礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2016年1月31日

 ハワイでは、休日にビーチへ行って、そこでバーベQをする人たちが多いそうですが、ある日、タロー先生家族が、友人、親戚を呼んで、ビーチでバーベキューをしました。沢山の食べきれないほどの肉を準備しました。火を起こして、沢山のチキンを焼いていると、良い香りがしてきました。もうみんなお腹がすいて、早く食べたい気持ちでしたが、焼いている間、我慢して待っていたのです。しかし、チキンが次々に焼き上がって皿に盛られ始めたころに、向こうの方から、路上生活をしている汚いかっこをした人が歩いてきました。タロー先生は、それに気付いて、「こちらに来るな! 来ないように!」と内心念じていたそうです。しかし、その男の人は、良い香りにつられるようにしてやってきました。タロー先生は、「こんな男に分けてやるものか」と思って見て見ないふりをしていたそうです。ところが、兄弟がその男性を見つけて、プレートに焼き上がったばかりのチキンや肉を山盛り載せて与えているではありませんか・・・タロー先生は、「どうしてそんなことをするんだ!」と内心思って、怒りにも近い感情があったのですが、ふと、心の奥から、神様の囁きが聞こえてきました。「先週、レストランでランチを食べた分は、誰が払ったか?」あの日のランチのことを回想しました。先生家族は、レストランでランチを食べていました。食べ終わって、会計をしようとしたところ、「もう支払われています」とウェイターに言われました。それは、あるクリスチャンがそこに来ていて、タロー先生を見かけて、家族分の全部のランチ代を支払って、レストランを後にしていたそうです。その時に、タロー先生は感動して、ありがたいな~ 感謝だな~と思っていたのですが、そのことを回想しているうちに、今、有り余る肉を、その貧しい男性にあげることができない自分の醜さが示されたそうです。自分は神様から与えられているのに、どうして自分は与えることができないのか? 自分の姿に恥じ入り情けなくて涙が出てきたそうです。 
 
 今日は洗礼式! 何もわからなくても、イエスさまが、私たちの罪の支払いを、すでに済ませてくださったことを信じるだけで、大丈夫です!

心のオアシス 2016年1月24日

 その日、ダンキンドーナツに立ち寄った、学生のケイシー・フィッシャーさん。すると、1人のホームレスの男性が、持っている小銭を数えながらお店に入るのを見かけました。「何かしてあげたいな」そんな軽い気持ちで、そのホームレスの男性に話しかけたそうです。男性が持っていたのはわずか1ドル。ケイシーさんはコーヒーとベーグルを買ってあげました。すると男性は、自分の生い立ちから今まで起きた様々なことを語りました。名前はクリス。自分がホームレスであるせいで、どれだけ周りの人たちが冷たく当たってくるか。ドラッグがどんな風に自分を大嫌いな自分に変えてしまったのか。ガンで失った母親のこと、そして会ったこともない父親のこと、自分はただ、母親が誇りに思ってくれるような人間になりたいだけだということ…こんなことを話しているうちに、そろそろ授業に行かなければいけないことを伝えると、クリスさんは少し待って欲しいと言い、紙に何やら走り書きをし始めたのです。クシャクシャのレシートに書かれた手紙をケイシーさんに手渡し去って行きました。手紙を見たケイシーさんはハッとしました。こんなことが書かれていたのです。「今日、自殺しようと思っていたんだ。でもきみのおかげで、もうそんな風には思わない。ありがとう、素敵な人。」

 私たちの教会は、5年前、まだ数名しか礼拝出席者がいない時、奈良のカトリック登美ケ丘教会が何の得にもならないのに、どこの馬の骨かもわからない私たちプロテスタント教会の開拓のために集会室を無償で貸してくださった。そして大阪では東大阪福音教会が他教会に礼拝堂を日曜日に貸してくださっている。見込みもない、自分の益にもならない存在に対して見返りを期待せず投資し親切にする。これこそが、「水の上にパンを投げる」「天に宝を積む」ことだと思う。私はこの6年間、沢山の祈りと愛と親切とサポートされながら支えられてきました。今度は、小さな教会、見込みのない人たちに与える側にならなければ、神さまからお叱りを受けるでしょう。何よりもイエス・キリストは、私たちがまだ罪人であったときに愛を示してくださったのですから・・・

心のオアシス 2016年1月17日

 私たちの教会の近くには東大阪では有名な神社があり、年始には多くの参拝者が教会の前の参道を歩く姿を見かけます。普段の参道は閑散としているのに、大多数の人たちは、年に一度だけ、小銭を賽銭箱に投げ入れて大きなお願いするのです。私はそんな姿を見ながら、「人間の都合や欲求に振り回される神社の神さまも大変だなー」と思っていました。ところが、ある読み物の中でその道の専門家が、こう指摘していました。「神社は『お願い事をするところではない』ということに、目からウロコと思った人は、今まで間違った参拝をしていたことに気づきましょう。実は神社の参拝の意味は、神様を敬い、感謝の心を持つことと祈りを捧げる場所、神様との交流の場なのです。なので、お願い事をするのではなく、まずは神様と交流する為にまめに参拝し、自分を知ってもらうことが大切です。」神社での祈りはそうなのか?!と目からウロコでした。
 
 イエスさまが、弟子たちに「祈るときは、こう祈りなさい。」と教えられた主の祈がありますが、そこにこのようなクダリがあります。「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」(マタイ6:10)これは、「主導権は神さまの側にあります」という信仰告白の祈りでもあるのです。人間は、どうしても「神さま」を、自分の願いや欲求を満たすためのツールとして利用してしまいます。人間の側に主権があるのです。しかし聖書は、天地万物を造られた神さまが人間を造り、神のために人は存在していることを教えています。極端に言うならば、主導権は神にあって、人間は神さまの願いや欲求に答えるための道具だというのです。私たちの人生に様々な問題や疑問が起こり、ストレスがあるのは、神さまが造られた目的の通りに自分を用いていないからなのです。すなわち使用方法を間違っているということです。勿論、イエスさまご自身も「求めなさい!」とおっしゃいましたし、自分の必要のためにお祈りしてもぜんぜん構いません。大切なことは、自分の願った通りにならなかった場合も、主権は神さまにあると考え、与えられた答えを受け止める。これが「みこころが、地にも行われますように。」の意味なのです。

心のオアシス 2016年1月10日

 昔、中国に花を育て美しい花を咲かせることが大好きなティンという少年がいました。その国の皇帝も花が大好きでした。しかし高齢だったので、後継者を探さなければならない時期になり、このような命令を出しました。「今から、国中の子供たち全員に、特別な花の種を与えます。そして、一年後に最も美しい花を咲かせて持ってきた子を、私の後継者としよう」この知らせが、国中に知れ渡り、至るところから種を求めて子供たちが集まってきました。ティンも皇帝から、特別な花の種をもらい、自信満々でその種を植えました。毎日、水をあげました。しかし、何日経っても何も出てきません。もっと良い土を探して、入れ替えました。それでも何も出てきません。ついに1年が経過しましたが、何も出てきませんでした。春が来て、国中の子供たちが、綺麗におめかしをして、美しい花を持って、宮殿に集まってきました。しかしティンの鉢には何もありません。恥ずかしい気持ちでいっぱいでした。彼のお父さんは言いました「お前は、よく頑張ったよ。最善を尽くしたのだから、そのまま皇帝に持っていけばいいよ」その言葉に従い、彼は空っぽの鉢を持って宮殿に行きました。皇帝は子どもたちが持ってきた花を見ていきました。どれも美しい花ばかりです。ついにティンの鉢に目がとまりました。皇帝が彼を前に出るよう促すと、彼は泣きながら言いました「僕は毎日、一生懸命世話をしたのに何も出てきませんでした。だから、ここには何も出てない空っぽの鉢しかないのです」この言葉を聞いたとき皇帝の顔に笑みが浮かびました。ティン君の肩に腕をかけて群衆に叫びました「私は、ついに私の後継者になるべきふさわしい人物を見つけた!君たちは、どこから他の種を持ってきたか知らないが、私が与えた種は、調理済みで、芽が出る種ではなかったのだ。この少年は、勇気をもって空の鉢をもってきた。そのことを称えよう。彼は、今は何もないけれど、私の王国の皇帝となって、この国の富の全てを持つことになろう!」
 あなたの状況が良くなくても、神さまの前に誠実に生きるなら、あなたは持っていないようで、多くを持つことになるのです。

心のオアシス 2016年1月3日

 今年の関西カルバリーフェローシップに与えられている年間聖句は、エレミヤ書29章11節「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」です。
 この言葉は、当時、イスラエルの人々が、住んでいたエルサレムからバビロン帝国に捕らえ移され、バビロンにて捕囚生活を送っている時に、預言者エレミヤを通して与えられた神さまからの言葉でした。その前後を読むとわかりますが、バビロンにいたユダヤ人は、ずっと捕囚生活に苦しむのではなく、70年後には故郷エルサレムに帰還することができるという約束でした。何か変化する兆しもない状況の中で、今の奴隷のような生活から解放されるなんて、到底信じることはできなかったでしょう。しかし、神さまが常に私たちに発信しておられるのは、将来と希望のメッセージなのです。そして、歴史が語っているように、神さまの言葉は、本当に実現していきました。
 
 もし、問題しか見えないのであれば、それは現実に対する信仰が強いからです。すなわち、私たちの経験値や環境、状況、手持ちだけに信頼しているからだと言っても過言ではないでしょう。でも、神さまに対する信仰が強くなれば、嵐の中でも計り知れない平安がきます。なぜなら、神さまは私たちに災いを与えようとしておられるのではく、希望の将来を与えようとしておられることを信じることができるからです。これは、気休めではありません。本当に、リアルに私たちの人生に働く、神の不思議な力です。私も何度もそれを体験しました。是非とも、神さまに対する信仰によって2016年を走り続けましょう。
 神さまは、私たちの頭の中で考えることができる範囲の小さなお方ではありません。私たちの計画や予想や能力を超越した驚くべきお方です。
このお方が私たちの人生にご一緒してくださっているなら、どんなに道が険しくても大丈夫! 必ず平安へと導かれ、解決が与えられます。 

2016年1月元日

 ごちそうを前にしても文句を言う人がいるかと思えば、乾いたパン一切れでも感謝する人がいる。健康なからだが与えられていても環境を恨む人がいれば、両手両足がないにもかかわらず感謝する人がいる。一つを失うことに怒りを抑えられない人がいれば、二つを失ってもかえって感謝する人がいる。失敗したからと、いのちを絶ったり絶望したりする人がいるかと思えば、過ぎ去ったすべてのことを感謝し、未来に向けて準備する人がいる。自分を非難したり害を加えたりする人と仲違いする人がいれば、敵を愛して感謝する人がいる。死を恐れる人がいれば、死をありがたく受け入れる人がいる。
私たちには感謝する理由がたくさんある。呼吸できることに感謝し、歩けることに感謝し、食べることができ、寝ることができることに感謝し、夫と子どもを感謝し、成功も失敗も感謝し、病気でも健康でも感謝する。実際、この地上に生まれてから死ぬ日まで、感謝するのみではないだろうか。     「一生感謝365日」ジョン・クゥアン著より

 ある日、52歳の男性が、友人にこう言ったそうです。「もう終わりです。事業に失敗して、すべてを失ってしまいました・・・」その言葉を聞いた友人は言いました。「全てですか? それでは一度、あなたの残っているものを紙に書き出してみてください。奥さんはおられますか?」「はい、良い妻だと思います」「お子さんはおられますか?」「ええ。可愛い3人の子どもがいます」「友人は?」「います」「健康は?」「良い方だと思います・・・こうしてみると、私の今の状態はそれほど悪くはないのかもしれませんね。私は多くのものを持っているのですから・・・」
失敗する人、途中で諦めてしまう人は、自分に無いものばかりを見て悲観します。しかし、成功する人、立ち上がれる人は、自分にあるものを見て感謝します。新年は、主にあって感謝の一年でありますように!

心のオアシス 2015年12月27日

 社会学者たちの分析によると、1950年代、人間に必要な生活用品は72品、そのうち絶対に必要な物は18品だった。しかし2000年代の今は、必要な生活用品は500品であり、最低限必要な物は50品であるという。生活必需品と、最低限必要な物が大幅に増えた生活をしている現代人は、果たして60年前よりも幸せだろうか。むしろ感謝を知らず、不幸になってはいないだろうか。1690年蒸気機関を発明したフランスの物理学者ドニ・パパンは、このように言っている。「私は3つのことをいつも神さまに感謝している。1つ目は日々与えられる日ごとの糧に、2つ目は健康に、3つ目は永遠のいのちに対する希望である」
 感謝は、与えられた条件ではなく、作られた解釈である。足りなくても感謝を抱く者は感謝を生みだし、豊かであっても不平を抱く者は不平を生みだす。感謝は、所有しているものの多さではなく、考えの大きさ、信仰の大きさに比例する。所有に比例して感謝する人は、所有に比例して不平を言うが、信仰によって感謝する人は、条件にかかわらず世界を幸せにし、自分自身を豊かにする。感謝は、神の恵みを知る人の心の実であり、神の摂理を受け入れる人の思考方式である。感謝する分だけ、人生は豊かで温かいものとなる。  (ジョン・クゥアン師著書より)

 2015年もあと数日を残すのみとなりました。この一年を振り返ってみていかがだったでしょうか? 嬉しいことも、悲しいことも、嫌だったことも、嬉しかったこともあったでしょう。でもそこから感謝を見いだせる人は幸いだと思います。先日の堺の家庭集会で、「この一年の感謝を述べてください」というお題に、皆さまが、小さなこと、大きなことを見つけて感謝だったことを話しておられる姿に感動しました。辛いところを歩んで来られた方からも感謝の言葉があふれ輝いておられました。私たちも振り返ってみて、指折りながら感謝を数えてみましょう。
「またその恵みをもって年の冠とされる。あなたの道にはあぶらがしたたる。」(詩篇65篇11節) 良いお年をお迎えください。栄光在主!

心のオアシス 2015年12月20日

 ある年のクリスマスイブのこと、ポールは、兄さんからクリスマスに新車をプレゼントしてもらった。彼がオフィスから出てくると、少年が、そのピカピカの新車のまわりを歩き回りながら、ポールに話しかけてきた。「この車、おじさんの?」「ああ、兄貴からのクリスマスプレゼントさ」と答えると、少年はそれを聞いてひどく驚いた。「えっ? おじさんの兄さんがくれたの? おじさんは全然お金を払わなくてよかったの?  ぼく・・・」と、少年は何かを言いかけたが、そのまま口をつぐんでしまった。「ぼくにも、こんな兄さんがいたらなあ」と言いたかったのだろう、とポールは思った。ところが、少年の口から出た言葉にポールは耳を疑った。「ぼくね、おじさんの兄さんみたいになりたいなって思ったんだ」ポールは、少年の顔を見つめていたが、自分でも思いがけない言葉が口をついて出ていた。「この車に乗ってみるかい?」「本当? ウン。ぼくの家の前まで乗せてくれる?」ポールは、きっとこんな大きな車で帰ってくるところを近所の人たちに見せて、自慢したいんだなと思った。しかし、その憶測はまたもや外れた。「そこでちょっと待っててくれる?」少年は車を降り、駆け足で家に入った。しばらくすると家の中から、少年が身体の不自由な弟を背負って出てきた。弟を階段の一番下に座らせ「ほら、見てごらん。言ったとおり、すごい車だろ。そこにいるおじさんの兄さんがクリスマスプレゼントにくれたんだって。お前も待ってなよ。兄ちゃんが、いつかきっとあんな車をお前に買ってやるからね。そしたら、いつも話してるクリスマスの綺麗な飾りを、その車に乗って見に行こう」それを聞いたポールは、少年の弟を抱き上げ、新車の助手席に座らせた。目をキラキラ輝かせた少年もその横に乗り込むと、三人はドライブに出かけた。本当にすばらしいクリスマスのドライブだった。このクリスマスの日、ポールは聖書のみことばをしみじみ感じた。「受けるよりは与えるほうが幸いである」   (ダン・クラーク氏筆)

 神さまが私たちにタダで与えてくださったもの・・・それはイエス・キリスト。滅び行く私たちが救われるためでした。  Merry Christmas!

心のオアシス 2015年12月13日

 私(佐々木炎牧師)の教会では、クリスマスに向け、トルストイの書いた「靴屋のマルチン」の劇を行うことになった。内容は・・・靴屋のマルチンは、ある夜、キリストの声を聞く。「マルチンよ、明日、あなたのところに行くよ」次の日、彼は期待して待っていた。でも、いっこうに来ない。彼は窓から雪かきをしている老人が見えたので、老人を家に招いて温かいお茶をふるまった。次に赤ちゃんを抱えた貧しい母親が通り過ぎるのを見て、彼は上着を与えた。次に通りすがりにおばあさんのカゴからリンゴを奪おうとした少年を見て急いで、少年と一緒におばあさんに謝った。夜になりマルチンは、キリストに会えなかったことに落胆する。その時、昨夜と同じようにキリストの声を聞く。「今日、私はあなたを訪ねた。あの老人も、あの母親も、あの少年も、みんなわたしだったのだ」・・・練習を重ねて本番を迎えた。拍手喝采で終わった。後片付けをしていると、教会のドアが開いた。父親の手を引いた一人の少女が立っていた。父親が事情を話した。「昨年妻が亡くなり、私たちは父子家庭になりました。今年は寂しいクリスマスになると思っていましたが、この子がチラシをいただき教会に行こうと誘ってくれました。でも仕事が入り、こんな時間になってしまいました。わがままを承知の上なのですが、この子のために、劇をやっていただけませんか?」私は早速、メンバーに事情を説明した。しかし大人たちは無理だと親子を帰してしまった。それを知ったキリスト役の小学生が大きな声で劇のセリフを大人に向けて叫んだ。「貧しい人、悲しんでいる人、苦しんでいる人、困っている人、そのような人たちの中にわたしはいます」そしてこう続けた。「本当のキリストが来たのに大人は帰したんだ・・・」私は急いで外に飛び出し、キリストを探したが、もう暗闇に父子は見つからなかった。どん底でクリスマスを迎えた彼らこそ、キリストは救い主になるために命をかけて生まれてくださったはずなのに、その希望を伝えるべき私は何をしたのか・・・私は人目をはばからず泣いた。(中原キリスト教会) 

 是非、イエスさまをお迎えして最高のクリスマスをお過ごし下さい!

心のオアシス 2015年12月6日

 私たち夫婦の其々の両親は、関西(丹波地方近接の三田市)と名古屋に在住しておりますが、毎週の孫電話と毎月の孫写真&御言葉手紙での「孫孫伝道」を8年来続けてきました。その様な中、本日早朝に3日間の関西帰省の全日程を終え、いよいよ東京に向け実家を去ろうと最後の祈りに導かれた時、「今、私の愛するあなたの母親に大胆に私の福音を伝え信仰告白に導きなさい。恐れてはならない!」と主から迫りを受けたのです。私は挑むような思いで、母にリビングの椅子に座ってもらい、その足元に膝まずき母の両手をしっかり握って、心からイエス様のお話を涙ながらに、しかしハッキリと伝えることができました。愛する母に「お母さん、今まで育てて下さり有難う、感謝しています。 僕の若い頃、多くの放蕩を尽くし、お母さんに本当に悲しませた事を赦して下さいね。お母さんが何時も僕を愛し励ましてくれていた事知っていましたよ。今僕はイエス様を信じて、素晴らしい妻と子供達と共に祝福と希望の人生に生かされています。永遠の命も頂きました。僕たち夫婦と子供たちはお母さんと天国で再会したいといつも東京で祈っているのですよ。どうかこの愚かな放蕩息子の最後の我が儘、いいえ遺言を聞いて下さい。どうかイエス様を信じて天国に行って下さい!永遠の命を受け取ってください!」と懇願すると、母は「わかったよ、わかったよ。お前を変えて下さったイエス様を信じるよ。でも今言われなくても、変わったお前やイエス様に仕えるお嫁さん、又イエス様大好きな可愛い孫たちを見ているだけで心の中では、私はもうイエス様を信じていたよ。わざわざ言わなかっただけや!」と返答してくれたのです。イエス様は祈りに答え、私が何度も母の伝道を諦めかけていた時でさえ、私の不信仰を哀れまれつつ主は決して諦めることなく母の心を導いて下さっておられたのだと改めて気付かせられ、大きな喜びと励ましを頂きました。そして私の信仰も又新たにされ感動のひと時となりました。(原田恵巳氏の文抜粋)
 
 放蕩息子の変えられた様子を見ただけで、神さまの存在を信じた・・・言葉以上に、その人の生き様が一番の証となるのですね。栄光在主!