礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2024年1月14日

 先日ある方と話していると「先生はこれだけ人が集まってきているのにまだ『開拓』だと言われるのですか?」とおっしゃった。確かに開拓教会は、“数名の集まり”“借り物の小さな部屋”などのイメージはあるが、花園の地域に移転してからまだ1年少々。私にとっては開拓である。1年前まで私たちの教会メンバーのほぼ95%が東大阪外在住の人たちで教会までの所要時間は平均1時間であった。集まってこられる人たちを分析してみると、HPやYouTubeを見たり、口コミ、また大和カルバリーの支教会ということで関西に移住されてきた方が来られるケースもあった。それも大変感謝なことではあったが、やはり近所の人たちにも来ていただきたいと思い、石切地域ではチラシを何千枚も配ったが地元の人が来ることは稀であった。これは今のネット社会の特有の現象なのだろうと思っていたが、花園に移ってからは様子が変化しつつある。チラシにもちらほら反応があり来てくださるようになり、その中の何人かが受洗された。教会にも様々な季節があるのだと思った。
 もし花園チャペルの今が春であるなら、これからも季節は変わっていくだろう。開拓初期は一人を前にしてメッセージ(お説教?)していたこともあった。何ヶ月も変化がなく数名の礼拝を続けていた。恐らくその時期を冬と例えることができるであろう。もし私が自分の願いを全面に出していたら途中で挫折していたであろう。しかし祈りの中で神さまが語られたことは「わたしが一夜にして何千人もの人たちを教会に送ることができないと思うか? あなたは現状に振り回されないでただベストを尽くしなさい! 神実現に生きよ!」それからというもの、前にいる数名の人たちが、神さまから託された人だと考えるようになり気持ちが楽になるだけでなく開拓が楽しくなったのを覚えている。
 神さまはこの地上に様々な季節を与え、それぞれを楽しむことができるようにしてくださっている。好き嫌いはあるかもしれないが、そこで私たちがどう生きるかをご覧になっておられる。神さまの一番の関心事は、この世でどれだけ成功したかではなく、どのように従ったかである。

心のオアシス 2024年1月7日

 大晦日の夜、教会メンバーのAさんから電話をいただいた。「入院中の父親が洗礼を受けたいという意思表示をしました」との内容であった。私たちはとるものもとりあえず病院へ向かった。Aさんの母親とお姉さん家族は共にクリスチャンだが父親だけは「自分はクリスチャンには絶対にならない」と宣言しその意志を変えない拘りをもっている人であった。数ヶ月前、誤嚥性肺炎になり入院してからもその意志は変わらなかった。そのような中でAさんから一か月ほど前にLINEが届いた。「昨日、奇跡的な不思議な事がありました。面会に行った時にしんどい時は『イエス様』って言うんよと、母が言うと父自ら『イエス様、もうしんどいです。助けてください』と言葉しました。その後も『イエス様のもとでねむりたいです。』『明日は良い朝を迎えられますように』『イエス様に早く治るようにして下さい』とイエス様を求めるようになりました。病院のスタッフに暴言ばかり吐いていた父が考えられない言葉を口にするので、みんなびっくりしてます。その後、イエス様を受け入れるお祈り(罪、十字架の身代わり、信じる)をすると「アーメン」と言ってくれました。奇跡すぎて実感がわかないのですが、とにかく主の御名をあがめます。」 
 そして大晦日に病院から「夜になって血圧、脈が下がりました。病院に来て下さい」との電話があり家族が集まった時にお父様は洗礼を認諾された。病院に着くまでAさんは、「いよいよ来るべき時が来たのだと自分の心に言い聞かせ、覚悟して病院に向かったのですが、実はそれが洗礼の恵みに繋がっていたとは・・・」と感動しておられた。
 旧約聖書の中に「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(伝道の書3章11節)とあるが、私たちは“今”という点を見ることは得意であるが、私たちが生まれてから死ぬまでの全体を見ながら判断することはなかなかできない。時間を超越しておられる創造主に人生を預けたらこれほど楽なことはない。一喜一憂しても神の最善がなされることに感謝

心のオアシス 2024年1月元旦

 花園チャペルを献堂してから早一年が経過した。振り返ってみると、2010年に関西での開拓を始めてから、神さまは様々な協力者を送ってくださった。その助け手の一人が吉松毅長老さまである。親子ほどの年齢ではあるが、私を立てて謙遜に神さまに従ってきてくださる姿は信徒の模範でもあった。聖書通読を何回もされ、また二箇所で行なっていた礼拝に自発的にどちらにも参加され応援してくださる。堺チャペルの開拓が始まった時には、誰もPA(音響)を準備することができる人がいなかった。最初の数回、私が音響の準備をしている姿を傍に立ったままジーっと観察しておられた。東大阪の午後の礼拝が終わって午後4時半ギリギリに到着することもあって準備がままならなかったが、音響は複雑なので誰にも頼める人がいなかった。しかし数週間後からは私が到着した時点ですべての音響が音を出せる状態になっていた。私のギターもケーブルがちゃんと繋げられている。長老さまは私がしている作業を見て覚えられたのである。車屋さんだったので機械には知識がおありだとは思うが音響はまた別ものである。もう脱帽する思いである。私には何も要求されたことはなかったが、ある日「先生、一つお願いがあるのですが、先生への謝礼があまりにも低すぎます。もっと上げるように誰に頼んだらいいのですか?」とおっしゃられた。「高給アルバイトをしているので大丈夫です」と言ったが納得されずその後も数回お願いされた。教会メンバーが少なくなったという理由で牧師の謝礼をカットする教会は多い中、長老さまのお気持ちと愛に応える牧師にならなければと決意を新たにしたのを覚えている。そんな長老様は昨年12月14日86歳で天に召されていった。寂しくはなったが天国での再会を楽しみにしている。お別れ会をしながら私も年を重ねたら愚痴っぽい頑固おやじにならないよう気をつけ、若者を助け励ます者になりたいと切に願った。
 長老さまの恵まれた人生を目標に新しい年を歩みたい。栄光在主。

心のオアシス 2023年12月31日

 「自分自身は、神実現のための道具である」という意識は人生をストレスフリーへと導く秘訣だということがわかってきた。未だに仕事を終えて花園チャペルを出るときに、私たちに“会堂”が与えられていることに不思議を覚え感謝が溢れてくる。開拓当初から「ただ主の道具としてのみ用いてください。もし神さまが私を一人のために関西に遣わされたのでしたらそれでも構いません」という祈りをしてきた。礼拝する場所も点々とした。アルバイトをしながら数名の礼拝を数年続けてきたが苦にはならなかった。なぜなら神が望んでいることがわが身に起こっているのだという意識があったからだ。気が付くと人数が多少なりとも増えていった。9年間お借りしていたよそ様の教会の会堂から出なければならなくなった時も「どうぞ次なる場所を示してください」とだけ祈っていた。会堂を建てる野心もなければ財もない。その為に献金を集めるアピールもしなかった。ただ神さまが前に置かれる課題をこなしていっただけであった。気が付くとその一年数ヶ月後に花園チャペルが建っていた。だから他の教会の先生方から「よく頑張りましたね」と言われることがあるが、全くその記憶がないのである。覚えているのは、ただ「主の御心がなりますように」とのみ必死に祈ったことと、あえて言うならサタンが必死に抵抗してきたこと位であるが、神さまご自身が戦い処理してくださった。クリスチャンライフとは、肉の戦いはあるが、神さまに委ね切ることができればかなり楽しく楽である。
 先日、20代のОLさんがこんな話をしてくれた。「先週のメッセージを聴いて、今まで自分の願いしか祈らなかったので、神さまの願いが実現するようにと祈りを切り替えました。そしたら不思議なことが起こり始めました。嫌なことがあっても『神さまの御心が起こっているのだから感謝しよう』と思えるようになりました。最近では人が寄ってくるようになったのです。家でも親に職場の不平不満ばかり言いウザがられていましたが感謝を語るようになり耳を傾けてくれるようになりました!」
 今年も一年を終えるにあたって神さまの足跡に感謝を捧げたい。

心のオアシス 2023年12月24日

 アメリカでの話です。ポールはお兄さんからクリスマスに新車をプレゼントしてもらった。ポールがオフィスから出てくると街でよく見かける少年が、その新車の周りを歩き回っていた。よほどその車が気に入ったらしくポールに話しかけてきた。「これ、おじさんの?」「ああ、兄貴からのクリスマスプレゼントさ!」ポールは答えた。少年はそれを聞いて驚いた様子で「えっ?おじさんの兄さんがくれたって?おじさんはお金を払わなくてよかったの? うわあっ!!すごいな~僕・・・」と少年は何かを言いかけたが、そのまま口をつぐんでしまった。多分、少年は「僕にも、こんな兄さんがいたらなぁ」と言いたかったのだろうとポールは思った。ところが、少年の口から出た言葉に耳を疑った。「僕ね、おじさんの兄さんみたいになりたいなって思ったんだ!!」ポールは少年の顔を見つめながら言った。「この車に乗ってみる?」「本当?うん!!」車を走らせて間もなく、「おじさん、僕の家まで乗せてくれる?」きっと、こんな大きな車で帰ってくるところを自慢したいんだなとポールは思った。しかし、その憶測はまたもや外れた。「あそこに階段がついている家が見えるでしょ? そこで待っててくれる?」少年は車を降り駆け足で家に入っていった。しばらくすると少年は身体の不自由な弟を背負って出てきた。弟を階段に座らせ、車がよく見えるように弟の身体を支えた。「ほらバディー、見てごらん。さっき言ったとおり、すごい車だろ!そこにいるおじさんの兄さんがクリスマスプレゼントにくれたんだって!! それもタダでくれたんだって!! お前も待ってなよ!! 兄ちゃんがいつかきっとあんな車をお前に買ってやるからね!そしたらいつも話してるクリスマスのイルミネーションを、その車に乗って見に行こうな!」それを聞いたポールは何も言わずに車を降りると、少年の弟を抱き上げ新車の助手席に座らせた。目をキラキラ輝かせた少年もその横に乗り込むと三人はドライブに出かけた。本当に素晴らしいクリスマスのドライブだった。このクリスマスの日、ポールは聖書の御言葉をしみじみ感じたのである。「受けるよりは与えるほうが幸いである」Merry Christmas!

心のオアシス 2023年12月17日

 実話をご紹介します。ある時、エリクソン博士の旅行先に、お金持ちのおばあさんが訪ねてきて言った。「私はお金に不自由は全くなく、大邸宅に住んでいます。イタリアから取り寄せた家具に囲まれて、コックが毎日、素晴らしい料理を作ってくれます。園芸は好きですが、身の回りのことは全部メイドがやってくれます。けれども私ほど不幸な者はいません。寂しくて寂しくてたまりません」博士はその話を黙って聞いていた。「わかりました。あなたは教会に行きますか?」「時々行きます」「では、あなたが行っている教会の人たちのリストを作って、誕生日を書き入れてもらいなさい。そしてあなたは、育てた花に綺麗なカードを添えて、誕生日が来た人の玄関前に、置いておきなさい。ただし、あなたからということは知られてはいけません。もしそれで幸せになれなかったら、また私のところにいらっしゃい」と博士は言った。その老婦人は、さっそく試した。朝三時に起きてこっそり鉢を届けるようになると町では「天使が来た!」と評判になった。その人はエリクソン博士に電話をかけて、「宿題は続けています」と報告しました。博士は「あなたは、まだ不幸ですか?」と問うと、老婦人は「えっ、私が不幸だなんて・・・」と返す。「でも、あなたは半年前に、『私は、お金もあるし立派な家もあるけれど、寂しい』と話したではありませんか?」 
 3ヶ月が経ったクリスマスの朝、その老婦人からエリクソン博士にまた電話がかかってきた。「先生、今日のクリスマスほど不思議なクリスマスはありませんでした。門のそばに置いた大きなクリスマスツリーの下に、私の必要なクリスマスプレゼントがたくさん置かれていました。誰から贈られたのかわかりません・・・」エリクソン博士は言った。「是非、受け取ってください。あなたが庭に種を蒔くと、その種は花になってあなたのところに返ってきます。あなたは小さな種をいっぱい蒔いたから、立派な花になってクリスマスに返ってきてくれたのですよ」
 本当の満足は与える時に来るものである。そしてその人の人生の最後に残るものも受けたものではなく与えたものである。実践していきたい。

心のオアシス 2023年12月10日

 先日土曜日に行なった小学生のクリスマス集会は、皆さまのお祈りに支えられて二階のキッズの部屋がいっぱいになる大盛況であった。その前日チャペル前を下校する子どもたちにチラシを配りながら「サンタクロースもくるよ」と声をかけた。すると「それって本物のサンタ?偽物サンタ?」と質問された。私も困りながら「サンタクロースって本物とか偽物ってあるの?」としか返答できなった。あとでそのやり取りを色々と思いめぐらしていた。彼らにとっての「本物」とは何であろうか? トナカイに引かれながらソリに乗って煙突から家に入ってきて寝ている間に枕元にプレゼントを置いてくれるのが本物のサンタなのか? 実は恥ずかしながら私自身は小学校5年生までサンタクロースを信じていた。クリスマスが近くなったある日、「今年のクリスマスは、サンタ何を持ってきてくれるのかな?」と嬉しそう語る私に母は申し訳なさそうな顔で「あのね~もう高学年になったしそろそろ言った方がいいと思うから言うんだけど・・・サンタはいないんだよ。あれは私が置いたの」と告白されショックでしばらく落ち込んだ記憶がある。だから目の前の小学生たちの夢を壊したくなかったので「もしそれが本物だと思っているなら、実は親がサンタになってるだけだよ~」とは言えなかった。
 世の中は何が本物なのか偽物なのかわからなくなっている。「オレオレ」と本物の息子のように装う詐欺師や「人間はアメーバーから偶然に進化した」と何の合理的な証拠もないことを“本物”の説であるかのようにして教えている日本の教育。この世のものを手にいれることが本当の安心や幸せではないことを、既に先人たちや世界の歴史が証明しているのに、未だに「本物」としてそのような考えが蔓延している。今年のクリスマスは、「本物」を掴んでいただきたいと祈っている。
 サンタは私の役目だったが、集会の後で子どもたちから「あれは偽物やった!」と突っ込まれた。聞いてみると彼らにとっての本物のサンタは、お腹がでっぷり出ていて、メガネをしてなくて、髭も薄っぺらい口髭ではないらしい。とにもかくにも楽しい子どものクリスマスであった。

心のオアシス 2023年12月3日

 ここ数ヶ月、ほぼ毎週遠方からお客様が礼拝に来られる。母教会時代に祈って支えてくださった方々や、担当していた学生会の元学生たちである。ありがたいことである。そしてここ数回、礼拝後に講壇から牧師である私が会衆の写真を撮っている。そこには理由がある。特にご高齢の方々は、もしかしたら花園チャペルの礼拝に足を運ぶ最後になるかもしれないので、クリスチャンではないその家族に対するその足跡を残して証としたいからである。「縁起でもない」と批判を受けるかもしれないが、神を信じる者にとって「死」は天国への入口であり、残された者も再会できる希望を持っているので、悲しみはあるが本来は未来への期待に繋がっていることでもある。
人間はいつ召されるかわからない。順番が逆だと思われるようなことも起こり得る。そういう意味においては、毎週のメッセージは私からの遺言のようなものである。「説教とは、まさに今死なんとする者が、まさに死なんとする者の危機感の中で何を語るか」と言われるが、今日召されるかもしれない私が、もしかしたら今日の礼拝が最後かもしれない人に向かって何を語るのかという緊張をいつも覚えながら語っている。
 花園チャペルには、感謝なことに近所の小学生が日曜日は一日中入り浸ってくれているが、その中の一人の女の子が突然教会に来なくなった。登校時の交通安全の旗振りをしているが、その子は2週間登校しなかった。心配になって他の子に聞いてみるが「風邪?」「家の事情?」などとみんな言うことがハッキリしない。この子のために2週間、毎日思い出す度に何度も祈っていた。そして3週間目の火曜日、旗振り時に登校してくる姿を見つけ、私はボランティアを放棄して駆け寄り喜んだ。まだ鼻声ではあったがその子の口から「早く教会に行きたい」との一言。YouTubeで礼拝も視てくれていたとのことで涙が出るほど嬉しかった。天のお父さまの気持ちが少しわかったような気がする。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

心のオアシス 2023年11月26日

 「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(伝道の書3:11)と「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ書8:28)の聖書の言葉は、私がいつも考えさせられる内容である。時として「これも神がなされること?」「こんなことが益になるのか?」と思えるようなことも起こるものである。勿論、人間の罪によってもたらされる試練はある。しかしそれでは割り切ることのできない困難もある。これをどのように解釈すればいいのだろうか?
 私たちはけっこう自分のことに関しては“点”でしか物事を見ることができない。すなわち“今”の時点でどうなのか?ということに拘りを持つ傾向にある。“今”だけを見ると、大きな問題が立ちはだかっていたり、病気であったり、障がいなどが、私たちに希望を持たせなくする。しかし私たちの“今”は“点”でしかない。神さまは奇跡の点の連続(私はこれを「永遠の線」と呼ぶ)に生きておられるお方で、各個人の人生や世界の歴史をすべ治めておられる。もし天地宇宙を造られた神さまに対して全幅の信頼を置けるなら、万事を委ねることができる。
 先週、食道ガン末期状態で余命宣告を受けている私たちの教会の長老さまが、曾孫さんも含めて総勢20名で教会の礼拝に参加された。八十数年間、病気らしい病気になったことがない方が、どうしてこんなことになったのか? 私は神さまに何度も文句を言った。しかし答えは「万事は益」としか返ってこない。「親族全員で礼拝に出席することが夢である」と長老さまは常々語っておられた。それが叶えられる形にはなったが、それだけで“益”だとは思えない。これはただの序章の点にしかすぎないと私は信じている。「彼(イエス)は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び神の御座の右に座するに至ったのである。」(へブル書12:2) 死に至るまで忠実でありたい。

心のオアシス 2023年11月19日

 「問題児で悪魔の子と言われ、誰からも愛されず、悪い悪いと言い続けられ、教会も行かなくなったり追い出されたり。そんなこんなで笑顔も自分らしさも出ず、オドオドしていた私。妹に、自分らしく過ごせる教会あるよ❣️と紹介してもらい『人が寄り付かない、こんな私だけど…人に好かれなくていいから、イエス様に会いに行こう‼️イエス様ならそばに居てくれるはず!!』そう決心して教会の門を叩いたら、沢山の人に歓迎され、可愛がられ、愛され…毎週の礼拝や交わりはイエス様の愛そのものでした。デボーションや、祈り、聖書を読むのが大好きになり、みことばや牧師先生からのメッセージが胸に響けば書き綴り…毎日が変えられていきました。今では教会の中でも、職場でも家庭でもイエス様がそばに居てくださってると確信し安心し自分らしく輝けています❣️主に感謝します❣️」
 私たちの教会へ来られるようになった方がSNSに投稿されている内容を本人の許可を得て掲載させていただいた。一人の人物が悲しみと苦しみの人生を歩んでこられ、主と出会ってから輝いて生きることができるようになったというお証に涙した。重い皮膚病の男がイエスさまのもとにきて「御心でしたら清めていただけるのですが」と話すと、イエスさまは深くあわれみ、手を伸ばして癒されたという記事がマルコ福音書の中にあるが、主はわたしたちの苦難を深く憐れんでくださっていることがわかる。そしてその“憐み”は主を信じ委ねる信仰によって“癒し”へと変えられていくことがわかる。神はすべての人に憐れみをかけておられる。私たちはなかなか気付けないが、実際になくてならぬものをもって毎日を養っていてくださっている。ここに信仰がブレンドされると心までもが満たされていく。
 イエスさまに目を癒された男がパリサイ人に「あの罪人に何ができようか?!」と問うた時、男は答えました。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えると言うことです」(ヨハネ9章) 主は今も生きておられる!