礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2010年9月12日

1992年、バルセロナ・オリンピック陸上男子400mの走者に、イギリスのレドモンドという選手がいました。彼はそのレースで勝ちたいと願ってレースに臨みました。スタートして快調に走っていましたが、ゴール前250m地点で、悲劇が起こりました。突然、足の筋が切れて失速し、激痛のために顔をゆがめ足を押さえながらトラック上に倒れ込んだのです。痛みと、走ることができなくなった悔しさの混じった悲痛な表情でした。やがて救護の人が担架を持ってきましが、その時、彼はそれを拒否して、立ち上がり、片足でケンケンするかのようにして走り始めたのです。すると突然、大きな男が、スタンドから群集をかき分け、警備の人を制しながらトラックの中へ入ってきました。それはレドモンド選手の父親でした。父は泣きながら足を引きずっている息子に言いました。「こんなことをしなくていいんだぞ」。しかし息子は言いました。「いや、これを最後まで終えたいだよ」。それを聞いた父は答えました。「それなら、一緒に行こう」。父は息子の肩に腕をまわし、助けながら一緒に走りました。そして間もなくゴールラインの前で、父は手を放して息子を一人でゴールさせたのです。そこにいた6万5千人の観衆が総立ちして拍手をする中、レースを完走することができたのです。レドモンド選手は一位になることはできませんでしたが、レースを最後まで走り抜くことができました。痛みがあったにも関わらず、涙を流していたにも関わらず、全力を尽くすことができました。それは彼が倒れそうになる時に引き上げる父の愛があったからです。観客席から立ち上がり、競技場のトラックの中に入ってきて息子を助けようなんてことを、どうして父はしたのでしょうか? それは息子を愛していたからです。そして、激痛に苦しむ自分の子供の顔を見、しかし最後までレースをやり遂げたいという息子の姿勢を見て、父はその両方を支えたいと思ったのです。
天の父なる神様は、痛み、苦しみ、戦っている私たちの所に来て助けたいと願っておられます。みなさんの人生のレースはどうでしょうか?
 「わが助けは、天と地を造られた主から来る」(詩篇121の2)

心のオアシス 2010年9月5日

カナダとアメリカの国境にある世界で最も大きく美しい滝の一つに、ナイヤガラの滝があります。以前にドイツの綱渡り師が、カナダとアメリカ側の岸に鋼鉄を張って、そこを渡って見せたそうです。背中に何か重いものを乗せて渡りました。そして渡り終えた時に拍手喝采でした。この綱渡り師は言いました。「皆さんは、私が人を背負ってでも、ここを渡ることができると思いますか?」そこにいた調子の良いアメリカ人の一人が、「勿論、あなたなら渡れますよ!」と言いました。そこでこの綱渡り師は尋ねました。「そうですか? では、あなたを背負って渡ってみせましょう。」そうするとその男性は、「いえいえ・・・それは遠慮します・・・」威勢の良かった人は、よわよわしい声で拒否しました。そのようなやり取りをしていましたが、結局、誰も綱渡り師に身を委ねることができないことがわかったときに、小さな少年が出てきました。「僕を背負って渡ってください!」綱渡り師は、その子を背負って渡り始めました。しかし、この少年は、ニコニコしながら手を振ったり、ピースしたりで、見ている方がハラハラ・ドキドキしていました。そして無事に渡り終えることができました。人々は少年の勇気ある申し出を称えながら質問しました。「よくやったね! 怖くなかったの?」少年はニコニコしていましたが、やがてこう言ったそうです。「実はね。あの綱渡り師は、僕のお父さんなんだよ。」
この少年は、お父さんに全幅の信頼を持っていました。みなさんの周りに信じることができる人はいるでしょうか? ニュースを見ても、周りを見ても、信じ切ることが難しい世の中です。政治も、学校の先生も、社会も、親も子供でさえも、裏切ることがあります。何も信じることができない世界ほど、虚しいものはありません。しかし、もし、お父さんを信頼した少年のように、純粋に神という存在に委ねることができたら、人生何が起こっても安心があります。神が良いことも、悪いことも全部用いて、自分に最善をしてくださるという信頼からくる安心です。
一度、神に賭けてみてはいかがですか? 保証します!

心のオアシス 2010年8月29日

動物が大好きな少年がいました。いつも近くのペットショップに出かけては、外の窓越しに眺めていました。ある日、お店が、少年の大好きな子犬が6匹入荷したようで、たまらず店主に聞きました。「おじさん、この犬いくら?」「2万円だよ。」「2万円もするの?」この少年にとっては高い値段でした。少年の持ち合わせでは買うことはできません。店主が一匹一匹、丁寧にお店に入れるのを見ていると、どうも一番最後の6匹目の犬の左の後ろ足が短いのか、バランスを崩していました。少年は聞きました。「おじさん、この犬はいくら?」店主は言いました「君が買ってくれるのなら、この犬は半額にしてあげよう。」しかし少年はニコリともしません。それを見た店主は言いました。「じゃ、それならタダでいいよ。」そうすると少年はさらに顔を曇らせて言いました。「おじさん、タダは駄目だよ。」「そうか? じゃ、半額にしておこうか?」そうすると少年は言いました。「半額も駄目だよ。この犬は他の犬と同じように定価で売らなきゃダメだよ。2万円で僕が買うよ。」その言葉に驚いた店主は言いました。「いや~、これは足が悪いんだ。だから半値でも売れないからタダでいいって言ってるだろう。」「おじさん! タダも半値もダメだよ。これから僕、お父さんにお金もらってくるから、この犬、絶対に誰にも売らないでね!」と言って、少年は家に帰って行きました。「奇妙な客だな・・・あの犬は売れないと思っていたのに・・・」ペットショップの店主が、その少年の帰って行く後姿を見てハッとしました。「今まで、何年も顔は見ていたけれど、そうだったのか・・・あの少年の左足も少し短いんだ・・・」少年の歩く姿を見ていると、ハッキリそうだとわかりました。自分が「半額でいい。タダでいい」と言ったのを少年は「タダなんて駄目だ」と言った意味が初めてわかりました。少年は障害があるから2万円の価値がないとは思わなかったのです。なぜなら自分自身に障害があるから価値のない者とは思わなかったからです。
あなたが、どのような人物であったとしても、神の目には高価で尊い存在です。神の価値観にこそ希望があります。ハレルヤ!

心のオアシス 2010年8月22日

エンマゲルというアメリカの心理学者が、このような息の実験をしました。冷やした試験管の中に冷却した空気を入れて、そこに人間の吐く息を入れてもらいました。そうすると、その息が水滴となって試験管の下に沈殿するのですが、健康な人の吐く息を冷却すると、下に溜まる水滴は無色透明だそうですが、怒っている人の息を冷やすと、栗色の息が沈殿するそうです。そして悲しんでいる人や苦しんでいる人の息は灰色に変わり、憎しみを持っている人の息は濃い赤色になるそうです。そして、怒りで栗色になった息をネズミに注射すると30秒以内に死ぬということでした。しかも、それは健康な人間を80人は殺す毒を持つというのです。
学者が、実験しなくても、聖書は何千年も前から「人間の悲しみ、怒り、恐れ、不安、憎しみは、あなたの骨を腐らす」ということを教えています。しかし、そうは言われても、そのような状況の中で喜ぶことは簡単にはできないのが、私たちの弱さであります。どのようにしたら、喜ぶことができるのでしょうか? 身近なところから言えば、まずは、当たり前を感謝し喜ぶということです。私は以前に入院したことがあります。激痛の中で身動きがまったくできない状況の中で、普通に寝返りできることが、どれだけ感謝なことであったかを実感したことがありました。普段当たり前のようにして過ごしている小さなことにも目を留め、そこに感謝を発見しながら生きて行くならば人生豊かになるものです。
もう一つのアドバンスコースは、「主にあってすべてのことを喜ぶ」ということです。問題や困難自体を喜ぶのではなく、そのような環境の中でも、「私は神の手の中にあって、万事は最善に導かれている」と、信仰を働かせるならば、どんなことが私たちの人生に起こっても、平安が与えられるのです。そればかりか、神に導かれている人生を喜ぶことができるのであります。
吐く息は、私たち自身に影響を与えているばかりか周りにも及んでいます。願わくは、私たちの息がいつも無色透明でありますように。

心のオアシス 2010年8月15日

私たちの一生の間に、様々な人と出会い、接し、関わっていきます。しかし、その中には必ずしも自分の好みではないタイプもいるでしょう。上手く避けることができればいいですが、嫌でも関わっていかなければならない場合もあります。そうなるとストレスになっていきます。でも、「神」という存在を信じる人々は、考え方を変えることによってストレスが軽減されます。また優しい心にもなれます。すなわちそれらの人々は全て神があなたのために遣わされた存在だと信じることです。
トルストイの「靴屋のマルチン」は、それをよく表しています・・・靴屋をしていたマルチンが、ある夜、夢を見ます。「明日はお前の家にいくから」と神様が言われました。次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外を見ていると、寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはそのおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。それからマルチンが外を見ていると、赤ちゃんを抱いた貧しい母親が外を歩いていました。それを見て、マルチンは可哀想になり、出て行って、その母子を家に迎え、ショールをあげました。しかし、なかなか神様は来られません。今度は、おばあさんのカゴから一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなしをして、一緒に謝りました。そうして、一日が終わりましたが、とうとうマルチンが期待していた神様は来られませんでした。「やっぱり、あれは夢だったのか」とガッカリしているマルチンに、神様が現れて言いました。「マルチン、今日はお前の家に行ったよ。」すると、雪かきのおじいさんや貧しい母子やリンゴを盗んだ少年の姿が次々と現れました。
神様が目に見える形で、私たちの前に現れたら、わかりやすくて、私たちはお従いしやすいですが、神様はそういう現れ方はなさらないのです。私たちの周りにいる「あの人もこの人も」、実は神様が遣わされた人、いや神様ご自身だと考えるならば、親切にしないわけにはいかないでしょう。赦さないわけには、愛さないわけにはいきません。
「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)

心のオアシス 2010年8月8日

「3本の木」という民話があります。山の上に3本の木が立っていて、それぞれの木が将来に対する願いを持ったというのです。一番目の木は「将来、世界一きれいな宝箱になりたい!」。二番目の木は「世界一大きな船になりたい」と願い、三番目の木は「このまま、ずっとこの山にいて、世界一背高のっぽの木になりたい」と思っていました。何年もたってから、それぞれりっぱな大木になりました。ある日、3人の木こりがやって来てそれぞれの木を切りました。3本の木は、自分の願い通りになれると期待していました。しかし一番目の木は、大工さんの仕事場へ運ばれましたが、作ったのは宝箱ではなく家畜のエサ箱でした。宝石を入れられることはありません。お腹を空かせた家畜のために、わらや草が盛られました。二番目の木は、造船所に運ばれました。ところが、そこで作られたのは大きな船ではなく小さな漁船になりました。小さな湖に運ばれて、生臭い魚を運ぶ毎日になりました。三番目の木は、太い材木にされて、そのままになりました。こう思いました。「私は、ただあの山の上に立っていれば満足だったのに・・・」。そして何年も経過してから、3本の木は自分たちが見た夢のことなどすっかり忘れていました。  
ある夜、一人の女の人が、生まれたばかりの赤ん坊をエサ箱に寝かせました。その時一番目の木は、自分は世界で一番尊い宝物をお入れしているのだと気づきました。ある晩、二番目の木が湖の上を滑り出すと、ひどい嵐になって沈みそうになりました。乗っていた一人の人が立ち上がって「静まれ!」と言われると、嵐が止んだではありませんか。その時二番目の木は、自分は天と地を治める王をお乗せしていることに気づきました。ある金曜日、材木になった三番目の木は引き出され、あざける大勢の人々の間を運ばれていきました。そして兵士が一人の人の手を木に釘で打ち付けました。日曜日の朝、大地が喜びに震えていました。人々が三番目の木のことを思う時、神の愛を考えるようになりました。
これが自己実現と神実現の違いです。思い通りならなくても大丈夫!「神のなさることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3章11節)

心のオアシス 2010年8月1日

医学の専門家が言うには、アルコール依存症の患者が自分はアルコール依存症だと認め、そこからの解放と心の平静に対する強い健全な欲求を持ったときには、その人はその時点で、すでに51%まで癒されているというのです。すなわち、自分が病気なのだという認識と、治りたいという願望が、その人の体に治癒力を高める何かが分泌するのだというのです。そして、そのような問題解決の達成に対する強い願望の心を持ったら、依存症による震えや喉の渇きなどは、自動的に消えていくそうです。逆に病気である認識のない人や、治りたいという願望を持たない患者には、そのような現象は起こらないとのこと。
このように私たちの心の姿勢というものが、私たちの体や生活や心の状態にまで影響しているのです。自分の好きなことだけをしたり、自分と馬の合う人とだけ付き合うことができれば平穏な毎日を過ごすことができると思いますが、現実にはそういうわけにはいきません。私たちのストレスになる出来事は必ず起こるものです。その時に、私たちがどのような心の態度を持つかによって、その重荷が重くなったり軽くなったりするのです。
南アメリカの多くの少数民族の中には、30歳にも満たないまま死んでしまう大変寿命の短い部族があるそうです。学者たちが調べてみると、土で造った塀の中にいる虫が原因であることがわかりました。その虫が毒素を出すので、それを吸いながら生活している人々は正常に生きることができないということでした。そこで学者たちは彼らに生きる方法を3つ教えました。①殺虫剤で虫を退治する。②塀を壊す。③他の場所へ移住する。しかし、この部族はどの提案も受け入れずに、依然短命の道を歩んでいるそうです。変わりたいという意志の欠如の表れであります。
イエス・キリストを信じたら救いは確実です。しかし天国へ行くまでの人生、私たちの心をどのように保つかによって、喜びの多いものになるか不平不満ばかりになるかが決まります。喜びを勝ち取るためには、不動なる神の言葉にしがみつくことがポイントです。

心のオアシス 2010年7月25日

私たちのストレスの多くは、「こだわり過ぎる」ところに原因があると考えられます。勿論、「こだわり」がなければ、良いものは生まれないでしょうし、張り合いもなくなるでしょう。私はラーメンにはうるさくて、麺やスープにこだわりがないと、そのお店には二度と行きたいとは思いません。また、毎週のメッセージにはこだわっているつもりです。最善のものを提供して、満足して帰っていただきたいという願いからです。     
しかし、どのような「こだわり」でもそれが過ぎれば他者を苦しめることもありますし、何より自分に大きな悪影響を及ぼすことがあります。例えば、健康にこだわっている人は、度が過ぎると食べる物にも神経質になり、ちょっとした体の変化にビクビクしてしまいます。財産にこだわりすぎると、それを失うことへの不安が絶えず起こります。     
もしイエス・キリストが、ご自分の「神」という立場や、聖さにこだわりつづけておられたら、ドロドロとした罪の世界には来ることはできなかったでしょう。地上での様々な苦難を考えると、ご自分の立場に居座っておられた方がどれだけ楽だったでしょうか・・・ご自分の地位や環境に対するこだわりを持ち続けなかった故に私たちに対する救いを完成することができたのです。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」(ピリピ2:6~7)

主よ、変えられないものを 受け入れる心の静けさと
変えられるものを変える勇気と
その両者を見分ける 英知を与え給え
(ラインホールド・ニーバーの祈り)    

私たちの「こだわり」が、自分や他者へのストレスになっていないかをチェックして、変えるべきことは、勇気をもって変え、変えられないことへの執着は止めて、心穏やかに過ごしたいものです。

心のオアシス 2010年7月18日

私たちは、敵とは言えない、むしろ仲間内の党派心や、みえの故に苦しむことがあります。それに対してそれぞれの対処法を持っていると思いますが、それが自分中心的なものであれば、必ず人間関係に大きな歪みを生み出します。「目には目を。歯には歯を」的な対処は、本人にとってはスッキリするでしょうけれども、世界の歴史を学ぶならば、それが賢明ではないことは一目瞭然であります。
ヨハネ・パウロⅡ世教皇は「人を許す時、許した人は自由になり、解放されます。人を許さない人は、他人の支配下にあります。」と言いました。
確かに「許さない」ということは、心は依然として相手に振り回されている状態あります。嫌な相手にコントロールされていることほど悔しいことはありません。「許し」は自由と解放の鍵だというのです。許す決断によって許しは完了します。感情がなかなか伴わなくて苦しむ人もいますが、実は感情はモノの見方によって数秒で違う感情に変えることができるものなのです。 
ある教会で賛美が始まると、必ず下手な踊りをする男性がいました。若者たちは、彼に対して批判的な陰口を言っていました。ある日、牧師がその男性に体験談(証)をするように促して講壇の前に立たせました。彼はこのような話をしました「私が幼い時に両親が離婚して、自分は親戚の家を渡り歩いていました。自分が生きている意味がわからず、愛される経験がなく、自暴自棄になってしまいました。ある日、教会へ誘われて、初めて礼拝に出て、そこで神様に出会うことができました。神様に愛されていることがわかりました。それから良い仕事が与えられ、結婚して子供が与えられ、神様が私にしてくださった素晴らしい出来事の数々を思い起こすと、下手な踊りであっても、そうやって神様に感謝せざるを得なくなるのです。」と涙ながらに話しました。これを聞いた若者たちは、この日以来悪口を言わなくなったのです。
自分ではなく相手の立場に立って見るならば、新しい世界が見えてくるものです。私たちも自由で解放された人生を歩みたいものです。

心のオアシス 2010年7月11日

人は、みんな現実において喜びの多い生涯を願っていますし、安楽な生活を志向しています。「苦しみや悩みを、取り除いてくださる神」というのは、ただ人間が、そういうものを求める故に、そのような神を造っただけであって、実際には、クリスチャンであっても、またいかなる宗教を信じる人にも、そして神の存在を信じない人にも、本人の自業自得では片付けられないような無情な出来事は起こりえるものであります。   
新約聖書13の書簡を書いたパウロは「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と語りました。聖書の教える神概念は、人間の苦しみも悩みも、すぐに解決してくれるばかりか、人間にとって一番都合の良い環境を作ってくださるお方ではないということなのです。神は、私たちの都合通りに働いてくださるのではなく、「神の都合」で働いておられるお方であるのです。「神のご勝手の神学」についてお話しなさっていた先生がいますが、ある意味、その通りだと思います。私たちにとっては都合の悪い神様ですが、実際には神がご勝手にこの世界を導いておられるのです。
アメリカにヤングという名投手がいました。ある時、インタビューされました。「どうして、あなたはそんなに三振を取る事ができるのですか?」。すると彼はこう答えたそうです。「投げる時は、一生懸命投げます。後はバッター任せです。」自分が与えられている使命に全力投球して、その後の結果は、バッターが打っても空振りでも、相手次第ということ。
私たちも「神任せ」ができれば、もっと人生のストレスは軽減されるでしょう。どんなに可愛い子供であっても、ナイフを貸して欲しいと要求する幼児に、答える親はいないでしょう。その子供にとって、今は与えられないことが必要なことだからです。
神様はご勝手なのですが、その「ご勝手」を、私たちの最善のため、私たちを愛するために用いておられるのです。もしそれを本気で信じることができるならばハッピーライフが待っています。