礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2011年2月20日

 旧約聖書を読んで神に対して「怖い」「恐ろしい」というイメージを持つ人は少なくない。なぜならたびたび怒りを発しておられる場面が出てくるからです。この「神の怒り」に対するイメージを変える文章を発見しましたのでそれを紹介します。マーク・ブキャナンの本の抜粋です。   
私は10代を過ぎ大人になるまで、父から愛しているという言葉を聞いた覚えがありません。でも、私の記憶には父の愛を初めて確信したときのことがハッキリと残っています。それは憤怒という表現に値するほど父が怒ったときでした。そしてその怒りは私のためだったのです。その日、私は家の前の通りで友達と遊んでいました。どこからか隣の町のいじめっ子が来て、私たちの方に近づいてきました。その子は私より3つ年上で、体も大きく、よく登下校時に私が行く道で待ち伏せし、暴力を振るったりしました。そして今度は私の自転車を奪い乗り、周囲をぐるぐる回りながらからかい、挙句には自転車を投げ出し、私に殴りかかってきました。私は何回か殴られ、そのまま倒れました。しかし突然、降りかかろうとしたコブシが止まったので、私は上を見上げました。なぜかその子は非常に怯えた顔をしていました。その子が私をいじめているのを窓越しに見た父が、助けに来たのです。父はその子のコートの襟首をつかみ上げました。「2度とうちの息子をいじめるな!」それで十分でした。それは私を守ってくれる、私の敵を倒し、すべての間違ったことを正してくれる、最後まで信頼できる愛でした。私は父の怒りの陰で安らぐことができました。おかしく聞こえるかもしれませんが、本当なのです。私は父の怒りを通して父の愛を確信しました。父の怒り故に、父の愛の中で安らぐことを学んだのです。
実は神が向けられている怒りは、私たちに対してではなく、私たちをむしばみ、苦しめ、がんじがらめにしている「罪」に対するものなのです。私たちの中にある「悪」の部分だけを抜き取りたいと願い、実行されたのが、イエス・キリストの身代わりの十字架だったのです。神は怒っておられます。でもその陰で私たちは安息を覚えることができるのです。

心のオアシス 2011年2月13日

息子が小学生の時、PTAから配られたプリントの中に非常に興味深い内容の文章が掲載されていましたのでお分かちします。
ある研究者が、一定のプログラムを通して、将来絶対に伸びる可能性を秘めたよりすぐった生徒30名を選びました。この子たちの成績は必ず伸びると太鼓判を押された子供たちでした。
そして学校にその子供たちのための特別クラスを設けて、この生徒たちをある一定期間、教育してくださいという研究者からの依頼を受けて、先生が送り込まれました。先生がその特別クラスの生徒達を見ると、どう見ても優秀には見えないような子供もいましたが、専門家が様々な観察と実験から選ばれた子だから、伸びるだろうと定めた期間、他のクラスと同様の授業を行ないました。
その結果、実際にその特別クラスの子供たちの成績が伸びていきました。やはり選ばれた特別な生徒たちであったから素晴らしい結果だったということでしたが、後でわかったことは、そのプログラム自体デタラメで、無作為に各学級の生徒が数名ずつ選ばれて、この特別クラスに送り込まれていただけだったのです。そのことは教師も親にも伝えられていませんでした。何が違ったかというと、先生たちや回りの特別クラスの子供たちに対する視線でした。「この子たちは普通の子ではない。どんな成長を遂げるのだろうか!」という期待をもってその子たちを見、教え、接していたというのです。
箸にも棒にもかからない自分中心にしか生きることができない私たちがどうして救われ、義とされ天国に行くことができるのでしょうか? それは神さまが私たちに「救われるべき者、愛する者」としての信仰の視線を送っておられる故です。
この世の中が、信仰の視線を用いて成果をあげているならば、私たちはもっと用いるべきだと思います。信仰の視線を受けた私たちは、今度は信仰の視線で他者や社会や現実の問題を見ることができるようになります。そのような信仰が与えられるよう是非祈ってみてください。 

心のオアシス 2011年2月6日

ある時、ひとりのアラビヤ人がらくだに大学の先生を乗せて、長い砂漠の旅をしました。ある所まで来ますと、アラビヤ人はらくだを止めて砂の上にひざまずき、敬虔に神に祈り始めました。大学の先生は、興味深くじっと祈っている姿を見ていました。祈り終わった時、先生はアラビヤ人に、「おい、今、君は何をしていたのかい?」と聞きました。すると、「はい、私は今、神にお祈りしていたのです。」と答えました。「ふん、神に祈った? お前はバカだね。」「先生どうして私はバカですか?」「だって、神なんか、見えないじゃないか。見えないものを信じる奴はバカだよ。」アラビヤ人は黙ってさらに旅を続けました。夜になりました。ふたりは砂漠にテントを張って一夜を過ごすことになりました。ぐっすりとふたりは眠りました。朝になりました。大学の先生は、先に目を覚ましてテントの外に出ました。すると急に大声をあげました。「おい、君、大変だ! 夕べこのテントの回りを獣が歩き回っていたぞ!」「先生、あなたはその獣を見たのですか?」「いや見てはいない。」するとアラビヤ人は、「先生、あなたもバカですね。」と笑いました。「どうしてバカなんだ?」「先生ね。あなたは昨日、見えないもの、見ないものを信じる奴はバカだと言ったでしょう?」「いや、私はバカではない。私は獣を見てはいないが、テントの回りに獣の歩いた足跡があるのだ。その足跡によって獣の存在を認めたのだ。」アラビヤ人は知恵をもって次のように神の存在について説明しました。「先生、あなたは獣を見なくても、その足跡によって、獣のいたことを認めるのですか? ちょっと見てくださいよ。美しい太陽が昇ります。そして美しい砂漠・・・これらは神の創造の足跡ですよ。私は神を見ることはできませんが、神の創造の足跡によって神の存在を知るのです。」
神さまは霊なるお方で見ることができません。しかしこの現実の世界を通して、霊の世界を示しておられます。例えば夫婦の関係を、聖書はキリストと教会との関係として表しています。この世のすべてのものは、神さまの創造の足跡です。さぁ、今日も神さま探しをしましょう!

心のオアシス 2011年1月30日

私の娘が高校1年生の時、ロータリークラブの交換学生として台湾の高校へ1年間派遣された時期がありました。娘が現地にいる間に一度は台湾へ行ってみようと思い「台湾の教会研究」という口実で娘に会いに行きました。インターネットで格安台湾旅行を見つけて手配しましたので、当然飛行機はエコノミー席で、ホテルは低いグレードのものでした。ところが現地の教会が、「違うホテルを用意しましたのでそちらに移ってほしい」と要請してきたのです。その教会は以前、何人かのメンバーが来日した時に、私たちの教会でお世話をしたことがあったのですが、私は個人的には特別なことをしたわけではありませんでした。ですから断るつもりだったのですが、強い要望に折れてその親切を受け留めることにしました。移動してみると、個人では到底選ぶことができないような高級ホテルにグレードアップされていました。そのような接待を受けるに相応しくない者に対する身に余る善意に驚愕したのを覚えています。
もう一つのグレードアップは、以前に家内とアメリカの教会研究へ行かせていただいた時、やはり一番安いエコノミーの航空券を買いました。ところが、いざ搭乗しようとした時に呼び止められて夫婦共にエコノミークラスから、ビジネスクラスを飛び越えて、ファーストクラスまでグレードアップされたことがありました。これは飛行機会社のダブルブッキングが原因だったのだと思いますが、エコノミーの値段しか支払っていないのに、食事もシートもおやつも格段の差があるファーストクラスの素晴らしいもてなしに感動したことがありました。
私たちが知らない間に、罠に陥れられたり、グレードダウンされたりすることは世の常です。ですから身に覚えのないグレードアップには戸惑ってしまうもの。しかし人類すべての人は、何の差別もなく神さまからグレードアップされていることをご存知でしょうか? 支払いは全部イエス・キリストがしてくださったのです。この神さまからの善意・愛の行為を受け入れるだけで、天国へ行けるのです。そして神の相続権をすべていただけるのです。一度神さまに甘えてみてはいかがですか?

心のオアシス 2011年1月23日

1860年代、米国シカゴにホレーショウ・スパフォードというクリスチャンの実業家がいました。彼の事業は大きな成功を収め、愛する妻、息子、4人の娘たちと幸せな家庭を築いていました。通っている教会においても大きな貢献をしていました。
 1871年。そんな幸せに満ちた彼の家庭に悲劇が訪れました。シカゴの大火事によって息子を失い、彼の事業にも大きな損害を受けました。しかしそんな状況に追いやられたにもかかわらず、彼と妻は大火によって被害を受けた人々のために財と時間を費やし捧げ、多くの人々に助けと励ましを与えました。
 ある時、彼と家族はヨーロッパで休暇を過ごすために汽船を予約しますが、スパフォードだけが仕事の関係でやむなく別の便でヨーロッパに向かうことになりました。先にヨーロッパに向かった彼の妻と娘たちを乗せた汽船は航海中に船と衝突し、彼の妻は救助されましたが、娘たちを全て失いました。
 スパフォードはその悲報を受けて妻の待つヨーロッパに向かい、航行中の汽船のデッキから娘たちを呑み込んだ海を深い悲しみの中、見つめました。そんな悲しみに打ちひしがれた彼の心は誰にも慰めることは出来ないはずでした。しかし大海原を見つめる彼の心を驚くほどの平安が包み込み始めたのです。「愛する娘たちとは再び天国で必ず会える!」その慰めを直接神さまから与えられました。そしてその時に書き記した詩が、教会で愛される讃美歌となったのです。

 安けさは川のごとく 心 浸す時 
悲しみは波のごとく わが胸 満たす時 
全て 安し 御神 共にませば     (神聖歌252番)

人はその意のままに神が動くことを奇跡と呼びますが、本当の奇跡とは、神の意のままに人間が従うことをいうのです。

心のオアシス 2011年1月16日

私たちは、神という存在を見て、直接声をかけられることを望み、奇跡を見せていただくことを願います。でも、心の眼を開くならば、すでに声を発せられ、奇跡を起こしている神さまを見ることができることにお気付きでしょうか? 見つけた英語の詩を訳してみました。

人がささやきました。「神さま! 私に語りかけてください。」
その時、ひばりが歌いました。でも人には聞こえませんでした。

人は叫びました。「神さま! 話してください!」
するとカミナリが空に響き渡りました。でも人には聞こえませんでした。

人は見回して言いました。「神さま! あなたを見させてください。」
すると星が明るく輝きました。でも人は見ませんでした。

人は大きく叫びました。「神さま! 奇跡を見せてください。」
すると、生命が生まれました。でも人は気付きませんでした。

 人は絶望の中で、大声で泣き叫びました。「神さま触れてください。
ここにおられることを教えてください。」
 そこで神さまは手を伸ばして、その人に触れました。
でも人は、そのチョウを払いのけました。そして歩き続けたのです。

 私は神様が、小さな単純な出来事の中にも、私たちの回りにいつもいてくださるということを示してくださっていることに気付きました・・・

 神さまは毎日毎日、今の瞬間瞬間に、何らかの形で声を発せられ、姿を見せられ、奇跡を行なっておられます。今日は何回神さまの声を聞くことができましたか? 神さまを見ましたか?

心のオアシス 2011年1月9日

「ひとりぼっちでない ひとりぼっちになってみたい」。数年間の結婚生活が破れ、その後、都会に出て一人で生活しながら働いている卒業生からの手紙にそう書いてあった。「今の私は、本当の『ひとりぼっち』なのです。」この人が言いたいことは、人間というものは結局ひとりぼっちなのだ、ということは良くわかっているのだけれども、そのような理解、そのような諦めを、愛し、愛されている状況の中で味わってみたいということのようだ。これは一種の贅沢というものだろう。しかしながら、このような願いを誰もが多かれ少なかれ抱いているということも、また事実である。自分を無条件に受け留めてくれる大きな手の中での安定感を持ちながら、人間の本質的孤独にひたれる人は、だから、幸せな人と言わねばなるまい。それはあたかも、喫茶店なりレストランに入って、人を待っている時の気持ちにも似ている。遅れて来るかもしれないが確実にやって来て、自分の正面に腰をおろすであろう人を待っている時には、周囲がどれほどさんざめいていようが、カップルが楽しげに食事をしていようが、うらやましいとも思わず、みじめな気持ちにもならない。なぜなら、やがてそこに座る人がある空席は、心理的には実は空席ではないからなのだ。卒業生が今味わっている淋しさは、そこに座る人のない空席を前にしている一人身の淋しさといってもよいだろう。この種の淋しさも大切にしたいと思う。なぜなら、淋しさは孤独という人間の本来の姿に眼を開かせるために、通らねばならない道程におかれている飛び石のようなものだからである。私たち一人ひとりは、今日も「ひとりぼっち」の淋しさを味わいながら生きている。「ひとりぼっちでない ひとりぼっち」を味わいたいと願いながら生きている。レストランの片隅に腰をおろして、前の空席にやがて座るであろう人を待っている。「世の終わりまで、あなたたちと共にいる」と約束した同伴者が、実はすでにその空席に来て、私たちを待っていたことに気付かないで・・・
(「愛をつかむ」渡辺和子著より抜粋)
 あなたはひとりぼっちではありません。愛されています。

心のオアシス 2011年1月2日

「隠れておられる神」キム・ヨンボン著より
神は、私たちの平凡な日常、時にはいらいらしたり、絶望したりする日常の中に宝を隠されました。最初はその宝がまったく見えませんが、一つずつ探し始めると、その宝がどこにどのように隠されているかわかるようになります。目が開かれると、どこもかしこも宝のある場所になるのです。
ある教会の掲示板に、このようなユーモアのあることばがありました。「神が遠く感じるとしたら、神を遠くに移したのは一体誰だろう。」神が遠く感じるなら、それは私たちの心が鈍くなったからです。神がおられないように感じるなら、それは私たちの心の目が見えなくなったからです。神を一度も経験できないとすれば、それは霊的な感覚が死んでいるからです。霊である神は、秘密の日差しのように私たちをいつも照らしています。暗い夜にも太陽の光が地球を照らしているように、神がいないように感じるときにも、神は私たちとともにおられます。風一つ感じないようなときでも、風はいつも吹いているように、神の働きを感じることができなくても、神は私たちのために働いておられます。秘密の日差しを感じることのできる敏感ささえあれば、私たちはいつも神のご臨在の中で主の導きを経験できるのです。

新しい年365日、神様は確実に私たち一人一人のそば近くで導いてくださいます。楽しいことや喜びも経験するでしょう。また辛いことも問題も起こるかもしれません。でも神様は変わらずすぐ近くにおられるのです。問題は私たちが、どのような心で現実を見るかということです。
さぁ一年後、誰が一番宝を見つけたか競争しましょう!
「すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」
(エペソ3章18~19節)

心のオアシス 2010年12月26日

マザーテレサの祈りです。
主よ、私は信じきっていました。私の心が愛にみなぎっていると。でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。私が愛していたのは他人ではなく、他人の中に自分を愛していた事実に。主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は思いこんでいました。私は与えるべきことは何でも与えていたと。でも、胸に手を当ててみて、真実が分ったのです。私の方こそ与えられていたのだと。主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は信じきっていました。自分が貧しい者であることを。でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。実は思い上がりと妬みとの心に、私が膨れ上がっていたことを。主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、お願いいたします。私の中で天の国と、この世の国々とがまぜこぜになってしまう時、あなたの中にのみ、真の幸福と力添えとを見いだしますように。

自分がどのような存在であるかを正しく自己分析できなくなった時、人間は傲慢になり、回りが見えなくなってしまうばかりか、神様とも人とも、いつの間にか孤立していってしまうのが現実です。このことは一生涯自問自答していかなければならない課題であります。失敗しても、それを悔い改め、神様が示される道へ進む。それが信仰の父・アブラハムの人生の歩みでした。
私が関西に戻ってきて、今年の6月から関西カルバリーフェローシップをスタートしてから、皆様の様々なご協力によって前進することができました。不思議な出会いによって神様が生きておられることを体験させていただいて感謝しています。それと同時に、私の言動から不快な思いをされた方もいらっしゃるかと思いますが、キリストにあってお許しください。指を折りながら感謝と反省の年末です。栄光在主。

心のオアシス 2010年12月12日

私は留学生時代に、大学キャンパス内の芝刈りのアルバイトをしていました。一年に一度、それぞれのアルバイト生に対する評価を現場の監督責任者が大学に提出することになっていました。ボスが私を事務所に呼んだので、中に入ると、生徒の評価表を大学へ持っていってくれと言いました。しかし、ボスはまだ用紙に評価をしている最中だったので、すぐにその場を離れようとしますと、前に座って待っていなさいというのです。しかし狭い空間の中で私が前のイスに座ると、採点の内容が私から丸見えなのです。しかしボスはそれ良しとしているかのごとく何も言わないし、あえてそれを見せたいようでもあったので、仕方なく様子を眺めていました。10項目ぐらいある各生徒たちに対する評価のほとんどが「良い」か「悪い」にチェックが入れられていました。そしていよいよ私の名前が書いた用紙をボスが手にしました。私は緊張しましたが、どのような評価をしてくれるのか興味を持っていました。自分の働きぶりを考えると、他の生徒と変わらない評価であろうと想像していました。ところで私の目を疑うようなことが起こったのです。何とボスがスラスラとチェックし始めたのは、Excellent(大変良い)という欄だったのです。結局、ほとんどの項目に「大変良い」をチェックして、コメントの欄には、「この学生の仕事ぶりは、模範的で、よく働き、周りの学生に良い影響を与えています。」という内容を書いているのです。たとえ私が目の前で見ているからといっても、それは過剰な評価でした。今から考えると、小さな島国である日本からアメリカに渡って苦労しながら勉強している私をえこひいきするかのようにして愛情を表して励ましてくれたんだと思います。私は身に余る光栄な評価をしていただいてから、言うまでもなく、今まで以上に、他の学生以上に、ボスの期待に応えていこうと努力するようになりました。それは強いられてではなく、私に対する先行的に表してくださった愛に応えたいという気持ちからでした。
神がこの地上に来てくださったのは、私たちに対する愛の表れ故でした。それを知ったら応えずにはおれません。メリー・クリスマス!