帰っていった。会堂では午後礼拝のリハーサルが行われている。「これが私たちの求めていた教会の姿だな」とホッコリしながら、この贅沢が当たり前になったり慣れっこにならないよう気を付けなければならないと思った。
 平日にも近所の高校生や小学生が遊びに来ることがあるが、それぞれ帰るときに「教会最高!」「教会love!」とか「キリスト教会いいね!」と平気で口にする子どもたちにホッコリさせられる。彼らもホッコリしすぎてなかなか家に帰らない。皆さま口をそろえて言われるのは、「花園チャペルは教会の建物というより家にいる感じがする」とのこと。確かに居心地良くて、いつまでも居たくなる。
 沢山の小学生が教会前を通って帰宅しているが、たまにピンポンダッシュする子がいる。先日たまたまピンポンが鳴った瞬間にドアを開けると逃げていく小学生の男女が数名。逃げる姿をジッと見ていると、一人の女の子が私に気付いて、深々と頭をさげて「ごめんなさい!」と謝っている。後で防犯カメラ映像を確認すると、女の子が「押したらダメ!」その直後男の子がインターホンを押して逃げている。犯人は男の子なのに、何の言い訳もせずに女の子が謝っていたことに感動を覚えた。それ以来ピンポンダッシュはパタリ無くなった。罪無きイエスさまが十字架にかかり私たちの罪をかぶってくださった。ただただ感謝しかない。

心のオアシス 2022年11月13日

 関西カルバリーフェローシップは、12年前の2010年6月6日に教会をスタートした。その時の週報を探してみると、「心のオアシス」に以下のように書いていた。
 今日は「奈良カルバリーフェローシップ」の誕生日です! この歴史的なスタートにお立会いくださったみなさまは幸いだと思います。大げさなことを言っているようですが、そうでもありません。世界に影響を与えるような大国であっても、また人の目には留まらないようなどんな小さな群れであっても、また有名人でも目立たない人であっても、天地宇宙を造られた神様のお許しがなければ、その存在はありえないからです。この集まりは神様の壮大な歴史の一部分を担うために誕生しました。スタートは小さくても、大きな働きです。ただ委ねて前進するのみです。
 私が与えられているビジョンは、聖書のことを知らない初心者でも安心して参加でき、何かわからないけれども元気をもらって、癒され、チャレンジを受け、希望をもって帰っていけるような心のオアシスのような場所をつくるということです。ここで力を得た人たちが今度は外でこの喜びを分かち合うことができれば最高ですね。そのことのためにシンプルなプログラムと、たとえ難解な聖書箇所でも初心者にわかりやすくお話しできるよう努力します。将来的には平日の「学び会」などを通して聖書の世界を深めていけるような会も考えています。(一部抜粋引用)
 先週の礼拝には、奈良に本部を置くある有名な宗教団体の方が来られ、「これから開拓をしていきたいので、開拓12年で立派な会堂を建てられた教会さんのノウハウを教えて欲しい」という男性が来られた。その方が言うには、その団体は、初心がなくなり組織化してしまい、不定期の“おつとめ”では、専門用語ばかりで初心者には難解なので改革したいとのことだった。礼拝の感想は、「初心者でもよく理解できました!」とお褒めの言葉をいただいた。あとは聖霊様のお働きにバトンタッチした。

心のオアシス 2022年11月6日

 キリスト教会の中で「神に委ねなさい」と教えられることがあるが、クリスチャン中には“委ねる”ことに関して誤った理解をしている方がおられるように思う。「何もしないで、事が起こるのを待つ」とか、「この道ですよ」と天から声をかけて指示されてそれに従うとか、ただ漠然としかその意味がわからないケースも多い。これは教会で、“委ね方”を正しく教えていないことが原因だと思われる。そこで私は、“委ねる”ことを、どのようにお伝えしたら良いのかを祈り考えた。与えられた言葉は、「ベストを尽くして、結果は神さま任せ」である。私たちの側ではできるだけの努力はして、その結果は、自分の望んでいなかったものであったとしても、それを神さまからの答えとして受けとめる、ということである。それが“神に委ねる”ことであると考えている。
 以下はリック・ワーレン著「人生を導く五つの目的」からの抜粋です。
 神は、あなたが最初の一歩を踏み出すのを待っておられます。力や確信が湧いてくるまで待っていてはいけません。恐れがあっても、感情が伴わなくても、正しいことを行ない、弱さを覚えながらも前進することです。これが、聖霊の働きに協力するということです。こうしてあなたの品性は整えられていくのです。聖書は、霊的成長を種や建物や子供の成長などにたとえています。それぞれのたとえは、積極的に関わることの大切さを教えています。種は蒔かれ、そして耕される必要があり、建物は突然でき上がるのではなく、建てられなければなりません。子供たちが成長するには、よく食べて運動をしなければならないのです。努力というものは、あなたの救いとは全く関係のないものですが、霊的成長とは深い関係があります。新約聖書では少なくとも八回、私たちがキリストの似姿を目指して成長していくために「あらゆる努力をするように」と教えられています。ただ座って、事が起こるのを待っていてはいけないのです。

心のオアシス 2022年10月30日

 31年前、私は神学校を卒業してからすぐ、カルフォルニア・ロサンゼルス郊外へ日本人伝道のために家族で宣教師として派遣された。そこが私の初めて経験する教会開拓であった。自宅のリビングを礼拝堂として使用してのスタートで、教会名は「ラグナヒルズ・ミラクル・チャーチ」。命名したのは大川従道先生だった。私は正直「奇抜な名前でカルトと間違えられないかな?」と内心心配していた。しかし、主の教会にはミラクルは起こるもので、最初の年から受洗者が与えられた。そしてその当時集まるようになった3人の独身の青年たちは全員献身して牧師となった。あれから31年後、二度目の開拓で美しい会堂が与えられた。賜物溢れる役員さんたち、そして愛と恵みに溢れたメンバーが与えられ、そこに最強の聖霊さまのお力が加わって、少人数ではあるが力強い群れに成長していった。花園チャペルがスタートして既に2回の礼拝を行なったが、まだミラクルは継続している。先日近所の人たちのために開催した新会堂見学会に来てくれた子どもが日曜日のギター教室に来てくれた。子どもたちの集会“花まるキッズクラブ”も早くして欲しいと促され急遽11月から始まることになった。朝の礼拝でも癒しが起こった。午後の礼拝では、毎日教会の掲示板を見ながら通勤しているという方が、会堂に足を踏み入れ参加してくださった。あの大声で恫喝してきた“おっちゃん”は、謝罪に来られて以来、近所の人も驚くほどに大人しくなった。駐車スペースを提供くださっているお隣の製作所にレストランIMUから感謝の印にとキンパ、チヂミ、ヤムニョムチキン、キムチの弁当を従業員36人分に差し入れすると、会長さんの息子さんが美味しかったからと、早速、堺チャペルのあるレストランIMUに食べにこられて二人で十品食べてお持ち帰りも沢山注文して帰られたとの報告を聞いた。 
 主の勢いをよみの門も止めることはできない。花園チャペルを“ミラクルチャーチ”と囁く人が現れた。ハレルヤ主よ感謝します。栄光在主。

心のオアシス 2022年10月23日

 花園の地での宣教の働きがスタートした。イエスさまが宣教を開始される前に、荒野に導かれ悪魔の試みにあわれたことが記録されている。そして3度の試みに対して“神実現”を主張されるイエスさまから悪魔は離れていった。実は花園での宣教の働きの日が近づくにつれて、霊的攻撃が強くあることを、この鈍い牧師でも感じるようになった。通常ではありえない出来事が起こるのです。そこで建築委員会の皆さまと祈ることを示され週一でzoom祈り会をするようになった。そして入堂式当日、悪魔は最後の抵抗をしてきた。何と礼拝開始時間30分ほど前に、近所に住んでおられるこの周辺では有名なモンスタークレーマーが教会の玄関で、「声が煩いから、駐車場に車を止めるのを止めろ」と怒鳴り始めた。恐らく会堂にいた方たちはその声に凍り付いたことでしょう。すぐに玄関前に行ったが、男性の罵声は止まらない。時間がきたのそこにいたメンバーに任せて入堂式を始めた。神さまに会堂を与えてくださったことを拍手をもって賛美している時に、ガラガラと音を立てて悪魔の計画が崩れ落ちるのが分かった。  
 その日のミラクル①普段は堺のメンバーだが、礼拝中そのクレーマーとの防波堤になってくれた。ミラクル②受洗者が2名も与えられた(転入会者2名)。ミラクル③新来会者に花園ラグビー場のプロのラガーマン夫婦が来られた。ミラクル④会堂近所の女子高生3人(内未信者2名)が、夕方から教会に来て悩みを打ち明けられお祈りできた。ミラクル⑤その日の午後からクレーマーが態度を軟化させ、次の月曜日に挨拶した時には、「あなたたちは信頼できる人たちであることがわかったので、いざこざはお終いにしましょう。今週の土曜日の見学会は、車10台は大丈夫。日曜日は5台以内で話をせずに教会に入るなら文句はいいません。私も数年後に教会の中に座る人間になっているかもしれませんし・・・」と深々とお辞儀をして帰って行かれた。明らかに霊的空気が変わった。主の勝利を確信させていただいた瞬間だった。

心のオアシス 2022年10月16日

 本日、新会堂・花園チャペルの入堂式礼拝が行われる。これは教会のメンバーにとって大切な行事です。“献堂式”は外部のクリスチャンへのお披露目のような要素がありますが、“入堂式”は主が成された御業に対して教会メンバーが中心となって喜び合う時です。皆さまが祈り、様々な形で捧げてこられた“実”を見て感謝するのです。
 先週はイベントホールから荷物を運び出して、新会堂へ移す作業が有志の方々で行なわれた。キリストの体の一部として、それぞれがそれぞれの働きをしてくださっていることに感動を覚えた。遅くまで残って片付けや掃除などをしてくださり頭が下がる思いだった。何人かの方々は、「ここにずっといたいです・・・」と語っておられて、みんなで建て上げた教会が、霊、肉、魂のオアシスとして、すでに機能し始めていることに主の御名を崇めました。ダビデが「とこしえに主の宮に住むでしょう」と歌ったように、宮にある主の臨在が濃厚で、そこから離れたくないと思ったように、花園チャペルも神の臨在のある場所として用いられることを切に祈っています。
 不思議と花園チャペルは、入ってみると教会らしくない“家”のような雰囲気が漂っている。特に2階は、皆さまの憩いの場所として用いられるように設計されている。教会メンバーは勿論、近所の方々にとっても“心のオアシス”になって、救われる魂、癒される人たち、問題解決される方々が起こされる場所となるでしょう。もう既に近所の方々からは、「中に入ってみたい」との要望が来ている。“市政だより”に出した案内を見て、ゴスペルのコンサートに参加したいとのお電話もいただいた。礼拝堂の外も中も、想像以上に美しく仕上がっているが、これがただの美しさで終わるのではなく、主の美しい福音が広げられる場所として聖別されて用いられることをお祈りしています。会堂はただの“箱”であって、重要なのは、その中に何があるか、です。お祈りください。

心のオアシス 2022年10月9日

 本日で10年近く毎週礼拝してきた東大阪市東石切町での礼拝が最後となる。様々な主にあるドラマが繰り広げられてきた場所であり感無量である。この場所を離れなければならないことに、感慨深いものがあるが、主が導かれる地に入っていかなければなりません。旧約聖書に登場するアブラハムやモーセも同じような思いで旅をしたのではないか?と、しみじみ考えさせられた。人の悩みや心配事は、今も四千年前も変わってはいない。文明文化の違いはあるが、人が求めているものも本質的にはどの時代もどの国の人々も同じである。私たちの人生が“神実現”であるならば、示される場所が自分の好みではなくても従っていかなければならない。しかしそこに真の祝福が待っている。
 私たちがこの地を離れるにあたって忘れてはならないことは、主が東大阪福音教会と藤長先生を用いて、9年間も私たちが礼拝する会堂を備えてくださったこと。ダイワハウスさんが、通常ではしないサービスを提供してくださり会堂建築が可能になったこと。石切チャペルを出て、新会堂が建て上げられるまでの期間、私たちだけにイベントホールをお貸しくださった街路樹さん。これによって路頭に迷うことなく、安心して礼拝を捧げ、荷物の出し入れを毎回する必要がなく助かったこと。これらの親切は間違いなくすべて“主”から出たものです。かつてバビロンに捕囚されていたイスラエルの民をエルサレムに帰還させ、しかも神殿建設を促し経済的にも助けたのは、異教の国ペルシヤのクロス王でした。誰が彼らの心を動かしたのか? 聖書には「主がなされたこと」だと記録されている。
 「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」「わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」「主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい。」花園の地でもこの御言葉を握って進んでいきたい。ハレルヤ主よ、感謝します!

心のオアシス 2022年10月2日

 日本での教会開拓は大変だと考えられている。私もかつてはそう思っていた。しかしそれは正しい信仰と考え方一つで変わるものであることを実感している。まず何が“大変”の基準になっているかを考えてみると、多くの場合「人がなかなか教会に来ない」ことや「人数が思うように増えない」ということのようです。ある人が「ゼロからの開拓は、まず一人の人が救われるまでに数年かかり、それからそれなりに奉仕できるクリスチャンに成長するためには2~3年はかかるでしょう。そんな不効率なことをするのは時間の無駄です。」と言っておられる人がいた。確かに「人数」や「効率」で考えると、一人の人のためにそんなに時間を費やすのは無駄だと考えることは普通なのかもしれない。恐らく世の中で商売をしている人たちにとってはバカバカしいことだと思われる。しかし、宣教は商売ではない。“ベストを尽くして、結果は神さまにお任せする”これは私が教会開拓を始めたころに与えられた宣教の姿勢でした。牧師や伝道者がストレスになるのは、自己実現の教会を建てようとするからであって、神実現を願い始めると人数や現状が気にならなくなる。ある時から「神さまの計画が、もし一人の魂に福音を伝えることであるなら、そのことのために私を用いてください。教会に来られる人が一人であっても、神さまが私に委ねられた人たちにベストを尽くすことができますように」と祈るようになってからは、席に座っておられる人が数名でも感謝で、人数が気にならなくなった。自分たちの会堂がなくても羨ましいとも思わない。なぜなら神が私にそう望まれているなら、それが一番良いことだからです。そればかりか「主が望まれたら、たとえ手持ちがなくても会堂は簡単に与えられるでしょう」などと宣言していた。牧師は人が増えたり減ったりすることによって一喜一憂しますが、「主は与え、主は取られる」ことを受け入れるなら、有頂天になったり落ち込むこともなくなる。これが人生すべてに通じる心の姿勢です。

心のオアシス 2022年9月25日

 新約聖書の中に、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ12:15)という言葉がある。これが教会の本来あるべき姿ではないかと思わされている。聖書が示す“教会”とは“会堂”のことではない。イエス・キリストの御名によって集まることが、“教会”です。“会堂”は、集まるために便宜上使用される“箱”のようなもの。どんな立派な建物でも、そこに祈りや愛や共感がなければ、“教会”とは言えない。
 先週の礼拝の後、入堂式や献堂式に向けてのトーンチャイムの練習が行われていたが、勿論全員が参加するわけではないので帰る人もいれば、練習が終わるのを待っている人たちもいる。その中から数人の方々が、新会堂プレオープン記念コンサートのチラシ折りを誰に促されるわけでもなく自発的に始められた。コーヒーコーナーの後片付けをする方もいれば、おしゃべりしておられる方や教会移転に向けて、荷物のチェックをしておられる方もいる。引っ越しのために車を出すことを申し出てくださった方々もいる。掃除をして戸締りをしてくださる方もいる。勿論祈っていてくださる方も多くいらっしゃる。私はキリストの体なる教会を構成しているお一人一人が、それぞれ違った与えられているものをもって神さまに仕えておられる姿に感動した。
 そして先日、石切チャペルから35キロ離れている堺チャペルの礼拝後、長老さまから「来月の2週目は引っ越しがあるから、堺チャペルはお休みにしましょう。私たちも石切チャペルへ合流します。何かお手伝いさせてください!」長老さまは85歳。足も悪くしておられる。「私にも何かできるはず! 皿一枚でも運ばせて欲しい!」との勢いある申し出に拒否することができず涙が出そうになった。他のメンバーも同意して来られることになった。遠い場所の話で私たちには関係ないというのではなく、「共に喜び何かお手伝いをしたい」というお気持ちにキリストによる一致を見させていただき感動が絶えない。主は生きておられる。