礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2021年7月25日

 私は牧師としてメッセージをしている最中に、自分自身が料理されることがある。「自分自身が料理される」とはどういう意味なのか? それは自分が語っている言葉によって自分自身に気付きが与えられたり、学ばせられたり、今の在り方を変えなければと悟らされるということです。これは明らかに聖霊さまの促しであると確信しているが、先週もそれが起こった。「アブラハムは、神の声に従って、まだ見ぬ土地へ、どこへ行くのか知らないで故郷を出ていきました。そして神さまが与えると言われたカナンの土地に入りましたが、そこは先住民が住んでいる土地で、一歩の幅すらの土地さえ与えられませんでした。当然アブラハムは家を建てることもできず、その約束の土地を東西南北移動しながら、テント生活を余儀なくされました。しかし彼から一切不平不満の言葉は出てきません。なぜならこの地上で自分が満足できる場所ではなく、神が用意してくださっている永遠の都を待ち望んでいたからです。主は良いお方であることを、信じていたから、今の現実は主が与えてくださっているものとして受け止めることができたからです。信仰とは、“自分”ではなく、いつも“神”が中心となることです・・・」と語りながら、「そう語るあなたはどうなのか?」という問いかけが心の中にありました。
 このところ教会移転のための土地探しで奔走している。駅前徒歩2分でロケーション良し、価格良し、ここが“神の御心”としか思えないような場所が出てきた時には舞い上がっていたが、そこが相手側の都合で買えなくなって、次の候補地は駅徒歩4分。悪くはないのですが、それより好条件の場所を見てしまっていた私には見劣りしてしまう。ある政治家が、「世界一になる理由は何があるんでしょうか? 2位じゃダメなんでしょうか?」と言った言葉を思い浮かべた。私たちの願いや好条件は、神さまにとっての願いや好条件ではない。2位でも3位でも、神さまが植えられた場所で輝かなければならない。アブラハムは、何も目を見張るようなことが起こらなくても、置かれた場所で、神さまの計画と願いを見上げながら喜んでいた。私も見習わなければと思わされた。

心のオアシス 2021年7月18日

 私の友人クリスチャンが、先日の“心のオアシス”を読んで、Facebookでシェアしてくださった。そしてこのようなコメントを書いておられた。「人の相談を聞くと、『上手くいっていない』の意味を、自分の思い通りにいっていないという意味で使われていることが多い。神の計画は、寸分の狂いもなく、進んでいることが忘れられているのが、もどかしい。」
 私自身も含めて神を信じる者であっても、「上手くいっていない」と思うことがある。“自分”が中心になっていたなら悔い改め、方向転換する必要があるが、もし神さまのためにベストを尽くしているならば、“上手くいっていない”ことは、一つもないことを心に留める必要がある。神さまの前には“失敗”とか“手遅れ”はないからである。たとえ神さまが近くにいることを感じなくても、導かれている感覚がなくても、ただ「主は良いお方!」であると信じ通すことが大切だと思わされる。
 旧約聖書に出てくる「ノアの方舟」で有名なノアは、100年かけて舟を建造したが、その期間、神さまは無言であった。40日40夜雨が降り、方舟の中で不安な日々を過ごしましたが、やはり無言であった。節目節目で神さまは声をかけられただけであった。しかし神の沈黙の中でも、聖書には「神は、ノアと箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられていた」と記されています。私たちにとって、神が沈黙されておられるような時も、決して忘れておられるのではないというのは大変励まされるメッセージです。
 私たちが「欲しい!」と思っていた土地が、土壇場で買えなくなり残念ではあったが、落ち込む必要はない。私たちの考える“最善”と神さまの“最善”は違うからです。次なる候補地のためにお祈りください!
 最近、支教会の方が、ガンの診断を受けて、今手術する段取りをしておられる。メールの中に「ガンになったことを主にあって感謝します!」と書いて、たくさんの会堂献金をしてこられた。私は彼女の信仰に大変励まされ、祈らされた。私たちも“主は良いお方!”と、いつもここに立てたらと願います。「私はあなたを忘れることはない」(イザヤ49章)

心のオアシス 2021年7月11日 

 『人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。』
 これは私の祈りの中に取り入れている箴言19章21節の言葉である。
 私は先週、この御言葉を知らしめられた。今、私たちの教会は、新しい場所への移転が求められている。数ヶ月かけて好条件の土地を見つけ、日曜日には、教会の皆さまにはハウスメーカーからの仮の計画書をお見せし、「計画はこのように進んでいます。明日には仮契約します!」と宣言していた。役員会でも全員一致で不動産会社に買い付けを申し入れて、いよいよ月曜日に仮契約をする予定であったが、その日の朝に不動産会社から電話があった。「マンションを建てることになったので、あの土地は売れなくなりました。」こんなことがあるのだろうか?! 不動産会社からの電話に、私はショックで寝込みそうになった。しかしながらすぐに神さまは、「あなたはいつも何と祈っているか?」と問われ、「そうです。あなたの計画のみが私に、そして教会に成されていきますようにと祈っていました。承知しました!」とすぐに立ち直ることができた。私たちは感情移入していると、やはり“自分の計画”と“自分の時”を求めたくなってしまう。そしてその通りに物事が進まなければ、ガッカリして落ち込んでしまいます。しかし幸いなるかな。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道の書3:11) この地上だけのことを考えるとソロモンが言うように、「運が悪かった」で流されてしまうが、天を見上げると、違う“時”を見ることができる。それは“私”ではなく、“神がなさる時”である。
 様々な問題の解決が遅れていても、子どもが思うように育たなくても、自分の願いがなかなか実現しなくても、“神の時”を待てる人は幸いだと思う。そこには諦めではなく、投げやりにでもなく、すべての出来事を丁寧に大切に取り扱うことができる余裕が与えられる。なぜなら神が動いてくださっていることに委ねることができるからです。
 神さまは、私たちの教会に必要な土地をすでに用意してくださっています。そこに行きつくまでに、ベストを尽くしつつ祈りと忍耐が求められ、そうやって信仰の訓練をされておられるのだと確信しています。そして神が「良し」とされる場所へ進んで行けることを感謝します。
 「私には神さまがついている!」今週もここに立って歩みましょう。 

心のオアシス 2021年7月4日

 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道の書3:11)
 私たちの教会は、開拓をスタートしてから11年目を迎えたが、大きな変化が求められている。私は慎重派で、大きな変化を好まない性格ですが、人生を振り返ってみると、なかなか動かない私を神さまが、押し出すように次のステージへと導いてくださった。大学を卒業後、大阪で就職し、東京の会社に転職し、大和カルバリーチャペルへ導かれ、大川従道牧師と出会い、仕事を辞めて献身し、石焼き芋屋さんや網戸の貼り替えなど、自分でも想像もしなかった行商の仕事をしながら神学校で学び、卒業してからすぐアメリカはロスアンゼルス郊外のラグナヒルズという場所で日系人伝道のため、教会開拓するために家族で派遣された。それから日本に戻り大和カルバリーで副牧師として約20年間仕えさせていただいた。そして2010年から関西に戻ってきての教会開拓・・・
 振り返ってみると、私の心とは裏腹に、堺チャペルを入れると3回もゼロ開拓をしている。“開拓をしている”というのではなく“させていただいている”という表現の方が正しいでしょう。なぜなら私の願い通りではなく、神さまのご意志と計画通りに全てが進んでいるからです。
 そしてよそ様の教会堂を9年間も借りながら開拓し、いずれ出なければならないことを覚悟しながらも、なかなか動き出せなかった。しかし、今年になって状況は変化した。神さまの手が動き始めたのです。東大阪福音教会が現在使用している布市チャペルを売却して私たちが借りている会堂に戻ってこられることになったのです。慌てて祈り、場所を探し始めたところ、今の会堂から線路を挟んで反対側の石切駅から徒歩2分の場所に手ごろな広さの土地が見つかった。土地の値段は、開拓11年の間に聖霊さまの促しに従ってコツコツと捧げてくださった方々の土地指定献金に近い金額でもあった。神さまの動かれる“時(タイミング)”は完璧である。完璧すぎて鳥肌が立つほどである。これから造成と会堂を建てるための費用約8千万円の蓄えはゼロであるが、これは私たちが信仰に立って祈るように神さまが残してくださった課題であると確信しています。神さまの働きですから、次も神さまは何かをしてくださるに違いないと、楽天的に生きることができるのは、神を信じる者の特権です。神さまからの促しがある人は、是非お捧げください!

心のオアシス 2021年6月27日

 無神論者は、「人生に意味を見出したければ、神の存在を受け入れなければ不可能である。」と言っている。確かに、人間は偶然の所存であるとするならば、たまたま私たちはここに存在していて、意味なく生まれ、死んでいき、この地上で過ごした時間は、たまたま偶然であるから、何も意味も目的もなさない、と考えることができるでしょう。先週から日曜礼拝で学び始めた「伝道の書」は、この世の知恵と知識、誉れ、栄誉、財産、人材、仕事のすべてを得たソロモン王が晩年に書いたものです。  
 彼は創造主なる神さまを愛していた人ではありますが、周辺諸国との平和を保つために、周りの国の王の娘たちと政略結婚することによって、その国の持つ様々な異教の神々を取り込んでいきました。それによって、せっかく創造主なる神さまから知恵をいただいたにも関わらず、それを天の上を見上げるために用いるのではなく、地上のことだけを見つめ、そこに耳を傾けるようになり、いっさいは空(虚無)だという結論に達するようになりました。「伝道の書」の中でソロモンはこう告白しています。あらゆる知恵を用いて生きようと努力したが、結局、雨が降って、それが小川となり川となって海に達しても、蒸発して雲になり、また雨となって地に降るという、何も変わらない自然の循環のように、人間の営みも同じことの繰り返しで虚しいと悟り、それを打破するために、自分の好きなように生きるのが良いと考えました。そしてあらゆる快楽に身を任せたが、何も満たされるものはないことに気づくのです。彼は、広大な土地に大豪邸を建て、庭には小川や池を作り、沢山の妻やそばめたちと過ごし、何でも希望通りに動いてくれる大勢の召使いを雇い、仕事も順調、人間関係も恵まれ、王である故に、何の制約もなく、金を石ころのように扱うことができるほどの経済力を手にしておきながら、一切は“空”であると告白したのです。
 それは、この地上のものを見続け、この地上の発するメッセージに、耳を傾け続けたことが大きな原因でした。大切なことは、私たちに生を与え、私たちを用い、ご自身の歴史を進めておられる“主”に目を留め、そこから発信される言葉に耳を傾けることです。あなたにはその存在そのものに意味があり目的があります。創造主と共に歩む道には、満足と安心があります。
 「わたしの目には,あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)

心のオアシス 2021年6月20日

 聖書は、「乗り越えることができない試練はない」ことを教えますが、その秘訣は次の通りです。①創造主なる神を信じ受け入れる。②神は私たちにとってどんな時も“良いお方”であることを疑わない。③神の御心と計画の進め方、そしてそのプロセス、時間設定は万全であると確信し委ねる。この3つを握っているだけで、さまざまな試練や苦難は乗り越えられるものです。待っている期間は何をしたら良いのでしょうか? 自分のベストを尽くしながら、祈り待つのです。そしてその結果が、自分の願い通りであったとしても、なかったとしても、「私にとって最善をしてくださった」と神さまに感謝を捧げると不思議なほど平安でいることができます。私自身も、神さまに愚痴をこぼしたことがなかったわけではありませんが、この心の姿勢をキープするよう心がけたことによって楽天的に過ごせたように思います。
 R.T.ケンダル牧師は、「神さまを熱く求める」という著書の中でこう証ししておられます。1963年12月29日、オハイオで牧会していた私は、信頼していた人たちやメンターから同時に激しく拒絶されました。私は非常に“不安定な”精神状態になりました。ある人はそんな私を見て、霊に取り憑かれていると言い、ある人は精神錯乱だと言いました。数百人もの知人が私のために祈ってくれましたが、苦しさのあまり天国に行ったほうがましだと思うほどでした。しかし私は、その瞬間も神さまが私と共におられたことを確信しています。神さまは私たちがどれだけ耐えることができるのかをよく知っておられます。終わりの見えない試練の中で苦しんでいるとき、1分たりとも早すぎることも遅すぎることもなく、正確なタイミングで介入してくださいます。そのため、私たちは試練が長く続いても感謝することができます。すべての試練には時間表があることを覚えてください。それらは、あなたを純金のように精錬するためにデザインされています。「炎はあなたを傷つけない。それはただ、あなたについているカスを燃やして、あなたを精錬しようとしているだけだ」(作者未詳)。神さまは、始まりの時から終わりを知っておられ、試練をどれだけ続けるか、すでに計画済みです。その日が来てはじめて、あなたは過去の日々を振り返ることができるでしょう。
 「耐えられない試練はない。神は逃れの道も備えられる」(Ⅰコリント10)

心のオアシス 2021年6月13日

 先日、ある方から相談を受けました。それは、もう独立して家庭を持っている娘さんが幼少期の時のことを回想していると、自分が娘に対してしてきた言動の中には、傷つけてしまうようなこともあったことを思い出してしまったとのこと。「私は、酷いことを娘にやってしまったし、娘は私のことを毒親に映っていると思うのです。イエスさまが赦してくださったとしても、娘から赦してもらわなければ、収まらないのではないかと思います。先生のご意見をお願いします。」というものでした。私は、「勿論、神さまに告白して悔い改める罪は、すべて帳消しにしてくださいます。でも、罪悪感があるなら、直接本人に謝罪したらどうでしょうか? 私も数年に一回は、『こんな親で申し訳ないね・・・』と謝罪することがあります。子どもたちは『そんなことはない』と否定してくれますが、私はその謝罪によって重荷を下ろすことができているのですよ。具体的なことは言わなくても、『良い親じゃなくてごめんね。あなたを傷つけてきたとは思うけど、あなたの幸せを祈っているよ』と何かの機会に言ってみられたらどうですか?」と返答した。そうすると早速、娘さんにラインをされたようで、しばらくしてからこんな喜びの内容が送られてきた。「さっき、娘のラインから返信がありました。『私も弟も社会人として、まともにやっているから、悪い母親ではなかったと思うよ』と書かれてあって、嬉しくてたまりません。ありがとうございます。なんだかホッとしました。」
 このやり取りをしながら、ある記事を思い出した。それはニューヨークのとある新聞の「尋ね人」の欄に、「アントニオ、お前を許している。帰っておいで。今週金曜日の午後5時に、セントラルパークで待っている。父より」と掲載された。そして指定した日時に父親が公園に行ってみると、なんとそこに沢山の青年が集まっていました。調べてみると、みんな“アントニオ”だったそうです。
 人は心のどこかで“赦されたい”という願望を持っているものです。それは私たちの中にある正義が、そう思わせるのでしょう。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりになって十字架にかかって死んでくださいました。そして甦られて、こう言われます。「あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43章25節)

心のオアシス 2021年6月6日

 関西カルバリーフェローシップは、6月で開拓11周年を迎える。まだまだ生まれたてのような教会ではあるが、土地購入や会堂建築の計画が進められていることに驚きを覚える。神さまの御業に感謝しかない。  
 私は開拓をするに当たっていくつかのこだわり(特色)をもって教会形成をしていきたいと願った。まず、教会のロゴマークにも表されているように、聖書を土台にした牧会を目標にするということです。「本の紹介をしたり、啓発的、心理学的な話ばかりで、聖書の言葉は取って付けているだけの説教に疑問を持っています。教会は聖書を教えるところではないのですか? 新来会者も教会で“聖書”の話を聴きたいと思って来てるんですよ。」と、十数年前に他教会の方の愚痴を聞いたことがあった。私もロータリークラブや一般のセミナーなどの講演、伝道目的の集会などでは、ある意味、人生論的な話をするし、キリスト教の敷居を下げるために一般受けするような話しをしてきたことは事実であるが、そのような訴えを聞いて、教会でのメッセージは必ず“聖書”からのお話しをして、み言葉の理解を深めるために例話や体験談を用い、日常で活かせるような内容を心がけようと意識するようになった。
 二つ目のこだわりは、バランス感覚ということ。聖書の中にも不思議なパラドックス(逆説)の融合を見ることができる。「行ないによってではなく、信仰によって救われる」というのは大前提の上だが、ヤコブは、「行ないの伴わない信仰は死んだもの」と書いている。「主の名を呼び求める者は救われる」とあると思えば、「主よ主よという者が皆、天の国に入れるわけではない」など、これらは偏らないための“バランス”だと確信している。聞き心地の良い“愛”や“恵”“受容”だけしか語られなければ、わがままになります。“キリストの律法”に従うことが、この地上での召しであることも教えられなければならないでしょう。
 三つ目は、“心のオアシス”になる教会を目指すということ。一週間、職場、学び舎、家庭の中で、さまざまな重荷や傷を受け、疲れを覚えて教会に来ている人たちが、教会では重荷を下ろせる場所になるように、あらゆる面で配慮をすること。
 ただし偏った教会があったとしても、神さまは、それさえも用いてその働きを進めておられることも事実です。これも絶妙なバランス?!

心のオアシス 2021年5月30日

 一生懸命だと「知恵」が出る 
 中途半端だと「愚痴」が出る
 いい加減だと「言い訳」が出る

 これは、武田信玄の名言である。確かに、自分の中から何が出てきているかによって、自分の状態の判定基準になる。“愚痴”や“言い訳”が多くなってくると、自分が中途半端やいい加減な生き方をしているからだと考えたら良い。
 そして何が心に来るかによって、自分の信仰度合のバロメーターにすることができると思う。以下は私が考えた名言(迷言?)です。
 神に委ねると「安心」が来る
 中途半端だと「心配」になる
 いい加減だと「恐れ」が来る

 ポール・ピアソン教授の「キリスト教宣教運動史」は、神さまが聖書と歴史の中で起こされた宣教運動について記した本です。そこで強調されていることは、神さまが各時代に起こされたリバイバルと拡大は、ほとんどが権力構造の周辺から始まるという理論です。聖霊は、全く予想もつかないような方法で、全く予想もつかないような人を通して、神さまの宣教のみわざを進めていかれるというのです。ピアソン教授の語る、全く予想もつかなかった人とは、権力構造の中心にいる人ではなく、その「周辺にいる人」を意味します。それは、しもべや、ごく平凡な人であり、辺境に住んでいる人や、国境の地で生きている人です。この世の観点から見ると秀でていない人は、その分、神さまに委ねる信仰が強くなるからこそ、どんなことがあっても平安の中、捨て身で献身することができるからこそリバイバルも起こるのでしょう。
 自分には誇れるものは何もないと思っている凡人はチャンスです! 

心のオアシス 2021年5月23日

 「無償の愛」という一人の女の子が書いた感動の実話です。
  おじいちゃんは老いてから手足が不自由でトイレも一人では厳しい。だから、いつもはおばあちゃんが下の世話をしていた。おばあちゃん以外が下の世話をするのを嫌がったからだ。
 ある日、家に私とおじいちゃん2人になった。おばあちゃんが倒れてしまい母と兄は病院、父は会社から直行したからだ。おじいちゃんと留守番していると申し訳なさそうに、「モモちゃん、悪いんだがトイレに・・・」って言った。私は本当に馬鹿だなって思った。一人じゃ行けないのを知っていたくせに気が付いてあげられないなんて・・・孫、それも女には言いづらかっただろうなって。トイレに行くとパンパースが小と大で汚れていた。たくさん我慢させてしまった。私はおじいちゃんの気を反らそうと学校であった笑い話を精一杯明るく話した。お風呂場で体を洗ってパンパースを付けてホッとした。同時におばあちゃんは毎日これをしているんだと思うと何とも言えない気持ちになった。そして「悪かったね、ありがとう」って5千円をくれようとした。おじいちゃんは本当に馬鹿だなって思った。私が赤ちゃんの時、両親は共働きでした。おしめを替えて育ててくれたのは貴方じゃないですか。幼稚園だって塾の送り迎えだってしてくれたのは貴方じゃないですか。あれは無償の愛でしょ? 私は「おじいちゃんが大好きだよ? だからお金なんかいらないんだよ」って言った。2人してちょっと泣いた。

 神は人をご自分に似せて造られた故に、私たちの中には神さまのご性質が流れています。その証拠として、どのような人も永遠を思う気持ちは持っているし、霊的な何かを求め、無神論者であっても祈り、どんな悪党でも善悪の心を持っていて聖くなりたいという願望をどこかに持っています。これらは神の性質でありますが、人間は自分中心に生きたいと願う罪があるので、完全には表われていないのです。でも、神の無償の愛を私たちが持ち合わせているとなると、敵さえも愛することができる可能性を秘めているということです。聖霊さまがしてくださいます!