礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2023年2月5日

 先日「心のオアシス」にも書いたアメリカ人の友人であるSteve Younceの告別記念礼拝が行なわれた。アメリカまで行けなくて残念だったが、私が彼のことを綴ったコラムをSNS上で見つけた遺族が英訳して、拡大してボードを作り、それに私たちの学生時代から4年前に彼が日本を訪れたときの私とのツーショット写真等を沢山つけて葬儀が行われた教会に置いてくださった。私はそのことを知らなかったが、葬儀に参列されたSteveの友人がその画像を私に送って知らせてくれた。私のせめてもの彼に対する感謝と想い出をご遺族や彼の友人たちに伝えることができてとても嬉しかった。今やSNSで発信したものが全世界に届いている。距離を感じない時代になりつつあるが襟が正される思いでもある。
 私は留学時代に毎年のように年末年始にSteveの家に招かれ過ごしていたので彼の家族とも親交があった。実は彼が事故死した4日後に彼の父親であるSamuelも84歳で天に召された。私は奥さまのDorothyにお悔みのメッセージを送ると、「主人と息子が亡くなったことは悲しいことです。しかし私の周りに助けてくれる人が沢山いて祝福されています。これは神さまのご意志で計画であったと確信しています。」と返答があった。信仰の人だと思わされた。そして私の方が励まされた。告別式の後、赤い服を着たDorothyを中心にその家族親族が一同に集まり、SamuelとSteveの好きだったボーリングを楽しみながら追悼している写真がアップされていた。恐らく“情”を大切にする日本人は、しばらく喪に服するのでしょうけれども、これは死生観の違いなのです。“永遠”を信じる者は、“死”は終わりではないので“薄情”だと思われるかもしれないが立ち直りは早い。私も彼の突然の死にショックはあったが、彼の母親の信仰の告白によってすぐに立ち直ることができた。Steveは、よく天国の話をしていた。「天国では言葉の壁はない。自由に時間制限もなく話せるよ」と。天国が今まで以上に近くなり楽しみになった。

心のオアシス 2023年1月29日

 ある少年が交通事故で左腕を失いました。ある日、少年は父親に柔道を習いたいと言いました。何かにチャレンジしようとする息子に感心した父親は、早速息子を教えてくれる師範を探し出しました。少年は週に3回指導を受けました。しかし、おかしなことに師範は柔道の基本動作のうち一つだけを練習させました。練習では、この動作だけを強調し、完璧になるまで練習するように言いました。2ヶ月後師範が試合に登録したことを伝えると少年は驚きました。「先生、ぼくはまだ習って2ヶ月です。できる動作も一つだけなのに試合ですか?」しかし、師範は頑としてその言葉を受け付けませんでした。そして試合の日、なんと少年は第1試合に勝ちました。そして驚くことに、第2試合も第3試合も勝ちました。少年は全く信じられませんでした。しかし、そこで終わりではありませんでした。少年はすべての予想を超え決勝に進出し優勝までしました。家に帰る道で師範に尋ねました。「一つの動作しかできず、しかも片腕のぼくが優勝だなんて、どういうことですか?」「君が優勝した理由は2つある。君が完璧に会得した動作は、柔道で最も強力な動作であることと、その攻撃を防ぐ方法は『左腕』をつかむことだけだからだ。」(「トニー・キャンポロの回復」トニー・キャンポロ著より)
 私は毎週、講壇でメッセージさせていただくことや「心のオアシス」を書いていることを“当たり前”とは思っていない。勿論牧師としての職務としては当たり前なのかもしれないが、文章が書けない、人前で話せなかった男が、毎週それをしている。いいえ、「させていただいている」という方が正しい。イエスさまは、私たちの弱さの中に強さを与えると言われた。短所のように見えるものでも、天を見上げるとそれが長所に変えられている。実は毎日が奇跡なのです。会堂が与えられたことも目に見える大きな奇跡かもしれないが、息をすること、瞬きをすること、歩けること、寝ることができること、すべては神の奇跡なのです。

心のオアシス 2023年1月22日

 先週、私にとって衝撃的なニュースが入ってきた。私が説教の中でも度々話してきた留学時代からの親友であったSteve Younceが、交通事故で亡くなったという内容であった。私がまだ英語力がなく会話もままならない状況で孤独を感じていたとき、彼の方から近づいてきて私と行動を共にするようになった。当時の私の語彙数は非常に少なく話す内容は薄っぺらなものだったが、彼はそこから話を広げて色々なことを話してくれた。私が理解できなくても面倒がらずにとことん付き合って説明してくれた。彼は私によく「天国では言葉の壁もなく、時間の制限もなく、自由に語り合うことができるよ」と話していた。在学中、クリスマスなどの休暇時期は、日本に帰れない私を家に招いてくれたことが何度もあった。お互い卒業後も数年に一度ほどの手紙のやり取りはあったが、パソコンが普及しSNSで繋がることができるようになり、メッセンジャーで近況報告をしあうようになった。2019年に、遥々アメリカから私に会うために日本を訪れて、石切チャペルと堺チャペルにも来て証をしてくれた。そして新会堂を建てることになった時にも大変喜んで、献金を送ってくれた。花園チャペルのワインレッドの屋根は、彼の捧げたものが充てられました。屋根を見上げる度に彼を思い出す。
彼の死を悼む友人たちがSNS上で彼のことをこのように表現していた。
 「Steveは、見知らぬ人でも困っていたら、いつも手を差し伸べてあげていた。彼には誰にも持っていない賜物が与えられていた。」彼は誰にでも“神の愛”を実践していたことがわかった。彼は数十年前から難病になった。しかし彼は『僕はこの壊れた体であっても大丈夫!いつか近いうちに新しい体が与えられます」と言っていた。今、彼はその完璧な体が与えられていることでしょう。彼の人生を誇りに思います。
 彼の生きざまから教えられたことは、人生の最後に残るものは、「どれだけ受けたか」ではなく、「与えてきたか」ということです。栄光在主。

心のオアシス 2023年1月15日

 「私の思い通りになったことは一つもなかった」という本の中に、著者がこう書いていた。「中高生のミニストリーをする中で、多くの子どもたちと過ごす中で確信したことは、「正しい答えによって子どもたちが変わるわけではない」ということです。どんな子どもも「しっかりしなさい」「勉強しなさい」と言っても変わりませんが、感動すれば変わります。悪い家庭環境で育ち、怒りをコントロールできず、事件や事故をしょっちゅう起こす子がいました。その子をわが家で寝かせたり、一緒に遊んだり、修養会や徹夜で祈ったりしても、全く変化が見られませんでした。ある日、警察署から電話がきて急いで行ってみると、その子が複数の人を殴ったというのです。前にも同じようなことがあったため、彼はすぐには釈放されず、数日間、被害者のところを回って謝罪し、ようやく連れ戻すことができました。今回は彼も申し訳ないと思ったのか、私に「ごめんなさい」と言いました。それを聞いて、私が『だいじょうぶだよ』と言うと、その一言でその子に変化が起こりました。どんなに祈っても何も変わらなかった子が、それを機に変わり始めたのです。」
 イエスさまは、その愛の言動によって多くの人たちに影響を与えました。「わたしを憐れんでください!」と叫びながら付いてくる女性に対して、イエスさまはユダヤ人が異邦人に対する対処法で対応していました。すなわち無視して、関わらず、相手にしなかったのです。しかし弟子たちが願った、叫ぶことを止めさせ、追い返すことはされず、叫ぶ(祈る)ままにさせられました。そしてユダヤ人が異邦人に対して表現する「野良犬」ではなく、家の中で飼う「小犬」と言われました。それによって家の中に入ることができない「野良犬」では諦めるしかない女性に道が開かれました。「小犬も食卓から落ちるパンくずはいただくことができます!」ユダヤ人だけが神に選ばれた民だと考えられていたが、この異邦人女性は、自分もその家の中にいることを確信したことでしょう。

心のオアシス 2023年1月8日

 受け取った年賀状の中に、「献堂前後に成された神さまの奇跡は、まだ関西カルバリーフェローシップで続いていますか?」との質問が多数あった。12年間の教会開拓の経験からいくと、信じられないことがずっと続いている。石切地域では、何千枚チラシを配っても、地元の人たちの教会への出入はほぼなかった。またキッズクラス(日曜学校)に新しい子どもたちを求めて試行錯誤してきたが根付くことはなかった。来られるようになったのは平均1時間ほどかけて来られる遠方の方々が9割強。この人たちの祈りと協力によってKCFは支えられてきた。昨年土地探しを始めた時から“地元の人たちも集まる教会”を祈るようになった。新会堂での礼拝がスタートしてから3ヶ月、定期的に出席される方々の中に地元の人たちが15名ほどもおられる。出入された方々を入れると何十人にもなる。その他日曜学校も6名ほどの近所の子どもたちが集まるようになった。開拓で苦労しておられる先生方の話を聞いて、私も同意してきたが、花園チャペルがスタートしてから、それらの話題を覆すような現象が起こっている。それは教会役員さんたちとも「何がどうなっているのか?」と疑問しか出てこない。私たちはこの地に置かれた神さまからの特別な計画があることと、そのための働きを担わせていただいているのだと自覚するようになった。では、全く実りのなかった時代は無駄だったのか?といえば、そうではない。神さまは短期間に何かをされるだけのお方ではなく、ある時には何十年、何百年もかけて着々と計画を進められることは旧約聖書を見ても一目瞭然である。私たちが諦めずに神さまに希望と期待を置いて歩み続けることができるかが問われている。
 イエスさまは娘が死んで途方に暮れる父親に対して「恐れることはない。ただ信じ続けなさい!」と声をかけられた。目に見える現実に一喜一憂してはならない。私たちが求められていることは、時が良くても悪くても継続して“主の道具”と成り切ることである。栄光在主。

心のオアシス 2023年1月元日

 花園チャペルの新会堂で新年を迎えることができて大変嬉しい。開拓12年間が走馬灯のように思い出される。私が関東の母教会を離れ関西で開拓をする決意をしたときに、ある伝道者から、「あなたの年齢からの開拓は遅すぎる。お手並み拝見させていただくよ」と言われた。当時、「わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」(イザヤ43:19)との御言葉を握っていたので、その伝道者の人間的な言葉にある意味ショックを覚えた。勿論、無謀だったり常識もわきまえておかなければ、この世では上手くいかないだろう。「お手並み拝見?」私は誰のお手並みを拝見されるのだろうかと思った。もし“私”の能力のことを言っておられたのであれば、笑いしか出てこない。確かに年齢的にも能力的にも無理であることは一目瞭然。私はその時に「神さま、どうぞこの伝道者に、無から有を生み出すことができるあなたのお手並みを見せてあげてください!」と心の中で祈ったのを忘れることはできない。 
 まだ経済力もなく、数名の人たちしかいなかった時代から、私たちの人生も教会も創造主なる神さまに導かれ、私たちは神さまの願いと計画をかなえるための“道具”だという意識を持ちながら牧会してきた。なので開拓当初から事あるごとに皆さまの前で「私たちの教会はあちらこちらに移転しながらの礼拝ですが、もし神さまが必要とされたら短期間に会堂は与えられます!」と信仰の宣言してきた。
 多くの人は「開拓12年で土地付きの会堂が建つなんて凄い!」と驚かれるが、凄いのは神さまであって、私も教会のメンバーも“主の道具”として用いられただけで、神さまの側から見ると、いとも簡単なことだったのです。しかし私たちは肝に銘じておかなければならないことは、この地上のものはいつか廃れ無くなるということ。永遠の都を目指さなければ何も意味をなさない。「いのちの書」に名前が記される生き方が問われている。2023年は、永遠に繋がる良い一年でありますように。

心のオアシス 2022年12月25日

 クリスマスが近づくにつれ、街はイルミネーションで着飾り、お店も活気が出てくる。クリスマスをどのように過ごそうかとプランを立てながら楽しむ人たちもいる。しかし必ずしもみんなが楽しんでいるわけではない。このシーズンになると憂鬱になる人もいる。スーパーで家族連れを見る度に胸が痛くなって目を背けたくなったり、長期休暇で旅行に行こうとしているカップルを見ると気持ちが沈んでしまう人もいるようです。それは心の奥底にある“空白感”や“孤独感”が“クリスマス”を引き金に表面化していると考えることができます。以前にある青年が「僕には友達もたくさんいます。一緒に遊んでいる時やお酒を飲んでいるときは楽しいけれど、その後、家に帰ると空しい気持ちになるのです。一体どういうことなのでしょうか?」と相談しにこられた人がいた。これは私たち人間が創造主なる神に造られ、一人一人の心の中には、神にしか満たすことができない部分を造っておられる故のサインのようなものです。家族や友達がいたら孤独はなくなるのか? そんなことはない。人によっても、物によっても、お金によっても、絶対に満たすことができない部分が人間の中にはあるのです。人を含めて、この世にあるものは全て流動的です。その考え方や形も時代と共に変化していきます。どんなに信頼している人がいてもあなたを裏切りガッカリさせることは必ずあるでしょう。人はこの空白を満たすために一生懸命に何かで穴埋めしようとする。しかし人は所詮離せば落ち、落ちれば割れるもろくて小さな土の器でしかありません。ペンキをもって色をつけても、ネオンの明かりで着飾っても一時的な満足にしかなりません。
 クリスマスが辛い人は幸いです。それは神さまが満たしたいと送っておられるサインだからです。あなたのその心にイエスさまは生まれたいと願っておられます。永遠に変わらない無条件の愛を受け入れるときに人は永続的な満足と安息を覚えることができます。メリークリスマス!

心のオアシス 2022年12月18日

 インドネシアで宣教しておられた安海靖郎先生がこのようなお証をしておられたのを聞いたことがある。ある経営者がいて、とても頑固な人だったそうです。奥さんはクリスチャンなのですが、イエス様の話をしても聞く耳を持ちませんでした。その経営者の会社は外国にも支店があって、インドネシアにある支店にその社長が訪れた時に、ボルネオのジャングルに行きたいと思い、そこに当時住んでいた安海先生が紹介され、3日間共にジャングルで過ごして日本に帰っていったそうです。しばらくしてから、先生はその男性から手紙を受け取りました。そこには頑固社長さんがイエス・キリストを信じて洗礼を受けたということが書かれていました。その経緯はこのようなことでした。「自分の会社は、海外にもあって、駐在員を派遣しているけれど、その家族と話しをすると大きな家が与えられていても治安が悪いだの、まかないがついていても盗みがあるだの不平不満しか聞かない。しかし3日間、安海先生と過ごす中で、ジャングルで何もない場所に住んでおられても不平一つ言わずに朝から歌を歌って喜んでいる先生の姿を見ました。日本に帰って、自分は50歳代で一応すべてを知ったつもりでしたが、未だ知らない世界があることを知り、妻から聖書をもらって読みました。そして神の国の世界を知りました」というものだったそうです。
 世の中には、一見幸福であるべき全ての条件を備えているかに思える人たちが、必ずしも幸せではなく、その反対に貧しかったり、病気がちであったり、様々な悪条件の中にあっても、幸せに生きている人がいるという事実は、幸福というものが、いくつかの条件が整えば自然発生的に生じるものではないということを表していると思う。
 私は会堂が与えられたことを感謝している。しかし与えられていなかったとしても同じように感謝しながら過ごしていた。なぜなら私たちの創造主のご意志のままに導かれていることに喜びを感じているからです。

心のオアシス 2022年12月11日

 これはある看護師さんとご老人との会話の感動エピソードです。
ある朝早く一人の老人が親指の抜糸のために病院に来ました。看護師さんが血圧と体温を測りながら「今日は先生の診察まで一時間はかかりそうなんです。」と言うと、その老人は「できれば急いで欲しいのですが・・・」と言いました。看護師は「何か急ぐような約束を医師としていますか?」と尋ねると、「いいえ、でも妻と一緒に朝食をとるために介護施設に行かなければならないのです。」と答えました。実はその老人の奥さんはアルツハイマーにかかって介護施設で生活していたのです。看護師は尋ねました。「少し遅れたくらいで奥さまは心配なさるのですか?」「いいえ、妻は5年前から私が誰だか分からなくなっているのです。」看護師は驚いて再び尋ねました。「え? 奥さまはご主人のことがお分かりにならないのですか?! それでも一緒に朝食を食べようとされるのはどうしてですか? 何のためですか?」ご老人は微笑んで答えました。「妻は私の事が分からなくなってしまいましたが、私は妻のことを知っているのですよ。」
 “片思い”とはこのようなことだと思うが、まさに天の父なる神さまは、私が神の存在を認めていなかった時から一方的に大切にしてくださり、守ってくださり、愛してくださっていたことを考えると胸が熱くなる。このお方に答える生き方をしていきたいものである。
 “花園”の地にも沢山の人たちが神の愛を受けていながら、知らないまま過ごしておられる方が多くいらっしゃる。そしてその人たちのために、どうにかして“神の愛”を届けたいと願われた主が、花園チャペルをお建てになったのだと確信している。
 この世には沢山の重荷がある。そしてその人たちの荷を軽くしたいと神は願っておられる。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)

心のオアシス 2022年12月4日

 「幸福になるためには、まず成功をすること」「成功をするためには、目標を達成しなければならない」このような思考パターンに私たちは陥りがちです。これは、最終目標にたどり着いた瞬間から成功・幸福が始まり、たどり着く間は成功でもないし、幸福でもないという意味です。
 しかし、成功や幸福は、その過程すべてを含めて成功だという認識が大切です。つまり、成功に向けて歩み出した瞬間から、もう成功は始まっているわけです。そうでなければ、成功しないと幸福ではないということになってしまい、幸福を感じるころにはずいぶん年を取ってしまっているかもしれません。別の表現をすれば、自分がどのような存在かを知るだけで幸福がスタートします。なぜなら、あなたは目的を持って神によって創造されたからです。(「聖書に隠された成功法則」より引用)

 私は会堂を建てることができて喜びはあるが、個人的には会堂を建てたら牧師として成功したとか、実力があったなどとは全く思ってもいない。正直なことを言うと、私は会堂を建てたくなかった。教会は“神”によって建て上げられることを悟ってから、私の伝道者としての祈りは、「ただ神さまの計画のために、私をその道具としてのみ用いてください。すべては自己実現ではなく神実現のために用いられますように。」だった。そこに生き始めたときから、会堂がなくても幸せだったし、会衆が目の前に数名しかいなくても“神さまから送られた人たち”と考えると幸せ感が溢れるようになった。勿論それで福音を宣べ伝えることを怠ったら“怠惰な者”として神さまからお叱りを受けるであろう。
 本当の“成功”とか“幸せ”は、神さまのされたいことに自分の身を委ねていくことにあるのだと思わされている。たまたま神さまは“私”を用いて会堂を建てられた。会堂が欲しいと願っている牧師に家の教会を任せられることもあれば、諦めている牧師に会堂を建てさせられることもあり不思議です。心乱されない秘訣は、やはり“神実現”です。