礼拝メッセージ

心のオアシス

心のオアシス 2016年9月18日

 大きな橋がありました。長くのびていて向こう岸にかかっていました。この橋は、一日に何度も上がったり、下がったりして土手をつないでいました。船がくると船を通し、汽車が来ると橋を岸にかけて、汽車を通していました。そのために交換手がいて、この橋の上げ下げを操作していました。ある日、彼が準備をしながら時間を確認して、遠くを見ると汽車が近づいているのが見えました。いつものようにスイッチを押して橋を下ろそうとするのですが、故障していて動きません。信号も青のままです。このまま汽車が進むと橋に衝突して川に落ちてしまいます。たくさんの人たちが汽車に乗っています。しかし、この交換手は、このような非常事態には、どうすれば良いのかわかっていました。線路の反対側にレバーがあって、それを手動で下げて、橋を下ろして固定することができたのです。汽車の振動は、近づいてきました。彼は、全力で走って、そのレバーの所まで行って、そのレバーを下げて、橋を下ろすことができました。ちょうど、その瞬間に「パパ~」と、5歳になる自分の息子が走ってくるのが見えました。「こっちに来ちゃ駄目だ! もどりなさい!」と叫びました。しかし、その小さな子供の耳には声は届きません。そして、到底線路を渡り切ることはできません。交換者は、レバーを離して、息子を助けに行きかけたその時、橋が静かに上がり始めました。その時、交換手は一つの決断をしました。その後、汽車は何事もなかったように、その橋を通り過ぎていきました。そして誰も、交換手の息子が犠牲になったことに、気付きませんでした。そのレバーに、しがみついて犠牲になった息子のために泣き続けている父親の姿に、気づく人は誰もありませんでした。
 天の父なる神さまは、私たちが罪によって滅びないために、御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。そして私たちの罪の身代わりとなり、十字架にかかり死なれました。私たちは汽車の乗客のように当たり前のように生きていますが、実はキリストによって生かされているのです。この愛に応えながら生きることが、人生の目的なのです。

心のオアシス 2016年9月11日

 第二次世界大戦中にナチスに捕らえられて収容所に送られ、ガス部屋で殺される恐怖を絶えず味わいながら、九死に一生を得て終戦を迎えた人物の中に、ヴィクター・フランクルというオーストリアの精神科医がいます。著書に「世の霧」「死の愛」がありますが、この収容所体験をもとに、極限状態に置かれた人間が、いかにして生き続けることができたかについて書かれています。同じ過酷な状況のもとにありながら、最後まで生き延びた囚人もいれば、力尽きて死んでいった人々もいました。その両者を分けたのは、決して健康であるとか体が頑強であるというのではなかったと述べています。では、何がその人を強め、または弱めたのでしょうか? それは「希望」の有る無しだと言うのです。「この戦争はいつか必ず終わり、妻子に再び逢える」という希望、「戦争が終わったら、やりかけていた仕事を完成しよう」という希望・・・それは、収容所の中にいて、ほとんど夢のようなもの、実現不可能と思えるものでした。にもかかわらず、その希望を持ち続けた人々のみが、生きて終戦を迎えることができたというのです。
 一人の囚人は、何度か高圧電流が走っている鉄条網に自ら触れて自殺してしまいたい衝動にかられました。この人がその衝動に打ち勝てたのは、彼が結んでいた「天との契約」に他なりませんでした。「天との契約」、それは、自分の苦しみ、死さえも、意味あるものとしたいという切なる願いの表れでした。この囚人は神と契約を結んだのです。「私は、収容所での苦しみを喜んで苦しみますから、その代わりに、私の愛する母親の苦しみを、その分だけ和らげてやってください。もしガス部屋へ送られて死なねばならないとしたら、どうぞ私の命の短くなった分だけ、どこかの収容所に入れられているだろう母親の命を長らえさせてください」自分の苦しみの死も無意味なものとならないという希望に支えられて、この人は終戦までの地獄のような日々を生き続けることができました。

 私たちには、神様の与えてくださっている希望があります。この地上で起こる周期的な陣痛の後には、それにも勝る喜びがくるのです。

心のオアシス 2016年9月4日

 日本人は、「神が人間を創造した」という話を聞いても、違和感をもたれる人たちが多くいます。なぜなら、小学生のときから「人間は進化した」と教え込まれていて、それが当然のように考えているからです。
 進化全体を説明する唯一の要因は「偶然」です。揺り返す原子のスープから「偶然」にアミノ酸が作られ、その「偶然」の繰り返しによってDNAが合成され、さらなる「偶然」によって生命を持つ細胞が形成され、後はその生物がひたすら「偶然」によって進化を遂げていきました。この「偶然」は、箱の中に車の全ての部品を入れて、揺すぶっていたら車が完成しましたという計算上不可能としかいいようのないほど小さな確率を次々と突破して進化していったというのです。しかし「偶然」は「無目的」です。学校でいくら人間の命は尊いと教えても、人間が物質から偶然に化学進化した存在であるかぎり、説得力は全くありません。物質から生まれ、長くても100年そこそこ生きて、やがて無に帰っていくだけの存在の何が尊いのでしょうか? 人間は「コンピューターを作る」「直立歩行する」「知能が発達している」「言語をもつ」「道具を使う」から尊いとは言えません。それは自己尊厳を正当化するために考え出した人間の主張にしかすぎません。鳥が「空を飛べるから人間より尊い」と主張しているのと変わりません。何を根拠に人間の命は尊いと決めたのでしょうか? それは、ただ死ぬのが怖いからです。自分の命を守るために命が尊くあってほしいのです。それ以上の根拠はありません。
 では聖書は人間の存在価値について、どのように説明しているのでしょうか? 人間は神に似た人格を持つ最高の存在として造られ、神に愛されていること、これが人間という生き物の始まりで、神の目には「極めて良い」という完璧な人格と体をもってスタートしたのです。創造主が人間を尊いものとして造り、尊いと思い、尊く扱ってくださるから、人間は尊いのです。創造者であり絶対者である「他者」に尊いと宣言されること以外に人間価値の絶対的な根拠はありません。

 “あなたは、わたしの目には高価で尊い”(イザヤ書43章4節)

心のオアシス 2016年8月28日

 私が最近、考えていることは、私たち一人一人の毎日、瞬間瞬間は、神さまの奇跡の連続であるということ。勿論、神さまの側では、それは「奇跡」ではなく、「業」であろうと思います。私の人生を振り返ると、必ずポイントポイントに、色々な形で助けてくださった人たちがいました。ずっとお付き合いをしているわけではありませんが、一時的にでも、その人がいなければ、どうなっていたかわからないようなことが沢山ありました。どう考えてみても「偶然」という言葉では片付けられないようなことが多々あります。あれもこれも神さまの奇跡と考えるならば、世界観が変わってきます。
 こんな話を聞きました。あるとき、駐車場で混み合っていて、駐車スペースが全然見つからなかったそうです。そこで、じれてしまって、思わず神さまに文句を言いました。「神さま! 停める場所を下さったら、これから、毎週礼拝に出かけますよ!」ちょうどその時、目の前で、車を動かそうとしている人が見つかりました。すぐさま、その場所に車を停めることができました。すかさず、こうお祈りしたそうです。「神さま。大丈夫です。お気になさらないで。今、場所が見つかりましたから!」神さまは、心躍るような素晴らしい体験は、数多く与えてくださっているはずです。しかし、私たちはそれを「ラッキー」の一言で片付けてしまうのです。人間中心の罪の世界に生きていますから、必ずしも良いことばかりが起こるわけではありません。しかし神さまは、絶妙のタイミングで門戸を開いてくださいます。私たちの人生で起こる一つ一つのことは、神さまの指揮棒さばきで、奏でられているのです。「私は、子供の更生のために2年間も祈ってきましたが、まだ何も起こりません」「経済の祝福のために祈っていますが、実際の収入は減る一方です」このような声を耳にすることがありますが、恐らく神さまが全ての物事の背後で、指揮棒を振っておられることを、ご存知ないのだと思います。目に見える形が何もないからといって、神さまが働いておられない訳ではないのです。目に見える部分は氷山の一角にしか過ぎません。神さまの働きは、その何倍もあるのです。

心のオアシス 2016年8月21日

 シェークスピアでしたか、人生は芝居なんだ。舞台の上で王様をしたからいい役者ではないし、舞台の上で乞食をしたから悪い役者ではなくて、大切なのは王様を王様らしく演じたか、乞食を乞食らしく精一杯演じたかだと言っています。人生の終わり、舞台の幕が下りた時に問われるのは、何をしてたかではなくって、その役割をいかにその役になりきって演じたかということなのです。確かに生きている間は、王様を演じていれば良い洋服が着られますし、王妃様になっていれば冠がかぶれますし、みんながかしずいてくれる。それに比べて、自分が乞食の役だったとしたらば、汚いボロをまとってみんなからバカにされて、食うや食わずの生活をしてなければいけないかも知れない。その辛さは、一生の間あるかも知れないけれども、一生の終わりに、幕が下りた時に問われるのは、何をしたかではないのです。一生の終わりに問われるのは、何タラントもらったかではなくて、それを何タラントに増やしたかということなのです。そう思ったらあんまり他人をうらやまないですむかも知れません。勝負はそれをどれだけ増やすかにあるんですから。
(渡辺和子著書より抜粋)
 
 「どれだけの物を手に入れたか?」「どれだけの成功をおさめたか?」ということに注目が集まってしまうこの世の中で、私たちはもう一度、それで本当にいいのか?ということを問わなければならないと思う。「役に立たない障がい者は生きている価値はない」という理由で人を殺すという事件が最近発生しました。でも実際に殺人はしなくても、同じように考えている人間がいるという現実に唖然とします。不公平に思えますが、神さまは、個々に違うタラントを与えられました。ところが、それぞれの違うタラントが、支えあって人間社会が成り立っているということに不思議を感じます。神さまは、それぞれの人間に「役」を与え、その人らしい生き方で神さまの栄光を現したかをご覧になっておられるのです。
 「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネ9:3)

心のオアシス 2016年8月14日

 メキシコでの話です。夕暮れ時、人影のとだえた海岸を歩いていると、遠くの方に誰かが立っているのに気がつきました。近づいてみると、メキシコ人の男が何かを拾っては海に投げ入れているのです。さらに近づくと、それはヒトデでした。男は、引き潮で波打ち際に取り残されてしまったヒトデを、一つ一つ拾い上げては海に投げ入れていたのです。どうしてそんなことをしているのだろうと不思議に思った友人は、男に話しかけました。「やぁ、こんばんは。さっきから気になっているんだけど、何をしているか聞いてもいいかね?」「ヒトデを海に帰してやってるのさ。見ろよ、たくさんのヒトデが波で打ち上げられて、砂浜に残されてしまっているだろう。俺がこうやって海に投げてやらなかったら、このまま干からびて死んじまうよ」「そりゃぁ、もっともな話だが、この海岸だけでも、何千というヒトデが打ち上げられているじゃないか。それを全部拾って海に帰してやるなんて、どう考えても無理な話じゃないかな?! それに世界中には、こんな海岸が何百もあるんだよ。君の気持ちはわかるけど、ほんの一握りを助けても、何にもならないと思うがな」これを聞いた男は白い歯を見せてニッと笑うと、友人の言葉などおかまいなしに、またヒトデを拾い上げ、海に投げ入れました。「いま海に帰っていったヒトデは、心から喜んでるさ」そう言うと、また一つヒトデを拾い上げ、海に向かって投げ入れました。
 たとえ、私たちがこの世界の歴史の一部分を担っているとは言えども、一人一人の役割は微々たるものに思えます。自分という存在に価値はない、いてもいなくても同じだと考える人もいることでしょう。しかし、大海の水も一滴一滴が集まって成り立っているように、そのどうでもよさそうな一滴がなければ海にはなりえないのです。私たちは、神の歴史の一旦を担うために、必要な存在として、この時代に創造され置いておられるのです。誰も意味のない人はいません。誰の目にも留められないようなあなたの存在や、与えた小さな愛や親切も、天においては大きなことなのです。
 「あなたはわたしの目には高価で尊い」(イザヤ43:4)

心のオアシス 2016年8月7日

 ある大学で社会学を学ぶ生徒たちが、ボルチモアのスラム街に住む少年200人を対象に、ひとりひとりの家庭環境と生い立ちを調査しました。そしてこの調査結果をもとに少年たちの将来性についてのレポートを作成しました。するとどの学生も、これらの少年たちには何の将来も期待できないだろうと書いたのでした。それから25年後のこと、ある社会学の教授がこのときの調査研究を見つけ、当時の少年たちがその後どうなったか学生に調べさせました。ところが、引っ越したり、死亡した20人を除いた180人のうち、何と176人が人並み以上の成功をおさめていることがわかったのです。教授はこの報告に大変驚くと共に、興味をそそられ、さらに詳しく調べることにしました。幸い、調査対象になった人たちはまだその地域に住んでいたので、教授は自らそのひとりひとりに会いに出かけ、こう質問したのです。「あなたを成功に導いたものは何だったのですか?」すると、誰もが感慨を込めて、ある先生の名前を挙げたのでした。教授は、まだ健在だというその女の先生に是非会いたいと思い、訪ねていきました。そして、年はとっていても、しゃんとしたその先生に、こう尋ねたのです。「スラム街からあんなに大勢の成功者が出るなんて驚きました。あなたは、一体どんな魔法を使ったんです?」その先生はパッと顔を輝かせ、口元に微笑を浮かべると、こう答えたのです。「とても簡単なことです。私は生徒たちを愛したのです」

 マザー・テレサの言う「行く先々で愛をふりまきなさい。まずは、自分の家から始め、子どもたちに、伴侶に、そして隣の人に愛を与えなさい。あなたに会いに来る人を幸せな気分にして帰しなさい。神の優しさをあなたが身をもって示しなさい。あなたの表情にも、まなざしにも、笑顔にも、心を込めた挨拶にも、神の優しさを宿すことによって。」これをみんなが実践できたら、世界は変わるでしょうね。
 かつて明治の義人と言われた田中正造は言いました。「人は神に愛育されて愛の心にあふれる」私も切に実践できる者になりたいと願います。

心のオアシス 2016年7月31日

 W.ミッチェルは、46歳の時に、オートバイ事故で人相が変わるほどの大やけどを負い、その4年後、今度は彼の操縦する飛行機が離陸に失敗して滑走路に墜落し、脊椎は12箇所もつぶれ、下半身麻痺となった。
 彼は初対面の人にショックを与えるほどの外観と思い肉体的障害をかかえながらも、彼はボートでの急流下りを始め、結婚もした。公共事業管理の修士号を取り、飛行機の操縦も続け、環境問題に取り組み、講演活動も行なってきました。彼はあらゆるテレビ番組にも取り上げられ、多くの雑誌にも特集記事が載った。彼は聴衆にこう語りかけています。「半身不随になる前は、わたしには自分でできることが1万はあったのですが、今では9千に減ってしまいました。しかし失ってしまった1千のことにいつまでもこだわっているより、残った9千のことに力を入れる方が得策です。ご存知の通り、わたしは今までの人生で二度の大きなつまずきを経験しています。でも、だからといって人生をあきらめたりせず前向きに生きてきました。それゆえどんな困難にぶつかった時も、視点を変えると物事が違って見えることを学んだのです。そう、一歩下がってみれば、視野が広がり、『なんだ、結局のところ、たいしたことではなさそうだ』と思えるようになるのです。肝心なのは、自分に何が起こるかではなく、起こったことに対して何をするかということです。」

 とても良い前向きなお話ですが、ただ「考え方を変える」とか「視点を変える」ということだけなら、巷の啓発的な物の考え方と全く同じです。私たちには、考え方や視点を変えることができない弱さもあります。「わかっちゃいるけど変えられない」のです。このような時にこそ、自分で変えようとするのではなく、神さまに変えていただける世界があることも学ぶ必要があるでしょう。「自分は、ただ神さまを信じて心にお迎えしただけなのに、自分の考え方や視点が変わって楽になった!」「このように自分が変わりました!」という人たちのお証を教会の中で聞くことができます。
 「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)

心のオアシス 2016年7月24日

 いくつかの逸話をご紹介します。

☆電球など発明したトーマス・エジソンは、教師に「頭が悪くて何一つ学ぶことができない生徒と酷評されていた。
☆ウィンストン・チャーチルは小学校6年の時に落第。62歳で英国の首相に就任するまでは、挫折と敗北続きの人生だった。大きな功績を残したのは、高齢者と呼ばれる歳になってからでした。(モーセも80歳から大きな仕事をしました。)
☆ピーター・J・ダニエルが小学4年生の時、担任のフィリップス先生は彼の顔さえ見れば口癖のように、「ピーター、あんたはどうしようもないできそこないね。大きくなっても、ろくな人間にはならないでしょうよ」と言っていました。実際、ピーターは26歳になるまで全く読み書きができないままでした。しかし、一晩かかって『ナポレオン・ヒルの巨富を築く13の条件』を友人に読んでもらったことで人生が変わった。今や彼は、かつてよく喧嘩をしていた隣町に土地を所有し、最新作『フィリップ先生、あなたは間違っていた』を出版しました。
☆大リーグで大きな記録を更新し続ける、あのイチロー選手は、少年時代から将来野球選手になって活躍する夢を語ると、いつもみんなに笑われたことを、告白していました。

 映画「天国からの奇跡」は感動でした。私たちの人生には、必ず誰かが関わっていて、良きにしろ悪きにしろ、必ずそこには神さまの手が差し伸べられているということを改めて感じました。思えば私も振り返ると、必要な時に救いの手を差し伸べてくださる人々がいたことを認めざるを得ません。そしてKCFの開拓から今に至るまで、神さまが様々な人々を用いて、教会を助けていてくださっていることを強く感じています。
「通りよき管として、私を用いてください!」これが私の毎日の祈りです。今日も誰かが神さまからの管として私に繋がり、私が助けられ、私も他者に繋がり、神さまの恵みを伝えていく・・・栄光在主。

心のオアシス 2016年7月17日

 ウェストミンスター寺院の地下室には、次のような碑文が刻まれた英国国教会主教の墓がある。

 何の束縛もない若かりし頃、想像は果てしなく広がり、私は世界を変えることを夢見ていた。ところが、年を重ね賢くなり、世界は変わらないことに気づいた。そこで、目指すものをもう少し近いものにして、自分の国から始めることにした。
 だが自分の国も変わらなかった。
 老年期に入り、私の願いは悲痛な思いに変わった。自分の国もだめなら、少なくとも、最も近くにいる家族を変えることにした。
 だが、悲しいことに、これすらままならなかった。
 今、私は死の床についている。なんと、今になって初めてわかったのだ。変えなければいけないのは、自分自身だったのだと。自分が変われば、家族も変わっただろう。
 そして家族に励まされ支えられることで、国をよくすることもできただろうし、やがては世界を変えることすらできたかもしれなかったのだ。
                          作者不明
 
 多くの人たちは、自分の回りを変えようと必死になっていますが、失望に終わります。なぜなら、他の人もあなたを変えたいと思っているからです。まず変えなければならないのは自分自身だということ。でも、それに気付いても、なかなか変えることができないのも事実です。「自分の最大の敵は自分」という格言にあるように、自尊心と自己愛に満ちている「自分」をどうしたら良いのでしょうか? 結局、神さまに行き着いてしまいます。私たちの創造主に繋がることによってのみそれが可能になるのです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ15章5節)