礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2016年7月10日

 ある新人俳優が、一緒に出演していた先輩の俳優について語ったことを聞いたことがあります。当時、その先輩は、自分の撮影の時間がまだまだ先なのに、誰よりも早く来て待っていました。新人の俳優が不思議に思って、どうして時間に合わせて来ないで、毎回、早く来るのかと聞くと、その先輩は「待っている時間は、意味のない時間ではなく、現場の中で考え、準備する時間なんだ。人生というのは、何かを直接する時間よりも、そのことのために待つ時間のほうが多い。待っているうちに、じっくり熟していくってわけだ。人生っていうのは、みなそういうものだ」と答えたそうです。旧約聖書に登場するネヘミヤは、廃墟となった故郷のために4ヶ月祈りました。そして約4ヶ月が過ぎた後、王に助けを求めることのできる機会が与えられました。彼にとって、4ヶ月は血のにじむような時間でしたが、なくてはならない時間でした。事を成熟させる時間だったのです。私たちにもそのような時間が必ずあります。あらゆる思い煩いや不安が続いても、神様はすぐに答えてくださらないときがあります。私たちは待つしかなく、その時間は意味のない時間のように感じられます。あらゆる考えが行き交う中で、挫折と絶望、あきらめなどが深まっていく時間もその時です。その時間を通して、私たちは低くなり、謙遜になります。
 ですから、その時間は神様が私たちをじっくり熟させる時間であって、決して無駄な時間ではありません。後になって初めて、それが最も尊い時間だったことがわかるようになります。いつものように自分の仕事を忠実に行ないながら、待たなければなりません。それは決して無意味な時間ではないのです。   (「祈りが始まりだ」チェ・ヨンシク著より)

 聖書は、絶えず「待つ」ことを教えています。旧約時代には、救い主の到来を待つことが要求されました。そしてイエスさまは、天にお帰りになる前に「エルサレムで、父の約束を待っていなさい」と言われました。神さまからの答えをいただくまでの時間は無駄ではありません。祈りに対する答えは、実は待っている時間そのものなのかもしれません。

心のオアシス 2016年7月3日

 日本人が、他国の人たちから不思議に思われていることの一つが、「自分には特定の宗教はありません」と言いながら、結婚式はキリスト教式で葬儀は仏式、初詣は神社へ行くといった人たちが多いということです。良い言葉で表現するなら、宗教的には非常に寛容だと言えますが、悪く言えば非常にいい加減な国民だと言われています。そしてどの神さまも平等に扱おうとする民主主義の精神が、そんなところにまで行き渡っています。そしてその神々の中から、自分の考え方や経験や感性や好みに合ったものを、その時その場に合わせて自分の神として利用するのです。人間が神に絶対無条件的に仕えるというより、人間が神々に条件をつけて、人間様の要求に神々を従わせているのです。ですから、神々を拝む目的は当然、物理的、精神的ご利益や保護を引き出すためにあります。  
 日本のある村では、七十数カ所もあった神社を経費節減のために4箇所にまとめてしまうという大規模改革が行われました。実際はつまらない神を整理してしまったのです。神々も人間のさまざまな要求に答えなければならないので大変です。要求に答えられなければ捨てられてしまうのです。いろいろな名前をつけられ、木や石、紙や金属の中に閉じ込められ、同じ言葉の繰り返しを聞かされ、人間に奉仕しなければなりません。結局、宗教とは人間の都合に合わせて作られたものと言われても仕方がないようです。
 キリスト教は宗教ではないとクリスチャンたちが言いたがるのは、宗教が人間を起源とする教えだとすると、キリスト教は神ご自身を起源とする神が主役であり、神が中心になっているからです。人間の側に主導権がないことほど不利益はないでしょう。しかし、よく考えてみるならば、この世の不利益は、すべて人間主導の世界から発生しています。アダムとエバがエデンの園から出てこの世に生きるようになったことから、今の時代の様々な問題や争いに至るまでの全ての悪の根源は、人間の自己中心から起こっているのです。そろそろ自分主導を諦めて、神さま主導に切り替えてみられたらどうでしょうか? God is good all the time!

心のオアシス 2016年6月26日

 日本人男性は特に、物事を合理的に考え、頭で理解できないことは、なかなか受け入れることができない傾向にあるようです。ですから、何か良いことが起こっても、悪いことが起こっても、それを「偶然」とか「たまたま」と考えます。進化論という仮説が日本の教育の中では教えられ、「偶然にそうなった」と教え込まれたら、そういう思考になっても仕方がないのかもしれません。日本人は、神の救いをお話すると、まず「神がいることを証明してほしい」と要求してきます。私が「では、神がいないことを証明してくだされば、お話しましょう」と言うと、それはできないと答えられます。古くから神の存在証明は数々試みられてきましたが、客観的な証明は打ち立てられていません。だからといって、それで神が存在しないことになるのではありません。同様に、「神が存在しない」ことを客観的に証明した人もいないからです。神の存在にしろ非存在にしろ、その決定的な証明方法はないのです。それは、世界の科学者・知識人に、神を信じる人もいれば、信じない人もいるからです。  
 存在しているものがどのようなものかを聖書や体験や創造世界の秩序などからを説明することはできても、「それが存在するかどうか」を証明することはできません。神は存在するかどうかは証明の対象ではなく、信仰の対象だからです。時々、「愛なる神がいるなら、なぜ私はこんな目に遭うのか?」と言う人々がいます。しかし、それは「無条件に人間を甘やかす神」は存在しないことを証明しただけで、「真の愛なる神」の存在を否定する証明ではありません。人間が頭の中で勝手に想定した神が理屈に合わなかったということにすぎないのです。それは人間の理性を越えた神が存在する可能性を否定したわけではないのです。
 神の存在も非存在も証明はできないのですが、お得感から言えば、神の存在を信じる方に軍配が上がります。なぜなら、神の存在を信じる人々の人生が変えられ、天国へ行ける確信のもとで生きることができるからです。しかも私たちの罪の代価を代わって十字架で支払ってくださる愛に触れたら、たとえ辛いことがあっても感謝できる毎日になるのです。

心のオアシス 2016年6月19日

 歴代のアメリカ大統領の中で、最も偉大で、広く尊敬されている人物であるアブラハム・リンカーンの人生は、このようなものでした。
22歳の時、商売に失敗。その返済に15年を費やしました。
24歳の時、州議員に落選。
25歳の時、州議員に当選。
26歳の時、婚約者の死に直面。それから数週間は、彼の生涯の中で、最も辛い日々でありました。何度も死にたいと口走っていて、自殺さえしかねない状態が続いていたというのです。
27歳の時、婚約者の死に直面したことからのショックなのか、うつ病になりました。
31歳の時、州議員に落選。
33歳の時、メアリーという女性と結婚。しかし、彼女は悪妻の典型であったそうですが、彼はそれに耐えました。
39歳の時、上院議員に落選。
46歳の時、上院議員に落選。
47歳の時、副大統領落選。
49歳の時、上院議員落選。
51歳の時、16代大統領当選。
56歳の時、暗殺されました。
 これが、アブラハム・リンカーンの生涯でした。何と、悲しみに満ちた生涯、失敗と挫折の連続の生涯だったのでしょうか・・・彼の書斎の机の上には、いつもその日に読んで開かれたままの聖書が置かれていました。ここに彼が、倒れそうになる時、いつも引き上げて、力を与え、励まし、立ち直らせる力の源があったのであります。
 彼は言いました「人は、自分が価値ある者であると感じ、自分を造った偉大な神の子供であると信じている間、その人をみじめにさせることは決してできない」
 
 神の言葉に生きる人は、倒れても打ちのめされることはありません。

心のオアシス 2016年6月12日

 1975年にアメリカで行われた、ある集会で、病気の癒しが沢山起こりました。多くの車椅子の人達が立ちあがり、ガンが癒され、目や耳の不自由な人達が癒され、主の御名が崇められました。その場所は、神様の臨在が濃厚でした。ある青年もその会衆の中にいて、神様がなさっておられることに感動していました。そしてその集会が終わって、その会場の出口から沢山の人々が出始めました。その青年も帰ろうとしてドアに近づいた時、母親に押されている車椅子の少女が見えました。ところが、驚いたことに、この少女の頭は異常に大きく、体は異常に小さく、すぐに奇形児だとわかりました。青年は、そのような子供を初めて見て驚き、悲しく思いました。そして神様にこう訴えました。「主よ、何故、この少女を癒されなかったのですか? この子こそ、今癒しを必要としているのです!」そして神さまが、その子を癒されなかったことに憤りを覚えながら、長距離バスに乗り込みました。その2時間後、バスの中で夢を見ました。それは、自分が2時間前に見た、あの会場から出て行く群衆、あの場面でした。ドアの辺りに、車椅子の少女とそれを押している母親がいました。そこには、この親子を見ながら「主よ、何故、この子を癒してくださらなかったのですか?…」と訴えている自分自身の姿もそこにありました。しかしそのシーンを見ていると、イエス様がその少女の後ろに立たれて、その大きな頭を抱きかかえておられました。そして言われたのです「私はこの子を忘れているのではありません。一度も忘れたことはありません」夢から目覚めた青年は震えました。そしてそれが訴えに対する答えだったのです。
 「どうして?」と思える現実の中でも、主は忘れておられるのではなく、ご不在になっておられるのでもなく、100%、全ては神さまの手の中にあるということなのです。
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。(Ⅰテサロニケ5章16~18節)

心のオアシス 2016年6月5日

 セムナン教会のキム・ドンイク牧師は、ガンにかかって大きな手術を受け、3年余りの闘病生活の後、天国に召された。先生が闘病生活の後、天国に召された。先生が闘病生活をされながら書かれた説教文に、このようなものがある。
「手術の後、危険な状態の中で、朝起きるとまず『神様。今朝も目を開けることができて感謝します』と祈った。この祈りしか出てこなかった。」その通りだ、今この瞬間にも、生きていることはどれほど感謝なことだろう。愛する夫、妻が今日も病に伏したり、死に至ることなく生きていることを神様に感謝しよう。子どもたちがいのちを与えられ、健康に生活していることに感謝をしよう。勉強が少しできなくても、お金をたくさん稼ぐことができなくても、大きな権力を持てなくても、あまり親孝行でなくても、その人が生きているだけでも自分に喜びと幸せを与えてくれることを悟って感謝をしよう。不毛な人生で、霊的に沈滞している人たちの共通点は、彼らの生活に「感謝」という言葉が抜けているということである。
 幸せは持っているものに比例するのではなく、感謝に比例する。自分の人生のすべてのことを感謝だと感じられれば、それに比例して幸せも大きくなる。ではどのようなことに感謝することができるだろうか。お金をたくさん稼ぐこと、持っている不動産の値段が何倍にも跳ね上がったこと、商売がうまくいくこと、良い学校に合格したこと、就職したこと、進級したことなどは、すべて感謝する対象になる。しかし聖書は、このような感謝は誰にもできる感謝だと言っている。では、私たちがささげることのできる最高の感謝とは何か。イエス・キリストを送ってくださったことにより、死から永遠のいのちに移されたことよりも尊く、価値のある贈り物が他にあるだろうか。だからこそ私たちは、イエス様の十字架を見上げて感謝しなければならない。これがすべての感謝の基本であり、始まりである。(ジョン・クゥアン著より引用)

 全ての人は、神に愛され、神の手の中で生かされています。感謝!

心のオアシス 2016年5月29日

 あの日学校からの帰り道、マークの前を歩いていた少年がつまずいた。抱えていた本、セーター、野球バットとグローブ、小型テープレコーダーが、あたりに飛び散った。マークは駆け寄って、落ちたものを拾うのを手伝った。同じ方向に家があるというので、荷物を少し持ってあげ、おしゃべりしながら一緒に帰った。少年の名前はビル。TVゲームと野球が大好きで、歴史以外の科目は苦手だという。ビルの家に着くと、マークはコーラを飲んでいないかと誘われた。二人は、午後の時間をテレビを見たり、笑ったり、おしゃべりして楽しく過ごした。学校でもしばしば顔を合わせるようになり、昼食を共にすることもあった。結局、同じ高校に進学し、そんなつかず離れずのつきあいはずっと続いた。
学校の卒業式を3週間後に控えたある日、ビルがマークの家にやって来て、彼らの最初の出会いを懐かしそうに話しだした。「マーク。あの日、なぜ僕があんなにたくさんのものを持ち歩いていたかわかるかい? 学校のロッカーから中身を全部持って帰ろうとしていたんだよ。僕のものを残したままにしたら、次に使う子が嫌な思いをするだろうと思ってさ・・・。実はあの頃、母さんは睡眠薬を飲んでいてね、僕は少しずつこっそりためていたんだよ。君に初めて会ったあの日、家に着いたらそれを飲んで自殺するつもりだった。でも君に出会って、そのまま一緒におしゃべりしたり、笑ったりしたよね。君が帰った後に、もしあのまま自殺していたら君との楽しい時間も持てなかったし、これから起きるたくさんの素晴らしいことを経験することなく死んでしまうことになると思ったんだ。これでわかっただろう? マーク、君は僕の荷物を拾ったとしか思ってなかっただろうけど、あの日、僕の命も拾ってくれていたんだよ」               (ジョン・W・シュラター)
 人のために何かをすることで、誰もが素晴らしい人になれます。大学を出ていなくても、正しい文法で話せなくても、人のために何かをすることができます。ただ、やさしい気持ちがあればいいのです。愛の心があればいいのです。   (マーチン・ルーサー・キング・ジュニア)

心のオアシス 2016年5月22日

 戦場でのクリスマスの出来事です。まだ第一次世界大戦が始まったばかりでした。イギリス軍とドイツ軍は、両者共にフランスの平野に何キロも続く溝を掘ってにらみ合っていました。兵士はこの溝から機関銃や迫撃砲を相手に打ち込んでいました。機関銃の発射音が途絶えたときには、敵軍の塹壕から、弾丸を詰める音が聞こえるほどの距離でした。クリスマス・イブの夜もふけ、降り続いたみぞれもこやみになり、気温はぐんぐん下がっていきました。見張りのイギリス兵は、中間危険地帯の向こうから、いつもとは違う音が聞こえるのに気付きました。ドイツ軍の塹壕で、誰かが歌っているのです。それは「きよしこの夜」のメロディーです。彼はそっとメロディを口ずさみ始めます。そして気がつくと、英語で、しかも大声でそれを歌っていました。有刺鉄線の向こう側にいる敵兵とのドイツ語と英語の何とも奇妙な二重唱でした。やがて、ドイツ側でもイギリス側でも、次々と歌声に加わる兵士が増えていきました。砲撃戦の傷跡のすさまじいフランスの平原に、さまざまな声が入り混じって流れました。クリスマスの朝が明けると、それぞれのことばで書かれた「メリー・クリスマス」のサインが、高々と掲げられていました。恐怖にも勝る、ある強い力に引かれて、兵士は一人、また一人と武器を置いて、有刺鉄線の下をくぐり、塹壕の間の危険地域に出て行きました。見る見るうちに数が増え、大勢のイギリス兵とドイツ兵がクリスマスの朝の光の中で顔を合わせたのです。しかし、クリスマスの休戦もここまで、事態を憂慮した高官たちが、兵士達を塹壕に呼び戻したのです。そして発砲が再開されました。両国共に当時の若者の世代の多くが失われました。しかし、生き延びた者の心には、前線で迎えた大戦初めの、あのクリスマスの記憶が残りました。すなわち、クリスマスの日の数時間、彼らにはイギリス国王でも、ドイツ皇帝でもない、仕えるべき別の君主がいたということです。
 平和の君と呼ばれる方に堅く立つなら、あらゆる危機の中でも平和を創り出すことができるのです。そのお方の名前は、イエス・キリストです。あなたの人生に豊かな平安がありますように。

心のオアシス 2016年5月15日

 仲むつまじく暮らしている家族がいた。この家族は、3坪ほどの狭い部屋に住んでいた。ある晩、家具があちこちに置かれている狭い部屋に、家族4人がやっとからだを重ねながら横になっていた。ところが、縦に並んで寝ると、背の高い父親はまっすぐにからだを伸ばして寝ることができるがひどく狭い。横に寝ると3人はゆったりと眠れるが、父親はえびのように背中を丸めて寝なければならない状態であった。家族は丸くなって座り、皆が楽に寝られる方法を模索した。しばらく悩んだ末、流し台とオーディオの間にある、33センチの空間を発見した。父親がそこに足を伸ばして寝れば、えびのように寝なくても大丈夫であった。父親は足を伸ばして寝ることができる空間があることに感謝した。
今は広い家に引越し、そのようなことで悩む必要はなくなったが、その父親は、小さなことでも簡単に不平を言う自分の姿を省みて、小さなことに感謝しながら幸せに暮らしていたそのころが懐かしいと言う。本当の感謝とは、環境によるのではなく、心がへりくだっている時にささげることができるものなのである。(ジョン・クゥアン著より引用)

 私たちはある意味、苦労している時の方が、幸せなのかもしれない。たったの33センチの空間ができただけで、感謝して喜んでいることができるのですから・・・同じように私たちがどん底にいる時には、這い上がるのみなので実は希望があります。小さな光に喜ぶことができます。でも、光が大きくなってくると、それが当たり前になってしまい、光があること自体に感謝をする機会が少なくなってしまいます。そうなると、自分が持っていないことに対する不満ばかりが出てくるようになります。  
 以前、年配の女性の集まりに参加させていただいた時に、口々に自分の旦那さんと喧嘩した話しをして盛り上がっている最中に、一人の未亡人の方が、心に残りました。「あなたたちには、喧嘩する相手がいていいね~」失ってみて、そのありがたさがわかることが多いでしょう。毎日当たり前だと思っていることに、感謝する心が与えられたらと願います。

心のオアシス 2016年5月8日

 以前、B&Bという漫才コンビがいましたが、その一人は島田洋七といいます。島田さんのお父さんは、彼が2歳のとき、広島の原爆のため死去。そのためお母さんは、夜、お店で働き、二人の子どもを育てました。しかし、訳あって、島田さんは小学2年生のときから、佐賀のおばあちゃんに預けられます。このおばあちゃんは、「がばい(すごい)ばあちゃん」でした。彼女は夫に先立たれ、貧乏のどん底暮らしの中、学校の便所掃除の仕事をしながら、7人の子どもを立派に育てたおばあちゃんです。このおばあちゃんは、貧乏ですが、底抜けに明るく、前向きでした。例えば、島田さんが見るも無残な通知表を、おばあちゃんに申し訳なさそうに渡した時の会話・・・「ばあちゃん、1と2ばっかりでごめんね・・・」「大丈夫、大丈夫。足したら5になる!」「えっ?! 通知表って足してもいいの?」「人生は総合力!」そうキッパリ言い切るおばあちゃんだったそうです。
 物事を見る視点を変えたら、違う世界が見えてくるものです。私たちの人生にも同じことが言えるかもしれません。現実から、今ある問題を見ると、到底受け止めることができない大きなものに見えても、天地宇宙を創造された神さまの大きさと比べるならば、比べ物にならないほど、その問題が小さく見えてきます。
 イエスさまの弟子たちが、5つのパンと2匹の魚を手にして5千人の人々を前にして言いました。「これだけで5千人を養うのは無理です。環境が悪すぎます! もう時間がありません。手遅れです! 私たちには問題が大きすぎます!」とイエスさま訴えました。それが現実における限界であります。しかしイエスさまは何とおっしゃったでしょうか?「5千人に対して、どうにもならないクズ同然のものを私の元に持ってきなさい」 そしてそれがイエスさまの手に入った瞬間から、不思議が起こり5千人全員が食べて余るほどの奇跡がなされました。私たちの弱さや欠点を、イエスさまの元に持って行くのです。山も下から見上げるのと、頂上に登って見下ろすのとでは、随分と景色が違うものです。