心のオアシス
心のオアシス 2023年6月25日
最近、過去の「心のオアシス」を読み返してみることがある。それによってその当時の教会の歴史を思い出したり、自分の信仰の在り方など再確認できて恵みを受けることが多い。以下は今から5年前のコラム。
先日役員会で「これからの関西カルバリーフェローシップの自分たちの教会堂をどうするか・・・買うか、広い場所を借りるか、今の建物をリフォームするか・・・」ということを話し合っていた時に、おもむろに長老さんが、「でも、開拓8年目で、もう会堂のことで悩むなんて凄いことですよ!」とおっしゃいました。私もその言葉にハッとさせられました。振り返ってみれば、8年前に教会をスタートした時は、聖歌隊が結成することすら夢のまた夢、会堂なんて夢にも出てこない状況でした。今は協力伝道師、そして新しく補教師まで加わるまでになりました。どうしてここまでなったのかは私にもわかりません。チョー先生が言われるように「聖霊さまの御業」としか言いようがないのです。
私たちは神さまにベストを尽くしますが、事を成してくださるのは、神さまです。だから心配無用。現実は、教会堂を建てるには経済力はまだまだです。でも、神さまが必要とされるなら、いとも簡単に与えられるでしょう。今までがそうでしたから。必要とされなかったら別の道を望んでおられるということだと思います。イスラエルの民も天幕(簡易テント)生活でしたから、建物に固執することはないとも考えています。
「マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓にむかってそこにすわっていた。」(マタイ27章61節)主語が複数なのに「すわる」は単数形なので、「墓に向かって祈っていた」とも解釈されます。どんなに大きな墓石のような問題でも“祈り”によって開かれていくのです!祈ろう!
(2018年4月8日「心のオアシス」)
なんとこれを書いた4年後に土地を購入し会堂が建った。経済力がなくても“神さまが必要とされるなら、いつも簡単に与えられる”信仰に、主が答えてくださった形だ。再度宣言します。「だから心配無用!」
このコラムをまた5年後に読み返してみたい。何が起こるか楽しみだ。
心のオアシス 2023年6月18日
多くの人たちは“自分の将来”を知りたがり、運気を高めるために、何か霊的なものを求める傾向がある。科学的根拠は何もないが、占いを求めたり、スピリチャルスポットと呼ばれる場所を訪れたりするのは、その良い例であろう。朝のニュースの終わりにも「今日の運勢」といって、その日一日の占いまでが紹介されるほどである。需要があるからこそ毎日流されているのであろう。この現象を聖書的に解釈するならば、元々人間の本質は霊であって肉体を身にまとっているので、それがぼやかされている。精神的・肉体的な満足を求め満たしながら人間は生きているが、実は神が私たちに与えられた“霊”のタンクがあって霊的教育を受けたことがなくても、そこを満たしたいという願望が自然と起こるのである。天地宇宙を造られた創造主との繋がりがない人は、“霊的死”の中にいるが、そこを埋めるために様々なものを求めるが満足はない。
詩篇102:19によると、私たちは、主を賛美(礼拝)するために造られたとある。私たちの本質は、神を礼拝したくてたまらないのである。実は神を礼拝するときが一番人の魂は安息の中にいる。一般的に天国は楽園のような場所だとイメージするが、そこでは何がなされているか? 神を礼拝しているのです。旧約時代のイスラエルの民は幕屋を造り、そこで小羊を捧げていたが、これはイエス・キリストの贖いの業を予表的に表していたものであった。では2000年間世界で行なわれているキリスト教会の礼拝は何を表しているのか? 実は“天国”を予表しているのである。地上の幕屋は完全ではなかったが、キリストがそれを完成なさった。そして地上の礼拝も不完全ではあるが、終末に教会が携挙(天への引き上げ)される時に、そこで真の礼拝が捧げられるようになる。
現在聖書セミナーでは黙示録の連続講解(限定公開)をしているが、「終末の恐ろしいイメージが希望になった」などの反響をいただいている。私も礼拝を大切にする重要性を学ばされている。主よ来たりませ!
心のオアシス 2023年6月11日
先週、花園チャペルのフェローシップルームで小学生たちが、かき氷を作り販売した。これは夏のキャンプ費用を補うために行なった小学生アルバイト企画である。堺チャペルの小学生も親に連れられ加わってくれた。勿論大人たちの背後の援助があってこそだが、それぞれが自分の役割分担を担い協力しあっていた。ここ数年できなかったことができるようになったことと、老若男女が集まってそれぞれが楽しんでいる姿を見ること、そして新会堂の機能が発揮し始めたことが、牧師にとって何よりも嬉しいことだった。
私たちは当たり前だと思っていることが当たり前でなくなった時に、初めてすべては恵みだったのだと気づかされるものである。会堂が与えられていることも、使用させていただいていることも、“神の恵み”以外何ものでもないと思わされる昨今である。昔、杖をつきながらヨタヨタと教会に来られているおばあちゃんが、「動けなくなってから後悔しないように、歩ける間は教会へ出向くことを心がけているのです。」と言っておられたことに感銘を受けたことがある。瞬間瞬間を悔いが残らないように全てに感謝しながら歩んで行きたいと願わされる。
先日の礼拝の特別賛美の歌詞に感動した。
「恵み/Grace」。
①築いてきた我が全て 過ごしてきた過去の日も 歩んできた道のりも
当たり前でなく恵み 朝日が昇り夕暮れ 春の花と秋の実も
移り行く季節さえも 当たり前でなく恵み
※すべて恵み 恵み 恵み 主の恵み
当たり前のことなど一つもない すべてが主のみ恵み
②この地に生まれ生くこと 幼き日から今まで息をし 夢見ることも
当たり前でなく恵み 神の子として生くこと
主を拝し称えること 福音を伝えることも 当たり前でなく恵み
心のオアシス 2023年6月4日
今月で関西カルバリーフェローシップの開拓は13年になる。当時の私にとって、関西での開拓伝道は未知の世界であった。24歳で東京へ出て仕事をしていたので、奈良で育ったとはいえ、知っている教会や牧師先生方はごく少数。どのようにしてここまでくることができたのかを探るために過去の「心のオアシス」を読み返してみた。11年前の6月(開拓2年目)にこのようなことを書いていた。以下に抜粋してみる。
関西での開拓は、単身赴任で、しかも子供たちは海外留学で、みんなバラバラ。人間的に計画していたこととは違うことも起こり、果たしてどうなることやら?といった心境でした。私の心を支えたのは、創世記28章に記されているヤコブがベテルという場所で経験した出来事でした。兄エサウの怒りにふれて逃げるようにして一人旅が始まりました。ヤコブは不安で満たされていました。自分がこれから行こうとするのは未知なる場所、兄から命狙われている恐怖、一人身の寂しさ、何もない荒野の旅をまっとうできるのかという心配・・・石を枕にして寝ているときに夢を見ました。一つのはしごが地の上に立っていて、天にまで達していて、神の使たちがそれを上り下りしている光景でした。そして神が彼のそばに立ってこう言われました。「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」(28:15)それを見たヤコブは夢から覚めて悟りました。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」私はこの言葉にどれだけ励まされたかわかりません。そしてスタート時点から私の背中を押すかのようにして助け手を備え、救われる人たちを与え、不思議な導きばかりが起こりました。そのことを書き出すとこのスペースでは全く足りません。まことに主がおられたのです。
自分で書いた文章であるが改めて励ましを得た。開拓2年目も現在も同じように主の恵みが伴っている。そしてこれからもそれは続くのです。
心のオアシス 2023年5月28日
教会がキリストの体として生きている証拠の一つは、そこに繋がる人々に大きな変化があるということ。罪の中にいた人が悔い改め、落ち込んでいる人が元気になり、絶望の中にいた人が希望を見いだし、悲しんでいた人が喜べるようになると、「何がそうさせているのか?」という疑問が出てくる。確信して言えることは、神さまを求める人々に聖霊さまが触れてくださり人生を変えてくださっているということです。
私たちは神によって創造されたとありますが、与えられた存在目的は“神を礼拝する”ことです。「礼拝」という言葉を聞くと、何か儀式をすることと思われがちだが、簡単に言うと「神さま大好き!」という心の表われが「礼拝」なのです。英語では礼拝を“Worship”(ワーシップ)と言ったりするが、これは“価値あるものとみなす”という意味の古い英単語に由来しています。「神さまこそ私にとって最も価値ある存在」として、神のために生きる時に人間は正常に機能して最も安定した歩みができるように造られています。こんなことを書くと無神論者からは「自分は神を信じてないし何にも依存していない。自力で生きている」と反論が来そうであるが、どんな人にもその人を動かしている動機があります。それは富であったり、名誉、快楽、アルコール、人の手で作った神々などがそれです。一番価値があるとし、大切にしているものが「神」となっているのです。聖書は、私たちを創造した神以外を第一にすることを“偶像礼拝”と呼んでいます。車を走らせるためにはガソリンタンクにガソリンを入れなければ走らない。自分にとっては体に良いからといってオリーブオイルやゴマ油を入れたら、いずれはエンジンが壊れるでしょう。私たちも同じように、メーカーである神が造られた仕様に生きなければ必ず歪みが出てきます。
今から二千年前、イエスさまは罪の奴隷であった私たちを買い取ってくださり、信じる者に聖霊が降り人生変えられていった。Happy Pentecost.
心のオアシス 2023年5月21日
最近、お会いしたことのない方から相談されることが多くなったが、先日は遠方のあるクリスチャンから電話があった。YouTubeで教会関係の動画を検索していく内に、私が過去に母教会で収録した「キリスト教入門講座」(KCFのHPにもURL有)がヒットして、それをご視聴くださった方だった。その動画にとても感動され感想を述べてくださると同時に所属しておられる教団の問題を訴えて嘆いておられた。その教団の総会に参加しても政治運動のことを議論するだけで、信仰的な話題は全く出てこない。逆に信仰の話をしたら白い目で見られる。教会での“お証”は、ただ毎日の生活日記のようなもの。祈りを勧められることもなければイエスさまによって、どれだけ自分の人生が変えられたかという話題は全く出てこないというのだ。リベラルな教会には、そのような実体があるのは知っていたが、救いと日々の力が欲しいと願う人たちにとっては残念なことである。他教団の悪口を言うつもりはないが、聖書セミナーで学んでいるヨハネ黙示録に出てくるサルデスやラオデキヤの教会のように、実体はあるが霊的に死んでしまっている教会のようである。
聖書(神の言葉)を握ることによって、人生の荒波に打ち勝ち乗り越えてゆける教会形成を私は目指し祈っている。なぜなら私には人の悩みを解決していけるような力も知恵もない。私の使命は、執り成しの祈りをすることと、聖書を伝えることだと思っている。
先日、中学にも高校にもまともに行かず毎日酒とタバコに明け暮れていた方が、「イエスさまを信じてから、それらを止めたいと思ったからではなく、全く欲しいと思わなくなり解放されました。」とお証しておられた。今は学生時代を取り戻すかのようにして勉強に勤しんでおられる。
私は献身してから30年以上経過するが、信仰が入ると聖霊さまが働かれ人が変わっていく様子を何度も見てきた。そしてそれが私の活力となってきた。福音を伝える時に伴う主の働きに感謝。主は素晴らしい!
心のオアシス 2023年5月14日
「私は」「私が」「私を」と“自分”を主張しなければ生きていけないように見える世の中にあって、今礼拝で学んでいる出エジプト記の学びは大変恵まれる。私の毎週の礼拝メッセージでは必ずと言って良いほど「神実現」や「主にあって何とかなる」といった内容が出て来る。それは週の大半、不安や心配の故に自分の願いがかなえられるために一生懸命努力しているのに、一向に消えないストレスと戦っている多くの人たちのために意識的に語っている。世の中の価値観が植え付けられてしまっている人たちに聖書の価値観によって解放される世界を是非味わっていただきたいという牧師の切なる願いである。人は何らかの形で自分が主人公になりたいと願い、それが達成できると一時的な満足感はあるが、すぐに次なるオファーを求めてしまう。それが生きる活力になっていると言われるが、聖書は、主人公は“神”であって、私たちはそのお方に従う従者にしかすぎないことを教えている。そして自分のために用いている活力を神の願いが実現されるために用いるならば、私たちの全ての必要は神が添えて与えてくださるとまで書いてある。
ある書物の中に「人生は思うままにならないのが当たり前であり、それ故にありがたいのだ。人の思いというものの中には、良いものもあるが、よこしまなものもたくさんある。それがもし、人の思いのままになるとしたら、我々は安心して生きていられまい。思うままにならないからこそ、安心して暮らすことができるのだ。『あんなやつ、死んでしまえ』という思いが、そのまま実現するとしたら、誰も安心して生きていることはできません。人生が思うままにならないということは、考えようによってはありがたいことなのです。」という内容のことが書かれてあった。
創世記を読むと、アダムとエバも自分の願いを叶える人生に方向転換してからすぐに責任転嫁が始まり、殺人が起こり、一夫多妻制になり復讐の文化が形成されていった。実はこの世は“神のため”にあるのです。
心のオアシス 2023年5月7日
“五月病”という言葉もあるが、四月から様々な環境が変わり、この時期には病んだり落ち込んだりと複数の相談を受けることが多い。内容は様々であるが、どれも共感できる。何とかしてあげたいとは思うが祈ることしかできない。しかし私はどんな問題も、“主にあって何とかなる!”と信じて疑わない。主が登場されるまでの期間、私たちの忍耐力が試される。ダメなら他の道を探っても良いと思う。それも神が開かれる道であると確信している。私も人生を振り返ってみて思うことは、“主にあって何とかなっていた”である。
今から3500年ほど前に激しい飢饉の故にエジプトに移住していたイスラエルの数が増えるに従い、それに脅威を抱く王が彼らに重い労役を科すようになった。神に忘れ去られたかのような長い苦しみを経て、ある日突然神は「わたしはあなたたちの苦しみ、うめき、叫びを知っている。わたしがあなたを救い助ける!」と声をかけられた。神を信じる者にとっては、忘れることなくすべて知っていてくださっているお方がいることが大きな励ましである。“祈り”は確かに力である。
先日友人が老後の貯蓄がなくて心配だという話をしていたので、私は質問した。「この日本で、老後のために実際、数百万、数千万円貯めることができている人がどの位いる? 私たちの周りで貯蓄がなかったから住む場所を失い餓死した人がどの位いる?」すると友人は、「確かに一人もいない」と返答した。神は何とかしてくださるのである。
私が読んだ書物の中にこう書かれていた。「きょう私が涙を流したとしても、病気で苦しんだとしても、大したことではありません。神の真実さは、私たちの短い人生を数年もしくは数十年引き伸ばすかどうかの次元ではありません。私たちが本当に神の約束を信じるなら、神は私たちの死までも責任を取ってくださいます。神が責任を取ることのできないことは私たちの人生には起こりません。」 ハレルヤ主よ感謝します!
心のオアシス 2023年4月30日
先日、花園チャペルで“プレイズ&カフェ”という集会が行われた。実は私たちの教会は、開拓スタートからこの13年間、借り物の教会であったこともあり日曜日だけ礼拝をして、平日にこれらの類の集会は全くやってこなかった。新会堂を献堂してから半年が経過して、そろそろPAの調整なども整い始めたので、今回は恵先生がすべてを仕切って第一弾の賛美集会の時を持つことができた。内向きを目的とした集会で、外部には全く宣伝しなかったので、人数がそんなにいたわけではなかったが、濃厚な主の臨在がそこにあった。人が沢山いると恵まれるような錯覚に陥ることがあるが、それはただ雰囲気に呑まれている可能性もある。主の臨在があれば人数は関係ないことが証明された。詩篇22篇3節には「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」とあるが、そこにいた人はみなそれを体験したように思う。賛美集会に初めて参加されたある教会メンバーご夫妻は、「参加するまで、“不気味”だと思っていましたが来て良かったです!」とお話しくださった。そして定期的に行なって欲しいという要望も沢山きた。
世の中にある様々なイベントやコンサートや音楽会などでは感情的・精神的・肉体的な部分においては感動したり満たされる部分があることを私も知っている。しかし霊的部分が共鳴する体験は、神さまを賛美し礼拝する時以外に感じたことはない。それはただ楽しかったとか満足したというようなレベルではない。言葉では表現できない恵みが注がれるのである。歴代誌下5章には、ソロモンが建設した新しい神殿に契約の箱が運び込まれたとき栄光の雲が神殿を満たし、祭司たちは雲によって聖所で奉仕することができなかったと書かれていますが、その一部分を体感できたように思う。
教会でなされる礼拝や賛美やお祈りは、ただの気休めではない。気が付かなくても確実に神さまの霊が私たちの中に注がれている時間である。
心のオアシス 2023年4月23日
聖書は学べば学ぶほどその高さ、長さ、広さ、深さdに驚きを覚える。スープで例えると、様々な出汁がよく出ているが、それらがバランスよくブレンドされていて、最後まで飽きずに飲み干せるといった感じであろうか。また噛めば噛むほど味が出てきて新たな発見をすることができる。そしてどの時代の人々にも救いを与え、希望を与え、癒しと解放を与え続けてきた。時代と共に色褪せすることなく求められてきた聖書は「世界のベストセラー」であることは誰も否定することができない事実であるが、それは聖書が“神の言葉”である故に可能になることである。
特に旧約聖書を調べていくと見えてくるのは、神は人類に対して長期計画と短期計画を持っておられるということである。私たちは“今”に生きているので、短期的な変化や奇跡を求める傾向にあるが、神の側は長期的に捉えておられることも多々ある。主は「わたしはすぐに来る」とおっしゃったが、2千年前から神を信じる者たちは、この言葉を信じて「再臨は近い」と、自分たちの時代にキリストが戻ってこられことを期待しながら生きてきた。モーセも神の命を受けて400万人ものイスラエルの民をエジプトの束縛から引き出した業績から考えると、一緒にカナンの土地に入れてあげても良かったとは思うが、実際には1ヶ月ほどで行ける道のりを40年もかかり、しかも目的地を目前にして召されていった。そして次世代の人たちがそのバトンを受け継いでいったのである。
イスラエルの族長のアブラハムも神の声に従い、何年もかけて約束の土地には入っていったが満足できるような場所ではなかった。もし地上での“ふるさと”を求めていたならすぐに故郷に帰っていたであろうが、そうはしなかった。へブル書11章には、彼は“天のふるさと”を求めていたと記されている。自分だけで全てが完結するとは考えなかった。
このように私達も神の短期と長期の計画をわきまえ、諦めずに祈り進むことが求められている。あなたも神の目的の為に生かされています!