礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2020年8月30日 

 先週の礼拝の特別賛美スペシャルは、ヤングチャペル(中高生)有志たちによるご奉仕だった。牧師として、微笑ましく思いながら聴いていた。歌も演奏も完璧ではないにしても、素晴らしいものだった。(8月23日のYouTubeにもアップしているので、是非ご視聴ください。) 実はその日、プロのシンガーが二人出席していた。礼拝後、一曲歌っていただいた時に、このようにお話しされた。「今日は、中高生の賛美に大変感動しました。自分が歌い始めた頃を思い出しました。心洗われる思いでした。」と涙声になりながらの様子に、お世辞ではなく、本当に触れられたことがわかった。そして帰る時には、その中高生たちにお礼を言って帰られた。彼らにとって、大きな励ましになったことでしょう。
私が高校生の時、教会の夏のキャンプだったでしょうか、ゴスペル・タイムのような時間があって、希望者がその場で歌うという企画があった。いくつかのレベルの高いバンドが歌う中で、一人で、しかも始めたばかり?と思えるようなたどたどしいギターの演奏で歌った少年がいた。でもそれは、それまでに聴いた賛美の中でも一番心に残り、感動的だったのを今でも忘れることはできない。それは、必ずしもノーミスで、完璧で綺麗な演技や演奏だけが人々に感動を与えるものではないことを学んだ瞬間だった。
 ある陶器師の家に、不格好で粗悪な陶器がありました。その横には、きれいに造られた陶器がたくさんありました。しかし、その主人は水を汲みに行くたびにその不格好でヒビの入っている器をかついで行くのです。きれいな陶器たちは嫉妬し、不満を表しました。不格好な陶器自身も理解できませんでした。「あんなにきれいな器がたくさんあるのに、どうして水を汲むときは、私を連れて行くのですか?」と不格好な陶器が聞くと、主人は微笑みながら、こう答えました。「きみとこの道を歩くようになって、随分時が経ったね。あの道端に名もなく美しく咲いている赤い花、黄色い花を見てごらん。どうやってあの花が咲いたのか、きみは知っているかい? きみに水を入れて歩くたびに水がもれるから、それで種が芽を出し、花を咲かせて、あのような美しい花の道ができたのだよ」不格好な陶器は、主人の深い意図がようやく分かりました。
 だから心配無用。欠けだらけでも、あなたは神の手の中です。

心のオアシス 2020年8月23日

 パウロが活躍していた当時、アテネは哲学の街として広く知られていました。しかし、どんなに偉大な人物や哲学も、人類の罪と死という問題に対する答えは得られませんでした。例えば、エピクロス派の快楽主義の哲学者たちは、罪など考えないで人生を楽しむようにと教えました。しかし、いくら快楽が大きくても、それに伴って必然的に罪責感が生じ、結局は苦々しい心が生じるのは避けられませんでした。その反対の立場を取っていたストア派の禁欲主義の哲学者たちは、できるだけ罪を犯さずに身を慎むようにと教えました。しかし、いくら高尚な人格と教養を兼ね備えた人でも、理想的な自制は簡単なことではなく、むしろ全く不可能であることが、はっきりと証明されてしまいました。
 そのように絶望的な人間にとって、キリストの救いの方法は、誰にも想像もつかなかったものでした。罪の問題を解決する唯一の処方は、神の子イエス・キリストの十字架でした。イエスさまを信じることによって救われ、聖霊の力によって生きることが、確実に罪に打ち勝つ道でした。イエスさまが、死からよみがえられ、生きておられるので、罪の結果である死を恐れる必要はありません。イエスさまが御手で私たちの現在と未来を捕らえてくださっているので、人生は生きる価値があります。
                     (イ・ドンウォン著「もう一度聞くべき最初の福音」より抜粋)
 世界のどの国の人たちでも、次の4つの悩みを持つということが統計的に出ているそうです。一つは「空白感」。何をしても、何を手に入れても、満たされない心。二つ目は「孤独感」。友人や家族がいても自分を理解してもらえないという虚しさ。三つ目は「罪責感」。自分の過去に犯した悪に対して、今も縛られ苦しんでいて、心のどこかで赦されたいと願い生きているというのです。そして四つ目は「死に対する恐怖」。自分が死んだらどうなるのか? どこへ行くのか?という不安。
 私たちは、これらの悩みを消すために、哲学、善行、宗教、仕事、財産、名誉、学歴、地位、快楽などを求めながら生きています。一時的には解決したように思えても、満たされないまま生きているのが現実です。なぜならこれらの悩みは“霊的な不足”からくるものだからです。「神」でしか満たすことができない領域があるということを認めることが充足感のある人生の始まりなのです。

心のオアシス 2020年8月16日

 新約聖書13の書簡を書いたパウロの手紙は、学べば学ぶほど、奥の深さと説得力の強さを感じる。彼はエルサレムにて高名なラビであるガマリエルの門下で学び、当時のギリシア哲学にも触れていますが、哲学とキリスト教の教えを巧妙に混ぜた教えが多かったため、当初、それらの哲学を「むなしいだましごと」と批判した事もある。しかしやがて、むしろ哲学を積極的に利用しながら教義を理論化・体系化することによって、キリスト教の真理性や正当性を効果的に教えるようになりました。
それによって、当時はびこっていた異端や異教と対決する立場が優勢になったと言われています。
 先週の聖書箇所であったⅠコリント15章では、「肉の体と霊の体」について、様々な手法を用いて説明している。イエスさまがヨハネ福音書12章で言われた「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」という言葉を、深く掘り下げています。神さまを信じ受け入れたら、この肉と霊の部分の葛藤が始まる。これはⅡコリントでパウロが語っている「天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋(肉体)の中で苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからである」ということであろう。この地上での人生は、“肉と霊”の部分の共存を神さまは私たちに求めておられるが、一粒の麦ならぬ肉が死んだなら、“霊”の部分が100%生きるようになるのです。それを巷では“死”と呼びますが、創造主を信じる人たちにとって、“死”は恐ろしいものではなく、“永遠に霊に生きる世界”(天国)への入り口にしかすぎなくなるのです。そして肉によって生きている時には分からないことも、「主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはない」(Ⅰコリント15:58)と確信することができるから、この地上でのあらゆる苦労や涙を乗り越えていくことができるのです。  
 やがて永遠の霊の世界に移された時、今までの全てのことが、神さまの愛であり、神さまの計画の緻密な計算だったのだと悟ることでしょう。 

心のオアシス 2020年8月9日

 私は、アメリカの大学に留学していたことがある。そこで勉強に対する姿勢に関して考えさせられたことがあった。
 それは私が3年生の時に、リサーチペーパーというクラスを受けていた時のことである。テストは、自分が書いた文章をタイプで打って提出するというものでした。その試験には提出期限があって、期限が1日遅れるごとに、一段階ずつ成績が下がっていくという厳しいものでした。私は、期限の当日までに手書きでペーパーを書き上げたのですが、まだタイプで打っていませんでした。そこで、タイプライターを持っている人を探しました。そして見つかったのは、同じクラスを取っている人だったのですが、親しいわけでもなく、話もろくにしたことがない人でした。彼の部屋で、一文字一文字ゆっくりタイプしている私を見て、「俺が打ってあげるよ。今日が期限でしょ・・・」と言って、私の原稿を取って打ち始めたのです。私は「君はペーパーはできたのか?」と問うと、「まだ」と言うのです。「えっ? それじゃ自分で打つから・・・」と言いますと、彼は「俺が打った方が早いだろうし、俺のは、その後打つから大丈夫!」と言って、結局2時間近くかけて打ってくれたのです。そして、何とか提出期限の時間までに出すことができました。後日、そのペーパーが戻ってきたときに、私のペーパーには5段階のうち“B”という成績が書かれていました。何気にタイプを打ってくれた彼のペーパーを見ると、なんと“F”(落第点)でした。私はそれを見たときにショックでした。「親切にしてくれたのに、当の本人は落第?」期限までに提出できなかったのかもしれません。私は申し訳なくて、彼に言葉をかけることはできなかった記憶が鮮明に残っています。
 その時から、私の“勉強”に対する姿勢が変わりました。勉強だけではなく、この世の中には、他者を蹴落として自分がのし上がるという社会構造があります。しかしパウロ流に言うならば、どんな地位や成績、能力があったとしても、もしそこに“愛”がなければそんなものはゴミ同然なのかもしれません。考えさせられた瞬間でした。God is agape.

心のオアシス 2020年8月2日

 徳川幕府の時代が終わりに近づいていた1853年、当時鎖国状態にあった日本に開国を求めやってきたのは、ペリーの率いる黒船艦隊でした。そのころ、キリストの福音を伝える宣教師たちも次々とやって来て、神奈川、東京、長崎にと各地で宣教を始めました。
 ある日、東京湾の海の上を一隻の外国船が走っていました。一人の船員がデッキの上の手すりによりかかり熱心に聖書を読んでいましたが、急に涼しい風がサーっと吹いてきて、聖書をパラパラとめくり、あっという間に両手から離れて、海の上に落ちてしまいました。見る見るうちに聖書は船の後ろのほうに遠ざかり、沈まないで波間をぷかりぷかりと、浮かんでいます。青年は誰かの手に拾い上げられることを祈りました。
 その聖書を海岸で発見したのは、九州佐賀の鍋島藩の家老であった村田若狭という侍でした。どうしてこんなものが海の上を流れていたのだろうと思いながら手に拾い上げてみると、ずっしりとした重い本でした。開いてみても日本の文字ではなかったので理解できません。彼がどんなことが書いてある本なのかを色々な人に問い合わせてみると、なんとその頃、読むことを禁止されていたキリシタンの本であることがわかりました。しかし何とかして内容を知りたいと思い、中国語を読むことができる若狭は、わざわざ家来を中国の上海に送って、中国語で書いてある同じ本を探させました。そしてやって手に入れたのが中国語の聖書でした。読みだすと、大変おもしろくて、くり返して読み続けている内に、この聖書について説明をしてもらいたくなり、長崎にいたオランダ人宣教師・フルベッキ博士から手ほどきを受けました。
 そして1866年5月20日のペンテコステの日に、村田若狭とその弟の阿部三右衛門の二人が洗礼を受けました。この二人こそ、日本における最初のクリスチャンのグループの中に入った人たちなのです。若狭が1872年に召天するまで、その子供たちや、友人たち、家のお手伝いさんたちの多くが救われて、豊かな実を結んだという実話であります。
 どんなマイナスも、必ずプラスになる神さまの計画があるのです。

心のオアシス 2020年7月26日

 先日、ある方からこのようなメッセージが届いた。「今まで、許せない人を許すことができなかったのですが、諦めて進んで許すことをしようと思っています。」全体の文脈からいくと、この方の言う「諦めて」というのは、消極的な意味ではなく、「自分に死ぬ」という積極的な意味だと捉えることができます。そして最後に「神様を見ると、こんなに素敵な気分になるなんて思いもしなかったです。」と書かれていた。
 聖書によると、人は魂(精神=知情意)・肉・霊の3つから構成されているということです。多くの人は、魂と肉の部分の存在は認めますが、霊の領域に関しては知らないようです。だから魂と肉を生かそうと一生懸命になるのですが、それが逆に苦しみを増大させる結果にもなっています。イエスさまはこうおっしゃいました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」(ルカ9章23~25節)これは、「自分に死んで、主に従う」という意味です。「神無し」の魂と肉に、神の命の息が吹き込まれました。それが「霊」です。キリストを信じて結ばれたなら、古い自分から新しい自分・新しい命への書き換えが始まり、「肉と霊」の対立・葛藤が起こります。その時にこそ、古い自分にしがみつくのではなく、手放すのです。そして、神に委ねて歩むのです。「委ねる」とは、主の御言葉と霊に積極的に従っていく、ということです。
 自分に死ぬということは、人間の一生涯のテーマです。難しいですが、実は簡単なのです。誰かを批判したり、不平不満や、自分の思いや願いがニョキニョキ出てきた時が、一番自分に生きようとしている警告サインだと考えたらよいでしょう。その時にこそ、「イエスさまなら、どうされるか? どう考えらえるか?」ということを思い、自分に死ぬことによって、聖霊さまによって安定した心が造られていくのです。

心のオアシス 2020年7月19日

 「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(Ⅰコリント10章13節)
 この聖書の言葉に教えられることが3つある。一つは、自分が受ける試練や誘惑は、自分だけではないないということ。私たちは苦難を通ると、「自分はいつもこのような目に遭う」「自分だけが不幸だ」と思い込んでしまいやすいが、実は、あなただけではないということ。二つ目は、神さまは、耐えることのできない試練を与えることはない、ということ。試練は、必ずしも私たちの蒔いたものの刈り取りだけではなく、私たちの信仰のテストのため、また神さまの存在を気付かせるために、神さまは、あえて私たちが試練の中を通ることを許可されることがある。ヨブ記にも書かれているが、完全に倒れてしまうような苦難は与えられないのです。そして三つ目は、耐えることができるように脱出の道も必ず備えてくださいます。脱出の道は千差万別で、ある時には、他者を用いて助けられることがあるし、ある時にはある出来事を通して逃れることができることもあります。何の助けもないと感じる時に、神を信じる者の特権は、最後の砦があるということです。それは神の言葉を握り、神のみ翼の陰に逃げ込むことができるということです。
 中国のアリババ社の創業者であるジャック・マー氏は、有名大学を出たわけでも、IT分野を専攻したわけでない、貧しい家庭で育った平凡な英語教師でした。そんな彼が創業15年でオンラインマーケット世界第一位になった。彼の成功の秘訣は「お金、技術、計画」の3つがなかったことだったというのです。持っているものがないから、道が閉ざされるわけではありません。神さまは、エジプトで奴隷であり、裸の難民であったイスラエルの民を乳と蜜の流れるカナンの土地に導き入れられました。何もなかったからこそ、謙遜に祈り、神さまに頼る以外なかったのです。信仰によって生きることは、無限の可能性を引き出します。

心のオアシス 2020年7月12日

 ガッツ石松さんは、伝説のプロボクサーです。1974年に世界チャンピオンになってから、5度目の防衛戦のときでした。慢心してしまい暴飲暴食のため、体重がどんどん増えていったのです。防衛戦3ヶ月前は、なんと体重が19キロもオーバー。さすがに反省し、過酷な減量を開始するのですが、10日前にまだ10キロもオーバー。飲まず食わず、ロードワークなどで、1日1キロ落としていき、2、3日前になると、階段を上る力もなくなるほど苦しんだそうです。口が渇き、唾液が飲み込めず苦しむと、付き添いの若者が背中をさすりながら泣いていました。「彼も俺に夢を託している」と実感し、その後、軽量をパスして、右アッパーによる14回KОでベルトを守りました。彼は言います。「ひとりではチャンピオンになれない。みんなの支えがエネルギーになりました」
 ガッツ石松さんは、子供の頃は、自分勝手なガキ大将だったそうです。体の弱い父親は定職がなく、母親が力仕事で家計を支えていました。兄弟は4人、家は貧しくいつも腹をすかせていました。周囲のさげすみの目に怒りをもち、食べるために、他人の畑から野菜を盗みました。転機となったのは、中学2年のときに問題を起こし、家庭裁判所に父親と行った帰り道の出来事です。生まれて初めて、ラーメン店に入りました。父と子、2人で1杯だけ頼んだラーメンを、このとき自分ひとりで食べてしまいます。すると、父が残りのスープに水を足して飲み干したのです。「あっ!・・・」父親の空腹にさえ気付かない無神経さに腹が立ち、泣きたくなりました。そして、このときに少年は決意するのです。「悪さをやめて、両親を貧困から救ってやる!」それがボクシングを志す動機となりました。ガッツ石松さんがチャンピオンになれた背後には、家族、ジムの人たち、みんなの支えがあったからです。
 私たちも、夢が叶うとしたら、それは誰かが支えていてくれるからです。そして私たちの誰かの助けの背後には、創造主なる神さまのご配慮が必ずあるのです。人生を支えてくださる神さまを知る人生と知らない人生とでは、大きな違いが出てきます。是非、新たな発見を!

心のオアシス 2020年7月5日

 本日から堺チャペルは、新しい場所で再スタートする。先週の日曜日の夕方から、堺チャペルの引っ越しを始め、何かと忙しい一週間でした。日曜日は3回のメッセージを、場所を変えて行なっているので、気力的にも体力的にも、その後の引っ越し作業は、無理だと思っていた。大きな物を分解して、またそれを組み立て直すということが、私にとってとてつもない作業に思えた。トラックもないので、乗用車数台で、何度も往復するしかない。しかも新チャペルの二階への階段を何度も上り下りする必要がある。結果は“何とかなった”でした。しかも不思議なようにして助け手が何人も与えられ、知らない間にすべてが分解、車に効率よく積まれ、往復もすることなく、気付いたら引っ越しが終了していた。
 新チャペルの改装は1週間しかない。電気工事、エアコン、壁、床、音響、防音、イスなど、最低限やらなければならないことがあり、低コストでそんな短期間でやってくれる業者さんがいるのか?疑問であった。結果は“何とかなった”でした。先週の仕事がたまたまキャンセルになったインテリアの方がお手伝いくださることになり、友人牧師も奈良から何度も駆けつけて、私からの丸投げ仕事を快く引き受けてくださった。イムさんの知人やお客さんまでが、寄ってたかってお店の引っ越しを手伝ってくださっている。これらは、神が遣わされた方々だと確信している。主の教会をお手伝いくださる人たちは、必ず祝福されます。それは「イスラエルを祝福する者は祝福される」という法則があるからです。
 旧約聖書の中に、「主が戦われる」という記事をよく見かける。イスラエルの戦士はいるのに、戦われるのは「主」とは、どういうことなのだろうかと、今までずっと考えてきた。イスラエルは戦わずして追ってくるエジプトの軍隊が、全員水没して助かるとか、エリコの城壁の周囲を行進し、大声を出しただけで城壁が崩れるなど、不思議なことが多く記されているが、今回、その一部を垣間見せてくださったような気がする。
 神にしか頼ることができない窮地に追い込まれてこそ、人のやり方ではない神の御業を見ることができるのでしょう。栄光在主。

心のオアシス 2020年6月28日

 私の人生を振り返ってみると、献身してから何故か10年前後の周期で、何か大きな出来事が起こっている。長女の誕生と同時に献身してから十年後に牧師按手礼を受け、それから十年後、20年仕えてきた母教会である大和カルバリーチャペル(神奈川県)を離れ、関西で開拓教会をスタートしました。それから十年後、何が起こるか楽しみにしていましたが、やはり期待通り起ころうとしています。3年前にスタートした堺チャペルを移転して、来週から新たなるスタートをします。そして、石切チャペルも、いずれは出なければならない状況になっています。次なる場所を祈り考え始めていますので、今年の移転もありえます。
 私は献身した時には、小さな群れからの教会開拓はチャレンジしたい気持ちはありましたが、ゼロ開拓は、正直「したくない」と思っていました。ところが聖書学院を卒業後、すぐにロスアンゼルス郊外のラグナヒルズという場所で、ゼロ開拓のために派遣された。そして10年前には自ら志願してしまい関西に来てゼロ開拓。そして3年前に新たな教会を堺に開拓。自分の意志や願いとは違う道が開かれていっている。しかしある時期から「自分の人生は神実現のため」という思いが入った時から、自分の願いではなく、神さまの願いが成されていることに喜びを感じるようになった。勿論、自分の願いや計画がないわけではないが、それ以上に神さまのお心がなされる方が、もっと安心できることもわかった。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)この境地に達すると、マイナス的な出来事が起これば多少の動揺はするが、すぐに気持ちを切り替えることができるようになる。アブラハムやモーセの気持ちも、少し理解できるようになった。
 私はどちらかというと、安定を求め、あまり変化を好まない性格ではあるが、神さまはそうはさせてくださらなかった。やはり神さまのご計画のみが進められていることを感じさせられる。そしてその流れに委ねることを神さまは私たちに求められていることなのです。
 「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。」(詩篇55:22)