礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2020年4月26日

 聖書を読んでいて、「どうしてこのような記述があるのか?」「何故、愛なる神がこのようなことをされるのか?」「これでも神の計画なのか?」と思えるような箇所が多々あります。今も昔も、聞き心地の良いものは受け入れやすいが、現代の私たちでも、受け入れ難いことが、イエスさまや旧約聖書に登場する預言者たちによって語られることがある。これは人間の側の都合で聖書が書かれているのではなく、神が主体となっているからです。しかしながら、当時の政治的背景や文化、風習、習慣などを、考古学分野、また歴史的事実に基づいて調べていくと、かなり解決することや納得することができます。それでもわからないことは、神さまの立場、気持ちになってそこを読むと見えてきます。それでもわからなければ、祈って待つことです。
 私は、整理整頓は好きですが、書類が積み重ねられていくことがあります。ある時、家内が私の家の色々なペーパーが無造作に置かれている机の整理をしてくれました。(私は、どこに何があるのかは把握しているつもりではあったが・・・)複数のファイルの箱が作られ、「マニュアル関係」はこのファイルで、「手紙関係」はこのファイル、「教会資料関係」はこのファイルなどと種類別に作られ、書類がそれぞれに仕分けしていかれました。しかし最後に、どのファイルにも属さないペーパー類が残りあふれて、結局は片付かないわけです。そうしますと、そのような書類の行くファイルが作られました。それは「理解できないファイル」という特別な箱でした。どこにも所属しない不明の書類は、この「理解できないファイル」を見れば入っているということなのです。これで机の上はスッキリしました。
私たちの人生には、理解不能と思えることが多くあります。理不尽なこと、不条理なことなど、私たちがわからないことは、「理解できないファイル」を作って、そこに入れて置くのです。これは神に信頼することができる人のみに与えられている特別なファイルであり特権なのです。
「わが助けは、天と地を造られた主から来る。」(詩篇 121:2)

心のオアシス 2020年4月19日

 「牧師の喜びって何ですか?」と問われるならば、「神さまの愛や恵み、そしてイエス・キリストは今も生きて働いておられることを伝えること。そしてそれが誰かの心に届いて、受け入れてくださる時。更に信じ受け入れた人たちの人生が変えられたという報告を聞く時」と私なら答えるでしょう。「何故、牧師になったのですか?」と問われたことがあるが、それは、美味しい素敵なお店を見つけたら、それをSNSなどに載せてみんなに伝えたくなるでしょう? 誰かと一緒にそのお店に食べに行きたくなるでしょう? それと同じように、私を愛し共におられ、導いてくださり、私を変えてくださったお方を体感したので、それを誰かに伝えたくてたまらないからです。私は牧師になる前は、商売をして一発当てたいと思っていた時期がありました。そのために地方から東京へ出ました。しかし、中2の時にイエスさまと出会ってから、少しずつ神の愛の大きさを理解し、神の力を現実的に体験していくにつれて、その感動を伝えずにはおれなくなったのです。天秤にかけた時、金儲けするよりも、キリストを伝える方が自分にとって価値のあることだと思えるようになりました。多くの日本の牧師は、アルバイトをしながら牧師をしていますが、私と同じような思いであるからでしょう。
 新約聖書の13の書簡を書いたパウロという人物は、当時エルサレムでは最高学位となるガマリエルの門下で学び、律法学者のエリートコースを歩んでいました。クリスチャンを迫害し、捕らえ牢獄へ入れるために躍起になっていましたが、キリストに出会ってから、その歩みが全く変わりました。その時から彼は握っていた学歴、立場、収入を捨てるかのようにして、テント作りのアルバイトをしながらキリストを宣べ伝える者になったのです。彼は主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値の故に、全てを失ったが、それらのものが真の価値ではない、とまで言いました。それ程までにキリストの感動が彼の人生を大きく変えました。
 イースターに2名の方が受洗しました。私が牧師であって良かったと思える瞬間でした。キリストの感動がすべての人にありますように。

心のオアシス 2020年4月12日

 花売りのおばあさんがいました。人生の嵐をたくさん経験したためか、顔には深いしわが刻まれ、髪は真っ白で、背中は曲がっていました。しかし、花を売りながら笑顔を絶やしませんでした。彼女を見ていた人々は、その笑顔の秘訣が一体何なのか気になっていました。ある日、それを尋ねた人がいました。「おばあさんはいつも嬉しそうで、顔が穏やかなので、問題も苦しいこともなさそうに見えますね」おばあさんは答えました。「まさか。私だって心配事を積めば、トラック百台分くらいにはなるんだよ」「そうなんですか? では、なぜいつもそんなに明るく嬉しそうにしておられるのですか?」「聖書にはねぇ、イエスさまは十字架につけられて死なれ、三日後よみがえられたとあるのよ。だから、私も苦しいことがあるたびに『私も三日だけ待とう。人生には苦難の金曜日だけではなく、復活の夜明けもあるのだから』と自分に言い聞かせるの。そうやってね、三日じっと我慢して待つと、いつも神さまが喜びを与えて、良いことに巡りあえるようにしてくださるのよ!」 
 私たちは、どうしても過去のことに縛られ、今現在起こっている出来事に影響受ける傾向にあります。それが良いことであれば、その時点では舞い上がり、そうでなければ、落ち込んでしまいます。そしてそれによって未来が明るく感じたり、暗く感じたりするのです。今、世界はメディアによって現実が描写され、人々の中に焦燥感が漂っています。残念ながら、まだ明るい未来を語る人は一人もいません。信仰とは、神が語っている言葉を、“今”の事実として受け取ることです。神さまは、災いのように見えても、問題だらけでも、こう語られています。
 「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」(エレミヤ記29章11節)
 イエスさまは、“死”を打ち破り甦られました! Happy Easter(^^)/

心のオアシス 2020年4月5日

 つい先日、現場で戦っておられる著名な内科医から新型コロナウィルスに関しての本音を直接お聞きすることができましたのでお伝えしたいと思います。そこには新聞社の記者さんもおられて、記事になる可能性があるのですが、今の世間の感情的風潮から、名前は出さないで欲しいとのこと。ここでは全部を書き切れませんので、メディアでは伝えられていない、医療関係者の中で話されている本音だけを抜粋します。
・新型コロナウィルスは、毎年変異して現れるコロナウィルス(風邪)の一種で、たまたま中国で騒ぎになったので、世界中で騒がれている。従って、行政は国民感情を抑えるために自粛要請などしなければならないが、ハッキリ申し上げると無意味。新型コロナは、今年の風邪。(補足すると、国や行政に反対するとか、自粛の目的達成に効果がないという意味ではなく、経済活動などをストップしてまでの犠牲と比較して、ということです)
・メディアが感染者数や死亡者数を出して不安を煽っているが、それ以上にインフルエンザは毎年日本だけで50万人前後が感染して、1万人前後がそれに起因する肺炎等で亡くなっている。また、新型コロナはかかると病状が急激に悪くなるのが特徴だと言われているが、毎年の流感や風邪でも、肺炎になって数時間、数日で亡くなるケースは珍しくない。
・今までの疫病との比較をするならば、数年前に出たMARSは致死率30%だったので感染者が亡くなることが多く、数ヶ月でウイルス自体が消滅した。致死率が高いと流行しない、従って新型コロナは非常に弱くて、発病しても死亡率は低い。ワクチンや薬がないことに不安を覚える方もいるが、毎年の新種の風邪にも特効薬はない。基本、免疫力で治せます。
・重症化・死亡率が高いのは、断トツ喫煙者+高齢者で、通常の24倍。あと基礎疾患を有する人(糖尿病・免疫抑制剤使用)は注意が必要。
・終息はいつか? 人口の7割にウイルスの抗体ができたら収まると言われている。夏もウイルス自体は存在するが、高湿度のため流行らない。
 もし、毎年のようにしてメディアによって風邪による感染・死亡者数が報告されるようになったら社会は立ち行かなくなるでしょう。教会は、社会的責任を果たしながらも、振り回されずに、神にある希望を伝え続けていかなければなりません。「うわさを聞いても恐れるな!」(ルカ21:9)

心のオアシス 2020年3月29日

 石切チャペルの午前礼拝の後、80代の長老さんの後を継いで、自発的に一階から二階の入口まで掃除機をかけてくれる小学生たちがいる。その姿に歓心しつつ、微笑ましく思っていたのですが、先日、都合で教会に来られなかった時に、その親が代わりに掃除機をかけておられた。それを見ながら、神の人との関係と連想して恵まれました。子どもたちは、親が自分のできない部分のフォローをしてくれているとは思ってもいないでしょう。歩き始めたばかりの子は、倒れそうになる時に親がその手を引き上げていたからこそ倒れずに歩いているという自覚はないかもしれません。しかしながら、実際には親の手助けがあるからこそ安全に歩くことができているのです。同じように天の父なる神さまも、私たちの弱い部分、出来ない部分を、フォローしてくださっているからこそ歩んでいくことができるのです。
 現在、教会の礼拝では申命記から学んでいます。それはイスラエルがエジプトによる奴隷としての束縛から解放されて40年間荒野を旅した道中を回想しながらモーセが語っているメッセージであります。8章でこう言っています。「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。」(申命記8:2-4)
 実は毎日の日常が奇跡の連続なのです。当たり前が当たり前になると不平へと繋がります。荒野でマナを食べることは当たり前だと感じ始めたときに不平が出てきました。でも当たり前が奇跡だと思えるようになると、感謝が溢れるようになります。私たちは奇跡の中にいるのです!

心のオアシス 2020年3月22日

 ある日、ディズニーランドのインフォメーションに、一組の親子が元気なさそうにやってきました。スタッフが「いかがしましたか?」と問うと、父親は「実は、子供がミッキーやミニーちゃんなどのキャラクターを見つけては、サインを書いてもらっていました。あと少しで全部のキャラクターのサインで埋まるところだったのですが、どこかにそのサイン帳を失くしてしまいました」そこで対応したスタッフが各部署に連絡しましたが届いていません。後で心当たりのある場所を探しに行きましたが、結局見つけることはできませんでした。そこでこのスタッフは、キャラクターのサイン帳を自腹で買って、色々な部署をまわってキャラクターのサインを全部埋めました。後日、父親がやってきた時にスタッフは言いました。「残念ですが、サイン帳は見つかりませんでした。その代わりこれをお持ち帰りください」と、新しいサイン帳を差し出しました。父親は感激して持ち帰り、後日ディズニーランドにお礼の手紙が届きました。「先日はありがとうございました。実は連れてきた息子は脳腫瘍で、いつ死ぬかわからない状態でした。物心ついた頃から『ディズニーランドに行きたい! キャラクターのサインが欲しい』と言っていました。命があと数日で終わってしまうかも知れないというときに、無理を承知で連れてきたのです。あのサイン帳を持って帰ったとき、大喜びして、死ぬ直前まで胸に抱えながら『また行きたいね』と言って永遠の眠りにつきました。あのサイン帳をくださらなかったら、息子はこんなに安らかには眠りにつけなかったと思います。」
 このスタッフは自腹で就業時間外にサイン集めをする必要はありませんでしたが、その小さな犠牲によって死にゆく子に喜びを与えました。
 自分中心に生き、それ故に苦しむ私たちのためにイエス・キリストが、その罪の身代わりになって罰を受けてくださった犠牲によって、私たちに救いと希望が与えられました。それは私たちが神を知らずとも、裏切ったとしても、変わることのない神の一方的な愛の表れです。ただ受け入れるだけで救われるのです。何と大きな恵みでしょうか。栄光在主。

心のオアシス 2020年3月15日

 今、教会で学んでいる申命記から、イスラエルの民がシナイ山から出立して、目的の地カナンに11日間で入れるところを、39年もかかった理由を読みながら考えさせられたことは、私たちも、恐らく知らない間に遠回りしながら人生を送っていることが多いのではないかということです。彼らが遠回りした理由は、カナンの土地の目前に来たときに、神さまが「カナンの土地に入りなさい」と言われたのに、彼らは「その前にその土地を偵察して調査をしましょう」と提案したのです。彼らは神さまの偉大さよりも、先住民の強さや自分たちの手持ちを計算しようとしたのです。これが主への不信仰の表れでした。案の定、偵察に行った12人中10人が、相手の大きさと自分たちの小ささを見て怖気づいてしまいました。そしてイスラエル全体に恐れが生じ、目の前にある目的地に入ることができなかったのです。
 私たちは自分の能力や持てるもの、環境、状況を見ると、心配や不安でいっぱいになることがあるでしょう。今は新型コロナウィルスのニュースを聞くたびに落ち込んだり、気分が悪くなる人までいるそうです。今世界は、見えないウィルスに振り回されています。
 イスラエルの偵察隊の中に、現状に振り回されない人たちが2人いました。ヨシュアとカレブです。彼らは言いました。「主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。」(民数記14:8)彼らは現状ではなく、神の偉大さに目を留めていました。これが不安に勝てる秘訣です。諸々の上に立っておられ、創造された主が、私たちと共におられることを意識できたら、恐れは一瞬にして消えます。まさに生殺与奪の権を主に委ねるということです。
 勿論、社会的な責任は果たさなければなりませんし、無謀になってはいけません。しかし本当に恐れなければならないお方を知っておくことは、私たちの安心に繋がっていくのです。
 「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」(マタイ10:28)

心のオアシス 2020年3月8日

 私たちは、視点を変えるだけで、救われることがあります。すなわち感謝しがたい中で感謝することを見出し、意味の見出しがたいところに意味を見つけていく姿勢を持ったら、かなり人生変わると思います。
 かつて私の娘が高校を卒業して進路を決めるときに、韓国のある大学に行くことを望んでいました。そこはしっかりした信仰に立ったミッション系大学で、授業も英語で行ない、就職率はほぼ100%で、韓国でも評判の学校でした。私も娘がそこに導かれているような気持ちになっていて、“自分の願い”が“神の御心”のように思えていたのです。親子共に、「主の御心が成りますように」と祈りながら、もうその進路以外は考えられない状況でした。しかし、結果は不合格でした。娘は泣いていましたし、私もガッカリしました。もう日本の学校の受験も終わっているし、もう行く場所がない状態で、私は少し神さまに愚痴をこぼしていました。しかしすぐに神さまからお叱りを受けたのです。「あなたは、『主の御心が成りますように』と祈りながら、どうして、そんなに悩み心配するのか? 不合格になって、他の道へ進むことを私が望んでいるのに、それを拒否するのか? あなたの娘にとっては、もっと良い道を開こうとしているのに、自分の考えや願いでそれを邪魔するのか?」私は、すぐに「そうでした。申し訳ありません。あなたに委ねます!」そして泣いている娘に言いました「これは神さまが、あなたとって、もっと良い道へと導こうとされているってことだよ。今はもうどこにも行く道がないように見えるけど、必ず開かれるから、安心していなさい! 主にあって何とかなるから大丈夫!」そして、神さまは不思議な方法で、別の韓国の大学を示してくださり、そこへの入学が許可され、そこでしか受けることができなかった祝福を沢山受けました。そして後になって、親子で「あの学校に落ちて良かった! やはり最善の道を備えてくださっていたんだね~」と話しています。
 私たちは、祈りが聞かれることよりも、聞かれる祈りに対して自分がそれを受け入れられる心の準備ができているか?が問われています。

心のオアシス 2020年3月1日

 ある小学校の理科の時間に、先生が「氷がとけたら何になる?」と質問すると、子どもたちは、「氷がとけたら水になる」「水という液体になる」と次々と答えたそうですが、普段あまり勉強ができない子どもが最後に手を挙げてこう言ったそうです。「先生、氷がとけたら春になります」理科の時間ですから、この答えが正しいとは言えませんが、何かほのぼのとしたものを感じます。今、学校では、入試試験や偏差値という目先のことばかりに追われ、一般社会においても、利潤第一で、どれだけ業績を上げたか、いかにして出世するかということばかりに目が向けられ、非常にすさんできているように思えます。人は大人になるにつれて学習や経験によって、視野が広げられると言われますが、私は必ずしもそうだとは思えません。逆に視野が狭くなっているように感じます。私たちは目先のことをないがしろにはできませんが、もっとグローバルに、霊的視野をもって人生を見つめていく必要があるでしょう。
 腎移植をされた教会メンバーからのメールです。「以前からずっと思っているんですがKCF(関西カルバリーフェローシップ)は特別な祝福とパワーと驚きのある教会ですよね!(神様にえこひいきはないと聞いたことがありますが…)KCFに通うようになってなんと5年もたっていますが(まだ新入りの気分ですが笑)、ずっと元気でのびのびできている自分が奇跡のようです。先生の開拓の奇跡の証を聞くたびに、神様が私の諦めかけた祈りにも奇跡をもって答えてくださったんだと感動で胸がいっぱいになります。これからのKCFにたくさん、ものすごい神様の奇跡を信じていてわくわく期待しかありません!!」
 牧師としては嬉しい限りです。勿論、教会に繋がったら、すべてが自分の願っているようになるという保証はどこにもありません。しかし、少なくとも、天地万物を造られた神さまに繋がることによって得ることができる祝福や特典が沢山あることは確かです。そして祈りを通して、時間や時代を超えた神さまの働きを見ることができることは特権です! 
「神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。」

心のオアシス 2020年2月23日

 「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ12:24)
 これは聖書の中の一節で、この聖句は「死んだら実を結ぶ」という不思議な力を表現しています。私たちの死亡率は100%です。どんなに財産があっても、地位や名誉があっても、死を免れることができる人は一人もいません。そして共通して願っているのは、苦しまずにポックリ逝くことを望んでいます。しかしながら、出産予定日はあっても、死ばかりは、いつ、どんな形で迎えなければならないか誰にもわかりません。
 渡辺和子さんが「演劇やコンサートにリハーサルが必要であるように、死の準備も大切なのではないでしょうか?」と、書いておられた。
 本番で落ち着いて自分の役割を果たすために、私はこの本番の死、「大きな死」のリハーサルをするために、毎日の生活の中で「小さな死」の実行をすることを思い立ちました。「小さな死」というのは、自分の生活の中での小さな我慢、自分の利己心に勝つこと、他人に流されないで生きること、相手が無礼な態度を取ったのに仕返しをすることなく許すこと、相手が恩知らずなのにこちらがやさしくしてあげること・・・等を指します。これらはすべて自分が死なないとできません。私が、私が、と言っている間はできないのです。一粒の麦の“死”が豊かな実を結ぶように、私たちも自分が死ぬことによって豊かないのちを生み出すことができると信じる時、日々の生活の中で自分が死ぬことの意味ができてきて、死を肯定することができるのです。
 私たちは、自分の願望が強すぎたり、他者に対する要求が多すぎたりすると、この方の言う「小さな死」を実行することは難しい。先日、礼拝後、残っておられる方々とのお交わりの中で、「プレゼント」の話題になった時、あるご夫婦がこう言った。「特別にプレゼントをしたことはありません。毎日がプレゼントですから」・・・特別な何かがなくても、存在そのものを感謝できるようになれば、最高ですよね。