礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2024年2月25日

 小学生の登校時の旗振りボランティア時に様々なドラマが繰り広げられるので、その時の話題が必然的に多くなってしまうが今回も一話。
 先日の2月14日バレンタインデー当日、いつものように交差点で子どもたちの横断補助をしていると後ろに誰かが忍び寄ってくるのを感じ振り向くと教会に出入している子たちが二人立っていて、その一人が「ハッピーバレンタイン!」と言って手紙を渡してくれた。嬉しくて「わ~ありがとう!」とハイテンション気味に答えると、嬉しそうな顔をしながら歩いていった。終わってからラブレター読むとこう書いてあった。「おざき先生へ いつもおかしとかくれてありがとう。お年玉とかうれしかったよ。これからも仕事がんばってね。〇〇より」短い内容であるが、その“心”に感動した。先週レプタ2枚(150円前後)を捧げた貧しい女性をイエスさまは評価なさった聖書箇所から学んだばかりだが、そのイエスさまのお気持ちが少しわかるような気がする。今年の元旦礼拝はキッズクラスはないことを子どもたちには事前に伝えてあったので誰も来ないと思っていたが、その子は一人で大人の礼拝に参加するために来た。見知らぬ大人が大勢いて緊張していたせいか帰る時には表情が硬くなっていた。「よく来たね。礼拝もちゃんと受けれたね」という気持ちを込めてクオカードの入ったお年玉を玄関で渡すとパ~っと顔が明るくなってお礼を言って帰っていった。それがよほど嬉しかったのか一ヶ月半も経過しているが、未だそのお礼を書いてくれている。
 律法学者たちは宗教には熱心であったが、その動機や目的は自分が評価されるためであって本来中心にしなければならない「神」は無視した活動だった。彼らは自己満足感はあったかもしれないが、いつも何かに縛られた窮屈な生活をしていた。それが宗教の実体である。本来「クリスチャン」とは、宗教をやっている人ではない。もっと言うならばキリスト教をやっている者でもない。創造主なる神・イエスさま・聖霊さまの三位一体なる神との“心”の繋がりである。その中で、明るく元気でのびのびとした人生を生きることができるのである。 

心のオアシス 2024年2月18日

 私たちの教会ではこの二ヶ月で80~90代の3人が召された。私たちの教会規模からすると珍しいことかもしれない。母教会では冠婚葬祭の担当をしていたので葬儀のことはそれなりにわかっていたが、関西では葬儀や火葬場の事情など多少違うことと、どの葬儀社をお勧めしたら良いか決めかねて、かつてお付き合いのあった関東の葬儀社の社長さんに相談などしていた。今回の三件は、それぞれ違う形でのお見送りとなったが、それぞれご遺族の意向にそった良い葬儀となった。私が業者を評価するポイントは料金も含めていくつかあるが、仕事としてただ事務的に事を進めていくだけでなく礼を尽くして死者を弔いご遺族の相談に親身になって乗ってくれるかという点も大きい。それは牧師側にも問われることでもある。
 チャペルで葬儀をした時の業者さんの行動に感銘を受けた。出棺前に遺族がお花を棺に納めていくのであるが、棺の縁に葉っぱが一枚落ちて乗っていた。床に落ちたものなら私でもゴミ箱に入れるだろうが、棺の縁であれば、そのまま中に入れても責める人はいないであろう。しかしその業者のスタッフさんは、その葉っぱを自分のスーツのポケットに入れた。礼を尽くすとはこのようなことだと学ばされた。
小さなことであっても、それが人々に影響を与えることを考えると、キリスト者として人から見られていても恥じない生き方をしたいものである。まさに小さなことに忠実であれば大きなことを任せられる。
 「あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。」(Ⅱコリント6:4~8)
 今週も神さまの豊かな祝福をお祈りします。栄光在主。

心のオアシス 2024年2月11日

 先日ショックなことがあった。娘が教会に来ている近所の小学生から「小崎先生の介護のこと、今から考えておいたほうがいいよ」と言われたというのである。そして同じ日に違う小学生から「いつ小崎先生の車に『高齢者ドライバー』のステッカー貼るの?」と聞かれた。考えてみれば今の小学生の“おじいちゃん”“おばあちゃん”は50代なのである。気持ちはまだ20代だが、どう頑張っても加齢に逆らうことはできない。健康とか記憶力も神さまから貸し与えられたものは返していかなければならない。まだ想像できないが車の免許もいずれは返納しなければならない時が来る。今できることを感謝しながら生きることにしている。
 考え方はそれぞれあるので何が正しいかはわからないが、私は家内娘息子に伝えてあることがある。それはもし私がボケ始めたり、世話をしなければならなくなったら、情けをかけることはせず遠慮しないですぐに施設に入れて欲しいということ。なぜなら介護を家で続けることによって、家族に大きな負担がかかることを知っているからである。こんなことを書いておきながら、ボケてしまったらそんなことも忘れてしまい、頑固になって家に居続ける可能性を恐れているが、どうなることやら・・・
将来のことを考えると色々と心配事はあるが、聖書の言葉が大きな励ましになる。「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6章より抜粋)神さまの前にベストを尽くして、あとは神さまにお任せしよう。

心のオアシス 2024年2月4日

 昔の週報を整理していたところ5年前の「心のオアシス」を発見した。その内容を読んで改めて先日天に召されていった長老さまの心の姿勢に感銘を受けた。一部抜粋すると「先週の礼拝前に私たちの教会の80代の長老様とお祈りをしていた時に、こう祈られていました。『神さま、最近は耳も遠くなり、目も見づらくなってきました。これらは神さまから貸し与えてくださったもので、やがてはお返しすることになりますが、この目を耳を体を貸してくださったことを感謝します。』役に立たなくなってきた目や耳に不平や不満を言うのではなく、“ありがたい”という気持ちを持って生きておられることに感動しました。」
 ラインホールド・ニーバーの祈りの中に「神さま、変えられることのできるものは、変えていくエネルギーをください。しかし、変えられないものに対しては、それを、受け止めていく忍耐をください。そして、このことは変えることができるのか、変えることのできないものか、それを見極める英知を与えてください。」というのがあるが、確かに現実の世界においては、どれだけ頑張っても祈っても変えることができないことはある。“加齢”もその一つであろう。しかしそれさえも感謝しながら歩めたら、どれだけ恵まれた人生になろうか。しかし、私たちは更なる希望の中に生かされている。イエスさまを信じて歩む者は、“完全な者にされる”ことが約束されている。“完全な者”とは、病からの完全な癒し、あらゆる障がいや問題からの完全な回復である。「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(黙示録21章4節)。
 ここ数ヶ月の間に私たちの教会のご高齢のメンバーが何人か天に召されていった。癒しを求めて祈り祈られてきたが、“肉体の死”を通して、祈りの成就を本人たちは体験しておられることであろう。残された者たちには寂しさや悲しみはあるが、神を信じる者にとっての“肉体の死”は、天を指し示す道標に変わる。そして本当の人生はそこからスタートするのである。今の世は天国への予備校にしかすぎない。

心のオアシス 2024年1月28日

 「不正の富を用いなさい」とは、先週の礼拝メッセージのタイトルであった。これは私が発した言葉ではなくイエスさまが語られた内容である。もしこの説教題が教会玄関の掲示板に掲げられていたら、「ヤバい教会?」と思われるであろう。長年不可解であったこの箇所を理解できたら一番恵まれる箇所となった。是非1月21日のYouTubeをお聴きになってください。このメッセージを聴いた方で、介護とかヘルパーをしておられる方々から感謝の報告があった。内容は「会社の規則だとお金や物の受け渡しは禁止されているのですが、どう見ても何も食べていない状況で、このままだと何も食べないで過ごして倒れてしまうだろう人や、お金を貸して欲しいという人がいて、本当に困窮していて、何もしてあげないと大変な人にお弁当を買ってきてあげて一緒に食べてあげたりすることがあるのですが、いつも会社の規則と助けてあげなければならない現実の狭間でジレンマを覚えていたのですが、今日のメッセージで肩の荷がおりました。」というものであった。確かに、会社規則は働く人を守るためにあるが、その規則の故に助けることのできない人がいるのも事実である。勿論、教会が会社規則を破ってまで人を助けてあげなさいと言うことはできないので個人の判断に委ねるしかないが・・・
 パリサイ人や律法学者たちにとって、罪人と食事を共にしたりすることは律法違反であり不正行為となる。であるからイエスさまは、罪人を赦し受け入れることを「不正の富」と表現された。この「不正の富」を用いて友を作りなさいとういうのである。“神の正義”は、罪に対しては裁きと罰が加えられることを意味する。しかし“神の愛”は罪人を赦し受け入れるというものである。この互いに相容れることができない世界を全うされたのがキリストの十字架であった。イエスさまは神の正義に反して赦す選択をされたことによって人の罪が赦された。しかしその神の義に対する不正行為(赦す)によって十字架にかかられた。
 我々の正義は人を赦せないが、主は「赦せ」とおっしゃる。これが「不正の富」であり、「不正の富」で友を作った人は天で迎えられるのである。

心のオアシス 2024年1月21日

 先月天に召された長老さまが、開拓初期の時代に私にこのようなことをお話になった。「教会の牧師先生たちが『神に委ねよ』という言葉を発せられることがあるのですが、私は『委ねる』という言葉が嫌いなんです。何もせずにこの世の中、成り立っていくとは思えないんです。」長老さまは働き者であったので、恐らく「委ねる」という言葉が、「何もしないで待っている」というイメージを持たれていたのだろう。確かに「委ねる」という言葉は抽象的で、正しくない意味に捉えられる可能性がある。私も中学生時代にこの言葉を聞いた時に「では寝て過ごそう」と思ったのは確かである。牧師となった今は、誤解される可能性のある言葉に関しては、必ず具体的な説明をするよう心がけている。それぞれの役割分担がなされていても何もしないのは、ただの“怠慢”である。それは神さまから「怠惰な僕よ」とお叱りを受けるであろう。すべての人には神さまから与えられたこの地上での使命がある。大枠では「出ていって福音を伝える」ことであるが、それぞれ違った立場があり個性がある。であるから渡辺和子先生風で言うならば“自分の置かれた場所で咲く”ことである。私は“神の願いが実現するためのツール(道具)となる”よう願っている。私たちは与えられた場所で神さまのためにベストを尽くして努力しながら仕事やご奉仕をし、学生であれば学んでいき、その結果は神さま任せ・・・これが「神に委ねる」ことだと考えている。逆に結果に対して不満が出るのは「神に委ねていない証拠」でもある。
 先週、礼拝の帰り際にある方がおっしゃった。「先生が言われる『神実現に生きる』ことがよくわかります。問題が起こる時って必ず『自己実現』に走った時なのですよね。軌道修正してもまたすぐに戻ってしまうんです」この地上では人間は“肉”をぶら下げながら生きているので、それが神のために生きることの妨げになっている。私たちは毎日のようにして自分の願いを追い求めることが教え込まれている。だからこそ私は毎週「神実現」を語っている。己の願いを置いて、神の願いが成されるよう願っていたら、いつの間にか会堂が添えて与えられていた。

心のオアシス 2024年1月14日

 先日ある方と話していると「先生はこれだけ人が集まってきているのにまだ『開拓』だと言われるのですか?」とおっしゃった。確かに開拓教会は、“数名の集まり”“借り物の小さな部屋”などのイメージはあるが、花園の地域に移転してからまだ1年少々。私にとっては開拓である。1年前まで私たちの教会メンバーのほぼ95%が東大阪外在住の人たちで教会までの所要時間は平均1時間であった。集まってこられる人たちを分析してみると、HPやYouTubeを見たり、口コミ、また大和カルバリーの支教会ということで関西に移住されてきた方が来られるケースもあった。それも大変感謝なことではあったが、やはり近所の人たちにも来ていただきたいと思い、石切地域ではチラシを何千枚も配ったが地元の人が来ることは稀であった。これは今のネット社会の特有の現象なのだろうと思っていたが、花園に移ってからは様子が変化しつつある。チラシにもちらほら反応があり来てくださるようになり、その中の何人かが受洗された。教会にも様々な季節があるのだと思った。
 もし花園チャペルの今が春であるなら、これからも季節は変わっていくだろう。開拓初期は一人を前にしてメッセージ(お説教?)していたこともあった。何ヶ月も変化がなく数名の礼拝を続けていた。恐らくその時期を冬と例えることができるであろう。もし私が自分の願いを全面に出していたら途中で挫折していたであろう。しかし祈りの中で神さまが語られたことは「わたしが一夜にして何千人もの人たちを教会に送ることができないと思うか? あなたは現状に振り回されないでただベストを尽くしなさい! 神実現に生きよ!」それからというもの、前にいる数名の人たちが、神さまから託された人だと考えるようになり気持ちが楽になるだけでなく開拓が楽しくなったのを覚えている。
 神さまはこの地上に様々な季節を与え、それぞれを楽しむことができるようにしてくださっている。好き嫌いはあるかもしれないが、そこで私たちがどう生きるかをご覧になっておられる。神さまの一番の関心事は、この世でどれだけ成功したかではなく、どのように従ったかである。

心のオアシス 2024年1月7日

 大晦日の夜、教会メンバーのAさんから電話をいただいた。「入院中の父親が洗礼を受けたいという意思表示をしました」との内容であった。私たちはとるものもとりあえず病院へ向かった。Aさんの母親とお姉さん家族は共にクリスチャンだが父親だけは「自分はクリスチャンには絶対にならない」と宣言しその意志を変えない拘りをもっている人であった。数ヶ月前、誤嚥性肺炎になり入院してからもその意志は変わらなかった。そのような中でAさんから一か月ほど前にLINEが届いた。「昨日、奇跡的な不思議な事がありました。面会に行った時にしんどい時は『イエス様』って言うんよと、母が言うと父自ら『イエス様、もうしんどいです。助けてください』と言葉しました。その後も『イエス様のもとでねむりたいです。』『明日は良い朝を迎えられますように』『イエス様に早く治るようにして下さい』とイエス様を求めるようになりました。病院のスタッフに暴言ばかり吐いていた父が考えられない言葉を口にするので、みんなびっくりしてます。その後、イエス様を受け入れるお祈り(罪、十字架の身代わり、信じる)をすると「アーメン」と言ってくれました。奇跡すぎて実感がわかないのですが、とにかく主の御名をあがめます。」 
 そして大晦日に病院から「夜になって血圧、脈が下がりました。病院に来て下さい」との電話があり家族が集まった時にお父様は洗礼を認諾された。病院に着くまでAさんは、「いよいよ来るべき時が来たのだと自分の心に言い聞かせ、覚悟して病院に向かったのですが、実はそれが洗礼の恵みに繋がっていたとは・・・」と感動しておられた。
 旧約聖書の中に「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(伝道の書3章11節)とあるが、私たちは“今”という点を見ることは得意であるが、私たちが生まれてから死ぬまでの全体を見ながら判断することはなかなかできない。時間を超越しておられる創造主に人生を預けたらこれほど楽なことはない。一喜一憂しても神の最善がなされることに感謝

心のオアシス 2024年1月元旦

 花園チャペルを献堂してから早一年が経過した。振り返ってみると、2010年に関西での開拓を始めてから、神さまは様々な協力者を送ってくださった。その助け手の一人が吉松毅長老さまである。親子ほどの年齢ではあるが、私を立てて謙遜に神さまに従ってきてくださる姿は信徒の模範でもあった。聖書通読を何回もされ、また二箇所で行なっていた礼拝に自発的にどちらにも参加され応援してくださる。堺チャペルの開拓が始まった時には、誰もPA(音響)を準備することができる人がいなかった。最初の数回、私が音響の準備をしている姿を傍に立ったままジーっと観察しておられた。東大阪の午後の礼拝が終わって午後4時半ギリギリに到着することもあって準備がままならなかったが、音響は複雑なので誰にも頼める人がいなかった。しかし数週間後からは私が到着した時点ですべての音響が音を出せる状態になっていた。私のギターもケーブルがちゃんと繋げられている。長老さまは私がしている作業を見て覚えられたのである。車屋さんだったので機械には知識がおありだとは思うが音響はまた別ものである。もう脱帽する思いである。私には何も要求されたことはなかったが、ある日「先生、一つお願いがあるのですが、先生への謝礼があまりにも低すぎます。もっと上げるように誰に頼んだらいいのですか?」とおっしゃられた。「高給アルバイトをしているので大丈夫です」と言ったが納得されずその後も数回お願いされた。教会メンバーが少なくなったという理由で牧師の謝礼をカットする教会は多い中、長老さまのお気持ちと愛に応える牧師にならなければと決意を新たにしたのを覚えている。そんな長老様は昨年12月14日86歳で天に召されていった。寂しくはなったが天国での再会を楽しみにしている。お別れ会をしながら私も年を重ねたら愚痴っぽい頑固おやじにならないよう気をつけ、若者を助け励ます者になりたいと切に願った。
 長老さまの恵まれた人生を目標に新しい年を歩みたい。栄光在主。

心のオアシス 2023年12月31日

 「自分自身は、神実現のための道具である」という意識は人生をストレスフリーへと導く秘訣だということがわかってきた。未だに仕事を終えて花園チャペルを出るときに、私たちに“会堂”が与えられていることに不思議を覚え感謝が溢れてくる。開拓当初から「ただ主の道具としてのみ用いてください。もし神さまが私を一人のために関西に遣わされたのでしたらそれでも構いません」という祈りをしてきた。礼拝する場所も点々とした。アルバイトをしながら数名の礼拝を数年続けてきたが苦にはならなかった。なぜなら神が望んでいることがわが身に起こっているのだという意識があったからだ。気が付くと人数が多少なりとも増えていった。9年間お借りしていたよそ様の教会の会堂から出なければならなくなった時も「どうぞ次なる場所を示してください」とだけ祈っていた。会堂を建てる野心もなければ財もない。その為に献金を集めるアピールもしなかった。ただ神さまが前に置かれる課題をこなしていっただけであった。気が付くとその一年数ヶ月後に花園チャペルが建っていた。だから他の教会の先生方から「よく頑張りましたね」と言われることがあるが、全くその記憶がないのである。覚えているのは、ただ「主の御心がなりますように」とのみ必死に祈ったことと、あえて言うならサタンが必死に抵抗してきたこと位であるが、神さまご自身が戦い処理してくださった。クリスチャンライフとは、肉の戦いはあるが、神さまに委ね切ることができればかなり楽しく楽である。
 先日、20代のОLさんがこんな話をしてくれた。「先週のメッセージを聴いて、今まで自分の願いしか祈らなかったので、神さまの願いが実現するようにと祈りを切り替えました。そしたら不思議なことが起こり始めました。嫌なことがあっても『神さまの御心が起こっているのだから感謝しよう』と思えるようになりました。最近では人が寄ってくるようになったのです。家でも親に職場の不平不満ばかり言いウザがられていましたが感謝を語るようになり耳を傾けてくれるようになりました!」
 今年も一年を終えるにあたって神さまの足跡に感謝を捧げたい。