心のオアシス
心のオアシス 2012年12月23日
1897年、バージニアという8歳の少女から、「サンタクロースって本当にいるの?」いう手紙を受け取った「ニューヨーク・サン新聞」の記者は、それに対する答えを新聞社の顔ともいうべき社説に、その答えを出しました。それが、世界中で大反響を呼び、世界で最も有名な社説のひとつとなり、本にもなりました。大まかなやり取りです。
ニューヨーク・サン紙さま
わたしは、8才の女の子です。私の友だちは「サンタクロースなんていない」と言います。パパに聞いたら「もしサン新聞の記者さんに聞いて、サンタクロースが本当にいると言われたら、そのとおりだと思うよ」と言いました。だから本当のことを教えてください。サンタクロースは、本当にいるんですか? バージニア・オハロン 西495番街115番
バージニアへ
君の友だちは、まちがっていますよ。その子たちはきっと、疑い病にかかっているんだと思います。人は自分に見えるものだけしか信じないし、自分の小さな心で理解できないことは何でも否定してしまいます。
もし、サンタクロースがいないとするならば、あなたは手に触れられるもの、目に見えるもの以外で、幸せを感じたことはないですか? 目に見えなくても、手に触れられなくても、幸せって感じられるはずです。ひょっとすると、それがサンタクロースなのかもしれませんね」
1897年12月24日 ニューヨーク・サン紙
神様は目で見えなくても、手で触れることができなくても、たとえその存在を否定しても、どのような人の中にも、確かに共に生きて働いておられます。そして、クリスマスは、その存在が明らかにされた日です。
「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」(ルカ2章11節)
心のオアシス 2012年12月16日
先日こんな投稿を見つけて考えさせられた。
俺が23歳の頃、就職1年目の冬、俺の誕生日の日のこと。職場の人たちが「誕生パーティーをしてあげる!」というので、家に「今日は遅くなるよ。ご飯いらないから。」と電話を入れたら、父が「今日はみなさんに断って、早く帰ってきなさい。」と言う。「だってもう会場とってもらったみたいだし、悪いから行く。」と俺が言うと、いつもは温厚な父が、「とにかく今日は帰ってきなさ、誕生日の用意もしてあるから。」とねばる。「???」と思いながら、職場のみんなに詫びを入れて帰宅した。家にはその春から胸膜炎で療養中の母と、その父。食卓にはスーパーで売ってるような鶏肉のもも肉のローストしたみたいなやつとショートケーキが3つ。「なんでわざわざ帰らせたの?! 俺だってみんなの手前、申し訳なかったよ!」と言ってしまった。父は何か言ったと思うが、覚えていない。母が、「ごめんね。明日でも良かったね。」と涙ぐんだ。俺は言い過ぎたな、と思った。でも謝れず、黙々と冷えた鶏肉とケーキを食べて部屋に戻った。その2ヶ月後、母の容態が急変し入院した。仕事帰りに病院に行くと、父がいた。廊下の隅で、「実はお母さんは春からガンの末期だとわかっていたんだよ。隠していてごめん。」とつぶやいた。呆然として家に帰ったあと、母の部屋の引き出しの日記を読んだ。あの誕生日の日のページに「○男に迷惑をかけてしまった。」とあった。ワーッと声を出して泣いた。何時間も「ごめんね。」といいながら泣いた。4、5日して母は亡くなった。仕事を辞めて、看病していた父も数年前に亡くなった。父が準備したささやかな誕生日パーティーをどうして感謝できなかったのか。母にとっては最後だったのに・・・。
切ない話ですね。主人公抜きのクリスマスは、たとえ沢山の人たちが集まってパーティーをしても本当は寂しいものなのです。クリスマスは神さまが準備してくださった、私たちへの愛と救いの証なのです!
心のオアシス 2012年12月9日
これは「みやざき中央新聞」の社説に掲載された内容の一部抜粋です。
食肉加工センターの「坂本さん」という実在の人物が登場する。坂本さんの職場では毎日たくさんの牛が殺され、その肉が市場に卸されている。牛を殺すとき、牛と目が合うたびに坂本さんは、「いつかこの仕事をやめよう」と思っていた。ある夕方、牛を荷台に乗せた一台のトラックがやってきた。「明日の牛か・・・」と坂本さんは思った。しかし、いつまで経っても荷台から牛が降りてこない。荷台を覗いてみると、10歳位の女の子が、牛のお腹をさすりながら「みいちゃん、ごめんねぇ・・・」と話し掛けている。女の子のおじいちゃんが坂本さんに頭を下げた。「みいちゃんはこの子と一緒に育てました。だけん、ずっとうちに置いとくつもりでした。ばってん、売らんと、お正月が来んとです。」坂本さんは思った。(もうできん。もうこの仕事はやめよう)明日の仕事を休むことにした。家に帰ってから、そのことを息子のしのぶ君に話した。じっと聞きながらしのぶ君は言った。「やっぱりお父さんがしてやってよ。心の無か人がしたら牛が苦しむけん」しかし休むと決めていた。翌日、小学校に行く前に、しのぶ君はもう一度言った。「お父さん、今日は行かなんよ!」心が揺れしぶしぶと仕事場へ。他の牛同様、角を下げて威嚇ポーズをとった。「ごめんよう。みいちゃんが肉にならんとみんなが困るけん。ごめんよう」と言うと、みいちゃんは坂本さんに首をこすり付けてきた。殺すとき、動いて急所をはずすと牛は苦しむ。坂本さんが、「じっとしとけよ」と言うと、みいちゃんは動かなくなった。次の瞬間、みいちゃんの目から大きな涙がこぼれ落ちた。牛の涙を坂本さんは初めて見た。
私たちは奪われた命の意味も考えず、毎日肉を食べています。自分で直接手を汚すこともなく、坂本さんのような方々の苦悩も知らず・・・
それ以上に天の父なる神の苦悩と御子イエス・キリストの犠牲の故に私たちが生かされているって知っていましたか?
心のオアシス 2012年12月2日
ある医師の遺言・・・
ある村に有名な医師が住んでいました。村の人たちは病気になると、みんなこの医師の所へ行って治療を受けました。彼は患者の顔色と、歩く姿を見るだけで、どこが悪いかを見極めて薬を処方することができる名医でした。そのような彼も年をとり、余命いくばくもないある日、村の人たちが医師のもとへ集まってきました。臨終を前にして、彼は人々に話しました。「私よりはるかに立派な3人の医師を紹介しておきます。その医師の名前は食べ物、睡眠、運動です。食べ物は腹八分目で、決して食べ過ぎないでください。夜中前には寝て、日が昇れば起きてください。そしてよく歩くならば、多くの病気は良くなるでしょう。」
話をしていた医師は、苦しくなったのか、しばらく無言になりました。そして再び話を続けました。「ところで食べ物と睡眠と運動は次の3種類の薬を共に服用する時、効果があります。」人々は先ほどよりもさらに耳を傾けました。「肉体と共に魂の健康のために必ず必要なのは瞑想と祈りと愛です。肉体だけ元気なのは片方の健康です。魂と肉体の両方が等しく元気になってください。瞑想の薬は毎日一定の時間に一生たゆまず服用しなければなりません。祈りは副作用が全くない万病に効く薬です。緊急な出来事がある時は、たくさん服用してもかまいません。愛は常備薬です。いつも服用してください。最も重要な薬です。
医師は、自身が生きている間に悟った重要な事柄を、人びとに分かち合った後、平安な姿で静かに目を閉じました。
私たちは、お金もかからないこの薬をどれくらい摂取していますか?
人はこの地上での問題解決や命を延ばすために必死に生きています。でも人間の死亡率は100%です。死んだ後の永遠を、どこで過ごすのかを真剣に考えて備えなければ、この地上での本当の解決はないのです。
心のオアシス 2012年11月25日
「おまえは他人を救ったが、自分自身は救わないのか?」これは、十字架にかかるキリストに投げかけられたののしりの言葉でした。しかし、この言葉を良く読んでみると未だかつて聞いたことのない、ののしりの言葉だと思いました。多くの人たちは「自分は救えたが、他者は救えなかった」と言うのが常です。今の政治の世界も、「自分たちの生き残りのために、国民(他者)を犠牲にするのか?!」という批判の声をよく耳にします。そう考えるときに、キリストに対する批判の声は、栄誉あるののしりであると思いました。キリストが、この地上に来られた目的は、まさに人々を救うためであって、自分を救うためではなかったからです。人々は、「十字架から降りて来い!」と叫びました。しかし、キリストにとっては十字架から降りることは、いとも簡単なことであったにも関わらず、あえて降りることをしなかったところに奇跡があるのです。人間の考える奇跡と、神の奇跡とには、大きな違いがあることを知らなければ、大きな間違いや勘違いをしてしまうことでしょう。
私たち一人一人の生活や心の中には、思いがけない穴がポッカリと開くことがあるでしょう。そこから冷たいすきま風が吹くことだってあります。それは病気かもしれませんし、大切な人の死であるかもしれません。他者とのもめごと、事業の失敗など、穴の大小、深さや浅さも様々です。全てが、ずっと順風満帆な人生などありえません。その穴を埋めることも大切ですが、穴が開くまで見えなかったものを、穴から覗いて見ることも生き方として大切なことだと思います。開いた穴からでしか見ることができない世界が必ずそこにあるはずだからです。
キリストは、弟子たちの裏切りという穴を通して、自分が創った愛する人々からの、ののしりという穴を通して、十字架での苦しみという穴を通して、希望を見出されていたのです。「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍んだ」(へブル12の2)
心のオアシス 2012年11月18日
先日、ある女性の4カラットのダイヤの指輪を見たんだ。いやぁすごかったなぁ。あのダイヤは5万ドルはするだろう。でも、指輪自体は金のシンプルなもので、大きなダイヤの内側に小さなダイヤがいくつか付いているだけだった。そして、そのダイヤは支えていたのは、5、6本の爪のような形をした台座だったんだ。「あー、あの台座はよっぽどしっかりしていないとダメだな。5万ドルを支えているんだから」と思ったんだ。台座はダイヤほど人の目を引かないけれど、それと同じぐらいの価値があるものなんだ。賢い宝石職人だったら、そんな高価な宝石を、弱くてもろい台座には決して取り付けたりはしないだろうからね。そんなことをしたら、ちょっとどこかにぶつけただけで、宝石が外れてなくなってしまうからね。台座の強さと品質に、宝石の安全性と持続性がかかっているんだ。人格は台座のようなものだと思う。神さまは私たちにすばらしい宝石を用意してくださっている。でも、人格というしっかりした土台なしには、それらの宝石、つまり神さまの約束は、何かにちょっとぶつかっただけで、外れてなくなってしまうだろう。聖霊の願いは、宝石をはめ込む前に私たちの内側に人格を築き上げることなんだ。その宝石は、結婚、影響力のある地位、ミニストリー、財政、あるいは家族かもしれないが、どれも人格が要求されるものだ。だからこそ、宝石をはめ込む前に、まずしっかりとした台座を作る必要があるんだよ。人格を築き上げなさい。赦すことを学び、勤勉で忠実な人になりなさい。すぐにぐらつくことなく、いつも忠実であり続けられるように努力し、責任を持つことを学び、自分の感情に左右されずに自分の確信に基づいて行動できるようになりなさい。「人格とは、一度責任を持ったことを、たとえやる気がなくなってしまっても、最後までやり通すことができる能力である」 (「道ばたの宝石」ウエイン・コディロ著より抜粋引用)
神と人とに愛され、信頼されるためにも人格を磨きたいですね。
心のオアシス 2012年11月11日
アメリカとメキシコの国境を、定期的にオートバイで越えていく一人のメキシコ人がいました。この男は、いつも大きな袋に砂を詰めて、オートバイの荷台に載せて国境を通過していました。国境では当然のことながら、国境警備隊が通過する車両をチェックしています。そこの警備隊は、だいたいいつも同じ人で、週に2度もそこを通過するこのメキシコ人とは顔見知りになっていました。毎回このような押し問答がありました。「お前は週に2度も何を運んでるんだ?」「砂ですよ~」毎週砂の袋をアメリカ側に運び入れるのは、何か怪しいと感じ、毎回4時間近くもかけて、その砂を分析するのですが、麻薬や大麻などの成分は何も出てこないのです。「本当に、砂を運んでいるだけですよ~」いつも同じセリフを、このメキシコ人の男は言っていました。そのようなことが毎週2回、5年間も続きました。5年後、その国境警備隊は引退しました。ある日、メキシコへの旅行先の高級クラブで、高い葉巻を吸っている例のメキシコ人を見つけました。元警備隊は尋ねました。「もう俺は引退したから、お前を逮捕することはできない。本当のこと言ってほしいんだが、一体、毎週オートバイで何を運んでいたんだ?」彼は答えました。「オートバイですよ」実は、彼が乗っていたオートバイはメキシコで盗んだ盗難車で、それをアメリカに持ち運んで、せっせと売りさばいていたのです。砂の袋ばかりに目がいってしまった警備隊には、毎回乗っているバイクが変わっていることに気づかなかったのです。砂の袋は、ただのカモフラージュでありました。
私たちにも、現実ばかりに注目してしまい、肝心なことを見過ごしてしまっていることがあると思います。毎日の仕事や学校、子育て、経済など、現実の問題解決ばかりに気を向けてしまいがちですが、永遠に対する解決はできているでしょうか? 「全世界をもうけても、自分の命を損したら、何の得になろうか」(マタイ16章26節)
心のオアシス 2012年11月4日
アメリカのカントリーミュージックで有名になったリック・バンシェルトンは、公けの番組でこのような話しをしていました。
「1990年前後から、大きな賞を4度も受賞してから、毎回出すアルバムは必ずベスト10に入り、収入もうなぎ上りになりました。私は次々に入ってくるお金で、どこへでも行けるし、どんな物でも手に入るし、したいことは何でもできました。しかし、アルコールに手を出してしまい依存症になりました。次第に私生活は荒れていきました。家にも帰らなくなりました。そして家族も離れていきました。あの当時の私はそれだけの収入を得ていながら、いつも死にたいと思っていたのです。お金は悪いものではありません。しかしその使い方を間違うと人生を破滅へと導いていきます。物があふれていても幸せは心にはなかったのです。ある日、家族のいない家に久しぶりに帰りました。ソファーに座って、何気なくテレビのスイッチを入れると、キリスト教番組が放映されていました。ある牧師が礼拝で賛美を導いていて、それを聴いているうちに涙が溢れてきました。そしてこう祈ったのです。『主よ、私を助けてください。あなたに人生を委ねます・・・』その瞬間に、自分が変わるのがわかりました。救われたのです。クリスチャンであった妻も私が救われたなんて初めは信じませんでした。しかし、確かに私は変わったのです。そして私が確かに変化した様子を見て、家に戻ってきました。今までは自分の願いの実現のために生きていましたが、今は、神が願っておられることが私の願いとなりました。」
「幸せ」は、私たちの願っていることが、かなえば幸せになれると思っている人たちは多くいます。しかしそれは一時的な麻薬のようなものです。人が羨むような生活をしている人の中にも、「自分は不幸だ。死んでしまいたい。」と考えている人がいるのは何故なのでしょうか? それは環境や物質が私たちを幸せにするものではないからです。
永続的な幸せは、天と地を造られた主からきます!
心のオアシス 2012年10月28日
先週、石原東京都知事が、新党結成の表明をした。多くの人たちは驚いたことでしょう。もう引退して悠々自適に生きることができる立場にありながら、自分の安定よりも、誰かが立ち上がって国を何とか変えなければ国民が路頭に迷ってしまうのではないかいう自己犠牲にも近いものがあるように思った。本人も体力は落ちてきていることは認めながらも、日本という国に対する危機感から、何とかしなければという熱い情熱が彼を動かしているのではないだろうか。インタビューで80歳という年齢のことを問われ、「どうしてオレがこんなことやらなきゃいけないんだよ。若い者よ、しっかりしてくれよ!」という言葉がそれを物語っているように思う。石原都知事が何とかしてくれるとか、してくれないとか、新党結成に賛同でも反対でもない立場ですが、その意気込みだけは見習わなければならないと思う。
私たちの教会には、四捨五入すると80歳になられる若者が数名いらっしゃいます。毎週、忠実に教会に来られる方々ばかりである。中には1時間もかけて運転して来られる人もいる。都知事に勝るとも劣らない神さまへの熱い情熱を感じる。結局、若者も壮年も気力を保ち続けることが、いつも活き活きとできる秘訣ではないだろうか。
では、気力はどこから出てくるのか? ウェイン・コデイロ先生の著書によると、私たちの多くがやる気を失ってしまったのは、神様が私たちの将来、教会、家族、そして財政のために、どんなにすばらしいことをしてくださるかということを夢見なくなったからだというのです。神様のために大きな夢を見ることは遅すぎません。神はモーセが80歳の時に星空を見せて大きな夢を持たせました。私たちの夢が自分の生きている間に成就すると考えているならば、遅すぎると感じるかもしれませんが、主は歴史を通じて働かれるお方です。信じた通りになります!
「年寄りは夢を見、若者はビジョンを見る」(ヨエル2の28)
心のオアシス 2012年10月21日
パク・ヨンソン先生が、著書の中で、「愛とは、相手がうまく行けば、自分自身はどうなっても嬉しいのです。自分のことはどうでもいいのです。・・・数年前、ある長老さんと一緒に信徒の家庭訪問に行ったとき、それを経験しました。イチゴが出されたのですが、その長老は、つぶれたものばかり食べるのです。私にいいものを食べさせるためにです。これが愛です。」と書いておられた。確かに私も少なからずそういうことを経験してきた。例えば、親は食事をするとき、見た目の悪いものや、つぶれたものなどを、進んで自分の皿に入れて食べている。これは子には、良い部分を食べさせるために自分が喜んで犠牲になっている姿だと思う。自分は貧乏くじを引いても、子供が喜んでいる姿を見て満足できるのが本当の親の愛の姿です。「親は、つぶれたイチゴや、形の崩れた魚、少し古くなった残り物のおかずが大好き」なんて思っている子供は、まだまだわかっていない子供でしょう。
愛とは、相手がうまくいくようにすることです。ある本に、「何でもうまくやる人間を雇わないように。その代わり、他の人がうまくできるよう手助けする人間を雇いなさい。」とあった。自分がうまくいくように考えている人は、他者の成功を喜ぶことができません。そればかりか嫉妬したり妬んだりするものです。夫婦の関係に、親子の関係に、職場、学舎、友人関係に、相手がうまくいくように歩み始めたら、この世界の悩みの大部分はすぐに解決するでしょうね。
他者がうまくいくためには、自分がどんな茨の道を通ってもお構いにならなかった方がいます。このお方は、あなたの人生がうまくいくように願い、やがては天国へ導きたいと願っておられるのです。人が生きるために自分が損をする生き方を徹底されました。最後には私たちが天国に入ることの障害になっている罪を、全部背負って十字架にかかってくださいました。そのお方の名前は、イエス・キリストです。