心のオアシス
心のオアシス 2016年7月31日
W.ミッチェルは、46歳の時に、オートバイ事故で人相が変わるほどの大やけどを負い、その4年後、今度は彼の操縦する飛行機が離陸に失敗して滑走路に墜落し、脊椎は12箇所もつぶれ、下半身麻痺となった。
彼は初対面の人にショックを与えるほどの外観と思い肉体的障害をかかえながらも、彼はボートでの急流下りを始め、結婚もした。公共事業管理の修士号を取り、飛行機の操縦も続け、環境問題に取り組み、講演活動も行なってきました。彼はあらゆるテレビ番組にも取り上げられ、多くの雑誌にも特集記事が載った。彼は聴衆にこう語りかけています。「半身不随になる前は、わたしには自分でできることが1万はあったのですが、今では9千に減ってしまいました。しかし失ってしまった1千のことにいつまでもこだわっているより、残った9千のことに力を入れる方が得策です。ご存知の通り、わたしは今までの人生で二度の大きなつまずきを経験しています。でも、だからといって人生をあきらめたりせず前向きに生きてきました。それゆえどんな困難にぶつかった時も、視点を変えると物事が違って見えることを学んだのです。そう、一歩下がってみれば、視野が広がり、『なんだ、結局のところ、たいしたことではなさそうだ』と思えるようになるのです。肝心なのは、自分に何が起こるかではなく、起こったことに対して何をするかということです。」
とても良い前向きなお話ですが、ただ「考え方を変える」とか「視点を変える」ということだけなら、巷の啓発的な物の考え方と全く同じです。私たちには、考え方や視点を変えることができない弱さもあります。「わかっちゃいるけど変えられない」のです。このような時にこそ、自分で変えようとするのではなく、神さまに変えていただける世界があることも学ぶ必要があるでしょう。「自分は、ただ神さまを信じて心にお迎えしただけなのに、自分の考え方や視点が変わって楽になった!」「このように自分が変わりました!」という人たちのお証を教会の中で聞くことができます。
「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)
心のオアシス 2016年7月24日
いくつかの逸話をご紹介します。
☆電球など発明したトーマス・エジソンは、教師に「頭が悪くて何一つ学ぶことができない生徒と酷評されていた。
☆ウィンストン・チャーチルは小学校6年の時に落第。62歳で英国の首相に就任するまでは、挫折と敗北続きの人生だった。大きな功績を残したのは、高齢者と呼ばれる歳になってからでした。(モーセも80歳から大きな仕事をしました。)
☆ピーター・J・ダニエルが小学4年生の時、担任のフィリップス先生は彼の顔さえ見れば口癖のように、「ピーター、あんたはどうしようもないできそこないね。大きくなっても、ろくな人間にはならないでしょうよ」と言っていました。実際、ピーターは26歳になるまで全く読み書きができないままでした。しかし、一晩かかって『ナポレオン・ヒルの巨富を築く13の条件』を友人に読んでもらったことで人生が変わった。今や彼は、かつてよく喧嘩をしていた隣町に土地を所有し、最新作『フィリップ先生、あなたは間違っていた』を出版しました。
☆大リーグで大きな記録を更新し続ける、あのイチロー選手は、少年時代から将来野球選手になって活躍する夢を語ると、いつもみんなに笑われたことを、告白していました。
映画「天国からの奇跡」は感動でした。私たちの人生には、必ず誰かが関わっていて、良きにしろ悪きにしろ、必ずそこには神さまの手が差し伸べられているということを改めて感じました。思えば私も振り返ると、必要な時に救いの手を差し伸べてくださる人々がいたことを認めざるを得ません。そしてKCFの開拓から今に至るまで、神さまが様々な人々を用いて、教会を助けていてくださっていることを強く感じています。
「通りよき管として、私を用いてください!」これが私の毎日の祈りです。今日も誰かが神さまからの管として私に繋がり、私が助けられ、私も他者に繋がり、神さまの恵みを伝えていく・・・栄光在主。
心のオアシス 2016年7月17日
ウェストミンスター寺院の地下室には、次のような碑文が刻まれた英国国教会主教の墓がある。
何の束縛もない若かりし頃、想像は果てしなく広がり、私は世界を変えることを夢見ていた。ところが、年を重ね賢くなり、世界は変わらないことに気づいた。そこで、目指すものをもう少し近いものにして、自分の国から始めることにした。
だが自分の国も変わらなかった。
老年期に入り、私の願いは悲痛な思いに変わった。自分の国もだめなら、少なくとも、最も近くにいる家族を変えることにした。
だが、悲しいことに、これすらままならなかった。
今、私は死の床についている。なんと、今になって初めてわかったのだ。変えなければいけないのは、自分自身だったのだと。自分が変われば、家族も変わっただろう。
そして家族に励まされ支えられることで、国をよくすることもできただろうし、やがては世界を変えることすらできたかもしれなかったのだ。
作者不明
多くの人たちは、自分の回りを変えようと必死になっていますが、失望に終わります。なぜなら、他の人もあなたを変えたいと思っているからです。まず変えなければならないのは自分自身だということ。でも、それに気付いても、なかなか変えることができないのも事実です。「自分の最大の敵は自分」という格言にあるように、自尊心と自己愛に満ちている「自分」をどうしたら良いのでしょうか? 結局、神さまに行き着いてしまいます。私たちの創造主に繋がることによってのみそれが可能になるのです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ15章5節)
心のオアシス 2016年7月10日
ある新人俳優が、一緒に出演していた先輩の俳優について語ったことを聞いたことがあります。当時、その先輩は、自分の撮影の時間がまだまだ先なのに、誰よりも早く来て待っていました。新人の俳優が不思議に思って、どうして時間に合わせて来ないで、毎回、早く来るのかと聞くと、その先輩は「待っている時間は、意味のない時間ではなく、現場の中で考え、準備する時間なんだ。人生というのは、何かを直接する時間よりも、そのことのために待つ時間のほうが多い。待っているうちに、じっくり熟していくってわけだ。人生っていうのは、みなそういうものだ」と答えたそうです。旧約聖書に登場するネヘミヤは、廃墟となった故郷のために4ヶ月祈りました。そして約4ヶ月が過ぎた後、王に助けを求めることのできる機会が与えられました。彼にとって、4ヶ月は血のにじむような時間でしたが、なくてはならない時間でした。事を成熟させる時間だったのです。私たちにもそのような時間が必ずあります。あらゆる思い煩いや不安が続いても、神様はすぐに答えてくださらないときがあります。私たちは待つしかなく、その時間は意味のない時間のように感じられます。あらゆる考えが行き交う中で、挫折と絶望、あきらめなどが深まっていく時間もその時です。その時間を通して、私たちは低くなり、謙遜になります。
ですから、その時間は神様が私たちをじっくり熟させる時間であって、決して無駄な時間ではありません。後になって初めて、それが最も尊い時間だったことがわかるようになります。いつものように自分の仕事を忠実に行ないながら、待たなければなりません。それは決して無意味な時間ではないのです。 (「祈りが始まりだ」チェ・ヨンシク著より)
聖書は、絶えず「待つ」ことを教えています。旧約時代には、救い主の到来を待つことが要求されました。そしてイエスさまは、天にお帰りになる前に「エルサレムで、父の約束を待っていなさい」と言われました。神さまからの答えをいただくまでの時間は無駄ではありません。祈りに対する答えは、実は待っている時間そのものなのかもしれません。
心のオアシス 2016年7月3日
日本人が、他国の人たちから不思議に思われていることの一つが、「自分には特定の宗教はありません」と言いながら、結婚式はキリスト教式で葬儀は仏式、初詣は神社へ行くといった人たちが多いということです。良い言葉で表現するなら、宗教的には非常に寛容だと言えますが、悪く言えば非常にいい加減な国民だと言われています。そしてどの神さまも平等に扱おうとする民主主義の精神が、そんなところにまで行き渡っています。そしてその神々の中から、自分の考え方や経験や感性や好みに合ったものを、その時その場に合わせて自分の神として利用するのです。人間が神に絶対無条件的に仕えるというより、人間が神々に条件をつけて、人間様の要求に神々を従わせているのです。ですから、神々を拝む目的は当然、物理的、精神的ご利益や保護を引き出すためにあります。
日本のある村では、七十数カ所もあった神社を経費節減のために4箇所にまとめてしまうという大規模改革が行われました。実際はつまらない神を整理してしまったのです。神々も人間のさまざまな要求に答えなければならないので大変です。要求に答えられなければ捨てられてしまうのです。いろいろな名前をつけられ、木や石、紙や金属の中に閉じ込められ、同じ言葉の繰り返しを聞かされ、人間に奉仕しなければなりません。結局、宗教とは人間の都合に合わせて作られたものと言われても仕方がないようです。
キリスト教は宗教ではないとクリスチャンたちが言いたがるのは、宗教が人間を起源とする教えだとすると、キリスト教は神ご自身を起源とする神が主役であり、神が中心になっているからです。人間の側に主導権がないことほど不利益はないでしょう。しかし、よく考えてみるならば、この世の不利益は、すべて人間主導の世界から発生しています。アダムとエバがエデンの園から出てこの世に生きるようになったことから、今の時代の様々な問題や争いに至るまでの全ての悪の根源は、人間の自己中心から起こっているのです。そろそろ自分主導を諦めて、神さま主導に切り替えてみられたらどうでしょうか? God is good all the time!
心のオアシス 2016年6月26日
日本人男性は特に、物事を合理的に考え、頭で理解できないことは、なかなか受け入れることができない傾向にあるようです。ですから、何か良いことが起こっても、悪いことが起こっても、それを「偶然」とか「たまたま」と考えます。進化論という仮説が日本の教育の中では教えられ、「偶然にそうなった」と教え込まれたら、そういう思考になっても仕方がないのかもしれません。日本人は、神の救いをお話すると、まず「神がいることを証明してほしい」と要求してきます。私が「では、神がいないことを証明してくだされば、お話しましょう」と言うと、それはできないと答えられます。古くから神の存在証明は数々試みられてきましたが、客観的な証明は打ち立てられていません。だからといって、それで神が存在しないことになるのではありません。同様に、「神が存在しない」ことを客観的に証明した人もいないからです。神の存在にしろ非存在にしろ、その決定的な証明方法はないのです。それは、世界の科学者・知識人に、神を信じる人もいれば、信じない人もいるからです。
存在しているものがどのようなものかを聖書や体験や創造世界の秩序などからを説明することはできても、「それが存在するかどうか」を証明することはできません。神は存在するかどうかは証明の対象ではなく、信仰の対象だからです。時々、「愛なる神がいるなら、なぜ私はこんな目に遭うのか?」と言う人々がいます。しかし、それは「無条件に人間を甘やかす神」は存在しないことを証明しただけで、「真の愛なる神」の存在を否定する証明ではありません。人間が頭の中で勝手に想定した神が理屈に合わなかったということにすぎないのです。それは人間の理性を越えた神が存在する可能性を否定したわけではないのです。
神の存在も非存在も証明はできないのですが、お得感から言えば、神の存在を信じる方に軍配が上がります。なぜなら、神の存在を信じる人々の人生が変えられ、天国へ行ける確信のもとで生きることができるからです。しかも私たちの罪の代価を代わって十字架で支払ってくださる愛に触れたら、たとえ辛いことがあっても感謝できる毎日になるのです。
心のオアシス 2016年6月19日
歴代のアメリカ大統領の中で、最も偉大で、広く尊敬されている人物であるアブラハム・リンカーンの人生は、このようなものでした。
22歳の時、商売に失敗。その返済に15年を費やしました。
24歳の時、州議員に落選。
25歳の時、州議員に当選。
26歳の時、婚約者の死に直面。それから数週間は、彼の生涯の中で、最も辛い日々でありました。何度も死にたいと口走っていて、自殺さえしかねない状態が続いていたというのです。
27歳の時、婚約者の死に直面したことからのショックなのか、うつ病になりました。
31歳の時、州議員に落選。
33歳の時、メアリーという女性と結婚。しかし、彼女は悪妻の典型であったそうですが、彼はそれに耐えました。
39歳の時、上院議員に落選。
46歳の時、上院議員に落選。
47歳の時、副大統領落選。
49歳の時、上院議員落選。
51歳の時、16代大統領当選。
56歳の時、暗殺されました。
これが、アブラハム・リンカーンの生涯でした。何と、悲しみに満ちた生涯、失敗と挫折の連続の生涯だったのでしょうか・・・彼の書斎の机の上には、いつもその日に読んで開かれたままの聖書が置かれていました。ここに彼が、倒れそうになる時、いつも引き上げて、力を与え、励まし、立ち直らせる力の源があったのであります。
彼は言いました「人は、自分が価値ある者であると感じ、自分を造った偉大な神の子供であると信じている間、その人をみじめにさせることは決してできない」
神の言葉に生きる人は、倒れても打ちのめされることはありません。
心のオアシス 2016年6月12日
1975年にアメリカで行われた、ある集会で、病気の癒しが沢山起こりました。多くの車椅子の人達が立ちあがり、ガンが癒され、目や耳の不自由な人達が癒され、主の御名が崇められました。その場所は、神様の臨在が濃厚でした。ある青年もその会衆の中にいて、神様がなさっておられることに感動していました。そしてその集会が終わって、その会場の出口から沢山の人々が出始めました。その青年も帰ろうとしてドアに近づいた時、母親に押されている車椅子の少女が見えました。ところが、驚いたことに、この少女の頭は異常に大きく、体は異常に小さく、すぐに奇形児だとわかりました。青年は、そのような子供を初めて見て驚き、悲しく思いました。そして神様にこう訴えました。「主よ、何故、この少女を癒されなかったのですか? この子こそ、今癒しを必要としているのです!」そして神さまが、その子を癒されなかったことに憤りを覚えながら、長距離バスに乗り込みました。その2時間後、バスの中で夢を見ました。それは、自分が2時間前に見た、あの会場から出て行く群衆、あの場面でした。ドアの辺りに、車椅子の少女とそれを押している母親がいました。そこには、この親子を見ながら「主よ、何故、この子を癒してくださらなかったのですか?…」と訴えている自分自身の姿もそこにありました。しかしそのシーンを見ていると、イエス様がその少女の後ろに立たれて、その大きな頭を抱きかかえておられました。そして言われたのです「私はこの子を忘れているのではありません。一度も忘れたことはありません」夢から目覚めた青年は震えました。そしてそれが訴えに対する答えだったのです。
「どうして?」と思える現実の中でも、主は忘れておられるのではなく、ご不在になっておられるのでもなく、100%、全ては神さまの手の中にあるということなのです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。(Ⅰテサロニケ5章16~18節)
心のオアシス 2016年6月5日
セムナン教会のキム・ドンイク牧師は、ガンにかかって大きな手術を受け、3年余りの闘病生活の後、天国に召された。先生が闘病生活の後、天国に召された。先生が闘病生活をされながら書かれた説教文に、このようなものがある。
「手術の後、危険な状態の中で、朝起きるとまず『神様。今朝も目を開けることができて感謝します』と祈った。この祈りしか出てこなかった。」その通りだ、今この瞬間にも、生きていることはどれほど感謝なことだろう。愛する夫、妻が今日も病に伏したり、死に至ることなく生きていることを神様に感謝しよう。子どもたちがいのちを与えられ、健康に生活していることに感謝をしよう。勉強が少しできなくても、お金をたくさん稼ぐことができなくても、大きな権力を持てなくても、あまり親孝行でなくても、その人が生きているだけでも自分に喜びと幸せを与えてくれることを悟って感謝をしよう。不毛な人生で、霊的に沈滞している人たちの共通点は、彼らの生活に「感謝」という言葉が抜けているということである。
幸せは持っているものに比例するのではなく、感謝に比例する。自分の人生のすべてのことを感謝だと感じられれば、それに比例して幸せも大きくなる。ではどのようなことに感謝することができるだろうか。お金をたくさん稼ぐこと、持っている不動産の値段が何倍にも跳ね上がったこと、商売がうまくいくこと、良い学校に合格したこと、就職したこと、進級したことなどは、すべて感謝する対象になる。しかし聖書は、このような感謝は誰にもできる感謝だと言っている。では、私たちがささげることのできる最高の感謝とは何か。イエス・キリストを送ってくださったことにより、死から永遠のいのちに移されたことよりも尊く、価値のある贈り物が他にあるだろうか。だからこそ私たちは、イエス様の十字架を見上げて感謝しなければならない。これがすべての感謝の基本であり、始まりである。(ジョン・クゥアン著より引用)
全ての人は、神に愛され、神の手の中で生かされています。感謝!
心のオアシス 2016年5月29日
あの日学校からの帰り道、マークの前を歩いていた少年がつまずいた。抱えていた本、セーター、野球バットとグローブ、小型テープレコーダーが、あたりに飛び散った。マークは駆け寄って、落ちたものを拾うのを手伝った。同じ方向に家があるというので、荷物を少し持ってあげ、おしゃべりしながら一緒に帰った。少年の名前はビル。TVゲームと野球が大好きで、歴史以外の科目は苦手だという。ビルの家に着くと、マークはコーラを飲んでいないかと誘われた。二人は、午後の時間をテレビを見たり、笑ったり、おしゃべりして楽しく過ごした。学校でもしばしば顔を合わせるようになり、昼食を共にすることもあった。結局、同じ高校に進学し、そんなつかず離れずのつきあいはずっと続いた。
学校の卒業式を3週間後に控えたある日、ビルがマークの家にやって来て、彼らの最初の出会いを懐かしそうに話しだした。「マーク。あの日、なぜ僕があんなにたくさんのものを持ち歩いていたかわかるかい? 学校のロッカーから中身を全部持って帰ろうとしていたんだよ。僕のものを残したままにしたら、次に使う子が嫌な思いをするだろうと思ってさ・・・。実はあの頃、母さんは睡眠薬を飲んでいてね、僕は少しずつこっそりためていたんだよ。君に初めて会ったあの日、家に着いたらそれを飲んで自殺するつもりだった。でも君に出会って、そのまま一緒におしゃべりしたり、笑ったりしたよね。君が帰った後に、もしあのまま自殺していたら君との楽しい時間も持てなかったし、これから起きるたくさんの素晴らしいことを経験することなく死んでしまうことになると思ったんだ。これでわかっただろう? マーク、君は僕の荷物を拾ったとしか思ってなかっただろうけど、あの日、僕の命も拾ってくれていたんだよ」 (ジョン・W・シュラター)
人のために何かをすることで、誰もが素晴らしい人になれます。大学を出ていなくても、正しい文法で話せなくても、人のために何かをすることができます。ただ、やさしい気持ちがあればいいのです。愛の心があればいいのです。 (マーチン・ルーサー・キング・ジュニア)