礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2022年6月26日

 ウェイン・コディロ先生が会衆に、このようにアプローチされたことがありました。「みなさんは、次の質問に全員手をあげてください。」と前置きをしてから、「では、この中でフルタイムのミニスター(伝道者)は、どのくらいおられますか?」全員が手をあげました。それを見てから先生はこのようにお話を続けられました。「手をあげている人たちの中には、『自分は教会から謝儀をもらっていないのに、どうしてフルタイムのミニスターなんだ?』と疑問に思われる方がいらっしゃるでしょう。この中には、会社員もいるでしょう? 学校の先生もいるでしょう? お医者さんもいるでしょう? それぞれ給料は、会社や学校や病院など違った場所から支給されますが、もっとその向こうの源まで行き着くならば、それは神様から与えられているものですよ!」
 またある日、スピーカーを移動させている奉仕者に問うたそうです。「あなたは、今何をしていますか?」その人は言いました「スピーカーを移動させているのですよ」しかしコディロ先生は言いました「いえ、あなたはスピーカーを移動させているのではありません」「いえ、移動させています。見ればわかるでしょ? 私は一体何をしているというのですか?」そこで先生はこう答えられました。「スピーカーを通して、メッセージの声が拡張されて人々に聞きやすくなるでしょう。あなたは礼拝に来る人々が、メッセージを聞きやすくして、イエス様を信じる決心をするお手伝いの宣教の働きをしておられるのですよ!」
 これは、私たちがどのような立場であったとしても、それぞれは神さまが遣わされた宣教者であることを説明されるために用いられたお話しでした。宣教の働きは必ずしもメッセージをしたり個人伝道することだけではない。その働きは多岐に渡ります。その中でも“祈り”は究極の宣教の働きであり奉仕であると確信しています。
 見える奉仕ができなくても、見えない祈りは強力な奉仕です!

心のオアシス 2022年6月19日

 萩本欽一さんの息子さんは、なんと大学受験のための予備校に通い、いざ受験というときになった時に、「さあ、就職だ!」と叫んだそうです。欽ちゃんが子どもたちに言っていた「人と違うこと、また、やったことが無駄になるようなことをやれ」という言葉を実践したそうです。そんな面白い息子さんは、リフォーム会社に就職。しかし1ヵ月後に息子さんから家のリフォームを300万円ぐらいでやらせてもらえないかと電話がありました。彼はそれまで契約ゼロ。何とかするべく父親にすがってきたわけです。欽ちゃんは息子さんに「セールスマンとして失格だ! いい加減にしろ!」と怒りました。息子さんは下を向いてだまっていましたが、その後、欽ちゃんは言いました。「だけどな、そんなメチャメチャな話でも、『わかった』って言ってやるために親父ってのはいるんだよ」そして最後はリフォームを引き受けたとのこと。息子さんは、喫茶店でボロボロ泣いたそうです。実は欽ちゃん、最初は怒らずに優しく話して断ろうと思っていたそうです。それは何でも親がやってあげては、息子さんが成長できないから。
 子どもの無理なお願いを聞くのも親の愛、断るのも親の愛です。勿論、人間の親は完全ではないことを前提ではありますが、親と子の関係の中に、天の父なる神さまと私たち人間の関係を垣間見ることができます。愛は、無条件であり、基本、そこに存在しているだけでいい、という思いが根底にあると考えられます。もし子供や愛する人が原因不明の病気で寝たきりになってしまったとするならば、病室のベッドで横になっているその人は愛せないでしょうか? そんなことはないはずです。寝たきりでも、何も結果を残せなくても、何もお手伝いができなくても、愛しているはずです。何かをしてくれたときや、何かの結果を残したときだけ認めるのは“愛”ではなく“評価”です。愛は、無条件なのです。 
 天のお父さまの愛に感謝します! そしてお父さんにも感謝です!

心のオアシス 2022年6月12日

 中国の昔の話でありますが、後漢時代に楊震(ようしん)という人がいて、非常に高い地位にあった人物でした。この人があるところへ赴任した時に、下心を持った部下が挨拶に来てお金を贈りました。「どうぞこれをお取りください。もう夜ですから誰も知っている者はありません」と言いました。そうすると、この楊震は「いや、知っている人は少なくとも四人おる。天知る、地知る、子(し)知る、我知る」。天が知る、地が知る、「子」は「あなた」で、あなたが知る、私が知る。だから誰も知らないなんていうのはとんでもない話だと言って、その持ってきた人を戒めました。これを“四知(しち)”と言うそうですが、その通り知らぬ人はいないし、知っている人は必ずいるわけです。
 これは悪い行いだけに適応できる言葉ではありません。善い行いも同様に、「四知」。日本には「陰徳」という人に知らせずひそかにする善行することが大切にされてきました。ちなみに「陽徳」というのもありまして、これは人が見ているところで徳を積むことをいいます。良いことをしたときに、「それ、私がやったんだよ!」と言うのが陽徳で、もちろん善いことをしている訳ですから素晴らしいことなんですが、もう一つ上の素晴らしさを感じるのが「陰徳」なのだと思います。ある方の言葉に「見て見ぬふりより、助けて助けていないふり」というのを聞いたことがありますが、まさしく「陰徳」の極みだと感じさせられます。誰かが困っていたら、率先して助けて、でも手柄は他人にあげてしまうのです。もちろんその行いも「四知」です。あなたが人知れず頑張っていることも、人知れず赦していることも、人知れず助けていることも、人知れず祈っていることも、人知れず捧げていることも、明らかにされないことはありません。
 「隠れた事を見ておいでになるあなたの父は、報いてくださるであろう。」(マタイ6:6)「御霊も言う、『しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく』(黙示録14:13)

心のオアシス 2022年6月5日

 先日、ある方(愛称:おっちゃん)の直葬の司式をさせていただいた。クリスチャンではあったのですが、どこの教会にも属していない人でした。いくつかの教会を渡り歩いている人で、病床で「関西カルバリーに行きたい・・・」と言っておられたことがキッカケとなり、ご遺族の要請があったことから私が司式をする運びとなった。未信者の妹さんによると昔はかなり荒くれ者だったようでヤクザまがいの仕事もしていたようです。しかしイエスさまを信じてからガラリと生き方が変わったとのこと。人からむしり取る生き方から、与える人になったそうです。火葬前式には何人か“おっちゃん”が関わっていたご友人が参列されていてお話しをお伺いすると、“おっちゃん”の悪い話題は一切出てこない。生前に「おっちゃんには、こんな助けをいただいた。」「こんな親切をしてもらった。」という話題ばかり。確かに私たちの教会にも何年も前に来られていた時期には、教会の子どもたちに毎週お菓子を持ってきて配っておられた。また喫茶店の手作りサンドイッチを毎週日曜日、私に持って来てくださっていた。ホテルのレストランに招待してくださったこともあった。親しい人には、いつも「牧師先生は大切にせなあかんぞ!」と言っておられたようで、ご自身がそれを実践しておられたことに感動した。
 ジェラール・シャンドリの名言の中に「一生を終えて後に残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである。」というのがある。私たちはこの世で、“得る”ことばかり求めていないだろうか? でも結局、人生の最後に残るものは、“得た”ものではなく“与えた”ものであることを彼は証明してくれた。“おっちゃん”には学歴も名誉も財産もなかった。この世の中で受けたものは少ないように見えた。でも与えたものが想い出として多くの人たちの心に残った。私もそのような生き方をしたいと“おっちゃん”の人生の最後に願わされた。
 「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒行伝20章35節)

心のオアシス 2022年5月29日

 先週5月23日(月)、花園チャペル建設地での起工式を無事終えることができた。新しい土地で初賛美、初メッセージさせていただけて感無量であった。
 そこでの式辞の内容は工事関係者の方々を意識して詩篇127篇1~2節「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。」の箇所からこんなお話しをした。「造られたものには必ずメーカーがあります。家であればハウスメーカーもそうですし、車のメーカー、時計のメーカーなどがあります。メーカーがあることは、私たちの安心にも繋がります。なぜなら壊れたら製作者に持っていけばいいからです。時計が壊れてハウスメーカーに持っていっても修理はできないでしょう。時計は時計のメーカーに持ち込まなければ直ることはありません。国や時代を越えて世界中の人々が抱えてきた悩みが少なくとも4つあるという資料があります。その一つは「空白感」です。自分を満たすために色々なものを手に入れますが永続的な満足には繋がりません。二つ目は「孤独感」。家族がいても、友人が何人いても、自分のことを本当に理解してくれる人はいないと孤独を感じる人も多くいます。三つ目は「罪責感」。心のどこかで“赦されたい”と叫んでいるというのです。四つ目は「死に対する恐怖」。人間はどこから出てきて、どこへ帰っていくのかわからない不安があるものです。これらの不安に対しては、人間を造られたメーカーに持って行くしか解決はありません。違う何かで埋めようとしても埋まらないのです。聖書には、「神が私たちを創造した」と書かれています。私たちのメーカー・造り主なる神さまに持って行かなければ根本的な解決はないということです。是非、人生の土台にイエス・キリストさまを据えてください!」栄光在主!

心のオアシス 2022年5月22日

 幼稚園の頃から俺はずっといじめにあっていた。友達はいなかったので本ばかり読んでいた。大学は地元を離れたが、今更ねじれた根性が直る訳もなく、やはり俺は一人ぼっちだった。たまたまクラスが同じになり俺の前の席に座ったのは、見た目も性格も素晴らしい男だった。しかし俺はヤツを警戒し、接触は極力避けるようにした。だがヤツは何の気負いもなく笑顔で話しかけてきた。どもってロクにコミュニケーションもとれない俺に一方的に話しかけて笑っていた。なぜか俺とヤツは一緒に行動するようになっていた。同じ授業を選び、同じサークルにも入った。とは言え、まだ本音で付き合っていた訳ではなく、一定の距離は置いていた。夏の日、サークルの部屋に入る直前で中の会話が聞こえてきた。同じサークルの女子連中が、「なんであんなのと、つるんでるの?」と聞いていた。今更他人にどう評価されようと知ったことではなかったが、これはヤツの気持ちを知る良い機会ではあった。「おい、今『あんなの』と言ったか? お前らにあいつの何がわかる?! 俺やお前なんかかなわない位、すげー生き方してきてるんだ。 なんでつるんでるか聞いたよな? あいつは『いいヤツ』だからだよ。」その後ヤツからメールが来た「サークル辞めようぜ。つまんねぇや」。それからもヤツとはつるみ続けて、気づいたら人並みなりの人間関係もできていた。俺の人生は、あの大学のあの日、ヤツに救われたといっても過言ではない。今でも連絡は取り合っている。骨髄移植が必要になっているようだ。ヤツを死なせる訳にはいかない。明日、会社を休んで病院に行く。きっと俺の骨髄は適合するだろう。しなければならない。それが、俺が生まれてきた意味の一つに違いないはずだから・・・(ある男性の投稿より抜粋)
 私も今まで“ヤツ”のような存在に助けられてきた。そして私も誰かの“ヤツ”になりたい。私の人生最高の“ヤツ”はイエス・キリストです。このお方のために生きたいと切に願わされる毎日です。

心のオアシス 2022年5月15日

~NYリハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩~

 大きなことを成し遂げるために
 力を与えて欲しいと神に求めたのに
 謙虚を学ぶようにと 弱さを授かった。

 偉大なことができるように健康を求めたのに
 より良きことをするようにと 病気をたまわった

 幸せになろうと富を求めたのに
 賢明であるようにと 貧困を授かった

 世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに
 得意にならないようにと 失敗を授かった

 人生を楽しもうとして あらゆるものを求めたのに
 あらゆることを喜べるようにと 命を授かった

 求められたものはひとつとして与えられなかったが
 願いはすべて聞き届けられた
 
 神の意に添わぬものであるにもかかわらず
 心の中に言い表せない祈りはすべて叶えられた
 私はあらゆる人の中で 最も豊かに祝福されたのだ

 この詩を通して学べることは、神に対する絶対的な信頼は人を本物の幸せへと導いていくということです。幸せはその人の境遇や環境に関係なく、その人の心一つで与えられるものです。

心のオアシス 2022年5月8日

 以前、B&Bという漫才コンビがいましたが、その一人は島田洋七といいます。島田さんのお父さんは、彼が2歳のとき、広島の原爆のため死去。そのためお母さんは、夜、お店で働き、二人の子どもを育てました。しかし、訳あって、島田さんは小学2年生のときから、佐賀のおばあちゃんに預けられます。このおばあちゃんは、「がばい(すごい)ばあちゃん」でした。彼女は夫に先立たれ、貧乏のどん底暮らしの中、学校の便所掃除の仕事をしながら、7人の子どもを立派に育てたおばあちゃんです。このおばあちゃんは、貧乏ですが、底抜けに明るく、前向きでした。例えば、島田さんが見るも無残な通知表を、おばあちゃんに申し訳なさそうに渡した時の会話・・・「ばあちゃん、1と2ばっかりでごめんね・・・」「大丈夫、大丈夫。足したら5になる!」「えっ?! 通知表って足してもいいの?」「人生は総合力!」そうキッパリ言い切るおばあちゃんだったそうです。
 物事を見る視点を変えたら、違う世界が見えてくるものです。現実から、今ある問題を見ると、到底受け止めることができない大きなものに見えても、天地宇宙を創造された神さまの大きさと比べるならば、比べ物にならないほど、その問題が小さく見えてきます。
 先週ご紹介した星野富弘さんの詩の中の「神様がいるんだもの なんとかなるさ そしていつも なんとかなった」このフレーズは神さまを信じるすべての人は心に刻み込むことが大切だと思わされている。勿論努力を怠ってはならないが、それでもこの世の中での評価が1や2であっても落ち込むことはない。神さまは何とかなるように、この世の中を回してくださっている。家族、人間関係、仕事、経済、進学や就職など、様々な不安や心配が人生にはつきまとう。結果が思うようにいかなかったとしても、諦めてはならない。なぜなら神さまは諦めておられないからです。四肢欠損症で手足なく生まれてきたニック・ブイチチさんは、「絶対に諦めるな!何とかなるから!」と世界中を回ってメッセージを送り続けておられる。 
 「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ5章36節)

心のオアシス 2022年5月1日

  苦しくてどうしようもない時 いつもうかんでくることばがあった 
  神様がいるんだもの なんとかなるさ そしていつも なんとかなった
 これは体育の教師として部活の指導中に着地に失敗し頚髄損傷して首から下が麻痺してしまった星野富弘さんの詩です。何度この詩に励まされてきたことか。そしてこれが私のライフメッセージにもなっている。
 先日、教会へお菓子を贈ってくれた関東圏に住む男性にお礼の電話を入れたときのことであるが、こんな話をしてくれた。「今は医療関係で働いているので教会へ行くことができなくなってしまっているのですが、関西カルバリーフェローシップの礼拝をYouTubeで毎週視聴しています。先生のメッセージは昔も今も変わらず、結論はいつも『主にあって何とかなる!』ですよね。僕はそれに大変励まされてきました!」
実は私は18年(?)程前に大和カルバリーチャペルの火曜礼拝を担当させていただいた時期があり、その時にこの男性がクリスチャンの友人に誘われて礼拝に来られるようになった。当時彼は鬱を患っていて仕事をすることができない状態にあった。当初は、みんなが働いている昼間に仕事もしないで会堂の長椅子に座っている自分を見て「僕の人生は終わったな・・・」と思っていて、牧師が「主にあって、あなたは何とかなる!」なんてメッセージされても、自分の状態を見たら何とかなるようには思えなかったと告白されていました。しかしその1年後に受洗し、社会復帰することができるようになり、恵まれたクリスチャン女性と結婚し、「今考えてみると、小崎先生が言っておられたように“主にあって何とかなってる!”と気付かされています」とお話しなさった。
 四面楚歌(周囲が敵、反対者ばかりで味方のないこと)の状態になった時でも神に祈りの手をあげることができる人は幸いです。自分にとって助かる可能性がゼロになった時に、神さまは力強くお働きくださり、不思議な方法で救い出してくださるのが神さまのやり方なのです。
 「モーセは言いました。『みんな、怖がってはいけない。今いる場所にしっかり腰をすえて、今日、主がすばらしい方法で救ってくださるのを、よく見ようではないか。あのエジプト人を見るのも、今日が最後だ。主が代わりに戦ってくださる。だから、みんなは指一本、動かす必要もない。』」(出エジプト記14:13~14/リビングバイブル)

心のオアシス 2022年4月24日

 聖書の中には、それぞれのみ言葉の意味が真逆のように思われるものがいくつもある。だからこそ神学論争が起こることがあるのだと思う。しかし、体験を通して真逆だと思っていた両面がブレンドされて、どちらも神さまの目には正解ということが多々あるのだと思うようになった。例えば「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言19:21)と「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ2:13)の言葉は、それぞれ“神の主権”があることは共通しているが、人に願いがあっても神の願いが成る一方で、人に願いが起こりそれは実現される、ともある。これをどう理解すれば良いのか? 今回の会堂建築を通してこの両面を体験している。
 数年前からいつかは借り物の会堂から出なければならないことを想定して賃貸で場所を探し始めていたが、どこも私たちの教会の支払い能力を超えている賃料で諦めていた。一年前、いよいよ出なければならない状況になった。その時点では賃貸などの頭金などを見越して12年間貯めていた指定献金が2400万円。もう少し集まれば石切周辺の土地なら3000万円で得ることが出来るので、そこに簡易的な建物を建てて、経済が祝福されるようになってから会堂を建てても良いのでは?という案が浮上し私もそのつもりで土地探しを始めた。しかし良いと思える四ヵ所の土地がすべてダメになった。初期に見つけてはいたものの吉田駅から700mの70坪の土地は5400万円もして予算オーバーで候補の中に入ることはなかった。しかし去年暮れにメーカーさんから薦められ、会堂のためには最高の環境であることがわかり、去年の暮れまでには同額の指定献金額になっていて、それが“しるし”となり購入に至った。建築業者や設計事務所は7社ほど検討して最有力候補になったのが安価なモバイルハウスであった。ダイワハウスさんは候補としては最下位であったが60年保証がありながら、初めて教会を建てるということでサンプルケースに認定され驚くような割引価格になり建築をお願いするに至った。
 このように私たちの思いや願い通りではないのに、神さまの計画は着々と進められ、結果はみんなが満足する方向へと全てが導かれている。 
 私たちは主の絶妙なみ言葉のバランスの中に生かされているようです。