礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2022年8月7日

 先日は建築中の花園チャペルで二度目のメッセージをさせていただいた。一回目は起工式で、二回目が上棟式です。上棟式とは梁や柱などの骨組みが完成し、木造住宅の場合は最上部に棟木を上げる儀式で、「棟上げ(むねあげ)」「建前(たてまえ)」とも呼ばれ、ここまで無事に工事が進んだことに対する感謝の気持ちとともに、無事に家が完成することを祈願します。最近では一般の家を建てる場合でも省略するケースが多くなったようですし、教会では起工式一回のみが通常であろうかと思いますが、今回はハウスメーカーさん側の希望と大工さんたちのためにもお願いしたいとの要望があり行ないました。
 式辞は大工さんたちに向けてお話ししました。「聖書に『主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい』とありますが、誰のために、何のために家を建てるのかわからないほど、虚しい仕事はないと思います。同じように何のために生きているのかわからないほど虚しい人生はありません。虚しさを覚えながら答えを求めて教会へ来られた方々の中には、魂の救い、心の満たし、問題の解決を得て、感動される人たちがいます。これからは大工さんたちが建ててくださっているこの新会堂でその感動のドラマが繰り広げられていきます。その感動シーンの一旦を皆さまが担ってくださっているのです。どうぞ誇りをもってお仕事をしてください!」その後、最後のボルトを打ち込み、工事関係者の安全と祝福をお祈りし、建て方工事を終了し次のプロセスへ。
 教会の皆さまから好きなみ言葉を47個出していただいた。新会堂の壁などに掲げるために限定しなければならず、投票して数個が選出されますが、どのみ言葉が選ばれても恵まれるものばかりでした。思いの詰まったものばかりでしょうから、今回、会堂の柱に47全てのみ言葉を手分けして書かせていただきました。クロスで覆われますが、新会堂は、皆さまの好きなみ言葉に囲まれながらの礼拝となります!

心のオアシス 2022年7月31日

 先週、6年ぶりに母教会の大和カルバリーチャペルへ里帰りさせていただいた。千人を超える教会なので、私が副牧師の時代からお一人一人と時間をとってお話しできたわけではなかったのですが、強い絆を感じさせられました。ただ古い友人と会った時の懐かしい気分以上の何かがそこにあり、何だろう?と考えていたのですが、それは“祈り”での繋がりであることがわかった。祈りで繋がっている人々は、対話だけで繋がっている人よりも強い絆を感じることがある。昔、南米アルゼンチンでの教会研修へ行かせていただいたことがあった。ある教会で、日本のために毎日お祈りしてくれているという教会の子どもたちとお会いした。自分たちが祈っている日本人が来てくれたということで、大歓迎してくれた。それはただ単に笑顔で接待してくれている以上に、言葉では表現できない込められた何かがあったのを覚えている。今ならわかる。それは“祈り”の効果です。それを知ってから私もアルゼンチンのためにお祈りするようになって、遠い国ではあるが、親しく感じるようになった。
 ラリー・ドッシーという医学博士が、祈りに対する研究結果を論文に書いているが、それが日本語訳され「祈る心は、治る力」というタイトルで出ている。本人はクリスチャンではないが、「教会では祈るが、それが本当に効果があるのか?」という疑問から検証した結果が“祈りには効果がある”でした。様々な興味深い実験が紹介されていて、こう書いている。「祈りの効果は、なにも人間だけに限ったものではない。祈りは、その対象となった生き物のほとんどすべて― 人間、さまざまな細胞や組織、動物、植物、バクテリアや菌類やイーストなどの有機体― に効果をおよぼすことが立証されている。この幅広い効果を裏づける証拠は豊富にあり、その中には前にも述べたように130件以上の厳密な管理下における実験結果もある。」
是非とも祈ろうではありませんか。神はそれを望んでおられます。

心のオアシス 2022年7月24日

 先週、ある方がこのようなメッセージを送ってこられた。「昨日NHKの『ダーウィンが来た』を見ました。イワシはアフリカの先端から寒流に乗って下って行くそうですが何のためにあの巨大集団になって下るのか解明されていないそうです。旅の間にイルカや鳥に食べられ鯨に一挙に何千匹も食べられるそうです。私は神様の摂理を黙想しました。イワシは他の動物に食べられる為に旅をするのでは? 私の人生の旅路も神の御手の中にあるのだと感じました。食べられるのは嫌だけど、誰かの為に食べられるのも私の使命かも?と思いました。」とても深い洞察だと思った。牧師はそうだと思っても、「あなたの使命は喰われることです!」なんてことはなかなか言えないものである。
 今、礼拝メッセージに登場するパウロは、クリスチャンの弾圧することに躍起になっていましたが、ダマスコ途上で復活のキリストに出会い回心、そして3 回にわたるアジア、ギリシャへの宣教旅行を行ない、数々の災難、出会いと別れ、不本意な同胞との対立を経て、最後の旅に向かいます。パウロの予定は、窮乏しているエルサレム教会に援助金を持参した後、ローマ経由でイスパニアへ行き福音を述べ伝える予定でしたが、エルサレムで投獄され、囚人としてローマへ護送されることになりますが宣教のチャンスに恵まれます。これはパウロの当初の計画ではなく主のご計画でした。私たちはパウロのように劇的ではなくとも、自分の計画通りでない病気、失望、喪失など思いがけない出来事や不本意な道などの経験があるのではないでしょうか。しかし、それらはキリスト者にとっては挫折ではなく、悲劇でも不運でもありません。全てが主のため、復活の主のご計画であると考えられないでしょうか。生きるも死ぬも主に下駄を預けた身であると考えると余計な心配や気張りがなくなります。「勇気を出しなさい」、「共にいる」と言って下さる主に自分を預けると、心に余裕が生まれ、豊かな人生を送ることができるものと確信します。

心のオアシス 2022年7月17日

 先日、安倍元首相が凶弾に倒れるという日本を震撼とさせるような事件が起こった。特に銃社会ではない日本において想定できなかったことが多くあったことでしょう。国内では問題も多く取り上げられてきたが、かつてないほど海外のリーダーたちからは惜しむ声が寄せられ、外国との良きパイプ役になっておられたことがわかる。世界を舞台に活躍しておられるシーンが映像で流される度に、今回の凶行は本人にとってどれほど無念だっただろうかと思わされる。しかし彼の死を無駄にしないためにも世界の人々が考えなければならないことがある。それはどんな人も、どんな形かはわからないが、人は必ず死ぬということです。そしてその時期は予測不可能ということです。しかし、もし聖書が示すように死後の世界が本番であるならば、そこに希望を置くことができる。
 教会メンバーの一人が書いた証しの一文に目が留まった。「定年を迎え・・・(中略)アップル社のスティーブ・ジョブズの例を挙げるまでもなく、財産や地位が幸せには結びつかないことが実感されるようになり、これまで何を思って必死に頑張ってきたのか、残された時間をどう生きればいいのか、虚しさを覚えるようになっていた。」多くの人は、ここに目を留めるべきなのに見て見ないふりをして騙しだまし生きている。実はこの世の幸せや満足は、天国で永遠に味わう幸せや満足の予表のようなもので、この世で一時的にだけ味わわせていただいているもので本物ではないのです。もっと言うならば、毎週日曜日に礼拝をしているが、これはある意味本番ではありません。天国で味わう霊的恵みのほんの一部分をこの世で垣間見させてくださっているだけなのです。天国では神以外に誰も地位や名誉を得る者はなく、寝ることも食べることもなく、疲れることも病気もなく、途切れることなく創造主を礼拝して、そこに永遠の幸せと満足を得るのです。どうして神を礼拝することで満足できるのでしょうか? それが人を造られた目的だからです。

心のオアシス 2022年7月10日

 この世でいう「成功者」には共通する特徴があるそうです。それに関してある書物にこのようなことが書いてありました。「私は、この仕事をはじめてから、いろいろなスーパー成功者にお会いしたが、彼らに共通することの第一は、過去のグチ話をけっして話さないこと。第二は、未来の希望についてのみ話すこと、そして、自分はつねに運がよかったし、これからもよいに違いないと思っていることです。知ってか知らずか、プラスの感情でプラスのことしか考えていないから、成功しちゃう。まさに『因果は同類にしたがう』なんです。我々は、いいことを願い、そして、それを暗い感情で打ち消さないかぎり、必ず成功、陽気のほうに向いて歩いていくことになるんです。」
 聖書の中に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5章16~18節)という言葉があるが、世の中の成功者も、聖書を知ってか知らずか、とにかく祝福される法則だけはご存知のようで、それを実践しておられる。「愚痴って発散させても良いのではないか?」「別にこの世で成功したいとは思わないし・・・」などと、最近は個性を大切にする風潮があるが、この「いつも喜べ、絶えず祈れ、すべての事に感謝せよ」という言葉の後に、「これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」という言葉が続いている。私にとってこの続きの言葉が実践を促すキーワードになっている。自分では気分が乗らなくても、“神が求めておられる”ことなら従わなければという気持ちになれる。
 私は昔、心配性であったが聖書を学べば学ぶほど“おめでたい人”になってきた。そうこうしているうちに“主にあって何とかなる!”という確信へと繋がるようになった。勿論、失敗は反省しなければならないが、そこにいつまでもくよくよ立ち止まったり、振り回されたりはしない。荒野に道を、砂漠に川を流れさせる万軍の主が共におられる!

心のオアシス 2022年7月3日

 イエスさまの弟子たちにとっての“エルサレム”は、あまり良い印象がないのではないかと思われる。なぜならそこはイエスさまを裏切った場所であり、十字架にかけられた場所である。クリスチャンに対する大迫害が起こり戸を固く閉じて隠れるような生活をしていた場所でもある。彼らにとっての“エルサレム”は、悲しみ、絶望、孤独、不安、恐れなど負の要素しかない場所であった。恐らく彼らはそこから逃れたいと願ったことでしょう。でも主は「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。」(使徒行伝1章4節)と言われ、また「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1章8節)と言われました。弟子たちの弱さの象徴とも言える“エルサレム”に留まり、そこからキリストが生きておられる証人になるのだというのです。お言葉通り祈り留まっていたときに聖霊がくだり力を受けました。その時から彼らにとってのエルサレムは、“主が甦られた場所”へと変わったのです。まさに“弱さのエルサレム”から“強さのエルサレム”になったのです。
 私たちにも当時の弟子たちのように、何らかの“エルサレム”(弱さ)を覚えることがあるでしょう。日常であったり、職場や学び舎、人間関係の中にそういった弱さへと導く要因がいくつもある。そして多くの人たちは、そこから逃れたいと願うのですが、神を信じる人たちは、エルサレムに留まり、そこからスタートすることができるのです。何のために留まるのか? 弱さがなければ人は真剣に祈りはしません。“弱さ”は祈りへと導く最大の宝です。だからこそ、そこに留まってみ言葉を握って主に祈るのです。そうこうしているうちに、イエスさまの甦りの力を体験するようになり、いつの間にか私たちの人生は動き出すようになります。神を信じる者にとってのエルサレムは最大のチャンスです!

心のオアシス 2022年6月26日

 ウェイン・コディロ先生が会衆に、このようにアプローチされたことがありました。「みなさんは、次の質問に全員手をあげてください。」と前置きをしてから、「では、この中でフルタイムのミニスター(伝道者)は、どのくらいおられますか?」全員が手をあげました。それを見てから先生はこのようにお話を続けられました。「手をあげている人たちの中には、『自分は教会から謝儀をもらっていないのに、どうしてフルタイムのミニスターなんだ?』と疑問に思われる方がいらっしゃるでしょう。この中には、会社員もいるでしょう? 学校の先生もいるでしょう? お医者さんもいるでしょう? それぞれ給料は、会社や学校や病院など違った場所から支給されますが、もっとその向こうの源まで行き着くならば、それは神様から与えられているものですよ!」
 またある日、スピーカーを移動させている奉仕者に問うたそうです。「あなたは、今何をしていますか?」その人は言いました「スピーカーを移動させているのですよ」しかしコディロ先生は言いました「いえ、あなたはスピーカーを移動させているのではありません」「いえ、移動させています。見ればわかるでしょ? 私は一体何をしているというのですか?」そこで先生はこう答えられました。「スピーカーを通して、メッセージの声が拡張されて人々に聞きやすくなるでしょう。あなたは礼拝に来る人々が、メッセージを聞きやすくして、イエス様を信じる決心をするお手伝いの宣教の働きをしておられるのですよ!」
 これは、私たちがどのような立場であったとしても、それぞれは神さまが遣わされた宣教者であることを説明されるために用いられたお話しでした。宣教の働きは必ずしもメッセージをしたり個人伝道することだけではない。その働きは多岐に渡ります。その中でも“祈り”は究極の宣教の働きであり奉仕であると確信しています。
 見える奉仕ができなくても、見えない祈りは強力な奉仕です!

心のオアシス 2022年6月19日

 萩本欽一さんの息子さんは、なんと大学受験のための予備校に通い、いざ受験というときになった時に、「さあ、就職だ!」と叫んだそうです。欽ちゃんが子どもたちに言っていた「人と違うこと、また、やったことが無駄になるようなことをやれ」という言葉を実践したそうです。そんな面白い息子さんは、リフォーム会社に就職。しかし1ヵ月後に息子さんから家のリフォームを300万円ぐらいでやらせてもらえないかと電話がありました。彼はそれまで契約ゼロ。何とかするべく父親にすがってきたわけです。欽ちゃんは息子さんに「セールスマンとして失格だ! いい加減にしろ!」と怒りました。息子さんは下を向いてだまっていましたが、その後、欽ちゃんは言いました。「だけどな、そんなメチャメチャな話でも、『わかった』って言ってやるために親父ってのはいるんだよ」そして最後はリフォームを引き受けたとのこと。息子さんは、喫茶店でボロボロ泣いたそうです。実は欽ちゃん、最初は怒らずに優しく話して断ろうと思っていたそうです。それは何でも親がやってあげては、息子さんが成長できないから。
 子どもの無理なお願いを聞くのも親の愛、断るのも親の愛です。勿論、人間の親は完全ではないことを前提ではありますが、親と子の関係の中に、天の父なる神さまと私たち人間の関係を垣間見ることができます。愛は、無条件であり、基本、そこに存在しているだけでいい、という思いが根底にあると考えられます。もし子供や愛する人が原因不明の病気で寝たきりになってしまったとするならば、病室のベッドで横になっているその人は愛せないでしょうか? そんなことはないはずです。寝たきりでも、何も結果を残せなくても、何もお手伝いができなくても、愛しているはずです。何かをしてくれたときや、何かの結果を残したときだけ認めるのは“愛”ではなく“評価”です。愛は、無条件なのです。 
 天のお父さまの愛に感謝します! そしてお父さんにも感謝です!

心のオアシス 2022年6月12日

 中国の昔の話でありますが、後漢時代に楊震(ようしん)という人がいて、非常に高い地位にあった人物でした。この人があるところへ赴任した時に、下心を持った部下が挨拶に来てお金を贈りました。「どうぞこれをお取りください。もう夜ですから誰も知っている者はありません」と言いました。そうすると、この楊震は「いや、知っている人は少なくとも四人おる。天知る、地知る、子(し)知る、我知る」。天が知る、地が知る、「子」は「あなた」で、あなたが知る、私が知る。だから誰も知らないなんていうのはとんでもない話だと言って、その持ってきた人を戒めました。これを“四知(しち)”と言うそうですが、その通り知らぬ人はいないし、知っている人は必ずいるわけです。
 これは悪い行いだけに適応できる言葉ではありません。善い行いも同様に、「四知」。日本には「陰徳」という人に知らせずひそかにする善行することが大切にされてきました。ちなみに「陽徳」というのもありまして、これは人が見ているところで徳を積むことをいいます。良いことをしたときに、「それ、私がやったんだよ!」と言うのが陽徳で、もちろん善いことをしている訳ですから素晴らしいことなんですが、もう一つ上の素晴らしさを感じるのが「陰徳」なのだと思います。ある方の言葉に「見て見ぬふりより、助けて助けていないふり」というのを聞いたことがありますが、まさしく「陰徳」の極みだと感じさせられます。誰かが困っていたら、率先して助けて、でも手柄は他人にあげてしまうのです。もちろんその行いも「四知」です。あなたが人知れず頑張っていることも、人知れず赦していることも、人知れず助けていることも、人知れず祈っていることも、人知れず捧げていることも、明らかにされないことはありません。
 「隠れた事を見ておいでになるあなたの父は、報いてくださるであろう。」(マタイ6:6)「御霊も言う、『しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく』(黙示録14:13)

心のオアシス 2022年6月5日

 先日、ある方(愛称:おっちゃん)の直葬の司式をさせていただいた。クリスチャンではあったのですが、どこの教会にも属していない人でした。いくつかの教会を渡り歩いている人で、病床で「関西カルバリーに行きたい・・・」と言っておられたことがキッカケとなり、ご遺族の要請があったことから私が司式をする運びとなった。未信者の妹さんによると昔はかなり荒くれ者だったようでヤクザまがいの仕事もしていたようです。しかしイエスさまを信じてからガラリと生き方が変わったとのこと。人からむしり取る生き方から、与える人になったそうです。火葬前式には何人か“おっちゃん”が関わっていたご友人が参列されていてお話しをお伺いすると、“おっちゃん”の悪い話題は一切出てこない。生前に「おっちゃんには、こんな助けをいただいた。」「こんな親切をしてもらった。」という話題ばかり。確かに私たちの教会にも何年も前に来られていた時期には、教会の子どもたちに毎週お菓子を持ってきて配っておられた。また喫茶店の手作りサンドイッチを毎週日曜日、私に持って来てくださっていた。ホテルのレストランに招待してくださったこともあった。親しい人には、いつも「牧師先生は大切にせなあかんぞ!」と言っておられたようで、ご自身がそれを実践しておられたことに感動した。
 ジェラール・シャンドリの名言の中に「一生を終えて後に残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである。」というのがある。私たちはこの世で、“得る”ことばかり求めていないだろうか? でも結局、人生の最後に残るものは、“得た”ものではなく“与えた”ものであることを彼は証明してくれた。“おっちゃん”には学歴も名誉も財産もなかった。この世の中で受けたものは少ないように見えた。でも与えたものが想い出として多くの人たちの心に残った。私もそのような生き方をしたいと“おっちゃん”の人生の最後に願わされた。
 「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒行伝20章35節)