礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2014年3月9日

私は学生時代に、自分の利害や名誉のために争い勝つことが、いかに愚かなことであるかを体験したことがありました。
当時、学生専用のアパートに他の3人のルームメイトと住んでいましたが、ある日の夜、その中の1人と、あることで口喧嘩になりました。冷静に考えると、どう考えても私の方が悪いのですが、意地でも相手に譲りませんでした。その次の日は、お互いに顔を合わせず、挨拶もしないでそれぞれの大学の講義へ出かけて行きました。夕方、私は帰ってきたのですが、彼と顔を合わせたくないので、自分の部屋に閉じこもり、リビングには出ませんでした。やがて彼も学校から帰ってきました。彼は帰ってくるやいなや一直線で、私の部屋の前に来て、ドアをノックしました。ドアを開けると彼はすぐに「アツー(私のあだ名)、昨夜はごめん・・・友達のしるしに・・・」と言いながら、握手しようと手を出してきました。私は自分の方が悪いのはわかっていましたし、私の方から謝るのが当然な状況で、まさか相手から謝ってくるとは予想もしていませんでした。ですから返す言葉に困りました。照れもあって、すごすごと手を出して握手するのがやっとでした。その時に私は「負けた・・・」と思いました。自分から謝らなかったことが、惨めでした。実は、彼は私より10歳近く年上でしたから、私の言動は生意気以外の何ものでもありませんでした。しかし彼は一日中、考えたのでしょう。そして、その結論が「自分が愚かになろう。」ということだったのです。私より人生経験が長く、私の方が間違っていることを承知の上で、あえて負けることで勝利したのです。私は謝られた側でしたが敗北感でいっぱいでした。
2千年前、イエス・キリストは、人々の嫉妬と危機感と群集心理によって十字架につけられました。全くの冤罪でした。人々から罵られ、あざけられ、世を呪っても許されたであろう状況の中で発せられた祈りの言葉は、「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。」この愚かさが、神の強さでした。キリストは甦り勝利されました。負けることができる人こそ、真に強い人なのです。

心のオアシス 2014年3月2日

我が家は5年前に父が他界し、慎ましいながら神を愛する家庭だった。
 イースターを前にして牧師が、「お金を貯めて、この教会の貧しい家族に献金しましょう」と呼びかけた。私たち家族は、どのようにしてお金を貯めようかと相談した。ジャガイモだけを食べるとひと月に2千円は貯められる。姉はベビーシッターをする。小さい私たちはポットホルダーを20個作って、1個100円で売れば2千円になる。薄暗い部屋で「今日はいくら貯められたかな」と計算し、「これで貧しい家族を助けることができたら嬉しいね」と話し合った。イースターの朝はあいにく雨だった。傘もないし、靴には穴があいていた。頭から足先までびしょ濡れになった。でも献金を捧げることができるということが嬉しかった。献金袋が回ってきたので、母と姉の分を合わせて合計7千円を捧げた。捧げることができた喜びで、スキップするようにして家に戻ってきた。
 夕方、牧師が私たちの家を訪ねてきた。礼拝で集めた献金を届けてくれた。『貧しい家族』とは私たちのことだったのだ。教会に行くのが恥ずかしくなった。私たちが貧しい家族だとは今まで思ったことがなかった。確かに私の家では、贅沢はできないし、特別な日にもご馳走はない。母が牧師から受け取った封筒を開けてみると8千7百円入っていた。次の礼拝の日、母は気の進まない私たちを連れて教会へ向かった。説教者は海外から来られた宣教師だった。「小さな会堂を建てていますが、屋根を作るお金がありません。是非ご協力いただけないでしょうか?」と訴えた。献金袋が回ってきたので、母は私たちを見て、教会からいただいた献金8千7百円をそのまま捧げた。礼拝後、宣教師は「皆さん、この教会にはお金持ちがいるのですね。集めたお金は1万円でした!」 一万円のうち私たちが捧げたのが8千7百円だ。宣教師がお金持ちと言ったのは私たちのことだ、と思った。私たちはけっして貧しくないのだ。
 この記事を読みながら、その教会が行なった献金のやり方には問題があると思いますが、大切なことを教えられたような気がした。私たちの心の持ち方で、その人自身が幸せにも不幸にもなれるということです。

心のオアシス 2014年2月23日

アメリカで用いられているT.D.ジェイクス先生が、体験談を話してお
られます。先生は少年時代からタバコを吸っていたそうです。親にバレないように香水をふりかけ、窓越しで吸って、臭いが部屋にこもらないように気をつけていましたが、何度か母親に見つかって、怒られ、おしおきされました。しかし、止めることができなかったのです。ある時、クリスチャンになってから18ヶ月間、タバコを止めることができたそうですが、教会でつまずくことがあって、それから又、吸うようになったそうです。しかし、2度目の時は、なかなか止めることができませんでした。それは神学校で勉強している時も続いていました。止めなければならないと苦しんでいたある日、父親が吸殻を発見してしまいました。しかし何も言いませんでした。自分から父親に正直に告白しようと思い言いました。「お父さん・・・実は自分にはある問題があるんです・・・」お父さんは、言葉を遮るようにして、こう言ったそうです。「あ~わかってるよ~ わかってるよ~・・・神さまはね~ あなたを大きく用いてくださると思うんだ。でも、神さまがあなたに対して持っておられる大きな計画が、こんな小さな物に妨げられたら、もったいないよな~」それから数日後、祈りました。「神さま! 私の人生における神さまの計画が、こんなちっぽけなつまらないもので妨げられているなんてたまりません!」その時以来、思いを変えて、神さまに問題をお委ねしてから、全く解放されたそうです。
私たちの楽しいはずの人生が、ちっぽけなことで狭められていること
はないでしょうか? それはタバコやお酒などの依存性だけではありません。憎しみ、怒りっぽさ、嫉妬や高ぶりかもしれません。それらはちっぽけなことではないと思われるかもしれませんが、よく考えてみると、小さなことなのです。でも、それが私たちの心を縛ってしまうので、楽しいはずの人生を台無しにしてしまったり、幸せの伸びしろの領域を狭めてしまっているのです。私たちの最大の敵は自分自身かもしれません。私たちの思いや考えを変えることを主が助けてくださいますように。

心のオアシス 2014年2月16日

ある父親が、思春期の息子さんのことで大変苦労していました。彼は
野球のコーチをしていたのですが、そのチームの中に、母子家庭で育ち、学校では色々な問題を起こしている一人の少年がいました。このコーチは、練習や試合の後に、自分の息子と一緒に、その少年を家に連れ帰って、食事を出したり、宿題を手伝ってあげたりして、ある時は家庭教師として、ある時には、父親のような存在として、その少年と関わっていきました。そうする内に、徐々に自分の息子さんとの関係が良くなり、絆が深まり、以前とは全く違って、親子関係が改善されていったそうです。後日、この父親は、「あの少年の必要を満たしてあげることによって、神さまは私自身の必要を満たしてくださいました!」と告白されました。
 私たちは、こう考えます。「この問題が片付いたら他者を助けよう。」
「もう少し収入が増えたら、与えるものになろう。」「子どもが成長したら、他の子の世話をしてあげよう。」私たちは、まず自分が満たされることを望み、そうしなければ他者を助けることはできないと思い込んでいますが、不思議にも神さまは、私たちに自分の問題を解決する力がないにも関わらず、他者の問題を解決する力は与えてくださっているのです。
 ヨエル・オースティン牧師は、こうメッセージしておられました。「困難の中にいる時に、落胆するのではなく、誰か困っている人を助けてあげるのです! 神さまに問題を解決してほしいのならば、あなたがまず誰かの問題を解決してあげるのです。もし、誰かの一日を救うなら、神さまがあなたの一日を救ってくださいます!」
 聖書が教える祝福の原則は、「まず受けよ!」ではなく、「与えよ!」なのです。そうすれば、自分にも与えられるというのです。どのようにして与えられるかは次の通りです。「人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量る量りで、自分にも量りかえされるであろうから」(ルカ6:38) 
 実践してみましょう。 必ず神さまが助けてくださるでしょう!

心のオアシス 2014年2月9日

20年前「和彦さんが交通事故ですって! 病院へ行ってあげて!」母からの電話で病院へ駆けつけてみると、そこには頭を丸坊主にして4本の鉄の杭を打ち込まれ、ヘッドギアをつけて吊るされ血がにじんだ包帯だらけの主人がいました。彼のオートバイと自動車がぶつかったのです。寝たきりの生活が始まり、しばらくしてから心の病が始まりました。大量の薬の服用により、心身が錯乱し自律神経失調症になり、訳もなく荒れ狂うようになったのです。目がうつろで焦点が合わなくなると暴れだします。暴れだすと、私は台所の窓から急いで包丁を外に投げ捨てます。大きな声が響かないように窓を閉めます。明け方まで暴言をはき、気が済むと、うそのようにいびきをかいて寝てしまいます。私は泣きながら仕事に行きました。夕方、家に帰るのは憂鬱でした。当時はイエス様を知りませんから、夫婦にとっての頼りは、精神科の薬だけでした。苦しい毎日が何ヶ月も続いたある日、主人は「オーストラリアに留学したい。」と言い出しました。すべての環境を変えて自分を生き返らせたかったのでしょう。牧場体験のために旅立ちました。しばらくしてから牧場で働くことができなくなり、現地で出会った牧師の紹介で薬物患者のためのクリスチャン更正施設で働かせてもらうことになったという連絡がありました。その施設には、テレビも漫画もなく、あるのは聖書と祈りだけ。主人は、そこで働きながら、イエス様を知り自らが癒され、生まれ変わって帰ってきました。3ヶ月後、彼を迎えに行った私はその変わり様にビックリしました。その時の彼は目が輝き、口にする言葉はキチンとして、そして態度まで別人のようにしっかりとして自信に満ちていたからです。病は全て癒されていました。大量の薬をゴミ箱に捨てた時の、あの喜び溢れる瞬間は忘れられません。そして私の生活も救われました。イエス様を知らなかった私達夫婦の10年間は苦しみだけで頼りは薬だけでした。その薬によってまた苦しめられてもいたのです・・・。 
これはA.F.さんの体験談です。現在夫婦でケアホームを運営なさっています。「わが助けは、天と地を造られた主から来る。」(詩篇121の1)

心のオアシス 2014年2月2日

ある人が、魚を釣っていたのですが、釣り上げた魚をメジャーで計って、ある一定以上の大きい魚を全部捨てていたそうです。近くにいた人が疑問に思って聞きました。「どうして魚のサイズを計って、大きい魚を捨てるのですか?」その人は答えました。「これはウチのフライパンのサイズなのです。入らない魚は全部捨てているのですよ~」

私たちは固定概念をもっていて、「こうでなければ、幸せになれない」、
「あの人のような能力がなければ、用いられない」とか「環境が悪い、お金が無いから無理だ」と決めつけてはいないでしょうか? しかし、神さまが私たちに与えてくださっている恵みは、環境や状況には左右されない無限大のものです。肯定的積極的に生きている人は、その恩恵に預かっています。神さまを信じる人は、もっと神さまに近いわけですから、その無限の力を引き出すことができる特権があります。これを使わない手はないでしょう。
 オンヌリ教会のハー・ヨンジュ先生は、週に3度、5・6時間かけて透析をしながら牧師としての大きな働きをしておられた人物です。体には良いところがどこもない状況の中で、こう言っておられました。「私には、病気があるから、世界の人々が協力してくれるのです。」 病気は癒されていませんが、神さまが病という弱さを用いてくださっているというのです。もし、病気がなければ、一つの教会が衛星放送をするということは難しかったかもしれません。
聖書には、私たちが鉄の器になれるとは書いていません。離せば落ちて、落ちれば割れる、もろい土の器にすぎないのですが、その中に宝なるイエス・キリストを入れるならば、強くなれるし、輝くことができるし、勇者となることができると教えています。
どんな大きな心の傷を負っていても、弱さがあっても、自己実現ではなく神実現に生き始めると、計り知れない神の力が私たちにあらわれます。神さまのフライパンは、あなたの持っているものより大きいですよ!

心のオアシス 2014年1月26日

「八風吹けども動ぜず」という言葉をご存知でしょうか? この言葉の意味は、「自分を惑わす出来事に動じず、強く心の根を張ろう」です。
自分を惑わす「八風」とは、どのような風なのでしょうか?
 一つ目は、「利」(り)=自分の意にかなう利益のこと。
 二つ目は、「誉」(よ)=陰で名誉を受けること。
 三つ目は、「称」(しょう)=目の前で称賛されること。
 四つ目は、「楽」(らく)=様々な心身を喜ばすこと。
 五つ目は、「衰」(すい)=意に反する損失のこと。
 六つ目は、「毀」(き)=陰で不名誉を受けること。
 七つ目は、「譏」(き)=目の前で中傷されること。
 八つ目は、「苦」(く)=様々な心身を悩ますこと。

この八つの風は、毎日のように色々な形で私たちに向けて吹いています。これらの風に心揺すぶられながら生きているのが私たちです。有頂天になったり、劣等感に陥ったりで、心もけっこう忙しいです。でも、その振り幅が大きくなりすぎると、高慢になったり、病気になってしまったりするわけです。私たちが八つの風に吹き飛ばされないために、心がけていなければならないことは、自分の立場をわきまえるということなのです。
 大津波がきた時に、水が建物に上がってきているのを目の当たりにしながらも、最後の最後まで冷静に津波警報のアナウンスを続けた役所の職員のことがテレビで紹介されていました。死が迫っているのに、どうしてパニックになって逃げなかったのでしょうか? それは自分の立場とその使命をわきまえているから動じなかったのでしょう。
 新約聖書の中でパウロは、「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている」と言いました。自分の栄光ではなく、神の栄光をあらわすために生きるなら、心の振り幅が最小限に抑えられます。共に実践してきましょう。栄光在主!

心のオアシス 2014年1月12日

長距離トラックの運転手が、自分の体験を新聞に投書していました。「その日、自分は夜っぴて運転し続けて、あと少しで目的地に到着す
るはずでした。朝の七時頃だったでしょうか、目の前を一人の小学生が、黄色い旗を手にして横断歩道を渡り始めたのです」運転手は疲れもあってでしょう。いまいましく思い、急ブレーキをかけてトラックをとめました。ところが、その小学生は渡り終えた時、高い運転台を見上げて、運転手に軽く頭を下げ、「ありがとう」といったのだそうです。「私は恥ずかしかった。そして決心したのです。これからは横断歩道の前では徐行しよう。そして、もし道を渡る人がいたら、渡り終わるまで待ち、笑顔で見送ろう」
ほほえみ、優しさ、愛は、このようにつながってゆき、溢れてゆくのです。運転手に笑顔で見送られた人は、嬉しくなって、多分、言葉も、態度も、その日一日優しくなったことでしょう。
マザー・テレサがいわれました。「自分がしていることは、一滴の水のように小さなことかもしれないが、この一滴なしに大海は成り立たないのですよ」さらに、「自分は、いわゆる偉大なことはできないが、小さなことの一つひとつに、大きな愛をこめることはできます」。
小学生の笑顔と、「ありがとう」の一言は、それ自体は小さな行いです。しかし、それが次の人につながっていって、相手の心を優しくし、その優しさが溢れていって、社会に、家庭に、平和を作り出してゆくのではないでしょうか。 (渡辺和子著「面倒だから、しよう」より引用) 

私たちは一攫千金を夢見、大きな何かをしたいと願います。そして小さなことは無駄だとか、面倒だと考える傾向にあります。でも、結局は小さな積み重ねが大きなことに繋がっていくのだと思います。関西カルバリーフェローシップの開拓3年半も小さな働きでしたが、それが今日に繋がり、毎日毎週のコツコツがリバイバルに繋がると確信しています。   「管理者に要求されているのは、忠実であることである。」(1コリ4の2)

心のオアシス 2014年1月5日

私の次女が高校1年生のとき、受験のストレスでとても苦しんでいました。車で学校へ送っていく途中、娘が車の中で激しく泣き出しました。私は娘のために祈りました。「神様、私の娘が、主がともにおられることを知ることができますように。」切に祈り終えた後、今度は娘がこのように言って泣きました。「お父さん、お父さんはイエス様が本当に心におられるのが信じられるの? 私は信じられない!」私は娘を抱きしめて祈ってあげることしかできませんでした。信じられないと言っているのに、私に何ができるでしょうか。
それから2年ほどが経ったある日、学校に送っていく途中の車の中で、娘が突然こう言いました。「お父さん、私、お父さんがいなかったら神様を信じることができなかったと思う。」その間、インターネットでキリスト教に対する批判的な記事を読んだそうですが、正直、その批判にも一理はあるかもしれないと思うことが多かったそうです。ですから、神はおられないのではないかと思いもしましたが、私の姿を見ると、本当にイエスが心におられるように見えたそうです。学校に着いて車から降りた娘が言いました。「お父さん、もう信じられるよ。イエス様が私の心におられるのを確かに。どうもありがとう。」お父さんのおかげで信仰を守ることができたと、主に出会えたと言ってくれた娘の言葉が嬉しくて、今度は私が泣きました。
「あなたは私を愛しているか」ユ・ギソン著より抜粋

私たち関西カルバリーフェローシップは、開拓3年半の間に数々の奇跡を主が見せてくださいました。「恵みは朝ごとに新しい」とあるように、毎年同じはなく、新しい何かをしてくださいました。神様は2014年でしかない恵みの世界を用意しておられます。期待しましょう!
「あなたを見ているとイエス様が生きて働いておられるのが、よくわかりました。」と言わしめるような者へと成長したいと願わされています。「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」(哀歌3章23節)

心のオアシス 2014年1月元旦

「年始あるある」を集めました。初笑いになるかもしれませんが、これを参考に成長もしたいものです・・・

○思えば「新年の抱負」を実行できたためしがない・・・
あるある46.0% そうでもない54.0%
○新年の抱負を立てるため、昨年の抱負を振り返るものの内容を思い出せない・・・あるある54.0% そうでもない46.0%
○新年にはいつもダイエット宣言をするが、毎回お雑煮の魅力に負けてすぐ終了(29歳・女性)
○毎年、実家で新年の抱負を言わされるのが嫌だ(28歳・男性)
○面倒だから健康に過ごすことを抱負にしてしまう(34歳・男性)
○今年って平成何年だっけ?と年明け早々わからなくなる・・・
あるある49.5% そうでもない50.5%
○「もう出さなくていいか・・・」とやめた相手に限って、真っ先に年賀状が届き、気まずい思いをする・・・
あるある34.5% そうでもない65.5%
○年賀状のやりとりしかない人の事を1年に1回思い出す(30歳・男性)
○年賀状でしかやりとりしかない知人の近況が分かるから、年賀状は止められない(34歳・女性)
※ネオマーケテイング調べ 2013年10月25~28日 全国20~34歳男女200人

 人は、いかにいい加減に生きているかということですね。でも主は、
約束されたことを必ず実行されます。そして神の計画が着々と進められ
て行くのです。神さまに期待して今年も恵まれた一年となりますように。
 今年の関西カルバリーフェローシップの年間聖句は・・・
「 見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」(イザヤ書43章19節)