礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2011年7月31日

主よ、私が空腹を覚えるとき パンを分ける相手に出会わせてください。
のどが渇くとき 飲み物を分ける相手に出会えますように。
寒さを感じるとき 暖めてあげる相手に出会わせてください。
不愉快になるとき 喜ばせる相手に出会わせてください。
私の十字架が重く感じられるとき だれかの重荷を背負ってあげられますように。
乏しくなるとき 乏しい人に出会わせてください。
ひまがなくなるとき 時間を割いてあげる相手に出会えますように。
私が屈辱を味わうとき だれかを褒めてあげられますように。
気が滅入るとき だれかを力づけてあげらえますように。
理解してもらいたいとき  理解してあげる相手に出会えますように。
かまってもらいたいとき かまってあげる相手に出会わせてください。
私が自分のことしか頭にないとき  私の関心が他人にも向きますように。
空腹と貧困の中に生き そして死んでいく世の兄弟姉妹に 奉仕するに値する者となれますように 主よ、私をお助けください。
主よ、私たちの手をとおして 日ごとのパンを 今日の彼らにお与えください。
私たちの思いやりをとおして 主よ、彼らに 平和と喜びをお与えください。

これはマザーテレサの祈りでした。私たちは必要を感じる時、まず自分が満たされることを求めますが、本来はそうではないことに気付きます。まず相手の必要を満たしてあげるならば、私たちの必要は神さまが何とかしてくださるのです。難しいことかもしれませんが、本当は簡単なことなのだと思います。私たちの現実や気持ちがそれを難しくしているだけなのでしょう。
願わくは、私たちもそのように生きることができますように。

心のオアシス 2011年7月24日

かなり前の話しであるが作家の神津カンナさんが、テレビ寺小屋という番組で大変興味深い話をされていた。
彼女は、作家になる決意をしてアメリカ留学から帰ってきました。何度原稿を書いても突き返され、挫折している時に、作曲家である父親が自分の才能が開花した時の話をしてくれたそうです。
それは、小学校4年生の4月18日でした。音楽が好きではなかったのですが審査の結果、少年軍楽隊に一番で入りました。その時からトランペットを吹くようになり作曲家への道を進んだというのです。
小学校の同窓会の時、先生にお礼を言いました。「あの時、私の才能を見出してくださって、本当にありがとうございました。」しかし先生はワナワナしながら言いました。「実は当時、栄養状態が悪かったので、軍隊でラッパなどを吹かせると、皆肺をやられてしまうので反対したのだが、軍からの命令なので仕方なく肺活量の多い者から選抜したのだよ。」ガーン・・・大きなショックでした。しかし、「才能がないのにここまでこれたら上出来だ。」とその時から才能を創りながら今日に至ったとのこと。見せられた3つのカステラ箱には、父親の使った短くなった鉛筆がいっぱいに入っていました。
確かに才能のあるなしはあるかもしれないが、本当に才能があって仕事をやっている人は少ない。又、才能がないからといって、それをすぐ止めるのは不遜である。才能がなくてもそれを創りだす人もいる。すぐに諦めないようにという内容のお話であった。私たちも学ぶことがたくさんあると思います。
才能がない部分を見るのではなく、持っている部分を見始めると、それをどのように用いようかという気持ちになってくるものであります。
以前、杖をつきながら教会に来られている人生の大先輩がおられ、こう言われていたことに心打たれました。「やがて歩くことができなくなってしまった時に後悔しないように、今動ける限り教会へ来るようにしているのですよ。」「動ける自分」に目を向けておられる姿でした。

心のオアシス 2011年7月17日

アメリカにある村の古びた教会で、年に一度の食事会が行なわれました。夕食会の後、司会者に指名された人は何かその場で即興で出し物をするという一芸大会がありました。いよいよ司会者が指名したのはジェームスという男性でした。彼はシェークスピア調で聖書の詩篇23篇を流暢に暗唱しました。朗読が終わった時、拍手喝さいでした。次に司会者は、部屋の隅っこにいたビリーを指名しました。彼はボロボロの麦わら帽子をかぶっていて、ノソノソモゴモゴしながら前に出てきました。そして言いました。「俺はこれといった芸はできないけど、今ジェームスが暗唱した詩篇23篇ならできるんだけどなぁ・・・」みんなは、「同じでいいからやってくれよ!」と言ったのでビリーは、このように始めました。「昨年は母が死んで、辛い年だったけど、主は私の羊飼いであって、私には乏しいことがなかったよ。畑は不作で、子供たちも学校に行けずに働いたけど、主は私を緑の牧場に伏させて、憩いのみぎわに伴われたな~。色々な問題で悩んで落ち込んでいたけど、主はわたしの魂を生き返らせてみ名のために、わたしを正しい道に導いてくださったな~。仕事中に危険な目に何度も遭ったけど、神さまがわたしと共におられるから、災いを恐れることはなかった・・・。結局、子供たちは学校をやめなきゃならなくなったけど、あなたのむちと、あなたのつえによって私は慰められました。(むちと杖は羊飼いが羊を導き保護するために用いる道具)どんな時にも、わたしの杯はあふれて、満たされました。わたしの生きている限りは、必ず恵みといつくしみとが伴うという確信があります。わたしはとこしえに主の宮に住みます。
ビリーの体験談付き詩篇の朗読が終わった後、人々の目は、涙でいっぱいでした。その時、先ほどシェークスピア調で朗読したジェームスが立ち上がって言いました。「ビリー! 私は聖書の詩篇23篇を知っています。でも、あなたはそこに出てくる羊飼いが、どういうお方かということを知っています。そして、それこそが人生で最も大切なことであることが、今わかりました。ありがとう!」神は私たちの日々の力です。

心のオアシス 2011年7月10日

ガッツ石松さんは、伝統のプロボクサーです。1974年に世界チャンピオンになってから、5度目の防衛線の時でした。慢心してしまい暴飲暴食のため、体重がどんどん増えていきました。防衛戦3ヶ月前は、なんと体重が19キロもオーバー。さすがに反省し、過酷な減量を開始しますが、10日前にまだ10キロもオーバー。飲まず食わずのロードワークなどで、1日1キロ落としていきました。2・3日前になると、階段を上る力もなくなるほど苦しみました。口が渇き、唾液が飲み込めず苦しむと、付き添いの若者が背中をさすりながら泣いていました。「彼も俺に夢を託している」と実感し、その後、計量をパスして右アッパーによる14回KOでベルトを守りました。彼は言います。「一人ではチャンピオンにはなれない。みんなの支えがエネルギーになりました。」
ガッツ石松さんは、子供の頃は自分勝手なガキ大将だったそうです。体の弱い父親は定職がなく、母親が力仕事で家計を支えていました。兄弟は4人、家は貧しくいつも腹をすかせていました。周囲のさげすみの目に怒りをもち、食べるために他人の畑から野菜を盗みました。転機となったのは、中学2年のときに問題を起こし、家庭裁判所に父親と行った帰り道の出来事です。生まれて初めてラーメン店に入りました。父と子、2人で1杯だけ頼んだラーメンを、このとき自分一人で食べてしまいます。すると、父が残りのスープに水を足して飲み干したのです。「あっ!・・・」父親の空腹にさえ気付かない無神経さに腹が立ち、泣きたくなりました。そして、この時に少年は決意するのです。「悪さをやめて、両親を貧困から救ってやる!」それがボクシングを志す動機となりました。ガッツ石松さんがチャンピオンになれたのは、家族、ジムの人たち、みんなの支えがあったからなのです。
 私たちも夢がかなうとしたら、それは誰かが支えていてくれるからです。ここに私たちが存在することさえも、天地万物を造られた神が支えてくださっているからこそなのです。是非、造り主なる神を知る人生を選び取られることをお勧めいたします。

心のオアシス 2011年7月3日

私の幼い頃は、戦争ごっこをよくしたものです。ところが、不思議にも、私はいつも負けていました。こてんぱんに殴られて、いつも目に涙をためて家に帰ったものです。こういう場合、一般的に母親の反応はどのようなものでしょうか。「男の子のくせにやられてばかりで!」とどなるでしょう。「恥ずかしくないの?」と叱ったり、子どもを殴った相手の家に行って怒ったりする母親もいるでしょう。アメリカのファーストレディーであったヒラリーの母親は、ヒラリーにいつもこのように言ったそうです。「やられたら、やり返しなさい!」しかし、私の母は決してそのように教えはしませんでした。母は、殴られて返って来た私に言いました。「友だちに負けたくないでしょう? おまえが友だちに勝つ方法は、ただ一つよ。それは、イエス様をしっかりと信じることだよ。イエス様をしっかりと信じることが、戦いに勝つ方法なのよ。」
 イエスをしっかりと信じることが勝つ方法なら、友だちと戦争ごっこをするときも、イエスのように反応することが正しいことではないでしょうか。殴られたからといって殴り返したり、戦争ごっこはいやだからと言って友だちを遠ざけることではありません。今まで、母の教えのおかげで、私は他人に負けることが苦にならずに生きてきました。世俗的な価値観とはまったく違った聖書的な価値観を持っていた母の教えのおかげで、私は全世界に多くの友人がいます。
(パク・スウン著「私たちパパとママになりました」より抜粋)

 私はこの世の価値基準の中で苦しんだ時代がありましたが、聖書に触れてから徐々にに価値観が変わりました。そして苦しみがいつのまにか消えていたのです。そして自分の子どもたちがこの世の基準で苦しまないように、こう教えてきました。「学歴やお金があってもなくても問題ではないよ。もし自分が誇るためのものになるのならそんなものはない方がいい。もし神さまのために用いるのであれば得てもいいでしょう。」
勝ち組とは誰でしょうか?イエスを神の子と信じる人です。(Ⅰヨハネ5:5)

心のオアシス 2011年6月26日

ニューヨーク在住のリカルドという一人の男性の実話です。
この街には様々なモラルの乱れがあります。男性が女装して売春するということが盛んに行なわれるような地域もありました。リカルドは、ホルモン療法で、喉仏以外は女性にしか見えない男性で、商売上の名前は「サラ」で通っていました。その街にある教会が伝道計画を立てたところ、女装したリカルドが教会へ来るようになりました。彼は仲間の内で一番のワルで、年下の仲間全員にコカインや売春を教え込んでいました。十年以上もそんなことを続けた彼は虚しさを感じ始めました。彼は明け方近くまでかけて400~600ドル(約5万円)稼いで、それを一晩で全てコカインにつぎ込んでしまうのです。橋の下でまどろんで、朝目覚めると食べ物を探しにゴミ箱をあさり、日が暮れるとまた同じことを繰り返すだけの生活・・・ 
彼は教会の礼拝をかさねるごとに、自分は変わることができるかもしれないと思うようになりました。このイエス・キリストという方なら、麻薬から自分を解放し、ひょっとすると、中途半端な女男ではなく、本物の男にしてくれるかもしれないと思うようになったのです。彼は子どもの頃から女の子のように見えることを、からかわれてきました。母親は彼にホモであることから脱却するように懇願して、彼自身も努力はしたのですが、上手くいきませんでした。何度挑戦しても意志が弱いために失敗したのです。しかし、彼は神には偉大な力があって、本当に自分を内側から変えることができると考えるようになりました。そして神の言葉に耳を傾け続け、ひと月もするとイエス・キリストを心に委ねるようになりました。劇的改心があったわけではなく、徐々に内側で変化が起こっていったのです。そして3ヶ月後、古いリカルドは過ぎ去り、確かに新しく生まれ変わりました。
チャールズ・スポルジョンは言いました。「宝石は黒いベルベットの上に置いて展示する。黒を背景に宝石は輝きを増す。それと同じように神は、絶望的に思える状況の中で驚異の御業を行なわれる。」

心のオアシス 2011年6月19日

生涯に5000以上の讃美歌を作詞したファニー・クロスビーは、医者のミスによって生後6週間で視力を失いました。何も見ることができない暗闇の世界の中で、クロスビーは8才の時に聖書の言葉に触れ、イエス・キリストにあって喜ぶという決心をしました。
 彼女が30才になる頃、失明の原因となった医師が、まだそのことで今も悩んでいることを聞いて、彼に手紙を書きました。「どうか私のことで悩まないでください。それはあなたにとっては失敗だったかもしれませんが、神さまにとっては大成功だったのです。他の人なら見過ごしてしまう神さまの恵みを、私はどれほど多く感じ喜んでいることでしょう。」
 愛する友人や、自分の子どもが幼くして亡くなったときも、彼女は神への讃美を作り続けました。そして92才の誕生日には明るくこう言いました。「もし私よりも幸せな人が世界のどこかにいたら、是非お会いして握手をしたいものです。」
 世を呪い神を呪いながら人生を歩んでも許されるようなこの人物が、自分の目が見えなくなったことは、神にとっては大成功だったなど、誰が言えるでしょうか? ここで学ばされることは、私たちの視点がどこにあるかによっては、たとえ困難な中にいても、問題の中にいても、幸せでいることはできるということなのです。豪邸に住み、高級車を乗り回し、世界中を自由に旅することが一般に想像される成功者像ですが、聖書が教える成功者像には、そういう類いのものはありません。なぜならたとえこの世の全ての富を持っていたとしても、それによって苦しみ、心配事が山のように積まれて悩んでいる人は多いからです。地位があってもなくても、お金があってもなくても、問題があってもなくても、環境が良くても悪くても、能力があってもなくても、生産性があってもなくても、その人が幸せで、喜んで生きていける人こそ本当の成功者です。
 真の成功者は、今を喜び、今を楽しみ、今を満足します。そしてそれが将来へのステップに繋がっていくのです。God is so good all the time.

心のオアシス 2011年6月12日

「天国の特別な子ども」

会議が開かれました 地球からはるか遠くで
また次の赤ちゃんの誕生の時間ですよ
天においでになる神さまに向かって 天使たちは言いました
この子は特別な赤ちゃんで たくさんの愛情が必要でしょう
この子の成長は とてもゆっくりに 見えるかもしれません
もしかして一人前になれないかもしれません
だからこの子は下界で出会う人々に とくに気をつけてほしいのです
もしかして この子の思うことはなかなか分ってもらえないかもしれません 何をやっても 上手くいかないかもしれません
ですから私たちは この子がどこに生まれるか 注意深く選ばねばなりません この子の生涯が幸せなものとなるように
どうぞ神様 この子のために素晴らしい両親を探してあげてください
神様のために 特別な任務を引き受けてくれるような両親を
その二人はすぐには気付かないかもしれません
彼ら二人が自分たちに求められている特別な役割りを
けれども天から授けられたこの子によって
ますます強い信仰と豊かな愛をいだくことになるでしょう
やがて二人は自分達に与えられた特別な神の思し召しを悟るでしょう
神から送られたこの子を育てることによって
柔和で穏やかな この尊い授かりものこそ
天から授かった特別な子どもなのです

これは障害を持った子どもたちを育てる親たちに向けて書かれた詩です。でもただの励ましではなく真実です。神さまの前に大きい小さいはありません。どんな人も細かく緻密に計画された神の創造であり、愛のご配慮の元で生まれた神の作品なのです。

心のオアシス 2011年6月5日

世界中を飛び回っているある韓国人いて、その人は英語やドイツ語、フランス語など、何ヶ国語も身につけた語学の達人のような存在であります。日本語もかなり使えるようになってから、日本を旅行するたびに、日本語の前向き、積極的な表現に出会って、うならされてしまうことが多いという。
日本滞在中のこと、ある日、早めに昼食をすませようと、一人でレストランに入ろうと思い入り口に近づくと、店の前に「準備中」という小さな看板が下がっていて、午前11時半開店とあった。そこに着いたときは11時ごろだったので、少し待てば食事をすることができると思い、そのまま待つことにしたそうです。よその国では、「閉店」とか「営業していない」といった意味をあらわす表示をしていることが多いが、「準備中」という肯定的な表現の看板に感心したというのです。
また、沖縄の空港ロビーで、時計が故障していた時にはこのような表示がされてあったという。修理している様子はまったくないのに「修理中」。これも素晴らしい表現であると思ったそうです。この場合、正確には「修理の準備中」なのだろうけれども、とにかく「修理中」といえば、「もうすぐ直る」、「もうすぐ直しますよ」ということで、見るものに希望が残るが、「故障中」ならば、その場は絶望的ともいった気分になる。
当事者は「準備中」とか「故障中」という表現を、この外国人が感じ取ったようなニュアンスの意味で使ったわけではないのであろうけれども、日本語の表現にはおのずと積極的、肯定的な思想がにじみ出ていると褒めてくださっているのです。
私たちの人生は、「修理中」です。天国に入るための「準備中」でもあります。すべてが完成するのは、天国に入った時です。その時まで、焦らず、諦めず、神さまに委ねるのです。ゆっくりゆっくり神さまのペースで治してくださっているのです。重要なことは、故障している自分の人生を神さまの前に持って行くということです。そして繋がりつづけるということ。                 今日も良い一日を!

心のオアシス 2011年5月29日

「世界に一つだけの花」という歌の歌詞は、聖書からのメッセージと思わせるような内容が含まれている。競争社会の中で、多くの人たちに励ましを与えていることでしょう。以下に歌詞の一部をご紹介します。

No.1にならなくてもいい もともと特別な Only one
花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて 争う事もしないで 
バケツの中誇らしげに しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で 一番になりたがる?

そうさ 僕らは 世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい

神さまが創られている壮大な歴史は、様々な個性の持ち主を用いて形成しておられる。パズルの1ピースに様々な形があって一つの作品ができています。好きな形状ではないからといってそのピースを用いないわけにはいなかいでしょう。又、一つの絵の中に色々な色が用いられています。黒い色は嫌いだと思っていても、絵の中で使わないわけにはいかないでしょう。神さまは、この世界を導くために様々な個性を用いておられることがわかります。だから争わないで、それぞれ神さまから与えられた個性を受け止め、他者との違いを認め合い受け入れあって、許しあってこそ本当の平和が与えられるのでしょう。
わかっていてもなかなかできないのが現実かもしれません。まずは自分を受け入れることから始めてみてはいかがでしょうか。
神はこう語りかけています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」