礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2019年10月20日

 先週私たちの教会に、ラグビー界のレジェンド、元ニュージーランド・オールブラックス&サモイ代表のティモ・タガロア氏が来てくださり、体験談とHAKAを披露してくださった。彼の話をお聞きして印象に残った内容の一つは、名誉を受け有名人になっても、心の空白を埋めることはできなかったが、イエス・キリストによって満たされたということ。もう一つは、ある人が彼に質問しました。「ラグビーで3回も再起不能になるかもしれない大ケガをして、なおもラグビーを続けるのは何故ですか?」それに対して、「ケガや痛みもラグビーの一部なのです。それらも含めてラグビーを楽しんでいるのです。」との答えに驚きました。     
 私たちの人生も必ずしも順風満帆というわけではありません。逆境の時も、四面楚歌になることもあります。しかし、それさえも含めて神さまが私たちに与えてくださった“人生”なのだと考えると、少し楽になれるような気がした。そして神さまに委ねるとは、喜びも苦しみも全部をひっくるめて受け止めつつ前に進んでいくことだと思わされた。
 ニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁には、ひとりの患者さんが書いた詩が残されています。私はこの詩の深さに学ばされます。

 大きなことを成し遂げるために、力を与えて欲しいと神に求めたのに、
  謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった。
 偉大なことができるように 健康を求めたのに、
  よりよきことをするようにと 病気を賜った。
 幸せになろうとして 富を求めたのに、
  賢明であるようにと 困窮を授かった。
 世の人々の賞賛を得ようとして 成功を求めたのに
  得意にならないようにと 失敗を授かった。
 求めたものは一つとして与えられなかったが、
  願いは、すべて聞き届けられた。
 神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りは、すべてかなえられた。私は最も豊かに祝福されたのだ。

心のオアシス 2019年10月13日

 2014年、アジア人初のグランドスラム準優勝を果たし、その後も世界のトップ選手として活躍を続ける錦織圭選手。この飛翔の一つのきっかけと言われるのが、2013年からコーチを努めるマイケル・チャン氏だ。中国系米国人で、1989年に最年少の17歳で全仏オープン優勝、その後も優勝を重ね、世界ランキングは最高2位。2008年にはテニスの殿堂入りを果たす。
 彼は祖父母がいる教会を訪ねた時、礼拝で語られた「神はすべてのことに理由を持っておられる」という言葉が心に刺さった。家に戻ると、本棚に放置していた聖書を開き、むさぼり読んだ。そして「すべての答えが書かれている」ことに驚いた。続いて、イエスさまの生涯について読み通し、「私のいのちのために、十字架で死んだイエスさまの愛はなんと大きいのだろうか。イエスさまは、私を捨てない」と確信した。そして「『私の心に来てください、私をあなたの目標のために変えてください』と祈った。私はその時、主に従い、主のことを知る生き方をしようと決断したのです」。数ヵ月後、世界中の人々が見守る中、全仏オープンの表彰式で、17歳の少年の口から出た言葉は次のようなものだった。「主イエス・キリストに感謝します。イエスなしでは、私は何者でもありません」。
 テニス選手としての大きな試練は、1996年のUSオープン戦だった。決勝の勝負で破れた。「悔しかった。だが大事なことは、神さまはすべてのことに目的を持っているということだ。人は『あぁなれば良かった』と思いがちだが、そうではない。そこまで到達するために様々な祝福を受けてきた。今もなお素晴らしいことが起こる。かつては勝ち負けに強くこだわっていたが、信仰を持つことで考え方が変わってきた」。
 最も好きな聖書の箇所は「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」(ローマ8章28節)
              (Sports Bible Rugby EDITIONより抜粋)

心のオアシス 2019年10月6日

 マルチン・ルターは、宗教改革を行なう度に極度の心配と精神的な苦痛を味わいました。一人の神父が、ヨーロッパを掌握する教皇を相手に堕落してしまったカトリック教会の宗教改革を行なったのですから、ものすごい圧力とプレッシャーを受けました。
そんなある日、小鳥が餌を食べ、木の枝の上で安心して寝ている姿を見て、大きな悟りが与えられました。「あの小さな鳥は、明日の朝に食べる物も、明日の夜に寝る場所も、何も心配していない。鳥でさえ神にすべてを委ねて何の心配もせずに寝ているのに、なぜ私はこれほど多くの心配をしているのだろうか。神が一羽の小さな鳥を顧みられるならば、ご自分の子供をどれほど大切にして守られるだろうか。」その後、ルターは、自分もその小さな鳥のように神を信じ、すべての心配を神にゆだねることを決心しました。こうしてルターは勇気と力を得て、教皇を相手に勝利し、宗教改革をなすことができたのです。
 確かに鳥を見ていると、何も悩んでなさそうです。鳥だけではなく、犬やネコも同じです。明日こと、将来のことを全く心配していません。一日一日を、精一杯生きているだけです。鳥や犬ネコたちが明日の食物のことや、将来のことを心配し始めたら、一体どんな動物社会になるでしょうか? 明日のことを何も考えていないように見える鳥たちでも神さまは養っておられるなら、私たちのことは確実に心配しておられます。家族、仕事、将来、人間関係、経済、受験、就職、結婚など、私たちを取り巻くすべての事柄に、ベストを尽くして取り組みつつ、結果は神さまに委ねてみられてはいかがでしょうか? 悩んで解決するなら悩むべきです。解決しないのであれば、神さまのお任せしたらいいのです。
 「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」(マタイ10章29~31節)

心のオアシス 2019年9月29日

 実話です。スーザンという女性が、医療診断ミスによって、目が見えなくなってしまいました。彼女は、長い間治療をしましたが、回復しませんでした。長い間休職していた職場に復帰しなければなりません。彼女は、目が見えないことに苛立ちを覚えていました。かつては自立していたのに、今は、ご主人の助けがなければ何もできません。ご主人のマークは空軍の将校でした。奥さんのことを本当に心配していました。彼女が仕事を復帰しようと考えた時に、彼は自ら車で職場まで送り迎えしようと考えましたが、空軍の仕事はいつ地方へ行くかもわかりません。いずれは彼女がバスに乗って、職場まで行かなければならないので、とにかく今から慣れさせるため、毎日一緒にバスに乗って、軍服を着たまま、奥さんの職場に連れていきました。乗るときも降りるときも、共にいて手助けしました。彼は奥さんを職場へ送り届けたあと、タクシーで自分の仕事場へ向かいました。それから数ヶ月経過してから、奥さんは、自分一人で職場に行くチャレンジをしようと決心しました。自分が自立しようとする朝、彼女が家を出るときには、ご主人の今までの献身的な助けに感謝し言葉に表しました。そして、その日から、一人でバスに乗って職場へ行くようになりました。月曜日から毎日、自分で職場へ行けるようになりました。次の週の朝、バスを降りる時、お金を払おうとしたとき、女性のバスの運転手がこう言いました。「あなたは本当にうらやましいと思うわよ」。スーザンは振り返って「何がですか?」と聞き返すと、女性のドライバーは言いました「先週、毎朝、軍服を着た、素晴らしい紳士が、あなたのそばにいつも立って、あなたがバスを降りて、道を安全に渡ることができるかどうかを確認して、事務所に無事に入ったことを見届けて投げキスを送って敬礼して、そこを去っていったのですよ。あなたは、本当にラッキーな女性ね」
 目には見えなくても、いつも傍にして守ってくださる神さまの愛を感じます。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイ28章20節)

心のオアシス 2019年9月22日

 私たちが感謝するのは、暮らしや条件が少し良くなったからではなく、恵みのゆえに感謝するのである。この恵みを悟ることができなければ、計算高い人生となり、条件や暮らし向きだけを見て、不満と不平を募らせるようになる。ある息子が、おつかいばかり頼まれるのに何の見返りもないと、母親に請求書を書いた。
 -請求書-
 スーパーへ買い物3回で150円。
 居間の掃除20円。
 妹の世話100円。
 布団を畳んだこと1週間分で140円。合わせて410円
 
 これを受け取った母親は、とてもおかしくて笑った後に、息子にこのような請求書を渡した。
 -請求書-
 出産費用無料!
 養育費無料! 
 病院費無料! 
 今まで食べさせてあげたものすべてタダ! 
 公園に連れて行ってあげたこと無料! 
 家族旅行費無料! 合計請求額0円

 私たちが救いを受け、健康で呼吸をし、生きていることは、すべて神さまの恵みの連続である。そのため、私たちはすべてのことに感謝しなければならないのである。(「一生感謝365日」ゾン:クゥアン著より)

 環境や状況に感謝するのは良いけれど、それはそれらが変化したら感謝できなくなる可能性もあるということでしょう。“恵みのゆえに感謝する”この世界を極めてバージョンアップした人生を送りたいですね。

心のオアシス 2019年9月15日

 数ヶ月前にお仕事の関係で、ブラジルに引越しされた私たちの教会メンバーのご主人からのメールの一部を以下に紹介いたします。
 「小崎先生、メールありがとうございます。家内がブラジルに住み始めてやっとこちらの生活に慣れてきたところです。こちらでも日系人が設立した教会に日曜日に礼拝に通っています。説教はポルトガル語なので、家内も私も理解は完全ではないのですが、聖霊様(ポルトガル語では、Espirito de Santoというようです)のお力で、言葉を超えて感じる部分を大事にしながら日曜日を楽しみに過ごしているところです。(中略)帰国の折にはぜひまた立ち寄らさせて頂ければと思います。教会の皆様の平安と安全をブラジルよりお祈りいたします。」
 私の驚きは、このご主人が、言葉を超えた聖霊の働きがあることを、感じておられるということです。私たちには満たされない部分があると、さまざまな方法で、その不足を補おうとしますが、間違ったもので満たそうとしている場合もあります。例えば、車がガス欠になってしまった時に、ガソリンがないからといって、栄養ドリンクで補うことはできません。エンジンオイルが無くなったという警告ランプが点いたので、とりあえずは人間には健康的だからと言って、オリーブオイルを代役にすることはできないでしょう。それぞれのタンクは、正しいもので満たさなければ、故障の原因にも繋がります。
 実は私たちには、世界の共通した4つの悩み(空白感・孤独感・罪悪感・死の恐怖感)があります。しかし、多くの人たちは、これらの不足感、不安感を満たすために、善行、哲学、娯楽、宗教、仕事、財産、趣味、友情、名誉、学歴、地位、食、異性などを求めます。しかしこれらは、ある学者が言うように、沈みゆく船の上でパーティーをやっているようなものなのです。本当の解決にはなっていません。
 神は人間に“肉体”と“精神”の部分以外に“霊”の部分を造られました。ですから人は教えられなくても、見たことがなくても、霊の分野に関して、何かしらの興味を持っているのです。肉体的に、精神的に満たす方法はあるでしょう。しかし霊の部分は、神の霊でしか満たすことができないのです。何をしても空虚なのは、霊のタンクに間違ったものを入れているからなのです。霊肉魂をそれぞれ正しく満たしましょう。

心のオアシス 2019年9月8日

 「私は傷だらけの人生を歩んできました」。その男性はまじめな顔をしてそう言いました。さぞかし人生の裏街道を歩いてきて苦労されたのだろうな、と同情したのですが、話しをよく聞いてみると、これまでに何回も大きな手術をして、おかげで体中傷だらけ、というお話しなのです。
 その場は笑い話で済みました。けれどもよく考えてみると、私たちは例外なく、「傷だらけの人生」を送ってきてはいないでしょうか。それまで大切に守ってきたものが突然、一瞬で崩れ去るような出来事と遭遇する。震災、事故、犯罪、リストラ、破産、突然の死別・・・そしてこれらは、私たちの心に深い傷を残すのです。傷は痛く、心は苦しむのです。ですから私自身、聖書のことばに出会うまでは、「傷」はあってはならないもの、傷つくことは不幸なことだと当たり前のように考えていました。
 ところが、聖書を開いてみて、「傷」ということばが人生の大切なキーワードの一つであることに気がついたのです。たとえば、聖書の中にはこんなことばがあります。「その(キリストの)打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。(イザヤ書53章5節)という意味は、人類を救うために、キリストは十字架にかけられた。だから、あなたがキリストに心を向けるなら、あなたの傷もいやされるということなのです。
 私自身、この聖書のことばを初めて聞いたとき、正直どういう意味かまったく分かりませんでした。キリスト教会のシンボルが十字架であることも、どうしてなのかが分かりませんでした。しかし私たちは、それぞれに深く傷ついて人生を歩んでいることも事実です。その傷がいやされたいとだれもが願っているはずです。では一体だれが、この私の傷をいやしてくれるのだろうか? そう思い始めたころから、イエス・キリストのことをもっと知りたいと真理を求める旅が始まりました。
 もし私に傷がなかったなら、キリストを求める思いも起こらなかったでしょう。そして、もしキリストに出会っていなかったなら、「傷」を持っていても幸せになれる、という体験をすることもなかったと思います。
(クリスチャン新聞の福音版より抜粋)

 心に傷や穴があっても大丈夫。その穴からでなければ見えない神さまの恵みの世界があるからです。主がその傷を包み癒してくださいます。

心のオアシス 2019年9月1日

 榎本保郎先生は、一日一章の書物の中で以下の内容を書いておられます。一部を抜粋します。
「私たちが神に用いられるとき、持っている以上の働きをすることができる。将棋の名人が優勝するのは、将棋の駒がりっぱだから優勝するのではない。駒の良い悪いではなく、さし手がじょうずかそうでないかで決まるのである。私たちは駒である。私という単なる人間の感情や利害や思いで進んでいる間は、その駒がたとえどんなに高価なものであっても、決して勝利できないのである。逆に、紙に書いて作ったような駒であっても、名人がそれを進めていったならば、勝利することができるのである。大切なことは、誰に進められ、誰にさされて自分の人生を歩んでいくかということである。この決断こそ私たち人間の責任なのである。 駒はさし手のままに進まねばならない。時には敵の陣地に乗り込み、犠牲になることがあるかもしれない。それでも良し、と絶対にさし手を信頼していかなければ、私たちはその栄光にあずかれないのである。だから与えられた確信というものをしっかり持ち、最後まで持続することが最も大切なのだと、御言葉は教えているのである。」
 私はいつもこの文章に励まされます。人はこの世で、沢山のよろいかぶとを被って、自分を大きく見せながら生きています。自分の立場や持ち物を誇りながら、それを活力にして生きています。世の価値観がそうなので、そうでもしなければ生きいけないのでしょう。しかしながら、持てる物にも限界があります。この世の誇りで死の壁を乗り越えることは絶対にできないのです。どんな知者であっても、金持ちであっても、権力者であっても、必ず死ななければなりません。死亡率100%です。そこは万民平等なのです。誰があなたの人生のさし手でしょうか?
 先日、ある方が「自分は神なしでも、何の問題もなく順風満帆に生きていけるではないか、と思って好きなことをして生きていましたが、このままだとヤバいことになる、と怖くなりました。自分の空洞を一生懸命、間違ったもので埋めようとしていましたが、埋めることはできませんでした。教会に来て、いのちが繋がりホッとしています。」と話してくださいました。
真の満足は、人の霊の空洞を神の霊で満たすことで与えられるのです。

心のオアシス 2019年8月25日

 今から40年前に100億円を売る菓子屋になると宣言して、それをわずか10年足らずで達成された“銀座あけぼの”会長の植草三樹男さんの本を読んで感銘を受けました。このお方は大和カルバリーチャペルのメンバーで、とても気さくな楽しい方です。本のタイトルは「はじめに言葉があった」で、ヨハネ福音書1章の御言葉をモットーに会社を導いておられます。この本から二箇所抜粋して以下に紹介します。
 
 すべての創造主である神様のやることを、私たちはやらせていただいているのです。そういう姿勢で経営することが、結局は会社を永続的なものにしていくことにつながると思っています。たとえば、時代が変わって、今までの「やり方」が通用しなくなることもあるでしょう。でもそういう時こそ、自分の原点に立ち返れば、そこからまた「やり方」を導き出せるのです。この原点ともあり方ともいうべきものを自分自身がしっかりと持っていないと、目先の損得に走ってしまい、迷走することになります。私にとっての原点とは、つまり神様のやることをやらせていただくことなのです。

 以前、こんなことがありました。長い間ずっと業績のあがらない店舗が、ある時ぐんぐんと売上げを伸ばし始めたのです。それで何があったのかと店長に聞いてみると、「お客様に笑顔で挨拶をするよう心かけました」と言うのです。でも、それ自体はお客様商売として当然のことです。では何が違うかというと、店長はこう説明してくれました。「今までは、買ってくれたお客様に対して、笑顔でお礼や挨拶の言葉をかけていました。でも今は店の前を通り過ぎる人にも等しく笑顔で『こんにちは』『いらっしゃいませ』って挨拶を続けていたら、売上げが見違えるほど伸びたのです」これはとても大きな気づきです。ずっと結果が出なかった店舗を任されて、自分なりに苦しい時期もあったと思います。しかし、定年が見えてきた頃に、「自分から変わる」ことに気がついたのでしょう。それが「お店から変わる」という「やり方」になって表れたのです。今までやれていなかったことをやり続けた結果が、数字になって表れています。                

心のオアシス 2019年8月18日

 先日、ある親御さんとお話しをする機会がありました。その方は、自分の娘さんの普段の生活態度、受験や将来のことを心配し、このままだとニートになってしまうし、あの子ならなりかねない。本人に注意すると反発されると悩んでおられました。ところが数日前にリビングライフでデボーションをしていた時に、親である自分に問題があるのではないか?と気づきが与えられたそうです。しかし、次の一歩をどう踏み出せばいいのか分からなくて相談されました。私は、「悩んでいるのは、子どもが親の願いを実現できないからではないですか? ニートはダメという親の側の先入観や都合で考えていませんか? ニートになることを奨励するわけではありませんが、私なら、『たとえあなたが勉強しなくてもニートになったとしても、あなたのことは愛しているからね』と子どもに伝えると思います。教育も大切ですが、親が子どもにできることの中で一番しなければならないことは、愛育だと思います。イエスさまは、『空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。』と言われたではないですか。もし信仰があるならば神さまに委ねる方が断然楽になれますよ。」と話したところで、ハッと何かに気づかれ、荷が軽くなったとお話しされました。そして「今日から変わります。約束します。」に謙遜に応答され、その日の夜に早速、娘さんを抱きしめて話したとの報告をいただきました。決心の告白に聖霊さまが助けを与えてくださっていることを感じました。
 渡辺和子さんが「挫折のすすめ」という文章の中で、希望する小学校に不合格、専門学校も第二希望になり、献身するときも、強く希望していた修道院に入るためにフランス語も学び、母院に1ヶ月半も滞在するほどの思い入れようだったのですが、時が満ちいざ入会する段となった時、かわいがってくださっていた管区長の任期が来て、後任の面識のない管区長に見事に入会を断られたとのこと。挫折を何度も味わったのですが、長い目で見たとき、第二希望の道で有難かったと思えるようになり「神の思いは、人の思いにあらず」という聖書の言葉が、本当にそうだと思えるようになったそうです。神の価値観に変えると楽になれます。