礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2022年2月27日

 カトリックの神父さんに、「どうしてSt.(聖)フランシスコなど、カトリックでは名前の前に“聖”とつけて聖人とするのですか?」と質問したことがあった。それに対して「勿論、イエスさまを手本として生きていかなければならないのですが、昔の偉人というよりも、その時代その時代に見習うべき人物を立てると、もっと身近に感じ目標にもしやすいでしょう? 聖人というのは、我々が、『この人のようになりたい』という思いを与えるための存在なのです。」との説明を受けた。
 確かに私たちの身近に模範となるべき人がいると、その人を目標に生きることができる。私も年齢的に、これからどのような生き方をするべきか?と自問自答することがあるが、いつも結論は、「若い世代の人たちに希望を与えることができるよう年を重ねていく」ということ。勿論老いる弱さを思いやる必要はあるが、そこばかり焦点がいくと一種の諦めのようなものが心を覆ってしまう。もし私の周りに日曜日に一回しか礼拝をしない教会ばかりであったら、「一回のメッセージは8時間労働に匹敵するのだから」と言って、午後礼拝も堺チャペルの夕礼拝もしなかったでしょう。しかし母教会の大川先生は私の年齢の時には、日曜日三回の礼拝をしてから、飛行機でカナダやアメリカに飛んで時差を利用して四回目の礼拝を現地でしておられた。私はそれを身近に見ていたので、自分にもできると思えた。数日前にその大川先生ご夫妻と大阪でお会いしたが、ある聖会でのご用をされ一日中お疲れのはずだが、私たちの会堂建設予定地にわざわざ出向いて来られお祈りくださった。奥様先生は、「色々と思うように体が動かなくなってきたけど、そんなこと言ってられないわよー」と80歳代になっても全力で主の業に励んでおられる姿に、私は大きな力をいただいた。数年前に私の体力が落ちてきたことを実感した時に、加齢だからと諦めずにスイミングに通う気持ちになれたのは、99歳の方が目の前で100回腕立て伏せをされた姿を思い出したから。年配の方々が長く早く泳いでおられる姿を見ると、自分はまだまだだと思えるようになった。若者に夢を与えるものになりたいと思う。

心のオアシス 2022年2月20日

 ハ・ヨンジョ先生が生前にこのようなメッセージをされていたことを思い出します。「犠牲が伴わなければ、本当の平和はありえません。神と私たちの間に和解は、どう頑張ってみても成立しません。なぜなら神と人とには大きな隔たりがあるからです。その為には執り成し手、すなわち神であり人である存在が必要でありました。そしてそのお方が死の犠牲を捧げたことによって回復がきました。私たちの和解は、長続きしません。なぜなら犠牲と死がないからです。現代に必要なものは、経済の回復や人権を守ることや、統一や、平和でもありません。人々は、これらのものを求める故に争うのです。平和に対するさまざまなイデオロギーがありますが、イデオロギーは平和を与えることはできません。それぞれの考え方が異なれば、そのことが敵になるからです。戦いには、双方の正当な言い分があるのです。人々に本当に必要なことは、神との回復なのです! バカのように聞こえるけれども、イエス様を受け入れれば、人々は悔い改め、感動し、赦しがそこに起こるのです。」
 この何千年もの歴史を見ても、人々の間に、国と国との間に、さまざまな平和論やイデオロギーや哲学が示されてきました。しかし現状は、どの時代も地球上のどこかで争いや戦いが繰り広げられています。人間の知恵によっては何の解決にもなっていない現実を見る時に、私たちに必要なことは、まず神と人との和解であるということに気づかされます。
 イエスさまは、十字架につけられる前に弁論の余地はあったにも関わらずご自分を主張されなかったのは、神の側の正論を述べて和解をしようとは考えなかったからです。神の正しさを主張することが、人間との平和には繋がらないことをよくご存知であられたのです。そこでイエスさまは犠牲と死が伴う永遠の和解を選ばれました。日本には「負けるが勝ち」という言葉がありますが、神の側が犠牲を払うことによって人間との平和を勝ち取ってくださいました。人間側が自己主張しても、神さまが私たちの罪の代価を十字架で支払ってくださったことによって、今の平和があるのです。「神の和解を受けなさい。」(Ⅱコリント5:20)

心のオアシス 2022年2月13日

 アルバート・アインシュタインはかつて黒板の計算式を解いた。
 9×1=9
 9×2=18
 9×3=27
 9×4=36
 9×5=45
 9×6=54
 9×7=63
 9×8=72
 9×9=81
 9×10=91
 アインシュタインが間違った答えを書いたため、教室は混沌とした。 明らかに、9×10の正解は91ではない。そしてクラスの生徒たちはみんな彼を馬鹿にした。アインシュタインはみんなが沈黙するのを待って言った。「9つの問題を正しく解答したにも関わらず、誰も祝福してくれなかった。でも1つ間違えた時、みんな笑い始めた。これはたとえ人が成功しても、社会はあなたの僅かな過ちに気づくということだ。そして彼らはあなたの失敗を気に入るだろう。だから、批判に夢を破壊させないように。 決して間違いを犯さない唯一の人は、何もしない人です。」
 確かに人は指摘されることは多くあっても、褒められることは少ないのではないかと思う。私がかつて学生会の担当牧師だった時代に、各月に誕生会をしていた。全員にプレゼントをすることができなかったので、代わりに“言葉のプレゼント”の時間をもった。お祝いする学生に対して一人一つだけその人の良い点を言葉にして贈るというものです。ある時に言葉のプレゼントを受けていた一人の女子学生が急に号泣してこう言いました。「こんなに良いと思われている部分が私にあったことを知りませんでした!」誰が何と言おうと“あなたは高価で尊い”のです。

心のオアシス 2022年2月6日

 「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦難、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(2コリント12:10)
 人生にはどうにもならないことがたくさんあります。時代も性別も国籍も体形も髪の色も、すべては定められたことであって人の選択の余地を越えたどうにもならないことばかりです。それ以外にも、生まれながらの身体や精神の障がいがあり、個人の選択を越えた戦禍や天災などの悲劇があります。人はどんなに恵まれた人であっても、そのうちの一つや二つ、必ずこうした宿命的とも言える弱さととげを背負わされてあえいでいます。
 しかしまた、多くの人生の勝利者たちの証言を聞くと、何と多くの人々が、その宿命的なとげや弱さを転機として、その人独自の新境地を展開させてきたことでしょう。ヘレンケラーしかり、家庭的不遇に育ったチャップリンしかり、身近なところでは、水野源三さんや星野富弘さんしかりです。使徒パウロは、自分の身体的なとげのために、それを取り除いてくださいと、神に三度も祈りましたが、三回ともつき返されます。 神からの答えは、それを取り除くことではなくて、その痛みを活用せよということでした。主は、わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。と言われたのです。ですから、「私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と語っています。それは、未解決だからこそ見出すことができた解決であり、失ったからこそ、つかみ取ることのできた大発見でした。あなたの弱さとあなたのとげ、それは未知なる恵みの宝庫への入り口です。(「日々の宝」吉持章著書より)
ある方が五行歌の中に「子供を幸せにするのではなくどんな状況でも幸せになれる子どもを育てよ」と書かれていたが、聖書もそのようなメッセージが多い。それは現実を諦めよというのではなく、解決や癒しを求め祈りながらも“今”を受けとめながら神に委ねるということです。

心のオアシス 2022年1月30日

 「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ福音書16章33節)
 これは多くの人たちに励ましを与えてきた言葉である。先日もこの箇所を瞑想しているうちに大きな恵みを受けた。ここの「勇気を出しなさい」と言われる背後に、「イエスさまはすでに世に勝っているから」という理由が述べられている。ではイエスさまは、どうやって“世に勝った”のか? 前の32節にそれが語られている。「あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである」 簡単に説明すると、ローマの軍隊がイエスさまを捕らえにやってきた時、3年半共に過ごし「私だけはつまずきません!」と豪語していた弟子たちは、恩師を見捨てて皆逃げ出します。一人残され、孤独と悲しみに陥ったイエスさまの励ましは、「天の父なる神さま」だけは、その苦悩の中でもご一緒くださっていることを知ることだったのです。家族がいても、友人がいても、本当の自分のことを理解してくれる人はいないという孤独が人にはあります。でもそんなこの世の悩みに対して創造主なる神が、いつもご一緒してくださり、理解し励ましてくださっていることを知ることが勝利の秘訣なのです。
 一人の母親が8歳の娘を白血病で失いました。亡くなる時期も近い、ある夜に、消灯時間が過ぎても寝つかれないでいる、その子のために、若い看護師が本を読んであげたそうです。やがて静かな寝息をたて始めましたが、その看護師は、なおも30分近くベッドサイドにいました。その子供の死後、その子の母親はこう語りました。「あの子がその夜、ふと、うす目を開けてみたら、まだ看護師さんが傍らにいてくれた。『眠らせるためにだけ本を読んでくれる人が多いのに、本当にうれしかった』と言っておりました」
 イエスさまは、寝てから30分どころではなく、いつもいつまでも、「大丈夫、安心せよ」と、傍らで私たちを励ましてくださっているのです。

心のオアシス 2022年1月23日

 実業家で作家の本田晃一氏が「半径3メートル以内を幸せにする」という著書の中でこんなことを書いている。
人は、自分を喜ばせること以上に、大切な人を喜ばせることに、より深い幸せを感じるようになっているのではないかな、と思います。1万円で、自分の欲しかったものを買う。これも幸せです。だけど、同じ1万円で、大切な人を喜ばせることができたときは、もっと幸せではないでしょうか。人それぞれかもしれないけれど、僕にはどうも、人間はそんなふうに設計されているように感じられるのです。だったら、その本来の設計どおりに生きたほうが、より幸せになれるでしょう。とはいえ、自分が満たされているという前提がなければ、人を喜ばせるということに疲れてしまいます。さっきの例だって、明日のご飯にも困る状態では、いくら大切な人のためでも、1万円も使うことはできません。
(中略)
 与えたら見返りがほしい。与えたら認められたい。これは、自分が満たされていないから、思うことです。満ちていない状態で、人を幸せにしようとすると、いまだ満ちていない自分の欲求不満を、相手に思いっきりぶつけることになってしまうのです。一番の理想は、「相手を幸せにすることそのものが自分にとっての幸せであり、そのあとは、ぶっちゃけどうでもいい。見返りや承認なんて求めるまでもなく、幸せにするだけで幸せなんだよ~!」という状態です。つまり、まわりの人を幸せにすることで、何より自分が幸せになるということ。もっといえば、自分が幸せでいたいから、まわりの人を笑顔にするということです。そのためには、まず自分を満たすことが大事だし、自分が喜んでできる範囲を見極めることも欠かせないでしょう。

 著者が聖書を読んでおられるかどうかはわからないが、神の“法則”を直感的に発見されたのではないかと思わされる。私も若き時代は受けることが多かったが、年を重ねるごとに与える恵みを学ばされている。

心のオアシス 2022年1月16日 

 あなたが好かれ、嫌われる割合は、以下の通りだそうです。
世界中の2割の人は、あなたがどんな行動をとってもあなたの事を嫌いになる。6割の人は、行動によって好き嫌いが分かれる。でも残りの2割の人は、あなたがどんなヘマをしてもあなたの事を好いてくれる。世界はそういう比率でできてるらしい。“捨てる神あれば拾う神あり”ということわざが、そのままデータ化された感じがします。
 この2:6:2の比率は他の分野でも検証結果がでているようです。例えば、どこの職場や学校にも、2割は良くできる人、4割はそこそこの人、2割は全然できない人がいるようです。できない人は必要ないのか?と思いきや、ある社長さんはこのように言っておられた。「2割の仕事ができない人がいるからこそ、2割の仕事ができる人が育っているのです。ですから仕事ができない人も2割必要なのです。」これは神さまが与えたこの世における絶妙なバランスです。だからこそ、私たちは他者と比べないで、神さまが与えてくださった“自分”を精一杯咲かせれば良いのだということです。
 「世界に一つだけの花」という歌の中に、このような歌詞がある。
   それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?
   一人一人違うのにその中で 一番になりたがる? 
   そうさ 僕らも 世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ
   その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい
   小さい花や大きな花 一つとして同じものはないから
   No.1にならなくてもいい もともと特別なОnly one
 この神の法則を知ると、もっと他者に寛容になれるし、こんな自分でも神は必要としてくださっているし愛してくださっている、という気持ちを持つことができる。他者を批判するべきではないし、自暴自棄にもなることはない。あなたがあなたである故に必要とされているということです。あなたの造られた目的は、主に従うことです。その目的のために自分自身を用いるよう心掛けていたら、どんな人も輝き出します。 

心のオアシス 2022年1月9日

 旧約聖書の知恵の書の一つである箴言11章24~25節に「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。」という格言がある。誠にその通りだと思う。母教会の大和カルバリーチャペルは、“与える教会”です。最近も主任牧師が、「私たちは自分だけが潤うのではなく、他者を潤す者とならなければ、やがては廃れてしまうでしょう」というお話しをしておられたが、私もそれを実践しようと決心して、開拓初期から、そのような教会の在り方を試みてきた。 
捧げてきたことを公にすることは“自慢”とも受け取られかねないし、そのようなことを他言すべきではないと自覚はしているが、一つの祝福の証として書かせていただくことをお許しいただきたい。
 私たちの教会は、ご存知のように先月、土地購入の仮契約を済ませることができた。その土地の価格交渉の中で、短期間のうちに現金で買うのであればという条件でリーズナブルな値引きがされた。そこで教会の12年間に献げられてきた「土地&会堂指定献金」がどの位貯まっているのかを調べてみると、なんと仲介不動産に渡された手数料などもすべて含めた見積りと寸分たがわず同額となっていた。その額5400万円。これは大きな額の献金をしてくださった人も、小学生が新会堂のためにその分を捧げて欲しいと、両親からの誕生日プレゼントを辞退した小さな献金もすべて主の手の中にあることを示している数字である。どうやって貯めることができたのか? 勿論、大切な献金を無駄遣いしたことは一切ない。でも一つ心当たりがあるとするならば、他のミニストリーのために献げてきたということです。開拓を始めた数年間は、牧師へ支払う謝礼は全くなかったが、被災地や貧しい国の子どもたち、苦労している他教会、いくつかの宣教団体へ毎月捧げてきた。その結果がこれなのです。私たちは無謀になってはいけないが、神さまからの促しがあればそれは祝福へと繋がることだという認識は大切なことです。
 今年の個人的な抱負は「施し散らして富を増す!」 楽しみです。

心のオアシス 2022年1月2日

 元日と元旦の違いは・・・「元日」とは、1月1日、1年の最初の日のこと。「元旦」とは、元日の朝のことで、新しい年を迎えることをお祝いする日という意味があるそうです。古来より日本では年末になるとお坊さんにお経を唱えてもらう風習があり、これを俗に「釜締め(かまじめ)回り」と言い、“火の神様”に対して一年間の感謝をしてお正月には休んでいただくのだとか。だから正月には竈(かまど)を使用することができないために保存が効くような食べ物を前もって準備していたのが「おせち料理」ということだそうです。因みに年末によく「年の瀬」という言葉を耳にすると思いますが、この言葉は江戸庶民の生活からできた言葉で、「年の瀬」の“瀬”は川の瀬のことで、川が浅くなり流れが急に早くなり船で渡ることが困難な場所を指します。江戸庶民の生活は「ツケ」がほとんどでした。その「ツケ」を年末に清算しなければならないが、そうするとお金が無くなり正月を迎えられなくなる。支払いたいけど支払えないという困難さを、川の瀬にたとえて表現し、年末の慌ただしく押し詰まっている様子を「年の瀬」と言うようになったとのこと。
 関西カルバリーフェローシップは、この「年の瀬」ならぬ「神の瀬」を経験している。それは様々な崖っぷちに対して、天地万物を創造された主が、私たちの能力や限界を超えた圧倒的な力で乗り越えさせてくださっているということです。私は昨年の春ごろから何か大きな力が加わるのを感じ始め、年末にはその流れが急加速した。主は休むこともまどろむこともなく、確実に私たちをある方向へと導いておられるのを感じている。神さまが動き始められると地響きがするようです。
 ロシアで宣教しておられる先生が、その働きを担うことができる秘訣を「無力さで満ちていることだ」と言われたことに驚きを覚えた。主が喜ばれるのは、礼拝堂の大きさでも、メンバーの数でも、画期的なプログラムでもない。どんな状況でも主のことばを信じて従う無力な人だということなのです。今年はどんな壁が立ちはだかるでしょうか? しかし主にとっては何の妨げにもなりません。信頼して進みましょう!

心のオアシス 2021年12月26日

 “今日まで守られ 来りしわが身 露だに憂えじ 行く末などは 
 如何なる折りにも 愛なる神は すべての事をば 善きにし給わん”
 これは毎年の年末感謝礼拝で捧げている聖歌292番の一節です。私にとって2021年ほど、この聖歌の歌詞が身に染みる年はありませんでした。今年は多くの崖っぷち経験をさせられた。まず年明け早々に、9年間、会堂をお借りしていた東大阪福音教会の牧師先生から、「諸事情あって今使っている土地と会堂を引き払って、石切チャペルに戻ることになりそうです。」という打診を受けた。数年前に、いずれは出なければならないことを想定して、能動的に役員さんたちと他所を探し回ったことはあったが、賃貸はあまりにも高すぎて購入したほうがよほど良い。しかしまだその時点では土地購入の話題は全くなかった。そしてそのまま数年間が経過した。今年になって受動的に“出なければならない”という崖っぷちに立たされた。ところが今まで聖別しておいた会堂&土地指定献金の額を調べると3千万円ほどになっていた。これを足掛かりにして「土地を買って、それを担保にして会堂を建てることができるのでは?」という機運が高まった。そこで祈りが引き上げられ、献げる方々が与えられた。土地探しは困難を極めた。ことごとく契約直前で破談になる。もう妥当な土地はないのではないかと思われた崖っぷち状態から、けいはんな線・吉田駅から徒歩9分、花園ラグビー場から300mに位置し、片側3車線もある道路沿いにある好立地な土地が突如舞い込んできて無事仮契約できた。その土地の値段は手数料など込みで計5400万円。なんと今年与えられた指定献金を加えると、寸分違わずそのままの額が与えられていたのです。
 そして先月、「石切チャペルから今年いっぱいで出て欲しい」との宣告に、「このイスラエルの民ならぬ関西カルバリーの民は行き場を失って路頭に迷うのか?」と思いきや、石切チャペルの裏隣のイベントホールを神さまは用意してくださった。“紅海が分かれる”とはこういうことであろう。創造主なる神さまに信頼する道はワクワクドキドキは多いが安心感がハンパない! 神の計画は妨げられることはない。