礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2010年10月10日

牧師であり詩人でもあった河野進さんの詩をご紹介します。

病まなければ 捧げ得ない祈りがある
病まなければ 信じ得ない奇跡がある
病まなければ 聞き得ない御言葉がある
病まなければ 近づき得ない聖所がある
病まなければ 仰ぎ得ない御顔がある
病まなければ 私は人間でさえあり得ない

人は病気になると、その病気に心が縛られてしまったり、それに振り回されるような人生を送ることが多くあります。病気だけではなく、様々な問題や、まさかの出来事にも同じことが言えると思います。また自分だけならまだしも、その問題が家族や友人にまで巻き込んでしまうことさえあるでしょう。ある意味、私たちは「人生における何故?」によって支配されコントロールされています。そして、一生かけて絶えず起こる様々な問題解決のために労力を費やして人生は終わってしまうのです。
聖書の中に、このような記事があります。4人の友人が、一人の中風の男を床のままイエスの元へ連れて来ました。その時に語られたイエスの言葉が印象的です。「あなたの罪は赦された。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」。今までのこの男の人生は床に縛られ、その病に振り回されるような毎日でありました。しかし、イエスはその床を取りあげなさいとおっしゃるのです。取りあげるというのは、主導権が床にではなく、この男にあるということなのです。救いを受けた後の人生は、問題に支配されるどころか、その問題を逆に支配して生きることができるようになることを示唆しています。
河野進さんの詩は、病をコントロールしている人の姿を表しているように思います。問題がまだ残っていたとしても、それによって得るものは大きいと発想の転換ができるのです。これは信仰から来る恵みです。

心のオアシス 2010年10月3日

息子の保育園時代に、発表会がありました。園児たちで合奏をするということでした。大きなペットボトルにビーズのようなものが入っていて、振るとガシャガシャと音がなる手作りの楽器を手にしているグループの中に息子がいました。演奏が始まる前から、子供たちは隣の友達とふざけ合ったりしていました。いよいよ合奏が始まりました。ところが練習はしたのでしょうけれども、先生の指揮のテンポを守っている子供はいないばかりか、「ガシャガシャ」「ドンドコ」「ピ~ヒャラ~ ピピピ」とそれぞれ違った騒音がそれぞれのパートから鳴り響き始めました。
もしこれが有料の音楽会でしたら、「入場料返せ!」との野次が飛んできてもおかしくはないのですが、この音楽会では、呆れて帰ったり文句が出るどころか、みんな始めから終わりまでビデオを回しているのです。そして、その騒音楽会の演奏が終了するや、拍手喝さいではありませんか。ブーイングに値する演奏を聴いて「素晴らしい!」とは、一体何がどうしたのでしょうか?
これは「関係」にあるのです。この悲惨な演奏をした子供たちと、それを聴きながらビデオを回している人たちは、親子関係にあるのです。親は自分の子供が「良い音楽を奏でることができたから」とか、「一生懸命にやっているから」というのではなく、その子供の存在が、その演奏の価値を決めているのです。
私たちの神と人との関係も同じことが言えます。私たちは真面目だからとか、良い行いをしているからとか、熱心だから、価値があるのでもなく神様に愛されているというのではありません。あなたという存在そのものに価値があるのです。
パウロは言いました。「私は神に背く者であり、反逆する者、迫害する者であったにも関わらず、忠実な者と見なして、この務に任じて下さったのである。」
神様は今日も、あなたを大切な存在として視線を送っておられます。
「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」(イザヤ43章4節)

心のオアシス 2010年9月26日

ある村から、一人の若者が隣の村に住むために移動していました。途中で一人の老人に会いました。この若者は、この老人に聞きました。「私が今から行こうとしている隣の村には、どんな人たちが住んでいますか?」老人は、それを聞いて逆に問いました。「あなたが住んでいた、あちらの村には、どんな人たちが住んでいたんだい?」すると若者は言いました。「あの村には、もう二度と帰りたくはありません。とても不親切な人ばかりで、嘘はつくし、いじめはあるし、友達なんて一人もできませんでしたよ。とんでもない村でした・・・」すると老人は答えました。「今からあなたが行こうとしているあちらの村にも、同じような人たちが住んでいるよ。」 しばらくして、別の若者が前の若者と同じ村から出てきて、隣の村へ行こうとしていました。その若者も、途中で老人に出会い前の若者と同じ質問をしました。「今から隣の村へ行こうとしているのですが、そこにはどんな人々が住んでいるのですか?」老人は逆に質問しました。「あなたが住んでいたあちらの村には、どんな人たちが住んでいたのかね?」するとその若者は言いました。「あの村には本当に良い人たちばかりがいて、親切で、親しい友人もたくさんできました。とても名残惜しいです。」そうすると老人は言いました。「今からあなたが行こうとしている隣の村にも、同じような人たちが住んでいるよ。」
同じ環境、同じ境遇にいても、その人次第で幸せにもなれるし、不幸にもなれることを教えている寓話です。私たちが住んでいるこの地上での問題や悩みは、様々な形でほとんど平等に分け与えられているように思います。現実は変わらなくても、どうやってそれを乗り越え幸せに生きることができるのでしょうか?
パウロの名言です。「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ・・・わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」
息子(誠)の好きな言葉。「(神にあって)なるようになる」

心のオアシス 2010年9月19日

1988年に、ランドルフ・バード博士が、サンフランシスコ総合病院の心臓病集中病棟の患者393名を対象にした「祈り」に関する実験の研究結果を発表しています。それによると、患者を二つのグループに分けて、一つは、米国内の様々な場所にいるクリスチャンの集団が、指定された病人たち一人一人に対して祈られているグループ。もう片方は、誰にも祈られていないグループ。そして「祈り」という要因を除いては、すべての患者は同じハイテク治療を受けました。誰が祈られ、誰が祈られていないのかは、医師、看護師、患者すらも知らされていません。その結果、祈られた患者の方が、いくつかの測定の結果、統計学的にみて明らかに有意に良くなっていることがわかったということです。また、「祈り」の距離に関しても、その効果に左右する要因にはならないということがわかったそうです。すなわち、何千キロも離れた東海岸側からの祈りも、西海岸にあるこの病院に近いグループからの祈りと、まったく同様に効果的であることがわかりました。
この実験結果を踏まえてバード博士は、「もし、なんらかの物理的エネルギーが送られているのであれば、遠距離より近距離の方が、祈りの力はよりパワフルになるはずである。なぜなら、物理的なエネルギーならば、距離と共に弱まるからである。祈りの効果は、覆ったり遮断したり、封鎖したりすることができない。ということは祈り手から相手に向けて、ある種のエネルギーが送られているわけではないのである。離れた場所からの祈りが、どのようにし作用するかについては、現在の我々の科学は無知であるということからすれば、『神の力が働いたのだ』と信じる人々は、自分たちの主張に改めて自信を持つべきであろう。このような考えは、どのような説にもまして、最良の説明のように思われるからだ」と書いています。医学・科学の世界が、「祈り」の力を証明しています。    
神がこの世の全ての人に与えられた恵みの一つは「祈り」であります。人は危機に面した時に、瞬間にでも崇高な存在に助けを求めます。是非祈ってみてください。神様は必ず必要を満たしてくださいます。

心のオアシス 2010年9月12日

1992年、バルセロナ・オリンピック陸上男子400mの走者に、イギリスのレドモンドという選手がいました。彼はそのレースで勝ちたいと願ってレースに臨みました。スタートして快調に走っていましたが、ゴール前250m地点で、悲劇が起こりました。突然、足の筋が切れて失速し、激痛のために顔をゆがめ足を押さえながらトラック上に倒れ込んだのです。痛みと、走ることができなくなった悔しさの混じった悲痛な表情でした。やがて救護の人が担架を持ってきましが、その時、彼はそれを拒否して、立ち上がり、片足でケンケンするかのようにして走り始めたのです。すると突然、大きな男が、スタンドから群集をかき分け、警備の人を制しながらトラックの中へ入ってきました。それはレドモンド選手の父親でした。父は泣きながら足を引きずっている息子に言いました。「こんなことをしなくていいんだぞ」。しかし息子は言いました。「いや、これを最後まで終えたいだよ」。それを聞いた父は答えました。「それなら、一緒に行こう」。父は息子の肩に腕をまわし、助けながら一緒に走りました。そして間もなくゴールラインの前で、父は手を放して息子を一人でゴールさせたのです。そこにいた6万5千人の観衆が総立ちして拍手をする中、レースを完走することができたのです。レドモンド選手は一位になることはできませんでしたが、レースを最後まで走り抜くことができました。痛みがあったにも関わらず、涙を流していたにも関わらず、全力を尽くすことができました。それは彼が倒れそうになる時に引き上げる父の愛があったからです。観客席から立ち上がり、競技場のトラックの中に入ってきて息子を助けようなんてことを、どうして父はしたのでしょうか? それは息子を愛していたからです。そして、激痛に苦しむ自分の子供の顔を見、しかし最後までレースをやり遂げたいという息子の姿勢を見て、父はその両方を支えたいと思ったのです。
天の父なる神様は、痛み、苦しみ、戦っている私たちの所に来て助けたいと願っておられます。みなさんの人生のレースはどうでしょうか?
 「わが助けは、天と地を造られた主から来る」(詩篇121の2)

心のオアシス 2010年9月5日

カナダとアメリカの国境にある世界で最も大きく美しい滝の一つに、ナイヤガラの滝があります。以前にドイツの綱渡り師が、カナダとアメリカ側の岸に鋼鉄を張って、そこを渡って見せたそうです。背中に何か重いものを乗せて渡りました。そして渡り終えた時に拍手喝采でした。この綱渡り師は言いました。「皆さんは、私が人を背負ってでも、ここを渡ることができると思いますか?」そこにいた調子の良いアメリカ人の一人が、「勿論、あなたなら渡れますよ!」と言いました。そこでこの綱渡り師は尋ねました。「そうですか? では、あなたを背負って渡ってみせましょう。」そうするとその男性は、「いえいえ・・・それは遠慮します・・・」威勢の良かった人は、よわよわしい声で拒否しました。そのようなやり取りをしていましたが、結局、誰も綱渡り師に身を委ねることができないことがわかったときに、小さな少年が出てきました。「僕を背負って渡ってください!」綱渡り師は、その子を背負って渡り始めました。しかし、この少年は、ニコニコしながら手を振ったり、ピースしたりで、見ている方がハラハラ・ドキドキしていました。そして無事に渡り終えることができました。人々は少年の勇気ある申し出を称えながら質問しました。「よくやったね! 怖くなかったの?」少年はニコニコしていましたが、やがてこう言ったそうです。「実はね。あの綱渡り師は、僕のお父さんなんだよ。」
この少年は、お父さんに全幅の信頼を持っていました。みなさんの周りに信じることができる人はいるでしょうか? ニュースを見ても、周りを見ても、信じ切ることが難しい世の中です。政治も、学校の先生も、社会も、親も子供でさえも、裏切ることがあります。何も信じることができない世界ほど、虚しいものはありません。しかし、もし、お父さんを信頼した少年のように、純粋に神という存在に委ねることができたら、人生何が起こっても安心があります。神が良いことも、悪いことも全部用いて、自分に最善をしてくださるという信頼からくる安心です。
一度、神に賭けてみてはいかがですか? 保証します!

心のオアシス 2010年8月29日

動物が大好きな少年がいました。いつも近くのペットショップに出かけては、外の窓越しに眺めていました。ある日、お店が、少年の大好きな子犬が6匹入荷したようで、たまらず店主に聞きました。「おじさん、この犬いくら?」「2万円だよ。」「2万円もするの?」この少年にとっては高い値段でした。少年の持ち合わせでは買うことはできません。店主が一匹一匹、丁寧にお店に入れるのを見ていると、どうも一番最後の6匹目の犬の左の後ろ足が短いのか、バランスを崩していました。少年は聞きました。「おじさん、この犬はいくら?」店主は言いました「君が買ってくれるのなら、この犬は半額にしてあげよう。」しかし少年はニコリともしません。それを見た店主は言いました。「じゃ、それならタダでいいよ。」そうすると少年はさらに顔を曇らせて言いました。「おじさん、タダは駄目だよ。」「そうか? じゃ、半額にしておこうか?」そうすると少年は言いました。「半額も駄目だよ。この犬は他の犬と同じように定価で売らなきゃダメだよ。2万円で僕が買うよ。」その言葉に驚いた店主は言いました。「いや~、これは足が悪いんだ。だから半値でも売れないからタダでいいって言ってるだろう。」「おじさん! タダも半値もダメだよ。これから僕、お父さんにお金もらってくるから、この犬、絶対に誰にも売らないでね!」と言って、少年は家に帰って行きました。「奇妙な客だな・・・あの犬は売れないと思っていたのに・・・」ペットショップの店主が、その少年の帰って行く後姿を見てハッとしました。「今まで、何年も顔は見ていたけれど、そうだったのか・・・あの少年の左足も少し短いんだ・・・」少年の歩く姿を見ていると、ハッキリそうだとわかりました。自分が「半額でいい。タダでいい」と言ったのを少年は「タダなんて駄目だ」と言った意味が初めてわかりました。少年は障害があるから2万円の価値がないとは思わなかったのです。なぜなら自分自身に障害があるから価値のない者とは思わなかったからです。
あなたが、どのような人物であったとしても、神の目には高価で尊い存在です。神の価値観にこそ希望があります。ハレルヤ!

心のオアシス 2010年8月22日

エンマゲルというアメリカの心理学者が、このような息の実験をしました。冷やした試験管の中に冷却した空気を入れて、そこに人間の吐く息を入れてもらいました。そうすると、その息が水滴となって試験管の下に沈殿するのですが、健康な人の吐く息を冷却すると、下に溜まる水滴は無色透明だそうですが、怒っている人の息を冷やすと、栗色の息が沈殿するそうです。そして悲しんでいる人や苦しんでいる人の息は灰色に変わり、憎しみを持っている人の息は濃い赤色になるそうです。そして、怒りで栗色になった息をネズミに注射すると30秒以内に死ぬということでした。しかも、それは健康な人間を80人は殺す毒を持つというのです。
学者が、実験しなくても、聖書は何千年も前から「人間の悲しみ、怒り、恐れ、不安、憎しみは、あなたの骨を腐らす」ということを教えています。しかし、そうは言われても、そのような状況の中で喜ぶことは簡単にはできないのが、私たちの弱さであります。どのようにしたら、喜ぶことができるのでしょうか? 身近なところから言えば、まずは、当たり前を感謝し喜ぶということです。私は以前に入院したことがあります。激痛の中で身動きがまったくできない状況の中で、普通に寝返りできることが、どれだけ感謝なことであったかを実感したことがありました。普段当たり前のようにして過ごしている小さなことにも目を留め、そこに感謝を発見しながら生きて行くならば人生豊かになるものです。
もう一つのアドバンスコースは、「主にあってすべてのことを喜ぶ」ということです。問題や困難自体を喜ぶのではなく、そのような環境の中でも、「私は神の手の中にあって、万事は最善に導かれている」と、信仰を働かせるならば、どんなことが私たちの人生に起こっても、平安が与えられるのです。そればかりか、神に導かれている人生を喜ぶことができるのであります。
吐く息は、私たち自身に影響を与えているばかりか周りにも及んでいます。願わくは、私たちの息がいつも無色透明でありますように。

心のオアシス 2010年8月15日

私たちの一生の間に、様々な人と出会い、接し、関わっていきます。しかし、その中には必ずしも自分の好みではないタイプもいるでしょう。上手く避けることができればいいですが、嫌でも関わっていかなければならない場合もあります。そうなるとストレスになっていきます。でも、「神」という存在を信じる人々は、考え方を変えることによってストレスが軽減されます。また優しい心にもなれます。すなわちそれらの人々は全て神があなたのために遣わされた存在だと信じることです。
トルストイの「靴屋のマルチン」は、それをよく表しています・・・靴屋をしていたマルチンが、ある夜、夢を見ます。「明日はお前の家にいくから」と神様が言われました。次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外を見ていると、寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはそのおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。それからマルチンが外を見ていると、赤ちゃんを抱いた貧しい母親が外を歩いていました。それを見て、マルチンは可哀想になり、出て行って、その母子を家に迎え、ショールをあげました。しかし、なかなか神様は来られません。今度は、おばあさんのカゴから一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなしをして、一緒に謝りました。そうして、一日が終わりましたが、とうとうマルチンが期待していた神様は来られませんでした。「やっぱり、あれは夢だったのか」とガッカリしているマルチンに、神様が現れて言いました。「マルチン、今日はお前の家に行ったよ。」すると、雪かきのおじいさんや貧しい母子やリンゴを盗んだ少年の姿が次々と現れました。
神様が目に見える形で、私たちの前に現れたら、わかりやすくて、私たちはお従いしやすいですが、神様はそういう現れ方はなさらないのです。私たちの周りにいる「あの人もこの人も」、実は神様が遣わされた人、いや神様ご自身だと考えるならば、親切にしないわけにはいかないでしょう。赦さないわけには、愛さないわけにはいきません。
「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)

心のオアシス 2010年8月8日

「3本の木」という民話があります。山の上に3本の木が立っていて、それぞれの木が将来に対する願いを持ったというのです。一番目の木は「将来、世界一きれいな宝箱になりたい!」。二番目の木は「世界一大きな船になりたい」と願い、三番目の木は「このまま、ずっとこの山にいて、世界一背高のっぽの木になりたい」と思っていました。何年もたってから、それぞれりっぱな大木になりました。ある日、3人の木こりがやって来てそれぞれの木を切りました。3本の木は、自分の願い通りになれると期待していました。しかし一番目の木は、大工さんの仕事場へ運ばれましたが、作ったのは宝箱ではなく家畜のエサ箱でした。宝石を入れられることはありません。お腹を空かせた家畜のために、わらや草が盛られました。二番目の木は、造船所に運ばれました。ところが、そこで作られたのは大きな船ではなく小さな漁船になりました。小さな湖に運ばれて、生臭い魚を運ぶ毎日になりました。三番目の木は、太い材木にされて、そのままになりました。こう思いました。「私は、ただあの山の上に立っていれば満足だったのに・・・」。そして何年も経過してから、3本の木は自分たちが見た夢のことなどすっかり忘れていました。  
ある夜、一人の女の人が、生まれたばかりの赤ん坊をエサ箱に寝かせました。その時一番目の木は、自分は世界で一番尊い宝物をお入れしているのだと気づきました。ある晩、二番目の木が湖の上を滑り出すと、ひどい嵐になって沈みそうになりました。乗っていた一人の人が立ち上がって「静まれ!」と言われると、嵐が止んだではありませんか。その時二番目の木は、自分は天と地を治める王をお乗せしていることに気づきました。ある金曜日、材木になった三番目の木は引き出され、あざける大勢の人々の間を運ばれていきました。そして兵士が一人の人の手を木に釘で打ち付けました。日曜日の朝、大地が喜びに震えていました。人々が三番目の木のことを思う時、神の愛を考えるようになりました。
これが自己実現と神実現の違いです。思い通りならなくても大丈夫!「神のなさることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3章11節)