心のオアシス
心のオアシス 2015年3月8日
故ハ・ヨンジョ先生の言葉は、今でも心に響くものがあります。マタイ福音書10章30節からのメッセージの一部分をお分ちします。
「また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」とあります。神は、毎日抜け落ちる髪の毛まで、どのように数えておられるのでしょうか。神が天地を創造される前に私たちを選ばれたというみことばも、どうにも理解できません。人間の常識ではとうてい理解できません。そのように細やかに徹底して私たちのことを知っておられ、髪の毛の数まで数えておられる方が神なのです。「ですから、心配したり、恐れたりしてはなりません。髪の毛さえもみな数えられる神が、ましてあなたの一挙手一投足をご存知でないでしょうか。あなたの悔しさをご存知ないでしょうか。今、あなたが悔しい目にあっていることを、神はすべてご存知なのです」と言っておられるのです。それにもかかわらず神が沈黙しておられるなら、その沈黙に私たちは同意しなければなりません。神を信じる者であれば、必ず覚えておくべきことが一つあります。世には偶然はないということです。偶然に起こる出来事は一つもないのです。ですから、クリスチャンは、「ついてない」という言葉を口にしてはなりません。すべてのことは必然です。クリスチャンに起こるすべてのことは、神の摂理であり、ご計画なのです。世で悔しい目や苦しみにあう時、神を恨んではなりません。そのようなときは、さらに神に拠り頼まなければなりません。必ず神が私たちを良い道へと導いてくださると信じなければなりません。特に、私たちの人間的な考えでは到底理解できないようなことが、この世にはたくさんあります。そして、自分や自分の環境が困難に陥るとき、私たちはたましいを見る目を持たなければなりません。良い御心が必ずそこにあります。
「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」(マタイ6章26節)
心のオアシス 2015年3月1日
これは実話です。アメリカのベリーという女性には、大きな夢がありました。それは、自分のように貧しさのゆえに勉強できない子供たちのために学校を建てるということでした。ある日、祈っているうちに思いついたことがあって、大富豪のヘンリー・フォードを訪ねました。そして彼に、学校を建てるための寄付を募ったのです。話を聞いていたヘンリー・フォードは、コインを1枚差し出しました。それは屈辱的な拒否の表現でしたが、ベリーさんは失望せず、祈った後、そのコインで種を一袋買い、それを空き地に蒔いて育てました。毎年少しずつ種の量は増え、数年後には農場に変わりました。ついに建物を建てることができたベリーさんは、もう一度ヘンリー・フォードを訪ねました。「数年前にいただいた1枚のコインによって、成し遂げた成果を見てください。」ヘンリーは、コイン1枚で建物を建てたという言葉が信じられず、農場に建った学校を見に行きました。そして、深く感銘を受けた彼は、学校のために100万ドルを寄付しました。
ベリーさんは、現実的には、とうてい学校など建てることができない1枚のコインで、学校を建てることができたのです。どうしてでしょうか? それは現実ではなく、信仰を働かせたからです。小さな一粒のからし種ほどの信仰があるならば、それは現実に奇跡を生み出すということです。そしてそれは死に対する解決さえ与えるものなのです。
私たちにも何の足しにもならないコイン一枚のような現実があるかもしれません。それは、経済であるかもしれないし、能力や学力かもしれません。また健康や精神的にも十分でない弱さを覚えることもあるでしょう。でも、それらの現実に対して、私たちは肩を落とすのではなく、主に祈るのです。それは神さまにお委ねするという一粒の種のような信仰の表れです。神さまは不思議な知恵を与え、道を備え、助け手を送ってくださるでしょう。旧約聖書に、カラスがエリヤという人物に肉を運んだという記事がありますが、そんなことが本当にあるのでしょうか? 私は現代でもあると信じています。実際に体験済みです。
心のオアシス 2015年2月22日
ある教会の牧師の話です。牧師夫婦がスーパーに行くと、おもちゃコーナーから離れない息子さんといつも戦いが起こるそうです。母親がどんなに叱ったりなだめても言うことを聞きません。結局父親が登場することになります。「きっと僕の手からおもちゃを取り上げるんだ」と、警戒の目つきで父親を見つめます。しかし、父親は笑って言います。「おまえは本当にこのおもちゃが欲しいんだね。」自分が願っていることを父親が関心を示すと、子どもは緊張と警戒を解きます。そして父親は続けます。「おまえが欲しがっているおもちゃ、お父さんも見ていいかい?」するとその言葉に素直に従います。父親はおもちゃをよく見てから言いました。「これ、本当にかっこいいね。やっぱりおまえはおもちゃを見る目があるなぁ。でも、ここに小さい子どもが遊ぶおもちゃって書いてあるぞ。」おもちゃに記された対象年齢を見せると、子どもは「本当だ」と言いました。父親が「じゃぁ、これは小さい子のために置いておいて、他のを見に行こうか」と言うと、子どもは何事もなかったかのように父親に素直について行ったそうです。
実は、私たちも、子どものように意地とエゴで凝り固まっているので、自分の願い通りに事が進まなければ、その場でジタバタしてしまうのです。親は子どもの最善を知っている以上に、神さまは私たちが本当に幸せになる道がどこにあるのかをご存知なのです。私たちが状況に振り回されないで、冷静に物事を見極めることができる秘訣は、「神さまの時と時期」を優先し、「神さまのタイミング」に委ねることを学ぶということです。そして「イエスさまなら何とかしてくださる」ことを信じ続けるということです。
私も今までの人生の中で、さまざまなテスト(試練・訓練)がありました。でも、この秘訣を用い始めるようになってから、心配して悩み続けることがなくなりました。そればかりか、苦難を肥やしにして生きることができるようになりました。悩んでいても何の解決もありません。あなたも、“おめでたい人生”を送ってみられてはいかがでしょうか?!
心のオアシス 2015年2月15日
朝日新聞に投書されて特集に載ったものをご紹介します。
「私の母は、私が入試に失敗したので、ガッカリした顔をしています。そういう顔をされると、こちらまでイヤになります。これから一年間、母のあの顔を見るのかと思うと、もう絶望的にさえなります。ところが嬉しいことがありました。近所のオバさんが私が入試に落ちたのを知って私に言うのです。『それは良かった。素晴らしい体験をしたのよ。そういう体験をしてこそ人の心の痛みがわかるようになるのよ。だからめでたいことなのよ。さぁ、お祝いをしましょう。私がご馳走するよ。』ということになって、思いがけないご馳走になりました。私は驚きました。入試に失敗したのにお祝いしてくれるなんて・・・しかし、私はこのご馳走を一生忘れないでしょう。おばさん、ありがとう。」
この記事を読んだとき、神さまの計り知れない私たちに対するご計画と恵みの世界を感じました。世の中には「勝ち組」とか「負け組」というカテゴリーを作って、「成功者」「失敗者」というレッテルをつけたがります。しかし負け組に入れられたからと言って、本当にそれが失敗なのかをむやみに私たちが判断してはならないでしょう。この世における成功も失敗も、所詮、「今」の状況判断だけであって、その人の人生全体を見てはいないということです。
讃美歌536番の歌詞が、心に響きます。
① むくいを望まで 人に与えよ こは主の かしこき御旨ならずや
水の上に落ちて流れし種も いずこの 岸にか 生いたつものと
② 浅き心もて 事を計らず み旨のまにまに ひたすら励め
風に折られしと見えし若木の 思わぬ木陰に 人もや宿さん
永遠の世界における成功者が、この世においても勝利者であることを聖書は教えています。どうすれば永遠の世界における成功者になれるのでしょうか? 「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか」(1ヨハネ5:5)
心のオアシス 2015年2月8日
「天国のスーパーマーケット」という詩をご紹介します。
私は人生のハイウェイを歩いていました。ある日、私は「天国のスーパーマーケット」と書いた看板を見つけました。少し近づくと、ドアが大きく開きました。気がつくと天使の案内係がいて、私に買い物カゴを渡してこう言いました。「さぁ、買い物をしてください。人間にとって必要な全てのものがこの店にはあります。運びきれなければ、また来ることができます。」そこで私は店内を歩き始めました。まず初めにいくらかの「忍耐」を取ってカゴに入れました。「愛」は同じ棚に並んでいました。下の方には「理解力」がありました。どこへ行くにも、それは必要です。私は1~2箱の「知恵」と1~2袋の「信仰」を取りました。どこにでもあったので、見逃すことなく「霊」を取りました。私は人生のレースを助けるため「力」と「勇気」を取るために立ち止まりました。この時までには買い物カゴは、いっぱいになってきました。しかし私は続けていくつかの「恵み」が必要だったことを思い出しました。「救い」は忘れませんでした。それは無料なので友人を救うために十分取りました。それから私は主の御心を行なうために全てのものを得たので、買い物の支払いをするためにカウンターへ行きました。通路に来たとき「祈り」を見ました。私は外へ出たとき、罪に走ることを知っていたので、それは必要でした。「平安」と「喜び」は、たくさん置いてあります。それは最後の棚にありました。「歌」と「賛美」は近くにかかっていました。そして、レジの天使に「これで、いくらになりますか?」と聞くと、微笑んで言いました。「ずっと前にイエス・キリストがあなたの請求書を支払われました。あなたが、どこへ行くにも、これらを持っていなさい。」
イエス様の十字架は、私たちを生かすためのものでした。罪に死ぬ私たちを救うために、その代価を生命で支払ってくださったのです。それ故に、私たちの今があるのです。人間にとって必要な全てのものは、無料で神さまから提供されています。主にあって人生を楽しみましょう!
心のオアシス 2015年2月1日
人生とは、あなたのためにあるのではないことを忘れてはなりません。あなたが神の目的のために存在しているのであって、その逆ではありません。神が私たちにこの地上の時間をお与えになったのは、天国に入る前に私たちの人格をしっかりと建て上げておくためなのです・・・あなたが永遠の世界に持っていくことができるのは、人格だからです・・・多くのクリスチャンが神の偉大な目的のために生きることよりも、個人的達成感や情緒的安定といったものに甘んじています。これは自己愛であって、弟子訓練ではありません。主イエスが十字架にかかって死なれたのは、私たちが快適な人生を送り、うまく順応して生きていくためではありません。神の目的は、遥かに深遠なものです。神は私たちを天国に連れていく前に、私たちをご自分に似た者に造り変えようとしておられるのです。これこそ私たちの最大の特権であり、直接の責任であり、そしてまた究極の使命でもあるのです。
(リック・ウォレン著「人生を導く5つの目的」より抜粋)
耳の痛い箇所の抜粋をしましたが、これは聖書的真理でもあるのです。勿論、快適な生活や安定した人生を求めることが悪いとは思いませんが、命懸けで今の時代まで信仰を継承してきた先人たちから見ると「甘い」と一言言われるでしょう。
私たちは老若男女、どの時代、どんな立場であっても、どんな環境に住んでいる人でも、私たちを振り回そうとする風が、生涯を通して吹いてきます。それは褒められることであったり、そしられること、悪評を受けること、好評を博すことでもありますが、それらが人を有頂天にさせ高ぶらせたり、自信喪失させて落ち込ませたりして、私たちの心を揺すぶる材料になります。悩みや心配事は、一生続くものです。でも、それは、天国に入る私たちの人格を整えるためだというのです。この地上での生活は、天国予備校?のようなものなのかもしれませんね。
「八風吹けども動ぜず」のような人格を作り上げていくことを、一生かけて成長していくことを神さまは望んでおられるということです。
心のオアシス 2015年1月25日
ある金持ちが新聞に次のような広告を出しました。「現在の自分の暮らしに心から満足している人は、私のところに来てください。それを証明できたら1千万円差し上げます。」その広告を見た数多くの人が金持ちの家に押しかけました。しかし、1ヶ月が過ぎても1千万円を受け取る人はいませんでした。長い行列はしだいに短くなり、そのうちに、だれも金持ちを訪れる人はいなくなりました。金持ちのところにやって来た人たちは、口々に自分がどんなに現在に満足しているかを熱弁しました。しかし、金持ちのある質問に対しては、だれも答えることができませんでした。それで結局、ひとりも1千万円を受け取ることができませんでした。金持ちの質問はこうです。「あなたが本当に今の暮らしに満足しているなら、どうして1千万円をもらいにここにいらっしゃったのですか?」(「神に目を向けましょう」キム・チャンファン著より)
私たちの満足というものは、一時的であることがわかります。どんなにお金があっても、もっと欲しいと願うようになり、地位があっても、学歴があっても、もっと立場が欲しいと求め、大きな家や高級車を手に入れても、すぐに飽きてしまうのが人間の姿です。満足感を味わいながらも、ほとんど同時に次を求め始めているのです。そのような欲求があるからこそ、文明文化は発展していったといっても過言ではないでしょう。しかし、どれだけ便利な社会になっても、人間の満足感は満たされ切れていないし、空白感や孤独感は昔と変わらず残っています。神さまが私たちを、「欲求」を持った存在として造られたわけですから、私は、それは悪いことだとは思っていません。しかし、「満足」することができる方法も神さまは与えてくださっているのです。私たちは神さま仕様で造られていますから、それに従えばいいのです。すなわち神さまの側に立ったモノの見方をすると、実際には足りなくても、それで満足することもできるようになるから不思議です。よく考えてみてください。神さまは私たちが生きるためにどれだけ多くの大切なものを与えて続けてくださっていることでしょうか。すでに満ち足りているのです!
心のオアシス 2015年1月18日
私はアメリカ留学時代に、東部に位置するジョージア州から西部のユタ州まで、車で横断したことがあります。友人が引越しをすることになり、食事代や宿泊費、帰りの飛行機のチケット代は全部払うので、彼の車の一台を運転してほしいと要請してきたのです。私は即、引き受けました。春休みを利用しての引越し計画で、彼の車にはお手製のトレーラーを連結して家財道具を隙間がない程に詰め、私が運転する車の中には、何故か鉢植えや、トレーラーに積み残した物が、後ろの席や助手席に所狭しと積み込まれていました。こうやって5日間5千キロの旅が始まったのです。毎日の風景が変わっていくことが新鮮でした。スタート地点は山や川のある日本のような地域でしたが、2日目あたりから徐々に山がなくなり、360度見渡しても緑の平原地帯が続くばかりになりました。更に西へ進み3日目には標高が高くなり、緑がなくなり、赤い岩や風化した岩山などが出現し始め、大陸の大きさを物語っていました。楽しいドライブになるはずでしたが、この旅の途中で思いがけないハプニングに遭遇したのです。一つはトレーラーのタイヤがパンクしたことと、もう一つは、凍結している道路で、前を走っていた友人の車が横滑りをはじめて中央分離帯の雪の中へ突っ込んでいったのです。友人は旅の途中から意気消沈して、酷く落ち込んでいましたが、何とか励ましあいながら目的地に到着することができました。帰りに友人が私にアルバイト代だと言って、飛行機代以外のお金を渡してきたのです。私はいただくつもりはなかったので断りましたが、彼は私にこう言いました。「君には、それを受け取る価値があるんだよ。運転だけではなく、一緒にいてくれて心強かった。だから受け取ってほしい。」私は、アメリカ人の中ではいつもお世話になるだけで、彼らのためになる存在ではないと、ずっと思っていましたが、この言葉に感動しました。
神様は、私達に何ができるとかできないとか関係なく、その存在を愛して受け止めてくださっているのです。いるだけで価値があるのです。「あなたは私の目には高価で尊い。私はあなたを愛している」(聖書)
心のオアシス 2015年1月11日
昔の人たちは、「天動説」を唱えていました。それは、この地が動いているのではなく、天や空が動いているという考え方です。ですから、月や星、太陽のある天が東から西へ移動していると考えられていました。天動説は、人間の側が中心になっている物の見方です。それに対する「地動説」は、天が動いているのではなく、文字通り地面(地球)が動いているのだという考え方です。これは、人間側が中心になっていたら、なかなか出てこない発想です。かつて地球は平面だと考えていた時代に、地球が丸いなんてことを言う人がいたら馬鹿にされていたことでしょう。
私たちは、自分の今立っている場所から見える今の現実を見て、それを描写します。しかし、そこからちょっと離れて客観的に見たら、違う景色が広がっているということも言えるでしょう。私の体験から言うならば、神の側に立って現実を見たら、結構解決することが多くなります。
キリスト教用語に、「悔い改める」という言葉がありますが、これは「思いを変える」という意味であって、今まで自分が中心だった考え方から、神の側に立った思いを持つということなのです。世の中は、相手の立場に立って言動するならば、円滑に物事が進むようになっていますが、それ以上に、神の側に立って生きると人生は最善に導かれていくのです。
バッハは歴史的に有名な作曲家であり、優れたオルガン奏者でした。彼は、100曲以上の教会音楽も作曲しました。彼が生きていた時代を「教会音楽の時代」と呼ばれるほど、彼は宗教改革が生んだ音楽界の最高峰でした。バッハは、「音楽の唯一の目的は、神の栄光のために人間のたましいを目覚めさせることだ」と言いました。実は、バッハの楽譜には、すべて前の部分にはJ.J.(Jesus Juva「主よ助けてください」の意)を記し、最後の部分にはS.D.G.(Soli Deo Gloria「神さまだけに栄光を」の意)を書きました。時には最後に「あなたの御前にたちます」と書くこともありました。またこうも言いました。「神さまのピリオドをクエスチョンマークに変えてはならない。」神さまの側に立つならば、私たちの側の疑問符「?」は消えて、感嘆符「!」に変わるのです。
心のオアシス 2015年1月4日
当時小学2年生であった娘が、クリスマスの1ヶ月ほど前から私に「今年のクリスマスは、サンタさんに新しい自転車を頼んだ」と言い出しました。実は、娘はサンタが誰なのか知っていながら、私にお願いをしてきたのです。私は、家計の予算の関係上、自転車をプレゼントすることなど、全く考えていませんでした。ところがクリスマスの10日ほど前に、ある場所で娘がほしがっているマウンテンバイクが、なんと通常の半額の値段で売られているのを発見しました。私は意を決して注文しました。家に届くのはクリスマスの3日前。娘のいない時間帯に運んでいただくことにしました。そのことを知らない娘は、何度かプレッシャーをかけてきましたが、私は相変わらずな素振りを見せながら、内心ではニヤけていました。そしてクリスマスの3日前に、自転車が届き、当時の家の一部屋は「開かずの間」になっていて、そこに自転車を隠しておきました。3日前、2日前になっても、娘は私が自転車を注文した様子もないし、自転車が届いている様子もないので、諦めはじめました。そして、サンタさんに頼むプレゼントの希望変更をしてきたのです。「紙粘土でいい」と言い始めたのです。クリスマス前日には、「サンタさんが、いいと思うものだったら、何でもいいや!」と投げやり状態になっていました。もうサンタさんに対する夢も希望も信頼も期待感も全くない状態になりました。当日の朝早く、夜の明けるよほど前に、私は起きだして隣の部屋に隠してあった自転車を取り出して、部屋の隅に置きました。
いよいよ娘が目を覚まして、枕元に置いてある小さなプレゼントの箱に気付いて開けました。自転車のチェーンを出して、「今の自転車につけることができるからこれでいい・・・ありがとうサンタさん」と言うのです。まだ気付いていない娘にあれを見なさいと促すようにして指差すと、娘は欲しかった自転車に気付き、感激のあまり号泣しました。
私たちの信仰の部屋には、すでにオーダーしたものが置いてあるとするならば、私たちは何も憂えることはないのです。ただ見えないのが残念なのですが、信仰の目は、それをしっかりと見ることができるのです。