礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2021年6月13日

 先日、ある方から相談を受けました。それは、もう独立して家庭を持っている娘さんが幼少期の時のことを回想していると、自分が娘に対してしてきた言動の中には、傷つけてしまうようなこともあったことを思い出してしまったとのこと。「私は、酷いことを娘にやってしまったし、娘は私のことを毒親に映っていると思うのです。イエスさまが赦してくださったとしても、娘から赦してもらわなければ、収まらないのではないかと思います。先生のご意見をお願いします。」というものでした。私は、「勿論、神さまに告白して悔い改める罪は、すべて帳消しにしてくださいます。でも、罪悪感があるなら、直接本人に謝罪したらどうでしょうか? 私も数年に一回は、『こんな親で申し訳ないね・・・』と謝罪することがあります。子どもたちは『そんなことはない』と否定してくれますが、私はその謝罪によって重荷を下ろすことができているのですよ。具体的なことは言わなくても、『良い親じゃなくてごめんね。あなたを傷つけてきたとは思うけど、あなたの幸せを祈っているよ』と何かの機会に言ってみられたらどうですか?」と返答した。そうすると早速、娘さんにラインをされたようで、しばらくしてからこんな喜びの内容が送られてきた。「さっき、娘のラインから返信がありました。『私も弟も社会人として、まともにやっているから、悪い母親ではなかったと思うよ』と書かれてあって、嬉しくてたまりません。ありがとうございます。なんだかホッとしました。」
 このやり取りをしながら、ある記事を思い出した。それはニューヨークのとある新聞の「尋ね人」の欄に、「アントニオ、お前を許している。帰っておいで。今週金曜日の午後5時に、セントラルパークで待っている。父より」と掲載された。そして指定した日時に父親が公園に行ってみると、なんとそこに沢山の青年が集まっていました。調べてみると、みんな“アントニオ”だったそうです。
 人は心のどこかで“赦されたい”という願望を持っているものです。それは私たちの中にある正義が、そう思わせるのでしょう。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりになって十字架にかかって死んでくださいました。そして甦られて、こう言われます。「あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43章25節)

心のオアシス 2021年6月6日

 関西カルバリーフェローシップは、6月で開拓11周年を迎える。まだまだ生まれたてのような教会ではあるが、土地購入や会堂建築の計画が進められていることに驚きを覚える。神さまの御業に感謝しかない。  
 私は開拓をするに当たっていくつかのこだわり(特色)をもって教会形成をしていきたいと願った。まず、教会のロゴマークにも表されているように、聖書を土台にした牧会を目標にするということです。「本の紹介をしたり、啓発的、心理学的な話ばかりで、聖書の言葉は取って付けているだけの説教に疑問を持っています。教会は聖書を教えるところではないのですか? 新来会者も教会で“聖書”の話を聴きたいと思って来てるんですよ。」と、十数年前に他教会の方の愚痴を聞いたことがあった。私もロータリークラブや一般のセミナーなどの講演、伝道目的の集会などでは、ある意味、人生論的な話をするし、キリスト教の敷居を下げるために一般受けするような話しをしてきたことは事実であるが、そのような訴えを聞いて、教会でのメッセージは必ず“聖書”からのお話しをして、み言葉の理解を深めるために例話や体験談を用い、日常で活かせるような内容を心がけようと意識するようになった。
 二つ目のこだわりは、バランス感覚ということ。聖書の中にも不思議なパラドックス(逆説)の融合を見ることができる。「行ないによってではなく、信仰によって救われる」というのは大前提の上だが、ヤコブは、「行ないの伴わない信仰は死んだもの」と書いている。「主の名を呼び求める者は救われる」とあると思えば、「主よ主よという者が皆、天の国に入れるわけではない」など、これらは偏らないための“バランス”だと確信している。聞き心地の良い“愛”や“恵”“受容”だけしか語られなければ、わがままになります。“キリストの律法”に従うことが、この地上での召しであることも教えられなければならないでしょう。
 三つ目は、“心のオアシス”になる教会を目指すということ。一週間、職場、学び舎、家庭の中で、さまざまな重荷や傷を受け、疲れを覚えて教会に来ている人たちが、教会では重荷を下ろせる場所になるように、あらゆる面で配慮をすること。
 ただし偏った教会があったとしても、神さまは、それさえも用いてその働きを進めておられることも事実です。これも絶妙なバランス?!

心のオアシス 2021年5月30日

 一生懸命だと「知恵」が出る 
 中途半端だと「愚痴」が出る
 いい加減だと「言い訳」が出る

 これは、武田信玄の名言である。確かに、自分の中から何が出てきているかによって、自分の状態の判定基準になる。“愚痴”や“言い訳”が多くなってくると、自分が中途半端やいい加減な生き方をしているからだと考えたら良い。
 そして何が心に来るかによって、自分の信仰度合のバロメーターにすることができると思う。以下は私が考えた名言(迷言?)です。
 神に委ねると「安心」が来る
 中途半端だと「心配」になる
 いい加減だと「恐れ」が来る

 ポール・ピアソン教授の「キリスト教宣教運動史」は、神さまが聖書と歴史の中で起こされた宣教運動について記した本です。そこで強調されていることは、神さまが各時代に起こされたリバイバルと拡大は、ほとんどが権力構造の周辺から始まるという理論です。聖霊は、全く予想もつかないような方法で、全く予想もつかないような人を通して、神さまの宣教のみわざを進めていかれるというのです。ピアソン教授の語る、全く予想もつかなかった人とは、権力構造の中心にいる人ではなく、その「周辺にいる人」を意味します。それは、しもべや、ごく平凡な人であり、辺境に住んでいる人や、国境の地で生きている人です。この世の観点から見ると秀でていない人は、その分、神さまに委ねる信仰が強くなるからこそ、どんなことがあっても平安の中、捨て身で献身することができるからこそリバイバルも起こるのでしょう。
 自分には誇れるものは何もないと思っている凡人はチャンスです! 

心のオアシス 2021年5月23日

 「無償の愛」という一人の女の子が書いた感動の実話です。
  おじいちゃんは老いてから手足が不自由でトイレも一人では厳しい。だから、いつもはおばあちゃんが下の世話をしていた。おばあちゃん以外が下の世話をするのを嫌がったからだ。
 ある日、家に私とおじいちゃん2人になった。おばあちゃんが倒れてしまい母と兄は病院、父は会社から直行したからだ。おじいちゃんと留守番していると申し訳なさそうに、「モモちゃん、悪いんだがトイレに・・・」って言った。私は本当に馬鹿だなって思った。一人じゃ行けないのを知っていたくせに気が付いてあげられないなんて・・・孫、それも女には言いづらかっただろうなって。トイレに行くとパンパースが小と大で汚れていた。たくさん我慢させてしまった。私はおじいちゃんの気を反らそうと学校であった笑い話を精一杯明るく話した。お風呂場で体を洗ってパンパースを付けてホッとした。同時におばあちゃんは毎日これをしているんだと思うと何とも言えない気持ちになった。そして「悪かったね、ありがとう」って5千円をくれようとした。おじいちゃんは本当に馬鹿だなって思った。私が赤ちゃんの時、両親は共働きでした。おしめを替えて育ててくれたのは貴方じゃないですか。幼稚園だって塾の送り迎えだってしてくれたのは貴方じゃないですか。あれは無償の愛でしょ? 私は「おじいちゃんが大好きだよ? だからお金なんかいらないんだよ」って言った。2人してちょっと泣いた。

 神は人をご自分に似せて造られた故に、私たちの中には神さまのご性質が流れています。その証拠として、どのような人も永遠を思う気持ちは持っているし、霊的な何かを求め、無神論者であっても祈り、どんな悪党でも善悪の心を持っていて聖くなりたいという願望をどこかに持っています。これらは神の性質でありますが、人間は自分中心に生きたいと願う罪があるので、完全には表われていないのです。でも、神の無償の愛を私たちが持ち合わせているとなると、敵さえも愛することができる可能性を秘めているということです。聖霊さまがしてくださいます!

心のオアシス 2021年5月16日

 ラインホルド・ニーバーの祈りと詩を紹介します。
 「神さま、変えられることのできるものは、変えていくエネルギーをください。しかし、変えられないものに対しては、それを、受け止めていく忍耐をください。そして、このことは変えることができるのか、変えることのできないものか、それを見極める英知をください。」

 神が置いてくださった所で咲きなさい。
 仕方ないと諦めないで咲くのです。
 咲くということは、自分が幸せに生き、他人も幸せにすることです。
 咲くということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、私は幸せなのだ、ということを、示して生きることなのです。
 神が私をここに置いてくださった、それは素晴らしいことであり、ありがたいことだと、あなたのすべてが、語っていることなのです。
 置かれていた所で、精一杯咲くと、それがいつしか、花を美しくするのです。
 神が置いてくださっている所で咲きなさい。

 人は、自分の願いや夢が実現する未来を受け入れることはできるが、自分の願望とは正反対の“今”の現実や人生の汚点とも言える過去を受け入れることは難しいようです。何故でしょうか? それは“自分が生きる”ために生きているからです。聖書が教える“愛”(自分に死んで、他者を生かす)生き方に方向転換したら、新しい世界が見えてきます。 
 福山市には「ホロコースト記念館」があり、ユダヤ人の迫害の事実(写真や映)やユダヤ人を助けた人たち、アンネの部屋(隠れ家)を実物大で再現したものがあるそうですが、そこを訪れた教会のメンバーが一番印象に残ったことをニュースレターで書いておられました。それは、ユダヤ人孤児院の子供たちが強制収容所に送られる時に、ユダヤ人ではない院長が、子供たちに寄り添うために収容所に子供たちと共に行き、ガス室で子供たちと共に命を落としたこと。そして院長の言葉「称賛を得るため、愛されるためではなく、愛するために私は存在するのです」
 聖書の価値観と人生の目的を知ると、恐れが無くなる事を教えられた。

心のオアシス 2021年5月9日

 映画化された「あらしのよるに」という絵本は、風変わりな友情が「与える愛」にまで育つ物語です。オオカミのガブとヤギのメイという、本来は食べる食べられる関係というあり得ない組み合わせが、嵐の夜に知り合い、親友になります。やがて、彼らの友情は仲間から非難され、それぞれの群れから追われてしまいます。絶体絶命の中、ヤギのメイは自分を食べて生き延びるように頼み、オオカミのガブは身をていしてメイを守り抜きます。愛を本当に理解したとき、不思議なように恐れは消えて、勇敢な心に変わっていくという内容です。
 イエスさまは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」(ルカ9:23~25)と言われましたが、この“自分に死ぬ”という考えは新約聖書の至る所に出てきます。自分を生かそうとする人は、不安や心配が尽きませんし、他者との関係には絶えず亀裂が入ります。“自分に死ぬ”とは、自分の夢や願望ではなく他者の夢や願望のために生きるということです。
 イエスさまは、アガペー(自己犠牲の愛)を徹底されました。裏切る弟子たちを最後まで愛し通され、十字架にかけ、ののしる人たちに対しての祈りは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」でした。自分を生かそうとすると、他者が犠牲になり、他者を生かそうとすると、自分が犠牲になります。後者の生き方は難しいですが、聖書は、その生き方を求めています。そしてそこから本当の救いと恵みが流れていくということなのです。
 先日、YouTubeを視聴くださっている方からお手紙と献金を送っていただき、お礼の電話をすると、その方のご主人はプライドが高く、自分のやりたいことを優先したい人で、それによって家族が振り回されてきましたが、糖尿病、認知症、前立腺ガンなどを患うようになり、自分の意志を通すことを諦めたのか、最近では何をしても主人の口から「ありがとう、ありがとう」と感謝が出るようになったというお話をされました。 
 “自分に死ぬ”これが神さまから与えられている人生の課題なのです。

心のオアシス 2021年5月2日

 金井由信先生が著書の中でこのようにお証ししておられます。
 1953年4月、神学校で勉強するために地方から出てきた私には、お金がありませんでした。一学期が終わった時、二学期の勉強にどうしても必要な新しい本が出て、これを参考書として使うから買っておくようにと言われました。値段は350円でした。しかし私にはその時10円のお金もありませんでした。そのころ、教会や幼稚園の子ども会でお話しした時に謝礼としていただいた分の十分の一を、神さまに献げる為、小さな紙箱に入れて貯めておいたものがありました。調べるとその箱に400円入っています。「しめた」と思いました。でも、その時「これは主のために特別に分けておいたお金だから、自分のために使ってはいけない」「ちょっと、借りておいて、後で返せば良いではないか」という声も聞こえてきました。二つの声にはさまれて困り、裏山へ行って祈りましたがハッキリしませんし、本を買うお金は、なかなか与えられません。 
 ついに8月の最初の金曜日にあの400円を握りしめて神戸のキリスト教書店へ出向きました。途中まで来た時、突然ハッキリと神様のみ言葉が聞こえてきました。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」というみ言葉でした。私は心の耳をふさぐようにして書店へ急ぎました。お店の入り口の戸を開けた時、真っ先に目に留まったのは、日めくりのみ言葉のカレンダーで、なんと「神の国とその義とをまず第一に求めなさい・・・」と、書いてあったのです。私の足は前に進みません。結局、何も買わずにすごすごと神学校へ戻りました。涙がとめどもなく流れてきます。「神様! どうして、お金のことで苦しまなければならないのですか・・・」また、涙が溢れてきました。学校への坂道で大阪湾を眺めながら、浜辺で育った私はそのまま故郷へ帰ってしまいたくなりました。日が落ちて、薄暗くなった部屋のベッドにひっくりかえっていると、故郷の人たちの顔が次々と浮かんできます。私は、「やっぱり祈ろう」と、机の前にひざまずき、電灯をつけると、机の上に新聞紙の包みがおいてありました。その上に「天より」と書いた小さな紙がのっています。開けてみると、何とそこには、ピカピカの新しい、あの本が置いてあったのです。込み上げてくる感動に私はオイオイ泣きました。栄光在主。

心のオアシス 2021年4月25日

 私たちが住んでいるこの地球に関して調べるだけでも、奇跡の上に生かされていることを認めざるを得ない。地球は自転しています。何の動力があって回転しているのでしょうか? そのスピードは1,700Km/hで、新幹線の最高速度の約6倍です。そして地球は太陽の周りを365日かけて公転していますが、その速度は107,208Km/h(マッハ87)、音速の87倍で進んでいます。今も昔もその速度を保ちながら地球は自転し、絶妙な距離を保ちながら太陽の周りを公転しているのです。もし少しでも早くなったり遅くなるならば、慣性の法則によって、私たちは地上に立っておれなくなるどころか、吹っ飛んでしまうことになります。もし宇宙や自然界の秩序が失われたら、私たちは生きることは不可能です。
 毎日の日常は当たり前ではないのです。様々な奇跡が重なり合って成り立っています。明日も同じように太陽が昇るとは限りません。そして、私たちも明日、目を覚まし生きている保証はどこにもないのです。
 紀元前4千年前後のノアの時代にも天変地異は起こりました。大洪水で人々は流されてしまったのです。ノアが神さまから方舟を造ることを命じられ、約100年という月日をかけて建造するのですが、神の言葉を信じない周りの人々は、水がこの地上を覆いつくすなんてことは考えられないと笑いました。そして今の日常はずっと続くと考え、自分を中心にしてその欲情のまま生活していたのです。しかしその日常が失われる時がきたことが記録されています。大洪水はただの物語ではなく、今や地質学的にも実際に起こったことが証明されるようになりました。
 聖書の中にこのような言葉があります。「『すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない』と言うであろう。すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、 その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。」(2ペテロ3:4~7) 神の言葉がこの天地宇宙の秩序を保っているというのです。天地が滅んでも、いつまでも滅びることはないと言われる神さまの言葉を握りながら安全安心な人生を歩まれることをお勧めします。

心のオアシス 2021年4月18日

 私たちは、「神さま、私を祝福してください! 恵みを与えてください。」と祈りをすることが多くあります。とかく“祝福”とか“恵み”というのは、何か自分の願いが叶えられたときに来るもののように思われがちです。もしそうであるならば、神さまの祝福は、断片的なものになってしまいます。なぜならこの地上での人生には、必ず何らかの悩みは起こるからです。勿論、そのような祈りをすることが間違っているわけではありません。聖書の中にも「祝福してください!」と祈っている場面はたくさん出てきます。しかし、今の瞬間瞬間が祝福であり恵みだと感じることができれば、もっと感謝が溢れるのではないかと思う。
 キム・ギョンファン師は、著書の中でこう証ししておられる。
 一代で富を築いた義父は、クリスチャン家庭に生まれた長男でしたが、教会には行かず、子どもたちも教会に通わせませんでした。ところが、私の妻は家族の中で最初にクリスチャンとなり、神学まで学びました。そして、宣教師を目指していた私と結婚しました。ところが、結婚して7年目に妻が倒れ、私たちは宣教の働きをあきらめることになりました。私は、「クリスチャンではない義父と義母は、この状況を見てどう思っているだろうか。もしかしたら、わが家の困難な状況によって神さまの栄光が覆われてしまうのではないだろうか」と、いつも心に不安がありました。そんなある日、妻が病床で書いた「神さま、私のからだの悪い部分よりも、まだ健康な部分のほうが多いことを感謝します」という感謝の祈りのことばが、あるキリスト教放送で紹介されました。義父はその祈りのことばを聞いて、「おまえたちが信じている神さまは大したお方のようだ」と言って、数年後に「その神さまを私も信じたい」と告白しました。その時まで私は、十字架は復活の栄光に向かって進んでいく過程だと考え、十字架そのものが栄光であるとは思っていませんでした。妻の病気が治って床から起き上がることが栄光であって、病気そのものが栄光であるとは考えられなかったのです。しかし、義父の告白を聞き、妻が病で苦しんでいる、その十字架の場こそ、栄光の場であったのだと気づかされました。生涯、自分を信じて生きてきた義父の頑なな心は、十字架の栄光の前に崩れ落ちたのです。妻の闘病は、義父を偉大な神さまに出会わせました。
 「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリ6:2b)

心のオアシス 2021年4月11日

 今から11年前の4月に関東から関西に帰ってきた。教会開拓を始めるために、最初の2ヶ月は近辺の教会を勉強させてもらった。不思議な再会を通して一人の協力者を得て、6月から午前の礼拝をスタートした。午後は数名集まっていた奈良の実家でメッセージをさせてもらっていた。一人の会衆を前にして、ギター一本で賛美を導き、司会も説教も一人でしていたあのころが懐かしい。勿論、一人だけの礼拝者も前に座って一緒に礼拝を捧げ、礼拝後の後片付けを率先してやってくださった。あれから11年が経過した。振り返ってみると、最初から協力者・奉仕者が途絶えることはなかった。「あれは主だ!」と確信をもっていうことができる。数年前にある方が、「えぇな~、最近、教会らしくなってきたわ~」と言われたことが印象に残っている。気が付けば奏楽者が与えられ、聖歌隊やフラダンスチーム、ハンドベル・トーンチャイムのチームがご奉仕してくださるようになり、男性コーラス“なにわいけめんず”まで結成され、男の絆が深められている。小学生のキッズクラスや中高生のヤングチャペルも行なわれている。数年前に堺市にも教会を開拓し始め、日曜学校も行なわれている。すべては創造主なる主のお働き以外にありません。そして今、石切チャペルでは、土地購入と会堂建築にチャレンジしようとしている。当初、想像さえもできなかった事柄が急速に進められている現実に、牧師である私は、気持ちが追い付いていない。まだ、自分たちの土地ではないし、買えるかどうかも分からない人様の土地を見ながら、私も含め、教会メンバーは、「どんな会堂を建てようか? 花壇や畑、小さな公園もあれば・・・温泉は出るのか?」などと夢を膨らませている。今まさにアブラハムの気分を味わっている。神さまから「この土地をあなたに与えます!」とお言葉をいただいて入ったカナンの地は先住民の土地で、アブラハムには一歩の幅すらの土地さえ所有していませんでした。しかしすでに与えられたかのような歩みをしていました。
私たちも、与えられたら感謝、与えられなかったとしても感謝。ただ神さまの計画のみが実行されていくことを望む教会として、これからも進んでいきたいと願っている。
 「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言19章21節)