礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2022年1月2日

 元日と元旦の違いは・・・「元日」とは、1月1日、1年の最初の日のこと。「元旦」とは、元日の朝のことで、新しい年を迎えることをお祝いする日という意味があるそうです。古来より日本では年末になるとお坊さんにお経を唱えてもらう風習があり、これを俗に「釜締め(かまじめ)回り」と言い、“火の神様”に対して一年間の感謝をしてお正月には休んでいただくのだとか。だから正月には竈(かまど)を使用することができないために保存が効くような食べ物を前もって準備していたのが「おせち料理」ということだそうです。因みに年末によく「年の瀬」という言葉を耳にすると思いますが、この言葉は江戸庶民の生活からできた言葉で、「年の瀬」の“瀬”は川の瀬のことで、川が浅くなり流れが急に早くなり船で渡ることが困難な場所を指します。江戸庶民の生活は「ツケ」がほとんどでした。その「ツケ」を年末に清算しなければならないが、そうするとお金が無くなり正月を迎えられなくなる。支払いたいけど支払えないという困難さを、川の瀬にたとえて表現し、年末の慌ただしく押し詰まっている様子を「年の瀬」と言うようになったとのこと。
 関西カルバリーフェローシップは、この「年の瀬」ならぬ「神の瀬」を経験している。それは様々な崖っぷちに対して、天地万物を創造された主が、私たちの能力や限界を超えた圧倒的な力で乗り越えさせてくださっているということです。私は昨年の春ごろから何か大きな力が加わるのを感じ始め、年末にはその流れが急加速した。主は休むこともまどろむこともなく、確実に私たちをある方向へと導いておられるのを感じている。神さまが動き始められると地響きがするようです。
 ロシアで宣教しておられる先生が、その働きを担うことができる秘訣を「無力さで満ちていることだ」と言われたことに驚きを覚えた。主が喜ばれるのは、礼拝堂の大きさでも、メンバーの数でも、画期的なプログラムでもない。どんな状況でも主のことばを信じて従う無力な人だということなのです。今年はどんな壁が立ちはだかるでしょうか? しかし主にとっては何の妨げにもなりません。信頼して進みましょう!

心のオアシス 2021年12月26日

 “今日まで守られ 来りしわが身 露だに憂えじ 行く末などは 
 如何なる折りにも 愛なる神は すべての事をば 善きにし給わん”
 これは毎年の年末感謝礼拝で捧げている聖歌292番の一節です。私にとって2021年ほど、この聖歌の歌詞が身に染みる年はありませんでした。今年は多くの崖っぷち経験をさせられた。まず年明け早々に、9年間、会堂をお借りしていた東大阪福音教会の牧師先生から、「諸事情あって今使っている土地と会堂を引き払って、石切チャペルに戻ることになりそうです。」という打診を受けた。数年前に、いずれは出なければならないことを想定して、能動的に役員さんたちと他所を探し回ったことはあったが、賃貸はあまりにも高すぎて購入したほうがよほど良い。しかしまだその時点では土地購入の話題は全くなかった。そしてそのまま数年間が経過した。今年になって受動的に“出なければならない”という崖っぷちに立たされた。ところが今まで聖別しておいた会堂&土地指定献金の額を調べると3千万円ほどになっていた。これを足掛かりにして「土地を買って、それを担保にして会堂を建てることができるのでは?」という機運が高まった。そこで祈りが引き上げられ、献げる方々が与えられた。土地探しは困難を極めた。ことごとく契約直前で破談になる。もう妥当な土地はないのではないかと思われた崖っぷち状態から、けいはんな線・吉田駅から徒歩9分、花園ラグビー場から300mに位置し、片側3車線もある道路沿いにある好立地な土地が突如舞い込んできて無事仮契約できた。その土地の値段は手数料など込みで計5400万円。なんと今年与えられた指定献金を加えると、寸分違わずそのままの額が与えられていたのです。
 そして先月、「石切チャペルから今年いっぱいで出て欲しい」との宣告に、「このイスラエルの民ならぬ関西カルバリーの民は行き場を失って路頭に迷うのか?」と思いきや、石切チャペルの裏隣のイベントホールを神さまは用意してくださった。“紅海が分かれる”とはこういうことであろう。創造主なる神さまに信頼する道はワクワクドキドキは多いが安心感がハンパない! 神の計画は妨げられることはない。

心のオアシス 2021年12月19日

 8歳の女の子から「サンタは本当にいるの?」という質問に対してニューヨーク・サン新聞が社説で返答した内容が有名です。その答えは・・・
 実はね、バージニア、サンタクロースはいるんだ。愛とか思いやりとか労わりとかがあって、人の毎日は、癒されたり潤ったりする。だからサンタクロースもいるんだよ。もしサンタクロースがいなかったら、ものすごく寂しい世の中になってしまう。バージニアみたいな子がこの世にいなくなるくらい、ものすごく寂しいことなんだ。サンタクロースがいないってことは、見たり聞いたり触ったりすることでしか楽しめなくなるし、世界をいつも温かくしてくれる子どもたちの輝きも、消えてなくなってしまうだろう。パパに頼んで、クリスマスイブの日、煙突という煙突全部を見張らせて、サンタクロースを待ち伏せしてごらん。サンタクロースが入ってくるのが見られずに終わったとしても、何にも変わらない。そもそもサンタクロースは人の目に見えないものだし、それでサンタクロースがいないってことにもならない。
 真の本物は、子どもにも大人にも、誰の目にも見えないものなんだよ。妖精が原っぱで遊んでいるところ、誰か見た人っているかな? うん、いないよね、でもそれで、ないって決まるわけじゃない。世界で誰も見たことがない、見ることができない不思議なことって、誰にもはっきりとはつかめないんだ。
 サンタクロースはいないって?! 神さまに感謝するよ。永遠に生きておられるお方。今この時も、これからもずっと。何千年、いや、あと十万年たっても、子どもたちの心をわくわくさせてくれると思うよ。
(サン新聞社・記者フランシス・チャーチ)
 神の子なるイエス・キリストが2千年前、この地上にお生まれになったこと、この地上を33年間歩まれたこと、そして私たちの罪の身代わりとして十字架にかかって死なれ、甦られ、天に引き上げられたこと、そして再び地上に戻ってこられること、これらは空想話ではありません。リアルです。そして今も生きて働いておられます。メリークリスマス!

心のオアシス 2021年12月12日

 私たちの教会にとって、今月は大きな分岐点となる。土地購入&新会堂建設という想定外の大きな買い物に怖気づいていた牧師を励ますかのようにして様々な“しるし”が与えられた。まずは今年の4月に複数の建築会社の中から大手のハウスメーカーが選ばれた。通常はここまでのサービスはしないと担当者が言われるほど、建物的にも価格的にも私たちの希望に寄せた会堂を建ててくださることになった。しかも担当者は、昨年社内で最優秀賞を受賞したエリート社員である。自ら自転車で走り回って空き地を探し地主さんに交渉し様々な書類の手続きや神奈川県にある母教会まで出向いて書類の手続きまでしてくださる。そしてこちらの要求に応じて何度も仮設計をし直してくれる。まさに微に入り細を穿つ仕事をしてくださる。本来私がしなければならない部分の多くを担ってくださり牧師としてかなりの負担が軽減された。この手の大きなメーカーだと私たちのような小さな規模の建築は、利益も小さく時間をかけることは損失に繋がるはず。しかし惜しみなく助けてくださる。しかも60年保証してくださるので建物に手抜きはできない。
 行き場所がない私たちの教会が石切チャペルを出なければならなくなった時、好条件で場所を提供くださったのは、すぐ裏隣にあるイベントホールだった。コロナ禍なのでどこにも貸す予定はないという。壊れていたスポットライト類を全部直し、ホールの殺虫、消毒、清掃して私たちに明け渡してくれた。どうしてクリスチャンではない人たちが、そこまでしてくださるのか? 人間の側には様々な理由はあるのかもしれないが、確かに主の働き以外に考えられません。かつてエジプトの王パロの心をかたくなにしたのも主であった。またバビロンに捕囚されていたイスラエルの民をエルサレムに帰還させ、しかも神殿建設を促し経済的にも助けたのは、異教の国ペルシヤのクロス王だった。誰が彼らの心を動かしたのか? 聖書には主がなされたことだと記録されている。
 内外から新会堂の為に用いて欲しいと献金や自作のポストカード、カレンダー、証本など送られてくる。主の働きは凄すぎる!感動しかない。

心のオアシス 2021年12月5日

 産みの苦しみの後には、それにも勝る喜びがくるように、私たちの教会は土地購入と新会堂建築という色んな意味で産みの苦しみの中にいる。しかしそれは大きな喜びへと変わるサインのようなものである。
 先週の日曜日の午前礼拝後、石切チャペルの裏手にあるイベントホールへ引っ越しをした。新しい会堂が与えられるまでの仮の宿である。土地を探すだけでも一苦労しているのに、一時的に使用するために妥当な大きさの部屋やホールを見つけるだけでも大変なことである。しかし神さまは、石切チャペルのすぐ隣にそれを用意しておられた。電気が入り、中を調べてみると、あまりにも備えられすぎていた。今まで以上に良い照明、音響システム、舞台、換気システム、広さ、そして日曜学校やヤングチャペルのできる部屋・・・しかもこのイベントホールのオーナーはコロナ禍では誰にも貸すつもりはなかったそうで、教会には日頃の付き合いもあるので好意的にお貸しくださった。借りるのは日曜日のみであるが、誰にも貸す予定はないので荷物などはそのまま置きっぱなしで良いとも言われた。あまりにも出来過ぎた神のシナリオである。
引っ越し作業は先週の日曜日、いつも礼拝に来られているメンバーが、バケツリレーで列をなして隣へと移動していった。あっという間だった。小学生、中学生、高校生、大学生、青年、中年、壮年の方々、すべての年代層の男女がお手伝いしてくださっていた。美しい主の共同体の姿を見せられ感動した。天国の一部分を垣間見せられたような気がする。そこではもはや、男女もなく、年齢差もなく、立場や職業も関係なく、一つとなって主を礼拝しお仕えするのです。
 恵まれる前にはサタンも必死に阻止しようとしてきますが、何も恐れることはありません。それ以上に主は力強く働いていてくださり、何の妨げにもならないのです。私たちの教会の歩みがそれを証明しています。エレミヤは捕囚の期間を「荒野で恵みを得た」と語ります。それは荒野が主の恵みを発見する所となるからです。そして確実に主によってアップグレードされていくのです。あーこれからも楽しみです!

心のオアシス 2021年11月28日

 神さまが先頭に立って行き、その後について行く人生は、ワクワクドキドキ感が絶えない。なぜなら意表突くような出来事が絶えず起こるからです。しかし、安心感は半端ない。なぜなら責任者は神さまで、責任の取れないようなことはなさらないし、そこに信頼していたら、あとはお任せすれば良いからです。巷では「シェフのお任せランチ!」なんてものがありますが、それを注文すると、待っている時間は何が出てくるかワクワクドキドキである。それは自分が願っている食事ではなくシェフが良いと思うものが提供され、私たちは出された料理を食べるだけ。それはシェフが一番良いと思うものなので間違いはない。人生も同じだと思う。私たちの願望のままに進んで、思い通りいったら満足できるが、思い通りに事が進まなければ心配になり不安になる。それもある意味ワクワクドキドキだとは思うが、そこには行きつくところの保証が何もない。望む通りにいかなければストレスになる。
 正直言うと、私が大和カルバリーチャペルで副牧師として仕えていた時代、「神さまが導かれるままに・・・」という信仰は強かったが、ゼロ開拓する気持ち全くなかった。しかし気が付いたら11年前に東大阪に移住して開拓をスタートし、4年前には堺市で別の教会開拓を開始。私が重荷を持って始めていったというよりも、神さまから重荷を負わされて進めてきたと言っても過言ではない。数年前まで土地を購入し100名入る会堂を建てるなどという願いは持てなかった。いずれは石切チャペルを出なければならないことを想定し、他所を借りることやリフォームをするということは考えていたが割が合わず諦めていた。しかし神さまの促しによって大口の会堂献金を申し出られた方が与えられ、また地道に会堂献金をしてくださる方が与えられ、それが基となって新会堂への夢が与えられた。まだ見積もりの半分しか資金はないが、神さまがされる事業ですから大丈夫。必要な時に必要な人材や経済を与えてくださるでしょう! 本日をもって9年間使用させていただいた石切チャペルでの礼拝を終了し、来週からは隣のイベントホールが仮の宿となります。

心のオアシス 2021年11月21日

 来週の日曜日の礼拝をもって9年間使用させていただいた東大阪福音教会の石切チャペルを離れることになった。次なる場所はまだ決まっていないが、アブラハムのように未だ見ぬ土地を求めての旅が始まる。アブラハムは生まれ育ったウルという場所から旅立ったが、途中ハランという場所に到着した時、居心地が良かったのかそこに長年留まっていた。関西カルバリーフェローシップも、石切チャペルの居心地が良くなり本気で次の場所を探すことを止めてしまっていたように思う。今、神さまから「あなたの住み慣れた場所を離れて、わたしの示す土地へ行け」と命じられているような気がする。
 今まで何回も出される度に、神さまが共におられることを示すかのようにして不思議なことが起こった。私はこの11年間、何かが起こる度に、神さまの手の内で転がされているような気がするようになった。なぜならあまりにも絶妙なタイミングで次なる場所が与えられ、人材が与えられていったからである。とても“偶然”では片付けられない奇跡の連続であった。「来週から集会室を使用しないでください」と言われ呆然としていた私たちが、次の週からよそ様の教会の会堂をお借りして礼拝を始めるなんて考えられるでしょうか? それから9年間も毎週日曜日、一日中お借りして開拓伝道できたことに驚きを覚える。そして今から思えばこの9年間は、私たちが土地を買うことができるように蓄える期間を与えてくださったのだと確信している。そしてまだ土地も会堂もない状態のまま出て行かなければならない私たちに対する神さまの次なるご配慮は、石切チャペルの隣(裏手)にあるイベントホールを好条件で毎週日曜日借りることができるようになったこと。サイズも同じ、駐車場、イスもスピーカーも揃っている。しかもここは、コロナ騒動の前は毎週日曜日昼間からカラオケ大会などの宴会を開催していたが、この一年半の間、電気を止めて使用不可にしておられた。コロナ禍ゆえに私たちが使用できるのである。あまりにも神さまのシナリオはでき過ぎではないでしょうか? まさに紅海が分かれ、そこを渡るイスラエルのようです。

心のオアシス 2021年11月14日

 今年で関西での教会開拓は11年目になるが、いよいよ次のステージへと神さまは導いておられる。現在使用させていただいている東大阪福音教会の石切チャペルは、9年前から日曜日のみお貸しいただいている。しかし今年入ってから、近々現在使っておられる布市チャペルを閉鎖して、石切に戻ってこられるとの打診があった。開拓を始めた当初、東大阪にあるマンションの集会室を使用していたが、約二年後そこが使えなくなり次の週から現在使用させていただいている石切チャペルへと移動し、そこでの最初の礼拝が洗礼式となった。午後は奈良で公民館を使用していたが、出なければならなくなり、近くのカトリック教会を使用させていただくようになり、その数か月後に初の洗礼式が行われた。そしてしばらくしてから奈良の集会も石切チャペルで午後行なうようになり、この9年間で沢山の恵みをいただいた。私たちの教会は移転する度に、色々な意味でバージョンアップしてきた。そのことを体験してきた私は、何年も前から、「この場所を出される時には、次なる神さまの御業を見る時で、もっと素晴らしいことが用意されています!」と度々話してきた。そして今、その時がきた。この日のために、他所を賃貸で借りたりすることも役員さんたちと考え、いくつかの物件を見て回ったが、割に合わないことがわかった。しかし何年も前から“自分たちの会堂”を意識しておられた方々が会堂献金をしてくださっていて、それが求める広さの土地が買えるほどではなかったが、ある程度は貯まり始めていた。私は開拓を始めてから数年前まで、教会メンバーの負担になることはしたくないと思っていて会堂建築は眼中にもなく、アピールも全くしてこなかった。しかし私の思いを超えて、喜んで自発的に献げる方々によって教会建築の夢が与えられた。今年になってから教会内外から会堂献金が与えられ、土地購入の夢が現実的になってきた。何度も「この土地が良い!」と交渉に入るとダメになること数回。その度にガッカリしてきたが、今は、神さまが与えようとされている場所に近づいていると考えるようになり平安になった。神さまの奇跡の軌跡は次回も続きます。

心のオアシス 2021年11月7日

今年で関西での教会開拓は11年目になるが、いよいよ次のステージへと神さまは導いておられる。現在使用させていただいている東大阪福音教会の会堂は、9年前から日曜日のみお貸しいただいている。この度諸事情で、東大阪福音教会が現在使用しておられる布市チャペルを売りに出されて、石切チャペルに戻ってこられることになり、私たちの教会は出なければならなくなった。今年に入り打診されていたが、先日今年までに売れる状況になったことを伝えられた。思えば、私たちの教会は、モーセとイスラエルの民が紅海を渡るような経験を何度もさせていただいた。今から11年前、20年近く副牧師として仕えてきた大和カルバリーチャペルを離れ、関西に移住してからすぐ、同世代で庭師をしながら教会を開拓しておられる牧師とたまたま出会い、その稼業を高給でお手伝いさせていただくことになり経済的な心配がなくなった。そして同時期に教会開拓をお手伝いしたいというフリーの献身者が申し出てこられて午後礼拝を奈良の実家からスタートした。今から思い返してもどのような繋がりでそうなったのかわからないが、私が15年近くさせていただいていた3回コースの聖書入門講座をしてほしいと、他教会やクリスチャンのグループなどから要望があり、開拓最初の一年間は、毎月どこかで講師として用いてくださった。そこで救われた方々が何人か与えられ一年後に東大阪でも礼拝を午前にスタートした。開拓初期から午前は東大阪、午後は奈良の二ヶ所で礼拝をさせていただけることに不思議を感じた(当時月一で和歌山でも家庭集会)。しばらくして子供たちが増え始め日曜学校の教師が必要になり祈り始めて3週間後に突然、道本賢司先生が礼拝に出られ、牧師であるご両親の了承を得たので手弁当でお手伝いさせて欲しいと申し出てこられた。次の週から日曜学校の教師として、数年後には協力伝道師として今現在まで忠実にご奉仕してくださっていることも驚きである。そして開拓約二年後、私たちが午前と午後に使用していた別の集会場所をそれぞれ同時期位に出なければならない事態となる。神さまの奇跡の軌跡の続きは次回をお楽しみに。

心のオアシス 2021年10月31日

 「木を見て森を見ず」という格言は、木だけを見ていると、森全体を見ることができないということから、「些細なことにこだわりすぎると、ものごとの本質や全体像を見落とすことがある」という意味で使われていることわざです。聖書は一部の御言葉や譬え話からも大きな励ましを受けることがあるが、その言葉が発せられた状況や歴史的背景などを調べると、もっとリアルに感動することもある。またその言葉の文脈から全体を理解すると深みが増してくる。そしてある時には、今まで理解していた解釈が間違っていたことに気付いたり、わからなったことが理解できるようになることもある。どの視点に立つかがポイントです。
 ジョン・マックスウェルの「信仰の法則」という著書に、このようなエピソードがある。大きな街に着いた旅人が、道端に腰を下ろしている老人に「この街の人々はどんな性格ですか」と尋ねた。するとその老人は「ここに来る前に立ち寄った所の人々の性格はどうだったんだい?」と聞き返してきた。旅人が「浅はかな上に、最悪でしたよ」と答えると、老人は「ここの人たちも同じだよ」と言いました。数日後、また別の旅人がその街に来て、その老人に同じ質問をしました。今回もまた、旅人がそこに来る前に訪れた所の人たちはどうだったかと尋ねると、「正直でまじめな上に、心の広い人がたくさんいました」と旅人が答えると、老人は「ここにも良い人がたくさんいますよ」と言いました。
 ジョン・マックスウェルは、これを「レンズの原則」と説明しています。つまり、人によって、状況や相手を見る観点が違ってくるというのです。神さまに信頼を置いている人たちが用いるべきレンズは、「イエス・キリスト」です。“神の視点”から人や現実を見ることによって、人を批判して落とし入れるのではなく、尊ぶことができるようになります。自分は罪人で、イエスさまの身代わりの十字架によって救われたにしかすぎない存在であることを知っている人は、人をぞんざいに扱ったりはしません。問題に対して不平不満ではなく、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する心が与えられるから不思議です。