心のオアシス
心のオアシス 2021年5月16日
ラインホルド・ニーバーの祈りと詩を紹介します。
「神さま、変えられることのできるものは、変えていくエネルギーをください。しかし、変えられないものに対しては、それを、受け止めていく忍耐をください。そして、このことは変えることができるのか、変えることのできないものか、それを見極める英知をください。」
神が置いてくださった所で咲きなさい。
仕方ないと諦めないで咲くのです。
咲くということは、自分が幸せに生き、他人も幸せにすることです。
咲くということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、私は幸せなのだ、ということを、示して生きることなのです。
神が私をここに置いてくださった、それは素晴らしいことであり、ありがたいことだと、あなたのすべてが、語っていることなのです。
置かれていた所で、精一杯咲くと、それがいつしか、花を美しくするのです。
神が置いてくださっている所で咲きなさい。
人は、自分の願いや夢が実現する未来を受け入れることはできるが、自分の願望とは正反対の“今”の現実や人生の汚点とも言える過去を受け入れることは難しいようです。何故でしょうか? それは“自分が生きる”ために生きているからです。聖書が教える“愛”(自分に死んで、他者を生かす)生き方に方向転換したら、新しい世界が見えてきます。
福山市には「ホロコースト記念館」があり、ユダヤ人の迫害の事実(写真や映)やユダヤ人を助けた人たち、アンネの部屋(隠れ家)を実物大で再現したものがあるそうですが、そこを訪れた教会のメンバーが一番印象に残ったことをニュースレターで書いておられました。それは、ユダヤ人孤児院の子供たちが強制収容所に送られる時に、ユダヤ人ではない院長が、子供たちに寄り添うために収容所に子供たちと共に行き、ガス室で子供たちと共に命を落としたこと。そして院長の言葉「称賛を得るため、愛されるためではなく、愛するために私は存在するのです」
聖書の価値観と人生の目的を知ると、恐れが無くなる事を教えられた。
心のオアシス 2021年5月9日
映画化された「あらしのよるに」という絵本は、風変わりな友情が「与える愛」にまで育つ物語です。オオカミのガブとヤギのメイという、本来は食べる食べられる関係というあり得ない組み合わせが、嵐の夜に知り合い、親友になります。やがて、彼らの友情は仲間から非難され、それぞれの群れから追われてしまいます。絶体絶命の中、ヤギのメイは自分を食べて生き延びるように頼み、オオカミのガブは身をていしてメイを守り抜きます。愛を本当に理解したとき、不思議なように恐れは消えて、勇敢な心に変わっていくという内容です。
イエスさまは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」(ルカ9:23~25)と言われましたが、この“自分に死ぬ”という考えは新約聖書の至る所に出てきます。自分を生かそうとする人は、不安や心配が尽きませんし、他者との関係には絶えず亀裂が入ります。“自分に死ぬ”とは、自分の夢や願望ではなく他者の夢や願望のために生きるということです。
イエスさまは、アガペー(自己犠牲の愛)を徹底されました。裏切る弟子たちを最後まで愛し通され、十字架にかけ、ののしる人たちに対しての祈りは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」でした。自分を生かそうとすると、他者が犠牲になり、他者を生かそうとすると、自分が犠牲になります。後者の生き方は難しいですが、聖書は、その生き方を求めています。そしてそこから本当の救いと恵みが流れていくということなのです。
先日、YouTubeを視聴くださっている方からお手紙と献金を送っていただき、お礼の電話をすると、その方のご主人はプライドが高く、自分のやりたいことを優先したい人で、それによって家族が振り回されてきましたが、糖尿病、認知症、前立腺ガンなどを患うようになり、自分の意志を通すことを諦めたのか、最近では何をしても主人の口から「ありがとう、ありがとう」と感謝が出るようになったというお話をされました。
“自分に死ぬ”これが神さまから与えられている人生の課題なのです。
心のオアシス 2021年5月2日
金井由信先生が著書の中でこのようにお証ししておられます。
1953年4月、神学校で勉強するために地方から出てきた私には、お金がありませんでした。一学期が終わった時、二学期の勉強にどうしても必要な新しい本が出て、これを参考書として使うから買っておくようにと言われました。値段は350円でした。しかし私にはその時10円のお金もありませんでした。そのころ、教会や幼稚園の子ども会でお話しした時に謝礼としていただいた分の十分の一を、神さまに献げる為、小さな紙箱に入れて貯めておいたものがありました。調べるとその箱に400円入っています。「しめた」と思いました。でも、その時「これは主のために特別に分けておいたお金だから、自分のために使ってはいけない」「ちょっと、借りておいて、後で返せば良いではないか」という声も聞こえてきました。二つの声にはさまれて困り、裏山へ行って祈りましたがハッキリしませんし、本を買うお金は、なかなか与えられません。
ついに8月の最初の金曜日にあの400円を握りしめて神戸のキリスト教書店へ出向きました。途中まで来た時、突然ハッキリと神様のみ言葉が聞こえてきました。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」というみ言葉でした。私は心の耳をふさぐようにして書店へ急ぎました。お店の入り口の戸を開けた時、真っ先に目に留まったのは、日めくりのみ言葉のカレンダーで、なんと「神の国とその義とをまず第一に求めなさい・・・」と、書いてあったのです。私の足は前に進みません。結局、何も買わずにすごすごと神学校へ戻りました。涙がとめどもなく流れてきます。「神様! どうして、お金のことで苦しまなければならないのですか・・・」また、涙が溢れてきました。学校への坂道で大阪湾を眺めながら、浜辺で育った私はそのまま故郷へ帰ってしまいたくなりました。日が落ちて、薄暗くなった部屋のベッドにひっくりかえっていると、故郷の人たちの顔が次々と浮かんできます。私は、「やっぱり祈ろう」と、机の前にひざまずき、電灯をつけると、机の上に新聞紙の包みがおいてありました。その上に「天より」と書いた小さな紙がのっています。開けてみると、何とそこには、ピカピカの新しい、あの本が置いてあったのです。込み上げてくる感動に私はオイオイ泣きました。栄光在主。
心のオアシス 2021年4月25日
私たちが住んでいるこの地球に関して調べるだけでも、奇跡の上に生かされていることを認めざるを得ない。地球は自転しています。何の動力があって回転しているのでしょうか? そのスピードは1,700Km/hで、新幹線の最高速度の約6倍です。そして地球は太陽の周りを365日かけて公転していますが、その速度は107,208Km/h(マッハ87)、音速の87倍で進んでいます。今も昔もその速度を保ちながら地球は自転し、絶妙な距離を保ちながら太陽の周りを公転しているのです。もし少しでも早くなったり遅くなるならば、慣性の法則によって、私たちは地上に立っておれなくなるどころか、吹っ飛んでしまうことになります。もし宇宙や自然界の秩序が失われたら、私たちは生きることは不可能です。
毎日の日常は当たり前ではないのです。様々な奇跡が重なり合って成り立っています。明日も同じように太陽が昇るとは限りません。そして、私たちも明日、目を覚まし生きている保証はどこにもないのです。
紀元前4千年前後のノアの時代にも天変地異は起こりました。大洪水で人々は流されてしまったのです。ノアが神さまから方舟を造ることを命じられ、約100年という月日をかけて建造するのですが、神の言葉を信じない周りの人々は、水がこの地上を覆いつくすなんてことは考えられないと笑いました。そして今の日常はずっと続くと考え、自分を中心にしてその欲情のまま生活していたのです。しかしその日常が失われる時がきたことが記録されています。大洪水はただの物語ではなく、今や地質学的にも実際に起こったことが証明されるようになりました。
聖書の中にこのような言葉があります。「『すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない』と言うであろう。すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、 その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。」(2ペテロ3:4~7) 神の言葉がこの天地宇宙の秩序を保っているというのです。天地が滅んでも、いつまでも滅びることはないと言われる神さまの言葉を握りながら安全安心な人生を歩まれることをお勧めします。
心のオアシス 2021年4月18日
私たちは、「神さま、私を祝福してください! 恵みを与えてください。」と祈りをすることが多くあります。とかく“祝福”とか“恵み”というのは、何か自分の願いが叶えられたときに来るもののように思われがちです。もしそうであるならば、神さまの祝福は、断片的なものになってしまいます。なぜならこの地上での人生には、必ず何らかの悩みは起こるからです。勿論、そのような祈りをすることが間違っているわけではありません。聖書の中にも「祝福してください!」と祈っている場面はたくさん出てきます。しかし、今の瞬間瞬間が祝福であり恵みだと感じることができれば、もっと感謝が溢れるのではないかと思う。
キム・ギョンファン師は、著書の中でこう証ししておられる。
一代で富を築いた義父は、クリスチャン家庭に生まれた長男でしたが、教会には行かず、子どもたちも教会に通わせませんでした。ところが、私の妻は家族の中で最初にクリスチャンとなり、神学まで学びました。そして、宣教師を目指していた私と結婚しました。ところが、結婚して7年目に妻が倒れ、私たちは宣教の働きをあきらめることになりました。私は、「クリスチャンではない義父と義母は、この状況を見てどう思っているだろうか。もしかしたら、わが家の困難な状況によって神さまの栄光が覆われてしまうのではないだろうか」と、いつも心に不安がありました。そんなある日、妻が病床で書いた「神さま、私のからだの悪い部分よりも、まだ健康な部分のほうが多いことを感謝します」という感謝の祈りのことばが、あるキリスト教放送で紹介されました。義父はその祈りのことばを聞いて、「おまえたちが信じている神さまは大したお方のようだ」と言って、数年後に「その神さまを私も信じたい」と告白しました。その時まで私は、十字架は復活の栄光に向かって進んでいく過程だと考え、十字架そのものが栄光であるとは思っていませんでした。妻の病気が治って床から起き上がることが栄光であって、病気そのものが栄光であるとは考えられなかったのです。しかし、義父の告白を聞き、妻が病で苦しんでいる、その十字架の場こそ、栄光の場であったのだと気づかされました。生涯、自分を信じて生きてきた義父の頑なな心は、十字架の栄光の前に崩れ落ちたのです。妻の闘病は、義父を偉大な神さまに出会わせました。
「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリ6:2b)
心のオアシス 2021年4月11日
今から11年前の4月に関東から関西に帰ってきた。教会開拓を始めるために、最初の2ヶ月は近辺の教会を勉強させてもらった。不思議な再会を通して一人の協力者を得て、6月から午前の礼拝をスタートした。午後は数名集まっていた奈良の実家でメッセージをさせてもらっていた。一人の会衆を前にして、ギター一本で賛美を導き、司会も説教も一人でしていたあのころが懐かしい。勿論、一人だけの礼拝者も前に座って一緒に礼拝を捧げ、礼拝後の後片付けを率先してやってくださった。あれから11年が経過した。振り返ってみると、最初から協力者・奉仕者が途絶えることはなかった。「あれは主だ!」と確信をもっていうことができる。数年前にある方が、「えぇな~、最近、教会らしくなってきたわ~」と言われたことが印象に残っている。気が付けば奏楽者が与えられ、聖歌隊やフラダンスチーム、ハンドベル・トーンチャイムのチームがご奉仕してくださるようになり、男性コーラス“なにわいけめんず”まで結成され、男の絆が深められている。小学生のキッズクラスや中高生のヤングチャペルも行なわれている。数年前に堺市にも教会を開拓し始め、日曜学校も行なわれている。すべては創造主なる主のお働き以外にありません。そして今、石切チャペルでは、土地購入と会堂建築にチャレンジしようとしている。当初、想像さえもできなかった事柄が急速に進められている現実に、牧師である私は、気持ちが追い付いていない。まだ、自分たちの土地ではないし、買えるかどうかも分からない人様の土地を見ながら、私も含め、教会メンバーは、「どんな会堂を建てようか? 花壇や畑、小さな公園もあれば・・・温泉は出るのか?」などと夢を膨らませている。今まさにアブラハムの気分を味わっている。神さまから「この土地をあなたに与えます!」とお言葉をいただいて入ったカナンの地は先住民の土地で、アブラハムには一歩の幅すらの土地さえ所有していませんでした。しかしすでに与えられたかのような歩みをしていました。
私たちも、与えられたら感謝、与えられなかったとしても感謝。ただ神さまの計画のみが実行されていくことを望む教会として、これからも進んでいきたいと願っている。
「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言19章21節)
心のオアシス 2021年4月4日
何年も前の話ですが、某フライドチキンのお店で、“本日もれなくイースター・エッグプレゼント!”という貼り紙を見つけたので、立ち寄りアルバイトらしき店員に聞いてみた。「イースターって何ですか?」すると店員は、「う~ん・・・アメリカのお祭りだと思いますよ。卵をデコレーションして楽しむ日なのかと思いますが・・・」という答えが返ってきた。確かに日本人にとっては意味の分からない行事だと思いますので、その意味をご紹介します。
イースターは、復活祭とも呼ばれていて、イエス・キリストは、弟子であるユダに裏切られ、十字架にかけられ処刑されてしまいます。しかし、「イエス・キリストは復活する」という預言どおり、3日後に復活されました。キリストの復活に弟子たちは喜び、それが「イースター」としてお祝いされるようになりました。キリスト教会は毎週日曜日に礼拝を捧げています。それはキリストが日曜日に復活されたことをお祝いするためでもあるのです。実は、信じる者にとって“イースター”は、“クリスマス”よりも重要な出来事なのです。なぜならキリストの死からの甦りがなければ、キリスト教会の存在はなかったからです。復活されたイエスさまは、ペテロに再会して「わたしの羊を養いなさい(牧会せよ)」とお命じになりました。そして聖霊降臨してペテロは初代教会の指導者となったのです。
ペテロにとって、イエスさまは卓越した師でありカリスマと能力を発揮して人々の心を引き寄せた存在でしたが、突如として無力に十字架の上で死んでしまいました。頼るべき師を失い、迫害を恐れて散り散りバラバラになって逃げていた弟子たちでしたが、急にエルサレムに集まり、そればかりか十字架につけられて死んだ師のことを命懸けで伝え始めました。何故でしょうか? それは死んだと思っていた師であるイエスさまの復活の事実を目撃したからです。今も生きておられる主に希望を見、復活が力の原動力になったのです。だからこそ、復活が無くてはキリスト教会もクリスチャンも存在していなかったのです。
あなたの人生に墓のような真っ暗闇があったとしても、安心してください。イエス・キリストは三日目に甦られました。そしてその力は、この二千年間、信じる人々に注ぎ続けられているのです。
心のオアシス 2021年3月28日
教会では、桜の季節になると嬉しいこともあるが、寂しいこともある。受験生や就活生の進路が決まり、喜びが溢れる。しかし会社員には転勤の辞令がある。牧師は、信仰を失い教会から離れる人がいると心引き裂かれる思いになるが、転勤で離れる場合も、寂しい気持ちにはなる。今年は教会役員の一人がご夫妻で任地に赴くことになった。私たちの教会の長老さまご夫妻が免許返納されて石切チャペルの午前礼拝に出てこられなくなった時に、それを引き継ぐかのようにして、ご夫妻で色々な奉仕を買って出てくださり大変助けられていた。移住する土地に信徒の信仰を育んでいける良い教会があれば安心するが、なければ心配にもなる。
KCFではYouTubeで礼拝をライブ配信しているが、コロナ禍で教会メンバー用にZoomも使用するようになった。これによりメッセージ後の報告まで参加できるだけでなく、対話もできるようになり、遠くに転勤で行かれた方々や教会出席できない方々と顔を見ながら交流することができるようになった。勿論、近くに何かあったときに飛び込んでいける教会があるに越したことはないが、このようなツールでも繋がることができるようになったことは、コロナ禍で生まれた副産物でもある。新しい土地に教会がなければ、大いに活用していただきたいと思っています。
もう一つ嬉しいニュースは、来週4月のイースターに受洗者が与えられたことです。奥様は3年前に受洗されましたが、この度、入門講座を受けて決心されました。コロナ禍での洗礼式はこの一年間で5名となった。これは祈りの結果であると同時に、神さまからのメッセージであると受けとっています。それは私たちにとってマイナスと思える出来事や現状も、神さまの働きが阻害されることは全くないということです。
「隣の土地がいただけるように祈りましょう!」と声をかけられた数年前、教会の土地・会堂指定献金額は数万円しかなく、地主さんが二人の建て主さんに貸しておられる土地で、そこには誰も住んでいない古家が2軒と表側にはホテルの案内所が営業中でした。どう考えても更地になりえないし、なっても資金はない。しかし今着々と更地になっています。そしてアピールしていなかった会堂献金が、何故か着々と集められていることに驚きを覚えています。神さまが成されたら、何も障害物はありません。万物を所有しておられる神さまには不可能はないのです。
心のオアシス 2021年3月21日
もうすぐ桜の季節になる。今は卒業して新しい職場、学び舎への準備期間の人たちもいますが、ある学校の校長先生が、以下のような講話をされ、学生たちに励ましたそうです。
-困難を恐れるな-
積丹半島の古平から余市までは、直線距離だと20キロにも満たないが、海岸道路がなかったころは、峰を登り谷を下る曲りくねった道で、30キロにもなるという文字どおり“羊腸の小径”であった。だから、海が相当に荒れても、船を利用する人が多かったのは、むしろ当然の成り行きであった。学生のころ、春休みを終えて札幌に向かう日は、前日までは運行止めをしたほどの大しけで、うねりは気味の悪い音を出しながら防波堤をかんでいた。出航するかどうかについての打合せは、長い時間を要した。人命を預る船長にしてみれば、その判断に慎重であるのは当然のことである。私は、荒波の日の航海を恐れながらも、あの曲がりくねった山道で行くか迷っていた。しばらくして船長は、「乗船よし」と叫んだので、それにつられるように船の方を選んだ。学生の気安さから、見学を兼ねながら船長室を訪れた。やがて、船が港外に出たとたんにひどく揺れだしてきたので不安がひろまり、顔から血が引いていくのが自分でもわかった。その時、潮焼けした老船長が、こんな話をしてくれた。「絶え間なく押し寄せてくる波は、みんな同じように見えるだろうが、決してそうではない。その一つ一つが違っているもので、そのうち幾つかは割合小さいのもあるし、また、幾つかは特別に大きいのもある。俺は、こんなしけの日には、港を出たらすぐ、一番大きい横波に船の腹を打たせてみることにしている。これは船にとって最悪の状態だ。しかし、これを乗りこえたら、後は数多くの波が来ても無いと同じだ。安心と自信とが持てる。それによって余市までの船旅の無事が保障されるのだ」と――。
先日、送られてきたある方の言葉の中に、「桜の蕾がふくらんできました。どんなことがあっても毎年必ず咲いてくれる桜の花に感謝します。」とあった。確かにどんなに厳しい冬を通っても、桜が咲かない年はありません。神さまが「桜を見なさい! だから心配するな!」と声をかけられているような気がしました。
心のオアシス 2021年3月14日
ハ・ヨンジョ先生が、かつてこのようなメッセージを語っておられた。それを聞いて大変感動した。そのほんの一部分ですがご紹介します。
「神さまは、私たちの日本に対する間違った感情、否定的な態度をとがめられました。そしてまず私たち韓国人が、悔い改めることを示されました。『過去に日本が韓国に対して行った過ちにこだわるな。もっと重要なことは、過去の出来事について憤り、「許せない」という間違った感情を持っていることが問題なのだ』と指摘されました。祈りながら私は恥ずかしさを覚えました。そして神さまは私たちに次のような事実を教えてくださいました。『私がどれだけ日本を愛しているか、あなたは知っているのか?』神さまの心は驚くべきものでした。私たちが許せず、よくない感情を持っていた日本に対して、神さまは愛するあまり心に傷があるほどなのです。神さまの愛は片思いです。そこで私はこのように神さまに祈りました。『あなたはそんなに日本を愛しておられるのですか?』神さまの愛の心を知ると、もはや言い訳できませんでした。」それからハ・ヨンジョ先生は、日本を愛し労し仕えてくださいました。
誰がこのような問題を指摘して、諭すことができるでしょうか? 一つの小さな島国のことで、醜い争いをしている国・政府には、このような知恵を与えることのできる有識者もアドバイザーもいないし、言えないでしょう。敵を愛するどころか、被害者である自分が、加害者をいつまでも許さなかったことを悔い改めるなんて、誰が教えることができるのでしょうか? 私たちを一方的に愛し、受け止めて、今も生きて働いておられる創造主なる神さま以外に、人の憎しみを取り除くことはできないのです。
週に3回の透析、健康的にはどこも良いところがない先生が、どうして衛星放送を全世界で展開し、大きな働きをすることができたのでしょうか? それは、行なっておられたのは神さまご自身だったからです。それではどうして弱さばかりのハ先生を用いられたのでしょうか? それは神さまが用いやすい人物だったからです。神さまが用いやすい人とは、神さまの御心を敏感に理解し、神さまが願っておられることに同意して、神さまの計画のために自分を用いようとする人です。
土の器でも、その中に宝(キリスト)があるならその人生は成功です!