礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2011年3月13日

CGNTVに、「毎日幸せになる時間」という番組があります。その中でハーヨンジョ先生がこのような詩を朗読しておられました。
 
私たちは時々、神さまが約束を守らずに、遅らせていると考えます。
 しかし、神さまは、約束を忘れることも、遅らせることもありません。
 アブラハムの生涯を通して、このような事実を学ぶことができます。
 神さまがアブラハムに与えようとされた信仰の時間は25年でした。
 しかし、彼はその期間を耐え抜けずに、何度も倒れました。
 失敗し、疑い、挫折しました。
 しかし、神さまは、一度もそのご計画や時間を変えることなく、アブラハムを激励し、悟らせながら、信仰の人として造り変えました。
 あなたは放棄しても、神さまは放棄なさいません。
 あなたは忘れても、神さまは忘れません。
 私たちを通して計画されたことを、必ず成し遂げられます。
 これまで信仰の眠りについていたなら、たましいの目を覚まし、信仰が回復されますように願います。
 
 神さまのタイミングと私たちのタイミングは違います。なぜなら、私たちは過去・現在・未来という時空の中に生きていますが、神様は四次元以上の永遠という時空に存在されているので、それは私たちにとっての千年は一秒のような感覚でしょう。そのような神さまがあえて時間を創造されたことには深い意味があるということです。待ち、耐える時間を通して、実は私たちは訓練され育まれているということなのです。
 目に見える現実の世界では時間がかかっても、神さまは、確実に私たちの人生を導いてくださっています。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」
(イザヤ書49章15節)

心のオアシス 2011年3月6日

先日、心温まるある人の体験談を聞きました。
 関空から羽田まで飛行機で移動するため、ある航空会社のカウンターでチケットを買おうとしていました。シートの値段を見るとエコノミー料金に千円足せばスーパーシートというグレードアップされた席に座れることがわかり、その席を取りました。機内に入ってみると、何とエコノミークラスの席よりスーパーシートの方が混んでいる状況でした。指定の席に座って回りを見ると、隣に小さな男の子が座っているではありませんか。「小学生のくせにスーパーシートに座るなんて・・・」と思っていると、男の子は斜め前の席に座っている母親らしき女性に手を振ったり、向こう側に座っている人に目配せして合図したりで、どうも一家族全員がスーパーシートに座っているのがわかりました。やがて飛行機は離陸しましたが、途中乱気流に入ってしまいシートベルトをしていなければ、天上にぶつかるほどの酷い揺れでした。悲鳴をあげる人、後ろでは吐いている人の気配がしたりと、今まで経験したことのない揺れに機内は騒然としました。ふと、隣の少年を見ると、身動きせず、乱れることなく平然と席に座っていました。乱気流から脱し、やがて羽田空港に着陸するアナウンスがあり、機長から特別なメッセージが発せられました。「今日は、私の最後のフライトでした。パイロットとして、今まで一度も事故がなく安全に飛べたことが私にとって最も嬉しいことです。これからも当社を応援してくだされば幸いです。本日はありがとうございました。」すると、隣に座っていた男の子が大きな拍手をしました。それにつられるようにして、皆が拍手しました。「大した小学生やな~」と思っていたのですが、着陸してからわかったことは、この男の子は機長の孫だということでした。この男の子の「僕のお爺ちゃんは失敗することなく必ず安全に運んでくれる」という全幅の信頼によって、乱気流の中でも平静でいることができたのです。
 私たちの人生の機長はイエス・キリストです。乱気流があろうと、何が起ころうと大丈夫! 一度委ねてみられたらいかがですか?

心のオアシス 2011年2月27日

私たちは通常、目標を持って努力してそこへ到達することを教え込まれて大人になります。別にそれが悪いわけではありませんし、否定すべきではないでしょう。むしろそれはこの世の徳と言われることですから受け入れるべきであると思います。そしてそうでないと成り立たない現実もあります。しかしその価値観は、聖書が教える救いには当てはまらないということも知っておかなければなりません。多くの人たちは、今まですり込まれたことを念頭に置いて、救いを得ようとします。すなわち、救われるために、神に愛されるために努力しようとするのです。しかし、いくら努力してもそこへ到達できないジレンマが起こります。聖書の中で、イエス様が石打ちに値する罪の女性に対して、「私もあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。」と言われた箇所があります。有罪が確定しているような女性に対して、「赦されるというところからスタートして、赦されている故にもう罪の生活から離れなさいよ」と言われているのです。赦されているという安心感の中で、この女性は歩み出すことができたのです。
 「聖書に隠された成功法則」(松島修著)の本の中に、自己実現の問題点は、「今の私は、まだ自分が望むステイタス(地位・存在価値)に達していないから、そこにたどり着くために頑張ろう」という概念が潜在的に潜んでいて、そういう人のセルフイメージは、まず根本的に低いところにあって、そこから「這い上がる」というイメージを持っているということが書かれています。ですからセルフイメージが低い人ほど、成功からは遠くなるばかりか、モチベーション(動機づけ)が継続しないということなのです。
 しかし、神があなたを愛していることを知ると違う世界が開かれてきます。「努力する」のではなく「知ること」なのです。自己実現とは、自分で定めた目標を目指すことであり、神実現とは、すでに神が与えておられる目的に向かって進むことなのです。
 忘れないでください。あなたはすでに神に愛され、赦されています。

心のオアシス 2011年2月20日

 旧約聖書を読んで神に対して「怖い」「恐ろしい」というイメージを持つ人は少なくない。なぜならたびたび怒りを発しておられる場面が出てくるからです。この「神の怒り」に対するイメージを変える文章を発見しましたのでそれを紹介します。マーク・ブキャナンの本の抜粋です。   
私は10代を過ぎ大人になるまで、父から愛しているという言葉を聞いた覚えがありません。でも、私の記憶には父の愛を初めて確信したときのことがハッキリと残っています。それは憤怒という表現に値するほど父が怒ったときでした。そしてその怒りは私のためだったのです。その日、私は家の前の通りで友達と遊んでいました。どこからか隣の町のいじめっ子が来て、私たちの方に近づいてきました。その子は私より3つ年上で、体も大きく、よく登下校時に私が行く道で待ち伏せし、暴力を振るったりしました。そして今度は私の自転車を奪い乗り、周囲をぐるぐる回りながらからかい、挙句には自転車を投げ出し、私に殴りかかってきました。私は何回か殴られ、そのまま倒れました。しかし突然、降りかかろうとしたコブシが止まったので、私は上を見上げました。なぜかその子は非常に怯えた顔をしていました。その子が私をいじめているのを窓越しに見た父が、助けに来たのです。父はその子のコートの襟首をつかみ上げました。「2度とうちの息子をいじめるな!」それで十分でした。それは私を守ってくれる、私の敵を倒し、すべての間違ったことを正してくれる、最後まで信頼できる愛でした。私は父の怒りの陰で安らぐことができました。おかしく聞こえるかもしれませんが、本当なのです。私は父の怒りを通して父の愛を確信しました。父の怒り故に、父の愛の中で安らぐことを学んだのです。
実は神が向けられている怒りは、私たちに対してではなく、私たちをむしばみ、苦しめ、がんじがらめにしている「罪」に対するものなのです。私たちの中にある「悪」の部分だけを抜き取りたいと願い、実行されたのが、イエス・キリストの身代わりの十字架だったのです。神は怒っておられます。でもその陰で私たちは安息を覚えることができるのです。

心のオアシス 2011年2月13日

息子が小学生の時、PTAから配られたプリントの中に非常に興味深い内容の文章が掲載されていましたのでお分かちします。
ある研究者が、一定のプログラムを通して、将来絶対に伸びる可能性を秘めたよりすぐった生徒30名を選びました。この子たちの成績は必ず伸びると太鼓判を押された子供たちでした。
そして学校にその子供たちのための特別クラスを設けて、この生徒たちをある一定期間、教育してくださいという研究者からの依頼を受けて、先生が送り込まれました。先生がその特別クラスの生徒達を見ると、どう見ても優秀には見えないような子供もいましたが、専門家が様々な観察と実験から選ばれた子だから、伸びるだろうと定めた期間、他のクラスと同様の授業を行ないました。
その結果、実際にその特別クラスの子供たちの成績が伸びていきました。やはり選ばれた特別な生徒たちであったから素晴らしい結果だったということでしたが、後でわかったことは、そのプログラム自体デタラメで、無作為に各学級の生徒が数名ずつ選ばれて、この特別クラスに送り込まれていただけだったのです。そのことは教師も親にも伝えられていませんでした。何が違ったかというと、先生たちや回りの特別クラスの子供たちに対する視線でした。「この子たちは普通の子ではない。どんな成長を遂げるのだろうか!」という期待をもってその子たちを見、教え、接していたというのです。
箸にも棒にもかからない自分中心にしか生きることができない私たちがどうして救われ、義とされ天国に行くことができるのでしょうか? それは神さまが私たちに「救われるべき者、愛する者」としての信仰の視線を送っておられる故です。
この世の中が、信仰の視線を用いて成果をあげているならば、私たちはもっと用いるべきだと思います。信仰の視線を受けた私たちは、今度は信仰の視線で他者や社会や現実の問題を見ることができるようになります。そのような信仰が与えられるよう是非祈ってみてください。 

心のオアシス 2011年2月6日

ある時、ひとりのアラビヤ人がらくだに大学の先生を乗せて、長い砂漠の旅をしました。ある所まで来ますと、アラビヤ人はらくだを止めて砂の上にひざまずき、敬虔に神に祈り始めました。大学の先生は、興味深くじっと祈っている姿を見ていました。祈り終わった時、先生はアラビヤ人に、「おい、今、君は何をしていたのかい?」と聞きました。すると、「はい、私は今、神にお祈りしていたのです。」と答えました。「ふん、神に祈った? お前はバカだね。」「先生どうして私はバカですか?」「だって、神なんか、見えないじゃないか。見えないものを信じる奴はバカだよ。」アラビヤ人は黙ってさらに旅を続けました。夜になりました。ふたりは砂漠にテントを張って一夜を過ごすことになりました。ぐっすりとふたりは眠りました。朝になりました。大学の先生は、先に目を覚ましてテントの外に出ました。すると急に大声をあげました。「おい、君、大変だ! 夕べこのテントの回りを獣が歩き回っていたぞ!」「先生、あなたはその獣を見たのですか?」「いや見てはいない。」するとアラビヤ人は、「先生、あなたもバカですね。」と笑いました。「どうしてバカなんだ?」「先生ね。あなたは昨日、見えないもの、見ないものを信じる奴はバカだと言ったでしょう?」「いや、私はバカではない。私は獣を見てはいないが、テントの回りに獣の歩いた足跡があるのだ。その足跡によって獣の存在を認めたのだ。」アラビヤ人は知恵をもって次のように神の存在について説明しました。「先生、あなたは獣を見なくても、その足跡によって、獣のいたことを認めるのですか? ちょっと見てくださいよ。美しい太陽が昇ります。そして美しい砂漠・・・これらは神の創造の足跡ですよ。私は神を見ることはできませんが、神の創造の足跡によって神の存在を知るのです。」
神さまは霊なるお方で見ることができません。しかしこの現実の世界を通して、霊の世界を示しておられます。例えば夫婦の関係を、聖書はキリストと教会との関係として表しています。この世のすべてのものは、神さまの創造の足跡です。さぁ、今日も神さま探しをしましょう!

心のオアシス 2011年1月30日

私の娘が高校1年生の時、ロータリークラブの交換学生として台湾の高校へ1年間派遣された時期がありました。娘が現地にいる間に一度は台湾へ行ってみようと思い「台湾の教会研究」という口実で娘に会いに行きました。インターネットで格安台湾旅行を見つけて手配しましたので、当然飛行機はエコノミー席で、ホテルは低いグレードのものでした。ところが現地の教会が、「違うホテルを用意しましたのでそちらに移ってほしい」と要請してきたのです。その教会は以前、何人かのメンバーが来日した時に、私たちの教会でお世話をしたことがあったのですが、私は個人的には特別なことをしたわけではありませんでした。ですから断るつもりだったのですが、強い要望に折れてその親切を受け留めることにしました。移動してみると、個人では到底選ぶことができないような高級ホテルにグレードアップされていました。そのような接待を受けるに相応しくない者に対する身に余る善意に驚愕したのを覚えています。
もう一つのグレードアップは、以前に家内とアメリカの教会研究へ行かせていただいた時、やはり一番安いエコノミーの航空券を買いました。ところが、いざ搭乗しようとした時に呼び止められて夫婦共にエコノミークラスから、ビジネスクラスを飛び越えて、ファーストクラスまでグレードアップされたことがありました。これは飛行機会社のダブルブッキングが原因だったのだと思いますが、エコノミーの値段しか支払っていないのに、食事もシートもおやつも格段の差があるファーストクラスの素晴らしいもてなしに感動したことがありました。
私たちが知らない間に、罠に陥れられたり、グレードダウンされたりすることは世の常です。ですから身に覚えのないグレードアップには戸惑ってしまうもの。しかし人類すべての人は、何の差別もなく神さまからグレードアップされていることをご存知でしょうか? 支払いは全部イエス・キリストがしてくださったのです。この神さまからの善意・愛の行為を受け入れるだけで、天国へ行けるのです。そして神の相続権をすべていただけるのです。一度神さまに甘えてみてはいかがですか?

心のオアシス 2011年1月23日

1860年代、米国シカゴにホレーショウ・スパフォードというクリスチャンの実業家がいました。彼の事業は大きな成功を収め、愛する妻、息子、4人の娘たちと幸せな家庭を築いていました。通っている教会においても大きな貢献をしていました。
 1871年。そんな幸せに満ちた彼の家庭に悲劇が訪れました。シカゴの大火事によって息子を失い、彼の事業にも大きな損害を受けました。しかしそんな状況に追いやられたにもかかわらず、彼と妻は大火によって被害を受けた人々のために財と時間を費やし捧げ、多くの人々に助けと励ましを与えました。
 ある時、彼と家族はヨーロッパで休暇を過ごすために汽船を予約しますが、スパフォードだけが仕事の関係でやむなく別の便でヨーロッパに向かうことになりました。先にヨーロッパに向かった彼の妻と娘たちを乗せた汽船は航海中に船と衝突し、彼の妻は救助されましたが、娘たちを全て失いました。
 スパフォードはその悲報を受けて妻の待つヨーロッパに向かい、航行中の汽船のデッキから娘たちを呑み込んだ海を深い悲しみの中、見つめました。そんな悲しみに打ちひしがれた彼の心は誰にも慰めることは出来ないはずでした。しかし大海原を見つめる彼の心を驚くほどの平安が包み込み始めたのです。「愛する娘たちとは再び天国で必ず会える!」その慰めを直接神さまから与えられました。そしてその時に書き記した詩が、教会で愛される讃美歌となったのです。

 安けさは川のごとく 心 浸す時 
悲しみは波のごとく わが胸 満たす時 
全て 安し 御神 共にませば     (神聖歌252番)

人はその意のままに神が動くことを奇跡と呼びますが、本当の奇跡とは、神の意のままに人間が従うことをいうのです。

心のオアシス 2011年1月16日

私たちは、神という存在を見て、直接声をかけられることを望み、奇跡を見せていただくことを願います。でも、心の眼を開くならば、すでに声を発せられ、奇跡を起こしている神さまを見ることができることにお気付きでしょうか? 見つけた英語の詩を訳してみました。

人がささやきました。「神さま! 私に語りかけてください。」
その時、ひばりが歌いました。でも人には聞こえませんでした。

人は叫びました。「神さま! 話してください!」
するとカミナリが空に響き渡りました。でも人には聞こえませんでした。

人は見回して言いました。「神さま! あなたを見させてください。」
すると星が明るく輝きました。でも人は見ませんでした。

人は大きく叫びました。「神さま! 奇跡を見せてください。」
すると、生命が生まれました。でも人は気付きませんでした。

 人は絶望の中で、大声で泣き叫びました。「神さま触れてください。
ここにおられることを教えてください。」
 そこで神さまは手を伸ばして、その人に触れました。
でも人は、そのチョウを払いのけました。そして歩き続けたのです。

 私は神様が、小さな単純な出来事の中にも、私たちの回りにいつもいてくださるということを示してくださっていることに気付きました・・・

 神さまは毎日毎日、今の瞬間瞬間に、何らかの形で声を発せられ、姿を見せられ、奇跡を行なっておられます。今日は何回神さまの声を聞くことができましたか? 神さまを見ましたか?

心のオアシス 2011年1月9日

「ひとりぼっちでない ひとりぼっちになってみたい」。数年間の結婚生活が破れ、その後、都会に出て一人で生活しながら働いている卒業生からの手紙にそう書いてあった。「今の私は、本当の『ひとりぼっち』なのです。」この人が言いたいことは、人間というものは結局ひとりぼっちなのだ、ということは良くわかっているのだけれども、そのような理解、そのような諦めを、愛し、愛されている状況の中で味わってみたいということのようだ。これは一種の贅沢というものだろう。しかしながら、このような願いを誰もが多かれ少なかれ抱いているということも、また事実である。自分を無条件に受け留めてくれる大きな手の中での安定感を持ちながら、人間の本質的孤独にひたれる人は、だから、幸せな人と言わねばなるまい。それはあたかも、喫茶店なりレストランに入って、人を待っている時の気持ちにも似ている。遅れて来るかもしれないが確実にやって来て、自分の正面に腰をおろすであろう人を待っている時には、周囲がどれほどさんざめいていようが、カップルが楽しげに食事をしていようが、うらやましいとも思わず、みじめな気持ちにもならない。なぜなら、やがてそこに座る人がある空席は、心理的には実は空席ではないからなのだ。卒業生が今味わっている淋しさは、そこに座る人のない空席を前にしている一人身の淋しさといってもよいだろう。この種の淋しさも大切にしたいと思う。なぜなら、淋しさは孤独という人間の本来の姿に眼を開かせるために、通らねばならない道程におかれている飛び石のようなものだからである。私たち一人ひとりは、今日も「ひとりぼっち」の淋しさを味わいながら生きている。「ひとりぼっちでない ひとりぼっち」を味わいたいと願いながら生きている。レストランの片隅に腰をおろして、前の空席にやがて座るであろう人を待っている。「世の終わりまで、あなたたちと共にいる」と約束した同伴者が、実はすでにその空席に来て、私たちを待っていたことに気付かないで・・・
(「愛をつかむ」渡辺和子著より抜粋)
 あなたはひとりぼっちではありません。愛されています。