礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2020年7月19日

 「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(Ⅰコリント10章13節)
 この聖書の言葉に教えられることが3つある。一つは、自分が受ける試練や誘惑は、自分だけではないないということ。私たちは苦難を通ると、「自分はいつもこのような目に遭う」「自分だけが不幸だ」と思い込んでしまいやすいが、実は、あなただけではないということ。二つ目は、神さまは、耐えることのできない試練を与えることはない、ということ。試練は、必ずしも私たちの蒔いたものの刈り取りだけではなく、私たちの信仰のテストのため、また神さまの存在を気付かせるために、神さまは、あえて私たちが試練の中を通ることを許可されることがある。ヨブ記にも書かれているが、完全に倒れてしまうような苦難は与えられないのです。そして三つ目は、耐えることができるように脱出の道も必ず備えてくださいます。脱出の道は千差万別で、ある時には、他者を用いて助けられることがあるし、ある時にはある出来事を通して逃れることができることもあります。何の助けもないと感じる時に、神を信じる者の特権は、最後の砦があるということです。それは神の言葉を握り、神のみ翼の陰に逃げ込むことができるということです。
 中国のアリババ社の創業者であるジャック・マー氏は、有名大学を出たわけでも、IT分野を専攻したわけでない、貧しい家庭で育った平凡な英語教師でした。そんな彼が創業15年でオンラインマーケット世界第一位になった。彼の成功の秘訣は「お金、技術、計画」の3つがなかったことだったというのです。持っているものがないから、道が閉ざされるわけではありません。神さまは、エジプトで奴隷であり、裸の難民であったイスラエルの民を乳と蜜の流れるカナンの土地に導き入れられました。何もなかったからこそ、謙遜に祈り、神さまに頼る以外なかったのです。信仰によって生きることは、無限の可能性を引き出します。

心のオアシス 2020年7月12日

 ガッツ石松さんは、伝説のプロボクサーです。1974年に世界チャンピオンになってから、5度目の防衛戦のときでした。慢心してしまい暴飲暴食のため、体重がどんどん増えていったのです。防衛戦3ヶ月前は、なんと体重が19キロもオーバー。さすがに反省し、過酷な減量を開始するのですが、10日前にまだ10キロもオーバー。飲まず食わず、ロードワークなどで、1日1キロ落としていき、2、3日前になると、階段を上る力もなくなるほど苦しんだそうです。口が渇き、唾液が飲み込めず苦しむと、付き添いの若者が背中をさすりながら泣いていました。「彼も俺に夢を託している」と実感し、その後、軽量をパスして、右アッパーによる14回KОでベルトを守りました。彼は言います。「ひとりではチャンピオンになれない。みんなの支えがエネルギーになりました」
 ガッツ石松さんは、子供の頃は、自分勝手なガキ大将だったそうです。体の弱い父親は定職がなく、母親が力仕事で家計を支えていました。兄弟は4人、家は貧しくいつも腹をすかせていました。周囲のさげすみの目に怒りをもち、食べるために、他人の畑から野菜を盗みました。転機となったのは、中学2年のときに問題を起こし、家庭裁判所に父親と行った帰り道の出来事です。生まれて初めて、ラーメン店に入りました。父と子、2人で1杯だけ頼んだラーメンを、このとき自分ひとりで食べてしまいます。すると、父が残りのスープに水を足して飲み干したのです。「あっ!・・・」父親の空腹にさえ気付かない無神経さに腹が立ち、泣きたくなりました。そして、このときに少年は決意するのです。「悪さをやめて、両親を貧困から救ってやる!」それがボクシングを志す動機となりました。ガッツ石松さんがチャンピオンになれた背後には、家族、ジムの人たち、みんなの支えがあったからです。
 私たちも、夢が叶うとしたら、それは誰かが支えていてくれるからです。そして私たちの誰かの助けの背後には、創造主なる神さまのご配慮が必ずあるのです。人生を支えてくださる神さまを知る人生と知らない人生とでは、大きな違いが出てきます。是非、新たな発見を!

心のオアシス 2020年7月5日

 本日から堺チャペルは、新しい場所で再スタートする。先週の日曜日の夕方から、堺チャペルの引っ越しを始め、何かと忙しい一週間でした。日曜日は3回のメッセージを、場所を変えて行なっているので、気力的にも体力的にも、その後の引っ越し作業は、無理だと思っていた。大きな物を分解して、またそれを組み立て直すということが、私にとってとてつもない作業に思えた。トラックもないので、乗用車数台で、何度も往復するしかない。しかも新チャペルの二階への階段を何度も上り下りする必要がある。結果は“何とかなった”でした。しかも不思議なようにして助け手が何人も与えられ、知らない間にすべてが分解、車に効率よく積まれ、往復もすることなく、気付いたら引っ越しが終了していた。
 新チャペルの改装は1週間しかない。電気工事、エアコン、壁、床、音響、防音、イスなど、最低限やらなければならないことがあり、低コストでそんな短期間でやってくれる業者さんがいるのか?疑問であった。結果は“何とかなった”でした。先週の仕事がたまたまキャンセルになったインテリアの方がお手伝いくださることになり、友人牧師も奈良から何度も駆けつけて、私からの丸投げ仕事を快く引き受けてくださった。イムさんの知人やお客さんまでが、寄ってたかってお店の引っ越しを手伝ってくださっている。これらは、神が遣わされた方々だと確信している。主の教会をお手伝いくださる人たちは、必ず祝福されます。それは「イスラエルを祝福する者は祝福される」という法則があるからです。
 旧約聖書の中に、「主が戦われる」という記事をよく見かける。イスラエルの戦士はいるのに、戦われるのは「主」とは、どういうことなのだろうかと、今までずっと考えてきた。イスラエルは戦わずして追ってくるエジプトの軍隊が、全員水没して助かるとか、エリコの城壁の周囲を行進し、大声を出しただけで城壁が崩れるなど、不思議なことが多く記されているが、今回、その一部を垣間見せてくださったような気がする。
 神にしか頼ることができない窮地に追い込まれてこそ、人のやり方ではない神の御業を見ることができるのでしょう。栄光在主。

心のオアシス 2020年6月28日

 私の人生を振り返ってみると、献身してから何故か10年前後の周期で、何か大きな出来事が起こっている。長女の誕生と同時に献身してから十年後に牧師按手礼を受け、それから十年後、20年仕えてきた母教会である大和カルバリーチャペル(神奈川県)を離れ、関西で開拓教会をスタートしました。それから十年後、何が起こるか楽しみにしていましたが、やはり期待通り起ころうとしています。3年前にスタートした堺チャペルを移転して、来週から新たなるスタートをします。そして、石切チャペルも、いずれは出なければならない状況になっています。次なる場所を祈り考え始めていますので、今年の移転もありえます。
 私は献身した時には、小さな群れからの教会開拓はチャレンジしたい気持ちはありましたが、ゼロ開拓は、正直「したくない」と思っていました。ところが聖書学院を卒業後、すぐにロスアンゼルス郊外のラグナヒルズという場所で、ゼロ開拓のために派遣された。そして10年前には自ら志願してしまい関西に来てゼロ開拓。そして3年前に新たな教会を堺に開拓。自分の意志や願いとは違う道が開かれていっている。しかしある時期から「自分の人生は神実現のため」という思いが入った時から、自分の願いではなく、神さまの願いが成されていることに喜びを感じるようになった。勿論、自分の願いや計画がないわけではないが、それ以上に神さまのお心がなされる方が、もっと安心できることもわかった。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)この境地に達すると、マイナス的な出来事が起これば多少の動揺はするが、すぐに気持ちを切り替えることができるようになる。アブラハムやモーセの気持ちも、少し理解できるようになった。
 私はどちらかというと、安定を求め、あまり変化を好まない性格ではあるが、神さまはそうはさせてくださらなかった。やはり神さまのご計画のみが進められていることを感じさせられる。そしてその流れに委ねることを神さまは私たちに求められていることなのです。
 「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。」(詩篇55:22)

心のオアシス 2020年6月21日

 30年前のある日、明石家さんまさんが買い物の支払いに千円札を出そうとしたら千円札にこんなことが書いてありました(お札に文字を書くのはいけません)。「さんまさん!いつかあなたの手にとどくことをねがってます。大好きです。」千円札にさんまさんへの思いを書いた女性は看護師で当時15歳。さんまさんへのラブレターを出すのが恥ずかしく、代わりに巡り巡って届くかもしれないと、千円札にメッセージを書いたことが発端だったそうです。そしてそのお札がなんと本当に本人のところにたどり着いたのです。それからさんまさんはこの“奇跡の千円札”の話をテレビやラジオで、時には真面目に、時には笑いを織り交ぜて“奇跡の千円札”の話をし続けていたのですが、彼女はそれから看護師となり結婚して普段は仕事に家庭に追われて忙しい毎日を送っていて、なかなかテレビを見る暇がなかったようです。そしてある日、たまたま家事をしながらテレビを見た時に自分の書いた千円札を今でもさんまさんが持ってくれていることを知って、筆跡鑑定して認められて、テレビ番組の中で初対面しました。その千円札を見つけてから、使用することなく、30年間大事に持ち続けていた理由を、「この千円札を書いてくれた子が応援してくれている。そう思える限り芸人をやり続けようって思うんですよ。」とさんまさんは語っていた。あの大御所人気芸人であっても、誰かも分からない、一人の名も知れない学生の短いメッセージに励まされながら仕事を続けていたということに、ある意味驚きを覚えました。
 人は、”愛される”ことによって安息し、”愛する”ことによって満足する、と言われますが、人格的な関係性によって、バランスが保てるように神さまは造られているのです。だからこそ聖書は人が集まり、互いに励ましあうこと(コイノニア=フェローシップ)を奨励しているのです。
 徐々に人々が教会に来られるようになって、息を吹き返したように感じています。そして何よりも、神の愛を受け、また自らも神を愛するという関係の中にこそ、真の安息と満足、永続的な幸福をもたらすのです。 
 人を永続的に幸福にするのは、欲望の充足ではなく愛の充足なのです。
 

心のオアシス 2020年6月14日

 堺チャペルには、岩男くんという青年がいる。先日の礼拝の時、ご機嫌斜めで、時折「ウォー」と泣き始めたので、私は彼の後ろに立って、そっと手を伸ばし肩に手をおいて、ゆっくり一緒に体を左右に揺らしながら、彼の癒しと祝福を祈りながら賛美していた。
 彼は現在23歳。重度の自閉症。意思疎通はできない。感情のコントロールもできないので、フラッシュバックが起こると大粒の涙をポロポロ流しながら突然声を上げて泣き出したりする。
 しばらくすると彼は落ち着き始めた。私は「岩男くん、辛いだろうな・・・自分の気持ちを伝えることもできない、したいこともできない。神さまは、どうして岩男くんをこのような形で生まれさせられたのだろうか?」と思いめぐらしていると突然、神さまの濃厚な臨在を感じ、このように語られた。「わたしは岩男を愛している。だからこそ彼はここに存在している。」それは何故、障がいを持って生まれさせられたのかという理由はなく、ただ「愛している」と言われたのです。岩男くんの母親イムさんは、周囲に「この子は、私の宝です!」と言ってレストランIMUの店長をしながら施設には預けないで、彼と生活をつづけておられる。岩男くんを、このような母親の元に生まれさせられたのは、神さまの最大のご配慮であり、岩男くんに対する愛の表れであったことを悟ったときに、涙が溢れてきた。それはもはや切なさではなく、神さまの愛の大きさに圧倒された故の涙でした。これを読んでおられる人たちの中で、一人もこの神の愛から漏れている人はいません。あなたが生かされていることは、神さまの愛の証なのです。
 今の場所でのレストランIMUの営業は、6月で終了し7月から近い場所に移転します。イムさん曰く「今の場所は、家賃が高くて、教会から家賃をいただくことは、本望ではなかった。今度は私が教会を支える立場になりたい。私がしたいことはレストランではなく、教会ですから。レストランは教会を支えるためのツールにしかすぎません。」これがイムさんの祝福の秘訣だと思った。新住所:堺市中区深坂1丁目10-75

心のオアシス 2020年6月7日

 アメリカはニューヨークにあるブルックリン・タバナクル教会のジム・シンバラ先生が、著書の中でこのようなお証しを書いておられます。
 「ニューヨークは、様々な悪がはびこっている街でありますが、ある地域では、男性が女装して、売春するということが盛んに行なわれていました。そんな人たちに対する伝道が計画されて、リカルドというホルモン療法で、喉ぼとけ以外は女性にしか見えない、女装をした男性が、教会へ来るようになりました。彼の本名は、リカルドでしたが、商売上は“サラ”で通っていました。彼は仲間のうちで一番のワルで、年下の仲間全員にコカインや売春を教え込んでいました。十年以上もこんな悪行を続けた結果、彼は虚しさを感じ始めていました。明け方近くまでかけて400~600ドルほど稼いで、それを全部コカインにつぎ込んでしまうのです。そして、橋の下でまどろみ、朝目覚めると、食べ物を探しにゴミ箱をあさる。日が暮れるとまた同じことをくり返すだけの生活だというのです。リカルドは、日曜礼拝を重ねるごとに、自分は変わることができるかもしれないと思うようになりました。このイエス・キリストという方なら、麻薬から解放して、ひょっとすると、中途半端な女男ではなく、本物の男にしてくれるかもしれないと思うようになったのです。彼は子供のころから、からかわれてきました。母親は彼にホモから脱却するよう懇願して、彼も努力はしたのですが、うまくいきませんでした。何度挑戦しても意志が弱いために失敗したのでした。しかし、彼は、神には偉大な力があって、本当に自分を内側から変えることができると考えるようになりました。神の言葉に耳を傾け続け、ひと月もすると、イエス・キリストに心を委ねるようになりました。そして彼の内側で確実に変化が起こっていったのです。霊的にも信仰的にも成長し、古いリカルドは過ぎ去って、確かに新しく生まれ変わったのであります。」
 これは特別な教会だけに起こる出来事ではありません。世界中のキリストにあるすべての教会で、人は救われ、癒され、回復しているのです。
 「古いものは過ぎ去った、見よすべてが新しくなったのである。」聖書

心のオアシス 2020年5月31日

 聖書は、自分の“頑張りや努力”によって救いを獲得するのではなく、神の側の行ないによって救われることを教えている。私たちがすることは、神が行なわれた業を信じ受けとめるだけなのです。私たちは本来、創造主の計画と目的のために生きるよう造られました。しかし人は自分の願望と目的のために生きるようになりました。それが聖書の教える「罪(的外れ)」なのです。その罪から生み出されるものは不和や争いで、後は滅びが待っているだけです。そんな私たちの罪の代価を、神が肉体をとって地上に来られたイエス・キリストを通して、自らが十字架にかかって支払ってくださったのです。その事実を信じ受けとめることによって救いがきます。信仰によってイエス・キリストを受け入れたら、神の霊である“聖霊”が働きはじめます。聖霊が働きはじめると、不思議なことなのですが、今までの的外れな生き方に違和感を覚えるようになります。そしてそのような生き方はしたくないと思うようになるのです。本当に信じたら、この聖霊が私たちの内に、すぐ働き始められ、神の計画と目的のために生きたいと自然と願うようになるのです。
 聖書の記録によると、イエスさまの弟子たちは皆、師を見捨てて逃げてしまうような人たちでした。イエスさまが十字架にかかり葬られ甦られて天に昇っていかれてからは、迫害の大きいエルサレムで人目を避けるようにして、家の戸を固く閉じて怯えながら祈っていました。そうしていると聖霊が彼らの上に降り、それ以来、殉教をも恐れない大胆さと力が与えられ変えられました。多くの歴史学者たちは、この弟子たちの変化に疑問を感じるのです。何故、あの弱い小心者の弟子たちが、ある時期を境にして、こんなに力ある働きができるようになったのか?    
 それは“聖霊”によるのです。“信仰”がその人の中に入ると、“聖霊”が働き始めて、現状は変わらず、混乱の現実の中でも、不安が平安に、弱さが強さに、恐れが喜びに変えられるのです。それは自分の努力の結果ではなく、聖霊の実です。素晴らしいと思いませんか? あなたも受けることができます! ペンテコステ(聖霊降臨)おめでとう!

心のオアシス 2020年5月24日

 先日、日曜礼拝で、モーセ五書の学びを終え感無量だった。イスラエルの民がエジプトに移住して三百年も経過すると、イスラエルの人口が増加して脅威を覚えるようになりました。そこでエジプトは、イスラエルが力をつけないように虐げ、過酷な生活を強いるようになりました。挙句の果てはイスラエルに生まれてくる男の子を殺せとの命令を下しました。そこでモーセが生まれた時に、母親はカゴに入れて川に流し、何と「殺せ」と命じたパロの娘がそれを発見し、王宮の中で養い育てられるという不思議な神の計画が進められました。四十歳になった時、自分は“イスラエル人”という自覚を持っていたモーセは、ある日、同胞を苦しめていたエジプト人を殺しました。かばって助けたのだから、彼らは「モーセを通して神がエジプトの虐げから救い出してくれる」と悟ると考えていました。しかし実際には悟るどころか拒みました。そればかりか、エジプト人を殺したことがパロの耳に届き、モーセの荒野での四十年間の逃亡生活が始まりました。王室で育てられ、一流の教育を受け、体力も気力も申し分ないこの年齢こそ、イスラエルを導き出すチャンスでしたし、本人にもその自覚があったにも関わらず、その一番脂の乗った時期を荒野で過ごすことになったのです。そして八十歳になって、身も心も衰え始めた頃に、神さまから「イスラエルをエジプトから導き出せ」との御声を聴きます。その声に聴き従ったものの、二週間もあれば行ける目的地に四十年間も荒野をさまよい、人々からは「マナは飽きた、水が飲みたい、荒野で我々を野垂れ死にさせるのか? エジプトの方が良かった!」などと文句を言われ、脅迫され、散々な目にあい、結局、目的地の目と鼻の先まで来ていながら、モーセはその土地に入ることなく召されていきました。モーセ自身も失敗を経験しました。しかし、彼が召される前に書いた遺言書の結論は、「主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。」(申命記32:4)だったのです。彼は自分の人生を回想しながら、それを悟りました。神への信頼は、揺るぎない平安を与えます。

心のオアシス 2020年5月17日

 「わたしは四十年の間、あなたがたを導いて荒野を通らせたが、あなたがたの身につけた着物は古びず、足のくつは古びなかった。」(申29:5)
 これは、私が申命記を読むたびに、いつも心の残る言葉です。そして、自分の人生を振り返った時に、「神さまはいつも私の必要を満たしていてくださっていたな~確かにそうだったな~」と思わされています。イスラエルの民は荒野という岩や砂漠しかない、食べ物も水もない場所で、天からマナが与えられ、岩から水が与えられ、衣服も擦り切れなかったことが、当然、当たり前、普通のこととして、それが日常化してしまうと、奇跡を奇跡とは考えることができなくなっていました。事実、彼らは「マナは飽きた! 水を出してくれ! 我々はここで死ぬのか? エジプトの方が良かった。神はどこにいるのか?」と不平不満を言いました。極めて身近なところで、毎日が奇跡の連続であったことを悟ることができなかったのです。
 新型コロナウィルス騒動の中で、人間はなんと無力な存在なのかと感じさせられます。そもそも私たちは初めから無力なのに、神さまから与えられた恵みを“当たり前”だと感じて、自分の力で立っていると考えていたことが錯覚だということにどれだけの人たちが悟ることができたでしょうか? 元気なのに外に出ることができない、友人と会うこともできない、学校にも会社にも行けない…このような不自由さを経験して、今までの生活がどれだけ恵みであったかを思わされます。住む場所があり、着る服があり、食べることができ、会社に行けること、学校に行けること、教会へ行けることなど、どんな小さなことでも、実は、当たり前のようで、当たり前ではない、奇跡の連続だったのだな、と考えると、感謝しか出てこない。私は小さな存在で、ただ神さまの恵みによって生かされているということ・・・それだけで「感謝」と思える日々を送ることができるようになりました。これは私のStay Homeの収穫です。
 「彼らを恐れ、おののいてはならない。主があなたと共に行かれるからである。主は決して見放さず、見捨てない。」(申命記31章6節)