心のオアシス
心のオアシス 2014年4月20日
ある未開の土地に住む原住民には、興味深い風習があります。狩りに出かける途中、棒きれを地面に立てて「獲物を捕ることができますように」と祈願して道を進んで行きます。その日、収穫があれば帰り道に、その棒きれの神さまにお礼を言って帰りますが、収穫がなければ、その棒きれを踏んだり蹴ったりして、挙げ句の果て川に投げ込んで帰るというのです。そしてまた新たな棒きれの神を立ててお祈りするのです。
日本には八百万(やおよろず)の神々がいると言われますが、どうして八百万体もの神々が必要なのでしょうか? それはこの未開の原住民と同じく、自分の願いを叶えてくれなければ、その神を捨て新しい神を作るということを繰り返しているうちに、八百万にも神口(じんこう)が増えてしまったという現実があるようです。又、神さまにも得意分野と不得意分野があるようで、人間の必要用途によって神さまたちが使い分け利用されているようです。そればかりか利用できる神々と、つまらない神々の仕分け作業も行われているというのです。
私はすべての分野において得意とされる神さまに出会うことができたことは、本当に幸いなことだったと思っています。お一方だけで全ての願いに対する必要を満たしてくださるお方なのです。しかもこの地上でのことだけではなく、死後の永遠の世界における行き先の問題までも解決してくださるのです。そして現に私の人生は明るく元気でのびのびとしたものに変えられました。
世界の人々の共通する悩みとして、空白感、孤独感、死に対する恐怖、罪責感が挙げられています。たとえ億万長者になったとしても、有名人になったとしても、地位や名誉が与えられても、この悩みは変わらないそうです。私も14歳の時から、全てにおける解決が与えられました。勿論、日々出てくる様々な問題がないわけではありませんが、平安なのです。生殺与奪の権を主に委ねたら楽になれます。これは本当です!
「空の鳥、野の花を見よ・・・だから、あすのことを思い煩うな」(聖書)
Happy Easter!
心のオアシス 2014年4月13日
東京ディズニーランドにある若い夫婦が訪れました。そして、中にあるレストランで彼らは「お子様ランチ」を注文しました。勿論それは9歳以下とメニューにも書いてあります。子供のいないお客さんにはお断りすることになっています。キャストはマニュアルにある内容以外に一歩踏み出して尋ねました。「失礼ですが、お子様ランチは誰が食べられるのですか?」「私たちにはなかなか子供が授かりませんでしたが、やっと待望の娘が生まれたのです。一緒にディズニーランドへ行こうと願っていましたが、1歳の誕生日を待たずに神さまのもとへ召されました。そこで召天1年目を記念して夫婦でここへ来ました。お子様ランチがあったので、思い出に・・・」そう言って夫婦は目を伏せました。キャストの青年は、「そうですか。どうぞ召し上がってください」と応じて、この夫婦を4人席の家族テーブルに移動させて子供用イスを一つ用意しました。キャストは「子供さんは、こちらに」と、まるで亡くなった子供が生きているかのように小さなイスに導いたのです。しばらくして、運ばれてきたのは3人分のお子様ランチでした。そして「ご家族でゆっくりお楽しみください」と挨拶して、その場を立ち去りました。若い夫婦は失われた子供との日々を噛みしめながら、お子様ランチを食べました。後日、この夫婦からディズニーランドに手紙が届きました。「お子様ランチを食べながら涙が止まりませんでした。まるで娘が生きているようにして家族団欒を東京ディズニーランドでさせていただけるとは、夢にも思いませんでした。これから、二人で涙を拭いて生きて行きます。また来年も来ます。そしていつかこの子の妹か弟を連れて遊びに行きます!」
このキャストがした行動はマニュアル違反です。しかし、先輩も同僚も彼の行動をとがめなかったばかりか、ディズニーランドでは賞賛されました。マニュアルは基本でしかありません。それを超えるところに感動が潜んでいるのです。私たちの罪の代価は私たちが支払うのが当然です。しかしそれを超えたご配慮をしてくださったのがイエス様の十字架での身代わりでした。今週はイエス様の受難週。神の愛に感動です。
心のオアシス 2014年4月6日
彼のバイトする本屋さんで、新人が入力ミスをしました。そして閉店業務をする彼が、千円の帳尻合わせをしなければならなかったそうです。彼は自分の財布から千円をレジに入れたそうです。もちろん返ってこないのに・・・ 「いい人過ぎる」と怒る私に彼は「自分も新人の時にミスをしていたと思うんだ。きっとその時は誰かが同じようにして僕をフォローしてくれていたに違いない・・・」
そういう彼の姿勢を素敵だなと思い、自分の発言がちょっと恥ずかしかったです。(ある人のちょっと良い話より)
ホッコリするお話ですね。私たちも知らないところで誰かからフェローされていることを忘れてはならないでしょう。誰からもフェローされてないと感じる人は、是非知って欲しいことがあります。それは神さまがあなたの尻拭いをしてくださっているという事実です。
あるコラムにニコロ・パガニーニというバイオリニストのことが書いてありました。彼は大変重要な演奏会で公演中、突然バイオリンの弦が一本切れてしまいました。しかし彼は慌てることなく、残った三本の弦で演奏し続けました。ところが、しばらくするともう一本切れたのですが彼はそのまま演奏を続けました。そしてついに三本目の弦までもが鋭い音とともに切れてしまいました。それでも彼は諦めることなく、残りの弦一本で最後まで演奏しました。その出来事が、「弦一本のパガニーニ」と呼ばれ世界的な演奏家として有名になる機会になったそうです。
私たちは「人生」の演奏中に、私たちの期待や意思とは関係なく、健康、若さ、お金、仕事、事業、人間関係などの弦がプツンプツンと切れてしまうことがあります。でも最後に残った弦だけは決して切れることはありません。それは神と私たちをつなぐ「愛の弦」です。この世のすべてが切れてしまっても、この弦だけは切れません。ですから諦めないで落胆しないで神さまのフォローを信じて最善を尽くしたいものです。
「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがない」(聖書)
心のオアシス 2014年3月30日
1860年代、米国シカゴにホレーショウ・スパフォードというクリスチャンの実業家がいました。彼の事業は大きな成功を収め、愛する妻、息子、4人の娘たちと幸せな家庭を築いていました。通っている教会においても大きな貢献をしていました。1871年。そんな幸せに満ちた彼の家庭に悲劇が訪れました。シカゴの大火事によって息子を失い、彼の事業にも大きな損害を受けました。しかしそんな状況に追いやられたにもかかわらず、彼と妻は大火によって被害を受けた人々のために財と時間を費やし捧げ、多くの人々に助けと励ましを与えました。ある時、彼と家族はヨーロッパで休暇を過ごすために汽船を予約しますが、スパフォードだけが仕事の関係でやむなく別の便でヨーロッパに向かうことになりました。先にヨーロッパに向かった彼の妻と娘たちを乗せた汽船は航海中に船と衝突し、妻は救助されましたが、娘たちを全て失いました。スパフォードはその悲報を受けて妻の待つヨーロッパに向かい、航行中の汽船のデッキから娘たちを呑み込んだ海を、深い悲しみの中で見つめていました。そんな悲しみに打ちひしがれた彼の心を誰も慰めることは出来なかったでしょう。しかし大海原を見つめるスパフォードの心を驚くほどの平安が包み込み始めました。「愛する娘たちとは再び天国で必ず会える!」その慰めを直接神さまから与えられました。そしてその時に書き記した詩が、教会で愛される讃美歌となったのです。
安けさは川のごとく 心 浸す時
悲しみは波のごとく わが胸 満たす時
全て 安し み神 共にませば (聖歌476番)
先日、中学以来の同級生数名と33年ぶりに再会しました。とても懐かしく走馬灯のように昔がよみがえりました。でもあと何年か、何十年かすれば必ずこの世を去ってお別れする日がくるのは避けて通れない現実です。この地上で再会できても、もし天国で再会できなければ、それこそ本当に悲しいことです。主よ、友と天国で再会できますように!
心のオアシス 2014年3月23日
ある男が川にいました。大雨が降って川が増水して、人々は避難をし始めました。そしてその男にも「早く逃げないと危険だぞ!」と声をかけました。しかし男は言いました。「私は、祈っているし、愛されているから、神が私をどこかへ移されるから大丈夫。」大雨は降り続いて、川の水位が上がりました。無線の連絡を受けた救助隊がボートから男に叫びました。「そこの人! 避難しなければ危険だぞ!」しかし男は答えました。「私は神がどこかへ移してくださるから大丈夫です。」そうこうしている内に、ますます水位は上がりました。しばらくして、ヘリコプターが飛んできて、メガホンで叫びました。「ハシゴを垂らすから、それにつかまりなさい!」しかし男は言いました。「神が安全な場所に連れていってくれるから大丈夫!」 そしてこの男は水にのまれて死んでしまいました。その後、彼は天国の門に立って、神に面会を求めて言いました。「私は、あなたに祈りました。信じていました。愛されていると思っていました。なのにどうしてこんな目に遭うのですか?!」神は驚いて言いました。「私は、あなたを愛しているゆえに、祈りに応えて助けるために無線の連絡と、ボートとヘリコプターをあなたに差し向けました・・・なのにどうしてあなたはここにいるのですか?!」
私たちは、神さまは私たちの考えている方法で、私たちを助けてくださると思っています。「このように助けてくださるはずだ、いやそうでなければならない・・・」という自分の思い込みでお祈りしていると、違った方法で助けてくださろうとしても、そこに気づかないことが多いのです。それは私たちの考えであって、神さまの考えておられる方法は全く違うことがあるいうことが言えます。
私たちは、「今」という点しか見ることができませんが、神さまは、「歴史全体」を永遠という時空からご覧になって、最善を成されるのです。私たちにとって応えられていないような現実があっても、神の最善が成されているのです。神の側に立つ人生には、本当の安らぎがあるのです。
心のオアシス 2014年3月16日
英語の深い内容の詩を見つけたので、訳してみました。
人がささやきました。「神さま! 私に語りかけてください。」
その時、ひばりが歌いました。でも人には聞こえませんでした。
人は叫びました。「神さま! 話してください!」
するとカミナリが空に響き渡りました。でも人には聞こえませんでした。
人は見回して言いました。「神さま! あなたを見させてください。」
すると星が明るく輝きました。でも人は見ませんでした。
人は大きく叫びました。「神さま! 奇跡を見せてください。」
すると、生命が生まれました。でも人は気付きませんでした。
人は絶望の中で、大声で泣き叫びました。「神さま触れてください。
ここにおられることを教えてください。」
そこで神さまは手を伸ばして、その人に触れました。
でも人は、そのチョウを払いのけました。そして歩き続けたのです。
私は神様が、小さな単純な出来事の中にも、私たちの回りにいつもいてくださるということを示してくださっていることに気付きました・・・
私たちは、神さまに何を期待しているのでしょうか? 何を求めているのでしょうか? 私たちは、神さまが直接声をかけられることを望み、特別な何かが起こることを期待します。私たちは、私たちの考える方法で神さまは答えてくださると思い込んでいるのです。しかし、神さまは神さまの方法で答えられるのです。天地宇宙を造られた神さまのお考えを、到底私たちの小さな頭で理解できるはずがありません。もし理解できたならば、あなたが「神」を超えたことになるでしょう。理解できないところに、神の偉大さがあるのです。神さまは緻密な設計図と計画によって、あなたを完璧に造られました。あなたは奇跡を見たいですか? 鏡を見てください。あなたの存在自体が奇跡だということにお気づきにならないでしょうか?! イエス・キリストは昨日も今日も同じです。
心のオアシス 2014年3月9日
私は学生時代に、自分の利害や名誉のために争い勝つことが、いかに愚かなことであるかを体験したことがありました。
当時、学生専用のアパートに他の3人のルームメイトと住んでいましたが、ある日の夜、その中の1人と、あることで口喧嘩になりました。冷静に考えると、どう考えても私の方が悪いのですが、意地でも相手に譲りませんでした。その次の日は、お互いに顔を合わせず、挨拶もしないでそれぞれの大学の講義へ出かけて行きました。夕方、私は帰ってきたのですが、彼と顔を合わせたくないので、自分の部屋に閉じこもり、リビングには出ませんでした。やがて彼も学校から帰ってきました。彼は帰ってくるやいなや一直線で、私の部屋の前に来て、ドアをノックしました。ドアを開けると彼はすぐに「アツー(私のあだ名)、昨夜はごめん・・・友達のしるしに・・・」と言いながら、握手しようと手を出してきました。私は自分の方が悪いのはわかっていましたし、私の方から謝るのが当然な状況で、まさか相手から謝ってくるとは予想もしていませんでした。ですから返す言葉に困りました。照れもあって、すごすごと手を出して握手するのがやっとでした。その時に私は「負けた・・・」と思いました。自分から謝らなかったことが、惨めでした。実は、彼は私より10歳近く年上でしたから、私の言動は生意気以外の何ものでもありませんでした。しかし彼は一日中、考えたのでしょう。そして、その結論が「自分が愚かになろう。」ということだったのです。私より人生経験が長く、私の方が間違っていることを承知の上で、あえて負けることで勝利したのです。私は謝られた側でしたが敗北感でいっぱいでした。
2千年前、イエス・キリストは、人々の嫉妬と危機感と群集心理によって十字架につけられました。全くの冤罪でした。人々から罵られ、あざけられ、世を呪っても許されたであろう状況の中で発せられた祈りの言葉は、「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。」この愚かさが、神の強さでした。キリストは甦り勝利されました。負けることができる人こそ、真に強い人なのです。
心のオアシス 2014年3月2日
我が家は5年前に父が他界し、慎ましいながら神を愛する家庭だった。
イースターを前にして牧師が、「お金を貯めて、この教会の貧しい家族に献金しましょう」と呼びかけた。私たち家族は、どのようにしてお金を貯めようかと相談した。ジャガイモだけを食べるとひと月に2千円は貯められる。姉はベビーシッターをする。小さい私たちはポットホルダーを20個作って、1個100円で売れば2千円になる。薄暗い部屋で「今日はいくら貯められたかな」と計算し、「これで貧しい家族を助けることができたら嬉しいね」と話し合った。イースターの朝はあいにく雨だった。傘もないし、靴には穴があいていた。頭から足先までびしょ濡れになった。でも献金を捧げることができるということが嬉しかった。献金袋が回ってきたので、母と姉の分を合わせて合計7千円を捧げた。捧げることができた喜びで、スキップするようにして家に戻ってきた。
夕方、牧師が私たちの家を訪ねてきた。礼拝で集めた献金を届けてくれた。『貧しい家族』とは私たちのことだったのだ。教会に行くのが恥ずかしくなった。私たちが貧しい家族だとは今まで思ったことがなかった。確かに私の家では、贅沢はできないし、特別な日にもご馳走はない。母が牧師から受け取った封筒を開けてみると8千7百円入っていた。次の礼拝の日、母は気の進まない私たちを連れて教会へ向かった。説教者は海外から来られた宣教師だった。「小さな会堂を建てていますが、屋根を作るお金がありません。是非ご協力いただけないでしょうか?」と訴えた。献金袋が回ってきたので、母は私たちを見て、教会からいただいた献金8千7百円をそのまま捧げた。礼拝後、宣教師は「皆さん、この教会にはお金持ちがいるのですね。集めたお金は1万円でした!」 一万円のうち私たちが捧げたのが8千7百円だ。宣教師がお金持ちと言ったのは私たちのことだ、と思った。私たちはけっして貧しくないのだ。
この記事を読みながら、その教会が行なった献金のやり方には問題があると思いますが、大切なことを教えられたような気がした。私たちの心の持ち方で、その人自身が幸せにも不幸にもなれるということです。
心のオアシス 2014年2月23日
アメリカで用いられているT.D.ジェイクス先生が、体験談を話してお
られます。先生は少年時代からタバコを吸っていたそうです。親にバレないように香水をふりかけ、窓越しで吸って、臭いが部屋にこもらないように気をつけていましたが、何度か母親に見つかって、怒られ、おしおきされました。しかし、止めることができなかったのです。ある時、クリスチャンになってから18ヶ月間、タバコを止めることができたそうですが、教会でつまずくことがあって、それから又、吸うようになったそうです。しかし、2度目の時は、なかなか止めることができませんでした。それは神学校で勉強している時も続いていました。止めなければならないと苦しんでいたある日、父親が吸殻を発見してしまいました。しかし何も言いませんでした。自分から父親に正直に告白しようと思い言いました。「お父さん・・・実は自分にはある問題があるんです・・・」お父さんは、言葉を遮るようにして、こう言ったそうです。「あ~わかってるよ~ わかってるよ~・・・神さまはね~ あなたを大きく用いてくださると思うんだ。でも、神さまがあなたに対して持っておられる大きな計画が、こんな小さな物に妨げられたら、もったいないよな~」それから数日後、祈りました。「神さま! 私の人生における神さまの計画が、こんなちっぽけなつまらないもので妨げられているなんてたまりません!」その時以来、思いを変えて、神さまに問題をお委ねしてから、全く解放されたそうです。
私たちの楽しいはずの人生が、ちっぽけなことで狭められていること
はないでしょうか? それはタバコやお酒などの依存性だけではありません。憎しみ、怒りっぽさ、嫉妬や高ぶりかもしれません。それらはちっぽけなことではないと思われるかもしれませんが、よく考えてみると、小さなことなのです。でも、それが私たちの心を縛ってしまうので、楽しいはずの人生を台無しにしてしまったり、幸せの伸びしろの領域を狭めてしまっているのです。私たちの最大の敵は自分自身かもしれません。私たちの思いや考えを変えることを主が助けてくださいますように。
心のオアシス 2014年2月16日
ある父親が、思春期の息子さんのことで大変苦労していました。彼は
野球のコーチをしていたのですが、そのチームの中に、母子家庭で育ち、学校では色々な問題を起こしている一人の少年がいました。このコーチは、練習や試合の後に、自分の息子と一緒に、その少年を家に連れ帰って、食事を出したり、宿題を手伝ってあげたりして、ある時は家庭教師として、ある時には、父親のような存在として、その少年と関わっていきました。そうする内に、徐々に自分の息子さんとの関係が良くなり、絆が深まり、以前とは全く違って、親子関係が改善されていったそうです。後日、この父親は、「あの少年の必要を満たしてあげることによって、神さまは私自身の必要を満たしてくださいました!」と告白されました。
私たちは、こう考えます。「この問題が片付いたら他者を助けよう。」
「もう少し収入が増えたら、与えるものになろう。」「子どもが成長したら、他の子の世話をしてあげよう。」私たちは、まず自分が満たされることを望み、そうしなければ他者を助けることはできないと思い込んでいますが、不思議にも神さまは、私たちに自分の問題を解決する力がないにも関わらず、他者の問題を解決する力は与えてくださっているのです。
ヨエル・オースティン牧師は、こうメッセージしておられました。「困難の中にいる時に、落胆するのではなく、誰か困っている人を助けてあげるのです! 神さまに問題を解決してほしいのならば、あなたがまず誰かの問題を解決してあげるのです。もし、誰かの一日を救うなら、神さまがあなたの一日を救ってくださいます!」
聖書が教える祝福の原則は、「まず受けよ!」ではなく、「与えよ!」なのです。そうすれば、自分にも与えられるというのです。どのようにして与えられるかは次の通りです。「人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量る量りで、自分にも量りかえされるであろうから」(ルカ6:38)
実践してみましょう。 必ず神さまが助けてくださるでしょう!