礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2022年9月11日

 ある方が紹介してくださった素晴らしい言葉です。
 「まだ私が知らない素晴らしい人々が、ちょうど良いときに、ちょうど良い方法で助けてくれる。私は決して諦めないと約束しよう。助けはないが主が備えてくださると信じる。自分がまだ考えもしなかった所から助けを与えてくれるのだ。主のご計画をためすために、私の人生に何千人もの様々な賜物や技能や考えを持った人々を、主は送り込むことがおできになる。私の周囲にいる人々の顔を、目を見開いて見てみる。耳を開いてその人たちに耳を傾けてみる。今日、明日、来週、私が必要とするふさわしい人と私は出会う。その人はちょうど良い時にやってきて必要を満たしてくれる。そして私は、主が麗しく備えてくださったことを知って驚くのだ」
 この言葉を読みながら、自分の人生と重ね合わせても、同じように重なり合います。倒れそうになるときには、絶妙なタイミングで助け手が与えられ、自分の能力不足で崖っぷちに立たされても、必要なサポーターが与えられてきた。また一つの会堂が建てられるためにも、それなりの資金と知恵と知識と人材が必要だが、私たちの教会にはまさに一人残らず会堂を建て上げるために主が送ってきてくださった天使のような存在だと思っている。どう考えても、それぞれの賜物を主が集められたとしか考えられない。
 先週、ある男性が私に「先生の存在が嬉しいです。感謝しています!」と声をかけてくださった。「差し上げる物は何もないけど、どうぞお菓子でもコーヒーでもどうぞ」と照れ返しをしてしまったが、正しい返しは、「私もあなたの存在が嬉しいです。感謝しています!」であるべきだったと反省させられた。一人も漏れることなく主の計画の中で用いられています。そう、あなたもです!「わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

心のオアシス 2022年9月4日

 新会堂完成まで残り1ヶ月となった。会堂建築が、どれほど大変であり喜びでもあるかを実感させられた数ヶ月であった。あまりお付き合いのなかった牧師先生からもお声がけしてくださることが多くなったが、調べると、ほとんどが会堂建築の経験をしておられる方であることに気付かされる。その酸いも甘いも知っておられるからこそ“会堂建築”に反応し応援してくださるのだろうと感じている。私もこれからは、会堂建築をされる教会を見つけたら、心からのお祈りと応援をさせていただくことは間違いない。
 3年ほど前にリビングライフの巻頭言に文章を書かせていただいたことがあったが、最近それがネットに掲載されているのを見つけ読んでみたら、こんなことを書いていた。「私たちの教会は、まだ自分たちの会堂を所有していません。財力もありません。しかし、神さまが計画されているならば、いとも簡単に会堂が与えられると信じています。主が共におられれば、小さな群れでも大きなことが起こるのです。」これはまだ会堂を建てる話題すらなかった時期に書いたものです。手持ちは何もないが、神さまが計画されたら、簡単に会堂は建つ・・・よくぞ大胆な信仰の告白をしたなと思わされたが、それが現実のものとなっていることに驚きを覚える。確かに主が計画されたことであれば、石からでもアブラハムの子孫を起こすことができると言われているわけですから、私たちの側では持てるものは何もなくともそれは成就するのです。
 そう考える時に、神さまに委ね預ける人生ほど楽で安心できるものはありません。自分の側に立つと、自分のキャパシティー(容量)を超えると不安になったり恐れが生じたりしますが、神の側に立っていれば、問題の大きさに左右されることはなくなります。なぜなら神さまはその問題よりも大きなお方であることを知っているからです。現実に自分の願い通りいってもいかなくても、すべては主の手の中にあります。

心のオアシス 2022年8月28日

 2010年に教会開拓をスタートする前後から1年半ほどの間、良い意味で恐ろしくなるほど週単位で明らかな不思議が起こり続けた。毎週出会う人が、開拓をスタートするための助け手や協力者となっていったのです。そして当時私が何者かを知る人など関西にはいないはずなのに、最初の一年間は3回の聖書セミナーを毎月どこかでさせていただき、救われる人が起こされ、午前の礼拝の基礎となっていった。「母教会におられるような忠実な長老さまが欲しいです」と祈れば、すぐに与えられ、「祈りを引き上げてくれる韓国の人が2~3人ほど与えて欲しい」と祈れば与えられ、現在はその方たちが堺チャペルの土台となっておられます。「HPを充実させたいのですが」と祈れば然るべき人が送られて来くるし、「日曜学校の教師が必要です」と祈れば申し出てこられた。これらの方々は、私がお願いしたわけでもなく、ほとんどが面識のない人たちで短期間に整えられていきました。礼拝場所も転々としていたが、最終的にはよそ様の教会堂を9年間もお借りすることとなった。私は正直、祈った通りに短期間に実現している様子に恐れを覚えて「主よ、一体何をなさろうとしているのですか?」と問うと、「『これは権勢によらず、能力によらず、神の霊によって』教会が建て上げられていくことを教えるためだ」とハッキリと私の心の中に語られたのを忘れることはできない。その時からこの言葉を握った。それから祈りの実現化するペースは減速したが、また去年から急激に主が動き始められた。このような時期は悪魔の阻止する力も大きいが「わたしが戦うから、あなたは黙していなさい」と言われる主に委ねる時に平安が与えられる。これは私が何か特別な存在だからではなく主が働いておられることを人々に知らせる為に、ただKCFを道具として用いられているだけなのです。そしてここ数ヶ月も鳥肌が立つようなことが起こっているが、いつかお話しできる日がくればと願っています。主はあなたの内に確実に生きて働いておられます!

心のオアシス 2022年8月21日

 新会堂の完成は1ヶ月半となった。基礎や柱が造られる段階では、外からでも見ることができたので、建て上がっていく様子が手に取るようにわかった。しかし屋根や外壁ができてから、中の様子がわからなくなったので、どれだけ進んでいるのか進んでいないのかを実感することができなくなった。外壁に変化がないので、工事をしていないようにも見える。ただ定期的に報告してくださるハウスメーカーさんからの進捗状況を信じるしかない。
 坂村真民(さかむら・しんみん)という詩人が「冬がきたら」という詩を詠んでおられるので一部を紹介します。
   冬がきたら 冬のことだけ思おう
   冬を遠ざけようとしたりしないで むしろすすんで 
   冬のたましいにふれ 冬のいのちにふれよう
   冬がきたら 冬だけが持つ 深さときびしさと 静けさを知ろう(中略)
   冬はわたしの壷である
   孤独なわたしに与えられた 魂の壷である
 この詩から教えられることは、冬は寒いから嫌だと拒否したり、逃避するのではなく、厳しい季節をも味わうことができるし、それを楽しむこともできるということであります。
 私たちにも、なかなか進展しない現実や、避けて通りたいような人生の季節を経験させられる時もあるが、全く何も進んでいないわけではない。水面下では、「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」(エレミヤ29:11)と言われる主の手の働きが着々と進んでいるのです。感じなくても春は確実に来ます。ただあなたの道を主に委ねるのみです。主を信頼せよ!

心のオアシス 2022年8月14日

 時に神様が私たちを強く打たれることがあります。私たちを今よりも強くするためです。ボクシングの選手は、うまくパンチしなければなりませんが、同時に、うまく打たれなければなりません。KOパンチ一発で勝つこともあります。打たれ続けても平気そうにしていると、相手選手の力が抜け、そこで一発打つと、それが勝利を決めるパンチになることがあるのです。ですから、ボクシングの選手は、打たれる練習も欠かせません。見方を変えれば、ボクシングはどちらがより長く耐えられるかの戦いなのです。私たちも、打たれてもびくともしないよう信仰を鍛える必要があります。
 細くて長い竹は、激しい風が吹いても倒れません。間にある節が支えてくれるからです。その節を形成するために、竹は一時的に成長を止めます。節がなければ、つるつるして見た目もいいでしょうが、雪や風に耐えられなくなってしまいます。竹を危機の中で耐えられるように支えてくれるのは、ほかでもない竹の節々なのです。私たちの人生も、試練や苦難、鍛錬を通して、人生の節が造られ、それによってさらに強くなります。失業や病気、貧困、失敗などの苦しみは、私たちの成長を少しの間遅らせるかもしれません。しかし、それによって造られた人生の節は、私たちをさらに強くしてくれます。問題にぶつかったとき、神様がまた一つ、節を作ってくださっているのだと信じましょう。神さまは、試練を通して私たちの侵攻をさらに堅固にしてくださるのです。
              イ・ジンヒ著「荒野を読む」より抜粋
 私は恥ずかしながら竹の節の役目について知らなかったのですが、ここから学びました。どうして節ができるのか不思議ですよね? 神のなさる業であると思いました。竹の節にさえ大切な役割を与えておられるのなら、私たちの人生の節の時は辛く乗り越えるのに忍耐が必要ですが、確実に神さまのご介入があってのことだと考えると勇気が与えられます。

心のオアシス 2022年8月7日

 先日は建築中の花園チャペルで二度目のメッセージをさせていただいた。一回目は起工式で、二回目が上棟式です。上棟式とは梁や柱などの骨組みが完成し、木造住宅の場合は最上部に棟木を上げる儀式で、「棟上げ(むねあげ)」「建前(たてまえ)」とも呼ばれ、ここまで無事に工事が進んだことに対する感謝の気持ちとともに、無事に家が完成することを祈願します。最近では一般の家を建てる場合でも省略するケースが多くなったようですし、教会では起工式一回のみが通常であろうかと思いますが、今回はハウスメーカーさん側の希望と大工さんたちのためにもお願いしたいとの要望があり行ないました。
 式辞は大工さんたちに向けてお話ししました。「聖書に『主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい』とありますが、誰のために、何のために家を建てるのかわからないほど、虚しい仕事はないと思います。同じように何のために生きているのかわからないほど虚しい人生はありません。虚しさを覚えながら答えを求めて教会へ来られた方々の中には、魂の救い、心の満たし、問題の解決を得て、感動される人たちがいます。これからは大工さんたちが建ててくださっているこの新会堂でその感動のドラマが繰り広げられていきます。その感動シーンの一旦を皆さまが担ってくださっているのです。どうぞ誇りをもってお仕事をしてください!」その後、最後のボルトを打ち込み、工事関係者の安全と祝福をお祈りし、建て方工事を終了し次のプロセスへ。
 教会の皆さまから好きなみ言葉を47個出していただいた。新会堂の壁などに掲げるために限定しなければならず、投票して数個が選出されますが、どのみ言葉が選ばれても恵まれるものばかりでした。思いの詰まったものばかりでしょうから、今回、会堂の柱に47全てのみ言葉を手分けして書かせていただきました。クロスで覆われますが、新会堂は、皆さまの好きなみ言葉に囲まれながらの礼拝となります!

心のオアシス 2022年7月31日

 先週、6年ぶりに母教会の大和カルバリーチャペルへ里帰りさせていただいた。千人を超える教会なので、私が副牧師の時代からお一人一人と時間をとってお話しできたわけではなかったのですが、強い絆を感じさせられました。ただ古い友人と会った時の懐かしい気分以上の何かがそこにあり、何だろう?と考えていたのですが、それは“祈り”での繋がりであることがわかった。祈りで繋がっている人々は、対話だけで繋がっている人よりも強い絆を感じることがある。昔、南米アルゼンチンでの教会研修へ行かせていただいたことがあった。ある教会で、日本のために毎日お祈りしてくれているという教会の子どもたちとお会いした。自分たちが祈っている日本人が来てくれたということで、大歓迎してくれた。それはただ単に笑顔で接待してくれている以上に、言葉では表現できない込められた何かがあったのを覚えている。今ならわかる。それは“祈り”の効果です。それを知ってから私もアルゼンチンのためにお祈りするようになって、遠い国ではあるが、親しく感じるようになった。
 ラリー・ドッシーという医学博士が、祈りに対する研究結果を論文に書いているが、それが日本語訳され「祈る心は、治る力」というタイトルで出ている。本人はクリスチャンではないが、「教会では祈るが、それが本当に効果があるのか?」という疑問から検証した結果が“祈りには効果がある”でした。様々な興味深い実験が紹介されていて、こう書いている。「祈りの効果は、なにも人間だけに限ったものではない。祈りは、その対象となった生き物のほとんどすべて― 人間、さまざまな細胞や組織、動物、植物、バクテリアや菌類やイーストなどの有機体― に効果をおよぼすことが立証されている。この幅広い効果を裏づける証拠は豊富にあり、その中には前にも述べたように130件以上の厳密な管理下における実験結果もある。」
是非とも祈ろうではありませんか。神はそれを望んでおられます。

心のオアシス 2022年7月24日

 先週、ある方がこのようなメッセージを送ってこられた。「昨日NHKの『ダーウィンが来た』を見ました。イワシはアフリカの先端から寒流に乗って下って行くそうですが何のためにあの巨大集団になって下るのか解明されていないそうです。旅の間にイルカや鳥に食べられ鯨に一挙に何千匹も食べられるそうです。私は神様の摂理を黙想しました。イワシは他の動物に食べられる為に旅をするのでは? 私の人生の旅路も神の御手の中にあるのだと感じました。食べられるのは嫌だけど、誰かの為に食べられるのも私の使命かも?と思いました。」とても深い洞察だと思った。牧師はそうだと思っても、「あなたの使命は喰われることです!」なんてことはなかなか言えないものである。
 今、礼拝メッセージに登場するパウロは、クリスチャンの弾圧することに躍起になっていましたが、ダマスコ途上で復活のキリストに出会い回心、そして3 回にわたるアジア、ギリシャへの宣教旅行を行ない、数々の災難、出会いと別れ、不本意な同胞との対立を経て、最後の旅に向かいます。パウロの予定は、窮乏しているエルサレム教会に援助金を持参した後、ローマ経由でイスパニアへ行き福音を述べ伝える予定でしたが、エルサレムで投獄され、囚人としてローマへ護送されることになりますが宣教のチャンスに恵まれます。これはパウロの当初の計画ではなく主のご計画でした。私たちはパウロのように劇的ではなくとも、自分の計画通りでない病気、失望、喪失など思いがけない出来事や不本意な道などの経験があるのではないでしょうか。しかし、それらはキリスト者にとっては挫折ではなく、悲劇でも不運でもありません。全てが主のため、復活の主のご計画であると考えられないでしょうか。生きるも死ぬも主に下駄を預けた身であると考えると余計な心配や気張りがなくなります。「勇気を出しなさい」、「共にいる」と言って下さる主に自分を預けると、心に余裕が生まれ、豊かな人生を送ることができるものと確信します。

心のオアシス 2022年7月17日

 先日、安倍元首相が凶弾に倒れるという日本を震撼とさせるような事件が起こった。特に銃社会ではない日本において想定できなかったことが多くあったことでしょう。国内では問題も多く取り上げられてきたが、かつてないほど海外のリーダーたちからは惜しむ声が寄せられ、外国との良きパイプ役になっておられたことがわかる。世界を舞台に活躍しておられるシーンが映像で流される度に、今回の凶行は本人にとってどれほど無念だっただろうかと思わされる。しかし彼の死を無駄にしないためにも世界の人々が考えなければならないことがある。それはどんな人も、どんな形かはわからないが、人は必ず死ぬということです。そしてその時期は予測不可能ということです。しかし、もし聖書が示すように死後の世界が本番であるならば、そこに希望を置くことができる。
 教会メンバーの一人が書いた証しの一文に目が留まった。「定年を迎え・・・(中略)アップル社のスティーブ・ジョブズの例を挙げるまでもなく、財産や地位が幸せには結びつかないことが実感されるようになり、これまで何を思って必死に頑張ってきたのか、残された時間をどう生きればいいのか、虚しさを覚えるようになっていた。」多くの人は、ここに目を留めるべきなのに見て見ないふりをして騙しだまし生きている。実はこの世の幸せや満足は、天国で永遠に味わう幸せや満足の予表のようなもので、この世で一時的にだけ味わわせていただいているもので本物ではないのです。もっと言うならば、毎週日曜日に礼拝をしているが、これはある意味本番ではありません。天国で味わう霊的恵みのほんの一部分をこの世で垣間見させてくださっているだけなのです。天国では神以外に誰も地位や名誉を得る者はなく、寝ることも食べることもなく、疲れることも病気もなく、途切れることなく創造主を礼拝して、そこに永遠の幸せと満足を得るのです。どうして神を礼拝することで満足できるのでしょうか? それが人を造られた目的だからです。

心のオアシス 2022年7月10日

 この世でいう「成功者」には共通する特徴があるそうです。それに関してある書物にこのようなことが書いてありました。「私は、この仕事をはじめてから、いろいろなスーパー成功者にお会いしたが、彼らに共通することの第一は、過去のグチ話をけっして話さないこと。第二は、未来の希望についてのみ話すこと、そして、自分はつねに運がよかったし、これからもよいに違いないと思っていることです。知ってか知らずか、プラスの感情でプラスのことしか考えていないから、成功しちゃう。まさに『因果は同類にしたがう』なんです。我々は、いいことを願い、そして、それを暗い感情で打ち消さないかぎり、必ず成功、陽気のほうに向いて歩いていくことになるんです。」
 聖書の中に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5章16~18節)という言葉があるが、世の中の成功者も、聖書を知ってか知らずか、とにかく祝福される法則だけはご存知のようで、それを実践しておられる。「愚痴って発散させても良いのではないか?」「別にこの世で成功したいとは思わないし・・・」などと、最近は個性を大切にする風潮があるが、この「いつも喜べ、絶えず祈れ、すべての事に感謝せよ」という言葉の後に、「これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」という言葉が続いている。私にとってこの続きの言葉が実践を促すキーワードになっている。自分では気分が乗らなくても、“神が求めておられる”ことなら従わなければという気持ちになれる。
 私は昔、心配性であったが聖書を学べば学ぶほど“おめでたい人”になってきた。そうこうしているうちに“主にあって何とかなる!”という確信へと繋がるようになった。勿論、失敗は反省しなければならないが、そこにいつまでもくよくよ立ち止まったり、振り回されたりはしない。荒野に道を、砂漠に川を流れさせる万軍の主が共におられる!