礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2021年11月7日

今年で関西での教会開拓は11年目になるが、いよいよ次のステージへと神さまは導いておられる。現在使用させていただいている東大阪福音教会の会堂は、9年前から日曜日のみお貸しいただいている。この度諸事情で、東大阪福音教会が現在使用しておられる布市チャペルを売りに出されて、石切チャペルに戻ってこられることになり、私たちの教会は出なければならなくなった。今年に入り打診されていたが、先日今年までに売れる状況になったことを伝えられた。思えば、私たちの教会は、モーセとイスラエルの民が紅海を渡るような経験を何度もさせていただいた。今から11年前、20年近く副牧師として仕えてきた大和カルバリーチャペルを離れ、関西に移住してからすぐ、同世代で庭師をしながら教会を開拓しておられる牧師とたまたま出会い、その稼業を高給でお手伝いさせていただくことになり経済的な心配がなくなった。そして同時期に教会開拓をお手伝いしたいというフリーの献身者が申し出てこられて午後礼拝を奈良の実家からスタートした。今から思い返してもどのような繋がりでそうなったのかわからないが、私が15年近くさせていただいていた3回コースの聖書入門講座をしてほしいと、他教会やクリスチャンのグループなどから要望があり、開拓最初の一年間は、毎月どこかで講師として用いてくださった。そこで救われた方々が何人か与えられ一年後に東大阪でも礼拝を午前にスタートした。開拓初期から午前は東大阪、午後は奈良の二ヶ所で礼拝をさせていただけることに不思議を感じた(当時月一で和歌山でも家庭集会)。しばらくして子供たちが増え始め日曜学校の教師が必要になり祈り始めて3週間後に突然、道本賢司先生が礼拝に出られ、牧師であるご両親の了承を得たので手弁当でお手伝いさせて欲しいと申し出てこられた。次の週から日曜学校の教師として、数年後には協力伝道師として今現在まで忠実にご奉仕してくださっていることも驚きである。そして開拓約二年後、私たちが午前と午後に使用していた別の集会場所をそれぞれ同時期位に出なければならない事態となる。神さまの奇跡の軌跡の続きは次回をお楽しみに。

心のオアシス 2021年10月31日

 「木を見て森を見ず」という格言は、木だけを見ていると、森全体を見ることができないということから、「些細なことにこだわりすぎると、ものごとの本質や全体像を見落とすことがある」という意味で使われていることわざです。聖書は一部の御言葉や譬え話からも大きな励ましを受けることがあるが、その言葉が発せられた状況や歴史的背景などを調べると、もっとリアルに感動することもある。またその言葉の文脈から全体を理解すると深みが増してくる。そしてある時には、今まで理解していた解釈が間違っていたことに気付いたり、わからなったことが理解できるようになることもある。どの視点に立つかがポイントです。
 ジョン・マックスウェルの「信仰の法則」という著書に、このようなエピソードがある。大きな街に着いた旅人が、道端に腰を下ろしている老人に「この街の人々はどんな性格ですか」と尋ねた。するとその老人は「ここに来る前に立ち寄った所の人々の性格はどうだったんだい?」と聞き返してきた。旅人が「浅はかな上に、最悪でしたよ」と答えると、老人は「ここの人たちも同じだよ」と言いました。数日後、また別の旅人がその街に来て、その老人に同じ質問をしました。今回もまた、旅人がそこに来る前に訪れた所の人たちはどうだったかと尋ねると、「正直でまじめな上に、心の広い人がたくさんいました」と旅人が答えると、老人は「ここにも良い人がたくさんいますよ」と言いました。
 ジョン・マックスウェルは、これを「レンズの原則」と説明しています。つまり、人によって、状況や相手を見る観点が違ってくるというのです。神さまに信頼を置いている人たちが用いるべきレンズは、「イエス・キリスト」です。“神の視点”から人や現実を見ることによって、人を批判して落とし入れるのではなく、尊ぶことができるようになります。自分は罪人で、イエスさまの身代わりの十字架によって救われたにしかすぎない存在であることを知っている人は、人をぞんざいに扱ったりはしません。問題に対して不平不満ではなく、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する心が与えられるから不思議です。

心のオアシス 2021年10月24日

 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである」(ヨハネ3:8)
 これはイエスさまが、律法と伝統を厳格に守り行なうパリサイ派のユダヤ人宗教指導者であるニコデモに話された内容の一部である。風は目で見ることはできないが、揺らぐ枝葉で風があることを知ることができる。神や聖霊も目で見ることはできないが、人の人生が変えられることを通して存在していることを知ることができる。
 千葉県にあるシロアム・キリスト教会の牧師・鈴木啓之先生は、元ヤクザであった。大阪府生野区に生まれ、17歳でヤクザの世界に入り、17年間欲望のままに人生を送り、ある時、自ら招いた過ちから同じ組織の仲間を含め数千人に命を狙われ、死の恐怖に怯えながら逃亡生活を過ごしていた。そんな最中、教会を訪れ、そこから劇的な回心の末、神学校で学び牧師になった。1998年3月、世界中のリーダーが集まるアメリカワシントンDCで行われた米国国家朝食祈祷会において、     日本人として初めて壇上に上がり、自らの「人生再出発」その体験メッセージを証した。そのことがメディアでも取り上げられるようになり、彼がモデルとなり「親分はイエス様」という映画にもなった。その国家朝食祈祷会でのメッセージ後、後ろの方で一人の男性が叫び声を上げた。そしてこう叫んだそうです。「私は今、イエスが生きていることを目撃してしまった!」彼はユダヤ教のユダヤ人でした。目の前で、全身総イレズミ・指なし男が、今は牧師となって、「イエス・キリストこそ救い主!私の人生を変えてくださった!」との証に衝撃を受けたのです。これも見えない聖霊さまのお働き。
 使徒行伝4章の記録です。癒しを行なったことを議会から尋問されたペテロは言った。「この人(イエス)による以外に救はない!」そして彼らにいやされた者がそのそばに立っているのを見ては、まったく返す言葉がなかった。イエス・キリストは、昨日も今日も生きておられます。

心のオアシス 2021年10月17日

 「多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」(ヨハネ2:24)
 ヨハネによる福音書の中には、「しるし」という言葉が多く見受けられます。それは奇跡のことをそう表現しているのですが、何故「しるし」なのでしょうか? 英語ではSign(サイン)と書きますが、これはそれそのものが重要なのではなく、それが指して人や物が大切なのです。大勢の人が奇跡を見てイエスさまを信じたのですが、主は彼らを信頼しなかったというのです。奇跡により心動かされ信じても、その感動は一時的なものに過ぎず、感情はいつか必ず冷めるものです。しるしだけを求めるなら、試練の時には立ち行かなくなってしまいます。必ずつまずき、離れ去ってしまいます。それは軸が自分にあり、自分が中心なので、自分のための信仰で、自分に得るものが無ければ離れてしまうのです。
 主は奇跡をされた時、必ず御言葉によって行われました。しかし人々は、そのしるしが指し示している“御言葉”や“イエスさまは救い主”ということより、目に見える奇跡の方に心奪われ、夢中になり奇跡を見て信じた人々は、皆、去ってしまいました。出エジプトを経験したイスラエルはあれほどの、神の超自然のわざを見たのに、すぐ荒野でつぶやき、荒野でも奇跡を見続けたにかかわらず、結局約束の土地に入れず、荒野で不信仰のゆえに滅んでしまった。奇跡的に物事が動くとすぐにこれが御心かと思う。それ程、人はしるしを求めてしまう。  
 イエスさまの弟子たちも、しるしを見て信じていたときには、危機が迫るとすぐに逃げ、不安と恐れが支配していました。しかし彼らが本当の意味で変えられたのは、「聖書とイエスさまが言われた言葉を信じた」(ヨハネ2:22)時からだったのです。彼らは殉教をも恐れない宣教者になりました。私たちが試練を乗り越える秘訣は、これしかありません。
 自分の側に立つと、奇跡があるかないか、問題が解決するかしないか、病が癒されるかどうかが気になりますが、神の側に立つと、主が戦ってくださるから大丈夫、という安心感に変えられるから不思議です。

心のオアシス 2021年10月10日

 もう30年近く前の話になるが、私がアメリカはロサンゼルス郊外にあるラグナヒルズという場所で、日本人教会の開拓をしていた時代に、アナハイムにあるスタジアムでハーベスト・クルセードというアメリカの教会が協賛して行なう大きな集会が毎年なされていた。そこには数千人の人たちが集まり、プロのミュージシャンたちによるゴスペルやダンス、そして当時はグレッグ・ローリー牧師による初心者向けのわかりやすいメッセージが語られるという素晴らしい時間でした。そこでの私の一番の感動は、メッセージの後に「今日、イエス・キリストを救い主として信じたい方々は、お祈りしたいので客席から立ち上がって、舞台のあるフィールドに降りてきてください。」という招きがあると、数百人の人たちが列をなして降りてくるのです。中には穴の開いたジーンズに髪の長いヒッピーや、入れ墨を入れたいかつそうな男性もいる。涙を流しながら友人や家族がその後に続いている。電光掲示板には、“Welcome to the family of God”と表示され、救われた魂に対する喜びと歓迎の拍手が鳴り響いている。そしてその背後でゴスペル歌手によって“Come Just as You Are”(ありのままで来てごらん)という歌がその感動を倍増させていた。歌の内容は、「ありのままで来てご覧なさい。活ける水を味わえば、二度と渇くことはありません。聖霊の呼びかけが聞こえませんか? Come and See来て見てください」とても美しい光景であった。
 Come and See・・・これはイエスさまが言われた言葉です。よく教会へお誘いすると「今の自分は罪深すぎて教会なんて行けません。もっとまともになってから行きます。」とか「聖書の知識がないから無理です。」とか言われる方がいるが、もしそうだとしたら私も牧師になっていなかったでしょう。ただありのまま来てイエスさまに出会うだけでいいのです。行ないとか知識ではなく、イエスさまに出会ったら、人生が変えられるのです。これがキリスト教は宗教ではないと言われる所以なのです。
 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)

心のオアシス 2021年10月3日

 ダビデとゴリアテの対決の記事は、旧約聖書の中では大変有名な箇所です。ゴリアテは身長2メートル86センチの巨体で、身に着けている鎧兜は57キロ、持っているヤリは6.8キロという威圧感満載の大男でした。そして彼が吐く暴言に対してイスラエルの人々は、恐れ震え縮み上がっていました。そこに父親の下で羊飼いとして働いていた当時中高生位の年齢であったダビデが、父親の言いつけでイスラエル軍の中いたお兄さんたちに弁当を持って戦場近くに行った時に、敵であるペリシテ軍とあのゴリアテが上ってきて、イスラエルに対する脅し文句を聞きました。ダビデは思いました。「あの神を信じない人たちは何者なので、生ける神の軍に挑もうとしているのか?! 主がペリシテ軍と戦って、やっつけてくださるだろう!」そして彼は武具をつけて出て行こうとするのですが合うサイズがなく、あまりにも重すぎて動けないので、全部脱いで丸腰状態でゴリアテの前に立ちました。持っているものは、谷間で拾った5個のなめらかな石と羊飼いをしている時にオオカミを散らすときに使う石投げだけでした。それは滑稽な姿だったことでしょう。武装した頑強な巨人を前に、弁当を届けにやってきた一人の羊飼いの少年が、立っているのです。しかし数分もかからないうちに、ダビデが放った一発目の石がゴリアテの額に当たり倒れてしまいました。
 ダビデの勇気はどこから出てきたのでしょうか? それはダビデから出た次の言葉にヒントがあります。「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。」(サムエル上17:45)ポイントは、相手の大きさと自分を比べていなかったというところです。彼が比べていたのは、相手と神さまの大きさでした。“自分”を用いて生ける神が戦ってくださるという信仰です。
 私たちも自分の実力や能力と問題を比べると押しつぶされそうになります。どうぞその時にこそ主を見上げてください。主は、私たちの問題よりも、病よりも大きなお方です。主がご一緒ならば何とかなります!

心のオアシス 2021年9月26日

 “イスラエル”は、ヘブライ語で「神の支配」という意味である。その名の通り、始祖であるアブラハムから約千年間は王政ではなく、“神”を王とする神権政治であった。エジプトから脱出し約束の土地(カナン)に入ってからは、霊的指導者(士師)が神の言葉を受け民に伝え、それに従うという政治形態であった。ところが紀元前千年頃に、士師サムエルに継ぐ妥当な後継者がいないことを理由に、周辺諸国のように「“王”が欲しい!」と叫ぶようになった。これは私たちにとって真っ当な主張のように思えますが、イスラエルにとっては掟破りだったのです。なぜならイスラエルはその名のごとく“神が支配”する国であり、創造主を“王の王、主の主”として従うために呼び出された民族だからです。サムエルは神以外を王とすることによって起こる悲劇を伝えましたが、民は言いました。「いや、我々には王が必要です。そうすれば他の国のように“王”が私たちを導き、先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう!」と食い下がりました。“神”が先頭に立って進み行かれることを拒否したイスラエルは、自分たちの願いのまま王を立ててから堕落が始まりました。四代目の王の時代に国は北と南に分かれ、王を立てるようになってからおよそ四百年後には北はアッシリアにより、南はバビロンによって捕囚され国を失うこととなります。
 私たちには真っ当な主張や正義があるかもしれませんし、それを無視してはなりませんが、それが必ずしも神の目には正しいことではない可能性があることも意識する必要があるでしょう。なぜなら私たちの主張や正義は、自分の利得や願望が中心になっていることが多いからです。それを押し切って進むことによって、人間関係に亀裂が入ったり、多くの混乱が生み出されていきます。そしてイスラエルのような道を歩むことになりかねません。
 「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救いを見なさい・・・主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」(出14:13-14)

心のオアシス 2021年9月19日

 聖書の中に、二通りの生き方が示されている箇所がある。イスラエルが神から行けと言われたカナンの土地に入る前に、モーセは12人の偵察隊を送り込みました。任務を終えて帰ってきた10人の報告はこうでした。「私たちが遣わされた土地を見てきましたが、そこは非常に潤った良い土地です。しかし、そこの住んでいる人たちは強く、町は堅固で、私たちはイナゴのように思われるでしょう。あの土地に入ることはできません!」そして残る2人の報告はこうでした。「あの土地は、非常に良い場所です。主が良しとされるなら、いただけるでしょう。その土地の人々を恐れてはなりません。主が共におられるなら大丈夫です!」
 同じ土地を見ていながらこの二者の違いは何なのでしょう? それぞれが見ている位置が違うのです。前者は、現状と自分の実力を天秤にかけています。後者は、神が導かれる自分を客観的に見ています。自分と相手との比較ではなく、神と相手を比較しているのです。これは「自分はできる! できる!」という思い込ませとか啓発ではなく、神の実力に生きる信仰者の姿なのです。ここに自分の身を置くことができたら、肩の荷を下ろして歩むことができるようになります。
 そうは言われても、なかなか難しいことだと思うでしょう? これは教えられてできるものではなく、自分が一歩踏み出して体験しなければ理解できない世界です。一度味わってしまえば信仰に生きることが、どれほど楽であるかがわかるはずです。
 ある放送局の新入社員はディレクターからいじめられても、全く影響がありませんでした。実は彼は財閥の息子で、父親の指示することに従えば必ずうまく行くと確信していたのです。神さまは私の父であり、人生の主人であり、私の罪をすべて取り去ってくださった方であると信じるなら、今、自分がいる場所は、人に認められるために生きる所ではなく、父なる神さまの働きのために遣わされた場所になります。私たちは、自分が「世の中の評価とは関わりのない、父なる神さまのもの」だということを悟ったとき、どんな時でも堂々としていられるのです。

心のオアシス 2021年9月12日

 聖書が示す人間の弱さの一つに「私」問題を取り上げている。実は、この問題があるために、人類は何千年経過してもストレスが軽減されることはなかった。「頑張れ!」とは言われても、頑張れない時もある。各個人には、時と場合によっても違うリミッターが付いていて、ある限界は超えられないようにできている。それを超えようとすると、病気になったり燃え尽きたりしてしまう。旧約聖書に出てくるモーセは、王子としてエジプトの王宮で育てられ、40歳になった時に思い立ちました。「“私”は今が一番脂の乗った年齢だ。地位も金もある。今ならイスラエルの民は“私”を信頼して従ってくれるだろう。今こそイスラエルを虐げるエジプトから救出する時がきた!」と言わんばかりに旗揚げしたのですが、誰も付いてくるどころか彼に対する不信感でいっぱいでした。同族であるイスラエル人を虐げていたエジプト人に腹が立ち殺してしまうのですが、それが発覚して荒野へ逃れて雇われ羊飼いとなりました。
彼が80歳になった時、神さまからイスラエル人エジプト脱出計画のリーダーとして呼ばれました。彼はまた“自分”を見て言いました。「“私”がですか?! “私”は、もう地位も名誉も財産もありません。“私”が何者なので、私を選ばれるのですか? もう一つ言っておきますが、“私”は口下手ですよ。人々を導いていくリーダーシップは、もう“私”にはありません!」
 これが人間の“私”問題で、これがストレスになっていることに気付いている人は非常に少ないのです。特に責任感の強い人は、精神的につぶれてしまうこともあります。
それに対して神さまは、「“わたし”がイスラエルと共にいて、“わたし”が導く!」とおっしゃるのです。「委ねる」とは、自分は何もせずに怠けるという意味ではなく、自分ができるベストは尽くして、結果は神さまのご意志通りに、という在り方を言います。まさにマザーテレサの「私は神の用いられる鉛筆です。」という言葉通りです。
 “私”ではなく“神”に委ねる人生こそストレスフリーへの近道です。

心のオアシス 2021年9月5日

 四肢欠損症という稀な病気のために、腕と脚のない身体で生まれたオーストラリア人のニック・ブイチチさんは、現在伝道者として活躍されているが、生まれた当初、手脚のない我が子に両親は打ちのめされましたが、牧師であった父親や愛情深い母親の下で励まされながら育てられた。しかし、物心ついた時から、「神さまは僕のことを愛しているのなら、どうして僕に腕と脚を与える奇跡を起こしてくださらないのか?」と怒りと混乱を抱えながら成長しました。そして彼はお医者さんから言われた「あなたは歩けるようにはなりませんし、車椅子にも乗れません。」という言葉を信じて絶望の淵にいました。両親はいつも「すべてのことは神さまが備えてくださるから」と語っていましたが、それは気休めにしか聞こえていませんでした。自殺も試みましたが、実行はできませんでした。そしてその後、神様は思いもしなかった方法で彼に答えてくださいました。15歳の時、ニックは聖書の中の生まれつき目の見えない男の話を読みました。なぜ目が見えずに生まれてきたのか誰もわかりませんでしたが、イエスさまは、「この人に神の栄光が現れるためだ」と言われました。その時の気持ちを、「嵐の雲を突き抜けるような神の喜びが注がれた」と表現されています。なぜ神がニックに腕と脚をくださらなかったのか、その理由はわかりませんが、だからと言って、何かの間違いでそのように生まれたのではないことを悟りました。彼は、こう祈りました「主よ、あなたが目の見えない人を癒されたように、私に腕と脚をくださるのならば、私はあなたを信じます。しかし、たとえ腕と脚をくださらなくても、私はあなたを信じます」
 彼が23歳のとき、カルフォルニアで3千人集まる集会でメッセージした時、手足のない赤ん坊を抱っこした母親が近づいてきてこう言いました。「私は奇跡を見せてくださいと祈ってきました。今日見ました。あなたは神さまの奇跡です!」そしてニックは、赤ん坊に言いました。「大丈夫、きっとうまくいくよ!」そしてその子はニック同様、小さな脚で歩き、電動車椅子で移動し、泳ぐことができるようになりました。