礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2013年9月22日

1980年代、韓国中を驚かせた事件がありました。当時韓国の民主化を目指す新党が結成されたのですが、その結党式を、当時の独裁政権に頼まれた200人のやくざが襲撃したのです。そのやくざのボスが、キム・ヨンナムさんでした。彼は逮捕され、2年の刑を受け、その名は一躍有名になりました。刑務所から出てきたキムさんは貧しく、その生活が大変でしたが、その時、近所に住んでいたクリスチャンのジョさんと知り合いました。キムさんはジョさんの親切さを悪用しようと企み、彼の教会に行き始めたのです。しかし、この悪巧みはジョさんと牧師の愛の前に負け、キムさんは自らの罪を悔い改めて、主イエス・キリストを信じたのです。「イエスは私みたいな者のために死んでくださった! イエスは私みたいな者を赦してくださった!」この喜びと感動が、彼の人生を180度変えました。彼は聖書全巻を何度も書き写しました。さらに30年間持っていた病気がいやされる奇跡も体験しました。そして、彼はどこをどう見ても以前やくざのボスだった人には見えない、教会の温かい執事へと変えられたのです。
今、キムさんは不良青年たちを正しい道に導き、伝道する働きに遣わされています。あるインタビューで彼はこう語っています。「やくざは義理というものを主張しますが、それも自分の義で、自己満足に過ぎません。しかし、イエス様はこんな私みたいな者のために死んでくださったのです。それを考えると涙しか出てきません」
韓国人なら誰でも知っているやくざのボス、キム・ヨンナムさんは、今もイエス様の無条件の愛の証人として、神様に用いられています。
(幸いな人2013年9月号より)
全ての人に、神さまの愛は注がれています。それは一方的で、私たちがどのような存在であっても変わりありません。その愛にどのように応答して生きていくかが私たちに委ねられていることなのです。

心のオアシス 2013年9月15日

第二次世界大戦中にナチスに捕らえられて強制収容所に送られ、ガス室で殺されるかもしれない恐怖を絶えず味わいながら、九死に一生を得て終戦を迎えた人物の中に、オーストリアのビクター・フランクルという精神科医がいます。彼が書いた「世の霧」「死の愛」という著書の中に、極限状態に置かれた人間が、いかにして生き続けることができたかについて書かれています。同じ過酷な状況のもとにありながら、最後まで生き延びた囚人もいれば、力尽きて死んでいった人々もいました。その両者を分けたのは、「希望」の有る無しだったと言うのです。それは決して、体の頑強さではありませんでした。「この戦争はいつか必ず終わって、妻子に再び逢える」という希望や、「戦争が終わったら、やりかけていた仕事を完成しよう」という希望。その時代、戦争が終わって自分たちが解放されることなど、到底考えることができないような状況の中で、そのような希望を胸に生きていた人たちは生き続けることができたというのです。フランクルは、この事実から、人間を生かすものは「意味」であることに気付き、ロゴセラピーという心理療法をあみ出したそうです。つまり、自分が生きていることに意味を見い出せている間は、人は生きてゆく強さを持つことができるけれども、その意味を喪失した時、人は生きる希望と勇気を失ってしまうということなのです。
私たちはどうでしょうか? 人生における自分の存在目的を知っておられますか? どうして自分は生まれ、何のために学び、仕事をしているのか? この世における目先の目標や希望を持っている人は少なからずいますが、永遠(死後の世界)に対する希望を持っている人はどの位いるでしょうか? 天国に行ける確信をもって、それを希望に生きている人は、この世における様々な混乱に、そんなに動揺しません。なぜなら「死」という人間最大の問題の向こうに希望を持っているからです。
「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠です」(聖書)

心のオアシス 2013年9月8日

先日、娘とスカイプでしばらく話すことができました。彼女は、韓国の大学で勉強しながら、ヨイド純福音教会のインターン伝道師にさせていただき、英語部の日曜学校の担当を任されたり、翻訳や英語・日本語などを教えるアルバイトなどをしながら、自給自足の生活をしています。親がそういう生活を強いたわけではないのですが、足りない部分の穴埋めをしてくれています。そんな娘の口から、次から次へと感謝な出来事の報告が出てきました。私はその一つ一つを聞きながら、「色々な苦労があるだろうに、韓国でのこの4年間、本当に不思議なようにして道が開かれたり、助け手が与えられたりして、何とかやってこれたよね~」と言うと、娘からすぐに「それは、お父さんは、昔から私が行き詰ったりしたときに、『神さまが何とかしてくださるから大丈夫!』と、全く不安を煽るようなことを言わなかったから、それが今の自分の身についていて、本当にいつも神さまに助けられるから感謝なの~」と、思いもかけない返答が返ってきて驚きました。子どもたちが行き詰っていたら、親として心配するのは当然でしょう。私も心配がないわけではありません。でも、子どもに対してアドバイスするというよりも、自分に言い聞かせるようにして「神さまが何とかしてくださるから大丈夫!」と言った言葉が、実は子どもたちにも大きな影響を与えていたということに嬉しく思いました。
家族の中では、あまり深く考えずに言動することが多いですが、言葉は周りに大きな影響を与えていると考えたとき、信仰の発言はとても重要だと感じました。世の中は、不安を煽るようなニュースでいっぱいです。そのような言葉を聞いて成長している子どもたちは、やはり心配する大人になっていくでしょう。そういう意味においても日曜学校(キッズクラス)の働きがますます盛んになりますようにお祈りください!
私たちの発する言葉が、いつも肯定的、建設的でありますように。

心のオアシス 2013年9月1日

木を使う楽器は、その木によって音の良し悪しや、その値段に大きな差が出てきます。私が持っている6弦ギターは、中学時代に購入したものですが、今の何十万円もするギターよりも良い音が出ます。一昔前のアコースティックギターは、生音中心でしたから、使っている木の材質や製作工程などにこだわらないと、すぐ音に反映しました。今はドラムにさえマイクを立てる時代になってしまい、エレアコ(エレクトリック・アコースティックギター)と呼ばれるマイクを内蔵したものが主流になりました。ですから生音よりも電気的に増幅される音の良し悪しが問われるようになって、こだわる部分が変わってきたのです。
バイオリンやチェロなどの弦楽器は生音中心ですから、その音ですぐ見破られます。特に名器と言われるものは、痛みに耐えた木で作られます。ロッキー山脈の海抜3000メートルには森林限界線があって、その木々は、風が冷たく厳しいため、まっすぐ育たず、ひざまずいたような姿だそうです。それは厳しい環境の中で生き延びるため、必死で耐え忍ぶためにそうなったのですが、世界で一番美しく鳴る名器のバイオリンは、このひざまずいた木で作られるのです。痛みに耐えた木で作った楽器は、美しい音を奏でます。苦しみに耐えた木によって、苦しみに耐えられる音を出すバイオリンが作られるのです。
美しい魂で、絶妙な旋律を奏でる人は、何の苦しみもなく生きてきた人ではなく、さまざまな逆境や痛みを通ってきた人なのです。痛みが大きければ大きいほど、神さまは、あなたを最高の作品として、この世で輝かせようとしておられるということです。
「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」(コリント15章58節) 今週もご一緒してくださる主と前進いたしましょう!

心のオアシス 2013年8月25日

シェークスピアは、「人生は芝居なのだ。舞台の上で王様をしたから良い役者ではないし、舞台の上で乞食をしたから悪い役者ではない。大切なのは王様を王様らしく演じたか、乞食を乞食らしく精一杯演じたか。」と話しました。
私たちはそれぞれ国籍が違います。能力や体力、学力にも差があるでしょう。与えられている環境や仕事、家族、立場はそれぞれ違います。ある人は贅沢な暮らしをすることができるかもしれません。ある人は質素な生活を一生強いられることもあるでしょう。しかし一生の終わりに神さまから問われるのは、あなたが何をして成功したかではなく、神さまから与えられた役柄を、人生という舞台の上で、どれだけそれをフル活用して生きたかということなのです。もし、私たちに関わる全てが、神さまから私にだけに特別に与えられた預かり物だと考えることができれば、優越感や劣等感はなくなるでしょう。他者と比べる必要もなくなるのです。
マザー・テレサの言葉にそのような人生を送ることができるヒントを見い出すことができます。
「イエス様のご命令でなければ、今していることはできません。私は何の手柄もたてていません。私が今までしてきたことは神のご意志です。私は神の手に握られた小さな鉛筆です。お書きになるのは神なのです。」 
自分が願っている方向へ物事が進んでいない時にも、「神さまは急いでいらっしゃらないようですから・・・」 
経済的な問題と直面したときには、「お金なら大丈夫です。神のご意志なら集まります。集まらなかったら、主がお望みでなかったということです。」
私たちが悩むとき、これらの言葉を思い巡らせて、神さま主体の生き方をしたら楽になりますよ!(体験談)

心のオアシス 2013年8月18日 

先日ヨイド純福音教会のイー・ヨンフン先生が、集会でお証されていました。アフリカに宣教師が建てた神学校があり、その学校で訓練された卒業生は、他の地域へ派遣されていきます。ある年配の男性がその学校へ入学したいと思いました。しかし、その男性は字が読めない、年をとっているという理由で入学拒否されました。彼は神が神学校で学びとおっしゃるのでなんとか入れてほしいと懇願し、お情けで許可されたのです。彼は勉強をしましたが、成績は良くありませんでした。月日は流れ、卒業して宣教師として教会のない地域へ派遣されることになりました。そこで8年間住みましたが、その村の酋長は霊媒などしている因習の強い場所で、結局3人しか伝道できませんでした。実が実らないので、その地を出る決心をして、夜、ひそかに村を離れました。途中大きな木の下で祈りました。「私はこの村を離れます。8年間やりましたが3人だけしか伝道できませんでした。ですから御心ではないと思います」 すると神さまからこのような声がありました。「誰が離れよと言ったか?」 その時、彼は自分の力でやった結果だったと悔い改め、聖霊により頼まなくてはならないことを気が付かされました。村へ戻ってきて、家の前に毛布のようなものが置いてあるのを見つけました。何と酋長の息子が2週間高熱で苦しんで横たわっていたのです。村の霊媒や占いでは癒されなかったのです。そこで酋長はこの宣教師の所へ連れてきて「もし、癒されなかったら、あなたは8年間ウソをついてきたことになる。息子が死んだら、その日はあなたが死ぬ日でもある。」と脅されて、宣教師は恐れながら祈り続けました。しばらくするとその息子の目が正常になり癒されました。村の人々はそれを目撃し、酋長はひざまずいて「あなたのイエスが本当の神だ!」と告白してから人口1800人中、1400人がイエスさまを信じるというリバイバルが起こったそうです。
神さまがなさることは、何もかも素晴らしい!! 

心のオアシス 2013年8月11日

終戦時において占領軍では、天皇陛下に対するいくつかの処分の方法が考えられていましが、いずれにしても、天皇は殺される運命にあったのです。かつては1万8千人の護衛に守られていた天皇は、今や一人の護衛も持たずして、9月27日、天皇がただ一人の通訳を連れてマッカーサーの前に立たれたとき、ついに捕まえるべき時が来ました。マッカーサーは、天皇が命乞いに来たものと勘違いし、マドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしませんでした。天皇陛下は直立不動のままでこう言われました。「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行われた限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります。しかしながら、罪なき8千万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように。」この言葉を聞いたマッカーサーは驚いて立ち上がり、直立不動で陛下の前に立ち「天皇とはこのようなものでありましか! 私も日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ることがあれば、何なりとお申し付けください」 天皇は涙をボロボロ流し、「この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と懇願されました。
当時の日本人口は8千万人もいませんでした。米国大統領からは、日本に1千万人の餓死者を出すべしと命令が来ていました。しかし天皇の人徳に触れたマッカーサーは、8千万人と水増しして食料を多めに取ったのです。しかし、それは後に、彼が解任される原因にもなりました。 
この天皇陛下の発言に感動しない人はいないでしょう。それ以上に私たちの為に命を献げられたイエス・キリストに感動せずにはおれません。

心のオアシス 2013年8月4日

いつもよく働く靴屋のもとへ、あるとき、乞食の姿になって天使が現われました。靴屋は乞食の姿を見ると、うんざりしたように言いました。「おまえが何をしにきたかわかるさ。しかし、私は朝から晩まで働いているのに、家族を養っていく金にも困っている身分だ。ワシは何も持ってないよ。ワシの持っているものは二束三文のガラクタばかりだ」そして、嘆くように、こうつぶやくのでした。「みんなそうだ、こんなワシに何かを、くれと言う。そして、今までワシに何かをくれた人など、いやしない・・・」乞食は、その言葉を聞くと答えました。「じゃあ、わたしがあなたに何かをあげましょう。お金に困っているのならお金をあげましょうか。いくらほしいのですか? 言ってください。」靴屋は面白いジョークだと思い笑いながら答えました。「そうだね。じゃ、100万円くれるかい」「では、100万円差し上げましょう。ただし、条件が1つあります。100万円の代わりにあなたの足をわたしにください」「何?! 冗談じゃない! この足がなければ、立つことも歩くこともできやしない。やなこった、たった100万円で足を売れるものか」「わかりました。では1000万円あげます。ただし条件があります。1000万円の代わりに、あなたの腕をわたしにください」「1000万円?! この腕がなければ、仕事もできなくなるし、可愛い子どもたちの頭もなでてやれなくなる。つまらんことを言うな。1000万円で、この腕売れるか!」「じゃあ、1億円あげましょう。その代わり、あなたの目をください」「1億円?! この目がなければ、この世界の素晴らしい景色も、女房や子どもたちの顔も見ることができなくなる。ダメだ、1億円でこの目が売れるか!」 すると乞食は言いました。「あなたはさっき、何も持っていないと言っていましたが、本当はお金には代えられない価値あるものをいくつも持っているのですね。しかも、それらは全部もらったものでしょう!」 感謝をすると、今、目の前にある大切なものに気づきます。

心のオアシス 2013年7月28日

ある病院で勤めておられる方からの感動的なお話です。
寝たきりで首も動かせない男性が病室に運び込まれたとき、もう一人の患者が窓際のベッドに横たわっていました。お互いに親しくなると、窓際の患者は窓から外をながめて、外の世界についてくわしく話をしだしました。「今日はいい天気ですよ~。青空にぽっかり雲が浮かんでいます。向かいにある公園の桜が咲き始めたところですよ」別の日には、「今日は風が強い日ですから、木の葉が揺れて、まるでダンスをおどっているようですよ~」などと、寝たきりで首さえ動かせない彼に語って聞かせてあげていたのです。彼は窓際の男性が語るその光景を想像することで、毎日毎日、心が慰められました。そして、自分も外の世界が見えるように早く病気を治そうと思うのでした。しばらくして、窓際の男性は退院することになりました。もう一人の男性は喜びました。「やった。これで、自分が外の世界を見ることができる。これからは、自分が窓の外の世界を見て新入りの患者に話して聞かせてやろう」看護師にベッドを窓際に移すように頼むと、すぐに聞き入れてくれました。しかし心躍らせて窓の外に目をやった彼は、愕然としました。窓はコンクリートの壁に面していて外の世界など何も見えなかったのです。それから彼は考えます。あの窓際の男性は、いったい何を見ていたのでしょう。彼の目に見えていたのは灰色のか壁でした。しかし想像の力で、その向こうにあるものを見ようとしていたのです。そして、ただ天井を見ることしかできず、いつも辛そうにしているルームメートのために、自分の思い描いた壁の向こうの世界を話して聞かせてくれていたのです。
同じ壁を見て、ある人はその壁だけを見ます。別の人はその先にある「希望」を見ます。状況は同じでも、見方によって世界が違ってきます。   
イエスさまは言われました。「床を取り上げて立って歩きなさい!」
あなた次第で今の状況に生きるか希望に生きるかが決まります。

心のオアシス 2013年7月21日

暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか? 私は植木のお手伝いをしているため、炎天下で作業をすることも多々あります。そんな中で神さまの恵みを学ぶこともよくあります。植木は庭師の思いのままにその形を変えていきます。たとえ無駄な枝がたくさん出ていて、見るからにみすぼらしい装いをしていても、庭師の手が加われば美しく整えられていくのです。またその枝ぶりも時間をかけて手入れされていくと、やがては美しいフォルムへと変化していくのです。私はこの様子を見ながら、人間も同じだと思わされました。それは、神さまが私たちを手入れしてくだされば、必ず祝福されていくということです。
私たちの人生は、結果が出るまで何十年もかかることがあります。「桃栗3年、柿8年」と言われます。それぞれの木が良い実を実らせるために、農園主は様々な方法で手を加えてその成長を助けています。
先日、私の植木の師匠からお聞きした話なのですが、彼が昔、吉野の下市町にいる知り合いの柿農園に傷モノの柿をいただきに行ったことがあったそうです。そこのご主人に柿の剪定の仕方や、育て方を教えていただいているとき、農園に収穫されず小さい実がたくさん残っている渋柿を見つけました。何故、渋柿をそのままにしているかと尋ねると、違う種類の柿を植えると受粉しやすく実がなりやすくなるのだと答えられたそうです。渋柿がなければ受粉しないわけではないのですが、より多くの実をつけやすくするために、そのようにしているとのことでした。
私たちの人生にも、周りには様々な人たちがいます。必ずしも甘い人達だけではありません。中には受け入れたくない渋い人もいます。でも、そのような人たちを通して、私たちが多くの良い実を結んでいくために必要な存在として農園主が植えたとするならば、それを甘んじて受け入れるべきでしょう。剪定という荒治療をされることもありますが、それも全ては私たちの将来のためなのです。時来れば多くの実を結ぶべし。