心のオアシス
心のオアシス 2024年8月11日
先日3日間連続で行われた花園チャペルのキッズスペシャルは、とても意味のあるものであった。初めてチャペルに来た子どもたちが何人もいた。“宝さがし”がテーマであったが、御言葉を覚えたりゲームやダンスをする度に光る石やダイヤ、コインなどがもらえて透明の宝箱に入れていくと綺麗なグラデーションが出来上がっていく。3日間全部参加するとケースがいっぱいになりワクワク感が高まる。内容もよく考えられたもので、子どもたちは「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)をプログラムの節目節目で、少しずつ暗唱していき最終日には全部を暗記できるように導くのである。全員が覚えることができた。メッセージも素直に受け入れていく。子どもたちの姿を見ながら「心を入れかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」(マタイ18:3)というイエスさまの言葉が心に響いた。私たちは大人になり知恵や知識が増してくると聖書に書かれていることをそのまま信じることが難しくなってくる。自分に都合よく解釈したり、科学的に証明されていないことは受け入れがたくなる。
神が与えると言われた土地に入ったイスラエルの民は、そこで落ち着いた生活ができたわけではない。先住民と戦いながら一歩一歩自分の土地としていかなければならない現実があった。同じように私たちもこの地上での歩みは戦いである。この世の知恵知識やモラル観が、私たちの“信仰”に戦いを挑んでくる。しかし既に神のものとなっている私たちがこの地上において求められていることは、“神のもの”と思わせないようにする様々な敵を“信仰”によって勝ち取っていくことである。
ある小学生の女の子の好きなみ言葉がある。「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えてくださいのである」(Ⅰコリ10:13)
これを握れば困難は何てことない。日々神さまからの宝を発見しよう。
心のオアシス 2024年8月4日
今礼拝ではヨシュア記から連講しているが、毎回興味深いことだらけである。語っている私が言うのであるから聴衆も同じように感じておられるであろう。民数記や申命記では、イスラエルは目に見える火の柱・雲の柱に従って歩み毎朝積もっているマナを食べて生きてきた。荒野での40年の生活の後、ようやく辿り着いたヨルダン川の向こう岸に主が与えられた土地を前にしてリーダーであったモーセが息絶えてしまった。後継者のヨシュアが民を引き連れて約束の土地に入ってからは、今まで頼りにしていたモーセは召され、火の柱・雲の柱はなくなりマナも降るのが止んだ。これは“信仰”の時代に入ったことを表している。目で見えているものを頼りにするのは信仰ではない。しかし見えないものをあるかのようにして歩むことが信仰なのである。
入ったカナンは神がイスラエルに与えると約束された土地であったが、先住民との戦いがあった。これはキリストを信じた者の、この地上での歩みを表している。すなわちルカ17章でイエスさまは「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」とおっしゃった。しかし神の国がもうあるというのなら、どうして苦しみや戦いがこの世にあるのか?という疑問が起こる。主を信じても、まだ先住民ならぬ“肉”が残っていて、肉と新しくされた霊との葛藤が起こるのである。信仰に生き始めたイスラエルの戦いを、神を信じる者のこの地上での戦いと重ね合わせることができる。イスラエルの民がどのようにそのジレンマを乗り越えてきたかを学ぶことを通して、この地上での生き方を学ぶことができる。
先住民が住んでいたのに追い出すなんてイスラエルは残忍だと思われるであろう。しかし当時のカナンに住んでいる人たちを調べると、想像絶するありとあらゆる悪で満ちていた。ノアの時代は洪水で一掃されたが、ヨシュアの時代は一つの民族(イスラエル)を用いて一掃しようとされたのである。エリコの城壁が崩れた時の状況は、まさに黙示録に描かれている主の来臨の時の最後の審判を彷彿とする。
「主の名を呼ぶ者はみな救われる」(使徒行伝2章21節)
心のオアシス 2024年7月28日
イスラエルの民は紀元前約500年頃、バビロン捕囚から解放され神殿再建をすることが彼らの願いであった。しかし敵の妨害によって長くそれが中断されていた。エルサレムに帰還した指導者を励まし神殿再建を進めさせた時の神の言葉が「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」(ゼカリヤ書4:6)であった。“権勢”とは集団的な力で、“能力”とは個人的な力を表している。しかし神はそれらの力ではなく“神の霊”によって可能になることを教えられた。この言葉は14年前に開拓を始めた時に与えられたものであるが、それを握ることによって自分の能力や自分の手持ちを気にすることなく主の道具となりきることができた。当時から「会堂を建てましょう!」ではなく「神さまが必要なら直ぐにでも会堂を建ててくださるでしょう。今は借りた部屋で礼拝することを主が望んでおられますから、それに従いましょう」と話していた。そして12年目にして主は100名入る美しい会堂をお建てになった。
9年間お借りした石切チャペルでの宣教では知恵は尽くし大人は少しずつ増えていったが小学生は全く集まらなかった。次世代がいなければ教会の将来は危ういと思い祈ると、主からの答えは「ベストを尽くし後は我に任せよ。我が霊において成す」であった。学生たちが主に立ち上がるようにお祈りしても、問題のある人や病気の人たちのためにお祈りしても返ってくる答えはいつも同じであった。主に任せそこに身を置くと不安や心配などがないわけではないが、良い意味で一喜一憂して感情に振り回されることが少なくなった。そして今、近所から子どもたちが集まり、大きな声で賛美し、主の十字架に感動するようになった。学生たちが賛美集会を企画し、また恵みの証をするようになった。これは私や他の教師たちのやり方によってではなく、私たちは以前と変わらずコンスタントにベストを尽くしてきただけである。私が分かることは「ただ神の霊によって教会が導かれている」ということである。
私の元には毎日祈りのリクエストが入ってくる。人間的にお手上げのものばかりであるが主の霊によって何とかなると信じて祈っている。
心のオアシス 2024年7月21日
先日、東大阪福音教会・石切チャペルの献堂式に出席させていただいた。元々建っていた建物をリフォームされたのだが、このチャペルは私たちの教会とは深い関わりがある。私が教会開拓をスタートして二年目からこの建物を9年間お借りさせていただいた。それまでは公民館や集会所を借りて礼拝を行なってきたが、使用できなくなる度にバージョンアップしていった。午後行なっていた礼拝は奈良市内にあるカトリック教会を借りて行なうようになり、午前の礼拝は石切チャペルを使用させていただけるようになり、それぞれ教会の会堂をお借りできるようになった。当初からお貸しくださった神父さんや牧師先生には頭が下がる思いである。しかし私は「追い出される度に私たちの教会はバージョンアップしてきたので、どうぞ早目に私たちを追い出してください。そうすれば次なる飛躍があることを確信していますので・・・」と牧師先生にお伝えしていた。しかし返された言葉は「いえいえ、関西カルバリーが入ってきてから何かよどんでいた雰囲気が変わり澄み切るようになりました。ずっといてください」だった。私はそのようなお言葉に対して「関西カルバリーを祝福する者は祝福されることを確信しています!」と返答していた。
そして献堂式に参列しながら「この石切チャペルは、やはり祝福された」と思った。しかしこれは逆のことも言える。私たちが石切チャペルから出るときに、貸していただけた9年間があるからこそ花園チャペルの建築ができるようになったということへの感謝を表すために献金させていただいた。家賃も払っていたので必要はなかったのかもしれないが、役員さんたちと話し合い、これから土地を買うためにお金が必要な私たちにとってはかなり負担になるような大きな額の捧げものをさせていただいた。何が起こったか・・・その決断をして準備した日の夜に、ある方から連絡が入った。「献金をしたいので口座番号を教えてください」そして振り込まれた額は、何と私たちが捧げた10倍であった。神さまのくすしき御業に地にひれ伏すしかなかったのを覚えている。主の働きをする者を応援する時に与えられる祝福を強く感じた瞬間だった。
心のオアシス 2024年7月14日
花園チャペルに通う小学生たちから驚きの発言が飛び出している。「今度の土曜日はユニバに行く止めて教会のキッズクラスに来るねん!」「今度の日曜日、〇〇へ行かなあかんねんけど、教会に来れないのが嫌やねん」「昨日の夜、教会行くのが楽しみ過ぎて寝れんかった」朝の登校時間帯の旗振りの時には「今日は教会開いてる? 学校終わったら行くで~」と声を掛けられる。それぞれ違う子どもたちからの声なのだが、何がそんなに楽しいのであろうか? 平日は私も執務があるので一緒に遊んであげられない。宿題をするためになら来ても良しとしているが、何のイベントもないのに15名近く集まることもある。会堂前には自転車置き場があるが、そこに友達の自転車を発見すると芋づる式に吸い寄せられて来るようだ。娘がいる時には解散時間のラスト10分だけ一緒にゲームをする。なかなか帰ろうとしない子どもたちに「早く帰りなさい」と追い立てる教会も珍しい。先週の午後礼拝には大人と同等の人数の子どもたちが座っていた。これらの現象を見て思うことは、これが本来“主の家”のあるべき姿だということである。
ダビデは詩篇の中で何度も「私は永遠に主の家に住みたい!」と言った。敵が自分を襲いかかっている時にも、生活の真ん中で激しい戦いがある時にもしがみついてでも神の家に戻りたいという感情を表している。
「神の家」とは何なのか? それは礼拝する場所のことを指している。彼はいつ何時にも神さまを礼拝することを求めた。“礼拝”の何がいいのか? なかなか理解できない人は多いと思うが、これが私たちの究極の姿なのである。詩篇やイザヤ書によると私たちは「神を賛美し礼拝するために造られた」とあるように、主を礼拝する時にこそ本当の満足が訪れるようにそのDNAに刻み込まれているのである。
新約の時代に入り私たち自身が聖霊の住む神の宮であるというのであるが、物理的にそれを表しているのが“教会”である。今は子どもたちはただ「ここにいたい」と思っているだけかもしれないが、その魂が神を礼拝することを求めているからだということにいつか気付いて欲しい。
心のオアシス 2024年7月7日
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道の書3:11)これは14年間の開拓伝道だけではなく、私の人生を振り返ってみて総括するとこの御言葉が当てはまる。人間的に見ると山あり谷ありだったのかもしれないが私の心はいつも平坦であった。なぜなら神がついている人生は必ず良い場所に着地するようになっているからである。これは神を信じる者の強みだと思う。
今年の8月末で堺チャペルの礼拝を終了することとなった。その建物を無償提供してくださっていた店のオーナーの体力の限界などの理由でお店を9月末で閉じることになったからである。小さな会堂ではあったがいっぱいになることもあった。近辺で場所を探すことも考えたが花園チャペルのローンの返済もあるため断念した。そこで9月から堺チャペルのメンバーが花園チャペルに合流してくださることになった。いつも道が閉ざされる度に教会はバージョンアップしてきた歴史を振り返ると、7年間の堺での働きに終止符を打つことはとても残念なことではあるが、神さまの次なる計画が明らかにされることへの期待も大きくなった。
先週の役員会でその次なる神さまの計画が明らかにされた。まだ微調整が必要なので正式な発表は8月に入ってからにするが、一石三鳥ほどの内容で、あまりにもタイミングが良すぎて私も驚いている。
東京都知事選挙のある無党派の立候補者が「選挙を楽しんでください。これはふざけようという意味はなく、逆に一生懸命にやってみましょうという意味です」と語っているのを聞いた。私は全世界の人たちに「人生を楽しんでください!それはベストを尽くして結果は神さまに任せるということ。そしたら毎日がワクワクしますよ」と訴えたい。山があっても谷があっても、私たちのベストは尽くし結果は神さまの願っておられることに委ねるのである。そうするならば、まるで平坦な道を歩んでいるかのような気持ちになれる。
先日、会堂祈祷前に恵先生と会話をした「この美しい会堂どうやって建てたんだっけ?」「いつの間にか神さまが建てられたよね」
心のオアシス 2024年6月30日
今礼拝では「幸せの秘訣シリーズ」でお話しさせていただいている。幸せな人生を送るためにパウロはコロサイ書3章の中で「上にあるものを求め、思いなさい」と勧めている。“上にあるもの”とは一体何であろうか? それはこの地上にあるものではなく天上にあるもの・・・つまり“キリスト”ということである。
神はアブラハムに「あなたはわたしが示す土地へ行け。そこをあなたとあなたの子孫のため永久に所有として与える」と言われ、彼はすぐに出で立った。しかし約束の土地に入っても先住民がいるので絶えずいざこざがあり家を建て定住することはできなかった。そこでテント生活をしながらあちらこちら移動しながら、まさに旅人・寄留者のように生きていた。しかしアブラハムからは何の不平も出てこない。へブル書によると彼が求めていたものは、この地上のものではなく天上のものを求めていたからだと記されている。この地上の住み心地の良い場所を願っていたのであれば、いくらでも故郷に帰ることはできたが、彼が求めていたものは天の故郷だというのである。故に導かれた場所は期待外れのような土地であったが、彼は幸せだった。
聖歌476番「やすけさは川のごとく」を作詞したホラティオ・G・スパフォード氏は1800年代に活躍した実業家であった。ある日彼の4人の娘たちが大西洋を船で横断している時、他の船と衝突し沈没して彼の娘たちを含む200名を超える人たちが亡くなるという大惨事が起こった。彼は奥様からの電報でそれを知り、悲しみに暮れながら船で帰途についたが、丁度事故現場を通過した時にスパフォードがジッと渦巻いている波を見つめている様子を船長が目撃していた。どん底に落とされた気分であろう彼はその夜に、200年間世界中で今も歌われ続けているこの讃美歌を作詞したのである。「安けさは川のごとく 心満たす時 悲しみは波のごとく わが胸満たす時 すべて安し み神共にませば」
上を見上げてあらゆる困難を乗り越えることができたのは彼だけではない。どの時代も主を見上げる者は勝利してきたのである。
心のオアシス 2024年6月23日
最近午前の礼拝の人数が多くなったような気がしていたが、先日教勢の推移を調べてみて、今年になってからコロナ前の最高値よりも人数が増えていることがわかった。礼拝後に玄関に立って帰る方々に挨拶をして祈って送り出してきたが、列が長くなってしまいなかなか外に抜けることができないという現象が起こるようになっていた。トイレのペーパータオルもゴミ入れがすぐに山盛りになっていた。そこで先週から挨拶のみということで方針転換した。ペーパータオルもゴルフボールの大きさに小さく丸めて欲しいと要請した。人数が増えることは大変嬉しいが様々なことに対処もしていかなければならない。嬉しい悲鳴である。
現在KCFの礼拝ではパウロが福音を宣べ伝えたことによって逮捕され監禁状態の中で書いた“獄中書簡”から順番に学んでコロサイ書まできた。その前にはエペソ、ピリピ書からもお話ししたが、それぞれの教会は成長するに従って様々な問題が生じた。それに対処する方法をパウロは記しているのだが、彼の根底にあるメッセージは「神実現に生きるなら、すべてのことを喜び感謝することができる!」ということであった。
もしこのまま神さまの願いがKCFに人を集められることであれば、すぐに駐車場の問題、奉仕者の必要性、キッズクラスや中高生クラスの在り方の変化も求められるであろう。午前中に二回の礼拝をする日も近いのかもしれない。私たちはベストを尽くしつつ神さまの願いに当てはまるよう変化に対応していかなければならない。
教勢の推移を調べる中でわかったことは、今まで一つの場所に腰を据えて2年目から人数的な変化が起こってきた。花園チャペルは2年目の年であるが、神さまがどのように動かされていくのか楽しみである。
私たちの教会の目標は、注目を集めることでも人数を増やすことでも、大きな会堂を建てることでもない。それはただ一つ、“神実現のために存在する”ということである。その結果、受洗者が与えられたら感謝するし、問題が起こっても「それでも福音が宣べ伝えられているのだから感謝する」というパウロの姿勢を貫きたい。それが幸せの秘訣ある。
心のオアシス 2024年6月16日
先週の日曜日に一人の青年と話しをする時間があった。彼は今から丁度14年前、開拓教会をスタートする働きを共にしてくれた同労者でもあり、KCFの第一号のメンバーでもある。花園チャペルの会堂の椅子に座って開拓当初を回想しながら今がどれだけ祝福されているかをお互い語り合った。楽器や奉仕者の数もそうであるが、木の立派な椅子が与えられていることに感動しておられた。集会室などを借りて礼拝していた時期は備え付けの折り畳み式のパイプ椅子で半分壊れかかっているものもあった。それを10脚ほど並べて集会をしていた時代が懐かしい。イス一脚に感謝できる感性は失ってはならないと思った。
今与えられているものが当然のように考えていたら感謝は出てこないであろう。“当たり前”の中に生きていたら不平や不満しか出てこない。近所の小学生が日曜日に「教会で遊ばせてほしい」と入ってくる。礼拝の賛美と日曜学校に参加することを条件に許可しているが、“礼拝”なるものが何なのかわからない子どもたちは立ち上がって歩き回ったり友達とつつき合ってふざけている姿を見て正直腹が立つこともある。しかし勿論注意はするが最近はすぐに心は切り替えるように努めている。こう考えるのである。いくらチラシを配っても日曜学校に来なかった時代のことを思うと自ら教会の門を叩いて入ってきてくれる子どもたちに感謝しなければならない。そしてこの子どもたちが将来親になった時に自分の子に「あのチャペルは楽しいし聖書から人生の役に立つお話しをしてくれる場所。あそこは安心できるからあなたたちも行きなさい」と伝えていってくれるであろう。そしてその親自ら子どもと共に礼拝に来てくれる日を夢見ながら感謝するのである。
想い出話をしていた同労者が会話の最後に「帰ってくる場所(教会)があることは幸せですよね」と言った。確かにそうである。世の中で汚れ疲れてそれを癒してくれる場所がなければ寂しいものである。私たちの心臓が止まったらそれで終わりではない。肉体は脱ぎ去るが私たちの本質である魂と霊が帰る場所がある。それが天国である人は幸いである。
心のオアシス 2024年6月9日
先週の礼拝の特別賛美で歌われた“Blessings”という曲は、Laura Storyさんの作詞作曲である。最愛のご主人がガン宣告を受けてどん底に突き落とされた状況の中で書かれた詞には深い感動を覚える。その一部です。
私たちが願い求める間、あなたはそれぞれの祈りに耳を傾けてくださいます。
私たちが願う以上のものを与え、大きな愛を示してくださるのです。
もし神さまの祝福が、雨粒を通して与えられるのだとしたら? 涙を通して、癒しがもたらされるのだとしたら?
幾千の眠れぬ夜が、神さまが共におられることをよく知るための夜だとしたら?
人生の苦難のなかに、神さまのあわれみが隠されているのだとしたら? 私たちは知恵を求めて祈り、あなたの声を聞きたいと願います。
あなたを遠くに感じる時、私たちは怒り、泣き叫びます。私たちはあなたが良い方であることを疑い、あなたの愛を疑うことがあります。
まるで聖書に記されているすべての約束だけでは足りないかのように。私たちが泣き叫ぶ時、あなたはその叫びを聴いてくださり、私たちが主を信頼する信仰を持つま
で待っておられます。
友が私たちを裏切るとき、暗闇が勝ったように見えるとき、この世界は私たちの本当の故郷ではないことを、その痛みが心に思い出させるのです。最悪に思える失望の
数々が、ズキズキと痛む人生のうずきが、この世が満たすことのできない大きな渇き、天の故郷への憧れをもたらすものだとしたら?
人生の苦難、土砂降り、嵐、辛すぎる夜の中に、神さまのあわれみが隠されているのだとしたら?
ピリピ書の著者パウロも同じ悟りが与えられた。福音宣教のために逮捕され投獄され死刑なるかもしれない判決を待っている時にも、彼の心には主なる神さまに対する絶対的信仰による“平安”がいつもあった。