心のオアシス
心のオアシス 2014年2月9日
20年前「和彦さんが交通事故ですって! 病院へ行ってあげて!」母からの電話で病院へ駆けつけてみると、そこには頭を丸坊主にして4本の鉄の杭を打ち込まれ、ヘッドギアをつけて吊るされ血がにじんだ包帯だらけの主人がいました。彼のオートバイと自動車がぶつかったのです。寝たきりの生活が始まり、しばらくしてから心の病が始まりました。大量の薬の服用により、心身が錯乱し自律神経失調症になり、訳もなく荒れ狂うようになったのです。目がうつろで焦点が合わなくなると暴れだします。暴れだすと、私は台所の窓から急いで包丁を外に投げ捨てます。大きな声が響かないように窓を閉めます。明け方まで暴言をはき、気が済むと、うそのようにいびきをかいて寝てしまいます。私は泣きながら仕事に行きました。夕方、家に帰るのは憂鬱でした。当時はイエス様を知りませんから、夫婦にとっての頼りは、精神科の薬だけでした。苦しい毎日が何ヶ月も続いたある日、主人は「オーストラリアに留学したい。」と言い出しました。すべての環境を変えて自分を生き返らせたかったのでしょう。牧場体験のために旅立ちました。しばらくしてから牧場で働くことができなくなり、現地で出会った牧師の紹介で薬物患者のためのクリスチャン更正施設で働かせてもらうことになったという連絡がありました。その施設には、テレビも漫画もなく、あるのは聖書と祈りだけ。主人は、そこで働きながら、イエス様を知り自らが癒され、生まれ変わって帰ってきました。3ヶ月後、彼を迎えに行った私はその変わり様にビックリしました。その時の彼は目が輝き、口にする言葉はキチンとして、そして態度まで別人のようにしっかりとして自信に満ちていたからです。病は全て癒されていました。大量の薬をゴミ箱に捨てた時の、あの喜び溢れる瞬間は忘れられません。そして私の生活も救われました。イエス様を知らなかった私達夫婦の10年間は苦しみだけで頼りは薬だけでした。その薬によってまた苦しめられてもいたのです・・・。
これはA.F.さんの体験談です。現在夫婦でケアホームを運営なさっています。「わが助けは、天と地を造られた主から来る。」(詩篇121の1)
心のオアシス 2014年2月2日
ある人が、魚を釣っていたのですが、釣り上げた魚をメジャーで計って、ある一定以上の大きい魚を全部捨てていたそうです。近くにいた人が疑問に思って聞きました。「どうして魚のサイズを計って、大きい魚を捨てるのですか?」その人は答えました。「これはウチのフライパンのサイズなのです。入らない魚は全部捨てているのですよ~」
私たちは固定概念をもっていて、「こうでなければ、幸せになれない」、
「あの人のような能力がなければ、用いられない」とか「環境が悪い、お金が無いから無理だ」と決めつけてはいないでしょうか? しかし、神さまが私たちに与えてくださっている恵みは、環境や状況には左右されない無限大のものです。肯定的積極的に生きている人は、その恩恵に預かっています。神さまを信じる人は、もっと神さまに近いわけですから、その無限の力を引き出すことができる特権があります。これを使わない手はないでしょう。
オンヌリ教会のハー・ヨンジュ先生は、週に3度、5・6時間かけて透析をしながら牧師としての大きな働きをしておられた人物です。体には良いところがどこもない状況の中で、こう言っておられました。「私には、病気があるから、世界の人々が協力してくれるのです。」 病気は癒されていませんが、神さまが病という弱さを用いてくださっているというのです。もし、病気がなければ、一つの教会が衛星放送をするということは難しかったかもしれません。
聖書には、私たちが鉄の器になれるとは書いていません。離せば落ちて、落ちれば割れる、もろい土の器にすぎないのですが、その中に宝なるイエス・キリストを入れるならば、強くなれるし、輝くことができるし、勇者となることができると教えています。
どんな大きな心の傷を負っていても、弱さがあっても、自己実現ではなく神実現に生き始めると、計り知れない神の力が私たちにあらわれます。神さまのフライパンは、あなたの持っているものより大きいですよ!
心のオアシス 2014年1月26日
「八風吹けども動ぜず」という言葉をご存知でしょうか? この言葉の意味は、「自分を惑わす出来事に動じず、強く心の根を張ろう」です。
自分を惑わす「八風」とは、どのような風なのでしょうか?
一つ目は、「利」(り)=自分の意にかなう利益のこと。
二つ目は、「誉」(よ)=陰で名誉を受けること。
三つ目は、「称」(しょう)=目の前で称賛されること。
四つ目は、「楽」(らく)=様々な心身を喜ばすこと。
五つ目は、「衰」(すい)=意に反する損失のこと。
六つ目は、「毀」(き)=陰で不名誉を受けること。
七つ目は、「譏」(き)=目の前で中傷されること。
八つ目は、「苦」(く)=様々な心身を悩ますこと。
この八つの風は、毎日のように色々な形で私たちに向けて吹いています。これらの風に心揺すぶられながら生きているのが私たちです。有頂天になったり、劣等感に陥ったりで、心もけっこう忙しいです。でも、その振り幅が大きくなりすぎると、高慢になったり、病気になってしまったりするわけです。私たちが八つの風に吹き飛ばされないために、心がけていなければならないことは、自分の立場をわきまえるということなのです。
大津波がきた時に、水が建物に上がってきているのを目の当たりにしながらも、最後の最後まで冷静に津波警報のアナウンスを続けた役所の職員のことがテレビで紹介されていました。死が迫っているのに、どうしてパニックになって逃げなかったのでしょうか? それは自分の立場とその使命をわきまえているから動じなかったのでしょう。
新約聖書の中でパウロは、「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている」と言いました。自分の栄光ではなく、神の栄光をあらわすために生きるなら、心の振り幅が最小限に抑えられます。共に実践してきましょう。栄光在主!
心のオアシス 2014年1月12日
長距離トラックの運転手が、自分の体験を新聞に投書していました。「その日、自分は夜っぴて運転し続けて、あと少しで目的地に到着す
るはずでした。朝の七時頃だったでしょうか、目の前を一人の小学生が、黄色い旗を手にして横断歩道を渡り始めたのです」運転手は疲れもあってでしょう。いまいましく思い、急ブレーキをかけてトラックをとめました。ところが、その小学生は渡り終えた時、高い運転台を見上げて、運転手に軽く頭を下げ、「ありがとう」といったのだそうです。「私は恥ずかしかった。そして決心したのです。これからは横断歩道の前では徐行しよう。そして、もし道を渡る人がいたら、渡り終わるまで待ち、笑顔で見送ろう」
ほほえみ、優しさ、愛は、このようにつながってゆき、溢れてゆくのです。運転手に笑顔で見送られた人は、嬉しくなって、多分、言葉も、態度も、その日一日優しくなったことでしょう。
マザー・テレサがいわれました。「自分がしていることは、一滴の水のように小さなことかもしれないが、この一滴なしに大海は成り立たないのですよ」さらに、「自分は、いわゆる偉大なことはできないが、小さなことの一つひとつに、大きな愛をこめることはできます」。
小学生の笑顔と、「ありがとう」の一言は、それ自体は小さな行いです。しかし、それが次の人につながっていって、相手の心を優しくし、その優しさが溢れていって、社会に、家庭に、平和を作り出してゆくのではないでしょうか。 (渡辺和子著「面倒だから、しよう」より引用)
私たちは一攫千金を夢見、大きな何かをしたいと願います。そして小さなことは無駄だとか、面倒だと考える傾向にあります。でも、結局は小さな積み重ねが大きなことに繋がっていくのだと思います。関西カルバリーフェローシップの開拓3年半も小さな働きでしたが、それが今日に繋がり、毎日毎週のコツコツがリバイバルに繋がると確信しています。 「管理者に要求されているのは、忠実であることである。」(1コリ4の2)
心のオアシス 2014年1月5日
私の次女が高校1年生のとき、受験のストレスでとても苦しんでいました。車で学校へ送っていく途中、娘が車の中で激しく泣き出しました。私は娘のために祈りました。「神様、私の娘が、主がともにおられることを知ることができますように。」切に祈り終えた後、今度は娘がこのように言って泣きました。「お父さん、お父さんはイエス様が本当に心におられるのが信じられるの? 私は信じられない!」私は娘を抱きしめて祈ってあげることしかできませんでした。信じられないと言っているのに、私に何ができるでしょうか。
それから2年ほどが経ったある日、学校に送っていく途中の車の中で、娘が突然こう言いました。「お父さん、私、お父さんがいなかったら神様を信じることができなかったと思う。」その間、インターネットでキリスト教に対する批判的な記事を読んだそうですが、正直、その批判にも一理はあるかもしれないと思うことが多かったそうです。ですから、神はおられないのではないかと思いもしましたが、私の姿を見ると、本当にイエスが心におられるように見えたそうです。学校に着いて車から降りた娘が言いました。「お父さん、もう信じられるよ。イエス様が私の心におられるのを確かに。どうもありがとう。」お父さんのおかげで信仰を守ることができたと、主に出会えたと言ってくれた娘の言葉が嬉しくて、今度は私が泣きました。
「あなたは私を愛しているか」ユ・ギソン著より抜粋
私たち関西カルバリーフェローシップは、開拓3年半の間に数々の奇跡を主が見せてくださいました。「恵みは朝ごとに新しい」とあるように、毎年同じはなく、新しい何かをしてくださいました。神様は2014年でしかない恵みの世界を用意しておられます。期待しましょう!
「あなたを見ているとイエス様が生きて働いておられるのが、よくわかりました。」と言わしめるような者へと成長したいと願わされています。「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」(哀歌3章23節)
心のオアシス 2014年1月元旦
「年始あるある」を集めました。初笑いになるかもしれませんが、これを参考に成長もしたいものです・・・
○思えば「新年の抱負」を実行できたためしがない・・・
あるある46.0% そうでもない54.0%
○新年の抱負を立てるため、昨年の抱負を振り返るものの内容を思い出せない・・・あるある54.0% そうでもない46.0%
○新年にはいつもダイエット宣言をするが、毎回お雑煮の魅力に負けてすぐ終了(29歳・女性)
○毎年、実家で新年の抱負を言わされるのが嫌だ(28歳・男性)
○面倒だから健康に過ごすことを抱負にしてしまう(34歳・男性)
○今年って平成何年だっけ?と年明け早々わからなくなる・・・
あるある49.5% そうでもない50.5%
○「もう出さなくていいか・・・」とやめた相手に限って、真っ先に年賀状が届き、気まずい思いをする・・・
あるある34.5% そうでもない65.5%
○年賀状のやりとりしかない人の事を1年に1回思い出す(30歳・男性)
○年賀状でしかやりとりしかない知人の近況が分かるから、年賀状は止められない(34歳・女性)
※ネオマーケテイング調べ 2013年10月25~28日 全国20~34歳男女200人
人は、いかにいい加減に生きているかということですね。でも主は、
約束されたことを必ず実行されます。そして神の計画が着々と進められ
て行くのです。神さまに期待して今年も恵まれた一年となりますように。
今年の関西カルバリーフェローシップの年間聖句は・・・
「 見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」(イザヤ書43章19節)
心のオアシス 2013年12月29日
ある相談員が、小学4年生の男の子から手紙で、「僕のお母さんに元気になってほしくてプレゼントをあげたいんだけど、お小遣いは329円しかありません。この値段で買えて女の人が喜ぶ物は何ですか?」という相談を受けました。その子の母親はガンで長く生きられないのですが、その男の子はその事実を知りません。その相談員は後日、男の子を連れてデパートに行きました。男の子はお母さんのことを心配しながらいろいろなことを話しました。「お母さんダイエットしてるのかな~? ご飯全然食べないし無理して笑ってるみたいなんだ。300円ぐらいでダイエットのやつ買えるかな? 靴買えるかな? お花買えるかな? でも枯れたら悲しいから、サボテンにしようかな? 手袋買えるかな? でも冬しか使えないよね・・・キャビア食べたいって言ってた! 買えるかな?」その子の母を思う言葉一つ一つに涙をさそいました。
「僕、靴にする!お母さんといろんな場所に行きたいんだ!」靴なんて、とても300円程度では買えません。相談員はその子がトイレに行っている間に靴売り場に行き事情を話して300円で買えるようにお願いしました。もちろん、後から足りない分は、その相談員が払うつもりでした。店員は快く了解してくれました。その子を連れて靴売り場に行くと、300円均一と紙に書いてありました。急いで作ったのか雑でしたが胸が熱くなりました。「これにする!」選んだのは白いヒールの靴でした。後で払おうとしたら「300円ですから、ちょうどです」と笑顔で言われました。感謝の気持ちで胸がいっぱいになったそうです。
今年一年間、表面には見えなくても様々な支えの中で生かされてきました。ある時には人を通し、仕事や出来事を通し、励ましや勇気が与えられました。指を折りながらこの一年の感謝を数えましょう。更に感謝の数が増えることを期待しつつ新しい年を迎えたいと願います。
「またその恵みをもって年の冠とされる。あなたの道にはあぶらがしたたる。」(詩篇65篇11節) 良い年をお迎えください✩
心のオアシス 2013年12月22日
アメリカでの笑い話です。
小さな男の子が、初めて教会の日曜学校のクリスマス会に参加して、そこでクリスマス・ストーリーの新しいイメージを持って、家に帰ってきたそうです。この子は、東方の博士たちが、赤ちゃんイエスさまに贈り物を持ってきたということを、劇を通して学びました。2千年前の世界で最初のクリスマスで起こった出来事を知って、早く両親に伝えたくて仕方ありませんでした。そして家に着くなり話し始めました。「僕ね~、今日、教会の日曜学校で、世界で最初のクリスマスについて学んだの~ えっと、今から2千年前には、サンタクロースがいなかったらしくて、ラクダに乗った3人の痩せた男たちが、オモチャを運んでたんだって。でもね、赤いお鼻のトナカイさんには、まだ明るい光を放つお鼻がなくてさぁ、空から大きなスポットライトで、彼らの行く道を照らしてたみたいだよ~ 昔は、オモチャを運ぶのも一苦労だったみたい~」
キリストの誕生ストーリーが、いつの間にか、この男の子の頭の中で2千年前の子どもたちに贈るオモチャの運び方がどうであったかということにすり替えられてしまったらしい・・・ 私たちは、笑ってしまうかもしれないけれど、果たして本当のクリスマスを理解している人たちがどれくらいいるでしょうか? クリスマス(Christmas)は、Christ(キリスト)とmas(礼拝)が結合して作られた言葉です。ですから、本来の意味は、「キリスト(救い主)を礼拝する日」または「キリストの誕生をお祝いする日」ということになります。このシーズンは、街もクリスマス一色になります。クリスマスケーキや、プレゼント交換、クリスマスツリー・・・楽しい気分になります。でも、本来何をお祝いしているのか忘れ去られています。クリスマスの主人公はイエス・キリストです。主役のいない誕生会なんてありえないですよね? このお方を知れば知るほど、驚くばかりの恵みの数々を体験していくことができるでしょう。
「今日ダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった。」
心のオアシス 2013年12月15日
ビリーグラハム・クルセードが、スコットランドで開催された時、グラスゴーの労働者地区に住み、日雇い労働をしていた一人の男性が救われました。貧しさのゆえに荒れた生活をしていた彼は、その時を境にして、生活ぶりが全く変わりました。教会へも日曜日ごとに忠実に出席しはじめ、仲間に会うと、誰かれとなく教会へ一緒に行こうと誘うようになりました。
ある日、仕事場で顔に刀傷のある、いかつい顔をした男と一緒になりました。以前の彼だったら、今の他の仲間たちと同じように、刀傷の男に近づかないように仕事をしていたでしょうけれども、神様によって変えられていた彼は、進んでその男と組んで仕事をしはじめました。二人は昼食時になり、ガレキの山に腰をおろし、ポツリポツリと世間話を交わしていましたが、彼は「今度、教会へ行かないかい?」と勧めました。突然のことに刀傷の男は「この俺が?」と自らを指しながら驚いた様子でした。しばらく無言の時が続きましたが、刀傷の男は悲しそうな顔をして、こう言いました。「俺なんかダメさ・・・こんな醜い傷を持った俺を、どうして教会が迎え入れてくれるんだ・・・」そうすると彼は言いました。「いいや、俺たちをな、迎えてくれるお方がいるんだよ。そのお方は、お前より、もっと酷い傷が体中に、顔に手足にあるんだよ。」
私たちの顔や体に傷はなかったとしても、目に見えない心の傷はけっこうたくさんあるものです。しかし、この地上で全ての苦難を通られたイエス・キリストが、私たちを理解し迎え入れてくださるなんて本当に有難いことです。
今から2千年前に、キリストは家畜小屋で生まれ、家畜の餌箱に寝かされていました。この貧しい幼子に何ができる?と思えるようなお姿でした。でも神共におられるならば、境遇は関係ありません。
「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエル『神われらと共にいます』と呼ばれるであろう」。(マタイ1の23)
心のオアシス 2013年12月8日
榎本保郎先生が、かつて同志社の神学生であった時、牧師に連れられて路傍伝道へ行かれたときの体験したことを書いておられます。祭りの夜であったせいか大勢の人たちが町に出てきていました。牧師が街角に立って説教をしますが、誰一人足を止めて聞く人はいません。その後、今度は若き榎本神学生がお話をすることになりました。大きな声で「皆さん!」と叫びましたが、やはり誰も足を止めてはくれませんでした。話が終わり何とも言えない気持ちで教会へ引き上げました。その時は、恥ずかしさと信仰に耳をかさない人々に対する怒りで腹が煮えくり返っていたそうです。そんな神学生の傷口にでも塩を塗るかのようにして、前をちょろちょろしていた子供たちが「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」とからかいました。振り向いてにらめつけてやったとのこと・・・ 教会へ帰ると牧師はすぐに感謝祈祷をしようと言われましたが、またそれに腹が立ちました。「何が感謝や! 腹が立ったら腹が立ったっていいじゃないか! そのほうがよほど正直や!」と内心思いましたが、そこで歌った讃美歌536番の歌詞「むくいを望まで、人に与えよ、こは主のかしこきみ旨ならずや。水の上に落ちて流されし種も、いずこの岸にか生いたつものを。浅き心もて、ことを計らず、み旨のまにまにひたすら励め。風に折られしと見えし若木の、思わぬ木陰に人もや宿さん。」歌いながら自分の信仰のなさを恥じたと告白されています。
その20年後、榎本先生は牧師になっておられました。ある日、先生の教会に同志社の神学部の新卒生が派遣されてきて、彼と面接しながら住所を見たところ、かつていた教会の近くだったので、当時の路傍伝道の苦労をお話しされました。彼はその話の終わるのも、もどかしげな表情でこう言いました。「先生、あの時に『アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン』と言ったのは、この僕です。」先生は、あまりにもくすしき神の御業に、しばらく何も言えなかったと証ししておられます。
先週は、何年も祈られ、私も訪問してきた80歳の女性がイエス様を受け入れ、洗礼を受けました! 人の時ではなく、主の時を感じました。