礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2020年12月27日

 毎年、年末になり振り返ってみて思うことは、色々なことがあったということです。震災、洪水、人災、疫病、テロ、戦争など、ありとあらゆる危機が私たちの周りに周期的に起こり、連日のようにして各メディアが現実を描写することによって、人々の中に恐れと不安を確実にインプットしている。勿論、危機管理はしなければならないが、毎日を恐れながら生きることに何の得になるだろうか? 偏ったマスメディアの情報しか仕入れることができない人たちの中には、不安症になったり、鬱になったりする人たちが多いという。残念で仕方がない。
 実は様々な不安は、今に始まったことではなく、どの時代も同じような危機や困難に直面している。それでも聖書は、いつも私たちに希望のニュースを伝えている。旧約と新約聖書の中に365回も「恐れるな!」という言葉が出てくる。これはただの気休めではない。天地宇宙を創造された神を信じる者に与えられる神の具体的な助けがある。私も何度、この言葉に勇気が与えられ、立ち上がることができたことだろうか。そして今もリアルな神の助けを毎日与えられていることを実感している。
 この世にある喜びや不安は一時的なものです。人は、一時的な喜びを求めて一生懸命になると同時に、一時的な挫折に一生立ち上がることができないかのようにして絶望してしまいます。しかしそれらは“やがてきたるべきものの影”にしかすぎません。私たちがキリストの前に立つとき、それは一時的なものとしてではなく、“永遠”のこととしてやってくるのです。そして神を信じる人たちには、“永遠の生命”が与えられ、そこには愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制が伴います。そして信じる者はそこへ向かって進んでいるのです。
 イスラエルの民は、信仰の祖先であるアブラハムのときから今まで、神さまがどのように自分たちのことを顧みてくださったかを思い出しました。同じように、新しい年を迎えるにあたって、私たちもこの一年を振り返ってみましょう。指を折りながら、どんな小さなことでも、当たり前と思っていることでも、感謝してみましょう。困難に出会うたびに、神さまの誠実な御手があったことでしょう。それらを思い出すだけでも、すでに神から受けるべき祝福をすべて受け取っているのです。主の恵みを覚えていれば、私たちは常に前進することができます。よいお年を!

心のオアシス 2020年12月20日

 ある高校生が2019年のクリスマスのプレゼントとして現金を頼んでいました。するとクリスマスの朝、手紙を発見して爆笑することに…
この高校生の元に届いた、衝撃的な手紙の内容がこちらです。
<サンタ制度終了のお知らせ>
 2019年をもちまして、サンタ制度を廃止させていただくことを決定いたしました。2002年から開始いたしまして、17年もの間、愛され続けてきた行事でしたが、もう、夢と希望より現金を求める年齢になったと判断いたしました。品薄になるこの時期、先を見越して早々と準備したり、何軒も何軒もおもちゃ屋さんを探して手に入れたり、クローゼットに隠しておいたり、左手で英語を書いたり、あなたたちがサンタにあげたお菓子を食べたり、サンタのヒゲだといって綿を落としておいたり…。最近、一番苦労したことは、あなたたちの就寝時間が遅くなり、プレゼントをセットするために夜中に起きなくてはならないことでした。2人の子供のサンタを17回もできて、とても幸せでした。どうもありがとうございました。
 あなたたちが大人になり、子供ができた時には、ぜひ、この記録(私たち夫婦は17回)を越えてください。朝の子どもの反応、最高ですよ。
 2020年より、X’masプレゼントはパパからです。しっかりお礼を言うように。
 では、メリークリスマス。 ママより

 そこには現金1万円が添えられていたということですので、現金のプレゼントは継続しているようではありますが・・・子どもはいつしか夢よりも現実的なものを求めるようになります。それが成長の証といえばそうかもしれませんが、親にとっては少し寂しい話です。
 神さまは、緻密な計画の下、“今”という瞬間にもサプライズ届けてくださっているのに、今の環境や状況は嫌だから変えて欲しいと文句を言ってしまうことが多いように思います。今から2千年前に、神さまは私たちにビッグサプライズ・プレゼントをくださいました。それがイエス・キリストです。私たちを救い・希望・自由・安息・天国へと導くためでした。よきクリスマスをお迎えください。メリー・クリスマス☆彡

心のオアシス 2020年12月13日

 実話クリスマスに起きた奇跡「20ドルから始まった物語」の3シリーズの最終回・・・1971年のクリスマス。アメリカに住む青年ラリー・スチュワート(23歳)がレストランで無銭飲食をしたことから始まります。起業した会社の2度の倒産。その後勤めていた会社から解雇されて無職に。そんな状況の中、彼がクリスマスに20ドル札を貧しい人たちに配り始めると不思議なことが起こり始めた。翌年彼は長距離電話の会社を立ち上げ懸命に働きます。そして継続して毎年クリスマスにサンタの格好して20ドル札を困っている人たちに配りました。プレゼントすればするほど会社の業績が伸びていき、大富豪と呼ばれるまでに裕福になりました。それからも名前や身分を隠しながら毎年27年間プレゼント活動を続けたのです。サンタクロースの装いでプレゼントを配る姿から、彼はいつしか「シークレットサンタ」と呼ばれるようになりました。
 ラリーは、2006年にテレビカメラの前で突如、自分の正体を明かします。それは彼が食道ガンに侵されていて、シークレットサンタを続けていくことができないということと、思いやりの輪を広げていって欲しいというメッセージを伝えるためでした。そして2006年の活動を最後に次の年、彼は世を去りました。それからその年のクリスマス、「シークレットサンタはいなくなってしまった……」と悲しむ人々の前で奇跡は起きたのです。街に何人ものシークレットサンタが現れたのです。27年間、ラリーが行なってきた思いやりの活動に共感し、彼の遺志を継いだ人たちが新たなシークレットサンタとなり20ドル札を配ったのです。そしてシークレットサンタ活動は現在も続いています。
 47年前のクリスマスに20ドルから始まった親切が、一人の人生を救い、その親切が何十倍、何百倍にも大きくなって、今もなお広がり続けているのです。もしかしたら、あなたが何気なくしてあげた親切が、今ごろ誰かの人生を大きく変えているかもしれません。神さまの私たちに対する最大の親切は、イエス・キリストをこの地上にプレゼントするということでした。その愛の行為によって、救いが全世界に広げられたのです。

心のオアシス 2020年12月6日

 実話クリスマスに起きた奇跡「20ドルから始まった物語」の続きです。
 三度目のどん底へ・・・1971年のクリスマス。アメリカに住むある青年がレストランで無銭飲食をしたことから物語は始まります。青年の名前はラリー・スチュワート(23歳)。起業した会社が、二度も倒産。膨大な借金をかかえて2年後、ラリーにとって三度目の大きな試練が訪れました。勤めていた会社の経営が悪化して解雇されたのです。途方に暮れながら街を歩いているとポップコーンの売店が目にとまり、彼はポップコーンを注文します。しかし、手渡されたのは注文とは違うポップコーンとおつりでした。ふと店員さんを見ると、暗い表情をしていて何かに困っている様子でした。不景気で売店の売り上げが落ち込んでいたのです。そこで、ラリーは店員さんに20ドルを渡そうとしました。店員さんは受け取れないと断りますが、ラリーは「これはクリスマスプレゼントですよ。メリークリスマス!」と言い、20ドル札を手渡します。ちょうどその日はクリスマスだったのです。すると、店員さんは嬉しそうに『ありがとう!』と笑顔で20ドル札を受け取りました。そして、この店員さんの笑顔がラリーに思いもよらぬ行動を取らせます。
 その後、ラリーは銀行に行き、なけなしの預金を全額20ドル札でおろします。それから赤い服に赤い帽子、白いオーバーオールをまといサンタクロース姿になった彼は、ホームレスや貧しい人たちにおろした20ドル札を『メリークリスマス!』という言葉を添えて配って回りました。無職のラリーにとって20ドルは大金だったに違いありませんが、無銭飲食を救ってくれたのも、銀行強盗を思い止まらせたのも、困っているたくさんの人たちを笑顔にしているのも、『すべて20ドルのおかげ』と感謝を込めて配り続けました。奥さんには黙っていましたが、当然すぐに気づかれます。ラリーは怒られるものと思っていましたが、奥さんはラリーにこう言います。「あなたを誇りに思います」と。
 翌年再び会社を立ち上げ、20ドル札のプレゼントする活動も毎年続けました。すると、不思議なことが起こり始めるのです。(次週へ続く)

心のオアシス 2020年12月29日

 今日からアドベント(待降節)。それはイエス・キリストのご降誕を待つ期間であることを示しています。今回から3回に渡って、実話・クリスマスに起きた奇跡~20ドルから始まった物語~をお届けします。
 1971年のクリスマス。アメリカに住むある青年がレストランで無銭飲食をしたことから物語は始まります。青年の名前はラリー・スチュワート(23歳)。彼は若くして化粧品会社を起業したが、すぐに倒産し、路頭に迷うはめになります。8日間も食事をしていなかった彼は空腹になり、目に入ってきたレストランで食事をします。しかしホームレスだった彼に所持金はなく、19ドル(約2000円)ちょっとの飲食代でしたが支払うことはできず、警察に突き出されることを覚悟しました。その時「20ドル札、落としましたよ」と、ラリーに声をかけてきた男性がいました。それはお店の店員さんでした。ラリーは自分のお金ではないことは分かっていましたが、その20ドルを受け取り、無事に支払いを済ませて、その場のピンチを乗り切ることができました。
 その後、ラリーは再び奮起し、警備会社を立ち上げて懸命に働きます。結婚をして子供もでき、平穏な日々を送っていましたが、起業から5年後の1977年の年末に倒産し、莫大な借金をかかえました。追い詰められたラリーは銀行強盗をしようと、ピストルを懐へ隠し持ち銀行に入った瞬間、窓口にあった20ドル札が目に飛び込んできました。その時、彼は6年前のクリスマス、幸運にも20ドルを手に入れ、難を逃れたあのレストランでの出来事を思い出します。その時、「あれは本当に店員さんの勘違いだったのだろうか?」と疑問が生まれ、それを確かめるために彼はあのレストランへ行きます。そして、20ドル札を渡してくれた店員さんを見つけ尋ねると、店員さんは『クリスマスはみんなが幸せになれる日なんですよ』と笑顔で答えます。ラリーはこの時初めて、自分が店員さんから20ドルを恵んでもらっていたことを知ります。あの20ドル札は店員さんのポケットマネーでした。ラリーは店員さんに感謝を告げると、改心をして再び一生懸命に働きはじめました。(次週へ続く)

心のオアシス 2020年11月22日

 人の生き死には、誰にもわからない。いつ生まれ、いつ死んでいくのか、どの時代に、どの親の元で、どの国のどの人種として生きるのか、そしてどのように死んでいくのか。それは神のみぞ知る世界です。創造主なる神さまは、絶妙なタイミングで、その時代その時代に必要な存在に命を与えられています。そう考える時に、長い歴史の中で、今この地上で出会っている人たちは、たまたま生きている期間が重なっているだけではなく、緻密な神の計画による出会いであると考えることができる。
 私の人生も振り返ってみると、確かに折りにある助けがいつもあった。「この人と出会っていなかったら、今頃どうなっていたのだろうか?」と思わされるようなこともある。本人は、気付いていないとは思いますが、どのような人も、年齢や性別に関係なく何らかの影響を与えながら生きていることは確かなことです。
 先日、中原秀子さんが94歳で天に召されていった。他教会のメンバーではありましたが、不思議な出会いがあり、私たちの教会の開拓初期を支えてくださったお方です。許可を得て、当時84歳であったにも関わらず、KCFの午後の礼拝に出席され、平日には聖書セミナーをこの方の希望でスタートした。当時奈良市内で礼拝をしていた時、夏場の暑い時期であったにも関わらず、自ら希望して教会のチラシを住宅街へ一緒に配ってくださった。それらのことを走馬灯のように思い起こしながら、開拓初期に、秀子さんによってどれほど励まされたか分からない。
 かつてマザー・テレサに、「あなたのしていることは水の一滴のようなことだ。どうしてもっと力のある社会に働きかけて、インドという国を良くしないのですか?」と尋ねる人がいました。その人に対してマザーはこう答えました。「海の水も一滴の水から成り立っているのですよ。」
 私たちの働きや存在は、どんなに小さくとも、その一滴が寄り集まらなければ、神さまの歴史は完成しないのです。「わたしたちをほかにしては彼ら(信仰の偉人たち)が全うされることはない。」(へブル11:40)
あなたも神の大切な計画の一人です。上を見上げて歩みましょう!

心のオアシス 2020年11月15日

 私が小学校低学年だった時に、担任の先生がこんな話をされたのを覚えている。「水の中でおぼれている人を助ける時は、しばらくそのままにしておいて、力尽きた時に手を出しなさい。もし、溺れている人が自分の力でなんとか助かろうとバタバタやっている時に他の人が手を出すと、しがみついてきて助けようとした人までも水に引きずり込まれて溺れてしまうから危険です。」共に溺れないようにとの小学生に対してのアドバイスだったのだと思います。
 溺れている人が自分は駄目だと思いもがく力も失ったときに、はじめて救いの手を差し伸べることができるというのは、神と人との関係の中にも似たようなことが言えます。私たちが「自分の力で何とかやっていける」「誰の助けも必要ない」「自分はそんなに悪い人間ではない」と考えながら生きている間は、神さまも助けることができないということです。肩ひじ張って生きていくよりも、神さまの前に敗北宣言をした方が断然楽になれます。イスラエルの王となったダビデも、律法に生きていたパウロも、感情の赴くままに生きていたペテロも、「わたしは罪人です。助けてください!」と告白し、神さまの助けをいただいた人たちです。
 あるクリスチャンの方が、立ち食い蕎麦屋さんで、蕎麦を食べようとした時に、路上で生活していて頭も服もドロドロで悪臭を放っている人がお店に入ってきた時、すぐその場から離れようとした瞬間に、「あなたの心の方が臭いではないか」という声を聞き、自分の心を探ってみると、人を批判する心、許せない心、嫉妬、妬み、そしり、不平不満など、誰も近づかないドロドロしたもので満たされている自分を見た時、その場から去る気持ちが失せ、このような醜い心の中に入ってきて触れてくださったイエスさまの愛と恵みに感謝し涙が溢れてきたというのです。 
 神さまの前には「自分はあの人よりマシだ」という言葉は通用しません。みんな同じ罪人です。そして裁かれなければならない存在なのです。パウロのように「わたしは、なんというみじめな人間なのだろうか。神以外に救いない!」と認め告白するとき、すぐに助けがきます。

心のオアシス 2020年11月8日

 先日、関東に住むある方から相談のお電話をいただいた。内容は、どうしても義父義母を許すことができなくて、夫や子どもに愚痴ってしまい、何とか心を平静にしようと努力はしているのですが、自分に謝ってくれないご両親をどうしても許すことができなくて苦しいというのです。
この手の相談は、一筋縄ではいきません。なぜなら、苦しめる相手がいて、本人の複雑な感情があるからです。どんなに聖書のみ言葉から、説得しても、また心理学的アプローチをしても、そう簡単に納得できるものではないのです。しかし牧師には奥の手があります。それは聖霊さまに委ねることです。電話の後、その方からメールがきました。「小崎先生、昨日はストンと胸に落ちるお言葉をいっぱいありがとうございました! それまで悶々としていた自分ですが、先生とのお話しの後には怒りがスーッと消えて、2時間も昼寝が出来ました! 本当にありがとうございました。」今まで怒りをずっとため込んでおられ、私にも何度か電話をしてこられていたのですが、まだ怒りは収まらなかったようです。しかし、私が「この方に聖霊さまが直接届いてください」と祈り心をもってお話しをすると、同じような言葉であったにも関わらず、本人に不思議な変化が与えられたのです。
 30年も牧師をしていると、様々な相談を受けます。そして牧師に相談してくる内容のほとんどは、自分では解決できないから持ってくるのです。そのような問題を、同じ人間である牧師が解決することは不可能なことですが、世のカウンセリングよりも圧倒的な強みは“聖霊さま”の働きに委ねることができることです。不思議なようにしてその心に働いてくださるということです。是非とも祈ってみてください。路頭に迷った時、許せない人がいる時、問題がある時にこそ、「聖霊さま、私を助けてください」と叫んでみてください。その祈りに答えられていることを必ず後の日に気づくでしょう。そして「神の手の中にあって、万事は最善に導かれている」という信仰を働かせながら歩むならば、人生どんなことが起こっても、人知では計り知れない平安が与えられるでしょう。

心のオアシス 2020年11月1日

 第二次世界大戦中にナチスに捕らえられて収容所に送られ、ガス部屋で殺される恐怖を絶えず味わいながら、九死に一生を得て終戦を迎えた人物の中に、ヴィクター・フランクルというオーストリアの精神科医がいます。彼が書いた「世の霧」「死の愛」という本の中には、この収容所体験をもとに、極限状態に置かれた人間が、いかにして生き続けることができたかについて書かれています。同じ過酷な状況のもとにありながら、最後まで生き延びた囚人もいれば、力尽きて死んでいった人々もいましたが、その両者を分けたのは、決して体の頑強さではなく、「希望」や「夢」の有る無しでした。収容所の中にいて、夢を持つなど、実現不可能と思えるものでしたが、その希望を持ち続けた人々のみが、生きて終戦を迎えることができたというのです。この事実から、人間を生かすものは「意味」であるという結論に達したとのことでした。つまり、自分が生きていることに意味を見出せている間、人は生きてゆく強さを持つけれども、その意味を喪失した時、人は生きる希望と勇気を失うというのです。仕事一筋だった人が定年退職して、何もしなくなった時から、急に老いたり、病気になったりするケースが多いのは、まさにそれであろう。「退職したら、趣味をしよう」「体力づくりをしよう」「聖書の勉強をしよう」「教会に行こう」などの小さくても目標があければ良いということでしょう。
 世の中的には、目標や夢があれば、それが一時的には生きる活力になるでしょう。しかし、“永遠における人生の意味”があれば鬼に金棒です。それは永続的な力になります。私たちは神の計画が進められるため神に造られ存在しています。それが私たちの生かされている意味なのです。やがていつかは“永遠のいのち”なる天に迎えられます。Ⅱコリント4章には「軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させる」とある。天国は、想像絶する圧倒される場所であり、そこは、この地上で受けた傷や悩みや問題が、いかに小さなことだったかを悟ることができる場所です。今から天国が楽しみです!

心のオアシス 2020年10月25日

 日本にもドッキリやモニタリングと称した番組はあるが、海外にもある。先日YouTubeで、涙腺崩壊する海外ドッキリを観た。それは、「もしも赤ちゃんがいる母親がお金をレジから盗んでいたら??」ということで、それを目撃した人がどのような反応をするかということをモニタリングするというもの。内容は、スーパーのレジで赤ちゃんを連れた若い母親が会計をしているシーンから始まる。お金を支払おうとしたところ、店員さんが「レジ袋がなくなったので、取ってくるので少々お待ちください」と言って、レジを閉めず半空き状態でその場を離れる。そこでこの仕掛け人の母親は、そっと手を伸ばしてレジからお金を盗んだ。しかしその様子をターゲットである後ろの女性が目撃していました。そこでこのようなやり取りがなされるのです。女性「あなた一体何をしているの?」母親「お会計が20ドルだったのよ」女性「知ってるわ。あなた今レジからお金を取ったでしょ?」母親「わかっています。でもお金が足りないんです」女性「そんなことはどうでもいいわ。お金を元に戻しなさい」母親「すいません。でもこれは・・・」女性「ダメよ!」それからのこの女性の行動は驚くべきものでした。女性「私があなたにお金をあげるから、今すぐお金を戻してちょうだい。それらを買わなきゃいけないのなら、わたしがお金を払うから」この女性は、この母親を助けるために、自分の財布を取り出しお金を渡しながらこう言います。「あなたお金が必要なの?」母親「本当にありがとうございます・・・」女性「心配しなくて大丈夫よ。みんなが通る道よ」そしてレジの店員が戻ってきても密告せず、「もしレジを離れるときはレジを閉めておくべきよ」と諭すだけでした。ここでレポーターが登場し、ネタばらしがされて、この女性に聞きました。「レジの店員が戻ってきたとき、あなたは何も言いませんでしたね?」女性「彼女に捕まって欲しくなかったからよ。人生とは、ときどき大変なものよ」
 盗みをしたら罰せられて当然です。しかし、この女性の言動を通して、父なる神さまが私たちにしてくださったことがダブって見えて感謝せずにはおれません。私たちは創造主のことを忘れ、自分中心に生きています。地獄行が決定しているようなものです。でも、その罪に対する支払いをイエスさまが身代わりとなって十字架で支払ってくださったのです。