礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2011年8月14日

ある一人の受刑者の話です。
その男の母親は、彼が少年時代に実家に預けたまま再婚して離れ離れで生活するようになりました。彼は長い間「俺の母親は俺を捨てて再婚するような冷たい女だ。」と思い込んでいました。ところが、刑務所の独房の中で、そういった色々なことを考えているうちに、ふと、こんなことを思い出しました。
小学校4年の頃、再婚先の母親を訪ねる機会がありました。母親は、新しい夫に「息子が来たから、こずかいやろうよ。」と言って硬貨を一枚、夫に見せて承諾をとってから彼に渡しました。帰り道に、よくよく硬貨を見ると、一枚だと思っていた硬貨が、そうではなくて2枚だったのです。そのコインは、ご飯粒でくっつけてあって、はがそうと思ってもガチガチにくっついていました。彼は田んぼの水に硬貨をつけてはがしました。
そんなことを思い出しているうちに涙が出てきました。「俺を捨てて再婚したと思ったけど、いつも心の中で俺のことを思い、俺が来るのを待っていてくれたんだ・・・飯粒がガチガチになっていたのを考えると相当前から待っていてくれたんだろうな・・・新しい夫に気兼ねしながらも、こっそり2枚もくれたんだ。母は俺のことをいつも考えてくれていたんだ・・・」彼が今まで考えていた母親に対する考えが急変しました。そして、その時から彼の生き方が変わり始めたそうです。
人間は面白いことに、嬉しいことや良い出来事は自分の努力の結果だと考え、辛いこと悲しいことに関しては神のせいにする傾向があります。日本人の多くは、「神がいるなら、どうしてこんなことが私の人生に起こるのですか?」「神がいるのに、どうして世界に飢饉や戦争があるのですか?」という疑問符で神に対する不信感をあらわします。しかし、もし逆に考えるならばどうでしょう? 「神さまのお陰で、この喜びが与えられています!」と指を折りながら感謝を数えるならば、私たちの人生観が変わるでしょう。 God is good all the time.

心のオアシス 2011年8月7日

修道院が盛んだった時代に、アントニオという修道士が修道院に入りました。彼は長くそこで修練して、これぐらい訓練できたらもう大丈夫だろうと自信を持って修道院を出ました。その時、ちょうど修道院の門前で靴屋さんが靴を直していました。修道士は彼に自分の靴を直してもらい、待っている間に話しかけました。
修道士「家族は何人ですか?」
靴 屋「子供8人に、妻と私の10人家族です。」
修道士「収入はどれくらいあるのですか? 家族がそんなに多くては靴を直すだけではお金が足りないのではないですか?」
靴 屋「・・・・・」
彼は何も言わずにただ黙々と靴を直し、少ししてからこう答えました。
「先生、私はただ主に仕える人たちが、長く楽に靴をはけるように最善
を尽くすだけです。私の家族のことは神さまが責任を持っていてくださいますから。」
 それを聞いた修道士は、自分の足りなさを悟り修道院に戻って出直しました。

 私は神奈川県の母教会から、自分に自信がついたから出てきたのではありません。逆に自分の信仰を養っていただくために出てきたようなものです。勿論、無謀な行動をしたわけではなく、神さまから押し出されるようにして、様々なしるしを見させていただいて確信を得て決心したのです。開拓宣教に対する不安がなかったわけではありませんが、「神さまが責任をとってくださる」という期待の方が勝っていました。開拓を始めて1年が経過しました。様々な出会いや出来事を通して、神さまは不思議な助けや道を開いてくださいました。まさに紅海を渡るモーセのような気持ちです。何もかも満たされている場所から、あえて荒野に出ることを通してでなければ得ることができない恵みを沢山与えられました。私たちの不足や試練は、実は私たちにとって恵みなのです。

心のオアシス 2011年7月31日

主よ、私が空腹を覚えるとき パンを分ける相手に出会わせてください。
のどが渇くとき 飲み物を分ける相手に出会えますように。
寒さを感じるとき 暖めてあげる相手に出会わせてください。
不愉快になるとき 喜ばせる相手に出会わせてください。
私の十字架が重く感じられるとき だれかの重荷を背負ってあげられますように。
乏しくなるとき 乏しい人に出会わせてください。
ひまがなくなるとき 時間を割いてあげる相手に出会えますように。
私が屈辱を味わうとき だれかを褒めてあげられますように。
気が滅入るとき だれかを力づけてあげらえますように。
理解してもらいたいとき  理解してあげる相手に出会えますように。
かまってもらいたいとき かまってあげる相手に出会わせてください。
私が自分のことしか頭にないとき  私の関心が他人にも向きますように。
空腹と貧困の中に生き そして死んでいく世の兄弟姉妹に 奉仕するに値する者となれますように 主よ、私をお助けください。
主よ、私たちの手をとおして 日ごとのパンを 今日の彼らにお与えください。
私たちの思いやりをとおして 主よ、彼らに 平和と喜びをお与えください。

これはマザーテレサの祈りでした。私たちは必要を感じる時、まず自分が満たされることを求めますが、本来はそうではないことに気付きます。まず相手の必要を満たしてあげるならば、私たちの必要は神さまが何とかしてくださるのです。難しいことかもしれませんが、本当は簡単なことなのだと思います。私たちの現実や気持ちがそれを難しくしているだけなのでしょう。
願わくは、私たちもそのように生きることができますように。

心のオアシス 2011年7月24日

かなり前の話しであるが作家の神津カンナさんが、テレビ寺小屋という番組で大変興味深い話をされていた。
彼女は、作家になる決意をしてアメリカ留学から帰ってきました。何度原稿を書いても突き返され、挫折している時に、作曲家である父親が自分の才能が開花した時の話をしてくれたそうです。
それは、小学校4年生の4月18日でした。音楽が好きではなかったのですが審査の結果、少年軍楽隊に一番で入りました。その時からトランペットを吹くようになり作曲家への道を進んだというのです。
小学校の同窓会の時、先生にお礼を言いました。「あの時、私の才能を見出してくださって、本当にありがとうございました。」しかし先生はワナワナしながら言いました。「実は当時、栄養状態が悪かったので、軍隊でラッパなどを吹かせると、皆肺をやられてしまうので反対したのだが、軍からの命令なので仕方なく肺活量の多い者から選抜したのだよ。」ガーン・・・大きなショックでした。しかし、「才能がないのにここまでこれたら上出来だ。」とその時から才能を創りながら今日に至ったとのこと。見せられた3つのカステラ箱には、父親の使った短くなった鉛筆がいっぱいに入っていました。
確かに才能のあるなしはあるかもしれないが、本当に才能があって仕事をやっている人は少ない。又、才能がないからといって、それをすぐ止めるのは不遜である。才能がなくてもそれを創りだす人もいる。すぐに諦めないようにという内容のお話であった。私たちも学ぶことがたくさんあると思います。
才能がない部分を見るのではなく、持っている部分を見始めると、それをどのように用いようかという気持ちになってくるものであります。
以前、杖をつきながら教会に来られている人生の大先輩がおられ、こう言われていたことに心打たれました。「やがて歩くことができなくなってしまった時に後悔しないように、今動ける限り教会へ来るようにしているのですよ。」「動ける自分」に目を向けておられる姿でした。

心のオアシス 2011年7月17日

アメリカにある村の古びた教会で、年に一度の食事会が行なわれました。夕食会の後、司会者に指名された人は何かその場で即興で出し物をするという一芸大会がありました。いよいよ司会者が指名したのはジェームスという男性でした。彼はシェークスピア調で聖書の詩篇23篇を流暢に暗唱しました。朗読が終わった時、拍手喝さいでした。次に司会者は、部屋の隅っこにいたビリーを指名しました。彼はボロボロの麦わら帽子をかぶっていて、ノソノソモゴモゴしながら前に出てきました。そして言いました。「俺はこれといった芸はできないけど、今ジェームスが暗唱した詩篇23篇ならできるんだけどなぁ・・・」みんなは、「同じでいいからやってくれよ!」と言ったのでビリーは、このように始めました。「昨年は母が死んで、辛い年だったけど、主は私の羊飼いであって、私には乏しいことがなかったよ。畑は不作で、子供たちも学校に行けずに働いたけど、主は私を緑の牧場に伏させて、憩いのみぎわに伴われたな~。色々な問題で悩んで落ち込んでいたけど、主はわたしの魂を生き返らせてみ名のために、わたしを正しい道に導いてくださったな~。仕事中に危険な目に何度も遭ったけど、神さまがわたしと共におられるから、災いを恐れることはなかった・・・。結局、子供たちは学校をやめなきゃならなくなったけど、あなたのむちと、あなたのつえによって私は慰められました。(むちと杖は羊飼いが羊を導き保護するために用いる道具)どんな時にも、わたしの杯はあふれて、満たされました。わたしの生きている限りは、必ず恵みといつくしみとが伴うという確信があります。わたしはとこしえに主の宮に住みます。
ビリーの体験談付き詩篇の朗読が終わった後、人々の目は、涙でいっぱいでした。その時、先ほどシェークスピア調で朗読したジェームスが立ち上がって言いました。「ビリー! 私は聖書の詩篇23篇を知っています。でも、あなたはそこに出てくる羊飼いが、どういうお方かということを知っています。そして、それこそが人生で最も大切なことであることが、今わかりました。ありがとう!」神は私たちの日々の力です。

心のオアシス 2011年7月10日

ガッツ石松さんは、伝統のプロボクサーです。1974年に世界チャンピオンになってから、5度目の防衛線の時でした。慢心してしまい暴飲暴食のため、体重がどんどん増えていきました。防衛戦3ヶ月前は、なんと体重が19キロもオーバー。さすがに反省し、過酷な減量を開始しますが、10日前にまだ10キロもオーバー。飲まず食わずのロードワークなどで、1日1キロ落としていきました。2・3日前になると、階段を上る力もなくなるほど苦しみました。口が渇き、唾液が飲み込めず苦しむと、付き添いの若者が背中をさすりながら泣いていました。「彼も俺に夢を託している」と実感し、その後、計量をパスして右アッパーによる14回KOでベルトを守りました。彼は言います。「一人ではチャンピオンにはなれない。みんなの支えがエネルギーになりました。」
ガッツ石松さんは、子供の頃は自分勝手なガキ大将だったそうです。体の弱い父親は定職がなく、母親が力仕事で家計を支えていました。兄弟は4人、家は貧しくいつも腹をすかせていました。周囲のさげすみの目に怒りをもち、食べるために他人の畑から野菜を盗みました。転機となったのは、中学2年のときに問題を起こし、家庭裁判所に父親と行った帰り道の出来事です。生まれて初めてラーメン店に入りました。父と子、2人で1杯だけ頼んだラーメンを、このとき自分一人で食べてしまいます。すると、父が残りのスープに水を足して飲み干したのです。「あっ!・・・」父親の空腹にさえ気付かない無神経さに腹が立ち、泣きたくなりました。そして、この時に少年は決意するのです。「悪さをやめて、両親を貧困から救ってやる!」それがボクシングを志す動機となりました。ガッツ石松さんがチャンピオンになれたのは、家族、ジムの人たち、みんなの支えがあったからなのです。
 私たちも夢がかなうとしたら、それは誰かが支えていてくれるからです。ここに私たちが存在することさえも、天地万物を造られた神が支えてくださっているからこそなのです。是非、造り主なる神を知る人生を選び取られることをお勧めいたします。

心のオアシス 2011年7月3日

私の幼い頃は、戦争ごっこをよくしたものです。ところが、不思議にも、私はいつも負けていました。こてんぱんに殴られて、いつも目に涙をためて家に帰ったものです。こういう場合、一般的に母親の反応はどのようなものでしょうか。「男の子のくせにやられてばかりで!」とどなるでしょう。「恥ずかしくないの?」と叱ったり、子どもを殴った相手の家に行って怒ったりする母親もいるでしょう。アメリカのファーストレディーであったヒラリーの母親は、ヒラリーにいつもこのように言ったそうです。「やられたら、やり返しなさい!」しかし、私の母は決してそのように教えはしませんでした。母は、殴られて返って来た私に言いました。「友だちに負けたくないでしょう? おまえが友だちに勝つ方法は、ただ一つよ。それは、イエス様をしっかりと信じることだよ。イエス様をしっかりと信じることが、戦いに勝つ方法なのよ。」
 イエスをしっかりと信じることが勝つ方法なら、友だちと戦争ごっこをするときも、イエスのように反応することが正しいことではないでしょうか。殴られたからといって殴り返したり、戦争ごっこはいやだからと言って友だちを遠ざけることではありません。今まで、母の教えのおかげで、私は他人に負けることが苦にならずに生きてきました。世俗的な価値観とはまったく違った聖書的な価値観を持っていた母の教えのおかげで、私は全世界に多くの友人がいます。
(パク・スウン著「私たちパパとママになりました」より抜粋)

 私はこの世の価値基準の中で苦しんだ時代がありましたが、聖書に触れてから徐々にに価値観が変わりました。そして苦しみがいつのまにか消えていたのです。そして自分の子どもたちがこの世の基準で苦しまないように、こう教えてきました。「学歴やお金があってもなくても問題ではないよ。もし自分が誇るためのものになるのならそんなものはない方がいい。もし神さまのために用いるのであれば得てもいいでしょう。」
勝ち組とは誰でしょうか?イエスを神の子と信じる人です。(Ⅰヨハネ5:5)

心のオアシス 2011年6月26日

ニューヨーク在住のリカルドという一人の男性の実話です。
この街には様々なモラルの乱れがあります。男性が女装して売春するということが盛んに行なわれるような地域もありました。リカルドは、ホルモン療法で、喉仏以外は女性にしか見えない男性で、商売上の名前は「サラ」で通っていました。その街にある教会が伝道計画を立てたところ、女装したリカルドが教会へ来るようになりました。彼は仲間の内で一番のワルで、年下の仲間全員にコカインや売春を教え込んでいました。十年以上もそんなことを続けた彼は虚しさを感じ始めました。彼は明け方近くまでかけて400~600ドル(約5万円)稼いで、それを一晩で全てコカインにつぎ込んでしまうのです。橋の下でまどろんで、朝目覚めると食べ物を探しにゴミ箱をあさり、日が暮れるとまた同じことを繰り返すだけの生活・・・ 
彼は教会の礼拝をかさねるごとに、自分は変わることができるかもしれないと思うようになりました。このイエス・キリストという方なら、麻薬から自分を解放し、ひょっとすると、中途半端な女男ではなく、本物の男にしてくれるかもしれないと思うようになったのです。彼は子どもの頃から女の子のように見えることを、からかわれてきました。母親は彼にホモであることから脱却するように懇願して、彼自身も努力はしたのですが、上手くいきませんでした。何度挑戦しても意志が弱いために失敗したのです。しかし、彼は神には偉大な力があって、本当に自分を内側から変えることができると考えるようになりました。そして神の言葉に耳を傾け続け、ひと月もするとイエス・キリストを心に委ねるようになりました。劇的改心があったわけではなく、徐々に内側で変化が起こっていったのです。そして3ヶ月後、古いリカルドは過ぎ去り、確かに新しく生まれ変わりました。
チャールズ・スポルジョンは言いました。「宝石は黒いベルベットの上に置いて展示する。黒を背景に宝石は輝きを増す。それと同じように神は、絶望的に思える状況の中で驚異の御業を行なわれる。」

心のオアシス 2011年6月19日

生涯に5000以上の讃美歌を作詞したファニー・クロスビーは、医者のミスによって生後6週間で視力を失いました。何も見ることができない暗闇の世界の中で、クロスビーは8才の時に聖書の言葉に触れ、イエス・キリストにあって喜ぶという決心をしました。
 彼女が30才になる頃、失明の原因となった医師が、まだそのことで今も悩んでいることを聞いて、彼に手紙を書きました。「どうか私のことで悩まないでください。それはあなたにとっては失敗だったかもしれませんが、神さまにとっては大成功だったのです。他の人なら見過ごしてしまう神さまの恵みを、私はどれほど多く感じ喜んでいることでしょう。」
 愛する友人や、自分の子どもが幼くして亡くなったときも、彼女は神への讃美を作り続けました。そして92才の誕生日には明るくこう言いました。「もし私よりも幸せな人が世界のどこかにいたら、是非お会いして握手をしたいものです。」
 世を呪い神を呪いながら人生を歩んでも許されるようなこの人物が、自分の目が見えなくなったことは、神にとっては大成功だったなど、誰が言えるでしょうか? ここで学ばされることは、私たちの視点がどこにあるかによっては、たとえ困難な中にいても、問題の中にいても、幸せでいることはできるということなのです。豪邸に住み、高級車を乗り回し、世界中を自由に旅することが一般に想像される成功者像ですが、聖書が教える成功者像には、そういう類いのものはありません。なぜならたとえこの世の全ての富を持っていたとしても、それによって苦しみ、心配事が山のように積まれて悩んでいる人は多いからです。地位があってもなくても、お金があってもなくても、問題があってもなくても、環境が良くても悪くても、能力があってもなくても、生産性があってもなくても、その人が幸せで、喜んで生きていける人こそ本当の成功者です。
 真の成功者は、今を喜び、今を楽しみ、今を満足します。そしてそれが将来へのステップに繋がっていくのです。God is so good all the time.

心のオアシス 2011年6月12日

「天国の特別な子ども」

会議が開かれました 地球からはるか遠くで
また次の赤ちゃんの誕生の時間ですよ
天においでになる神さまに向かって 天使たちは言いました
この子は特別な赤ちゃんで たくさんの愛情が必要でしょう
この子の成長は とてもゆっくりに 見えるかもしれません
もしかして一人前になれないかもしれません
だからこの子は下界で出会う人々に とくに気をつけてほしいのです
もしかして この子の思うことはなかなか分ってもらえないかもしれません 何をやっても 上手くいかないかもしれません
ですから私たちは この子がどこに生まれるか 注意深く選ばねばなりません この子の生涯が幸せなものとなるように
どうぞ神様 この子のために素晴らしい両親を探してあげてください
神様のために 特別な任務を引き受けてくれるような両親を
その二人はすぐには気付かないかもしれません
彼ら二人が自分たちに求められている特別な役割りを
けれども天から授けられたこの子によって
ますます強い信仰と豊かな愛をいだくことになるでしょう
やがて二人は自分達に与えられた特別な神の思し召しを悟るでしょう
神から送られたこの子を育てることによって
柔和で穏やかな この尊い授かりものこそ
天から授かった特別な子どもなのです

これは障害を持った子どもたちを育てる親たちに向けて書かれた詩です。でもただの励ましではなく真実です。神さまの前に大きい小さいはありません。どんな人も細かく緻密に計画された神の創造であり、愛のご配慮の元で生まれた神の作品なのです。