礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2015年8月23日

私は、今まで沢山の方々によって支えられてきました。アメリカ留学をした時の行き先は、テネシー州とジョージア州の州境のド田舎でした。高校を卒業したばかりで、右も左もわからない私がアメリカの大学で生き抜くことは大変なことでした。会話力も乏しければ、深い話をすることもできませんから、挨拶程度の友人はできても、真の友人と呼べる人はなかなかできませんでした。思うように、言葉で表現できないジレンマの中で寂しさも覚えました。言葉が通じることが、どれほど有難いことかを思い知りました。日本人もいない片田舎で、寝るか勉強するだけの生活に疲れを覚えました。
ある日の夕食時、ダイニングホールで、同じテーブルに座った2年上のスティーブ・ヤンスという学生と、いつものように社交辞令の挨拶をしました。普段ならそれ以上の会話はなく、ただ食べるだけで、その場を後にしましたが、彼は私に興味を持って、色々な質問をしてきました。私が上手く英語が話せなかったり説明ができないにも関わらず、積極的に話しかけて、一緒に行動するようになりました。やがて、彼は私を「ベスト・フレンド」だと言って、他の人たちに紹介してくれるようになったのです。私は彼にとって、何の益にもなっていないのに、どうして自分のことを「親友」だと言うのだろうか? と驚きと同時に励まされたのを覚えています。彼は今でも親友です。

スティーブは、あの時、私にとってイエス様が違った姿でご自身をあらわされた存在だったと、後で気づかされました。彼自身がイエス様というわけではありませんが、主が遣わしてくださった存在でありました。
私たちは自分の人生を振り返った時に何を見るでしょうか? 辛かったことや、悲しかったことなど、暗かった部分を見て嘆くでしょうか? そのような砂漠のような道を通った時にも、不思議なようにしてオアシスを見つけたことはないでしょうか? もし神さまがご一緒してくださった跡を見ることができるなら幸いです。

「あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています」(詩65篇11節)

心のオアシス 2015年8月16日

 歴史上、韓国がこれほど豊かな時代はありませんでした。今も絶対貧困階層はありますが、韓国の経済力はすでに世界レベルです。しかし問題は、満足度指数が落ちてしまったということです。そのため、以前よりも不満の声がさらに増しました。
 人間の欲を満たせるものはありません。人間の欲は底なしの壺のようなものです。願っていたことが成就すれば満足できるでしょうか。15坪のアパートから30坪のアパートに引っ越せば宮殿のように感じますが、その満足感はどれほど続くでしょうか。50坪ほどの家に遊びに行って帰って来ると、長患いします。だからと言って、50坪の家に引っ越しをすれば満足できるでしょうか。以前80坪を超える家を訪問したとき、その家の主人は「子どものカバンを置くところがないんです」と言いました。このように欲には終わりがありません。
 それにもかかわらず、人類は何かを手に入れると満足できると考えます。人間の満足は手に入れることによって得られるのではありません。それは条件の問題ではなく、心の問題だからです。貪欲は神から離れた、その空白から生じるものです。ですから、あらゆるものをつかんでも、むなしさや飢え渇きが襲ってくるのです。
 豊かで満たされた人生を望むなら、まず自分の心に神への飢え渇きがあるかどうか振り返ってください。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」(詩篇23篇1節)と告白できるなら、幸せで祝福された人生です。        (イ・ギュヒョン著「深い満足」より抜粋)

 「これを手に入れたら満足することができる・・・」というのは、資本主義社会やハリウッドが作り上げた虚像なのです。豊かさは悪いものではありません。一時的にでも満たされたような錯覚を起こすことができるでしょう。しかし、人生における本質的なものを見失わせてしまうならば、本(元)も子もありません。「神」を求める心があれば、何もなくても満足できる秘密がそこに隠されています。

心のオアシス 2015年8月9日

 チョーヨンギ先生の「神の摂理」という著書の中からの抜粋です。
 「お母さんの言うとおりですよ。足の代わりに、父なる神が私の身体を支えて下さるので、不便なことはありません。」少年のこの言葉が、どのような状況の中で出てきたのかを知るならば、感動しない人はないでしょう。これは腰から下の下半身がない11歳のアメリカの野球少年、ケイシー・マッカリスター君の言葉です。ケイシーは6歳の時トラックにひかれて腰から下が砕けるという大事故にあいました。一般的にはこのような大事故にあうと、身体はもちろん心まで、そして家族全体が崩壊する場合が多いはずです。しかし、このようなとんでもない大事故でも、彼とその家族の勇気を奪うことはできませんでした。そして誰の心にも傷や恨みがまったく残りませんでした。彼の家族は、パーティーを開くとき、ケイシーをひいたトラックの運転手まで招待し、交わりを持っているそうです。彼は現在学校で野球選手として活躍しています。彼は両手でボールを打って、両手で走ります。そんな身体で野球をすることが困難ではないのかという質問に「他の子たちより遅いことは確かですが、でもその代わり長打を打てば問題ありません。」と答えていました。彼は野球だけでなく、その他の日常生活、例えば掃除や、皿洗いなど家の手伝いも免除されてはいません。それだけでなく、毎朝5時に起き、車椅子で新聞配達のアルバイトをやってお小遣いを稼いでいます。家族や両親は、他の兄弟と変わりなく接しています。このソバカスだらけの赤毛の少年の夢は、将来飛行機のパイロットになることなのです。彼は、両足を失ってからも飛行機を操縦している、あるパイロットと知り合いになって情報を得ています。
 このように、ケイシー・マッカリスターとその家族は、このように大きな試練の前にも、決して挫折しませんでした。彼らは挫折の代わりに希望を選び、足の代わりに父なる神を選びました。彼らの肯定的な姿勢と信仰は、更なる不幸から彼らを守る防波堤の役割をはたしました。

 「希望は失望に終ることはない。」(ローマ5章5節)

心のオアシス 2015年8月2日

 ある韓国の牧師が高校生だった時のお話です。
 韓国では、今でも受験は、その人の一生を決めるような一大イベントです。親も教育熱心で、自分の子供たちに対して英才教育をほどこします。この先生の高校生時代も、その学歴社会の中において、大学入試は非常に重要な事柄でした。クリスチャンの親でも、自分の子供が受験生であれば、日曜礼拝に行ったり、教会の学生会の委員になることを嫌がりました。委員を選ぶ日には、学生たちは教会に来なかったそうです。しかし、当時、学生であったその牧師と、友人たちは、神さまの働きを行ないながら熱心に勉強するなら、神が良い結果を与えてくださると信じ、委員になる決心をしました。一年間、熱心に教会に仕えながら勉強しましたが、大学入試の結果、彼らは全員、志願した学科に合格できませんでした。名門大学の経営学科を志望した友人は中国語学科に、英文学科を志望した友人たちは、それぞれロシア語学科とベトナム語学科に行きました。その当時、中国・ロシア・ベトナムは韓国とは全く交流のなかった国で、その国の言葉も必要のない時代でした。彼らは失敗者とみなされました。その学生たちは、そのような結果に頭を垂れるしかありませんでした。しかし、彼らが大学を卒業する頃、驚くべきことが起こりました。ソ連が崩壊し、中国は門戸を開放し、ベトナムとの貿易が始まったのです。文字通り世界が変わったのです。すると、企業は、その国の言葉を話せる人々が必要となり、大企業が彼らを大歓迎したそうです。
 私たちは、今の状況を見て、それが失敗かどうかをむやみに判断してはならないでしょう。「今」の時点では、それが本当に失敗なのかはわからないからです。神さまをないがしろにして名門大学に入ることが成功なのでしょうか? 人間的には、失敗とは言えないかもしれませんが、神さまの言葉に従うことこそが、真の成功だと思います。
 
 私たちは「点」でモノを見て判断しますが、神様は「線」の中で私たちを導いてくださっています。私たちは、恵みの線上にいるのです!

心のオアシス 2015年7月26日

 輪島東太郎さんは、NHKや色々な日本の番組で取り上げられた奇跡のテノール歌手・ベー・チェチョルさんを支え続けた音楽プロデューサーです。彼はクリスチャンアレルギーでしたが、2013年3月31日に洗礼を受けました。彼のお証しを リビングライフより一部紹介します。
 私は神さまから大きな試練を頂きました。この地球上に、当時の私の置かれた状況を解決する道など、一つも見当たりませんでした。具体的な状況は違うものの、べーさんが命ほど大切な声を失って初めて本当の意味で神さまに出会ったのと全く同じ道を、私自身もたどることとなったのです。無意識のうちに命を絶ちそうになるほどの絶望の真っ只中で、私はハ・ヨンジュ先生の書かれた一冊の本を手にします。それはベーさんがラブ・ソナタに参加した時に同行した際に頂いたものでした。しかしそれ以来ずっと本棚で埃をかぶったままになっていたあの本を、なぜ手にしたのか、今も不思議でなりません。乾いた大地に、慈愛の雨が降り注ぐように、聖書の御言葉が私の魂に入ってくるのを感じました。それは生まれて初めて感じる感覚でした。絶対的な愛に包まれるような平安としか表現できないものです。「神さまにおできにならないことはない。私はこれまでべーさんを通してそれを見てきたはずなのに、私の目には見えていなかったんだ・・・」とめどなく流れる涙の中でそう感じた瞬間、私は完全に生まれ変わったのかもしれません。そして奇蹟は起こりました。自分を捨て、全て神さまに委ねた瞬間から、まるで魔法のようにどんどんと道ができ、その状況は解決したのです。思えば、ベーさんの時も同じでした。もしも、あのまま、イエス様と出会えず、神さまの愛を知らずに生きていたら・・・、そう考えると恐くなります。神さまにおできにならないことは何もない! いつも一番近くで、こんな私をこれほど愛して下さっていたのに、それがわからずさまよっていた私を、神さまはベーさんを通して救って下さったのです。多くの人に言われます。「輪島さん、あなたがべーさんを救ったのです」と。でも、本当に救われたのは私のほうなのです。 PTL!

心のオアシス 2015年7月19日

 アメリカにある古びた教会で、年に一度の食事会が行なわれました。夕食会の後、司会者に指名された人は、即興で一芸を披露することになっていました。よい頃合になった時、司会者がジェームスを指名しました。「ジェームス、まず先陣切ってお前に頼むよ!」彼は立ち上がり、前に出てシェークスピア調で聖書の詩篇23篇を流暢に暗唱しました。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。・・・」朗読が終わった時、拍手喝さいでした。次に司会者は、部屋の隅っこにいたビリーを指名しました。彼はボロボロの麦わら帽子をかぶって、モゴモゴしながら前に出てきました。そして言いました。「俺はこれといった芸はできないけど、今ジェームスが暗唱した詩篇23篇ならできるんだけどなぁ・・・」みんなが、やってほしいと促すと、ビリーは、このように始めました。「昨年は母が死んで、辛い年だったけど、主は俺の羊飼いであって、乏しいことがなかったよ。畑は不作で、子供たちも学校に行けずに働いたけど、主は俺を緑の牧場に伏させて、憩いのみぎわに伴われたな~。色々な問題で悩んで落ち込んでいたけど、主は俺の魂を生き返らせて、正しい道に導いてくださった・・・仕事中に危険な目に何度も遭ったけど、主が俺と共におられるから、恐れることはなかった・・・。結局、子供たちは学校をやめなきゃならなくなったけど、あなたのむちと、つえによって俺はとても慰められたよ。どんな時にも、杯はあふれて満たされたから、俺の生きている限りは、必ず恵みといつくしみとがついてくる確信があるんだよ。俺はいつまでも神様の臨在の中に住みたいなぁ。」ビリーの体験談付き詩篇の朗読が終わった後、人々の目は、涙でいっぱいでした。その時、先ほどのジェームスが立ち上がって言いました。「ビリー! 僕は聖書の詩篇23篇を知ってるけど、あなたはそこに出てくる羊飼いが、どういうお方かということを知っている。そして、それこそが人生で最も大切なことであることが、今わかったよ。ありがとう!」 

 神さまは日々の力であって、生活の中で体験するべきお方です!

心のオアシス 2015年7月12日

私たちに起こる出来事の中に偶然はありません。すべては神の主権的な摂理のもとにあります。そして、神はその中で私たちを見ておられます。私たちに降りかかる困難な状況は、私たちが神を知ることによって強くなってほしいと願われる神の御手によるものです。神は、私たちがその状況を乗り越えることを願っておられるのです。
 私たちを苦しめる人々がいたとしても、神は彼らを通して私たちを訓練されます。私たちが「あの人さえいなければ怒らないのに」と言うとき、神は「その人をわたしからの使いだと思いなさい。彼を通してあなたの人格のどの部分に訓練が必要かがわかるだろう。あなたがわたしを知ることによって、その状況を通してわたしの品性があなたのうちに現れることを願っている」と言われます。
時に、私たちは、火の燃える炉に入って行くような経験をすることがあります。あまりにも火が強くて、すぐにでも溶けてしまうかのように思えるほどの試練です。訓練を受けるのをやめたいという思いも生じます。ただ怒りを発することで事を処理したいという思いまで生じます。そんなとき、神が見ておられます。「わたしはあなたを練ろうとしている。まず、わたしのことを知りなさい。わたしを知って強くなりなさい」と言われるのです。神を知るとき、人は強くなります。私たちへの神の考えは驚くばかりです。私たちに問題があるとしても、すべての問題の解決者であられる神が共におられます。そんな神に自分自身をささげるとき、みわざが始まるのです。
                              (「神の品性にあずかる人」ホン・ソンゴン師著より)

 私たちがこの世で生きる限り、必ずといっていいほど「この人さえいなければ・・・」と思ってしまう人物が登場します。でも聖書を土台にして生きるなら受け止め方が変わってくるでしょう。このようなメールを送ってくださった方がいます。「聖書のお話を聴いていなかったら、気が狂っていたかも? 物事に関する判断、自分の”ものさし”が変ってきました。やはり、聖書は、正しい判断基準と確信しています。」

心のオアシス 2015年7月5日

 大和カルバリーチャペル・青年クリスチャンのお証しをご紹介します。

 昨日、報道で、フィギアスケートの高橋大輔君が大切な人ですと、クリスマスアイスショーの後の打ち上げで女性を紹介したって。わぁ。想像してみた。もし、私がその女性だったら・・・。コンプレックス、劣等感の塊のわたしだったら、高橋君とは釣り合わないって、落ち込むか、焦るか、どうにかこうにか背伸びして、努力するか・・・でも、もし、高橋君が私のことめっちゃ好きって言ってくれたら。。。そのままで、好きって言ってくれたら。。。わがままな所も欠点も含めて、好きでそのままがいいっていってくれたら。まるで、お姫様のように大切に扱ってくれたら。私は、もしかしたら、そんな晴れがましい席に出ても堂々としていられるかもしれない。いや、とってもいい意味で、高橋君がそのままでいいっていうけれど、少しでも、大切な人らしくいたいって思う。相手の価値によって、自分の価値を引き上げてもらうというか。。。何ができるから好きとか、こうだから好きっていうんじゃない。そのままが好きっていうか。好きになってもらうための努力がいらないっていうか。何も頑張らなくていいっていうか。それが、もしかしたら、基本的な安心なのかも。それがなければ、いつまでも、いつまでも、不安なのかも。
神様はそれを教えて下さってるのかも。こんな私でも?こんな私でも?っていう自分を見せられる。その度、あぁって。やっぱダメなんだって。こんな私は、やっぱり、神様はお嫌いになるって。でも、いっつも違うんだ。あれ?って思うんだ。ほんと?って思うんだ。こんな私でも愛されてるってことを、いつも教えていてくださる。自分で自分を愛せないような私を、愛して下さっている。そう、あんなに最低な時も。
 神様が今年も、どんなにか晴れがましい席に私を誘ってくれるかもしれない。そんなとき、神様に愛されている大切な人として堂々としていたい。基本的な安心をもって、焦らず比べず、感謝したい。どんな欠点も、気にならなくなる。だって、その欠点すら愛されているのだから。

心のオアシス 2015年6月28日

 先日、大和CCの週報に載った50代男性の体験談です。
 私は自動車部品メーカーに勤めているビジネスマンです。今から十数年ほど前、中国の大連にある企業と取引をすることになり、私はそこに頻繁に出張することになりました。その会社の経営者は倉永さんといい、とても熱心なクリスチャンです。社員は中国人ですが、朝は早天祈祷会から始まり、昼休みは聖歌練習、夕方5時以降は聖書勉強会というように一日中、主と共に仕事をしている会社でした。私は倉永さんと一緒に仕事をする中で、クリスチャンを肌で感じ、神様の愛に興味を持つようになりました。倉永さんは、マイナスと見える局面でも「神様が一緒だから大丈夫! 問題だらけだけど毎日が楽しい」と言っていつも喜んでいますし、それは無理でしょう!と思える時でも、プラスのビジョンを持っていて、やがてその通りに環境が後からついて来ると言いましょうか、必要な人や物が絶妙なタイミングで集まって来て問題が解決されるばかりか、更にプラスになって行く。そういうことを何度も見て一緒に体験し、いつか私も「そうなりたい!」と思うようになりました。その会社の掲示板に「祈りの課題」が貼ってあるのですが、そこには、私の名前が書かれてありました。彼らが私の救いのために熱心に祈ってくれていたのです。数ヵ月後には、神様のことをどうしても知りたくて、もう我慢できなくなって、中国まで行って倉永さんに「どうしても神様のことを知りたくなりました。クリスチャンになる方法を教えてください」と打ち明けました。そして倉永さんから「大川先生の牧する教会に行きなさい」と紹介されて、住所を調べていただいたら、私の家から車で10分くらいの所でした。帰国後、すぐこの教会に来て、三ヶ月後には大連から倉永さんも来ていただいての洗礼式でした。私は教会が本当に大好きで、毎日でも教会に来たいと思っています。今では、毎朝、早天祈祷会で祈ってから会社に行くことによって、私のビジネスは、大変恵まれ続けています。先日、真夜中に腹部の激痛。救急車を呼ぶ前に、「イエスさまのみ名によって祈り」いやしを体験しました。主に感謝!!

心のオアシス 2015年6月21日

 心温まる実話です・・・サーカスの入場券を買うために長い列に並んでいた夫婦と上は小学生から幼稚園ぐらいまでの8人もの子供たちを連れた大家族がいました。 外見的には、お世辞にも裕福そうとは言えない家族ですが、みんなきちんと列に並びとても微笑ましい雰囲気でした。サーカスを見るのは初めての様子で心待ちにしていたようです。嬉しそうにピエロやゾウの話しをしていました。しかしその家族にショッキングな事態が訪れます。チケット売り場の順番がきて「子供8枚と大人2枚ください」と言い入場券の合計金額が告げられると急に夫婦の表情が変わりました。告げられた金額のお金を持ち合わせていなかったのです。青ざめた表情の夫婦の後ろには、サーカスを心から楽しみにしている子供たちがいます。しかしその父親は、明らかに苦悩の表情を浮かべ「サーカスを見ることができないと、どうやって子供に告げよう」そんな苦しい胸の内が聞こえてきそうな状況でした。父親が子供に悲しい現実を打ち明けようとした、まさにその時、事の成り行きを見ていた後ろに並んでいた男性が、ズボンのポケットに手を入れました。そして、20ドル札を取り出し、なにげなく足元に落としたのです。そして腰をかがめてそのお札を拾い上げ、前に並んでいる家族の父親の肩を軽くたたいて、こう言いました。「失礼ですが、ポケットからこれが落ちましたよ!」大家族の父親は、その男性が何をしているのかを、すぐに察したようでした。その父親は、人から施しを受けるような人ではありませんでしたが、その時は、その男性の好意を、心から感謝して受け取りました。手を両手でかたく握りしめ、その目をじっと見つめました。唇は震え、目にはうっすらと涙をうかべています。「ありがとう。助かります」こうして、何事もなかったかのようにして大家族はサーカスを見る事ができました。

 私たちは毎日を当たり前のようにして生きているかもしれませんが、実は、私たちは生かされているのです。知らないところで、神さまの大きな愛と恵みの手が私たちを支えていることを忘れてはならないのです。