礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2022年2月6日

 「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦難、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(2コリント12:10)
 人生にはどうにもならないことがたくさんあります。時代も性別も国籍も体形も髪の色も、すべては定められたことであって人の選択の余地を越えたどうにもならないことばかりです。それ以外にも、生まれながらの身体や精神の障がいがあり、個人の選択を越えた戦禍や天災などの悲劇があります。人はどんなに恵まれた人であっても、そのうちの一つや二つ、必ずこうした宿命的とも言える弱さととげを背負わされてあえいでいます。
 しかしまた、多くの人生の勝利者たちの証言を聞くと、何と多くの人々が、その宿命的なとげや弱さを転機として、その人独自の新境地を展開させてきたことでしょう。ヘレンケラーしかり、家庭的不遇に育ったチャップリンしかり、身近なところでは、水野源三さんや星野富弘さんしかりです。使徒パウロは、自分の身体的なとげのために、それを取り除いてくださいと、神に三度も祈りましたが、三回ともつき返されます。 神からの答えは、それを取り除くことではなくて、その痛みを活用せよということでした。主は、わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。と言われたのです。ですから、「私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と語っています。それは、未解決だからこそ見出すことができた解決であり、失ったからこそ、つかみ取ることのできた大発見でした。あなたの弱さとあなたのとげ、それは未知なる恵みの宝庫への入り口です。(「日々の宝」吉持章著書より)
ある方が五行歌の中に「子供を幸せにするのではなくどんな状況でも幸せになれる子どもを育てよ」と書かれていたが、聖書もそのようなメッセージが多い。それは現実を諦めよというのではなく、解決や癒しを求め祈りながらも“今”を受けとめながら神に委ねるということです。

心のオアシス 2022年1月30日

 「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ福音書16章33節)
 これは多くの人たちに励ましを与えてきた言葉である。先日もこの箇所を瞑想しているうちに大きな恵みを受けた。ここの「勇気を出しなさい」と言われる背後に、「イエスさまはすでに世に勝っているから」という理由が述べられている。ではイエスさまは、どうやって“世に勝った”のか? 前の32節にそれが語られている。「あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである」 簡単に説明すると、ローマの軍隊がイエスさまを捕らえにやってきた時、3年半共に過ごし「私だけはつまずきません!」と豪語していた弟子たちは、恩師を見捨てて皆逃げ出します。一人残され、孤独と悲しみに陥ったイエスさまの励ましは、「天の父なる神さま」だけは、その苦悩の中でもご一緒くださっていることを知ることだったのです。家族がいても、友人がいても、本当の自分のことを理解してくれる人はいないという孤独が人にはあります。でもそんなこの世の悩みに対して創造主なる神が、いつもご一緒してくださり、理解し励ましてくださっていることを知ることが勝利の秘訣なのです。
 一人の母親が8歳の娘を白血病で失いました。亡くなる時期も近い、ある夜に、消灯時間が過ぎても寝つかれないでいる、その子のために、若い看護師が本を読んであげたそうです。やがて静かな寝息をたて始めましたが、その看護師は、なおも30分近くベッドサイドにいました。その子供の死後、その子の母親はこう語りました。「あの子がその夜、ふと、うす目を開けてみたら、まだ看護師さんが傍らにいてくれた。『眠らせるためにだけ本を読んでくれる人が多いのに、本当にうれしかった』と言っておりました」
 イエスさまは、寝てから30分どころではなく、いつもいつまでも、「大丈夫、安心せよ」と、傍らで私たちを励ましてくださっているのです。

心のオアシス 2022年1月23日

 実業家で作家の本田晃一氏が「半径3メートル以内を幸せにする」という著書の中でこんなことを書いている。
人は、自分を喜ばせること以上に、大切な人を喜ばせることに、より深い幸せを感じるようになっているのではないかな、と思います。1万円で、自分の欲しかったものを買う。これも幸せです。だけど、同じ1万円で、大切な人を喜ばせることができたときは、もっと幸せではないでしょうか。人それぞれかもしれないけれど、僕にはどうも、人間はそんなふうに設計されているように感じられるのです。だったら、その本来の設計どおりに生きたほうが、より幸せになれるでしょう。とはいえ、自分が満たされているという前提がなければ、人を喜ばせるということに疲れてしまいます。さっきの例だって、明日のご飯にも困る状態では、いくら大切な人のためでも、1万円も使うことはできません。
(中略)
 与えたら見返りがほしい。与えたら認められたい。これは、自分が満たされていないから、思うことです。満ちていない状態で、人を幸せにしようとすると、いまだ満ちていない自分の欲求不満を、相手に思いっきりぶつけることになってしまうのです。一番の理想は、「相手を幸せにすることそのものが自分にとっての幸せであり、そのあとは、ぶっちゃけどうでもいい。見返りや承認なんて求めるまでもなく、幸せにするだけで幸せなんだよ~!」という状態です。つまり、まわりの人を幸せにすることで、何より自分が幸せになるということ。もっといえば、自分が幸せでいたいから、まわりの人を笑顔にするということです。そのためには、まず自分を満たすことが大事だし、自分が喜んでできる範囲を見極めることも欠かせないでしょう。

 著者が聖書を読んでおられるかどうかはわからないが、神の“法則”を直感的に発見されたのではないかと思わされる。私も若き時代は受けることが多かったが、年を重ねるごとに与える恵みを学ばされている。

心のオアシス 2022年1月16日 

 あなたが好かれ、嫌われる割合は、以下の通りだそうです。
世界中の2割の人は、あなたがどんな行動をとってもあなたの事を嫌いになる。6割の人は、行動によって好き嫌いが分かれる。でも残りの2割の人は、あなたがどんなヘマをしてもあなたの事を好いてくれる。世界はそういう比率でできてるらしい。“捨てる神あれば拾う神あり”ということわざが、そのままデータ化された感じがします。
 この2:6:2の比率は他の分野でも検証結果がでているようです。例えば、どこの職場や学校にも、2割は良くできる人、4割はそこそこの人、2割は全然できない人がいるようです。できない人は必要ないのか?と思いきや、ある社長さんはこのように言っておられた。「2割の仕事ができない人がいるからこそ、2割の仕事ができる人が育っているのです。ですから仕事ができない人も2割必要なのです。」これは神さまが与えたこの世における絶妙なバランスです。だからこそ、私たちは他者と比べないで、神さまが与えてくださった“自分”を精一杯咲かせれば良いのだということです。
 「世界に一つだけの花」という歌の中に、このような歌詞がある。
   それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?
   一人一人違うのにその中で 一番になりたがる? 
   そうさ 僕らも 世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ
   その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい
   小さい花や大きな花 一つとして同じものはないから
   No.1にならなくてもいい もともと特別なОnly one
 この神の法則を知ると、もっと他者に寛容になれるし、こんな自分でも神は必要としてくださっているし愛してくださっている、という気持ちを持つことができる。他者を批判するべきではないし、自暴自棄にもなることはない。あなたがあなたである故に必要とされているということです。あなたの造られた目的は、主に従うことです。その目的のために自分自身を用いるよう心掛けていたら、どんな人も輝き出します。 

心のオアシス 2022年1月9日

 旧約聖書の知恵の書の一つである箴言11章24~25節に「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。」という格言がある。誠にその通りだと思う。母教会の大和カルバリーチャペルは、“与える教会”です。最近も主任牧師が、「私たちは自分だけが潤うのではなく、他者を潤す者とならなければ、やがては廃れてしまうでしょう」というお話しをしておられたが、私もそれを実践しようと決心して、開拓初期から、そのような教会の在り方を試みてきた。 
捧げてきたことを公にすることは“自慢”とも受け取られかねないし、そのようなことを他言すべきではないと自覚はしているが、一つの祝福の証として書かせていただくことをお許しいただきたい。
 私たちの教会は、ご存知のように先月、土地購入の仮契約を済ませることができた。その土地の価格交渉の中で、短期間のうちに現金で買うのであればという条件でリーズナブルな値引きがされた。そこで教会の12年間に献げられてきた「土地&会堂指定献金」がどの位貯まっているのかを調べてみると、なんと仲介不動産に渡された手数料などもすべて含めた見積りと寸分たがわず同額となっていた。その額5400万円。これは大きな額の献金をしてくださった人も、小学生が新会堂のためにその分を捧げて欲しいと、両親からの誕生日プレゼントを辞退した小さな献金もすべて主の手の中にあることを示している数字である。どうやって貯めることができたのか? 勿論、大切な献金を無駄遣いしたことは一切ない。でも一つ心当たりがあるとするならば、他のミニストリーのために献げてきたということです。開拓を始めた数年間は、牧師へ支払う謝礼は全くなかったが、被災地や貧しい国の子どもたち、苦労している他教会、いくつかの宣教団体へ毎月捧げてきた。その結果がこれなのです。私たちは無謀になってはいけないが、神さまからの促しがあればそれは祝福へと繋がることだという認識は大切なことです。
 今年の個人的な抱負は「施し散らして富を増す!」 楽しみです。

心のオアシス 2022年1月2日

 元日と元旦の違いは・・・「元日」とは、1月1日、1年の最初の日のこと。「元旦」とは、元日の朝のことで、新しい年を迎えることをお祝いする日という意味があるそうです。古来より日本では年末になるとお坊さんにお経を唱えてもらう風習があり、これを俗に「釜締め(かまじめ)回り」と言い、“火の神様”に対して一年間の感謝をしてお正月には休んでいただくのだとか。だから正月には竈(かまど)を使用することができないために保存が効くような食べ物を前もって準備していたのが「おせち料理」ということだそうです。因みに年末によく「年の瀬」という言葉を耳にすると思いますが、この言葉は江戸庶民の生活からできた言葉で、「年の瀬」の“瀬”は川の瀬のことで、川が浅くなり流れが急に早くなり船で渡ることが困難な場所を指します。江戸庶民の生活は「ツケ」がほとんどでした。その「ツケ」を年末に清算しなければならないが、そうするとお金が無くなり正月を迎えられなくなる。支払いたいけど支払えないという困難さを、川の瀬にたとえて表現し、年末の慌ただしく押し詰まっている様子を「年の瀬」と言うようになったとのこと。
 関西カルバリーフェローシップは、この「年の瀬」ならぬ「神の瀬」を経験している。それは様々な崖っぷちに対して、天地万物を創造された主が、私たちの能力や限界を超えた圧倒的な力で乗り越えさせてくださっているということです。私は昨年の春ごろから何か大きな力が加わるのを感じ始め、年末にはその流れが急加速した。主は休むこともまどろむこともなく、確実に私たちをある方向へと導いておられるのを感じている。神さまが動き始められると地響きがするようです。
 ロシアで宣教しておられる先生が、その働きを担うことができる秘訣を「無力さで満ちていることだ」と言われたことに驚きを覚えた。主が喜ばれるのは、礼拝堂の大きさでも、メンバーの数でも、画期的なプログラムでもない。どんな状況でも主のことばを信じて従う無力な人だということなのです。今年はどんな壁が立ちはだかるでしょうか? しかし主にとっては何の妨げにもなりません。信頼して進みましょう!

心のオアシス 2021年12月26日

 “今日まで守られ 来りしわが身 露だに憂えじ 行く末などは 
 如何なる折りにも 愛なる神は すべての事をば 善きにし給わん”
 これは毎年の年末感謝礼拝で捧げている聖歌292番の一節です。私にとって2021年ほど、この聖歌の歌詞が身に染みる年はありませんでした。今年は多くの崖っぷち経験をさせられた。まず年明け早々に、9年間、会堂をお借りしていた東大阪福音教会の牧師先生から、「諸事情あって今使っている土地と会堂を引き払って、石切チャペルに戻ることになりそうです。」という打診を受けた。数年前に、いずれは出なければならないことを想定して、能動的に役員さんたちと他所を探し回ったことはあったが、賃貸はあまりにも高すぎて購入したほうがよほど良い。しかしまだその時点では土地購入の話題は全くなかった。そしてそのまま数年間が経過した。今年になって受動的に“出なければならない”という崖っぷちに立たされた。ところが今まで聖別しておいた会堂&土地指定献金の額を調べると3千万円ほどになっていた。これを足掛かりにして「土地を買って、それを担保にして会堂を建てることができるのでは?」という機運が高まった。そこで祈りが引き上げられ、献げる方々が与えられた。土地探しは困難を極めた。ことごとく契約直前で破談になる。もう妥当な土地はないのではないかと思われた崖っぷち状態から、けいはんな線・吉田駅から徒歩9分、花園ラグビー場から300mに位置し、片側3車線もある道路沿いにある好立地な土地が突如舞い込んできて無事仮契約できた。その土地の値段は手数料など込みで計5400万円。なんと今年与えられた指定献金を加えると、寸分違わずそのままの額が与えられていたのです。
 そして先月、「石切チャペルから今年いっぱいで出て欲しい」との宣告に、「このイスラエルの民ならぬ関西カルバリーの民は行き場を失って路頭に迷うのか?」と思いきや、石切チャペルの裏隣のイベントホールを神さまは用意してくださった。“紅海が分かれる”とはこういうことであろう。創造主なる神さまに信頼する道はワクワクドキドキは多いが安心感がハンパない! 神の計画は妨げられることはない。

心のオアシス 2021年12月19日

 8歳の女の子から「サンタは本当にいるの?」という質問に対してニューヨーク・サン新聞が社説で返答した内容が有名です。その答えは・・・
 実はね、バージニア、サンタクロースはいるんだ。愛とか思いやりとか労わりとかがあって、人の毎日は、癒されたり潤ったりする。だからサンタクロースもいるんだよ。もしサンタクロースがいなかったら、ものすごく寂しい世の中になってしまう。バージニアみたいな子がこの世にいなくなるくらい、ものすごく寂しいことなんだ。サンタクロースがいないってことは、見たり聞いたり触ったりすることでしか楽しめなくなるし、世界をいつも温かくしてくれる子どもたちの輝きも、消えてなくなってしまうだろう。パパに頼んで、クリスマスイブの日、煙突という煙突全部を見張らせて、サンタクロースを待ち伏せしてごらん。サンタクロースが入ってくるのが見られずに終わったとしても、何にも変わらない。そもそもサンタクロースは人の目に見えないものだし、それでサンタクロースがいないってことにもならない。
 真の本物は、子どもにも大人にも、誰の目にも見えないものなんだよ。妖精が原っぱで遊んでいるところ、誰か見た人っているかな? うん、いないよね、でもそれで、ないって決まるわけじゃない。世界で誰も見たことがない、見ることができない不思議なことって、誰にもはっきりとはつかめないんだ。
 サンタクロースはいないって?! 神さまに感謝するよ。永遠に生きておられるお方。今この時も、これからもずっと。何千年、いや、あと十万年たっても、子どもたちの心をわくわくさせてくれると思うよ。
(サン新聞社・記者フランシス・チャーチ)
 神の子なるイエス・キリストが2千年前、この地上にお生まれになったこと、この地上を33年間歩まれたこと、そして私たちの罪の身代わりとして十字架にかかって死なれ、甦られ、天に引き上げられたこと、そして再び地上に戻ってこられること、これらは空想話ではありません。リアルです。そして今も生きて働いておられます。メリークリスマス!

心のオアシス 2021年12月12日

 私たちの教会にとって、今月は大きな分岐点となる。土地購入&新会堂建設という想定外の大きな買い物に怖気づいていた牧師を励ますかのようにして様々な“しるし”が与えられた。まずは今年の4月に複数の建築会社の中から大手のハウスメーカーが選ばれた。通常はここまでのサービスはしないと担当者が言われるほど、建物的にも価格的にも私たちの希望に寄せた会堂を建ててくださることになった。しかも担当者は、昨年社内で最優秀賞を受賞したエリート社員である。自ら自転車で走り回って空き地を探し地主さんに交渉し様々な書類の手続きや神奈川県にある母教会まで出向いて書類の手続きまでしてくださる。そしてこちらの要求に応じて何度も仮設計をし直してくれる。まさに微に入り細を穿つ仕事をしてくださる。本来私がしなければならない部分の多くを担ってくださり牧師としてかなりの負担が軽減された。この手の大きなメーカーだと私たちのような小さな規模の建築は、利益も小さく時間をかけることは損失に繋がるはず。しかし惜しみなく助けてくださる。しかも60年保証してくださるので建物に手抜きはできない。
 行き場所がない私たちの教会が石切チャペルを出なければならなくなった時、好条件で場所を提供くださったのは、すぐ裏隣にあるイベントホールだった。コロナ禍なのでどこにも貸す予定はないという。壊れていたスポットライト類を全部直し、ホールの殺虫、消毒、清掃して私たちに明け渡してくれた。どうしてクリスチャンではない人たちが、そこまでしてくださるのか? 人間の側には様々な理由はあるのかもしれないが、確かに主の働き以外に考えられません。かつてエジプトの王パロの心をかたくなにしたのも主であった。またバビロンに捕囚されていたイスラエルの民をエルサレムに帰還させ、しかも神殿建設を促し経済的にも助けたのは、異教の国ペルシヤのクロス王だった。誰が彼らの心を動かしたのか? 聖書には主がなされたことだと記録されている。
 内外から新会堂の為に用いて欲しいと献金や自作のポストカード、カレンダー、証本など送られてくる。主の働きは凄すぎる!感動しかない。

心のオアシス 2021年12月5日

 産みの苦しみの後には、それにも勝る喜びがくるように、私たちの教会は土地購入と新会堂建築という色んな意味で産みの苦しみの中にいる。しかしそれは大きな喜びへと変わるサインのようなものである。
 先週の日曜日の午前礼拝後、石切チャペルの裏手にあるイベントホールへ引っ越しをした。新しい会堂が与えられるまでの仮の宿である。土地を探すだけでも一苦労しているのに、一時的に使用するために妥当な大きさの部屋やホールを見つけるだけでも大変なことである。しかし神さまは、石切チャペルのすぐ隣にそれを用意しておられた。電気が入り、中を調べてみると、あまりにも備えられすぎていた。今まで以上に良い照明、音響システム、舞台、換気システム、広さ、そして日曜学校やヤングチャペルのできる部屋・・・しかもこのイベントホールのオーナーはコロナ禍では誰にも貸すつもりはなかったそうで、教会には日頃の付き合いもあるので好意的にお貸しくださった。借りるのは日曜日のみであるが、誰にも貸す予定はないので荷物などはそのまま置きっぱなしで良いとも言われた。あまりにも出来過ぎた神のシナリオである。
引っ越し作業は先週の日曜日、いつも礼拝に来られているメンバーが、バケツリレーで列をなして隣へと移動していった。あっという間だった。小学生、中学生、高校生、大学生、青年、中年、壮年の方々、すべての年代層の男女がお手伝いしてくださっていた。美しい主の共同体の姿を見せられ感動した。天国の一部分を垣間見せられたような気がする。そこではもはや、男女もなく、年齢差もなく、立場や職業も関係なく、一つとなって主を礼拝しお仕えするのです。
 恵まれる前にはサタンも必死に阻止しようとしてきますが、何も恐れることはありません。それ以上に主は力強く働いていてくださり、何の妨げにもならないのです。私たちの教会の歩みがそれを証明しています。エレミヤは捕囚の期間を「荒野で恵みを得た」と語ります。それは荒野が主の恵みを発見する所となるからです。そして確実に主によってアップグレードされていくのです。あーこれからも楽しみです!