心のオアシス
心のオアシス 2024年12月22日
食肉加工センターで働く坂本さんの職場では、毎日たくさんの牛が殺され、その肉が市場に卸されている。牛を殺すとき、牛と目が合うたびに坂本さんは、「いつかこの仕事をやめよう」と思っていた。ある夕方、牛を荷台に乗せた一台のトラックがやってきた。「明日の牛か・・・」と坂本さんは思った。しかし、いつまで経っても荷台から牛が降りてこない。荷台を覗いてみると、10歳位の女の子が、牛のお腹をさすりながら「みいちゃん、ごめんねぇ・・・」と話し掛けている。女の子のおじいちゃんが坂本さんに頭を下げた。「みいちゃんはこの子と一緒に育てました。だけん、ずっとうちに置いとくつもりでした。ばってん、売らんとお正月が来んとです。」坂本さんは思った。(もうできん。もうこの仕事はやめよう)明日の仕事を休むことにした。家に帰ってから、そのことを息子のしのぶ君に話した。じっと聞きながらしのぶ君は言った。「やっぱりお父さんがしてやってよ。心の無か人がしたら牛が苦しむけん」しかし休むと決めていた。翌日、小学校に行く前に、しのぶ君はもう一度言った。「お父さん、今日は行かなんよ!」心が揺れしぶしぶと仕事場へ。他の牛同様、角を下げて威嚇ポーズをとった。「ごめんよう。みいちゃんが肉にならんとみんなが困るけん。ごめんよう」と言うと、みいちゃんは坂本さんに首をこすり付けてきた。殺すとき、動いて急所をはずすと牛は苦しむ。坂本さんが「じっとしとけよ」と言うと、みいちゃんは動かなくなった。次の瞬間、みいちゃんの目から大きな涙がこぼれ落ちた。牛の涙を坂本さんは初めて見た。(「みやざき中央新聞」社説抜粋)
有難いことだが、坂本さんのような方々の苦悩も知らず、自分で直接手を汚すことなく、奪われた命の意味も考えずに、生きる為に肉を食べている。私たちが生かされている背後にどれだけの犠牲があったかを考える時に、キリストが与えてくださった恵みを無視することはできない。二千年前、神の愛を表すためにこの地上にお生まれになり、33年後、我々の罪の代価を十字架で死んで支払ってくださった。キリストの犠牲の故に生かされていることを忘れてはならない。Merry Christmas!
心のオアシス 2024年12月15日
キリスト教会では「リバイバル」という言葉を使うことがある。その意味を問えば多くの場合、教会に人が沢山集まるようになることだと答えが返ってくる。間違えではないが、それは結果にしか過ぎない。
辞書には「リバイバル」とは、「キリスト教で信仰復興、宗教復興の意。信者の信仰が励まされ、未信者が信仰に導かれること。また、そうした宗教運動の起こること」とある。リバイバルとはそれぞれ個人の心と霊的覚醒であると私は考えている。その結果、人が増えることもあるがそうでないこともある。しかしその個人の覚醒によって大なり小なり他者に影響を及ぼすことは確かなことである。
クリスマスのリバイバルは、ベツレヘムという村で起こった。まず社会的に虐げられ何の希望も見いだせなかった羊飼いたちに希望と喜びが満ち溢れ、救い主の誕生を周りの人々に告げ知らせた。そして造り主なる神を知らない異教の東方の博士たちが、幼子イエスさまに出会ってから彼らの大切な商売道具であった黄金・乳香・没薬を捧げた。彼らはみな強いられてではなく、頼まれてでもなく、自発的に心から喜んでしたのである。これこそが真の“リバイバル”である。
私たちの教会でもプチリバイバルが起こり始めている。9時の大人の礼拝から自発的に出席している小学生たち。先日は学生会の何人かは花園公園に行って自分たちで作成した学生会クリスマスのチラシを配っていた。失礼かもしれないが今までの彼らからは信じられない現象である。勿論、青年・中年・壮年の方々の中にも大きな変化を体験しておられる方々が大勢いらっしゃる。主の愛に触れたら人は変わることができる。
ある方の投稿があった。「人間には3種類いる」3番目の人は幸運や奇跡が巡って来やすいらしい。①何事も「やらされてる」と考える人。②何事も「してやってる」と考える人。③何事も「させて頂いている」と考える人。①番目の人は疲れやすくなるらしい。②番目の人は不平不満が溜まりやすくなるそう。③番目の人は心が平和になるらしい。誰でも、いつからでも、どれでも、選べる。神の促しがあればさせていただこう。
心のオアシス 2024年12月8日
ある方がSNSにこのような投稿をしておられた。
「精神的な混乱に陥っていた私は、昨日の礼拝でほぼ霊肉共に回復した。ちょうど病み上がり手前ぐらいだろうか。人は絶望の淵に立った時、神さまを見上げられなくなるけど、それも神さまはご存知で、神さまの方法で悲しみ苦しみの縛りを解いてくださった。私の場合は本当に賛美を救助手段として私に差し出してくださった。私は“賜物”=“神さまが与えてくださった才能”と、どこかで勘違いしていたようだった。苦しみを受けた後は、“賜物”=“私を神さまの道具とされる時に渡された用具一式”と思えた。世のために用いることばかりではなく、自分を立て直し維持させるメンテナンスパーツもセットになっていると思った。
人により、賜物セットの中身は違うけど、私は本当に神さまの道具になるにしては、もろい壊れやすいものだから、メンテナンス用具も入れてくださったと思う。それを全部含めて“賛美”を私に与えてくださった神さまに感謝。そして主の戦いは、弱いも小さいもなく、分け隔てなく神さまが私に『主であるわたしが戦う、行こう!』と言ってくださる。」
この方の悟りは凄いと思った。特に下線部は名言にも近いものがあり大きな励ましになる。かつてマザーテレサは、「私は、神の手に握られた小さな鉛筆です。お書きになるのは神なのです。」と言われた。私たちを助ける道具が神ではなく、私たちが神の道具として用いられているだけである。そしてそれぞれの“賜物”には様々な色があるが、神が使いたい時に神が使いたい色(賜物)を用いるのである。
もしこの真理に気付くことができたら、無理せず背伸びしないで生きることができるようになる。私たちが求められていることは黄色は黄色、赤は赤として、神さまが用いる時のために使いやすい状態にしておくことである。芯が折れてしまった時には、休むことも神さまからの恵みである。しばらくすると鉛筆削りまで一緒にセットになっていたことに気付くのである。「神は試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さる。」(ローマ10章13節)
心のオアシス 2024年12月1日
今年もクリスマスの季節が到来した。12月は“師走”とも呼ばれ牧師も走っている。この時期を教会では“アドベント”とか“待降節”とか呼んでいる。その意味は“到来”を意味するものでイエス・キリストの降誕を待ち望む期間としてそう言われるようになった。“クリスマス”とは「キリストの礼拝」という意味である。世界で最初のクリスマスは、東方の博士が黄金・乳香・没薬を捧げたことが始まりであった。
聖書のクリスマスのストーリーから神さまの緻密な計画が見えてくる。乙女マリヤから産まれられたが、父親は貧しい大工のヨセフである。何の権力も地位もない。イエスさまが生まれてから周りで不穏な空気が漂ってきた。ユダヤのベツレヘムにユダヤ人の王が生まれたという噂を聞いた当時ユダヤを治めていたローマのヘロデ王は恐れを抱いた。そこでその幼子を殺そうと考えた。強大なローマ帝国に対して、ヨセフ家族は為す術はない。そのような計画が企てられていることを知るよしもない。しかし主の使いが「ヘロデが幼子を殺そうとしているからエジプトへ逃げなさい」と忠告した。そして逃げるための軍資金を異邦人の手を通して渡された。それが黄金・乳香・没薬なのである。あまりにも出来過ぎた話ではないか? しかしイエス・キリストが共におられる人生には本当にこのような奇跡とか偶然にしか見えないことが起こるのである。
私たちの教会の歩みもそれを表している。公民館の使用ができなくなる度に次なる場所がすぐに与えられ日曜日によそ様の教会堂までお借りすることができるようになった。そして9年間お借りした会堂を出なければならなくなった前の年に、会計さんも驚いているが急激に献金が内外から集まり献堂するまでの1年間それは続き、土地を買うことができた。今はその流れは止まりローンの返済には四苦八苦しているが、そこにも神さまの意図があるのであろう。行き場を失い会堂が建つまでの10ヶ月間、お借りしていた会堂の隣のイベントホールがコロナで閉鎖状態であったので私たちだけに貸してくださった。あまりにも完璧なシナリオではないだろうか? これが神と共に歩む人生に起こる恵みである。
心のオアシス 2024年11月24日
ある牧師先生が自分の子どもたちを通して気がついたことがあったとのこと。それは先生には幼い二人の子どもがいたが、時々ふざけて子どもを捕まえては浴室に連れて行って浴槽の上から落とすふりをしていた。それをキャッキャと声を上げて楽しんでいたが、ある日浴室で下の子を高く上げて「言うことを聞かないとパパが水の中に落としちゃうぞ~」と警告すると、ゲラゲラ笑っていた子どもが「パパ、ごめんなさい。下ろして」と叫んでいた。丁度その時、上の子が浴室に入って来たのを見ると下の子は「お姉ちゃん、助けて。パパが水の中に落とそうとするの」と助けを乞うた。いつもなら、上の子もふざけてお父さんに飛びかかって助けるのだが、その日は気分が乗らなかったのか、何も言わずに横にある便器にどっかり座わった。それを見て下の子はもう一度大きな声で「お姉ちゃん、助けてってば!」と言った。すると上の子は低い声で「うるさいな。安心して!パパは絶対に落としたりしないよ。だから大丈夫!」この時、先生は「これこそ信仰だ」と思ったというのだ。
子どもたちは誰が自分を愛してくれているのか?信じるに値するのかを判別しながら成長しているように、私は創造主なる神さまが、自分の人生に深く関わり、あらゆる荒波の中で不思議な助けを与え続けてくださったことを通して絶対的信頼を置くことができるようになった。神さまは自分にとって必ず良いことをしてくださるという確信が与えられてからは、どのようなことが起こっても「私の願いではなく、主の願いが私を通して実現されていくように用いてください」と祈ることができるようになった。するともっと主の働きが推し進められるようになった。
先週、小学生が私に「〇〇ちゃんと、△△ちゃんが久しぶりに来てるから挨拶行った方がええよ」と伝えてくれた。「この子、牧師やん?!」と感心しながら挨拶に行くと、その内の一人が「名前覚えていてくれたんや~」と嬉しそうに返答してくれたが事前に情報提供があったことは言えなかった。私が新規の方や久しぶりの人たちを歓迎している様子を子どもたちは観察していたことに驚きを覚え改めて襟が正された。
心のオアシス 2024年11月17日
先日後輩牧師が訪問してくれた。会堂や大阪の街を案内している間中次から次へと質問攻めされた。そしてこのよう話してきた。「小崎先生は牧師としてこんなに成功しているのに、自分は全然ダメ。人も増えないし牧師を辞めたいと思ったことが何度もあります」私はこの言葉に違和感を覚えた。“牧師としての成功”とは何か?人が集まらないことがダメなのか? 私はとうの昔に世の価値観から解放されていて、人間の成功は金持ちになったとか、良い学校に入学できたとか、大きな企業に就職できたとかが“成功”だとは思っていない。もし大きな教会の牧師であったとしても、自己実現のために牧会していたら“大失敗”だと思っている。どんなに小さな教会であっても神実現のために労している牧師は大成功である。恐らく私が「100人教会に集まりますように」と祈り開拓をしていたら、なかなかそうならない現実に挫折していたであろう。しかし当初からの私の祈りはこうである。「どうぞ神さまがこの教会を必要としている人たちを送ってください。私はその人たちのためにベストを尽くします。私を神実現の道具として用いてください!」具体的な人数は一切挙げなかった。「必要であれば神さまが会堂を与えてくださるでしょう」と神の願うことと神の計画のみが成るよう祈り続けていた。だから目の前の人数は一人二人しかいなくても気にならない。公民館の小さな部屋で礼拝することも気にならなかった。何故なら今与えられている場所や人は神さまの願いであり計画として与えてくださったものだから。
そんな話をしながらその後輩に「目の前の人数とか状況に一喜一憂しているのは自己実現をしているからであって神実現を願えば楽になるよ。ただし何もしないのは怠惰なことだから自分のタラントをわきまえてベストを尽くして神実現を願うなら不思議が起こるよ。」彼が帰って次の日にLINEがきた。「今回は『全部配れますように』ではなく『主の御心がなりますように』とチラシを配ったら、いつも全然受け取ってくれない子どもたちが受け取り全部なくなりました!そして2人の子どもと2人の親御さんが来てくれました」神実現を願い始めると何かが起こる。
心のオアシス 2024年11月10日
私たちの教会は決して大きいわけではないが大変恵まれていると思う。何年か前まで私のギター一本だけでプレイズや聖歌を歌っていた時代のことを考えると、今は楽器に溢れ講壇に迫る勢いで牧師の立場が危うくなっている(笑)。特別音楽もこの二年間、週替わりで与えられているが、これは当たり前ではなく稀なことである。礼拝が終わると学生たちが会堂で賛美の練習をし、二階のダイニングではコーヒーを飲みながら談笑する人たちやコーヒーおじさんの監視の下に卵焼きやホットケーキを作って楽しみ、それを各テーブルに配って回る近所の小学生たちがいる。学校では体験することができない環境を気に入っているようで「教会の人たちは優しいし楽しい」とみんな口を揃えて言う。勿論、楽しむためにだけ教会に来ている人たちは圧倒的に少ないと思うが、どのような理由であっても、やがては良い地に落ちた種のように30倍、60倍、100倍の実を結んでいくことを信じて祈っている。
ニック・ブイチチさんは、四肢欠損症という障がいをもって生まれてきた。成長するにしたがって周りの友人には手足があるのに、どうして自分にはないのだろう?と苦しむようになり、「自分は将来学校へも行けないし一人で生活もできない。結婚もできない。」と絶望していたが、15歳の時に聖書の話を聴いて、「もし手足が生えてきたら神さまを信じます」と祈った。しかし彼は「自分は何か目的があって、このような姿で生まれてきたに違いない」と思えるようになった。それから彼は独立して生活するようになりサーフィンをして楽しみ、日系人と結婚もした。そればかりではない。彼はすでに30ヵ国以上の国々で講演を行なっている。彼の障がいの故に宣教師が入ることができない共産国にも招待されて何の制限もなく福音を伝えることができた。神には不可能はない。
先週、一か月ほど前から定期的に教会に来ている小学生がこんなことを言った。「〇〇ちゃんがゴミをそのままにして帰ったので腹が立ったけど、『イエスさまならどうするか?』と考えたら、許して私がゴミを捨てることができた。」神が働かれるとどんなことでも起こり得ると確信した。
心のオアシス 2024年11月3日
「生きてるだけで丸儲け」とは、ある大物芸人の言葉であるが、私もある意味同意する。何かができることが価値ありとされる世の中で、何もできなくても、その“存在”に価値ありと聖書は教えているからだ。
先日こんな体験談を読んだ・・・私の長女は知的障害を抱えています。この子は、努力もしないし、頑張りもしない。才能もないため「頑張らなければ、人間ではない」という価値観からすると、この子は価値がないことになってしまいます。ところが彼女が属しているクラスは生徒がみんなやさしい。彼女の存在が、クラスの子をやさしくしてしまうようです。どうしてかというと、この子は、ありとあらゆる場面において、争わないし、競わないし、戦わないからです。それどころか、自分よりも立場の弱い子を見つけては、その子を助けようとします。この子が、小学校6年生のとき、3学期の通知表に、校長先生が特別に書いてくださったメッセージがあります。こういう内容でした。「6年生全員の中で、〇○ちゃんほど心を込めて『ありがとう』を言う生徒はいませんでした」。彼女は「ありがとう」を言うとき、90度まで体を折ってお辞儀をします。このしぐさがとてもかわいくて、とても美しい。わが家でいちばん美しく「ありがとう」を言える人です。先日も、こんなことがありました。駐車場に戻ったとき、私たちがサッサと歩いていると、長女だけがトコトコと料金所まで行って、「ありがとう」と係の人にあいさつをしました。長女を見ていると、この子は、「人間が、生まれながらにして持ち合わせているやさしい心」を呼び起こすために生まれてきたのではないか、と思います。彼女は、ただひたすら、その役割で存在しているかのようです。この子がしていることは「ありがとう」と言ってニコッとする、ただそれだけです。でも、笑顔を見せることによって、クラスの子どもたちは、みんなやさしい子どもたちになっていったのです。(一部抜粋)
努力や頑張りだけが価値ではない。ゼロからの開拓をしてきた私にとって、ただその場に座っていてくださることがどれほど尊い奉仕であるかと思っている。なぜなら誰もいなければ礼拝は成立しないからである。
心のオアシス 2024年10月27日
「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(ゼカリヤ4:6)これはイスラエルがバビロン捕囚から戻った民が神殿再建を行なった際、それを妨害する反対勢力の脅しに気力を失っている中、再建の指導者に語られた励ましの言葉である。権力や能力によって物事が成るのではなく全ては主によって成るという約束である。“権力”とか“能力”は神から与えられた賜物なので、それらを用いて私たちのベストは尽くさなければならない。しかし与えられた賜物の「大きい」「小さい」によって物事が上手くいったり、いかなかったりするわけではない。“神の霊”によって導かれているなら私たちの状況や環境は関係なく“成る”のである。私もこのみ言葉によって自分の考えを軌道修正してきた。
まだ教会建築の話題もなく借り物の会堂で礼拝を行なっていた時期の役員会で、今は亡き長老さんが「この会堂を出る時がきたら感謝の献金を沢山捧げましょうや」と提案され皆が同意していた。100万円捧げるつもりでいたが、いざ土地を買い会堂を建てることになった時、5千円でも1万円でも必要な状況になり私の心に「別に100万でなくても50万でも大きい額ではないか?」という迷いが生じた。その時、主が「『あなたの手持ちではなく私の霊によって教会を建てる』と言ったではないか?」とお叱りを受け、すぐに100万円の準備をした。その日の夜、東京のある会社の会長さんから電話があり「会堂のために1000万円献金させて欲しい」と連絡を受けた。10倍になって返ってきたのである。私は畏れがきてその場にひれ伏して自分の信仰のなさを恥じたのを覚えている。
箸にも棒にも掛らなかった大学生は、キャンプを境に今は自主的に全部の集会に出て奉仕もするようになった。消えてしまいたいと思っていた高校生は今は礼拝することが喜びとなった。小学生も子ども向けの集会をずっとやっているわけではなく相手をしているわけではないが朝から夕方まで日曜日は教会にいる。教会にいることが楽しいというのである。私ができることはただ祈るのみであった。明らかに“神の霊”の働きである。主に委ねる人生は楽です。私たちはただベストを尽くすのみ!
心のオアシス 2024年10月20日
ユダヤ人の人口は、世界人口の0.2%に過ぎない。しかしノーベル賞の授賞者や富豪の大多数がユダヤ人である。そしてその秘密は教育にあるという。ユダヤ人の家庭では、生まれたときから宗教教育が実施され3歳頃から文学や読み書きを習い、4歳からは「モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記……)」の暗唱が始まり、5歳からは「預言書」「聖文学」「タルムード(全30巻、律法集、歴史書、格言集、民話伝承集、……)」を学び始める。そして12歳の頃には、「モーセ五書」はほとんど暗記しているというのだ。
私たちの教会の礼拝は初心者を意識してわかりやすく、平日の聖書セミナーは中級以上向けにお話しするようにしている。しかし礼拝だけに来ている人たちが一生離乳食ばかりだと成長もできないし聖書の深みを知ることはできない。そこでたまにではあるが礼拝でも小難しい箇所も取り扱うことにしている。クリスチャンであっても一体何が書いてあるのかもわからない箇所からメッセージするのは至難の業である。勿論、解説は初心者にも極力わかりやすいようにして人生論的にもアプローチするよう努力はする。聖書が好きな方々からはそれなりの評価はいただくが、全体的にどれほど伝わっているかはわからない。近所の小学生が数人、朝10時半からの礼拝の裏で行なっているキッズクラスにも参加しているのだが、その前に行なっている朝9時からの奉仕者向けの礼拝に来て毎週大人しく座って話を聴いているのである。一人の男の子は説教中、うつむいてノートに何か書いているので学校の宿題でもやっているのかと思っていた。聖書箇所からして難しいので仕方ないし、日曜日の朝早くから大人の礼拝に来ていることだけでも良しと寛容に受け止めていた。しかし先週、恵先生が本人の許可を得て私にそのノートを見せてくれた。なんと大学ノート1ページに小さな文字でびっしり士師記のメッセージの内容が書かれていたのである。求める心があれば子どもであっても聖書の難易度は関係なく、聖霊さまが助けて理解力を与えてくださることがわかった。将来どんな大物になるのか楽しみだ。