心のオアシス
心のオアシス 2021年3月7日
私たちが生きているこの世は、過去よりも確かに豊かにはなりましたが、では過去より幸せになったでしょうか? 誰もが自分の権利を主張し、それらを手放そうとしません。できるだけ多くの物を所有し、この世が求める価値に合わせて、自分と家族が魅力的な人生を生きることで、成功した人だと評価されることを願っています。しかし、創造主なる神さまは、ご自身の権利をすべて捨ててこの世に来られました。これがキリスト教なのです。自分を軽んじる人の鼻をへし折るために神さまを信じ、自己実現するために、力を与えて欲しいので神さまを信じ、この世で生き延びるためにキリストを信じるのではありません。もしそうならば、それはシャーマニズム(超自然的・霊的存在との交渉を中心とする宗教様態。占・予言・病気治療などを行う宗教現象。)と同じです。
ファ・ジョンブ牧師が、ある神学校でのメッセージの中で、このように献身者たちに呼びかけました。「昨今、誰もが牧会に成功したがります。大きな教会、有名な牧師、多くの著書、影響力のある人になることを、誰もが望みます。しかし、私たちが知っている福音の中に、私たちが知っているイエスさまの人生のどこに、そんなものがあるでしょうか?!」
これは、すべての献身者や教会、信徒たちが肝に銘じておかなければならないメッセージだと思います。勿論、目標を持ったり、欲しい物を手にいれることを願ってはいけないわけではありません。それも神さまがこの世に与えられた恵みです。しかし、求める事柄の優先順位とその目的が、“自分”が中心になると間違った方向へ進むことになります。
新約聖書の13の書簡を書いたパウロは、学歴においては当時最高の学者であったガマリエルの門下生であり、文学都市であったキルキヤのタルソ出身で、幼い時からエルサレムに留学した優れた人材でした。経歴でも最高のグループに属した律法学者であり、特権階層であったパリサイ人であり、ローマの市民権も所有していた出世街道まっしぐらのエリートでした。このような彼が福音を受けてから、キリスト・イエスを知っていることの素晴らしさの方が勝る故に、自分が今まで持って味わっていたすべての特権を、“塵あくた”だ(ピリピ3:8)と言いました。
福音の価値は、信じて体感しないとなかなかわかりません。しかし、不足があってもなくても満たされることは確かです。あなたも是非!
心のオアシス 2021年2月21日
昨年、横浜DeNAベイスターズの監督を退任したアレックス・ラミレス氏が、日本テレビ系で放送された「人生が変わる1分間の深イイ話」に出演。ダウン症の長男・剣侍君(5)への思いを語っていた。
出産直後にダウン症と告げられ、奥様は「私は障がい者の母親になれるのか?とにかく不安でとにかく泣いた」と述懐。しかし、ラミレス氏から「ベイビー、イッツOK。多分ダウン症だけど、何の問題があるの?今日あなたは大変な出産をして、こんな素敵な子供が生まれて、何の問題があるの」と言われ、前向きな言葉に励まされたという。
出産から半年後、ラミレス氏はDeNAの監督に就任。剣侍君と奥様を全ての遠征に同行し、毎日、関係者にダウン症であることを明かしながら紹介した。奥様は「『ダウン症ですよ』などとはお披露目はしたくなかった」と当時の率直な思いを吐露。それでもご主人が、すごく誇りを持って自分の子供を紹介している姿を見ていると、誇っていいんだと思い、自分も紹介したいな、と思うようになったという。
ラミレス氏は「子供を誇りに思っているし、愛しているし、何も隠すことはない」と笑顔で語りながら、「ダウン症を産んだ親になんて声をかければいいか分かるかい?」とスタッフに逆質問。「最高の答えはこれさ。『かわいいー』でいいんだ。だってダウン症の子供、超かわいいじゃん。だから妻がダウン症を悲しむ意味が分からなかったよ」と話した。
このような考えはどこから来ているのか? 彼は著書「ラミ流」の中で自身がクリスチャンであることを明かしている。一部を抜粋します。
98年、僕はクリスチャンになった。キリストを信頼して、僕は自分自身をコントロールできるようになったんだ。どうして僕がこんなにおおらかでフレンドリーなのかって、日本でもみんなにきかれるよ。僕がほかの選手や審判と言い争っている姿、一度も見たことがないって。僕はこう答えるんだ。自分の力ではどうしようもないことが、世の中にはたくさんある。でもすべては神様が何らかの意味を持って、僕に与えたものなんだってね。だから、誰かとの間に問題が生じたときは、僕は神に頼るようにしている。イエス・キリストだったら、こんな状況をどうやって乗り越えるだろうか、と自分自身に問いかけるんだ。クリスチャンであることは、僕の野球人生にも大いにプラスになっている。
心のオアシス 2021年2月14日
私の伝道者としての師は大川従道牧師だが、時折電話でお話しする時に、「あなたには神さまがついているね。」と言ってくださる。自分自身のことは、他者からどう見られているかはわからないものだが、第三者が観察してそう見えるということは大変ありがたいことだと思わされる。この言葉を心に留めつつ関西での開拓を振り返ってみると、私個人もそうですが、関西カルバリーフェローシップに神さまがついていてくださることを認めざるを得ない。10年前、会衆1名からスタートした教会が、今は3回の礼拝をさせていただけるようになった。公民館、集会室などを転々とし、奈良ではカトリック教会の会堂の一室をお借りしたこともある。今は東大阪福音教会という他教団の会堂をお借りして8年が経過した。考えてみると、日曜日によそ様の教会堂を使用している教会がどこにあるだろうか? お借りしている教会の牧師・藤長先生は、「KCFが石切チャペルを使用するようになって、この周辺の重い空気が軽くなりました。他所へ移動しないでこのまま使い続けてほしい。」と言ってくださっている。こんなに私たちの教会を好意的に受け留めてくださることに不思議を感じるほどである。しかし数年前からもっと広めの場所が必要になってきて他所を探し始めたが、さまざまな理由から足踏み状態が続いていた。そんな中で藤長先生が「隣の土地がKCFに与えられるようにお祈りしましょう。」と言われた。しかしその土地には古い建物があり、複数の建て主さんがいて、しかもなかなか連絡が取れない地主で有名である。私は資金もないし、そんなことが起これば奇跡だなと思って聞き流していた。ところが昨年、隣の地主さんから土地を買って欲しいと申し出てこられた。あまりにも絶妙なタイミングすぎて恐れを感じるほどである。
私のスタンスは、主が望んでおられる土地ならば、どんな反対があったとしても、資金がなくても、どこからともなく与えられ手に入れることができるし、主が望んでおられないならば、私たちがどんなに欲しいと願い、資金も集め、全員一致で計画を進めても、それは立ち行かなくなると信じている。もっと言うならば、私たちが欲しくない土地であっても、主が計画されたら、それを受け止めるしかないのである。
神さまが中心になっている人生は、楽しくて仕方がない。
心のオアシス 2021年2月7日
無神論・合理主義で有名なオックスフォード大学のリチャード・ドーキンス教授に、多くの人々が賛同しています。かつてイギリスでは彼と無神論者たちが自費で「おそらく神はいない。だから気ままに人生を楽しもう」という広告を作成して、それを貼り付けたバス800台が市内を回りました。そのような風潮の中で、イギリスの有名な無神論者・チャールズ・プラザロフは、ロンドンの貧民街で仕えていたプライズ・ヒューズ牧師に、無神論とキリスト信仰について公開討論することを提案しました。牧師はその提案を受けてこう答えました。「私は、イエス・キリストを信じて変えられ、人生の目的を見つけた人たちを100人連れてきます。ですから、あなたも無神論者になって人生が変えられた人を100人連れてきてください。100人いなければ、50人でも20人でもかまいません。それと、人生の意味を失い、挫折と絶望の中から無神論に改宗して人生の目的を見いだし、変えられ、本当に尊敬されるようになった無神論改宗者が一人でもいたら、連れてきてください。」それを聞いたプラザロフは言葉を失い、討論の提案を撤回したそうです。
神さまを信じているからといって、すべてが完璧になったと断言できる人はいないでしょう。肉をもって生きている限り、上手くいかなければ悲しみ、苦難の故に倒れることもあるでしょう。しかし、神さまに信頼する人たちは、立ち上がる力と、逃れの道が与えられます。
新約の13の書簡を書いたパウロは、ローマの市民権を持つユダヤ人で、一流の門下で学び、エリート街道をまっしぐらに進む存在でした。教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れ、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えていたと使徒行伝の中で告白しています。このような熱心派だったパウロは、イエス・キリストに出会ってから、命がけで福音を宣べ伝える者に変えられたのです。「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」(Ⅱコリント4章)
心のオアシス 2021年1月31日
先週の午前の礼拝終了後、残っていた何人かの人たちと立ち話しながら会堂建築の話題で盛り上がった。石切チャペルは、東大阪福音教会の所有で、私たちは8年前から教会堂をお借りして開拓を進めていて、貸してくださっている教会は、他所に教会堂があってそこで礼拝しておられる。その教会の藤長先生とはとても良い関係を続けていて、「KCFが開拓を始めてから、何か重苦しかった空気が一変して軽くなり、このままずっと使用して欲しい」とまで言われている。数年前から今の会堂をリフォームして私たち関西カルバリーフェローシップの教会として使うということも検討されたが、様々な理由から滞っていた。そんな中昨年ある地主さんから、教会に190坪の土地を売りたいとの申し出があった。しかし予算のことや様々な検討事項があり、足踏み状態になっている。その土地に建っていた建物の一部が更地になっていくのを見ながら、まだ手に入ったわけではないのだが、夢が広がり様々な意見が出てきた。「マンション付の会堂を建てたら、私たちは移り住みます!」「介護付きであればいいですね。」「温泉を掘り当てて、温泉付きはどうですか?! 宣教に用いられると思います! これぞ心と身のオアシス教会!」など制限を考えないと、夢は広がり楽しい会話になった。
箴言29章18節には欽定訳で「Where there is no vision, the people perish」(幻のない民は滅びる)とあります。私たちは焦燥感が漂う時代に生きていて、なかなか前向きに物事を考えることができなくなっている。制限付きの現実では難しいことですが、ビジョン(夢・幻)がなくなってしまったら人間は必ず身も心も劣化していきます。年々老いていく自分、なかなか上手くいかない現実だけを見たら、そうなってしまうのも仕方がないかもしれない。しかし聖書には「若者たちは幻を見、老人たちは夢を見る」(ヨエル2章28節)とあるように、聖霊による希望があることを述べている。神の霊の世界には、この地上にあるような限界は一切ない。様々な夢が実現する場所が神の国です。
神さまが計画されたら実現するでしょうし、それでなければ他の道が開かれるでしょう。ポイントは、神さまのビジョンを持って大きな夢を見ながら、ただ神さまの計画のみ進められることを願う。これが“八風吹けども動ぜず”の極意です。
心のオアシス 2021年1月24日
マイクロソフト社の役員は「マイクロソフト社は、ビル・ゲイツなくしては進んで行けないが、スティーブ・バルマーなくしては生き残れない」と言っています。一般的に、マイクロソフト社は天才ビル・ゲイツの作品だと思われていますが、スティーブ・バルマーなくしてマイクロソフト社は考えられません。ところがスティーブ・バルマーは、20年以上もビル・ゲイツの陰に埋もれていました。人々が羨ましがる成功とは何でしょうか? お金をたくさん儲けること、高い地位に就くこと、羨望の対象になること、人より優れた能力を備えること、そのようなことが成功でしょうか? 人々は成功を夢見て、あがいています。すべての人が物質的な成功だけを夢見ながら、頂点に立つために熾烈な戦いをしているのです。最高の地位に立つためには、人を踏みつけることも平気です。高い地位に着いて人々に命令を下し、権威を振るうようになれば、成功したことになるのでしょうか? いいえ。成功とは、神さまがくださった使命の道を進むことです。神さまがくださった賜物と才能を最大限に発揮して、主に再びお返しすることです。何タラント手に入れたか、何になるか、どこまで昇進したかということより、神さまに喜ばれる人生を歩んでいるかどうかに関心を持つべきです。結果よりも過程を中心に考えましょう。正しい道を歩んでいる人を、神さまは必ず用いてくださいます。(「観点」キム・ビョンテ著より引用)
私はこの地上にある権威や富などを否定する牧師ではありません。お金もないよりあるほうが解決できる問題は沢山あることも知っています。聖書にも、この地上にあるすべての支配も権威も神が立てたと記しています。ですから、世の中の栄光は神さまがお与えになったもので、神さまからその栄光の一部を貸してくださっているという認識が大切なのです。そしてそれぞれ与えられた栄光を何のために用いるかが問われてきます。この世の栄光はずっと続かないように創造主が設定されました。一時的なのです。どんな権力を持った人でもその座を退いた後、平凡な人になってしまった姿を見ますし、どんなに活躍した人も衰えていくようになっています。名も知れない多くの人たちの活躍によって福音は広げられていきました。どれだけ目立ったかではなく、どれだけ神さまのために生きたかが、真の成功者だと言えるでしょう。
心のオアシス 2021年1月17日
神さまは、私たちがただ快適な時間を過ごさせるために、この地上に私たちを置かれたのではありません。私たちを造られたのには造り主なる神さまの側の計画や目的があってのことなのです。単刀直入に言うと、それは「神が神であることを示すため」です。そして私たちの姿勢によって、「神が神であること」をより実感することができます。
第一に、「神さまファーストに生きる」ということです。“自分ファースト”に生きるとは、私たち自身が神の立場に立つということです。すなわち神の座に座って、自分の願望や計画や目の前にある問題を、自分の力や判断だけで手に入れたり解決しようとしてしまいます。“神さまファースト”とは、私たちは勿論、ベストは尽くしますが、結果は神さまに任せるのです。もし自分の願っている答えや結果を得ることができなくても、神さまの与えられたことに関してはそれを受け止めるということです。あなたがどんなに小さな存在であるかは、あなた自身が一番よく知っているはずです。ですから、突然起きた出来事に驚いて慌てふためくのは当然です。もし私たちが“神さまファースト”に生き始めるなら、現在起きている状況も神が演出されたもので、神さまが良しとして許されていることですから、神さまが必ず処理してくださるという信仰に立つことができるので、安心することができます。
第二に「神の視点から見る」ということです。“自分視点”から現実を見ると、“今”という点でしか見ることができません。ですから今起こっていることに振り回されてしまうのです。対処療法ばかりで、根本的な問題に触れないまま疲労困憊してしまいます。少し高い場所に登っただけでも、町全体を見下ろすことができるように、高く上れば上るほど、一目で問題の全体を見渡して答えを見出すことができるようになります。神の視点から見ると様々な問題は自然とあるべき場所に収まるものです。
私はサラリーマン時代に、現実ばかりに振り回されていた時、あるクリスチャンからの手紙に“Keep Looking Up!”と書かれていて、その言葉によって励まされたことがあります。その時から神さまの視点から見ることを意識できるようになりました。忙しさの中で流されておられる方もいと思いますが、時々立ち止まって神の視点から人生を見る時間を作ってみてください。聖書の中には沢山の宝が詰まっています。
心のオアシス 2021年1月10日
昨年、政府の緊急事態宣言に伴って教会の礼拝も無会衆でオンライン礼拝をしている最中、「無会衆の礼拝を行ないますが、知らずに来られた方は遠慮なくお入りください」という教会玄関の張り紙を見て入ってこられたご夫婦がおられる。これはご本人の許可を得て書かせていただいていますが、奥様は長い間、鬱を患っておられて、ずっとうつむいたまま、こちらから挨拶をしても声が出ないし暗い表情しておられた。礼拝後、ご主人とお話しすると「私は50年前に、今は無くなってしまった教会で受洗しましたが、もう何十年も教会から離れていました。家内のことを考えていると、急に教会に行かなければならないという気持ちになったのです。」とのこと。また来させて欲しいとのご主人の要望に、「今は無会衆ですので、来週も来てくださって良いですよ。」とお話しすると、毎週礼拝に出てこられるようになった。しかし、礼拝出席の回数を重ねるごとに奥様に大きな変化が起こった。顔を上げて笑顔を見せることができるようになり、言葉も出すことができるようになった。ご主人も奥様の毎週の変化に驚いておられた。教会のメンバーもこのご夫妻を温かく迎えてくださり、クリスマス礼拝ではご夫妻でトーンチャイムのご奉仕をすることができるまでに回復された。ご夫妻の要望もあり、平日に入門講座も行ない少しずつ聖書のことも理解されるようになった。そして昨年の年末に奥様の口から「洗礼を受けさせていただきたいのですが・・・」との言葉に私は主に感謝した。この方のためにも私が関西に遣わされた意味があったのだと思った。そして2021年最初の日曜礼拝で洗礼式を行なうことができた。ハレルヤ!
数ヶ月前から大きな試練を通過しておられたある方が、回復されて最近教会に戻ってこられた。戻ってこられることを知っていた教会メンバーの一人が当日、礼拝前に教会入口で落ち着かない表情でウロウロしておられて、戻ってこられたその人を大歓迎しておられた。また、今回、受洗された方に、教会メンバーの方々が本当に喜びながら挨拶に行かれている様子を見ながら、私一人で牧会しているのではなく、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣いてくれるメンバー一人ひとりの祈りと奉仕によって成り立っていることを改めて思い知らされた。
毎週、神さまのドラマを観させていただける人生は素晴らしい!
心のオアシス 2021年1月3日
わがままな魚が水の中で生きるのを拒み、水の外に飛び出したとすれば、その魚の待ち受けているのは、耐えがたい苦しみです。バタバタと跳ねながら苦しむ魚は、ほかの人から拷問を受けているのではありません。もともと自分のために用意されていた場所にいることを拒んだために、その結果として代償を払うことになったのです。神さまの生命圏から離脱した人のたましいが受けることになる苦しみも同様です。神さまのさばきを免れるためには、キリストにとどまらなければなりません。キリストにとどまるなら、さばきははるか彼方の出来事ですが、キリストの外にいるなら、知らぬ間にさばきは近づいて来ます。これが、私たちがすぐにみことばに従わなければならない理由なのです。
(チェ・ソンホ著「天国についての正しい考え」より引用)
本来、私たちが天地宇宙を造られた神さまを信じるのは、そういう気分になったからとか、誰かが信じているから、それにつられてというのではありません。神さまと出会うキッカケは、そうであるかもしれませんが、“信仰”とは、誰かの影響とか気分や感情ではなく、自分と神さまとの関係の中で、「私は世の中の人が一人も神さまを知らなくても、私の状況や環境がどうであっても、それとは関係なく私は神さまに従います!」ということなのです。私たちは、神さまに従うように造られているのです。ですから神さまのために生きないことから、様々な問題が起こるわけです。誰かの影響、気分、感情によって信じている人は、影響を与えた人物を信頼できなくなったり、感情が落ち込んでしまうような試練が起こると、途端に神さまに対する信仰もなくなってしまいます。これは本当の“信仰”ではありません。ただあなたの“気持ち”に従っているだけなのです。勿論、人間ですから上がったり下がったりはあるでしょうけれども、「それでも私は神さまに従います!」という主に対する信頼が大切なのです。そこからとてつもない神さまの恵みが流されていくように、この世はできています。今年も主を見上げましょう。
苦しくて どうしようもない時
いつもうかんでくる ことばがあった
神様がいるんだもの なんとかなるさ
そして いつも なんとかなった (星野富弘)
2021年1月元旦
「一年の計は元旦にあり」ということわざがあるが、「ものごとを始めるに当たり、計画を最初にしっかり定めておくべきだ」という意味を示す戒めの言葉です。「計」とは「計画」のことで、これ自体は「一年の計画は、年の初めである元旦に立てておくべきだ」という意味を表します。
計画を立てることは大切なことですが、人生には想定外な出来事が突然起こって、計画とか描いていた夢が叶わないこともあります。その時にあなたを支えるものがあるかどうかを問う必要があるでしょう。あなたは何を頼りに生きているでしょうか? 家族でしょうか? 仕事でしょうか? 師や友でしょうか? 持ち物でしょうか? それらを頼りに生きることは、間違ってはいませんが、一時的なものです。裏切られることもあるし、失うこともあります。神の言葉なる聖書は、数千年の歴史の中で、どの時代の人々にも生きる指針と希望を与え、励まし、倒れている人たちを立たせてきました。最も安定した信頼のおける神の力であると確信しています。私自身も、聖書を通してどれだけ力が与えられてきたかわかりません。是非、何か一つでも良いので、握るべき神の言葉をもってこの一年も進まれることをお勧めいたします。
関西カルバリーフェローシップの今年の年間聖句は、「はじめに神は天と地とを創造された。」(創世記1章1節)です。すなわち私たちの人生は「神さまファースト」で機能するように設計されているということです。「アメリカ・ファースト」でも、「都民ファースト」でも、「自分ファースト」でもありません。いつも「神さまファースト」を意識して生きるならば、どんなことも必ず乗り越えることができます。
偉人たちも聖書を通して「神さまファースト」で駆け抜けました。
「あなたは誘惑にあい、疑惑と敗北と弱さに満ちた自分の生活にうみ疲れてはいませんか。また、不安や心配にあきあきしてはいませんか。スイッチを入れなさい。聖書を読みなさい。」トーマス・エジソン
「聖書は単なる書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である。」ナポレオン・ボナパルト