礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2013年12月1日

「自分を振り返る鏡」というタイトルのお話です。
 ある町に不満ばかりを言っている人がいました。誰も彼の不満や愚痴から逃げることはできませんでした。ある日、彼は道で旅人に出会いました。やはりその旅人も、彼の隣人に対する不満を聞かされました。「今まで、これほど醜い人たちは初めてですよ。町の人たちはみな、人を助けることを知らず、利己的です。何より悪いのは、互いに中傷するのを止めないんですよ。」
 実は、その話を聞いていた旅人は天使でした。天使が聞きました。「それは本当ですか?」 男は答えました。「私の言うことが信じられませんか?」 するとその男が続けて言いました。「ほらほら、向こうから歩いてくるあの男を見てくださいよ。名前は知らないけど、顔は知っていますよ。あの小さくて切れ長の目、唇には貪欲があふれ、背中を丸めて、ずる賢くペコペコしていますよ。歩いているというより、こそこそと這っているようですね。」 天使が言いました。「あなたはすべてを把握していますね。大変頭の良い方ですね。しかし、あなたには一つ見えていないことがあります。あれは鏡なのですよ。そして、あなたが非難していたあの男は、あなた自身なのです。」

 「他人は自分を映す鏡」と言われます。他者が自分のことを大切にしてくれないと感じる時、実は自分も他者を大切にしていない。また他者の対応に不満を持つ時、実はその対応こそ自分が相手にしている対応であることが多いそうです。
 マザーテレサの愛した祈りの中に、「慰められるよりも慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりは愛することを」というのがあります。私たちは誰かから慰められること、理解され、愛されることを求めています。でも、本当は他者に与えていく人生の方が、幸せなのでしょうね。私たち自身の総点検をしなくてはいかなければ・・・。
 「受けるより与える方が幸いです。」(使徒行伝20章35節)

心のオアシス 2013年11月24日

ある病院での出来事・・・
寝たきりで首も動かせない男性が病室に運び込まれたとき、もう一人の患者が窓際のベッドに横たわっていました。お互いに親しくなると、窓際の患者は窓から外を眺めて、外の世界について詳しく話をしだしました。「今日は良い天気ですよ~。青空にぽっかり雲が浮かんでいます。向かいにある公園の桜が咲き始めたところですよ。」別の日には、「今日は風が強い日ですから、木の葉が揺れて、まるでダンスを踊っているようですよ~」などと、寝たきりで首さえ動かせない彼に語って聞かせてあげていたのです。彼は窓際の男性が語るその光景を想像することで、毎日毎日、心が慰められました。そして、自分も外の世界が見えるように早く病気を治そうと思うのでした。しばらくして、窓際の男性は退院することになりました。もう一人の男性は喜びました。「やった! これで、自分が外の世界を見ることができる。これからは、自分が窓の外の世界を見て新入り患者に話して聞かせてやろう。」看護師にベッドを窓際に移すように頼むと、すぐに聞き入れてくれました。しかし心躍らせて窓の外に目をやった彼は、愕然としました。窓はコンクリートの壁に面していて外の世界など何も見えなかったのです。それから彼は考えました。あの窓際の男性は、一体何を見ていたのでしょう? 彼の目に見えていたのは灰色の壁でした。しかし想像の力で、その向こうにあるものを見ようとしていたのです。そして、ただ天井を見ることしかできず、いつも辛そうにしているルームメイトのために、自分の思い描いた壁の向こうの世界を話して聞かせてくれていたのです。同じ壁を見て、ある人はその壁だけを見ます。しかし信仰の人は、その先にある「希望」を見ます。
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」(ヘブル12章2節) 私たちには揺るがない希望があります!

心のオアシス 2013年11月17日

ある日、一人のクリスチャンが登山に行きました。しかし途中で滑って落ちてしまいました。不幸中の幸いにも崖っぷちに松の木が生えていて、その枝を掴むことができたので、断崖絶壁から落ちることからは免れました。松の木にぶら下がっている状態だったので、一人で崖の上に登ることは不可能です。そこでその男は叫びました。「誰か助けてください! 上に誰かいませんか?」叫んでいると声が聞こえてきました。
神「私がここにいるから心配するな!」
男「誰ですか?」
神「神である!」
男「おぉ、神よ、私を助けてくださったら、私は命をあなたに捧げます!」
神「では、あなたは松の枝を握っているその手を今、放しなさい!」
男「神さま、そんなことをしたら落ちて死んでしまいます・・・」
神「あなたの信仰の通りになるから、手を放してごらんなさい」
しばらくそこに沈黙がありました。そしてその男は上に向かって叫びました。「すいませんが、上に神さま以外の人はいませんか?」
これは笑い話ではありますが、核心部分を突いていると思います。自分の思い通りに事が進んでいる時には、満足できるのですが、想定外のことを差し出されたら、それをなかなか受け止めることができないのが私たちです。
神は、私たち人間を造られたときに、「神のために生きる」というプログラミングをされました。しかし自分のために生き始めた時に、誤作動が生じ、様々な問題が起こったのです。この世の中には、不条理やストレスで満ちています。それは誤作動したまま生き続けようとする人間の罪の結果です。自分のやり方で上手くいかなくなったら、是非、神さまのやり方に委ねてみてください。その第一歩は「祈る」ことです。
「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。」(詩篇121:1・2)

心のオアシス 2013年11月10日

ケント・キースが綴った「それでも」という詩をご紹介します。
人は、わからず屋で、不合理で、自分勝手なものだ。それでも、人を愛しなさい。
人に親切にすれば、利己的な動機や裏があるにちがいない、と人はあなたを非難するだろう。それでも、親切にしなさい。
もしあなたが成功すれば、偽りの友達や真の敵ができるだろう。それでも、成功するために努力しなさい。
率直で誠実であることで、あなたは傷つきやすくなってしまうかもしれない。それでも、率直であり、誠実でいなさい。
あなたが今日した良い行ないは、明日には忘れられてしまうかもしれない。それでも、良い行ないをしなさい。
最も大きな考えを持っている偉大な人たちは、最も心の狭い未熟な人たちに打ち砕かれてしまうかもしれない。それでも、大きなことを考えなさい。
あなたの持っている最高のものを世の中に与えなさい。その結果、ひどい目にあうかもしれない。それでも、あなたの持っている最高のものを世の中に与えなさい。

先日、KCFの青年メンバーが結婚しました。お相手は私がずっとお祈りしていたクリスチャン女性。16年前、本人は当時中学2年生の時、お父様を病気で天にお送りしました。私が葬儀を担当したこともあり、ずっとお祈りしてきましたが、数ヶ月前に彼女がこんなメールをくださいました。「この16年間、色々な辛いことがありましたが、乗り越えることができたのは、神さまにしがみついていたからです。神さま無しの今の私はありません。」牧師の手の届かないところで、神さまが確実に一人の人物に触れ励まし支えていてくださっていたことに心から感謝を捧げました。「それでも」あなたは神さまにしがみついていられますか?

心のオアシス 2013年11月3日

ある青年が仕事の移動中に乗った電車での出来事を投稿していました。
僕の隣には、幼稚園くらいの女の子が、母親らしい若い女性と一緒に乗っていた。途中、駅で片腕のない女性が乗ってきて、僕たちの向かい側に座った。女の子が「お母さん、なんであの人は手がないの?」と、みんなに聞こえる声で言ったので、僕は一瞬ドキッとして、女性と親子から思わず目をそらした。が、母親らしき女性は慌てることなく、女の子に向かって言った。
母親「いろんな人がいるの。みんなが同じじゃないの。あなたにはおじいちゃんとおばあちゃんがいないでしょう?」
女の子「うん、みんなにはいるけど私にはおじいちゃんとかいないね」
母親「うん、いろんな人がいるけど、おじいちゃんやおばあちゃんがいないのは、あなたのせいじゃないでしょ?」
女の子「うん、違う。あ、友達の中に父さんいない子いるよ」
母親「そうで、でもそれはその子のせいじゃないよね? だからね、みんな同じじゃないの。みんなそれぞれ、持ってるものと、持ってないものがあるのよ。でもね、持ってないからといってその人は何も悪くないし、他の人と何も違わないのよ」
 腕のない女性を含めて、車内に乗り合わせていた人たちはみんな暖
かい目でその親子を見守っていた。思わず目をそらしてしまった自分
が恥ずかしくなった。

 マザーテレサは、願っている方向へ物事が進まない時、「私達は急い
でいても、神さまは急いでいらっしゃらないようですから・・・」ま
た経済的な必要に迫られたとき、「お金なら大丈夫です。神のご意志
なら集まります。集まらなかったら、主がお望みではなかったという
ことです」と言いました。神に委ねるなら「今」を満足して生きたい。

心のオアシス 2013年10月27日

「俺の人生は、ヤツに救われた」という投稿された文章です。
一番古い記憶でも、幼稚園の頃から俺はずっといじめにあっていた。友達はいなかったので、本ばかり読んでいた。大学は地元を離れた。今更ねじれた根性が直る訳もなく、やはり俺は一人きりだった。たまたまクラスが同じになり、たまたま俺の前の席に座ったのは、見た目も性格も素晴らしい男だった。しかし俺はヤツを警戒し、接触は極力避けるようにした。しかしヤツは何の気負いもなく笑顔で話しかけてきた。どもって黙っていてロクにコミュニケーションもとれない俺に一方的に話しかけて笑っていた。なぜか俺とヤツは一緒に行動するようになっていた。同じ授業を選び、ヤツの勧めで同じサークルにも入った。とは言え、まだ本音で付き合っていた訳ではなく、一定の距離は置いていた。夏の日、サークルの部屋に入る直前で中の会話が聞こえてきた。同じサークルの女子連中が、「なんであんなのと、つるんでるの?」と聞いていた。今更他人にどう評価されようと知ったことではなかったが、これはヤツの気持ちを知る良い機会ではあった。「おい、今『あんなの』と言ったか? お前らにあいつの何がわかる?! 俺やお前なんかかなわない位、すげー生き方してきてるんだ。 なんでつるんでるか聞いたよな? あいつは『いいヤツ』だからだよ。」その後、ヤツからメールが来た、「サークル辞めようぜ。つまんねぇや」それからもヤツとはつるみ続けて、気づいたら人並みなりの人間関係もできていた。俺の人生は、あの大学のあの日、ヤツに救われたといっても過言ではない。今、何とか真っ当に生きていられるのだから。今でも連絡は取り合っている。骨髄移植が必要になっているようだ。ヤツを死なせる訳にはいかない。明日、会社を休んで病院に行く。きっと俺の骨髄は適合するだろう。しなければならない。それが、俺が生まれてきた意味の一つに違いないはずだから・・・
イエス様とつるんでいれば、万事OK! 何とかなります!

心のオアシス 2013年10月20日

劇作家のウィリアム・シェイクスピアは、「人生は舞台だ。誰もが役者だ。おのおのが自分の役を演じきるのだ」と言いました。
私たちの人生が舞台であるならば、ある人は学生として、ある人はサラリーマンとして、ある人は親として、子どもとして、政治家として、医療関係者として、パートさんとして、植木屋さんとして、男として女として、それぞれの立場で輝いていることによって、神の栄光をあらわすことになるのです。そして舞台総監督は神さまです。そして一人一人が神の歴史の台本を創っているのです。演劇の中にも主役がいて脇役がいます。台本通りにやっていたとしても脇役が出過ぎた演技をすると、その舞台は台無しになるでしょう。また主役が目立っていなければ、それは良い劇とは言えません。たとえ通行人Aであっても、それを控えめに精一杯表現することによって、舞台が引き立つわけです。もし、脇役が、自分は主役になりたかったと言っても、監督があなたを通行人Aにされたわけで、それは必要ない役ではなく、舞台を盛り上げるためには、その役も必要であり重要な存在なのです。
同じように、私たちは、「どうして私は、あの人のようではなかったですか?」「あの人のようであったら、もっと人生楽しめたのに・・・」と言うならば、それは演劇の役に不満足である役者さんのように、舞台監督である神さまに文句を言っているようなものです。神さまが私たちにしかできない必要な「わたし」という存在を与えて、環境を与えたのですから、その中で全力で楽しみながら、喜びながら生きるのです。
マーリン・キャロザース先生の「賛美の力」という著書の中で、こう書いておられます。「わたしたちの人生というドラマの中で、サタンはその役割を演じる俳優であるかもしれません。しかし、神は依然として監督なのです」人生を楽しむためには、わたしたちの総監督が誰であるかを押さえておくことがポイントですね。サタンではなく神さまです!

心のオアシス 2013年10月13日

ある方が投稿された文章です。
12年前に亡くなったおじいちゃんの部屋から、当時小学6年生だった私と一緒に折った紙飛行機が見つかった。懐かしくて手に取ったら、紙が茶けててボロボロで、破れた隙間から何か文字が見えたので広げて見ると、おじいちゃんが当時の私に書いたものだった。
「かなこや、おまえはかわいい わ(わ→私)のたからじゃき だいじに だいじに おおきゅうなるまっで じいちゃが だいじにしたるきな じいちゃは かなこがだいすきじゃ おまんが じいちゃのこと いらんゆうとも さみしいけんど じいちゃは かなこがだいすきじゃきな あんま きらわんとってな かなこが・・・(ここから先読めない)」当時の私はおじいちゃんが好きになれなくて平気で目の前で「いらん」「死ね」って言っていました。こんなに愛されていたなんて、こんなに大切にされていたなんて全然知らなかった。ごめんな、おじいちゃん・・・。
聖書に「神はそのひとり子を賜った(プレゼントする)ほどに、この世(わたしたち)を愛して下さった。それは御子(キリスト)を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)という箇所があります。私たちが「神なんていらない」「宗教なんて嫌いだ」と言っている時にも、神は「あなたがわたしのことをいらないと言っても、わたしはあなたを愛しています。」とメッセージを送り続けています。
おじいさんのラブコールが孫へ届いて、その孫がその愛に気付いて応答することは宗教ではありません。同じように、神が私たちにラブコールをしておられて、私たちがそれに気付き受け入れることを、「宗教」とは呼びません。私はこれを神さまとの「愛のキャッチボール」と呼びたい。神さまから愛を投げても、私たちがそれを受けて投げ返さなければキャッチボールは成立しません。
楽しい人生は、神さまとのキャッチボールから始まります!

心のオアシス 2013年10月6日

行き倒れの人を連れて帰ってきて手当てをしているマザー・テレサに向かって、「あなたのしていることは水の一滴のようなことだ。どうしてあなたは、もっと力のある社会に働きかけて、インドという国を良くしないのですか?」と尋ねる人がいました。その人に対してマザーは、「海の水も一滴の水から成り立っているのですよ」と答えたそうです。この言葉は、私にとって勇気と励ましを与える言葉となっています。
一匹一匹のアリの作業を観察していると、とても大きなことはできないように思えます。砂の一粒を運んでいるアリ、パンくずをどこかで見つけて運んでいるアリ・・・でも、その積み重ねによって、地中に深く穴を掘り、いくつもの部屋を作り、そこで食べて生きているのです。神さまの目から見るならば、私たちの毎日の生活は、どのように映っているのでしょうか? 自分は大きな仕事をしていると思っていても、もしかしたら、神さまの目には、小さな砂の一粒を動かしているほど小さく映っているかもしれません。また自分は何もできない小さな存在だと思っていても、知らない間に、神さまの大きな御業の一旦を担わせていただいていて、神さまが応援してくださっていることだってありえるのです。その小さな存在と小さな働きがなければ、大きな御業は起こらないということなのです。
まさに聖書には、無名でありながら、イエスさまの働きに大いに貢献している人たちが大勢出てきます。国や社会を動かすことも、小さな一人に施すことも、それは神の目には小さなことでしょう。でも、そのそれぞれの小さな存在と働きがなければならないのです。
私たちの毎日の祈り、生活、学び、仕事、何気ない会話も、小さなことですが、その積み重ねが、大きな働きへと変わるのです。教会は2千年間、コツコツと礼拝を守ってきました。しかしそれは次の世代への信仰の継承には、とても大切なことでした。毎日を大切に生きましょう!
「だから明日のことを思いわずらうな。」(マタイ6章34節)

心のオアシス 2013年9月29日

“トムとジェリー 仲良くケンカしな♪”というテーマソングの漫画をご存知でしょうか? 私も小学生時代にテレビで観ていた覚えがあります。猫のトムが、小さなネズミのジェリーを追っかけては、痛い目に遭うというストーリーです。最終回の内容を文章で読みました。ジェリーが大人になった頃、トムはもうこの世にいませんでした。トムは自分の命の終わりがすぐ傍まで来ているのを知ったとき、こっそりジェリーの前から姿を消しました。トムがいなくなったのに気付いたとき、ジェリーは悲しみはしませんでしたが、退屈になるなと思いました。そんなある日、ジェリーの前に一匹の猫が現れました。トムよりのろまで体も小さい猫です。喧嘩相手がいなくなって寂しかったジェリーは、この猫を喧嘩相手にしようと考えました。そこでジェリーは、いつもトムにしていたように、穴のあいた三角チーズが仕掛けられたねずみ取りを利用して、その猫に罠をかけることにしました。ジェリーは物陰に隠れて、待っていました。そして思惑通り猫が罠に向かって近づいてきます。ジェリーは「いつものように、自分がねずみ取りに引っかかるふりをして、逆に猫をねずみ取りにかけてやるんだ!」手か尾を挟んだ猫の飛び上がる姿が頭に浮かび愉快になりました。でも、その猫はトムではありません。猫はチーズの近くまで来たとき、隠れているねずみの匂いに気付き、目にもとまらぬ速さで隠れていたジェリーに襲いかかりました。トムよりのろまなはずの猫にすぐ追いつかれてしまい、体をガブリと噛まれました。ジェリーも噛みつき返しましたが、トムより体が小さいはずの猫は平気です。血まみれのジェリーは薄れ行く意識の中で、本当はねずみが猫と喧嘩して勝てるわけがないことと、いつもトムは「してやられた」ふりをして、わざとジェリーを捕まえないでいたことを知ったのです。その時初めてトムの大きな優しさと友情に気付いたというのです。
イエス様の十字架は、人類に対する敗北ではなく、愛の表れです!