心のオアシス
心のオアシス 2013年12月15日
ビリーグラハム・クルセードが、スコットランドで開催された時、グラスゴーの労働者地区に住み、日雇い労働をしていた一人の男性が救われました。貧しさのゆえに荒れた生活をしていた彼は、その時を境にして、生活ぶりが全く変わりました。教会へも日曜日ごとに忠実に出席しはじめ、仲間に会うと、誰かれとなく教会へ一緒に行こうと誘うようになりました。
ある日、仕事場で顔に刀傷のある、いかつい顔をした男と一緒になりました。以前の彼だったら、今の他の仲間たちと同じように、刀傷の男に近づかないように仕事をしていたでしょうけれども、神様によって変えられていた彼は、進んでその男と組んで仕事をしはじめました。二人は昼食時になり、ガレキの山に腰をおろし、ポツリポツリと世間話を交わしていましたが、彼は「今度、教会へ行かないかい?」と勧めました。突然のことに刀傷の男は「この俺が?」と自らを指しながら驚いた様子でした。しばらく無言の時が続きましたが、刀傷の男は悲しそうな顔をして、こう言いました。「俺なんかダメさ・・・こんな醜い傷を持った俺を、どうして教会が迎え入れてくれるんだ・・・」そうすると彼は言いました。「いいや、俺たちをな、迎えてくれるお方がいるんだよ。そのお方は、お前より、もっと酷い傷が体中に、顔に手足にあるんだよ。」
私たちの顔や体に傷はなかったとしても、目に見えない心の傷はけっこうたくさんあるものです。しかし、この地上で全ての苦難を通られたイエス・キリストが、私たちを理解し迎え入れてくださるなんて本当に有難いことです。
今から2千年前に、キリストは家畜小屋で生まれ、家畜の餌箱に寝かされていました。この貧しい幼子に何ができる?と思えるようなお姿でした。でも神共におられるならば、境遇は関係ありません。
「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエル『神われらと共にいます』と呼ばれるであろう」。(マタイ1の23)
心のオアシス 2013年12月8日
榎本保郎先生が、かつて同志社の神学生であった時、牧師に連れられて路傍伝道へ行かれたときの体験したことを書いておられます。祭りの夜であったせいか大勢の人たちが町に出てきていました。牧師が街角に立って説教をしますが、誰一人足を止めて聞く人はいません。その後、今度は若き榎本神学生がお話をすることになりました。大きな声で「皆さん!」と叫びましたが、やはり誰も足を止めてはくれませんでした。話が終わり何とも言えない気持ちで教会へ引き上げました。その時は、恥ずかしさと信仰に耳をかさない人々に対する怒りで腹が煮えくり返っていたそうです。そんな神学生の傷口にでも塩を塗るかのようにして、前をちょろちょろしていた子供たちが「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」とからかいました。振り向いてにらめつけてやったとのこと・・・ 教会へ帰ると牧師はすぐに感謝祈祷をしようと言われましたが、またそれに腹が立ちました。「何が感謝や! 腹が立ったら腹が立ったっていいじゃないか! そのほうがよほど正直や!」と内心思いましたが、そこで歌った讃美歌536番の歌詞「むくいを望まで、人に与えよ、こは主のかしこきみ旨ならずや。水の上に落ちて流されし種も、いずこの岸にか生いたつものを。浅き心もて、ことを計らず、み旨のまにまにひたすら励め。風に折られしと見えし若木の、思わぬ木陰に人もや宿さん。」歌いながら自分の信仰のなさを恥じたと告白されています。
その20年後、榎本先生は牧師になっておられました。ある日、先生の教会に同志社の神学部の新卒生が派遣されてきて、彼と面接しながら住所を見たところ、かつていた教会の近くだったので、当時の路傍伝道の苦労をお話しされました。彼はその話の終わるのも、もどかしげな表情でこう言いました。「先生、あの時に『アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン』と言ったのは、この僕です。」先生は、あまりにもくすしき神の御業に、しばらく何も言えなかったと証ししておられます。
先週は、何年も祈られ、私も訪問してきた80歳の女性がイエス様を受け入れ、洗礼を受けました! 人の時ではなく、主の時を感じました。
心のオアシス 2013年12月1日
「自分を振り返る鏡」というタイトルのお話です。
ある町に不満ばかりを言っている人がいました。誰も彼の不満や愚痴から逃げることはできませんでした。ある日、彼は道で旅人に出会いました。やはりその旅人も、彼の隣人に対する不満を聞かされました。「今まで、これほど醜い人たちは初めてですよ。町の人たちはみな、人を助けることを知らず、利己的です。何より悪いのは、互いに中傷するのを止めないんですよ。」
実は、その話を聞いていた旅人は天使でした。天使が聞きました。「それは本当ですか?」 男は答えました。「私の言うことが信じられませんか?」 するとその男が続けて言いました。「ほらほら、向こうから歩いてくるあの男を見てくださいよ。名前は知らないけど、顔は知っていますよ。あの小さくて切れ長の目、唇には貪欲があふれ、背中を丸めて、ずる賢くペコペコしていますよ。歩いているというより、こそこそと這っているようですね。」 天使が言いました。「あなたはすべてを把握していますね。大変頭の良い方ですね。しかし、あなたには一つ見えていないことがあります。あれは鏡なのですよ。そして、あなたが非難していたあの男は、あなた自身なのです。」
「他人は自分を映す鏡」と言われます。他者が自分のことを大切にしてくれないと感じる時、実は自分も他者を大切にしていない。また他者の対応に不満を持つ時、実はその対応こそ自分が相手にしている対応であることが多いそうです。
マザーテレサの愛した祈りの中に、「慰められるよりも慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりは愛することを」というのがあります。私たちは誰かから慰められること、理解され、愛されることを求めています。でも、本当は他者に与えていく人生の方が、幸せなのでしょうね。私たち自身の総点検をしなくてはいかなければ・・・。
「受けるより与える方が幸いです。」(使徒行伝20章35節)
心のオアシス 2013年11月24日
ある病院での出来事・・・
寝たきりで首も動かせない男性が病室に運び込まれたとき、もう一人の患者が窓際のベッドに横たわっていました。お互いに親しくなると、窓際の患者は窓から外を眺めて、外の世界について詳しく話をしだしました。「今日は良い天気ですよ~。青空にぽっかり雲が浮かんでいます。向かいにある公園の桜が咲き始めたところですよ。」別の日には、「今日は風が強い日ですから、木の葉が揺れて、まるでダンスを踊っているようですよ~」などと、寝たきりで首さえ動かせない彼に語って聞かせてあげていたのです。彼は窓際の男性が語るその光景を想像することで、毎日毎日、心が慰められました。そして、自分も外の世界が見えるように早く病気を治そうと思うのでした。しばらくして、窓際の男性は退院することになりました。もう一人の男性は喜びました。「やった! これで、自分が外の世界を見ることができる。これからは、自分が窓の外の世界を見て新入り患者に話して聞かせてやろう。」看護師にベッドを窓際に移すように頼むと、すぐに聞き入れてくれました。しかし心躍らせて窓の外に目をやった彼は、愕然としました。窓はコンクリートの壁に面していて外の世界など何も見えなかったのです。それから彼は考えました。あの窓際の男性は、一体何を見ていたのでしょう? 彼の目に見えていたのは灰色の壁でした。しかし想像の力で、その向こうにあるものを見ようとしていたのです。そして、ただ天井を見ることしかできず、いつも辛そうにしているルームメイトのために、自分の思い描いた壁の向こうの世界を話して聞かせてくれていたのです。同じ壁を見て、ある人はその壁だけを見ます。しかし信仰の人は、その先にある「希望」を見ます。
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」(ヘブル12章2節) 私たちには揺るがない希望があります!
心のオアシス 2013年11月17日
ある日、一人のクリスチャンが登山に行きました。しかし途中で滑って落ちてしまいました。不幸中の幸いにも崖っぷちに松の木が生えていて、その枝を掴むことができたので、断崖絶壁から落ちることからは免れました。松の木にぶら下がっている状態だったので、一人で崖の上に登ることは不可能です。そこでその男は叫びました。「誰か助けてください! 上に誰かいませんか?」叫んでいると声が聞こえてきました。
神「私がここにいるから心配するな!」
男「誰ですか?」
神「神である!」
男「おぉ、神よ、私を助けてくださったら、私は命をあなたに捧げます!」
神「では、あなたは松の枝を握っているその手を今、放しなさい!」
男「神さま、そんなことをしたら落ちて死んでしまいます・・・」
神「あなたの信仰の通りになるから、手を放してごらんなさい」
しばらくそこに沈黙がありました。そしてその男は上に向かって叫びました。「すいませんが、上に神さま以外の人はいませんか?」
これは笑い話ではありますが、核心部分を突いていると思います。自分の思い通りに事が進んでいる時には、満足できるのですが、想定外のことを差し出されたら、それをなかなか受け止めることができないのが私たちです。
神は、私たち人間を造られたときに、「神のために生きる」というプログラミングをされました。しかし自分のために生き始めた時に、誤作動が生じ、様々な問題が起こったのです。この世の中には、不条理やストレスで満ちています。それは誤作動したまま生き続けようとする人間の罪の結果です。自分のやり方で上手くいかなくなったら、是非、神さまのやり方に委ねてみてください。その第一歩は「祈る」ことです。
「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。」(詩篇121:1・2)
心のオアシス 2013年11月10日
ケント・キースが綴った「それでも」という詩をご紹介します。
人は、わからず屋で、不合理で、自分勝手なものだ。それでも、人を愛しなさい。
人に親切にすれば、利己的な動機や裏があるにちがいない、と人はあなたを非難するだろう。それでも、親切にしなさい。
もしあなたが成功すれば、偽りの友達や真の敵ができるだろう。それでも、成功するために努力しなさい。
率直で誠実であることで、あなたは傷つきやすくなってしまうかもしれない。それでも、率直であり、誠実でいなさい。
あなたが今日した良い行ないは、明日には忘れられてしまうかもしれない。それでも、良い行ないをしなさい。
最も大きな考えを持っている偉大な人たちは、最も心の狭い未熟な人たちに打ち砕かれてしまうかもしれない。それでも、大きなことを考えなさい。
あなたの持っている最高のものを世の中に与えなさい。その結果、ひどい目にあうかもしれない。それでも、あなたの持っている最高のものを世の中に与えなさい。
先日、KCFの青年メンバーが結婚しました。お相手は私がずっとお祈りしていたクリスチャン女性。16年前、本人は当時中学2年生の時、お父様を病気で天にお送りしました。私が葬儀を担当したこともあり、ずっとお祈りしてきましたが、数ヶ月前に彼女がこんなメールをくださいました。「この16年間、色々な辛いことがありましたが、乗り越えることができたのは、神さまにしがみついていたからです。神さま無しの今の私はありません。」牧師の手の届かないところで、神さまが確実に一人の人物に触れ励まし支えていてくださっていたことに心から感謝を捧げました。「それでも」あなたは神さまにしがみついていられますか?
心のオアシス 2013年11月3日
ある青年が仕事の移動中に乗った電車での出来事を投稿していました。
僕の隣には、幼稚園くらいの女の子が、母親らしい若い女性と一緒に乗っていた。途中、駅で片腕のない女性が乗ってきて、僕たちの向かい側に座った。女の子が「お母さん、なんであの人は手がないの?」と、みんなに聞こえる声で言ったので、僕は一瞬ドキッとして、女性と親子から思わず目をそらした。が、母親らしき女性は慌てることなく、女の子に向かって言った。
母親「いろんな人がいるの。みんなが同じじゃないの。あなたにはおじいちゃんとおばあちゃんがいないでしょう?」
女の子「うん、みんなにはいるけど私にはおじいちゃんとかいないね」
母親「うん、いろんな人がいるけど、おじいちゃんやおばあちゃんがいないのは、あなたのせいじゃないでしょ?」
女の子「うん、違う。あ、友達の中に父さんいない子いるよ」
母親「そうで、でもそれはその子のせいじゃないよね? だからね、みんな同じじゃないの。みんなそれぞれ、持ってるものと、持ってないものがあるのよ。でもね、持ってないからといってその人は何も悪くないし、他の人と何も違わないのよ」
腕のない女性を含めて、車内に乗り合わせていた人たちはみんな暖
かい目でその親子を見守っていた。思わず目をそらしてしまった自分
が恥ずかしくなった。
マザーテレサは、願っている方向へ物事が進まない時、「私達は急い
でいても、神さまは急いでいらっしゃらないようですから・・・」ま
た経済的な必要に迫られたとき、「お金なら大丈夫です。神のご意志
なら集まります。集まらなかったら、主がお望みではなかったという
ことです」と言いました。神に委ねるなら「今」を満足して生きたい。
心のオアシス 2013年10月27日
「俺の人生は、ヤツに救われた」という投稿された文章です。
一番古い記憶でも、幼稚園の頃から俺はずっといじめにあっていた。友達はいなかったので、本ばかり読んでいた。大学は地元を離れた。今更ねじれた根性が直る訳もなく、やはり俺は一人きりだった。たまたまクラスが同じになり、たまたま俺の前の席に座ったのは、見た目も性格も素晴らしい男だった。しかし俺はヤツを警戒し、接触は極力避けるようにした。しかしヤツは何の気負いもなく笑顔で話しかけてきた。どもって黙っていてロクにコミュニケーションもとれない俺に一方的に話しかけて笑っていた。なぜか俺とヤツは一緒に行動するようになっていた。同じ授業を選び、ヤツの勧めで同じサークルにも入った。とは言え、まだ本音で付き合っていた訳ではなく、一定の距離は置いていた。夏の日、サークルの部屋に入る直前で中の会話が聞こえてきた。同じサークルの女子連中が、「なんであんなのと、つるんでるの?」と聞いていた。今更他人にどう評価されようと知ったことではなかったが、これはヤツの気持ちを知る良い機会ではあった。「おい、今『あんなの』と言ったか? お前らにあいつの何がわかる?! 俺やお前なんかかなわない位、すげー生き方してきてるんだ。 なんでつるんでるか聞いたよな? あいつは『いいヤツ』だからだよ。」その後、ヤツからメールが来た、「サークル辞めようぜ。つまんねぇや」それからもヤツとはつるみ続けて、気づいたら人並みなりの人間関係もできていた。俺の人生は、あの大学のあの日、ヤツに救われたといっても過言ではない。今、何とか真っ当に生きていられるのだから。今でも連絡は取り合っている。骨髄移植が必要になっているようだ。ヤツを死なせる訳にはいかない。明日、会社を休んで病院に行く。きっと俺の骨髄は適合するだろう。しなければならない。それが、俺が生まれてきた意味の一つに違いないはずだから・・・
イエス様とつるんでいれば、万事OK! 何とかなります!
心のオアシス 2013年10月20日
劇作家のウィリアム・シェイクスピアは、「人生は舞台だ。誰もが役者だ。おのおのが自分の役を演じきるのだ」と言いました。
私たちの人生が舞台であるならば、ある人は学生として、ある人はサラリーマンとして、ある人は親として、子どもとして、政治家として、医療関係者として、パートさんとして、植木屋さんとして、男として女として、それぞれの立場で輝いていることによって、神の栄光をあらわすことになるのです。そして舞台総監督は神さまです。そして一人一人が神の歴史の台本を創っているのです。演劇の中にも主役がいて脇役がいます。台本通りにやっていたとしても脇役が出過ぎた演技をすると、その舞台は台無しになるでしょう。また主役が目立っていなければ、それは良い劇とは言えません。たとえ通行人Aであっても、それを控えめに精一杯表現することによって、舞台が引き立つわけです。もし、脇役が、自分は主役になりたかったと言っても、監督があなたを通行人Aにされたわけで、それは必要ない役ではなく、舞台を盛り上げるためには、その役も必要であり重要な存在なのです。
同じように、私たちは、「どうして私は、あの人のようではなかったですか?」「あの人のようであったら、もっと人生楽しめたのに・・・」と言うならば、それは演劇の役に不満足である役者さんのように、舞台監督である神さまに文句を言っているようなものです。神さまが私たちにしかできない必要な「わたし」という存在を与えて、環境を与えたのですから、その中で全力で楽しみながら、喜びながら生きるのです。
マーリン・キャロザース先生の「賛美の力」という著書の中で、こう書いておられます。「わたしたちの人生というドラマの中で、サタンはその役割を演じる俳優であるかもしれません。しかし、神は依然として監督なのです」人生を楽しむためには、わたしたちの総監督が誰であるかを押さえておくことがポイントですね。サタンではなく神さまです!
心のオアシス 2013年10月13日
ある方が投稿された文章です。
12年前に亡くなったおじいちゃんの部屋から、当時小学6年生だった私と一緒に折った紙飛行機が見つかった。懐かしくて手に取ったら、紙が茶けててボロボロで、破れた隙間から何か文字が見えたので広げて見ると、おじいちゃんが当時の私に書いたものだった。
「かなこや、おまえはかわいい わ(わ→私)のたからじゃき だいじに だいじに おおきゅうなるまっで じいちゃが だいじにしたるきな じいちゃは かなこがだいすきじゃ おまんが じいちゃのこと いらんゆうとも さみしいけんど じいちゃは かなこがだいすきじゃきな あんま きらわんとってな かなこが・・・(ここから先読めない)」当時の私はおじいちゃんが好きになれなくて平気で目の前で「いらん」「死ね」って言っていました。こんなに愛されていたなんて、こんなに大切にされていたなんて全然知らなかった。ごめんな、おじいちゃん・・・。
聖書に「神はそのひとり子を賜った(プレゼントする)ほどに、この世(わたしたち)を愛して下さった。それは御子(キリスト)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)という箇所があります。私たちが「神なんていらない」「宗教なんて嫌いだ」と言っている時にも、神は「あなたがわたしのことをいらないと言っても、わたしはあなたを愛しています。」とメッセージを送り続けています。
おじいさんのラブコールが孫へ届いて、その孫がその愛に気付いて応答することは宗教ではありません。同じように、神が私たちにラブコールをしておられて、私たちがそれに気付き受け入れることを、「宗教」とは呼びません。私はこれを神さまとの「愛のキャッチボール」と呼びたい。神さまから愛を投げても、私たちがそれを受けて投げ返さなければキャッチボールは成立しません。
楽しい人生は、神さまとのキャッチボールから始まります!