礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2011年1月2日

「隠れておられる神」キム・ヨンボン著より
神は、私たちの平凡な日常、時にはいらいらしたり、絶望したりする日常の中に宝を隠されました。最初はその宝がまったく見えませんが、一つずつ探し始めると、その宝がどこにどのように隠されているかわかるようになります。目が開かれると、どこもかしこも宝のある場所になるのです。
ある教会の掲示板に、このようなユーモアのあることばがありました。「神が遠く感じるとしたら、神を遠くに移したのは一体誰だろう。」神が遠く感じるなら、それは私たちの心が鈍くなったからです。神がおられないように感じるなら、それは私たちの心の目が見えなくなったからです。神を一度も経験できないとすれば、それは霊的な感覚が死んでいるからです。霊である神は、秘密の日差しのように私たちをいつも照らしています。暗い夜にも太陽の光が地球を照らしているように、神がいないように感じるときにも、神は私たちとともにおられます。風一つ感じないようなときでも、風はいつも吹いているように、神の働きを感じることができなくても、神は私たちのために働いておられます。秘密の日差しを感じることのできる敏感ささえあれば、私たちはいつも神のご臨在の中で主の導きを経験できるのです。

新しい年365日、神様は確実に私たち一人一人のそば近くで導いてくださいます。楽しいことや喜びも経験するでしょう。また辛いことも問題も起こるかもしれません。でも神様は変わらずすぐ近くにおられるのです。問題は私たちが、どのような心で現実を見るかということです。
さぁ一年後、誰が一番宝を見つけたか競争しましょう!
「すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」
(エペソ3章18~19節)

心のオアシス 2010年12月26日

マザーテレサの祈りです。
主よ、私は信じきっていました。私の心が愛にみなぎっていると。でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。私が愛していたのは他人ではなく、他人の中に自分を愛していた事実に。主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は思いこんでいました。私は与えるべきことは何でも与えていたと。でも、胸に手を当ててみて、真実が分ったのです。私の方こそ与えられていたのだと。主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は信じきっていました。自分が貧しい者であることを。でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。実は思い上がりと妬みとの心に、私が膨れ上がっていたことを。主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、お願いいたします。私の中で天の国と、この世の国々とがまぜこぜになってしまう時、あなたの中にのみ、真の幸福と力添えとを見いだしますように。

自分がどのような存在であるかを正しく自己分析できなくなった時、人間は傲慢になり、回りが見えなくなってしまうばかりか、神様とも人とも、いつの間にか孤立していってしまうのが現実です。このことは一生涯自問自答していかなければならない課題であります。失敗しても、それを悔い改め、神様が示される道へ進む。それが信仰の父・アブラハムの人生の歩みでした。
私が関西に戻ってきて、今年の6月から関西カルバリーフェローシップをスタートしてから、皆様の様々なご協力によって前進することができました。不思議な出会いによって神様が生きておられることを体験させていただいて感謝しています。それと同時に、私の言動から不快な思いをされた方もいらっしゃるかと思いますが、キリストにあってお許しください。指を折りながら感謝と反省の年末です。栄光在主。

心のオアシス 2010年12月12日

私は留学生時代に、大学キャンパス内の芝刈りのアルバイトをしていました。一年に一度、それぞれのアルバイト生に対する評価を現場の監督責任者が大学に提出することになっていました。ボスが私を事務所に呼んだので、中に入ると、生徒の評価表を大学へ持っていってくれと言いました。しかし、ボスはまだ用紙に評価をしている最中だったので、すぐにその場を離れようとしますと、前に座って待っていなさいというのです。しかし狭い空間の中で私が前のイスに座ると、採点の内容が私から丸見えなのです。しかしボスはそれ良しとしているかのごとく何も言わないし、あえてそれを見せたいようでもあったので、仕方なく様子を眺めていました。10項目ぐらいある各生徒たちに対する評価のほとんどが「良い」か「悪い」にチェックが入れられていました。そしていよいよ私の名前が書いた用紙をボスが手にしました。私は緊張しましたが、どのような評価をしてくれるのか興味を持っていました。自分の働きぶりを考えると、他の生徒と変わらない評価であろうと想像していました。ところで私の目を疑うようなことが起こったのです。何とボスがスラスラとチェックし始めたのは、Excellent(大変良い)という欄だったのです。結局、ほとんどの項目に「大変良い」をチェックして、コメントの欄には、「この学生の仕事ぶりは、模範的で、よく働き、周りの学生に良い影響を与えています。」という内容を書いているのです。たとえ私が目の前で見ているからといっても、それは過剰な評価でした。今から考えると、小さな島国である日本からアメリカに渡って苦労しながら勉強している私をえこひいきするかのようにして愛情を表して励ましてくれたんだと思います。私は身に余る光栄な評価をしていただいてから、言うまでもなく、今まで以上に、他の学生以上に、ボスの期待に応えていこうと努力するようになりました。それは強いられてではなく、私に対する先行的に表してくださった愛に応えたいという気持ちからでした。
神がこの地上に来てくださったのは、私たちに対する愛の表れ故でした。それを知ったら応えずにはおれません。メリー・クリスマス!

心のオアシス 2010年12月5日

私たちは案外「自分は所詮この程度の者よ。」とか「もう年齢が年齢だから。」と諦めていることが多くないでしょうか? もちろん現実は現実として受け止めて、決して無理をする必要はありませんが、心の持ち方で、その人の人生が広げられたり狭まれたりするものであります。退職したりして急に老ける人がいますが、それが一つの例でしょう。「諦め」や「絶望」は、私たちの身も心も衰えさせ、「希望」を持ち続けることは、私たちをあらゆる面で強くすることが証明されています。
ヴィクター・フランクルというオーストリアの精神科医は、第二次世界大戦中にナチスに捕らえられて収容所に送られ、ガス部屋で殺される恐怖を絶えず味わいながら、九死に一生を得て終戦を迎えた人物です。この人が書いた「世の霧」「死の愛」という本の中には、この収容所体験をもとに、極限状態に置かれた人間が、いかにして行き続けることができたかについて書かれています。
同じ過酷な状況のもとにありながら、最後まで生き延びた囚人もいれば、力尽きて死んでいった人々もいました。その両者を分けたのは、決して体の頑強さではなかったのだとフランクルは述べています。では、何が生命力を与えたのでしょうか? それは「希望」の有る無しだと言うのです。「この戦争はいつかは必ず終わり、妻子に再び会える」という希望、「戦争が終わったら、やりかけていた仕事を完成しよう」という希望・・・それは、収容所の中にいて、ほとんど夢のようなものであり、実現不可能と思えるものでした。にもかかわらず、その希望を持ち続けた人々のみが、生きて終戦を迎えることができたというのです。
クリスマスは、私たちの希望です。自分がどこへ向かって進んでいるのかわからない無意味な人生に、光を与える出来事が起こった日です。私たち全ての人に、存在している意味があります。それが何なのかを、是非教会で発見されたらいかがでしょうか? 日曜日は教会へ。
「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。」

心のオアシス 2010年11月28日

笑い話です。様々な国の人たちを乗せた大型客船が氷山に衝突して浸水し始めました。すぐに救命ボートが出されましたが、真っ先に乗り移ったのは男性ばかりでした。ボートは満員で、後から来た女性や子供たちは乗れません。そこで一人の女性がボートにいる男性たちに向かって言葉を発しました。「この中にヒーローはいませんか?」そうするとアメリカ人の男性たちがボートから降りて女性や子供たちを代わりに乗せました。また女性は叫びました。「この中に紳士はいませんか?」そうするとイギリス人の男性たちがボートから降りて女性は子供たちに譲りました。また女性は言いました。「この中にルールを守る人はいませんか?」そうするとドイツ人の男性陣が降りて女性子供と交代しました。まだボートに乗ったままの男性たちがいるのに気づいて女性が呆れ顔で言いました。「みんなボートを降りて女性や子供たちに譲っていますよ!」そうすると日本人の男性たちが救命ボートからぞろぞろと降り始めたそうです。
日本人は「みんなしている」という言葉に反応するようです。これは国民性をよく表している話ですが、イエス・キリストというお方は、今から2010年前に沈みゆく私たちを救うために、真っ先に神の座から降りて、この地上に来てくださいました。これは神様が創造されたすべての人たちが無条件で救いを受けることができるようにするためでした。私たちはただイエス・キリストがしてくださったことを信じ受け入れるだけで良いのです。何と簡単な救いを提供してくださっているのでしょうか・・・
今日からアドベント(待降節)に入ります。クリスマスは華やかな楽しいイメージを持たれる人も多いと思いますが、一人でも多くの人たちがこのシーズンに本当の意味を知って欲しいと願います。
マメ知識です。ちまたで見かけるようになった「Xマス」の文字は、クリストス・マス=「キリスト(救い主)を礼拝する」という意味です。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。」

心のオアシス 2010年11月21日

時計の作られた目的は時間を正確に示すため。車の目的は人を乗せて楽に移動するため。ハサミの目的は紙や布を切るためです。人間が作ったものには、それぞれ目的があって、それはすべてそれを作った人間の 便利のために存在しています。もしそれらが人間の意図するものとは違う目的のために使われるようになったら混乱が生じます。たとえばバットは本来ボールを打つために作られましたが、人を殴るために用いたら凶器になります。
また、作られた物が壊れた時には、どこへ持って行けば良いのでしょうか? 車が故障してラーメン屋さんに持って行く人はいないでしょう。エアコンが壊れて、それを植木屋さんに持って行く人もいません。それぞれの製作者(メーカー)へ持って行かなければ、直らないのです。
さて、人間はどうでしょうか? 人間は何の目的のために存在しているのでしょうか? これは遠い昔からされてきた質問です。人間の社会に、世界中に混乱が絶えず生じていることが、もし自分自身の用い方を間違っている故であるならば・・・。
聖書は、神が人間の創造主であって、神の目的のために造られたと述べています。もしそれが本当であるなら、混乱の原因は、「自分」をメーカー(創造主)の意図しない使い方をしている故であるということになります。ということは、メーカーの目的通りに使用方法を改善するならば、混乱を解消することができるということになります。
もし私たちの心が空虚で壊れているならば、どこへ持って行けばいいのでしょうか? そうメーカーに持って行けばいいのです。
私たちには希望があります。何をしても無駄だった、効果がなかったと思える現実の中に、私たち人間の造り主がいるというところに光を見出すことができるのです。
「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」(創世記1章31節) 無駄な努力をするより、そろそろ聖書に書かれていることを信じてみませんか?

心のオアシス 2010年11月14日

渡辺和子さんの書物からの抜粋です。

シェークスピアでしたか、人生は芝居なんだ。舞台の上で王様をしたから、いい役者ではないし、舞台の上で乞食をしたから悪い役者ではなくて、大切なのは王様を王様らしく演じたか、乞食を乞食らしく精一杯演じたかだと言っています。
人生の終わり、舞台の幕が下りた時に問われるのは、何をしたかではなく、その役割をいかにその役になりきって演じたかということなのです。確かに生きている間は、王様を演じていれば良い洋服が着られますし、王妃様になっていれば冠がかぶれますし、みんなが、かしずいてくれる。それに比べて自分が乞食の役だったとしたならば、汚いボロをまとってみんなからバカにされて、食うや食わずの生活をしなければいけないかも知れない。その辛さは、一生の間あるかもしれないけれども、一生の終わりに、幕が下りた時に問われるのは、何をしたかではないのです。一生の終わりに問われるのは、何タラントもらったかではなくて、それを何タラントに増やしたかということなのです。
そう思ったらあんまり他人をうらやまないですむかも知れません。勝負はそれをどれだけ増やすかにあるのですから。

神様は、全ての人に10タラント与えておられるわけではありません。現実を見ると、ある人には5タラント、ある人には1タラントしか与えられていないように見えます。私たちはそれを不公平だと感じるのですが、神様は、えこひいきしておられるのではありません。王がいて乞食がいて芝居が楽しくなるように、私たちの人生を楽しくするために、それぞれの役目を与えてくださっているだけなのです。与えられた役目をどれだけ輝いて果たしていくかに力を注ぐならば、私たちの人生は百倍楽しくなるでしょう。他者との比較ではなく、自分しかできないことや、自分の内にあるものを伸ばしていくことが私達の使命なのです。

心のオアシス 2010年11月7日

現在の世界人口は69億人です。この人類統計比率から、以下のような計算をした人がいます。

もし、あなたが今朝目が覚めた時、病気でなく健康だなと感じることが出来たなら、あなたは今週生き残る事のできないであろう100万人の人たちより恵まれています。
もしあなたが戦いの危険や投獄される孤独や獄門の苦悩、あるいは飢えの悲痛を一度も経験したことがないのなら、あなたは世界の5億人の人たちより恵まれています。
もしあなたが苦しめられることや逮捕拷問または死の恐怖を感じることなしに教会の礼拝に行くことが出来るなら、あなたは世界の30億人の人たちより恵まれています。
もし冷蔵庫に食料があり着る服があり、頭の上に屋根があり寝る場所があるなら、あなたは世界の75%の人たちより裕福で恵まれています。
もし銀行に預金があり、お財布にお金があり、家のどこかに小銭が入った入れ物があるなら、あなたはこの世界の中で最も裕福な上位8%のうちの一人です。
もし、あなたの両親がともに健在で、そして二人がまだ一緒なら、それはとても稀なことです。
もしこのメッセージを読む事ができるなら、あなたはこの瞬間2倍の祝福を受けるでしょう。何故ならあなたの事を思ってこれを伝えている誰かがいて、その上あなたは全く文字の読めない世界中の20億の人々よりずっと恵まれているからです。

このデータは、持ち物、環境、能力等のあるなしの基準から、祝福されているか否かを表していますが、それら関係なしに幸せを手にしている人たちも沢山います。私達は特に恵まれた環境に生かしていただいていることを感謝し毎日を過ごしたいと思います。何もかも素晴らしい!

心のオアシス 2010年10月31日

フィクションでありますが、アメリカのテレビ番組で、このような内容の
ものを以前に放映していました。
アメリカの大統領が、一人の死刑囚の死刑を執行するしないで、葛藤する
内容であります。タイムリミットまで、大統領の一言で死刑を取り止めに
することができるわけですが、その決断ができないまま、死刑が執行され
てしまいました。それまでに様々な人を通して、大統領に助言があったわけ
ですが、決断できなかったわけです。そのドラマの最後に教会の神父が出て
きて、このようなやり取りを大統領としました。
 神父「あなたは祈りましたか?」 大統領「勿論ですとも。祈りましたよ。
何度も何度も答えをくださいって、求めました。でも、神様は語られません
でした。」そこで神父はこのような例話を話し始めました。「ある男が川にい
ました。大雨が降って川が増水して、人々は避難を始めました。しかし、そ
の男は言いました。「私は、神に愛されているから、祈っていれば、どこかへ移されるから大丈夫。」大雨は降り続いて、川の水位が上がりました。
そしてボートに乗った人が男に声をかけました。「そこの人。避難しなけれ
ば危険だぞ!」しかし男は言いました。「私は神に愛されている。だから祈
れば必ず助けてくださる。」しばらくしてヘリコプターが飛んできて、メガ
ホンで叫びました。「はしごをたらすから、それにつかまりなさい!」しか
し男は言いました。「神に祈れば、安全な所へ連れて行ってくれるよ。」そし
てこの男は増水した水にのまれ、溺れて死んでしまいました。
 その後、彼は天国の門に立ち、神に面会を求めました。「私は、あなたに
祈りを捧げました。愛されていると思っていました。なのに、どうしてこん
な目に遭うのですか?」神は言いました。「私は無線の連絡と、ボートとヘ
リコプターを差し向けました。なのに、どうしてあなたはここにいるのです
か?」
私たちは、神からの直接的なご介入を期待していることが多いと思います。
たとえば、神様ご自身が自分に語りかけられるとか、天使を送って危険から
守ってくださるとか・・・。勿論そのような現れ方をされる場合もなくはな
いでしょう。でも、多くの場合、人を通して助けられ語られるのです。自分
を縛っている固定概念を払いのけ、もっと回りを見て耳を傾けるなら、神か
らの助けの手が差し伸べられているのを見、天からの声が聞こえるでしょう。

心のオアシス 2010年10月24日

1975年、キャサリン・クールマン師の癒しの集会で起こった出来事です。その集会では、たくさんの車椅子の人たちが立ち上がり、ガンが癒され
目や耳の不自由だった人が、次々と治るという奇跡が起こりました。集会が
終わって、会場の出口から人々が出始めました。その集会に参加していた
ある一人の青年も帰ろうとして出口に近づいた時、母親に押されている車椅
子の少女が視界に入りました。驚いたことに、この少女の頭は異常に大きく、
その体は異常に小さかったのです。すぐに奇形児だとわかりました。その青
年は、その子供を見て悲しく思い、神様に訴えました。「主よ! どうして
この少女を癒されなかったのですか? この子こそ、今、癒しを必要として
いるのですよ!」そして神様が、その少女を癒されなかったことに憤りを覚
えました。
 それから青年はピッツバーグからトロントに帰るためバスに乗りました。
長いバスの旅でしたが、2時間ほど経過したときウトウト居眠りをしながら、
夢を見ました。それは、自分が2時間前に見た、あの会場から出て行く群衆
と少女の車椅子を押している母親がいました。そこには、その様子を見なが
ら、「主よ。どうして、この少女を癒されなかったのですか?」と文句を言
っている自分自身の姿もそこにありました。しかし、そのシーンを見ている
と、イエス様が、その少女の後ろに立たれて、その大きな頭を抱きかかえて
おられました。そしてこう言われたのです。「私は、この子を忘れているの
ではありません。一度も忘れたことはありません。」それがイエス様からの
答えだったのです。

 私たちの人生で起こる「何故?」という出来事の中には、神様の目的や意
図がわからないことも沢山あります。それでも神様が造られた存在すべてに、
目的とプランがあり、責任をもって面倒をみていてくださっているのです。
何ができるできない関係なく、長生きできても、短命であろうとも、それぞ
れには、神さまからの特別なご計画があります。私たちが天国に行ったとき、
今まで理解できなかったことが、点と点が線で結ばれるようにして全てが明
らかになるでしょう。それを信じることを「信仰」といいます。
 「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認する
ことである。」(ヘブル11章1節)