礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2012年1月1日

私たちの母教会である大和カルバリーチャペルの主任牧師から支教会へ以下のようなご挨拶が届いています。

新年明けましておめでとうございます!  
 
支教会の愛兄姉様に新年のご挨拶を申し上げます。

支教会の皆々様には、一度もお会いしたことのない人々が多くおられますが、支教会のために、主の恵みを祈らなかったことはございません。しかし、愛の足りない自らを心から恥入り、主のあわれみを求めています。

先々週の主日礼拝で「心配しないで!」という題で説教しましたが、これは私の気持ちでもあります。「大牧者」である主イエス様が、愛兄姉たちを愛し、正しい道に導いて下さると確信しております。心配しないで、主にお従いして参りましょう。

今年は、すでに公表しましたように、リバイバル的不思議が起こります。そして、今後の十年間は「リバイバルと教会成長の季節」が来ます。このようなことを信じられることは、とても幸せなことだと思っております。

サーフィンの最も大切なことは、前方から来た波を 勇気をもってとらえ、乗ることです。波に乗るということは、並の努力ではできません。いつも祈りに祈り、主を仰いで、積極的に、肯定的に、信仰的に考え行動することです。

本部教会の大和カルバリーチャペルは、増々、主の恵みにあふれ、聖霊充満で、祝福の道を前進します。どうぞお祈りください。

 

マザーテレサのことばを贈ります。

平和はほほえみから始まります。苦しみが私たちの生活に訪れてくる時、ほほえみをもって受け入れましょう。神が送り給うすべて、求め給うすべてをほほえみながら受け入れる勇気は、神からの最も偉大なる賜物といえます。

一緒に住んでいたり、または血のつながった親族といった人たちにほほえみかけることは、あまり親しくない人々に対してほほえみかけるよりむずかしい時があるものです。 「愛は近きより」ということを忘れないようにしましょう。今年もむさぼるように聖書を読みましょう!

 

大和カルバリーチャペル(大和キリスト教会) 主任牧師 大川従道

心のオアシス 2011年12月25日

カナダの「シャインツマン」という新聞に掲載された実話でです。

クリスマスの夜のことでした。一人の女の子が冷たい北風が吹きぬける暗い道を歩いています。どこまでも続く高いレンガの塀のそばの道を、女の子は小さなプレゼントを胸に抱いてブルブル震えながら歩いていました。実は、そのレンガの塀の内側には刑務所で、その子のお父さんが殺人犯で収監されていのです。やがて刑務所の門のところまで来た女の子は守衛に言いました。「お願いです。お父さんに会わせてください」しかし守衛は言いました。「ダメだ。もうとっくに面会時間は過ぎている。明日来なさい」「明日は、もうクリスマスは終わってしまいます。お願いです。ちょっとだけ・・・」「ダメと言ったらダメなんだ!」守衛は怒鳴りました。とうとう女の子は泣き出しました。ちょうどそこへ刑務所長が通りかかりました。かわいそうに思い声をかけました。「おじさんが、そのプレゼントをお父さんに渡してあげよう。今すぐに手渡してあげるから泣かないで帰りなさい」実は、その子のお父さんは、乱暴で、凶暴で、刑務所の規則など何も守らない手のつけられない囚人だったのです。独房の中で、所長からプレゼントを受け取ったその男は、リボンをほどきました。中に一枚の紙切れがありました。「大好きなお父さんへ。お父さんが殺人犯だということが恥ずかしいと言って、お母さんは家を出てしまいました。クリスマスに、お父さんにプレゼントを贈りたいと思いましたが、お金がありません。そこで、お父さんが優しくなでてくれた、私の巻き毛の髪を切りました。これを、今年のプレゼントにします。お父さん、私はどんなに辛くても、寂しくても、お父さんが帰ってくるまで頑張ります。お父さんも頑張ってください。刑務所は寒いと思います。お父さん、風邪を引かないでね・・・」

読んでいく男の目から、どっと涙が溢れました。箱の中から少女が贈った髪の毛をつかみ出すと、その中に顔を埋めて泣きました。その次の日、男は、まるで別人のように最も模範的な囚人に変わりました。

神さまの愛を受け入れたら、あなたの人生も驚くほど変わります!

心のオアシス 2011年12月18日

「八風吹けども動ぜず」という言葉をご存知でしょうか? この言葉の意味は、「自分を惑わす出来事に動じず、強く心の根を張ろう」です。

自分を惑わす「八風」とは、どのような風なのでしょうか?

 一つ目は、「利」(り)=自分の意にかなう利益のこと。

 二つ目は、「誉」(よ)=陰で名誉を受けること。

 三つ目は、「称」(しょう)=目の前で称賛されること。

 四つ目は、「楽」(らく)=様々な心身を喜ばすこと。

 五つ目は、「衰」(すい)=意に反する損失のこと。

 六つ目は、「毀」(き)=陰で不名誉を受けること。

 七つ目は、「譏」(き)=目の前で中傷されること。

 八つ目は、「苦」(く)=様々な心身を悩ますこと。

 誰でも褒められたら嬉しいですし、けなされたら傷つきます。苦しいことだけに限らず、楽しい事、嬉しいことでも、慢心を生み、有頂天になってしまい、結果として私たちの心を動揺させるものであります。

 このような八つの風に毎日揺すぶられながら生きているのが私たちです。しっかりとした心の根がなければ、さまざまな風に心が動揺して、抑制できずに、高慢になったり、劣等感に陥ったり、とんでもない言動を起こしてしまうということにもなりかねません。

 この八つの風に対処する方法は、自分の立場をハッキリと認識するということです。例えば、テレビの司会進行役は、芸人たちがどんなにふざけて脱線しても、笑顔で淡々と仕切っている様子を見ることがあるでしょう。どうして、周りが笑ってざわついているのに、司会者は冷静でいることができるのでしょうか? それは自分の立場をわきまえているから動じないのです。

 新約聖書の中でパウロは、「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている」自分は神に仕える立場ゆえに、栄えも恥も神さまが受けてくださるから動揺しないで生きることができるのだと言っています。私たちもそうありたい。

心のオアシス 2011年12月11日

ショーペン・ハウエルの人間関係に関する「ヤマアラシの論理」というのがある。それは冬の寒い日に、ヤマアラシ二匹が近づいて、互いに温め合うのですが、それぞれが持っているトゲで、相手を傷付け合ってしまいます。近づけば近づくほど相手を傷付け合うので、ほどほどの距離でいる方が良いという論理です。だから人間もほどほどの距離を保っておけば、平和に過ごせますよというわけですが、根本的にトゲがあるという問題は変わらないわけです。人間にもトゲならぬ自己中心性(聖書では「罪」と呼ぶ)というものがあって、ほどほどの距離を保つなんてことはいってられない現実があります。家族や友人という近い存在になればなるほど、トゲをぶつけてしまうのです。

世界中の人は平和を求めています。それなのに何故戦争が無くならないのでしょうか? 今も世界のどこかで戦争が起こっています。命が奪われています。それは平和を求める人間の側に問題があるのです。自己実現型の平和を求めていますから、その自己実現にそぐわない平和論は受け付けることができないのです。そうやって、世界中で自己実現型平和論を主張することによって戦いが起こっているのです。テロリストたちでさえも平和を求めています。自己中心的な平和を得たいために、戦っているのです。それはテロリストだけの問題ではなく、私たちにも同じことが言えるのです。

この問題に解決を与える最善の方法をお教えいたしましょう。人と人の間にイエス・キリストを挟むのです。イエス・キリストは、私たちの持っているお互いのトゲに挟まってくださって、犠牲となってくださることによって平和が生まれるのです。

今から2千年前に、神と人との平和のために神なるお方がイエス・キリストを地上に送ってくださいました。このお方を神と人との間に挟むことによって和解が訪れたのです。神は人を赦し、人は神に近づくことができるようになりました。神実現型平和を求め始めるならば、真の平和がくるでしょう。それがクリスマスの奥義なのです。

心のオアシス 2011年12月4日

私たちの肉体そのものに神の愛と緻密な計画が表されているといっても過言ではありません。あるデータによると私たちの体は、秩序を守っていれば、健康ないのちが維持できるようにできていて、細胞の一つが欠如するなどの不従順が起これば、からだは病気になってしまいます。体には、全自動冷暖房調節装置で、一日平均2500カロリーの熱を発し、25杯のコーヒーを沸かすことのできるカロリーが体の各部分とつながっている自律神経温度調節装置は、大脳からの血液循環と汗によって体の熱の発散量を調節しているそうです。そして約千万個の神経細胞でできている脳は、0.07ボルトの電気を出し、目は約30万個の回路で大脳とつながり、花を見ると数千個の回路が作動し、その大きさ、形、色を判別します。ピアノには鍵盤が88個ありますが、耳には1500個のキーボードがあって、防音装置が完備され、バランス感覚も調節することができます。心臓につながる血管を1本にすると1万6千Kmを超え、1日平均10万回以上鼓動しますが、1秒当たり4/15秒ずつ休むため、1日6時間は休むことになります。そして何よりも、人間だけに与えられている心を用いて、神さまを覚え、感謝し、賛美し、祈るようにされています。何という創造の御業でしょうか?!

何を食べ、何を着ようかと心配することも必要なことかもしれませんが、神さまが、これほどまでに私たちを精巧に緻密に繊細に造られているのに、何の計画もなく生かしておられるはずがありません。

フェイスブックに私が祈っていたある人がこのようなコメントを書いておられるのを見て神さまに感謝しました。

2年前・・・主人が会社を休み始めたこの季節。ふと一人になると、涙がでます。でも今、マイホームがあり、転職があり、娘も大きくなり、ピアノの仕事ができる。あのころの不安は今、幸せに変わっています。

神さまはあなたに対して素晴らしい計画を用意しておられます。忘れておられるのではありません。必ず「時」がきます。私たちは、その「時」を神に委ねて待つのです。次はあなたの番です!

心のオアシス 2011年11月27日

聖書の中に悪魔がイエスさまにむかって「あなたが神の子であるなら、石がパンになるように命じてごらんなさい」と言い、それに対してイエスさまは、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものであると書いてある」と反論される箇所があります。このような悪魔の囁きは私たちにはないように思えますが、実は日本という国は、この悪魔の誘惑にまんまと引っかかってしまっているのです。日本は、鉱石を加工して世界に売って、お金を手に入れ、それでパンに変えて成長してきました。しかしそのような方法が今や頭打ちしています。どうしてでしょうか? これらのことは生きていく上での知恵であり、当然しなければならないことですが、サタンの巧妙な罠が潜んでいるのです。それは、自分の心の声や周りの声に従って生きていく自己中心的なモノの考え方です。神によって生かされていることや、神の目的に生きる使命というものを無視させるのです。日本は、自分の能力や知恵に過信して、それによってパンを得てきたかのような錯覚をしてきました。しかし、今はそれらの頼っていたものによって、破滅へと向かっているのです。どんな繁栄も勢力も、必ず衰える時期があることを賢者であるなら悟ることができるでしょう。そして本当に知恵ある人は、何を求めるべきかを探るのです。

イエスさまは、自分の使命を忘れ、ただその時の欲求に従って生きればいいじゃないかという囁きに対して、人はパンだけで生きるものではなく、神の言葉によって生きる使命があることを強調されました。石をパンに変えることがいけないのではなく、神が語っておられる私たちの使命を忘れてはならないということなのです。人間は神抜きで人生を考えるならば、「生きるために食べるのか? 食べるために生きるのか?」という疑問の中で、堂々巡りするしかないのです。神によって生かされていることがわかると、神が私に与えてくださった目的のために生きるし、そのために食べるし、仕事もしていくのです。底辺でさまよいながら生きるのではなく、大空を優雅に生きる生き方をお勧めします。

心のオアシス 2011年11月20日

神があなたを愛していることを知ってください。あなたの努力は不要です。「努力する」のではなく「知ること」で、突然道が開けます。自己実現とは、自分で定めた目標を目指すことです。神実現とは、すでに神があなたに与えている目的に向かって進むことなのです。自己実現のセルフイメージは、自分で定めた目標や理想を強調すればするほど、「それに成り得ていない自分」という負のイメージが対照的に浮かび上がってしまうのも事実です。(中略)しかし聖書が語るセルフイメージによれば、私たちはまだ得ぬステイタスを獲得するのではなく、本来のステイタスを回復するだけでよいのです。自分のことを、神が創造した最高傑作だと意識する人と、望まれず偶然生まれてきた価値のない存在だと意識する人とでは、天と地ほどの差があります。想像してみてください。王様に子供が生まれたら、その子は自己努力ではなく、ただ「王様の子供だから」という血筋によって王位を継承することができます。この子供は世の中で最高のステイタスを持って生まれたのです。聖書によれば、私たちは誰でもこの世の王子以上のステイタスを持っているわけです。はっきり言って、これほど高いステイタスは他にありません。

「あなたは、目的を持って神によって創造されました」

「あなたは、神に似せて創られた最高傑作です」

「あなたは、神から愛されています」

あなたが、この神実現の3つの真理を知り、自分は最高のステイタスであることを真に認識した瞬間から、あなたとあなたのまわりの世界は変わり始めます。   (『聖書に隠された成功法則』松島修著より抜粋)

 

世の中の人たちは、理想像があって、そこに到達できるように努力して、到達できない自分に嘆きながら生きています。しかしクリスチャンは、すでに神が与えてくださった最高の自分からスタートするのです。では何もする必要がないのでしょうか? いいえ、神から与えられている最高の自分を神の目的の為に生きる使命をまっとうするのです。

心のオアシス 2011年11月13日

アメリカにこんな子供向けの本があります。

一人の女の子がいました。ある日、両親はその子を、金色のアーチのある神殿に連れて行きました。その神殿では、ハンバーガーにおもちゃがついた「ハッピーミール」というセット商品が売られています。神殿の人たちは、「さぁ、皆さん、これを買って食べる人は、誰でも幸せになれるよ」と呼びかけながら売っています。それを聞いた女の子は自分もそれが欲しいと言いました。両親は答えました。「ダメ。こんなものに騙されちゃ」彼女が欲しかったのは、おまけの付いているチーズバーガーではなく「幸せ」だったのです。そこで言いました。「お父さん、私はこのハッピーミールが欲しいの。これを買ってくれたら、一生、何もおねだりしないわ。これがあれば、わたしは一生、満足していられると思うの。だから買って。お願い」そこまで言うのなら、とお父さんはハッピーミールを買ってあげました。ところがなんと、そのハッピーミールは、彼女の願い通りのことを彼女にしてくれたのです。彼女は満ち足りた心を持つ明るい女性に成長しました。彼女の人生は必ずしも幸せとは言えませんでした。結婚した夫は、3人の小さい子供を置いて蒸発し、彼女にはお金もありませんでした。子供たちもまともには育ちませんでした。彼らは、学校は途中でやめ、彼女にさんざん苦労をかけ、最後には彼女を置いて家を出て行ってしまったのです。年老いてからの生活は、ささやかな年金暮らしの日々でした。それでも彼女は、不平も言わず、平和に暮らしていました。自分は本当に幸せ者だと思いました。それからも、彼女はいつまでも幸せに暮らしましたとさ・・・というお話です。

現実の世の中にも、ハッピーミールのようなものがあって、それさえ手に入れたら自分は幸せになれると思う時があります。でも実際にはそんなうまい話はどこにもないのです。「人生は10%があなたの体験で、90%はあなたがその体験にどう反応するかによって成り立っている」と言われます。あなたの心の姿勢が人生を明るくも暗くもするのです。これも神さまの恵みです。主にあって強くあれ!

心のオアシス 2011年11月6日

エレノア・ルーズベルトは、アメリカ史上最も尊敬される女性として選ばれた人物です。フランクリン・ルーズベルト大統領のファーストレディーでもありました。彼女の言った有名な言葉があります。「あなたの同意なしでは、誰もあなたに苦しみを抱かせることはできません。」

この言葉を裏返して解釈すると、意味がわかります。「今あなたが苦しい理由は、あなた自身が苦しみに同意しているからです。」生きていて、苦難がないわけではありません。一つの問題が解決すると、また他の問題が降りかかるのが、私たちの人生です。しかし、それでもエレノア・ルーズベルトは大胆に言います。今、あなたが苦しいのは、外の状況のためではなく、あなた自身がその状況にあって苦痛と感じることを選び、それに屈服したからです。

私たちに降りかかる問題がどのようなものであっても、その問題に対して挫折したり絶望したり、また新しい対策を見出したり、希望を見たりするのは、その状況に接する私たち自身が何を選ぶかということによって決まってくるということなのです。 

ジェレミー・テイラーの祈りです。

富んでいても、貧しくても、主を忘れることがありませんように。希望や恐れ、喜びや苦しみ、事故や心の痛みも、私が果たすべき義務を避けさせたり、妨げたり、御心から離れさせることがありませんように。

ああ、御霊を私の内に永遠にとどまらせ、私のたましいを正しく、あわれみ深く、正直で敬虔にし、きよい御心のために堂々とし、ひたむきにし、悪には屈することがないようにしてください。へりくだり、従順となり、平和のために働き、敬虔に仕えさせてください。ほかの人々の長所をうらやまず、軽蔑されるような行いをしませんように。もしも、そのようなあやまちを犯したら、柔和と愛をもって耐え忍ぶことができるように私を諭してください。

 

願わくは、私たちの選択が神さまの前に正しいものでありますように。

心のオアシス 2011年10月30日

アメリカのジョークです。

ミネソタ州に住んでいる夫婦は、二人とも仕事に追われて、なかなか同じ日に休みを取ることができないでいました。そして何とかお互いの都合をつけて、20年前の新婚旅行で行ったハワイに行こうということになりました。しかし、二人とも多忙で、一緒に行って一緒に帰るというスケジュールをどうしても組むことができず、一日早くご主人だけがハワイに飛んで、次の日に奥さんが出発するということになりました。 

そしてご主人が無事にハワイの宿泊先のホテルに到着して、チェックインを済ませて部屋に入るとパソコンが置いてありました。ご主人はそのパソコンを使って奥さんにメールを書いて送りました。ところがアドレスを間違えてしまい他人に送られてしまいました。しかしそのミスには気づいていませんでした。

かたやニューヨークのある場所で、心臓発作で突然亡くなったご主人の葬儀が数日前に営まれました。奥さんは悲しみのあまり何もすることができずにいましたが、お悔やみのメールもたくさん届いていることを懸念してメールチェックをしました。ところが何とあるメールを開いて読んでいた時に驚いて失神して倒れてしまいました。助けに行った息子が開かれていたメールの画面を見るとこのような内容でした。

宛先:最愛の妻へ

タイトル:私は到着しました。

内容:愛する妻へ。あなたは私からのメールに驚いていることでしょう。実はここは家族の元へメールを送ることが許されているのです。私はたった今到着してチェックインしたところです。明日、あなたが来るための準備は整えておきました。あなたに会えることを楽しみにしています。

追伸:ここはとても熱いですよ。覚悟していてください。

 

神さまの私たちに対するタイミングは絶妙です。助けは必ず来ます!