礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2024年4月7日

 寒さが長引いたので桜の開花も遅くなっているが、この世界の動植物はその場の環境に従って生きている。寒さが長引けばそれに対応できるよう対処し、確実に春が来ることを信じて着々と準備をしているのだろう。私たちはどれだけ春ならぬ天国への準備をしているだろうか? 旧約から新約聖書の終わりまで一貫して伝えているメッセージの一つが「天上」である。私たちは本来「天」に属する者であって、この地上や肉は仮の宿で私たちはそこに生きる旅人・寄留者であると表現している。私は「この地上は天国予備校で、本番は天国から」と説明しているが、この認識はこの地上で私たちが受ける様々な困難や不条理を回避するために有益である。アブラハムもパウロもこの地上における楽園を待ち望んでいたのではなかった。やがて来る天を見上げて生きていたので、この世における問題を問題としなかったのである。この地上においては、忍耐や赦しを通して天国人としての人格を整えていく場所でもある。
 教会近辺に住む小学生は、様々複雑な家庭環境の中に置かれている子が多い。親の事情とはいえ、その子どもたちが犠牲になっている。私はそのような子どもたちにも聖書が示している“神の愛”や“天国”の希望が届くようと切に願い祈っているが、そのような中、教会に出入している一人の子がこんなことを話してくれた。「親が離婚したのでこの地域に引っ越してきて転校もしなければならなくて辛かったけど、それがなければこの教会に来ることはなかったので良かったです」私は涙が出るほど嬉しかった。この小さき者の心の置き所、休憩所、希望を与える場所として用いられていることを主に感謝した。
 アメリカのメトロ・ミニストリーの創設者であるビル・ウィルソン牧師は12歳の時に母親に捨てられた。一人のクリスチャンに拾われて助けられ、その経験を通して貧民街で子どもたちを助ける働きをするようになった。今では世界最大の日曜学校に成長した。しかし彼は今でも送迎のバスの運転手をしている。何故? 彼曰く「自分が拾われて助けられたように、同じような境遇の子が自分だと思い拾っているのです。」

心のオアシス 2024年3月31日

 今日はイースター(復活祭)。キリスト教会ではイエス・キリストが死から甦ったことをお祝いする日。日本では“クリスマス”もそうであるが、商売で“イースターセール”というキャッチフレーズで集客をしているケースも多く出てきた。恐らく売る側も買う側もその意味はわかっていないと思われるが、私個人としてはその動機や目的はともかくとして世の中の人たちにそのような“祭り”があることを周知されるのは良いことだと思っている。
 イースター礼拝では教会によってはゆで卵にカラフルなデコレーションして飾ったりしている。私たちの教会ではイースターエッグを毎年作って来られた方々に配っている。この習慣は聖書に書かれていることでもなく宗教儀式でもないが、キリストが硬い殻ならぬ死の墓を破って甦られたことを覚えるために記念としてそうしている。
 ある教会の日曜学校にスティーブンという肉体的も精神的にも弱さを持っている8歳の男の子がいた。イースターの前の日曜日、日曜学校の教師が生徒達に、空の卵の形をしたプラスティックの容器を渡し、次の日曜日にイースターの話に関連する物をその卵の中に入れてくるようにと課題を出した。当日、生徒たちが持ってきたそれぞれの卵が開かれていくと、あるものには命の性質を示す小さな花が入っていたり、他のものには墓からころがった墓石を意味する石が入っていた。そしてスティーブンの卵を開けると何も入っていなくて他の生徒はそれを見て笑った。先生はスティーブンが課題を理解できていなかったのだと思い何も言わず、すぐに次の卵を開けようとした。するとスティーブンはそれに割り込むようにして言った。「その卵はイエス様の墓のように空っぽなのです! これは全ての人のための新しい生命を意味しているんです!」その年の夏、スティーブンは体の状態が悪くなり召されていった。葬儀に参列した人たちの中で、棺に入れられた空の卵の形をした容器の意味を知っていたのは、子供達と日曜学校の先生だったそうだ。Happy Easter!

心のオアシス 2024年3月24日

 何ヶ月も前の話であるが、何人かの小学生たちが私のところに来て「教会のポストが蹴られて壊れたんでしょ?」と聞いてきた。私は意味がわからなかったので「そんな事実はないよ。学校にもクレームしたことないし、誰がそんなこと言ってるの?」と問うと、その現場を見ていた人が学校に通報したので全校集会の時に校長先生が注意したらしい。実際に教会に何か被害があったわけでもなかったのでそのままにしていたが、それからしばらくしてその小学校の校長先生が学校行事の予定表を持ってきてくださった時に、「そのようなことを言ってる子どもたちがいたが、どういうことだったのですか?」と問うとこんな返答であった。「あーそうではなく、私が説明したのは、教会の隣にある駐車場の柵に貼られてある政党の応援ポスターを蹴って破ってしまった子がいて、それを見ていた他の子が学校の先生に報告してきたので、それを注意したんですよ」それを聞いて驚いた。子どもたちの中で「教会」というキーワードだけが頭に入り、自動的に「ポスター」が「ポスト」に変換され、牧師が学校に文句を言ったということになっていた。
 しかしこのような現象は子どもたちだけではなく、我々大人もしでかしてしまうことがある。自分の都合の良いように変換していくのである。その最たる例が「“みんな”が言っているから・・・」というワードである。本当は自分に賛同してくれる数名しかいないのに“みんな”と表現するのである。一つの言葉だけを切り取って都合の良いように解釈していくのはメディアがよく使う手法でもある。
 私たちは“今”という点だけを切り取って一喜一憂しながら生きているが、神さまの壮大な計画は“点”ではなく、“線”で結ばれていくものである。自分の都合によって解釈してはいけない。現状だけを見て結論を出すのは早すぎる。もし神は私を最善に導かれることを信じているならば、その“線”が恵みの線となっていることを信じるべきである。
 「ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28)

心のオアシス 2024年3月17日

 私たちの教会には大学生から中学生までの常連は10人ほどいる。それぞれ学年が違うので毎年受験生を抱える。本人や家族は当然ハラハラドキドキであろう。しかし牧師もかなり緊張している。「主の御心の道に進むように」と受験生にはお祈りをしているが、心情的には「本人の希望する道に進ませてあげて欲しい」というのが親心ならぬ牧師心である。
 娘は大学受験で初めての挫折を経験した。第一志望が不合格となったのである。その大学は聖書信仰に土台していて、キャンパス内では学生たちが自主的に祈り会を行ない、英語での授業、就職率99%という当時の私たちにとっては理想的な教育を提供する場所であった。韓国の大学なので授業料なども安い。私にとっても娘にとっても「ここしかない!ここは主の御心の場所!」と人間的な確信を持っていた。韓国国内ではかなりの難関校であるが、外国人枠はほぼ内申だけで合否が決まる。しかし蓋を開けてみると落とされてしまった。もう日本の大学も受験期は過ぎていて、もうどこにも行く当てがなく娘は大泣きしていた。私は「“神の御心”の道に進みますように」と祈っていながら、“自分の御心”がならないことに落ち込んでいることを示され悔い改め、こう娘に言った。「ここは神さまが『違う』と閉ざしてくださったんだよ。ここよりももっとあなたに相応しい場所を用意してくださっているから神さまに信頼しようよ」その半年ほど前に、韓国の別の大学の学長が教会に来られたときに大学のパンフレットを私に渡してくださっていたのを思い出した。長い話を短くするとその学校の言語学校からスタートすることとなった。 
 そしてその結果はどうであったか・・・外国人寮は、9割が中国人で中国語か英語しか通じない。授業は韓国語。仕えていた教会は国際部で主に英語を使用。この環境の中で本人が望んでいた多言語の学習を日常の中で修得することができマルチリンガルになった。様々な人に対応する度胸もついた。当時仕えていた教会の長老さんから大学四年間分の奨学金が贈られ無償で学ぶことができた。娘曰く「自分の中の第一希望が落ちて良かった!」創造主を信頼するなら万事は益!道は開かれる。

心のオアシス 2024年3月10日

 所ジョージが対談で「結婚生活の極意」みたいなことを話していた。なるほどと思わせるような内容があったのでそのまま書き出してみる。
 所:「かみさんと俺は“価値観”も違うし“好きなもの”も違うし・・・」
 質問者:「喧嘩とかしませんか?」
 所:「皆、“自分と同じ”と思うから喧嘩するんだよ。『自分と同じように思ってよ』と思うから喧嘩になる。面白いよね。元々は全然、価値観が違うのよ、かみさんとは。よく価値観が合わなくて離婚するじゃん? 他人だもん。だって合うわけねーじゃん。『俺はこう思うんだからお前もそう思えよ』っていう結婚をしてるじゃん。そうじゃないよ。相手は違うから楽しいんじゃん。人生を二つ楽しめるんだもん。かみさんが『どこか行こうよ』と言ったときに『いや、俺はいいよ』と言っちゃうと、もう一つの人生を遊べない。『めんどくさくて行きたくねーな』と思っても行くの。そうすると・・・意外に楽しい!」
 質問者:「じゃ、相手の趣味にも合わせるということですか?」
所:「合わせるというか・・・“合わせる・合わせない”“行く・行かない”じゃなくて行くの!まず!それは友達同士でもそう!『めんどくせ~』と思っても行くと面白い!」
 これを聞きながら私は「信仰生活の極意」がひらめいた。もし私に対談が申し込まれたならば、「神さまに従うなんて難しいし、この世の価値観と違うので信仰をもって生きるなんて無理なんじゃないですか?」との質問に次のように答えるであろう。「“従う”“従わない”“信じる信じない”ではなくて従ってみるの!信じてみるの!まず! そしたら不思議が起こるし奇跡を見れるし道が開かれる。『難し~』って思っても信じたら人生楽しくなるよ!」
神を信じ従うとは、神実現のために生き、神の御心を問い、神が与えてくださる答えを受け留め、神に信頼して自分の願い通りではなくても神が開かれる道を進むこと。神から来るものはすべて感謝し受け入れるということ。信じれば奇跡は起こる!

心のオアシス 2024年3月3日

 私たちの教会は開拓を始めたばかりの頃から、母教会からのお客様が多い。最近ではお客様がいない日の方が珍しいほどである。当時私は学生会担当牧師で20年間、学生たちと関わってきた。その子たちが今は家庭をもち、社会的立場が与えられ活躍しておられる人もいる。中には献身者となりカルバリーグループの教会や他教団で牧師になっておられる方々もいる。私の中ではみんな“学生”のままで止まっているが成長している姿に嬉しく思う。どうしてわざわざチャペルまで足を運んでくれるのだろうか? 関西に親族がいるからとか、旅の途中にということもあるだろうが、“関り”があったということが一番大きい。私は伝道者になったばかりの頃コミュニケーション能力が低めだった。そんな私が“関わり方”を学んだのがこの学生会であった。どうにか一回り以上若い学生たちと関わるためにしたことはランチを一緒に食べることからである。何も話さずにそこにいるだけでは、ただの難しいオヤジが座っているだけで緊張感を与えてしまう。そうならないようオヤジギャグを言ってみる。たまに関西の血が目覚めてボケツッコミをするが引かれてしまう。こんなことを繰り返しているうちに彼らとの距離が縮まるようになった。(今の私のギャグはその時からの名残である)勿論真面目な学生礼拝もしたが、“関り”がなければその場だけでお終いであったであろう。
 私は花園チャペルに出入する子どもたちに何かを教えるというよりも“関り”を持つことに専念している。要求されれば汗ダラダラになりながら鬼ごっこもする。超教派のミーティング場所として花園チャペルをお貸しした時に、若い牧師たちが別室で遊びに来た子どもたちと私がゲームをしている姿を見て驚き感動されていた。私にとってそれは普段の姿であるが、彼らにとっての主任牧師のイメージは違ったのかもしれない。今では登下校する子どもたちが遠くからでも声をかけてくれるようになった。感謝なことに教会メンバーの中には新規の人を見つけて声をかける方がいる。イエスさまは罪人ザアカイの家に入られ“関り”を持たれただけで彼の心に大きな変化が起こった。イエスさまに見習いたい。

心のオアシス 2024年2月25日

 小学生の登校時の旗振りボランティア時に様々なドラマが繰り広げられるので、その時の話題が必然的に多くなってしまうが今回も一話。
 先日の2月14日バレンタインデー当日、いつものように交差点で子どもたちの横断補助をしていると後ろに誰かが忍び寄ってくるのを感じ振り向くと教会に出入している子たちが二人立っていて、その一人が「ハッピーバレンタイン!」と言って手紙を渡してくれた。嬉しくて「わ~ありがとう!」とハイテンション気味に答えると、嬉しそうな顔をしながら歩いていった。終わってからラブレター読むとこう書いてあった。「おざき先生へ いつもおかしとかくれてありがとう。お年玉とかうれしかったよ。これからも仕事がんばってね。〇〇より」短い内容であるが、その“心”に感動した。先週レプタ2枚(150円前後)を捧げた貧しい女性をイエスさまは評価なさった聖書箇所から学んだばかりだが、そのイエスさまのお気持ちが少しわかるような気がする。今年の元旦礼拝はキッズクラスはないことを子どもたちには事前に伝えてあったので誰も来ないと思っていたが、その子は一人で大人の礼拝に参加するために来た。見知らぬ大人が大勢いて緊張していたせいか帰る時には表情が硬くなっていた。「よく来たね。礼拝もちゃんと受けれたね」という気持ちを込めてクオカードの入ったお年玉を玄関で渡すとパ~っと顔が明るくなってお礼を言って帰っていった。それがよほど嬉しかったのか一ヶ月半も経過しているが、未だそのお礼を書いてくれている。
 律法学者たちは宗教には熱心であったが、その動機や目的は自分が評価されるためであって本来中心にしなければならない「神」は無視した活動だった。彼らは自己満足感はあったかもしれないが、いつも何かに縛られた窮屈な生活をしていた。それが宗教の実体である。本来「クリスチャン」とは、宗教をやっている人ではない。もっと言うならばキリスト教をやっている者でもない。創造主なる神・イエスさま・聖霊さまの三位一体なる神との“心”の繋がりである。その中で、明るく元気でのびのびとした人生を生きることができるのである。 

心のオアシス 2024年2月18日

 私たちの教会ではこの二ヶ月で80~90代の3人が召された。私たちの教会規模からすると珍しいことかもしれない。母教会では冠婚葬祭の担当をしていたので葬儀のことはそれなりにわかっていたが、関西では葬儀や火葬場の事情など多少違うことと、どの葬儀社をお勧めしたら良いか決めかねて、かつてお付き合いのあった関東の葬儀社の社長さんに相談などしていた。今回の三件は、それぞれ違う形でのお見送りとなったが、それぞれご遺族の意向にそった良い葬儀となった。私が業者を評価するポイントは料金も含めていくつかあるが、仕事としてただ事務的に事を進めていくだけでなく礼を尽くして死者を弔いご遺族の相談に親身になって乗ってくれるかという点も大きい。それは牧師側にも問われることでもある。
 チャペルで葬儀をした時の業者さんの行動に感銘を受けた。出棺前に遺族がお花を棺に納めていくのであるが、棺の縁に葉っぱが一枚落ちて乗っていた。床に落ちたものなら私でもゴミ箱に入れるだろうが、棺の縁であれば、そのまま中に入れても責める人はいないであろう。しかしその業者のスタッフさんは、その葉っぱを自分のスーツのポケットに入れた。礼を尽くすとはこのようなことだと学ばされた。
小さなことであっても、それが人々に影響を与えることを考えると、キリスト者として人から見られていても恥じない生き方をしたいものである。まさに小さなことに忠実であれば大きなことを任せられる。
 「あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。」(Ⅱコリント6:4~8)
 今週も神さまの豊かな祝福をお祈りします。栄光在主。

心のオアシス 2024年2月11日

 先日ショックなことがあった。娘が教会に来ている近所の小学生から「小崎先生の介護のこと、今から考えておいたほうがいいよ」と言われたというのである。そして同じ日に違う小学生から「いつ小崎先生の車に『高齢者ドライバー』のステッカー貼るの?」と聞かれた。考えてみれば今の小学生の“おじいちゃん”“おばあちゃん”は50代なのである。気持ちはまだ20代だが、どう頑張っても加齢に逆らうことはできない。健康とか記憶力も神さまから貸し与えられたものは返していかなければならない。まだ想像できないが車の免許もいずれは返納しなければならない時が来る。今できることを感謝しながら生きることにしている。
 考え方はそれぞれあるので何が正しいかはわからないが、私は家内娘息子に伝えてあることがある。それはもし私がボケ始めたり、世話をしなければならなくなったら、情けをかけることはせず遠慮しないですぐに施設に入れて欲しいということ。なぜなら介護を家で続けることによって、家族に大きな負担がかかることを知っているからである。こんなことを書いておきながら、ボケてしまったらそんなことも忘れてしまい、頑固になって家に居続ける可能性を恐れているが、どうなることやら・・・
将来のことを考えると色々と心配事はあるが、聖書の言葉が大きな励ましになる。「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6章より抜粋)神さまの前にベストを尽くして、あとは神さまにお任せしよう。

心のオアシス 2024年2月4日

 昔の週報を整理していたところ5年前の「心のオアシス」を発見した。その内容を読んで改めて先日天に召されていった長老さまの心の姿勢に感銘を受けた。一部抜粋すると「先週の礼拝前に私たちの教会の80代の長老様とお祈りをしていた時に、こう祈られていました。『神さま、最近は耳も遠くなり、目も見づらくなってきました。これらは神さまから貸し与えてくださったもので、やがてはお返しすることになりますが、この目を耳を体を貸してくださったことを感謝します。』役に立たなくなってきた目や耳に不平や不満を言うのではなく、“ありがたい”という気持ちを持って生きておられることに感動しました。」
 ラインホールド・ニーバーの祈りの中に「神さま、変えられることのできるものは、変えていくエネルギーをください。しかし、変えられないものに対しては、それを、受け止めていく忍耐をください。そして、このことは変えることができるのか、変えることのできないものか、それを見極める英知を与えてください。」というのがあるが、確かに現実の世界においては、どれだけ頑張っても祈っても変えることができないことはある。“加齢”もその一つであろう。しかしそれさえも感謝しながら歩めたら、どれだけ恵まれた人生になろうか。しかし、私たちは更なる希望の中に生かされている。イエスさまを信じて歩む者は、“完全な者にされる”ことが約束されている。“完全な者”とは、病からの完全な癒し、あらゆる障がいや問題からの完全な回復である。「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(黙示録21章4節)。
 ここ数ヶ月の間に私たちの教会のご高齢のメンバーが何人か天に召されていった。癒しを求めて祈り祈られてきたが、“肉体の死”を通して、祈りの成就を本人たちは体験しておられることであろう。残された者たちには寂しさや悲しみはあるが、神を信じる者にとっての“肉体の死”は、天を指し示す道標に変わる。そして本当の人生はそこからスタートするのである。今の世は天国への予備校にしかすぎない。