心のオアシス
心のオアシス 2015年10月25日
ピカソの作品の中に、1942年作の「雄牛の頭」という造形物があります。数十億円にもなる作品ですが、驚いたことに、この作品は捨てられていた自転車で造られたものです。あるよく澄んだ冬の日、ピカソは一人で家の近くを散歩していました。ところが、突然、周囲の風景に全く合わないものが彼の目に留まりました。一台の壊れた自転車でした。古くなって使えなくなったものを、だれかが捨てていったのです。彼はその自転車を家に持ち帰り、サドルとハンドルをはずし、サドルを逆さまにしてハンドルを付けました。そして、それを「雄牛の頭」と名付けました。ピカソはこの作品を完成させた後、満足して「ゴミでも偉大な可能性を発見すれば、それは芸術品の材料になる」と語りました。捨てられて、だれの目もくれなかった自転車が、ピカソの手によって偉大な芸術品に生まれ変わったのです。
神様はどんな人でも変えることがおできになります。「あの人は絶対変わらない」とむやみに断言してはなりません。あなたがキリストにあって変えられたことを経験したなら、ほかの人もいくらでも崩され、砕かれて、神さまの尊い働き人として用いられるのです。神様は、ある人、ある民族を必要な器として造られるために、その人や民族を崩し、壊して、そこに新しい霊を注ぎ、回復させてくださいます。これが恵みなのです。 (「神の満たし」キム・ビョンテ著)
車が壊れたら、車屋さんへ持っていきます。時計が壊れたら、時計屋さんへ持っていきます。それぞれのメーカーの所へ持っていかなければ、何の解決にもなりません。私たち自身は、どこへ持っていけばいいのでしょうか? 天地を造られた神が、私たち人間をも造られたメーカーであるなら、そこへ持っていかなければ、本当の解決はないということでしょう。
「人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る」(エペソ書)
心のオアシス 2015年10月18日
ビル・ウィルソンが12歳の時に両親は離婚して、母親と二人暮らしを始めました。しかし母親は育てることが困難になり、ある日、フロリダのある街の通りに12歳のビル少年を置き去りにしました。3日間、夏の太陽の下、通りにある排水管の上に座っていました。勇気を奮い起こして、目にいっぱいたまった涙をぐっとこらえて待ちました。しかし母親は二度と戻ってこなかったのです。その通り沿いに住んでいる一人のクリスチャン男性が、少年が数日、同じ場所に座っているのに気づきました。食べ物を提供して、「日曜学校のキャンプに行かないか?」と尋ねました。「キャンプって何?」とビル少年が質問すると、「それは、きっと君も気に入ると思うよ。同じ年の子供たちが、たくさんいるし、ソフトボールをしたり、泳いだり、素晴らしい集会もあるんだ」彼は日曜学校キャンプのための費用を払って、ビル少年をキャンプに送り出しました。水曜日の夜の集会で、生まれて初めてイエス・キリストが自分のために十字架で死んでくださり、共に永遠に生きることができるように、よみがえってくださったという話を聞きました。そして説教者が、イエス様を受け入れたい人は講壇の前に集まるように呼びかけました。ビル少年は、すべてを理解できたわけではありませんでしたが、前へ進み出てひざまずきました。前に出た子ども達のために教師が行って一緒に祈り始めました。しかし、ビル少年は街角に捨てられたときの汚い服装だったからか、誰も来てくれませんでした。彼は一人で祈りました「イエスさま、どうか僕の罪を赦してください。僕の人生をおささげします」その瞬間から、自分の未来は決して今までと同じではないことがわかりました。彼は牧師となり、ニューヨークにある教会の日曜学校は世界で一番大きく成長しました。今でも送り迎えのバスの運転をしているそうです。ビル牧師は言います。「自分が捨てられたときのことを思い出しながら、同じ境遇にいる自分自身を拾ってバスに乗せてるんですよ・・・」
皆、誰かに助けられながら生きています。一人ぼっちだと感じている人も安心してください。一番どん底で、主があなたを支えておられます。
心のオアシス 2015年10月11日
「人間の和解・平和は、副産物であって、本来の「和解」の意味は、神と人との和解を示します。しかし神と私たちの間には、和解は、どう頑張ってみても成立しません。なぜなら聖い神と罪の人間とには大きな隔たりがあるからです。そのためには、とりなし手、すなわち神であり人である存在が必要でありました。そしてそのお方が死の犠牲を捧げたことによって、回復がきました。私たちの和解は、長続きしません。なぜなら、犠牲と死がないからです。現代に必要なものは、経済の回復や人権を守ることや、統一や、平和でもないのです。人々は、これらのものを求める故に争うのです。平和に対するさまざまなイデオロギーがありますが、イデオロギーは平和を与えません。それぞれの考え方が異なれば、そのことが敵になるからです。戦いには、それぞれの言い分があるのです。人々に本当に必要なことは、神との回復なのです。バカのように聞こえるけれども、イエス様を受け入れれば、人々は悔い改め、感動し、赦しがそこに起こるのです。」
これは、かつてオンヌリ教会のハー・ヨンジョ先生が、「和解と一致」というメッセージをされた時の内容の一部です。目からウロコでした。
「負けるが勝ち」という言葉がありますが、私たちは勝つために自論を相手に押し付けることが多いと思います。しかし、正論をお互いが主張しても、たとえそれが「平和」のあり方についての議論であっても、ただ争いが起こるだけです。負けるという一見損をするような形であっても、一歩下がることを通して新しい世界が見えてくるということでしょう。まさに、神さまは、自分中心に生きる私たちとの関係を回復するために、断罪をして終わらせるのではなく、神さまの側が、敗北したかのような、人間の罪の罰を全部かぶる十字架という方法をとられました。これは神の側の勝利でもあったのです。
神さまの愛が無条件であるからこそ、神の愛から逃れることができる人は一人もいないのです。あなたが神を信じなくても、嫌いであっても、無視しても、神さまはあなたを愛しています。「神は愛なり」(聖書)
心のオアシス 2015年10月4日
ある教会で、日曜日の礼拝時に感謝献金を献げた人の袋に書いてある感謝の内容を紹介して、共に祈るという機会があったそうです。その内容を見てみると、おもに健康、誕生、引越し、昇進、合格などの感謝が多くありました。ある時は「神様。無条件で感謝します」と書かれた感謝献金を紹介して、他の人たちと一緒に祈りをささげました。またある時は、神様。ただ感謝します」と書かれていたことがありました。次の週には、「神様。いつでも感謝します」と書かれた封筒もありました。その次の週には、「神様。いろいろ感謝します」という内容の献金もありました。最初は何のことか分からなかったそうですが、しばらく後になって納得したそうです。その言葉は「一瞬一瞬」という意味でした。厳密に言うと、私たちが神様にささげる感謝は「無条件」から始まらなければならないのです。その理由は、私たちがささげなければならない感謝はあまりにも大きく、たくさんあるからです。そして、毎時間、毎秒、一瞬一瞬、永遠に感謝をささげなければならないということに気が付かれたことをお分ちしておられました。
アメリカで用いられている伝道者は、少年時代、吃音(どもり)のため、いじめられ、また難しい家庭環境の中で、誰にも愛されていないという心の貧しさと寂しさを味わいながら過ごしていました。泣きながら教会の牧師に電話を入れると、すぐに飛んできて、少年の悩みを聞いてくれました。「どうして僕の人生は、いつもこうなのですか? どうして僕の生きている環境は、こんなに辛いのですか?」するとその牧師は持参したアコーディオンを弾きながら、「神様は何と大きく、広いお方なのでしょう。この大きな天と地を造られたお方が、こんな小さな私たちの心の中に住んでくださるなんて・・・」そして歌い終わってから、いつもこう言いました。「君のそのような苦しい時にこそ、神様の大きな腕の中に飛び込む時なのですよ。状態が悪くても、それでも神さまは君のことを愛しているのだから・・・」 神さまに飛び込めることに感謝!
心のオアシス 2015年9月27日
私には二人の子どもがいます。小学生6年の息子と小学生4年の娘。娘は、自閉症という発達障害に悩まされています。幼い頃から他とのコミュニケーションが上手く取れず、今では学校へも行けなくなってしまい、毎日家にいます。ある日の平日、娘と二人で自宅にいました。突如、息子が通う小学校の先生と校長先生が訪問してきたのです。いきなりの事で驚きました。「この度は、大変失礼な発言をしてしまい申し訳ありませんでした。」いきなり玄関先で謝罪をする2人に何の事かサッパリ。事情を聞くと、何とも涙の止まらない学校での出来事を知る事となりました。「勿論そんなつもりはなかったのですが、私が軽はずみな発言で娘さんに対して差別的な発言をしてしまったのが始まりです。『家ばかりで暇だろうぉ。妹は勉強しているのか? 普段何してるんだ?』この私の発言に納得出来なかった息子さんが、翌日こんな事を学校でしました。」「確かに学校には来れていないけど、先生が言う様に妹は暇じゃないよ! 妹は、学校を休む様になってから毎日『絵』を書き続けてる。」6年生の教室が並ぶ廊下に、テープで貼り出されたその絵は子どもが描いたとは思えない程繊細で見事な画だと、学校内でも話題になったそうです。「僕の妹は自閉症です。でも、誰よりも頑張って絵を上手に描けます。決して遊んでいるわけではありません。」息子は、妹の事を誰よりも可愛がっています。学校から帰ってくると、真っ先に妹のところへ行き、その日に描いた絵を見てたくさん妹を褒めてあげています。そんな大好きな妹の頑張りを「暇」という言葉で片付けられるのが嫌だったのかもしれません。先生も、そんなつもりで発したわけではない事も分かっています。まだ不器用で言葉の捉え方が上手く出来ていない息子が逆に早とちりをしてしまったのかもしれません。ただ、私は母親としてどこか恥ずかしい気持ちもある中、心の中でこの出来事を一番誇らしげに思っています。(自閉症の子を持つ母親の感動話)
このお話を通して、誰の目にも留められていない親切、奉仕、努力を神さまは評価して受け止めて下さっていることを感じます。
心のオアシス 2015年9月20日
先日読んだ本の文章を引用します。
感謝する心は、私たちの体の免疫体系を強くする。それで、感謝を別名「感謝薬」とも呼ぶ。一分間笑うと、24時間分の免疫力が生じ(牧師のメッセージ最初のジョークは3時間分位の免疫力?)、1分間怒ると、6時間分の免疫力が減るそうだ。また、感謝の言葉を言うと、実際に心臓の拍動が規則的になり、波長が均衡になるため、心臓にも良いという。また、免疫機能を向上させ、神経系機能を円滑にし、ホルモンの均衡をもたらすそうである。ある末期がん患者は、「感謝薬」のおかげで死の淵から逃れることができた。この人は末期胃がんと宣告された後、手術を受けたが、体の状態がさらに悪くなり、回復の可能性が全くなかった。医師は彼に、数日しかもたないだろうから心の準備をするようにと言った。しかし彼は不平を言わず、感謝の心でありのままの状態を受け入れ、常に「すべてに感謝します。助かっても死んでも感謝します。無条件に感謝します」と叫んだ。すると、奇跡のようなことが起きた。彼は、医師が言った数日を無事に乗り切ったのはもちろんのこと、7年過ぎた今でも健康に生きている。胃がんから解放されたのである。
免疫力が落ちると病気になりやすくなることは医学的にも証明されていますが、私は免疫力低下を防ぐためにお祈りと、新約と旧約(新薬?)とヨーグルト等の乳酸菌を毎日摂取して腸内環境を整える努力をしています。お陰様でこの5年間、風邪やインフルエンザなどから守られています。もう一つ言うなら、自分の代役はいないという緊張感が体を強めているように感じます。
先日、長老さんが、「近所の教会へ行っていた時より、車で1時間かかる遠い関西カルバリーに来るようになって休むことがなくなりました。」とおっしゃっていました。長老さんの元気の秘訣は、お祈りと聖書通読(今年すでに2回目挑戦中)と堺の人たちを教会へ連れて行かなければならないという使命感でしょう。感謝感謝ハレルヤ!で進みたいですね。
心のオアシス 2015年9月13日
韓国に、ソン・ミョンヒという詩人がいる。彼女は生まれた時から脳性麻痺のために体が曲がり、一言話すのにもひどい苦痛を伴う一級障害者である。そんな彼女がイエス様に出会い、数え切れないほどの詩を書いた。その中の一つに、「私」という詩がある。
私、持っている財産ないけれど
私、人の持っている知識ないけれど
私、人の持っている健康ないけれど
私、人にないものがあり、人の見ないことを見
私、人の聞かない声を聞いて、
私、人の受けない愛を受けて、
私、人の知らないことを悟ったね。
義の神様は、人の持っているものを
私に下さらなかったけれど、
義の神様は、人の持っていないものを
私に与えられたね。
静かに吟味してほしい。何を感謝しているのだろうか。何に感激しているのだろうか。脳性麻痺のため、他人が持っているものの90%を持っていない人である。しかし、イエス様に出会って、イエス様が彼女の心を満たしてくださったのだ。すると何に感謝しているのか。他人が持っていないものが自分にはあり、自分が持っているものが他人にはないことを見て、かえって、「神様。私は世の人が所有し、楽しんでいるものがなくても、イエス様一人の愛を受け、あなたを目で見、あなたの声を聞くだけでも幸せです。感謝します」と言っているのではないだろうか。
(「一生感謝365日」ジョン・クゥアン著より引用)
「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(第二コリント4章18節)
心のオアシス 2015年9月6日
祈っていると、かえって最悪の状況になることがある。でも、それは、一番必要な祈りに神様が答えて下さっている答えであるかもしれない。
私が最もうつ病で苦しんでいた時は、最初の会社で三年ほど働いた時のことだった。未信者だった私のために、クリスチャンの友が祈っていた。きっと、「うつ病が癒されるように」と祈ってくれていたと思う。でも、それ以上に「救われますように」という祈りが捧げられていたと思う。うつ病が癒されるというのは、この世の一時的なことだけれど、救いは永遠のこと。きっと、祈ってくれている人たちは、私の救いのために祈るのに、なぜ、こんなに彼女は苦しんでいるのだろうと思ったかもしれない。でも、これが、神様の答えだ。私は、うつ病で苦しまなければ、神様を信じることができなかった。全てが失われた。私の人生は真っ暗だと思った。けれど、そこまで砕かれなければ、私という人間は、神様に降参できなかった。私のやり方、生き方では、無理だということを知らなければ神様に頼ることができなかった。 神様は、私のための祈りに答えれば、答えるほど、私の状況は悪くなった。それは、神様が私に最も必要な祈りに応えるためだった。
結果、私は今、最高に幸せだ。平安な日々を得ただけでなく、永遠の命をも得た。調子の悪くなることもある。苦難にもあう。でも、今は、神様に祈ることができる。神様にすがることができる。地震がおこるかもしれない。経済破綻がおこるかもしれない。病気になるかもしれない。人は死んでしまうかもしれない。でも、私の頼るお方は、真実で永遠である。こんな幸せなことはない。祈りが聞かれるというのは、けっして、私の願い通りになるということではない。神様が、私に最も良いことをしてくださるということ。 (ある青年からのメールより)
私たちは私たちの都合で物事が進むことを願いますが、神さまの側にも都合があるということを知らなければなりません。そして神さまの都合は、私たちにとっての最善であり、良い道を開くためなのです。
心のオアシス 2015年8月30日
「『ありがとう』の反対語を知ってますか?」という文をシェアします。
ありがとうの反対語など今まで考えたこともなかった。教えてもらった答えは「あたりまえ」。「ありがとう」は漢字で書くと「有難う」「有難(ありがた)し」という意味だ。あることがむずかしい、まれである。めったにない事にめぐりあう。すなわち、奇跡ということだ。奇跡の反対は、「当然」とか「当たり前」。我々は、毎日起こる出来事を、当たり前だと思って過ごしている。歩けるのが、あたりまえ。目が見え、耳が聞こえるのが、あたりまえ。手足が動くのが、あたりまえ。毎朝目覚めるのが、あたりまえ。食事ができるのが、あたりまえ。息ができるのが、あたりまえ。友達といつも会えるのが、あたりまえ。太陽が毎朝昇るのが、あたりまえ。うまれてきたのが、あたりまえ。夫(妻)が毎日帰ってくるのが、あたりまえ。そして…生きているのが、あたりまえ。
また、ある夫婦の話もしてくれた。晩酌の時、いつも無口の夫が、「ちょっと、お酌してくれないか?」と珍しく妻に言った。台所の片付けをしていた妻は、「今、忙しいから自分でやって」と答えた。夫は少し寂しそうだったが、手酌で酒をついだ。その、2~3時間後、夫は急に倒れ、救急車で病院に運ばれ、帰らぬ人となってしまった。それから、妻は、何故あの時、夫にお酌をしてあげなかったのかと、ずっと悔やんだという。あの時何故、もっと、優しい言葉で、こぼれるような笑顔で、感謝の言葉で、接することができなかったのか…誰しも、今日と同じ日が明日も繰り返されると思う。今日、誰かと出逢い、話し、笑い、食事をして、仕事ができる。こんな当たり前だと思うことが、本当は奇跡の連続なのだ。「有ること難し」生きて、出逢う、という奇跡の連続に、「ありがとう」を言わずにいられない。
深い内容だと思います。神さまが与えてくださっている毎日の奇跡に感謝せずにはいられません。全地は主の栄光で満ちている! アーメン。
心のオアシス 2015年8月23日
私は、今まで沢山の方々によって支えられてきました。アメリカ留学をした時の行き先は、テネシー州とジョージア州の州境のド田舎でした。高校を卒業したばかりで、右も左もわからない私がアメリカの大学で生き抜くことは大変なことでした。会話力も乏しければ、深い話をすることもできませんから、挨拶程度の友人はできても、真の友人と呼べる人はなかなかできませんでした。思うように、言葉で表現できないジレンマの中で寂しさも覚えました。言葉が通じることが、どれほど有難いことかを思い知りました。日本人もいない片田舎で、寝るか勉強するだけの生活に疲れを覚えました。
ある日の夕食時、ダイニングホールで、同じテーブルに座った2年上のスティーブ・ヤンスという学生と、いつものように社交辞令の挨拶をしました。普段ならそれ以上の会話はなく、ただ食べるだけで、その場を後にしましたが、彼は私に興味を持って、色々な質問をしてきました。私が上手く英語が話せなかったり説明ができないにも関わらず、積極的に話しかけて、一緒に行動するようになりました。やがて、彼は私を「ベスト・フレンド」だと言って、他の人たちに紹介してくれるようになったのです。私は彼にとって、何の益にもなっていないのに、どうして自分のことを「親友」だと言うのだろうか? と驚きと同時に励まされたのを覚えています。彼は今でも親友です。
スティーブは、あの時、私にとってイエス様が違った姿でご自身をあらわされた存在だったと、後で気づかされました。彼自身がイエス様というわけではありませんが、主が遣わしてくださった存在でありました。
私たちは自分の人生を振り返った時に何を見るでしょうか? 辛かったことや、悲しかったことなど、暗かった部分を見て嘆くでしょうか? そのような砂漠のような道を通った時にも、不思議なようにしてオアシスを見つけたことはないでしょうか? もし神さまがご一緒してくださった跡を見ることができるなら幸いです。
「あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています」(詩65篇11節)