礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2023年1月15日

 「私の思い通りになったことは一つもなかった」という本の中に、著者がこう書いていた。「中高生のミニストリーをする中で、多くの子どもたちと過ごす中で確信したことは、「正しい答えによって子どもたちが変わるわけではない」ということです。どんな子どもも「しっかりしなさい」「勉強しなさい」と言っても変わりませんが、感動すれば変わります。悪い家庭環境で育ち、怒りをコントロールできず、事件や事故をしょっちゅう起こす子がいました。その子をわが家で寝かせたり、一緒に遊んだり、修養会や徹夜で祈ったりしても、全く変化が見られませんでした。ある日、警察署から電話がきて急いで行ってみると、その子が複数の人を殴ったというのです。前にも同じようなことがあったため、彼はすぐには釈放されず、数日間、被害者のところを回って謝罪し、ようやく連れ戻すことができました。今回は彼も申し訳ないと思ったのか、私に「ごめんなさい」と言いました。それを聞いて、私が『だいじょうぶだよ』と言うと、その一言でその子に変化が起こりました。どんなに祈っても何も変わらなかった子が、それを機に変わり始めたのです。」
 イエスさまは、その愛の言動によって多くの人たちに影響を与えました。「わたしを憐れんでください!」と叫びながら付いてくる女性に対して、イエスさまはユダヤ人が異邦人に対する対処法で対応していました。すなわち無視して、関わらず、相手にしなかったのです。しかし弟子たちが願った、叫ぶことを止めさせ、追い返すことはされず、叫ぶ(祈る)ままにさせられました。そしてユダヤ人が異邦人に対して表現する「野良犬」ではなく、家の中で飼う「小犬」と言われました。それによって家の中に入ることができない「野良犬」では諦めるしかない女性に道が開かれました。「小犬も食卓から落ちるパンくずはいただくことができます!」ユダヤ人だけが神に選ばれた民だと考えられていたが、この異邦人女性は、自分もその家の中にいることを確信したことでしょう。

心のオアシス 2023年1月8日

 受け取った年賀状の中に、「献堂前後に成された神さまの奇跡は、まだ関西カルバリーフェローシップで続いていますか?」との質問が多数あった。12年間の教会開拓の経験からいくと、信じられないことがずっと続いている。石切地域では、何千枚チラシを配っても、地元の人たちの教会への出入はほぼなかった。またキッズクラス(日曜学校)に新しい子どもたちを求めて試行錯誤してきたが根付くことはなかった。来られるようになったのは平均1時間ほどかけて来られる遠方の方々が9割強。この人たちの祈りと協力によってKCFは支えられてきた。昨年土地探しを始めた時から“地元の人たちも集まる教会”を祈るようになった。新会堂での礼拝がスタートしてから3ヶ月、定期的に出席される方々の中に地元の人たちが15名ほどもおられる。出入された方々を入れると何十人にもなる。その他日曜学校も6名ほどの近所の子どもたちが集まるようになった。開拓で苦労しておられる先生方の話を聞いて、私も同意してきたが、花園チャペルがスタートしてから、それらの話題を覆すような現象が起こっている。それは教会役員さんたちとも「何がどうなっているのか?」と疑問しか出てこない。私たちはこの地に置かれた神さまからの特別な計画があることと、そのための働きを担わせていただいているのだと自覚するようになった。では、全く実りのなかった時代は無駄だったのか?といえば、そうではない。神さまは短期間に何かをされるだけのお方ではなく、ある時には何十年、何百年もかけて着々と計画を進められることは旧約聖書を見ても一目瞭然である。私たちが諦めずに神さまに希望と期待を置いて歩み続けることができるかが問われている。
 イエスさまは娘が死んで途方に暮れる父親に対して「恐れることはない。ただ信じ続けなさい!」と声をかけられた。目に見える現実に一喜一憂してはならない。私たちが求められていることは、時が良くても悪くても継続して“主の道具”と成り切ることである。栄光在主。

心のオアシス 2023年1月元日

 花園チャペルの新会堂で新年を迎えることができて大変嬉しい。開拓12年間が走馬灯のように思い出される。私が関東の母教会を離れ関西で開拓をする決意をしたときに、ある伝道者から、「あなたの年齢からの開拓は遅すぎる。お手並み拝見させていただくよ」と言われた。当時、「わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」(イザヤ43:19)との御言葉を握っていたので、その伝道者の人間的な言葉にある意味ショックを覚えた。勿論、無謀だったり常識もわきまえておかなければ、この世では上手くいかないだろう。「お手並み拝見?」私は誰のお手並みを拝見されるのだろうかと思った。もし“私”の能力のことを言っておられたのであれば、笑いしか出てこない。確かに年齢的にも能力的にも無理であることは一目瞭然。私はその時に「神さま、どうぞこの伝道者に、無から有を生み出すことができるあなたのお手並みを見せてあげてください!」と心の中で祈ったのを忘れることはできない。 
 まだ経済力もなく、数名の人たちしかいなかった時代から、私たちの人生も教会も創造主なる神さまに導かれ、私たちは神さまの願いと計画をかなえるための“道具”だという意識を持ちながら牧会してきた。なので開拓当初から事あるごとに皆さまの前で「私たちの教会はあちらこちらに移転しながらの礼拝ですが、もし神さまが必要とされたら短期間に会堂は与えられます!」と信仰の宣言してきた。
 多くの人は「開拓12年で土地付きの会堂が建つなんて凄い!」と驚かれるが、凄いのは神さまであって、私も教会のメンバーも“主の道具”として用いられただけで、神さまの側から見ると、いとも簡単なことだったのです。しかし私たちは肝に銘じておかなければならないことは、この地上のものはいつか廃れ無くなるということ。永遠の都を目指さなければ何も意味をなさない。「いのちの書」に名前が記される生き方が問われている。2023年は、永遠に繋がる良い一年でありますように。

心のオアシス 2022年12月25日

 クリスマスが近づくにつれ、街はイルミネーションで着飾り、お店も活気が出てくる。クリスマスをどのように過ごそうかとプランを立てながら楽しむ人たちもいる。しかし必ずしもみんなが楽しんでいるわけではない。このシーズンになると憂鬱になる人もいる。スーパーで家族連れを見る度に胸が痛くなって目を背けたくなったり、長期休暇で旅行に行こうとしているカップルを見ると気持ちが沈んでしまう人もいるようです。それは心の奥底にある“空白感”や“孤独感”が“クリスマス”を引き金に表面化していると考えることができます。以前にある青年が「僕には友達もたくさんいます。一緒に遊んでいる時やお酒を飲んでいるときは楽しいけれど、その後、家に帰ると空しい気持ちになるのです。一体どういうことなのでしょうか?」と相談しにこられた人がいた。これは私たち人間が創造主なる神に造られ、一人一人の心の中には、神にしか満たすことができない部分を造っておられる故のサインのようなものです。家族や友達がいたら孤独はなくなるのか? そんなことはない。人によっても、物によっても、お金によっても、絶対に満たすことができない部分が人間の中にはあるのです。人を含めて、この世にあるものは全て流動的です。その考え方や形も時代と共に変化していきます。どんなに信頼している人がいてもあなたを裏切りガッカリさせることは必ずあるでしょう。人はこの空白を満たすために一生懸命に何かで穴埋めしようとする。しかし人は所詮離せば落ち、落ちれば割れるもろくて小さな土の器でしかありません。ペンキをもって色をつけても、ネオンの明かりで着飾っても一時的な満足にしかなりません。
 クリスマスが辛い人は幸いです。それは神さまが満たしたいと送っておられるサインだからです。あなたのその心にイエスさまは生まれたいと願っておられます。永遠に変わらない無条件の愛を受け入れるときに人は永続的な満足と安息を覚えることができます。メリークリスマス!

心のオアシス 2022年12月18日

 インドネシアで宣教しておられた安海靖郎先生がこのようなお証をしておられたのを聞いたことがある。ある経営者がいて、とても頑固な人だったそうです。奥さんはクリスチャンなのですが、イエス様の話をしても聞く耳を持ちませんでした。その経営者の会社は外国にも支店があって、インドネシアにある支店にその社長が訪れた時に、ボルネオのジャングルに行きたいと思い、そこに当時住んでいた安海先生が紹介され、3日間共にジャングルで過ごして日本に帰っていったそうです。しばらくしてから、先生はその男性から手紙を受け取りました。そこには頑固社長さんがイエス・キリストを信じて洗礼を受けたということが書かれていました。その経緯はこのようなことでした。「自分の会社は、海外にもあって、駐在員を派遣しているけれど、その家族と話しをすると大きな家が与えられていても治安が悪いだの、まかないがついていても盗みがあるだの不平不満しか聞かない。しかし3日間、安海先生と過ごす中で、ジャングルで何もない場所に住んでおられても不平一つ言わずに朝から歌を歌って喜んでいる先生の姿を見ました。日本に帰って、自分は50歳代で一応すべてを知ったつもりでしたが、未だ知らない世界があることを知り、妻から聖書をもらって読みました。そして神の国の世界を知りました」というものだったそうです。
 世の中には、一見幸福であるべき全ての条件を備えているかに思える人たちが、必ずしも幸せではなく、その反対に貧しかったり、病気がちであったり、様々な悪条件の中にあっても、幸せに生きている人がいるという事実は、幸福というものが、いくつかの条件が整えば自然発生的に生じるものではないということを表していると思う。
 私は会堂が与えられたことを感謝している。しかし与えられていなかったとしても同じように感謝しながら過ごしていた。なぜなら私たちの創造主のご意志のままに導かれていることに喜びを感じているからです。

心のオアシス 2022年12月11日

 これはある看護師さんとご老人との会話の感動エピソードです。
ある朝早く一人の老人が親指の抜糸のために病院に来ました。看護師さんが血圧と体温を測りながら「今日は先生の診察まで一時間はかかりそうなんです。」と言うと、その老人は「できれば急いで欲しいのですが・・・」と言いました。看護師は「何か急ぐような約束を医師としていますか?」と尋ねると、「いいえ、でも妻と一緒に朝食をとるために介護施設に行かなければならないのです。」と答えました。実はその老人の奥さんはアルツハイマーにかかって介護施設で生活していたのです。看護師は尋ねました。「少し遅れたくらいで奥さまは心配なさるのですか?」「いいえ、妻は5年前から私が誰だか分からなくなっているのです。」看護師は驚いて再び尋ねました。「え? 奥さまはご主人のことがお分かりにならないのですか?! それでも一緒に朝食を食べようとされるのはどうしてですか? 何のためですか?」ご老人は微笑んで答えました。「妻は私の事が分からなくなってしまいましたが、私は妻のことを知っているのですよ。」
 “片思い”とはこのようなことだと思うが、まさに天の父なる神さまは、私が神の存在を認めていなかった時から一方的に大切にしてくださり、守ってくださり、愛してくださっていたことを考えると胸が熱くなる。このお方に答える生き方をしていきたいものである。
 “花園”の地にも沢山の人たちが神の愛を受けていながら、知らないまま過ごしておられる方が多くいらっしゃる。そしてその人たちのために、どうにかして“神の愛”を届けたいと願われた主が、花園チャペルをお建てになったのだと確信している。
 この世には沢山の重荷がある。そしてその人たちの荷を軽くしたいと神は願っておられる。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)

心のオアシス 2022年12月4日

 「幸福になるためには、まず成功をすること」「成功をするためには、目標を達成しなければならない」このような思考パターンに私たちは陥りがちです。これは、最終目標にたどり着いた瞬間から成功・幸福が始まり、たどり着く間は成功でもないし、幸福でもないという意味です。
 しかし、成功や幸福は、その過程すべてを含めて成功だという認識が大切です。つまり、成功に向けて歩み出した瞬間から、もう成功は始まっているわけです。そうでなければ、成功しないと幸福ではないということになってしまい、幸福を感じるころにはずいぶん年を取ってしまっているかもしれません。別の表現をすれば、自分がどのような存在かを知るだけで幸福がスタートします。なぜなら、あなたは目的を持って神によって創造されたからです。(「聖書に隠された成功法則」より引用)

 私は会堂を建てることができて喜びはあるが、個人的には会堂を建てたら牧師として成功したとか、実力があったなどとは全く思ってもいない。正直なことを言うと、私は会堂を建てたくなかった。教会は“神”によって建て上げられることを悟ってから、私の伝道者としての祈りは、「ただ神さまの計画のために、私をその道具としてのみ用いてください。すべては自己実現ではなく神実現のために用いられますように。」だった。そこに生き始めたときから、会堂がなくても幸せだったし、会衆が目の前に数名しかいなくても“神さまから送られた人たち”と考えると幸せ感が溢れるようになった。勿論それで福音を宣べ伝えることを怠ったら“怠惰な者”として神さまからお叱りを受けるであろう。
 本当の“成功”とか“幸せ”は、神さまのされたいことに自分の身を委ねていくことにあるのだと思わされている。たまたま神さまは“私”を用いて会堂を建てられた。会堂が欲しいと願っている牧師に家の教会を任せられることもあれば、諦めている牧師に会堂を建てさせられることもあり不思議です。心乱されない秘訣は、やはり“神実現”です。

心のオアシス 2022年11月27日

 先週23日に花園チャペルの献堂式を迎えることができた。遠くから近くから牧師先生方や献身者、宣教師の方々、応援お祈りしてくださっていた人たちが150人お集まりになり感謝が絶えない。私自身、未だに会堂が与えられたこと自体が夢のようで、この夢はまだ覚めていないような感覚でいる。恐らくエジプトから脱出したイスラエルの民の行く手を阻んでいた紅海が水垣となって乾いた土地を歩いた時も、夢の中を歩いているような気分だったのではないかと思う。計画立てながら進んでいたら、着々と進められていることに実感が湧くと思う。しかし突然予期しないことが目の前で起こると実感は湧かないだろう。“気持ち”がついていくのに時間がかかる。ずっと借り物の教会で場所を転々として、それが私たちの教会に委ねられた神さまのご計画だと思わされていたが、今年になって自分の会堂を所有している?! 不思議でしかない。
 まだ土地を買う話題さえもなかった3年ほど前に、リビングライフの巻頭言を依頼されこう書いていた。「私たちの教会は、まだ自分たちの会堂を所有していません。財力もありません。しかし、神さまが計画されているならば、いとも簡単に会堂が与えられると信じています。主が共におられれば、小さな群れでも大きなことが起こるのです」。
 私が信じていたことは真実だったことが証明された。手持ちも能力もなくても、神さまがお集めになり、能力ある人たちを送ってくださり、事を成し遂げてくださることを確信できるようになった。主と共に歩む人生は、恵みが付いて回る。どうして神さまを抜きにして歩もうとするのだろうか? 勿体ない話である。ダビデが「わたしの生きているかぎりは 必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」と唄った気持ちがわかるようになった。神さまにお委ねする人生の味を知ったら、もうそこから離れられない。離れたくはない。
 花園の地がその名のごとく、主にあってのオアシスとなりますように。

心のオアシス 2022年11月20日

 花園チャペルに移転してからミラクルばかりではなく、ホッコリすることも毎週起こる。先週は建築委員会のミーティングが牧師室で行われたが、役員の一人が「私たちにミーティングする部屋があるって凄くないですか?!」と言われた。私も同感である。今まで借り物の場所では、部屋は二部屋しかなく、何をするにも他のグループなどに気を使いながらであった。他の部屋では、献堂式の記念品の包装する作業が同時に行なわれている。途中で近所の小学生が遊びに来たが追い返す必要はなくヤング&キッズの部屋でギターを弾いたりゲームをして遊んで帰っていった。会堂では午後礼拝のリハーサルが行われている。「これが私たちの求めていた教会の姿だな」とホッコリしながら、この贅沢が当たり前になったり慣れっこにならないよう気を付けなければならないと思った。
 平日にも近所の高校生や小学生が遊びに来ることがあるが、それぞれ帰るときに「教会最高!」「教会love!」とか「キリスト教会いいね!」と平気で口にする子どもたちにホッコリさせられる。彼らもホッコリしすぎてなかなか家に帰らない。皆さま口をそろえて言われるのは、「花園チャペルは教会の建物というより家にいる感じがする」とのこと。確かに居心地良くて、いつまでも居たくなる。
 沢山の小学生が教会前を通って帰宅しているが、たまにピンポンダッシュする子がいる。先日たまたまピンポンが鳴った瞬間にドアを開けると逃げていく小学生の男女が数名。逃げる姿をジッと見ていると、一人の女の子が私に気付いて、深々と頭をさげて「ごめんなさい!」と謝っている。後で防犯カメラ映像を確認すると、女の子が「押したらダメ!」その直後男の子がインターホンを押して逃げている。犯人は男の子なのに、何の言い訳もせずに女の子が謝っていたことに感動を覚えた。それ以来ピンポンダッシュはパタリ無くなった。罪無きイエスさまが十字架にかかり私たちの罪をかぶってくださった。ただただ感謝しかない。

心のオアシス 2022年11月13日

 関西カルバリーフェローシップは、12年前の2010年6月6日に教会をスタートした。その時の週報を探してみると、「心のオアシス」に以下のように書いていた。
 今日は「奈良カルバリーフェローシップ」の誕生日です! この歴史的なスタートにお立会いくださったみなさまは幸いだと思います。大げさなことを言っているようですが、そうでもありません。世界に影響を与えるような大国であっても、また人の目には留まらないようなどんな小さな群れであっても、また有名人でも目立たない人であっても、天地宇宙を造られた神様のお許しがなければ、その存在はありえないからです。この集まりは神様の壮大な歴史の一部分を担うために誕生しました。スタートは小さくても、大きな働きです。ただ委ねて前進するのみです。
 私が与えられているビジョンは、聖書のことを知らない初心者でも安心して参加でき、何かわからないけれども元気をもらって、癒され、チャレンジを受け、希望をもって帰っていけるような心のオアシスのような場所をつくるということです。ここで力を得た人たちが今度は外でこの喜びを分かち合うことができれば最高ですね。そのことのためにシンプルなプログラムと、たとえ難解な聖書箇所でも初心者にわかりやすくお話しできるよう努力します。将来的には平日の「学び会」などを通して聖書の世界を深めていけるような会も考えています。(一部抜粋引用)
 先週の礼拝には、奈良に本部を置くある有名な宗教団体の方が来られ、「これから開拓をしていきたいので、開拓12年で立派な会堂を建てられた教会さんのノウハウを教えて欲しい」という男性が来られた。その方が言うには、その団体は、初心がなくなり組織化してしまい、不定期の“おつとめ”では、専門用語ばかりで初心者には難解なので改革したいとのことだった。礼拝の感想は、「初心者でもよく理解できました!」とお褒めの言葉をいただいた。あとは聖霊様のお働きにバトンタッチした。