礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2023年10月1日

 私たちの教会は、不思議なことに子どもたちが集まるようになった。夕拝をしている堺チャペルにも親に連れられてくる子が5,6名いて、礼拝の裏でキッズクラスをしている。日曜日の花園チャペルは、朝9時ごろから堺チャペルへ出発するまでの午後3時半まで小学生が入り浸っている。平日も学校が終わる時間帯にチャペルにいると芋づる式に10人前後が遊びに来る。私はそこまで子どもたちと関わることは望んでいなかったが、今は名前を覚えるように努力し、娘と共に登下校時に旗を持って横断案内するアイガード(見守り)になり、昨日は近所の小学校の運動会に来賓として招待され観覧させていただいた。いつまでこの波が続くかはわからないが、主が導かれるまでさせていただくしかない。
 無邪気に遊ぶ小学生たちには何も悩みがないように見えるが、一人一人と関わっていくうちに“闇”の部分も垣間見えてきた。複雑な家庭環境、友達ができない孤独、人間関係の亀裂など大人だけではなく子どもたちも傷つき悩んでいるということに気が付かされた。居場所を求めて教会に来ている子もいるだろう。しかし教会にはそのような子たちに伝えるべき“お方”がおられることを感謝している。これは世の中の児童カウンセラーには持ち合わせていない“答え”であり“解決策”である。
私も留学時代に言葉も通じない、友達もいない孤独を味わい夜空を見上げながら涙したことがあったが、この“お方”が私の友となってくださり、孤独の壁を乗り越えていくことができた。その“お方”の名前は、「イエス・キリスト」。このお方に、私たちの救いと希望と答えと解決と励ましがあることを伝えたいゆえに私は牧師になった。そして人々が変えられていく姿を実際に見させていただいてきた。このお方を心にお迎えする人生は、そうでない人生よりも格段の差がある。イエス・キリストにお任せすることにより与えられる平安と満足は計り知れない。この恵みをすべての人に伝えたい。
 いよいよ必要に迫られて来月から毎月第一週目の土曜日に土曜キッズクラスを開始する。皆さまの祈りあっての教会です。栄光在主。

心のオアシス 2023年9月24日

 ある小説家が、「わたしは人里離れた場所に数ヶ月こもって一つの作品を生み出すが、牧師が毎週違う説教を産み出すことができることに驚きを覚える」と言っていた。確かに私も牧師になる前から毎週のメッセージを考えるなんて自分には絶対に無理だと考えていた。しかし神さまの私に対する計画は、“その道”に進むということだったようで、今は一つの教会の牧師として13年間毎週の説教を全うすることができた。今から振り返ってみても「これは権勢によらず、能力によらず、わたし(神)の霊による」(ゼカリヤ4:6)の通り神業だと思わされている。勿論、人間の側の努力はしなければならないことは自覚しているので、日曜日が終わったら、すぐに次の週のメッセージに取り掛かる。祈りつつ聖書箇所の研究をし、なるべく平易な言葉で、初めて教会に来られる方々にも伝わるように原稿を整える。私の場合は連続講解説教(聖書の中の一定の文書を連続して説き明かす)に、主題説教をブレンドした説教法を用いることが多いが、この場合、説教箇所は順番なので選ぶ必要はないが、、難解な箇所になった時に飛ばすことができないという難点もある。しかし、どのような箇所であっても、説教者側の祈りと努力の結果を、聖霊さまがお運びなさるなら、人の心に必ず届くということがわかってきた。
 先々週と先週は連続で新来会者が来られた。それぞれの聖書箇所は、へブル書9章と10章。読まれたらお分かりいただけるかと思うが、初めて聖書に触れる人が読むべき箇所ではない。百歩譲って雄弁にわかりやすく語れたとしても、その箇所の内容そのものが初心者向けではない。ただひたすら主に祈った。礼拝後にそれぞれの新来会者からの感想は「とてもわかりやすく解説くださり、よく理解できました。そしてとても感動しました。週報に書いたあった入門講座を是非受けせて欲しい」と、早速その日にちが決まった。驚いた私は思わず「ほんとですか? あの内容でですか?」と言ってしまった。「初心者は、読んでわかる聖書箇所でないと届かない」というのは牧師の思い込みで、神さまのやり方は、人間の考え方とは違うのである。私たちが諦めても神は奇跡をなさる方。

心のオアシス 2023年9月17日

 先週は長崎の旅から考えさせられたことを書いたが、今週もその続きになる。ポーランドのカトリック司祭であったマキシミリアノ・マリア・コルベ神父は1930年から6年間、長崎に住んでおられた時期がある。今回の旅の中で、コルベ神父が1年間住んでおられた家を訪問した。現在1階はショップと資料館になっていて3階にはオーナーが住んでいる。
 ポーランドに帰国してから5年後、ナチス軍に逮捕され収容所へ送られ、1941年7月末、収容所から脱走者が出たことで無作為に選ばれ10人が餓死刑に処せられることになった。囚人たちは番号で呼ばれていったが、フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と泣き叫びだした。この声を聞いたとき、そこにいたコルベ神父は「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。責任者は、この申し出を許可する。コルベ神父と9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められた。通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベ神父は毅然として他の囚人を励ましていた。時折牢内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルゴヴィツは、「牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた」と証言している。2週間後、当局は神父を含む4人はまだ息があったためフェノールを注射して殺害した。通訳者はこのときのことを次のように証言している。「マキシミリアノ神父は祈りながら、自分で腕を差し伸べました。私は見るに見かねて、用事があると口実を設けて外へ飛び出しました。監視兵が出て行くと、もう一度地下に降りました。神父は壁にもたれてすわり、目を開け、頭を左へ傾けていました。その顔は穏やかで、美しく輝いていました。」
 聖書的ではないが、私は「あの人の問題を私が受けますので、病を受けますので助けてあげてください」などと身代わりの祈りをすることはあるが、コルベ神父のことを考えると自分はまだまだだと思わせられた。それを考えるとイエスさまの身代わりの十字架は想像を絶する。

心のオアシス 2023年9月10日

 8月末にキリシタンの足跡を辿るべく友人牧師と共に長崎の旅をした。今のカトリック教会は、そんなに伝道熱心とは思えないが、16世紀のヨーロッパのカトリック宣教活動には目を見張るものがある。まず飛行機などない時代に、木製の帆船で何ヶ月もかけて日本まで来ることはそれだけでも命懸けであった。この時期に日本へ伝えられたキリスト教は、秀吉から家康の時代にかけて繁栄から激しい弾圧と約250年間にわたる潜伏、そして奇跡と復活という世界でも類を見ない歴史をたどっている。当時の残酷な拷問や処刑方法などは目を覆いたくなるような内容であった。懸賞金のかかった密告が横行する中で、信仰を捨てず生き延びようとするキリシタンたちは二つの道を進んで行く。その一つは「潜伏キリシタン」である。彼らは表向きには寺の檀家や神社の氏子になりつつ、自分たちの秘密組織で信仰を続けていた。そしてキリスト教解禁後に「実はわたしはキリシタンでした」と言ってカトリックへ復帰していった。きちんとした指導者の下へ戻った彼らの信仰は、正しく軌道修正されていったが、もう一つの道、すなわち解禁後も教会へは戻らず自分たちの居心地が良いと感じる道を選んだ人たちは、独自の信仰と様々な宗教との融合へと進んでいった。資料館などの記事によると、彼らはもはや別の宗教となってしまった。これを「隠れキリシタン」と呼んでいる。実は今回知ったのだが、この人たちはまだ現存していて、今も「隠れキリシタン」と呼ばれているとのこと。彼らはいくつかの集落を作り、それぞれが独自の融合宗教を形成していった。そして今は、家族単位のみでその文化や教えを継承していっているが時代と共に衰退している。残念なことであるが改めて“教会”に繋がる大切さを学ばせてもらった。
 「ユーチューブ礼拝より、やはり実際に会堂で礼拝すると恵まれ方が違う」という話題をよく耳にする。今の時代は便利にはなった。事情で教会に足を運ぶことができない人たちにとっては絶対に活用すべきツールである。しかし実際に足を踏み入れることによる恵みも大きい。今回の長崎の旅がそうであった。「百聞は一見にしかず」

心のオアシス 2023年9月3日

 花園チャペル周辺地域に何か貢献できないかと考え、先日、小学生の登下校時の見守りボランティアをしようと近所の小学校の校長先生と教頭先生にご挨拶に行った。校区が広くて700名も生徒がいる小学校だが花園チャペルが建って1年間にすでにその1割が教会に出入している。挨拶が終わった時に丁度チャイムが鳴って、生徒たちが帰る時間と重なった。校長先生と共に生徒たちに声をかけながら見送らせていただいていたが、子どもたちが恵先生と私を見つけて群がってきて、「一緒に帰ろう」とせがんでくる。この光景に校長先生は驚いておられたと思う。
 前にも書いたが、平日にも花園チャペルには子どもたちが遊びにくる。人間的には執務中だと相手をしたくない時もあるが、長い目で見る種まきだと思い受け入れる。日曜日の午前と午後の礼拝の最初の賛美の部分に10名前後の子どもたちが座っていることが多くなった。途中から別室で子どもの集会をしているのだが、何も知らない子どもたちは会堂でおしゃべりしたり立ったり座ったりと落ち着かない子もいる。牧師としては「もう会堂に入らないように」と言いたくなるが、イエスさまに近づいてくる子どもたちを拒否する弟子たちに、「イエスは憤り、彼らに言われた、『幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない』」(マルコ10:14~15)の聖書箇所がすぐに私の心を駆け巡り拒否する気持ちを抑えることができる。私は子どもたちに対する重荷がこんなに与えられるとは思ってもみなかったが、日ごろから「神さまの道具として用いてください」と祈っている通りにならなければならないと自分を戒め、今まで人任せであった子どもたちの名前も覚えて祈るように追い込まれている。
 そのような中で、近所の小学6年生の女の子がクリスチャンではない保護者の許可を得て本日受洗する。最初は遊ぶために来ていたが、献堂してから1年近くほぼ毎週通ってきた。ただただ嬉しい。栄光在主。

心のオアシス 2023年8月27日

 1900年前後に、アメリカの大リーグで活躍した奪三振王がいる。その名はサイ・ヤング選手。彼が亡くなった翌年に、その偉業を称えて、サイ・ヤング賞が設けられ、毎年優秀な選手に贈られることとなった。ヤング投手は現役時代に記者から「あなたはどうして多くの三振を奪うことができるのですか? その秘訣は何ですか?」問われた時、こう答えた。「僕は投げる時、対戦するバッターがどんな選手であっても、気にしないで自分のベストを尽くすだけ。悔いがないように投げたら、あとはバッター任せなんだ。相手が打っても打たなくても、心は揺すぶられることはない。なぜなら自分がベストを尽くした結果なんだから。」ここから「私たちはベストを尽くして、結果は神さま任せ」という私の名言(?)が生まれた。世の中は、自分の求める結果を残すために必死に生きている。だから結果が残せなければ自分を否定したり、他者を責めたりもする。悔しい思いをバネにして次に生かそうとする人もいるが、そこには多くのストレスがかかる。もしベストは尽くしながらも、結果には拘りを持たなければ、継続することが容易になる。私は教会開拓はこの気持ちが大切だと思っている。結果は神さまが与えるものだと考えるなら、たとえ会衆が1名であっても、それが何年続いたとしても、悩むことはない。やり方を試行錯誤しながら全力で主にお仕えしていくだけである。「神実現の人生」という言葉も、ここからひらめいた。“自己実現”を求めると苦しくなっていずれはやっていけなくなる。でも“神実現”に生きたら、自分はただ神さまに用いていただく“道具”だという意識があるので、神さまがご自分のお好きなように全てを導いておられるという安心感のあるおめでたい生き方ができる。しかしその“道具”が何もしなければ、それはただの怠慢である。全力を尽くすことを聖書は教えている。そして“委ねる”のは、その“結果”である。
 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8章28節) これを信じれば委ねることはできる。

心のオアシス 2023年8月20日

 怒涛の二週間に渡る3つのキャンプが終わり、夏が過ぎたような気分になっている。私たちの教会の大人しく(?)他教会とあまり交流のない若者たちが、しかも泊まりで参加してくれるかが心配であったが、応答してそれぞれのキャンプに分散して参加してくれた。嬉しい限りです。それぞれがイエスさまに従っていきたいという決意を新たにして帰ってきた。そして他教会の同年代の人たちからも良い刺激を受けてきた。実りある良い収穫だったと思う。それぞれのキャンプの若先生方は表裏の奉仕を全力で仕えてくださり大変感動した。
 私たちは何か事を成し遂げたりしたときに「自分を見てほしい」「話を聞いてほしい」「誰かに褒めてほしい」といった「他者から認められたい」という承認欲求がある。それは誰もが持っている自然な欲求ではあるものの、時には自分自身を苦しめたり、周囲の人を不快な気持ちにさせてしまったりと、強すぎる承認欲求には良い影響を及ぼさないものもある。世の中の奉仕やボランティアの中には、自己アピールのためにしているケースも少なからずあるようだ。しかし「誰の目に留められていなくても、神さまが知っていてくださるなら、それで十分」という主にある働きは、褒められても指摘されても、有頂天にもなることなく腐ることなく前向きに生きることができる。そういう意味において、どのキャンプの奉仕者も、そのような姿勢で働いておられた。
 星野富弘さんがこのような詩を書いておられる・・・
  誰がほめようと、誰がけなそうと、どうでも良いのです
  畑から帰ってきた母が でき上がった私の絵を見て
 「へえっ」とひと声 驚いてくれたら それで もう 十分なのです

 八風吹いても動じない生き方ができれば、どんなに楽かと思わされる。そのためには信頼できるお方、イエスさまが私たちを「へぇっ」って受け留めてくださっていることを知ることが大切だと学ばされる。私もその領域に近づけるよう主を見上げて歩んでいこうと思う。

心のオアシス 2023年8月13日

「むくいをのぞまで」(讃美歌536)  
① 報いを望まで 人に与えよ こは主の賢き み旨ならずや 
  水の上に落ちて 流れし種も いずこの岸にか 生いたつものを
② 浅き心もて 事を計らず み旨のまにまに ひたすら励め
  風に折られしと 見えし若木の 思わぬ木陰に 人もや宿さん
 これは好きな讃美歌の一つである。文語調なので若い人らちが理解できるかどうかわからないが、とても深く味わい深い。福音宣教にしても祈りや親切も、時として手ごたえがなく虚しさを感じることもある。バイブルキャンプや学生キャンプで恵まれても、現実に引き戻されてからどれだけの子どもたちがそれをキープできるだろうか? 命懸けで伝えても届いていないようにみえることもある。しかし、時が良くても悪くても・・・すなわち人々の心に福音が届いていても届いていないように見えても福音は伝え続けていかなければならないのである。上の讃美歌にあるように報いや良い反応を願って福音を伝えてはならない。無駄、無意味に思えたとしても、福音の種はどこかにたどり着いたときに実を結んでいくものである。私たちの浅はかな考えによって判断してはならない。教会の中で一番手に負えない子どもが献身者になることだってある。これこそが「権勢によらず、能力によらず、神の霊による」という御言葉のとおり神の業なのである。
 夏休みに入ってからも私がチャペルで執務をしていると時々近所の子どもたちが「遊んでいいですかー」と訪問してくれる。忙しい状況だと「今日は拒否しよう」という思いが心をよぎるが、主は瞬時にその思いを改めさせられる。「この子たちの数十年後の姿を考えてみなさい。青年となり親となって自分たちの子どもたちに『あの教会は安心できる場所だから、行ってもいいよ』と教える立場になるのだから、子どもたちを拒否してはならない。彼らはやがて教会のインフルエンサーになってくれるのだから」。私たちの計画なんてちっぽけなもの。神さまの計画に委ねよう。さて、今週も若者キャンプは続く。種を蒔き続けよう。

心のオアシス 2023年8月6日

 今週から怒濤の2週間が始まる。コロナも感染症第5類に落ちて青年や学生、小学生のキャンプが各地で再開しているが、私たちの教会が関わっているキャンプが3つ連続で行なわれる。参加するだけでも1つのキャンプだけで疲れるだろうが、実行委員側として3つ連続でとなると大変なことである。打ち合わせをしていても、どのキャンプのことを話し合っているのかわからなくなる。すでに各キャンプ60人前後が集まる予定となっている。次世代の人たちに確実に福音が宣べ伝えられ、主に対する熱い思いが与えられ、他教会の若者たちとの交流を通しても勇気づけられ信仰を堅くすることができるよう願っている。
 榎本保郎先生の「一日一章」の書物の中でこのようなことを書いておられ励まされた。「私たちが神に用いられるとき、持っている以上の働きをすることができる。将棋の名人が優勝するのは、将棋の駒がりっぱだから優勝するのではない。駒の良い悪いではなく、指し手がじょうずかそうでないかで決まるのである。私たちは駒である。私という単なる人間の感情や利害や思いで進んでいる間は、その駒がたとえどんなに高価なものであっても決して勝利できないのである。逆に紙に書いて作ったような駒であっても、名人がそれを進めていったならば、勝利することができるのである。大切なことは、誰に進められ、誰にさされて自分の人生を歩んでいくかということである。この決断こそ私たち人間の責任なのである。駒は指し手のままに進まねばならない。時には敵の陣地に乗り込み、犠牲になることがあるかもしれない。それでも良し、と絶対に指し手を信頼していかなければ、私たちはその栄光にあずかれないのである。だから与えられた確信というものをしっかり持ち、最後まで持続することが最も大切なのだと御言葉は教えているのである。
 キャンプもそうであるが、日々の歩みの中で心配事は絶え間なく起こるものである。自分の力で乗り越えようとすると様々なストレスや問題が生じる。自分を“駒”と見なし“指し手”である創造主なる神さまに委ね、ベストを尽くし結果は神さまに委ねることができれば安心である。

心のオアシス 2023年7月30日

 “初心者に紹介したい教会”に関西カルバリーが入っていることは誠に嬉しいこと。最近もある方から紹介されて来られるようになった方が、本人のSNSで「教会の色んな様子が少しずつわかってきて、色んなお交わりをさせていただくなかで、私の心の家となっていきつつあります。」なんてことを書いておられるのを発見してとても励まされた。
 “初心者に優しい教会”そこは開拓初期から心がけてきた。サークルのようなただ“楽しい場所”を提供するのではなくキリスト教会として福音を伝える役割は全力で果たしつつ、その内容は初心者が来られても極力不安材料がないような工夫をしている。「アーメン」は多用するので、その意味を週報の中に書いておくとか、聖書や讃美歌を開いている間に朗読や歌が終わってしまうということもあるのでプロジェクターには出してはいるが、手元に残るの週報の中に聖書箇所もお祈りも賛美もすべて印刷している。牧師としてはなるべく教会内だけで理解できる言葉や専門用語を使わないように心がける。たとえば説教の冒頭「ハレルヤ!」と言わず「おはようございます」と一般的な挨拶をする。「クリスチャン」という言葉も疎外感を感じさせる可能性があるので「神さまを信じる人は」という表現に変えている。どうしても専門的な言葉を使わざるをえないときは、わかりやすいように説明を入れる。名前を呼ぶときには「〇〇兄弟・姉妹」とは言わず「〇〇さん」と呼ぶ。また音響や空調にも気をつける。小さなことかもしれないが、そういうことが新来会者の安心と居心地にも繋がると考えている。しかし教会ですから聖書から牧師が話しをすることは承知の上で、あるいは期待して来られているはずなので、そこは絶対にブレないよう“聖書”から日常生活の励ましになるよう紐解くようにする。実際にある宗教の責任者が、開拓12年目でどうして会堂が建ったのかを研究するため一度礼拝に出られたことがあったが「他宗教の私でもよく理解できました。違和感がありませんでした。これだと思いました。」と評価してくださった。他宗教の改革に貢献してしまった可能性はあるが、この路線は続けようと思う。