礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2023年10月29日

 上皇后の美智子さまのご実家は敬虔なカトリック信者で、本人もミッション系の学校を卒業しておられるので聖書的な考えで発言されることも多々ある。数年前、乳がんの手術やホルモン療法を受けられて、その副作用と思われる手のこわばりがあったり大好きなピアノも思うように弾けなくなっていらっしゃるようだ。その現実をこのような思いで受け止めておられる。
 「今までできていたことは、“授かっていた”こと。
  今のできないことは、“お返しした”こと。」
 これは私も一生心に留めておきたい言葉だと思った。聖書のヨブ記の中に、「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(1:21)という言葉がある。私たちの肉体も家族も友人も仕事も家も経済のすべては、この地上で生きることができるように神さまが与えてくださったものである。何一つ天国へ持って行けるものはない。すべては神さまからの借り物であると考えることができたら、美智子さまのような悟りが与えられる。だからこそこの地上で与えられているタラント(授かったもの)の使い方が問われる。肉体も神さまからお借りしているものであるなら大切に扱うべきだと思う。そして神さまが喜ばれるために用いるよう心掛けるようになる。そしてタラントを増やして主にお返しする。これがこの地上で私たちが委ねられている使命である。できなくなったことにとらわれず、今まで楽しませてもらったことに感謝しつつ神さまにお返ししていくのが私たちの人生だと考えるならば、 何も悩むことはない。
 私は四捨五入すると還暦になるが、やはり若い頃できていたことができなくなってきたり、体力の衰えを感じたり、老眼が進んだり、色々と支障が出て来る年齢になった。預けられたものを感謝しつつ預けてくださったお方のために精一杯用いて、時がくれば感謝しつつ返納していく。この心を持ち続けることができたら、いつも喜んでいることができる。

心のオアシス 2023年10月22日

 ボランティアで登校時の“旗振りおじさん”を始めてはや一ヶ月が過ぎた。今のところ週に二回であるが、朝の小学生の様々な表情が見えてきた。朝からテンションの高い子もいれば、5分前に起きたばかりで表情がない子もいる。「おはよー」と呼びかけると応答してくれる子が大半であるが、黙ったままの子もいる。信号の待ち時間に旗に興味をもって質問しにきたり、話したことがないのに近寄ってきて「こないだの運動会は熱が出て出れなかった」と報告しにきたり、「コンパスを買っておいてとお母さんに頼んでおいたのに買ってなくて逆切れされた」と大粒の涙を流しながら来る子もいる。チャペルに出入している子たちは、私や恵先生を見つけて駆け寄ってきて「今度教会行けるで~」と予告してくれたり「10月の賛美YouTubeで聴いたで~今回の曲は好き~」と報告してくれる。地域性もあるとは思うが純粋で自分の気持ちをそのまま表現する子が多い。牧師室の冷蔵庫には子どもたちが自発的に書いてくれた感謝の手紙(私はラブレターと呼んでいる)がたくさん貼られている。
 先日もキッズクラスに来ている子どもたちがこんな嬉しいことを言ってくれた。「昨日は教会に来るのが楽しみすぎてなかなか寝れなかった」逆に「教会に早く行きたくて6時に起きた~」という子も。当然、平日はなかなか起きない子が日曜日には自ら起き、家に帰ってきたら教会でのことをキラキラ楽しそうに話す子どもを逆に心配する親御さんもいるだろう。しかしもし私がクリスチャンでなかったとしても、キリスト教会の中身を知っていたら進んで自分の子どもを日曜学校へ送り込むと思う。無料で“生きる意味”や“人生の何故?の対処法”を教えてもらえ、一緒に遊んでもらえ、讃美歌を聴いて歌って音感が養われ興味を持てばピアノなどの楽器まで教えてもらえる。おまけに一般常識まで指導してもらえる。そして輝いて帰ってくるのだから、これ以上の場所はない。
 最近来られるようになった人も「職場では避けられていたけど、教会に来るようになって笑顔が多くなったようで人が声をかけてくれるようになった」と喜びの報告をくださった。主は確かに生きておられる。

心のオアシス 2023年10月15日

 花園チャペルが完成して最初の入堂式礼拝を行なったのが丁度1年前の10月16日。当日の礼拝直前にサタンの攻撃であるかのような妨害があったが、式中神さまに賛美の拍手をしている間に、私にとっては珍しいことであるが、ものすごい形相をした悪魔がもがきながら奈落の底に落ちている幻を見た。その入堂式の終了する頃には問題は落ち着き、それ以降トラブルは全く解消された。つい先日もその問題となった人と教会近くでお会いしたので挨拶すると笑顔で30分も立ち話をされた。 
 この一年間振り返ってみると、サタンの様々な企てがなされていたようであるが、すべてが失敗に終わっている。主が戦っていてくださった。関西カルバリー丸に乗っておられる方々の熱き祈りと信仰とご奉仕、捧げものによって支えられている。これからも主が船長であり、そこに信頼する人たちがいる限り揺すぶられることはない。
 先週は献堂一周年記念聖会で、講師として立てられた倉知契先生(瀬戸CC)によって、「イエスはサマリヤを通過しなければならなかった」(ヨハネ4:4)の箇所から、「主はこの花園の地に教会を建てなければならなかった」とメッセージがあり、私たちの存在の認識を新たにすることができた。ここに集まる人たちのために神さまが建てられたのである。
 まだ土地を買う話題さえもなかった4年ほど前に、リビングライフの巻頭言を依頼され、こう書いていた。「私たちの教会は、まだ自分たちの会堂を所有していません。財力もありません。しかし、神さまが計画されているならば、いとも簡単に会堂が与えられると信じています。主が共におられれば、小さな群れでも大きなことが起こるのです」。会堂が建つことによって私が信じていたことは真実だったことが証明された。私たちの足りない部分を、神さまが様々な方法で補ってくださった。主と共に歩む人生は、恵みが付いて回る。人はどうして神さまを抜きにして歩もうとするのだろうか? 勿体ない話である。
 確かに主は意図して教会を建てられた。応える生き方をしたいものだ。

心のオアシス 2023年10月8日

 数ヶ月前からネット上では、広島県安芸高田市の議会の様子が注目を浴びている。2万7千人ほどの弱小自治体の定例会一般質問では異例の再生回数になっている。そこから切り抜き動画も多数上げられ私の目にも止まるようになった。そこには市長と市長反対派議員との壮絶なバトルが繰り広げられている。市長は理性で論理的に質疑応答をされるが、一部の議員は感情的に支離滅裂的意見を述べている。私は“感情”を否定するつもりは全くない。市民の幸せを思って感情的になってしまうのはありかと思う。市長に柔軟性も必要だが、ここの一部の議員の発言は、中立的立場で見ても恣意的な意見にしか聞こえない。市民を代表する立場の議員が自分のプライドを優先させて市民のことを全く考えていない姿が残念で仕方がない。この小さな市の行く末はどうなるのだろうか?
 「確証バイアス」という言葉がある。「バイアス(bias)」とは、「先入観」とか「偏見」を意味する。これは自分に都合のいい情報ばかりを集める現象のことである。例えば、子どもが携帯を欲しくて「クラスの皆が持っているから自分にも買って」と頼むことがあるが、「クラスの皆」とは言っても、実際は数人程度ということがある。自分の欲望や願いが強くなっているために情報が正しく見えなくなってしまい、自分の思い込みや周囲の環境などによって無意識のうちに合理的でない判断をしてしまうことを「確証バイアス」と言う。この心理現象に陥ってしまうと、どんなに論理的アドバイスをしても聞く耳を持たない。牧師をしているとそういう場面に出くわすことがある。例えば明らかに第三者から見ても違和感があるのに、自己主張のために都合の良い情報や一部の聖書箇所で自分を正当化したり、自分の結論が出ているのに相談に来られるケースもそれに当たる。恐らくキリスト教会から派生した“異端”と呼ばれる団体も、本気で自分たちは正しいと思い込んでいるのであろう。
 かく言う私も、そこに陥らないように気を付けなければならないと思っている。自分の先入観や願いからではなく、神さまのお気持ちや願いを最優先しつつ福音を伝えていかなければならないと肝に銘じている。

心のオアシス 2023年10月1日

 私たちの教会は、不思議なことに子どもたちが集まるようになった。夕拝をしている堺チャペルにも親に連れられてくる子が5,6名いて、礼拝の裏でキッズクラスをしている。日曜日の花園チャペルは、朝9時ごろから堺チャペルへ出発するまでの午後3時半まで小学生が入り浸っている。平日も学校が終わる時間帯にチャペルにいると芋づる式に10人前後が遊びに来る。私はそこまで子どもたちと関わることは望んでいなかったが、今は名前を覚えるように努力し、娘と共に登下校時に旗を持って横断案内するアイガード(見守り)になり、昨日は近所の小学校の運動会に来賓として招待され観覧させていただいた。いつまでこの波が続くかはわからないが、主が導かれるまでさせていただくしかない。
 無邪気に遊ぶ小学生たちには何も悩みがないように見えるが、一人一人と関わっていくうちに“闇”の部分も垣間見えてきた。複雑な家庭環境、友達ができない孤独、人間関係の亀裂など大人だけではなく子どもたちも傷つき悩んでいるということに気が付かされた。居場所を求めて教会に来ている子もいるだろう。しかし教会にはそのような子たちに伝えるべき“お方”がおられることを感謝している。これは世の中の児童カウンセラーには持ち合わせていない“答え”であり“解決策”である。
私も留学時代に言葉も通じない、友達もいない孤独を味わい夜空を見上げながら涙したことがあったが、この“お方”が私の友となってくださり、孤独の壁を乗り越えていくことができた。その“お方”の名前は、「イエス・キリスト」。このお方に、私たちの救いと希望と答えと解決と励ましがあることを伝えたいゆえに私は牧師になった。そして人々が変えられていく姿を実際に見させていただいてきた。このお方を心にお迎えする人生は、そうでない人生よりも格段の差がある。イエス・キリストにお任せすることにより与えられる平安と満足は計り知れない。この恵みをすべての人に伝えたい。
 いよいよ必要に迫られて来月から毎月第一週目の土曜日に土曜キッズクラスを開始する。皆さまの祈りあっての教会です。栄光在主。

心のオアシス 2023年9月24日

 ある小説家が、「わたしは人里離れた場所に数ヶ月こもって一つの作品を生み出すが、牧師が毎週違う説教を産み出すことができることに驚きを覚える」と言っていた。確かに私も牧師になる前から毎週のメッセージを考えるなんて自分には絶対に無理だと考えていた。しかし神さまの私に対する計画は、“その道”に進むということだったようで、今は一つの教会の牧師として13年間毎週の説教を全うすることができた。今から振り返ってみても「これは権勢によらず、能力によらず、わたし(神)の霊による」(ゼカリヤ4:6)の通り神業だと思わされている。勿論、人間の側の努力はしなければならないことは自覚しているので、日曜日が終わったら、すぐに次の週のメッセージに取り掛かる。祈りつつ聖書箇所の研究をし、なるべく平易な言葉で、初めて教会に来られる方々にも伝わるように原稿を整える。私の場合は連続講解説教(聖書の中の一定の文書を連続して説き明かす)に、主題説教をブレンドした説教法を用いることが多いが、この場合、説教箇所は順番なので選ぶ必要はないが、、難解な箇所になった時に飛ばすことができないという難点もある。しかし、どのような箇所であっても、説教者側の祈りと努力の結果を、聖霊さまがお運びなさるなら、人の心に必ず届くということがわかってきた。
 先々週と先週は連続で新来会者が来られた。それぞれの聖書箇所は、へブル書9章と10章。読まれたらお分かりいただけるかと思うが、初めて聖書に触れる人が読むべき箇所ではない。百歩譲って雄弁にわかりやすく語れたとしても、その箇所の内容そのものが初心者向けではない。ただひたすら主に祈った。礼拝後にそれぞれの新来会者からの感想は「とてもわかりやすく解説くださり、よく理解できました。そしてとても感動しました。週報に書いたあった入門講座を是非受けせて欲しい」と、早速その日にちが決まった。驚いた私は思わず「ほんとですか? あの内容でですか?」と言ってしまった。「初心者は、読んでわかる聖書箇所でないと届かない」というのは牧師の思い込みで、神さまのやり方は、人間の考え方とは違うのである。私たちが諦めても神は奇跡をなさる方。

心のオアシス 2023年9月17日

 先週は長崎の旅から考えさせられたことを書いたが、今週もその続きになる。ポーランドのカトリック司祭であったマキシミリアノ・マリア・コルベ神父は1930年から6年間、長崎に住んでおられた時期がある。今回の旅の中で、コルベ神父が1年間住んでおられた家を訪問した。現在1階はショップと資料館になっていて3階にはオーナーが住んでいる。
 ポーランドに帰国してから5年後、ナチス軍に逮捕され収容所へ送られ、1941年7月末、収容所から脱走者が出たことで無作為に選ばれ10人が餓死刑に処せられることになった。囚人たちは番号で呼ばれていったが、フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と泣き叫びだした。この声を聞いたとき、そこにいたコルベ神父は「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。責任者は、この申し出を許可する。コルベ神父と9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められた。通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベ神父は毅然として他の囚人を励ましていた。時折牢内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルゴヴィツは、「牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた」と証言している。2週間後、当局は神父を含む4人はまだ息があったためフェノールを注射して殺害した。通訳者はこのときのことを次のように証言している。「マキシミリアノ神父は祈りながら、自分で腕を差し伸べました。私は見るに見かねて、用事があると口実を設けて外へ飛び出しました。監視兵が出て行くと、もう一度地下に降りました。神父は壁にもたれてすわり、目を開け、頭を左へ傾けていました。その顔は穏やかで、美しく輝いていました。」
 聖書的ではないが、私は「あの人の問題を私が受けますので、病を受けますので助けてあげてください」などと身代わりの祈りをすることはあるが、コルベ神父のことを考えると自分はまだまだだと思わせられた。それを考えるとイエスさまの身代わりの十字架は想像を絶する。

心のオアシス 2023年9月10日

 8月末にキリシタンの足跡を辿るべく友人牧師と共に長崎の旅をした。今のカトリック教会は、そんなに伝道熱心とは思えないが、16世紀のヨーロッパのカトリック宣教活動には目を見張るものがある。まず飛行機などない時代に、木製の帆船で何ヶ月もかけて日本まで来ることはそれだけでも命懸けであった。この時期に日本へ伝えられたキリスト教は、秀吉から家康の時代にかけて繁栄から激しい弾圧と約250年間にわたる潜伏、そして奇跡と復活という世界でも類を見ない歴史をたどっている。当時の残酷な拷問や処刑方法などは目を覆いたくなるような内容であった。懸賞金のかかった密告が横行する中で、信仰を捨てず生き延びようとするキリシタンたちは二つの道を進んで行く。その一つは「潜伏キリシタン」である。彼らは表向きには寺の檀家や神社の氏子になりつつ、自分たちの秘密組織で信仰を続けていた。そしてキリスト教解禁後に「実はわたしはキリシタンでした」と言ってカトリックへ復帰していった。きちんとした指導者の下へ戻った彼らの信仰は、正しく軌道修正されていったが、もう一つの道、すなわち解禁後も教会へは戻らず自分たちの居心地が良いと感じる道を選んだ人たちは、独自の信仰と様々な宗教との融合へと進んでいった。資料館などの記事によると、彼らはもはや別の宗教となってしまった。これを「隠れキリシタン」と呼んでいる。実は今回知ったのだが、この人たちはまだ現存していて、今も「隠れキリシタン」と呼ばれているとのこと。彼らはいくつかの集落を作り、それぞれが独自の融合宗教を形成していった。そして今は、家族単位のみでその文化や教えを継承していっているが時代と共に衰退している。残念なことであるが改めて“教会”に繋がる大切さを学ばせてもらった。
 「ユーチューブ礼拝より、やはり実際に会堂で礼拝すると恵まれ方が違う」という話題をよく耳にする。今の時代は便利にはなった。事情で教会に足を運ぶことができない人たちにとっては絶対に活用すべきツールである。しかし実際に足を踏み入れることによる恵みも大きい。今回の長崎の旅がそうであった。「百聞は一見にしかず」

心のオアシス 2023年9月3日

 花園チャペル周辺地域に何か貢献できないかと考え、先日、小学生の登下校時の見守りボランティアをしようと近所の小学校の校長先生と教頭先生にご挨拶に行った。校区が広くて700名も生徒がいる小学校だが花園チャペルが建って1年間にすでにその1割が教会に出入している。挨拶が終わった時に丁度チャイムが鳴って、生徒たちが帰る時間と重なった。校長先生と共に生徒たちに声をかけながら見送らせていただいていたが、子どもたちが恵先生と私を見つけて群がってきて、「一緒に帰ろう」とせがんでくる。この光景に校長先生は驚いておられたと思う。
 前にも書いたが、平日にも花園チャペルには子どもたちが遊びにくる。人間的には執務中だと相手をしたくない時もあるが、長い目で見る種まきだと思い受け入れる。日曜日の午前と午後の礼拝の最初の賛美の部分に10名前後の子どもたちが座っていることが多くなった。途中から別室で子どもの集会をしているのだが、何も知らない子どもたちは会堂でおしゃべりしたり立ったり座ったりと落ち着かない子もいる。牧師としては「もう会堂に入らないように」と言いたくなるが、イエスさまに近づいてくる子どもたちを拒否する弟子たちに、「イエスは憤り、彼らに言われた、『幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない』」(マルコ10:14~15)の聖書箇所がすぐに私の心を駆け巡り拒否する気持ちを抑えることができる。私は子どもたちに対する重荷がこんなに与えられるとは思ってもみなかったが、日ごろから「神さまの道具として用いてください」と祈っている通りにならなければならないと自分を戒め、今まで人任せであった子どもたちの名前も覚えて祈るように追い込まれている。
 そのような中で、近所の小学6年生の女の子がクリスチャンではない保護者の許可を得て本日受洗する。最初は遊ぶために来ていたが、献堂してから1年近くほぼ毎週通ってきた。ただただ嬉しい。栄光在主。

心のオアシス 2023年8月27日

 1900年前後に、アメリカの大リーグで活躍した奪三振王がいる。その名はサイ・ヤング選手。彼が亡くなった翌年に、その偉業を称えて、サイ・ヤング賞が設けられ、毎年優秀な選手に贈られることとなった。ヤング投手は現役時代に記者から「あなたはどうして多くの三振を奪うことができるのですか? その秘訣は何ですか?」問われた時、こう答えた。「僕は投げる時、対戦するバッターがどんな選手であっても、気にしないで自分のベストを尽くすだけ。悔いがないように投げたら、あとはバッター任せなんだ。相手が打っても打たなくても、心は揺すぶられることはない。なぜなら自分がベストを尽くした結果なんだから。」ここから「私たちはベストを尽くして、結果は神さま任せ」という私の名言(?)が生まれた。世の中は、自分の求める結果を残すために必死に生きている。だから結果が残せなければ自分を否定したり、他者を責めたりもする。悔しい思いをバネにして次に生かそうとする人もいるが、そこには多くのストレスがかかる。もしベストは尽くしながらも、結果には拘りを持たなければ、継続することが容易になる。私は教会開拓はこの気持ちが大切だと思っている。結果は神さまが与えるものだと考えるなら、たとえ会衆が1名であっても、それが何年続いたとしても、悩むことはない。やり方を試行錯誤しながら全力で主にお仕えしていくだけである。「神実現の人生」という言葉も、ここからひらめいた。“自己実現”を求めると苦しくなっていずれはやっていけなくなる。でも“神実現”に生きたら、自分はただ神さまに用いていただく“道具”だという意識があるので、神さまがご自分のお好きなように全てを導いておられるという安心感のあるおめでたい生き方ができる。しかしその“道具”が何もしなければ、それはただの怠慢である。全力を尽くすことを聖書は教えている。そして“委ねる”のは、その“結果”である。
 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8章28節) これを信じれば委ねることはできる。