礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2022年4月10日

 “終末”における聖書預言の成就についての最終回です。前回から聖書預言の中でこれから順番に起こる出来事を書き始めました。エゼキエル書38章を通して、北(ゴグ/ロシ)とその連合国がイスラエルを侵略し、国の中心部まで侵略することがわかりますが、その最終段階で神さまのご介入があり侵略軍は滅ぼされ、ユダヤ人も異邦人も主を知ります。
 エゼキエル書39章には、敵から回収された兵器を燃やすのに7年、兵士の埋葬に7ヶ月かかると説明があります。この“7年7ヶ月”という数字は、ここでは割愛しますが、北からの侵攻が携挙(信者が天に上げられる)や患難時代(最後の審判の前にあるとされる時代)、再臨(裁きと救いの成就のためにイエスさまがこの地上に戻ってくる)とどのような関係にあり、そのタイミングなどを判定する重要な判断材料となります。
終末時代に入った前兆として順に起こった(起こる)出来事をまとめると①世界大戦、飢饉、地震。②イスラエル国家の誕生。③エルサレムがユダヤの支配下に置かれた。④北の諸国連合の侵攻。⑤世界統一政府。⑥10の王国が誕生する。⑦反キリストの出現。⑧平和と偽の安全時期。
⑨イスラエルと反キリストとの7年の契約。これが患難期の始まりになります。(③まで既に成就)
 そして以下に記す出来事は、時系列ではなくいつでも起こり得る事柄で、その時期については様々な説がありますが、どれも明確な聖書的根拠がないので私自身はどれも支持はしていません。その一つが黙示録に預言されている「暗黒」です。二つ目にマラキ書には「エリヤが現れる」とあります。イエスさまがお生まれになる前にバプテスマのヨハネが現れましたが、これはエリヤではありませんでした。三つ目は、第三神殿が建ち機能していることがマタイ福音書24章や黙示録に記されています。四つ目、Ⅰテサロニケ4章の教会(キリスト者)が携挙されるということです。携挙に関しては、ローマ書、ヤコブ書、黙示録などから読み解くと2千年前から、これから来る患難時代の間であれば、いつでも起こりえることなのです。ですから、「主が今日来られるかもしれない」という前提で主に仕える必要があるということです。

心のオアシス 2022年4月3日

 “終末”における聖書預言の成就についての第三回目です。前回は、聖書預言の中ですでに起こったことを書きましたが、今回はこれから順番に起こる出来事を記していきたいと思います。
 今から約2600年前に書かれたエゼキエル書の預言成就の舞台設定が、現代に整いつつあります。38章から読み解くと、まず北の諸国連合によるイスラエル侵攻が起こります。連合軍を導く人物(称号)はゴグ(英語読み:ロシ)です。これはクリスチャンもユダヤ人ラビたちも、現在のロシア北部を示す名前だという理解をしています。侵略時には各国の名前は変わっているかもしれませんが、地理の位置的には、ロシアの同盟国はイラン、エチオピア、ソマリア、ドイツ、アルメニアと言われています。それらの国々はイスラエルの北と南になりますが、侵略自体は北からとなっていて、驚くべきことは、その侵略にはアラブ諸国は参加しないことがわかります。そしてゴグ(ロシア)の侵略の目的は、アラブ諸国を助けるためではなく、自分たちの利益のためにイスラエルにある“富”を略奪することだというのです。しかしそこには侵略に反対する国も書かれていて、その国の一つがサウジアラビアで、その他に出てくる国名は現在の国名に置き換えると諸説ありますが、英国、アメリカなどの西側諸国やスペインと言われています。
 この侵略における神さまの目的は、ご自身が聖なることを諸国に対して示すためだと明確に預言されています。侵略軍はイスラエルの国の中心部まで攻略に成功しますが、神のご介入はその最後の段階で起こります。複数の連合国からなる軍なのでお互いがお互いに対して戦う、所謂“同士討ち”になり地震や疫病などの災難が降りかかり、イスラエルの神こそが主権者であることを示されるというのです。そして39章の預言通りであれば、ロシアの全部が滅びるわけではありませんが、大きな破壊によって世界の強国であり続けることは不可能になると思われます。そして不信仰であったイスラエルも神を認めリバイバルが起こるというシナリオです。
 次回は侵略軍が滅ぼされた後の戦後処理に関してです。

心のオアシス 2022年3月27日

 前回に引き続き“終末”における聖書預言の成就について何回かに分けて書かせていただきます。まず起こっている出来事を順番に書きます。。
マタイ福音書24章にはイエスさまと弟子たちとの「終末」に関する問答が展開されていきます。「世の終わりはいつ?」という質問に対してイエスさまは「にせキリストが現れたり、戦争のうわさを聞くが、それは終わりではない」と答えながらその後「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、飢饉と地震が起こることが前兆だ」と語られました。前者の「戦争」とは、紀元1世紀のユダヤ的解釈は、地域戦争のことですが、後者は全面的な世界戦争を指しています。当時は想像もつかない世界大戦が終末時代の“しるし”だと示唆されたのです。第一次世界大戦(1914~1918)以降、終末時代に入ったことがわかります。この戦争がイスラエルの歴史に決定的な影響をもたらしました。第一次大戦ではシオニズム(ユダヤ人国家を建設しようという運動)に大きな影響を与えました。そして第二次大戦では、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の悲劇がイスラエル国家の設立へと導かれていきました。そして世界大戦と並行して、中国では1920年、1921年にはロシアの大飢饉がありました。そして第一次世界大戦の前後から地震は急激に増えています。
 終末の“しるし”の第二番目はイスラエル建国です。ユダヤ人の回復は2段階で成就することがエゼキエル書20・22章からわかります。今日、離散したユダヤ人が不信仰なままイスラエルに帰還しているのは、神の裁きを受ける準備段階で、そこを通過して信仰による帰還(神に立ち返る)を果たして千年王国での祝福へと繋がっていくということです。
 終末の第三番目の前兆は、エルサレムがユダヤの支配下に置かれたということです。建国した後もエルサレムはヨルダンの支配下にありましたが、1967年の六日戦争の時にイスラエルはエルサレムを所有し、現状は大変困難ですが、いつ神殿が建ってもおかしくない状況が出来上がりました。患難期には神殿が建ち機能していることが黙示録からも読み取れます。
 次回は、これから起こる“しるし”についてです。

心のオアシス 2022年3月20日

 「聖書は生ける神の言葉」と言われるが、まさに今の時代に証明されつつある。聖書によると人類の歴史が永久に続くのではなく、今“終末”と呼ばれる時代に向かっていると言うのです。それは何もかもが消滅してゼロになるというわけではなく、人間が人間を支配する時代が終わり、キリストが王として人を支配する時代が始まることを示しています。キリストがこの世界を支配する時、神を信じる人たちには素晴らしい王国が千年続きます。しかしその前に苦しみの時代がきます。それは赤ちゃんが誕生する前に、陣痛という苦しい期間を経なければならないように、千年王国という素晴らしいものを生み出す前に、時代は産みの苦しみを経験するというのです。この産みの苦しみの期間が7年間続き、それを患難時代といいます。患難時代は本当に大変な時代で、人類人口が4分の1以下になると言います。この患難時代には、少なくとも二つの大きなしるしがあります。順番は明確には書かれていないのでわかりませんが、その一つは「携挙」。イエス・キリストを信じているクリスチャンが一挙に天に引き上げられるということです。それとエゼキエル戦争が起こるということ。これは旧約聖書のエゼキエル書38章に、ゴク(英語読みではロシ)とは聖書学者によるとロシアであると言われますが、それがいくつかの国を連合国として同盟関係を結び再建されたイスラエルに攻めこんでくるというシナリオが預言されています。理由は、その時イスラエルは富み栄えている国になっているので、その財産を奪いとるために侵入するというのです。しかしその日のうちに、超自然的に同仕打ちが始まり災害が加わって彼らは全滅し、その様子は世界中の人達がリアルタイムで見るとのこと。テレビさえない紀元前5百年に2千5百年後、ネットを通してリアルタイムに世界の情報が流される時代になることをあたかも知っているかのように書いています。そしててエゼキエル書に書かれている預言を知っていた人たちはその様子を見て「本当に聖書のことばは真実だった」と神を知るようになるというのです。
 今、着実に聖書預言の舞台設定が整えられていることは確かです。(次回へ続く)

心のオアシス 2022年3月13日

 最近、教会建築をしたことのある教会の牧師先生方とお話しをする機会が多くなった。そこでわかったことは、教会はキリストの体だと言われますが、確かにそれぞれの教会には、神さまが成しておられる様々なドラマがあるということです。自分たちの教会だけが祝福されるように願うことは、大きな間違いである。神さまはそのお体となる教会を愛しておられ、どんな教会であっても祝福しようと願っておられる。一つの教会が痛めば、他の教会は悲しみ祈るべきであるし、一つの教会が喜べば、他の教会も共に喜び感謝すべきです。教会の中においても、“喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く”ことが本来あるべき姿だと思う。
 先日、友人牧師が新会堂建築のための打ち合わせに参加してくださり、PAや照明、舞台のことなどアドバイスくださった。素人とはいえ、プロ並みの知識がありメーカーさんも驚いておられた。自営業をしておられるが、「今の時期は丁度閑散期なので、いつでもお手伝いできますよ」と申し出てくださり、様々なことを計算しながら機材選びをしてくださっている。大変心強い。自分の教会でなくても、我が事のように喜んでお手伝いくださっている姿に、私も牧師としての在り方を教えられた。                      
資本主義社会は、人と比べながら切磋琢磨しながら生きるという社会構造になっているが、そこには嫉妬や妬みなどの醜い面が必ず出てくる。では共産主義が良いのか? 上層部だけが私腹を肥やしている現実があれば、それも良いとは言えない。結局、この地上においては「私」という問題ゆえに、どんな主義も上手くはいかない。「私」問題とは、「私は」「私が」「私も」「私の」「私に」と、“自分”を主張し始めることです。“自分”が中心になり始めると、どんな主義や主張も人を苦しめるものになってしまいます。
 天国とは、人間にとって最高に居心地の良い理想の空間です。なぜなら“自分”を主張しないし、主張しなくても良い、他者と比べる必要もない場所だからです。ただ主なる神さまとの関係の中で、他者も自分の事のように思うことができる最高の場所。主よ、御国を来たらせたまえ!

心のオアシス 2022年3月6日

 日本語の中には、外国語にそのまま訳すことができない言葉がいくつもある。例えば「お裾分け」「こだわり」「わび・さび」「おかげさま」「もどかしい」「ボーっとする」「風物詩」などである。これらに相当する言葉がなく、近い言葉に説明を加えなければ、本当の言葉の意味はなかなか伝わらない。また「いただきます」「ごちそうさま」「おかえり」「お疲れさま」という挨拶の言葉でさえ、海外には似ている言葉はありますが、直訳できる表現はないようです。日本語の背後には、深い意味合いを持つものが多いからです。同じように聖書が書かれた言語(ヘブル語・ギリシャ語)にも、他国の言語に直訳できない言葉がいくつもある。その中の一つに「愛」という言葉がある。古代ギリシアにおける四つの愛の概念は、エロス(eros)=恋愛、フィリア(philia)=友愛、ストルゲー(storge)=家族愛、アガペー(agape)=神の無限なる無償の愛で、それぞれは日本語の中では全て「愛」と訳される。何の愛なのかは説明を加えるか、文脈から読み取らなければ理解することは難しい。
 ヨハネによる福音書21章に、イエスさまがペテロに対して「あなたはわたしを愛するか?」と質問され、ペテロは「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」という問答が3回なされたことが書かれているが、この箇所を原文で読んでみると多少意味合いにズレが生じる。最初の2回、イエスさまのペテロに対する質問は「あなたはわたしをアガペー(無条件で愛する)するか?」でした。それに対するペテロの応答は「フィリア(条件付き友愛)していることは、あなたがご存知です」と答えた。そして3度目のイエスさまの質問の時に「わたしをフィリアするか?」と、最初の2回とは違う性質の「愛」という言葉を使われたので、ペテロは心を痛めたと書かれている。彼はイエスさまが捕らえられた時には一目散に逃げ、「イエスなど知らない」と3度も裏切り、もう「無条件で愛する」なんて大言壮語できなかったのです。しかし彼が罪深い者であることを悟った時に神さまに用いられる器になりました。  
 聖書はその文化的背景や言語を理解して読むと一層深みが増します。

心のオアシス 2022年2月27日

 カトリックの神父さんに、「どうしてSt.(聖)フランシスコなど、カトリックでは名前の前に“聖”とつけて聖人とするのですか?」と質問したことがあった。それに対して「勿論、イエスさまを手本として生きていかなければならないのですが、昔の偉人というよりも、その時代その時代に見習うべき人物を立てると、もっと身近に感じ目標にもしやすいでしょう? 聖人というのは、我々が、『この人のようになりたい』という思いを与えるための存在なのです。」との説明を受けた。
 確かに私たちの身近に模範となるべき人がいると、その人を目標に生きることができる。私も年齢的に、これからどのような生き方をするべきか?と自問自答することがあるが、いつも結論は、「若い世代の人たちに希望を与えることができるよう年を重ねていく」ということ。勿論老いる弱さを思いやる必要はあるが、そこばかり焦点がいくと一種の諦めのようなものが心を覆ってしまう。もし私の周りに日曜日に一回しか礼拝をしない教会ばかりであったら、「一回のメッセージは8時間労働に匹敵するのだから」と言って、午後礼拝も堺チャペルの夕礼拝もしなかったでしょう。しかし母教会の大川先生は私の年齢の時には、日曜日三回の礼拝をしてから、飛行機でカナダやアメリカに飛んで時差を利用して四回目の礼拝を現地でしておられた。私はそれを身近に見ていたので、自分にもできると思えた。数日前にその大川先生ご夫妻と大阪でお会いしたが、ある聖会でのご用をされ一日中お疲れのはずだが、私たちの会堂建設予定地にわざわざ出向いて来られお祈りくださった。奥様先生は、「色々と思うように体が動かなくなってきたけど、そんなこと言ってられないわよー」と80歳代になっても全力で主の業に励んでおられる姿に、私は大きな力をいただいた。数年前に私の体力が落ちてきたことを実感した時に、加齢だからと諦めずにスイミングに通う気持ちになれたのは、99歳の方が目の前で100回腕立て伏せをされた姿を思い出したから。年配の方々が長く早く泳いでおられる姿を見ると、自分はまだまだだと思えるようになった。若者に夢を与えるものになりたいと思う。

心のオアシス 2022年2月20日

 ハ・ヨンジョ先生が生前にこのようなメッセージをされていたことを思い出します。「犠牲が伴わなければ、本当の平和はありえません。神と私たちの間に和解は、どう頑張ってみても成立しません。なぜなら神と人とには大きな隔たりがあるからです。その為には執り成し手、すなわち神であり人である存在が必要でありました。そしてそのお方が死の犠牲を捧げたことによって回復がきました。私たちの和解は、長続きしません。なぜなら犠牲と死がないからです。現代に必要なものは、経済の回復や人権を守ることや、統一や、平和でもありません。人々は、これらのものを求める故に争うのです。平和に対するさまざまなイデオロギーがありますが、イデオロギーは平和を与えることはできません。それぞれの考え方が異なれば、そのことが敵になるからです。戦いには、双方の正当な言い分があるのです。人々に本当に必要なことは、神との回復なのです! バカのように聞こえるけれども、イエス様を受け入れれば、人々は悔い改め、感動し、赦しがそこに起こるのです。」
 この何千年もの歴史を見ても、人々の間に、国と国との間に、さまざまな平和論やイデオロギーや哲学が示されてきました。しかし現状は、どの時代も地球上のどこかで争いや戦いが繰り広げられています。人間の知恵によっては何の解決にもなっていない現実を見る時に、私たちに必要なことは、まず神と人との和解であるということに気づかされます。
 イエスさまは、十字架につけられる前に弁論の余地はあったにも関わらずご自分を主張されなかったのは、神の側の正論を述べて和解をしようとは考えなかったからです。神の正しさを主張することが、人間との平和には繋がらないことをよくご存知であられたのです。そこでイエスさまは犠牲と死が伴う永遠の和解を選ばれました。日本には「負けるが勝ち」という言葉がありますが、神の側が犠牲を払うことによって人間との平和を勝ち取ってくださいました。人間側が自己主張しても、神さまが私たちの罪の代価を十字架で支払ってくださったことによって、今の平和があるのです。「神の和解を受けなさい。」(Ⅱコリント5:20)

心のオアシス 2022年2月13日

 アルバート・アインシュタインはかつて黒板の計算式を解いた。
 9×1=9
 9×2=18
 9×3=27
 9×4=36
 9×5=45
 9×6=54
 9×7=63
 9×8=72
 9×9=81
 9×10=91
 アインシュタインが間違った答えを書いたため、教室は混沌とした。 明らかに、9×10の正解は91ではない。そしてクラスの生徒たちはみんな彼を馬鹿にした。アインシュタインはみんなが沈黙するのを待って言った。「9つの問題を正しく解答したにも関わらず、誰も祝福してくれなかった。でも1つ間違えた時、みんな笑い始めた。これはたとえ人が成功しても、社会はあなたの僅かな過ちに気づくということだ。そして彼らはあなたの失敗を気に入るだろう。だから、批判に夢を破壊させないように。 決して間違いを犯さない唯一の人は、何もしない人です。」
 確かに人は指摘されることは多くあっても、褒められることは少ないのではないかと思う。私がかつて学生会の担当牧師だった時代に、各月に誕生会をしていた。全員にプレゼントをすることができなかったので、代わりに“言葉のプレゼント”の時間をもった。お祝いする学生に対して一人一つだけその人の良い点を言葉にして贈るというものです。ある時に言葉のプレゼントを受けていた一人の女子学生が急に号泣してこう言いました。「こんなに良いと思われている部分が私にあったことを知りませんでした!」誰が何と言おうと“あなたは高価で尊い”のです。

心のオアシス 2022年2月6日

 「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦難、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(2コリント12:10)
 人生にはどうにもならないことがたくさんあります。時代も性別も国籍も体形も髪の色も、すべては定められたことであって人の選択の余地を越えたどうにもならないことばかりです。それ以外にも、生まれながらの身体や精神の障がいがあり、個人の選択を越えた戦禍や天災などの悲劇があります。人はどんなに恵まれた人であっても、そのうちの一つや二つ、必ずこうした宿命的とも言える弱さととげを背負わされてあえいでいます。
 しかしまた、多くの人生の勝利者たちの証言を聞くと、何と多くの人々が、その宿命的なとげや弱さを転機として、その人独自の新境地を展開させてきたことでしょう。ヘレンケラーしかり、家庭的不遇に育ったチャップリンしかり、身近なところでは、水野源三さんや星野富弘さんしかりです。使徒パウロは、自分の身体的なとげのために、それを取り除いてくださいと、神に三度も祈りましたが、三回ともつき返されます。 神からの答えは、それを取り除くことではなくて、その痛みを活用せよということでした。主は、わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。と言われたのです。ですから、「私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」と語っています。それは、未解決だからこそ見出すことができた解決であり、失ったからこそ、つかみ取ることのできた大発見でした。あなたの弱さとあなたのとげ、それは未知なる恵みの宝庫への入り口です。(「日々の宝」吉持章著書より)
ある方が五行歌の中に「子供を幸せにするのではなくどんな状況でも幸せになれる子どもを育てよ」と書かれていたが、聖書もそのようなメッセージが多い。それは現実を諦めよというのではなく、解決や癒しを求め祈りながらも“今”を受けとめながら神に委ねるということです。